しん

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しん
前漢 8ねん - 23ねん 後漢
新の位置
公用こうよう 上古じょうこ漢語かんご
首都しゅと 常安つねやす長安ながやす
皇帝こうてい
8ねん - 23ねん おう
変遷へんせん
建国けんこく 8ねん
昆陽こやたたか滅亡めつぼう23ねん
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しゅう
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しん
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かん
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りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
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(きたひとし)
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そう
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ちょう みなみ
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莫朝
こうはじむあさ
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莫朝
南北なんぼくあさ
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しん(しん、8ねん - 23ねん)は、中国ちゅうごく王朝おうちょう前漢ぜんかん外戚がいせきであったおう前漢ぜんかん最後さいご皇太子こうたいし孺子じゅしより禅譲ぜんじょうけててた。国号こくごうの「しん」は、なりみかど時期じきおう莽が新都しんとこう[1]ふうじられたことに由来ゆらいする[2]。莽新ともばれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

しゅう時代じだい理想りそうとした政策せいさくおこなったが、その理想りそう主義しゅぎ復古ふっこ主義しゅぎてき政策せいさく当時とうじ実情じつじょうっておらず[3]国内こくない混乱こんらんした。

また、匈奴きょうど高句麗こうくりたいしてこうあつてき態度たいどったためにこれらの離反りはんまねくなど、その統治とうち失敗しっぱいわり、国内こくないには不満ふまんをもつものがおおくなった。[よう出典しゅってん]

具体ぐたいてき政策せいさくとしては、古代こだい名称めいしょうわせた地名ちめい役職やくしょくめい頻繁ひんぱん改名かいめい井田いだせい導入どうにゅうによる小作こさく農民のうみんのための農地のうち国有こくゆう奴隷どれい売買ばいばい禁止きんし高利貸こうりがたいし、国家こっかによるやす金利きんりでの融資ゆうしなどをおこなった。これについては地主じぬし高利貸こうりがとうから反発はんぱつがあった。

貨幣かへい制度せいど改革かいかく復古ふっこ主義しゅぎてきなものであり、銖銭廃止はいしし、きむ銀貨ぎんかくわえてぬの貨(くわかたち銅貨どうか)やかいかめなどを導入どうにゅうする。この幣制へいせい改革かいかくによって制度せいど複雑ふくざつになったため経済けいざい混乱こんらんし、わたしぜに鋳造ちゅうぞうみとめるまでになった。財政ざいせいめんではしおてつさけ専売せんばいせい強化きょうか依拠いきょし、このめんでの民衆みんしゅう負担ふたんやした。

また、諸侯しょこうおうおおやけに、さつふうこくおうほう格下かくさげしたことで、後者こうしゃ諸国しょこく反発はんぱつさつふうから離脱りだつする。これにたいしてしんあさ懲罰ちょうばつ戦争せんそうこし、匈奴きょうどには30まんにん西南せいなんまちこくには20まんにんへい派遣はけんし、後者こうしゃでは6・7わり餓死がし疫病えきびょうんだとされる。[よう出典しゅってん]

やがて、あかまゆ緑林りょくりんらんこり、更始こうしみかどぐんにより長安ながやすとされておう莽はころされ、1だいかぎりでほろんだ。

官制かんせい[編集へんしゅう]

漢書かんしょおう莽伝ちゅうによる。

中央ちゅうおうかん[編集へんしゅう]

かんめい 旧称きゅうしょう[4] 備考びこう
ふとし - よん輔のひとつ。
ふとしでん ふとしでん よん輔のひとつ。
国師こくし - よん輔のひとつ。
くにしょう - よん輔のひとつ。
だい司馬しば だい司馬しば 三公みつきみひとつ。
だいつかさ だいつかさ 三公みつきみひとつ。
だいつかさむなし だいつかさむなし 三公みつきみひとつ。
だい司馬しばつかさまこと - きゅうきょうひとつ。新設しんせつかんで、だい司馬しばつかさきょう
だいつかさ司直しちょく - きゅうきょうひとつ。新設しんせつかんで、だいつかさつかさきょう
だいつかさそらつかさわか - きゅうきょうひとつ。新設しんせつかんで、だいつかさそらつかさきょう
羲和
納言なごん
だいつかさみのり きゅうきょうひとつ。
さく だい きゅうきょうひとつ。
秩宗 ふとしつね きゅうきょうひとつ。
てんたのし だいおおとり きゅうきょうひとつ。
きょうこう しょう きゅうきょうひとつ。
おそれ みず衡都じょう きゅうきょうひとつ。
つかさなか ひかりろくくん ろくかんひとつ。
ふと ふとぼく ろくかんひとつ。
ふとまもる まもるじょう ろくかんひとつ。
奮武 金吾きんご ろくかんひとつ。
ぐんただし 中尉ちゅうい ろくかんひとつ。
だいぜいかん - ろくかんひとつ。新設しんせつかん
ほう
おうよんもん おおやけしゃ司馬しば 前漢ぜんかんではまもるじょう属官ぞっかん

地方ちほうかん[編集へんしゅう]

かんめい 旧称きゅうしょう 備考びこう
しゅうまき しゅうまき
だいいん 太守たいしゅ
ふとしじょう じょう
けんおさむ 県令けんれい/けんちょう

等級とうきゅう[編集へんしゅう]

名称めいしょう
きょう ちゅうせんせき
うえ大夫たいふ せんせき
ちゅう大夫たいふ せんせき
しも大夫たいふ せんせき
もと ろくひゃくせき
いのち ひゃくせき
ちゅう よんひゃくせき
下士かし さんひゃくせき
庶士 ひゃくせき

都城みやこのじょう[編集へんしゅう]

前漢ぜんかんであった長安ながやすつづとしたが、は「常安つねやす」にあらためられた[5]

常安つねやす宮殿きゅうでん
名称めいしょう 旧称きゅうしょう 備考びこう
常楽じょうらくしつ 長楽ながらみや
寿ことぶきしげるしつ 未央みおみや
おうどう ぜん殿しんがり

皇帝こうてい[編集へんしゅう]

だい 姓名せいめい 在位ざいい 元号げんごう
1 おう 8ねん - 23ねん はじめ建国けんこく 9ねん-13ねん
てんおおとり 14ねん-19ねん
すめらぎ 20ねん-23ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 新都しんとこうこく荊州南陽なんようぐん存在そんざいする
  2. ^ じゅう箚記』「おう莽建ごう曰新,また以初ふう新都しんとこう也。」
  3. ^ 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ中国ちゅうごく王朝おうちょうよん〇〇〇ねんぺーじ30
  4. ^ 前漢ぜんかんまつ時点じてんでのかんめい
  5. ^ 漢書かんしょおう莽伝ちゅう
先代せんだい
前漢ぜんかん
しん
8ねん - 23ねん
次代じだい
こうかん