りゅうまさる

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りゅう まさる(りゅう しょう、紀元前きげんぜん159ねん前後ぜんご - 紀元前きげんぜん113ねん)は、前漢ぜんかん皇族こうぞく諸侯しょこうおうだい6だい皇帝こうていけいみかど生母せいぼは賈夫じん同母どうぼけいちょうたかし粛王りゅう彭祖がいる。たけみかど異母いぼけいにあたる。諡号しごうやすしおう

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん154ねんちちけいみかどから中山なかやまおうふうぜられる。りゅうまさるさけきかつ女好おんなずきであり、いんしょくふけったおうとして有名ゆうめいだった。そのために、は50にん以上いじょうもおり、まごあわせて120にん以上いじょうもうけたという。

あるときに、同母どうぼけいりゅう彭祖はおとうとたいして「おまえわたしははおなじくするおとうとだが、おうでありながら淫楽いんらくふけっておう役目やくめたしていない。どうしておまえ前漢ぜんかんはんおう身分みぶんもうせようぞ」と辛辣しんらつおとうとひょうした。しかし、りゅうまさるあに対抗たいこうして「あにじょうこそ、おうでありながら何故なぜ酷吏こくりのようなやりかたをしているのですか? 毎日まいにち盗賊とうぞくらえて処刑しょけいかえ生活せいかつおくってたのしいですか? またあにじょう法律ほうりつ厳格げんかくにして夜更よふけまでからだ酷使こくししているようですが、それもたのしいですか? おうたるものは享楽きょうらく道楽どうらくたのしむべきですよ」とあにいた部分ぶぶんいていたという。このようにりゅうまさるりゅう彭祖は同腹どうふく兄弟きょうだいでありながら、性格せいかくことなっていたのである。

りゅうまさる在位ざいい42ねんで、紀元前きげんぜん113ねん病没びょうぼつした。嫡子ちゃくしりゅうあきらあいおう)がそのあといだ。

1968ねん河北かほくしょうていまんしろけんまんしろかんはかで、りゅうまさる王妃おうひの竇氏(いみなたがね)のかん発掘はっくつされた。両人りょうにん遺体いたいつつきむ縷・ぎん縷玉ころもと、その遺品いひん発見はっけんされている。

子孫しそん[編集へんしゅう]

りゅうまさる子沢山こだくさんで、まごふくめて120にん以上いじょう子孫しそんもうけている。そのために、やく300ねんこうかんすえ時代じだいには、前漢ぜんかんなか山王さんのう末裔まつえいちゅう山国やまぐにをはじめ、涿郡常山つねやまぐんなどにひろがっていたとおもわれ、しょくかんてたりゅうもそのなか一人ひとりとされる[注釈ちゅうしゃく 1]。『三国志さんごくし』「さきぬしでん」はりゅう備をりゅうまさる末裔まつえいとするが、りゅうまさるりゅうさだ爵位しゃくいうしなって以後いごりゅう備の祖父そふりゅうつよしまで記述きじゅつんでいる(りゅう備#系譜けいふについて参照さんしょう)。

はやし羅山らざんは『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』の「条例じょうれい」(凡例はんれい編集へんしゅう方針ほうしんについての文章ぶんしょう)のなかで、祖先そせんからの系図けいず曖昧あいまいれいとして、しょくかんりゅう備が中山なかやまやすしおう子孫しそんだとしょうしていることを(ちょうただしたねちょうひろかん末裔まつえいだとしょうしていることとともに)げている[注釈ちゅうしゃく 2][2]

西にしすすむ時代じだいからえびすじゅうろくこく時代じだいにかけての武将ぶしょう政治せいじ文学ぶんがくしゃであるりゅうりゅうまさる子孫しそん自称じしょうしている。

とう詩人しじんりゅう禹錫りゅうまさる子孫しそん自称じしょうしていたが、匈奴きょうど末裔まつえい[3]

宗室そうしつ[編集へんしゅう]

后妃こうひ[編集へんしゅう]

  • 竇綰(竇皇后こうごうめいまご

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脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ さかなの『てんりゃく』では、りゅう備は「臨邑こう」の後裔こうえいとされている。こうかん光武みつたけみかどあにであるりゅうまご・臨邑こうりゅうふく後裔こうえいなされる(りゅう備#系譜けいふについて参照さんしょう)。
  2. ^ 冒頭ぼうとうまき(「じょしめせさとし清和せいわはじめ条例じょうれい」)にかれた「清和せいわはじめ条例じょうれい」にしるされている。清和せいわはじめだしであると主張しゅちょうしてはいるが考証こうしょう材料ざいりょうもないために実際じっさいにどうであるかりようのないものについては、かり清和せいわはじめの「支流しりゅう」として配列はいれつするというもので、「うたがわしい」系図けいずあつかいについて同様どうようれい中国ちゅうごくもとめる文脈ぶんみゃくでの言及げんきゅう。「清和せいわはじめたたえずといへども、其本をしらざるものをば支流しりゅうごうす。〔…中略ちゅうりゃく…〕其外の系譜けいふにおゐてかれもかんがふるところなく、此もあかすべきものなきをば、しばらく清和せいわはじめ支流しりゅうをのす。まことにこれ年代ねんだいひさしくとほざかりて、しりがたきものをばいかんともすべきことなし。うたがはしきをかくは、いにしへのれいならずや。おっとしょくさきしゅ中山なかやまやすしおうのちたりといへども、其世けいをつまびらかにせず。そうふとしちょうひろかんこうたたえずといへども、其氏をつまびらかにせざるときは、中華ちゅうかまたしかり。諸家しょか支流しりゅうあるゆへなり。」[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん 1八木はちぼく書店しょてん、1980ねん、14ぺーじhttps://www.digital.archives.go.jp/img/4134093 
  2. ^ はやしあきらかち橋本はしもとまさしせん斎木さいき一馬かずま寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん だい1ぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1980ねん1がつ1にち、14ぺーじISBN 4797102365https://www.google.co.jp/books/edition/寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん_1/hkC4gvzXLqQC?hl=ja&gbpv=1&pg=PP32&printsec=frontcover 
  3. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょりゅう禹錫』 - コトバンク

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]