劉 貞
『
三国志 演義 での系譜 [編集 ]
また、『
脚注 [編集 ]
- ^ 『
典 略 』(魏 略 )では、「劉 備は臨邑侯 (はじめは真 定 王 劉 楊の弟 の劉 譲 の爵位 であったが、劉 譲 は兄 の劉 楊とともに光武 帝 から謀反 の疑 いで誅殺 された。後 に光武 帝 の兄 の斉 武 王 劉 縯の孫 の劉 復 が封 じられ、復位 された)の分家 である」と記 されている。 - ^ 『
漢書 』王子 侯 表 の表記 。『三国志 』蜀 書 ・先 主 伝 では陸 城 亭 侯 と記 されている。 - ^
盧 弼の『三国志 集 解 』で注 を引 く潘 眉 (清 の史学 者 )の説 によると、『漢書 』「王子 侯 表 」に基 づいて、劉 貞 は紀元前 127年 に陸 成 侯 に封 じられ、紀元前 112年 に廃 されたと記 されている。同時 に陸 成 侯 の領土 は冀州中 山国 陸 成 県 にあり、「幽 州 涿郡涿県陸 城 亭 」にあるとするのは誤 り。前漢 の時代 には「亭 侯 」は存在 しておらず、「亭 侯 」は後 漢 以来 の爵位 の制度 であるとしている。その一方 、周 振 鶴 (中国 の学者 )『西 漢 諸侯 王国 封 域 変遷 考 (下 )』第 八章 第 10節 では「劉 貞 が封建 されたときは、陸 成 県 は涿郡に属 しており、成 帝 治世 の綏和元年 (紀元前 8年 )には中 山国 に属 され、したがって「涿県」は「涿郡」の訛 りと見 られる」と述 べている。 - ^ 裴松
之 は「臣 (わたし)は考 える。先 主 (劉 備)は孝 景 皇帝 (景 帝 )の血筋 だとしても、はるか遠 い世代 で代々 宗廟 を祀 るのは困難 だった。すでに漢 朝 の継承 者 として、どの皇帝 を始祖 として親 廟 を建立 したのか不 詳 である。同時 に英知 な人物 が補佐 し、学者 (史官 )が官職 に就 いていたのだから、(蜀 漢 の)宗廟 の制度 に関 しては、(国 の)掟 があったのだろうが、記載 が欠如 し簡略 だったのは、まことに残念 である」と述 べている。 - ^
山田 勝芳 は宗室 の資格 を失 った劉 氏 の末裔 が属 尽 と称 されて後 漢 後期 に徭役の免除 などの特権 を受 けていた事実 を指摘 し、劉 備も劉 貞 の子孫 として属 尽 の待遇 を受 けていた可能 性 を示 している(山田 勝芳 『秦 漢 財政 収入 の研究 』(汲古書院 、1993年 ) ISBN 4-7629-2500-4 pp626-634.)。 - ^
清 の学者 の毛 綸・毛 宗 崗父子 が校訂 した『三国志 演義 』毛 宗 崗本(毛 本 )では「涿鹿亭 侯 」と記 されている。