桓玄

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
たけ悼帝 桓玄
桓楚
初代しょだい皇帝こうてい
王朝おうちょう 桓楚
在位ざいい期間きかん 403ねん - 404ねん
都城みやこのじょう たてやすし
せいいみな 桓玄
敬道よしみち
諡号しごう たけ皇帝こうてい桓振による)
生年せいねん ふとし4ねん369ねん
没年ぼつねん えいはじめ2ねん5月26にち
404ねん6月19にち
ちち 桓温
はは うま
后妃こうひ りゅう皇后こうごう
年号ねんごう えいはじめ : 403ねん - 404ねん

げん(かん げん)は、桓楚初代しょだい皇帝こうていあずますすむやすみかどより禅譲ぜんじょうけて皇帝こうていとなるが、3カ月かげつやすみかど復位ふくい大義名分たいぎめいぶんとしたクーデターこしたりゅうひろし南朝なんちょうそうたけみかど)によってころされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

いえうまははとして、桓温庶子しょしかつ末子まっしとしてまれたが、その才能さいのうあいされて後継こうけいとされた。ちち死後しご叔父おじ桓沖後見こうけんけた。わかころから博学はくがくられ、23さいとき太子たいし洗馬せばとなるが、ちちあずますすむ簒奪さんだつ目論もくろんだ人物じんぶつだったことから罷免ひめんされ、しばらく無官むかん時期じきごした。その義興よしおきぐん太守たいしゅとなるが「ちち九州きゅうしゅうはくとなり、ちょうとなる(ちちは(あずますすむ全土ぜんど覇者はしゃとなったのに、息子むすこ自分じぶんはただのたい)のちょう程度ていどか)」と嘆息たんそくして辞任じにんした。

当時とうじあずますすむは、やすみかど擁立ようりつした叔父おじかい稽王司馬しば道子みちこ司馬しばもとあらわ父子ふし政治せいじ壟断ろうだんし、朝野ちょうやからの非難ひなんたかまっていた。りゅうやすし2ねん398ねん)、北府きたご軍団ぐんだんちょうとして京口きょうぐちに鎮していたおうきょう司馬しば道子みちこ打倒だとうへいげると、当時とうじ広州こうしゅう刺史ししであった桓玄は荊州刺史ししいんなかこらえらとともにこれに呼応こおうした。挙兵きょへい自体じたいおうきょう配下はいか武将ぶしょうで、実際じっさい北府きたご軍団ぐんだん指揮しきしていたりゅうろう裏切うらぎりにより、おうきょうはいしたことから失敗しっぱいわる。しかし桓玄自身じしんはこれを利用りようしてしゅう刺史ししとなるなど自分じぶん勢力せいりょく拡大かくだい成功せいこうたかしやす3ねん399ねん)にはいんなかこらえ雍州刺史しし楊佺ころし荊州・雍州を制圧せいあつ、かつてちち支配しはいしていた西府にしふ軍団ぐんだん掌握しょうあくし、長江ながえちゅう流域りゅういき制覇せいはした。このころ一時期いちじきではあるが、田園詩人でんえんしじんとして有名ゆうめいとうふかしあきらが桓玄の幕僚ばくりょうつとめている。

同年どうねん司馬しば道子みちこらの圧政あっせいたいして、五斗米ごとべいどうけい道士どうしまごおんひきいられた民衆みんしゅう反乱はんらんきた(まごおんらん)。反乱はんらん自体じたいりゅうろうこれひきいる北府きたごぐんだんによりもときょう元年がんねん402ねん)に鎮圧ちんあつされたが、この混乱こんらん好機こうきとみた桓玄は、軍団ぐんだんひきいて長江ながえくだ首都しゅとたてやすしせまった。一方いっぽう司馬しば道子みちこ父子ふしりゅうろう勅書ちょくしょし桓玄の討伐とうばつめいじたが、りゅうろうは桓玄に寝返ねがえり、たてやすしはいった桓玄は司馬しば道子みちこ父子ふしらを殺害さつがいそうひゃく揆・さむらいちゅうみやこただし中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじ丞相じょうしょうろく尚書しょうしょごとあげしゅうまきなどの地位ちいれた。このときいままで併用へいようされていたたけぬの公文書こうぶんしょはいしてすべせい公文書こうぶんしょ統一とういつしたといわれている。

さらに桓玄はりゅうろうこれから北府きたご軍団ぐんだん実権じっけんうばい、これにおこったりゅうろうは桓玄をとうとしたが、度重たびかさなる寝返ねがえりをおこなったことから部下ぶかりゅうひろしらに見放みはなされ、逃亡とうぼうしたのち自殺じさつした。こうしてあずますすむ実権じっけん掌握しょうあくした桓玄は、もときょう2ねん403ねん)12月、やすみかどより帝位ていい禅譲ぜんじょうけるかたち皇帝こうてい即位そくい国号こくごうすわえ桓楚)とし、元号げんごうえいはじめさだめた。

しかし、わずか3カ月かげつえいはじめ2ねん404ねん)2がつ、かつてのりゅうろう配下はいか武将ぶしょうであったりゅうひろしが桓玄打倒だとうのクーデターをこし、なにじょともこれしょかずらちょうみんだんみちずみりゅうあつしらもりゅうひろし呼応こおうやぶれた桓玄はたてやすし脱出だっしゅつして西にしのがれたところを、桓昇とともにえきしゅうみやこまもる馮遷によって殺害さつがいされた[1]。その同族どうぞく桓振によってたけ皇帝こうていおくりなされた[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ すすむしょまき81 もうきよしこれでん 6ぎょう
  2. ^ どおりかんまき113「みずのえたつためげんきょあいたてにわおくりな曰武悼皇帝こうてい。」

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
桓楚初代しょだい皇帝こうてい
403ねん - 404ねん
次代じだい
桓謙