井田いだせい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
井田いだせい図解ずかい

井田いだせい(せいでんせい、拼音: jǐngtián zhì)とは、中国ちゅうごく古代こだい王朝おうちょうであるしゅう施行しこうされていたといわれる土地とち制度せいどのこと。しゅうこうだん整備せいびしたといい、孟子もうしはこれを理想りそうてき制度せいどであるとした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1さと四方しほう、900うねを「」のかたちに9等分とうぶんする。そうしてできる9区画くかくのうち、中心ちゅうしんの1区画くかく公田くでんといい、公田くでんまわりにできる8区画くかくわたしという。わたしはそれぞれ8家族かぞくあたえられる。公田くでん共有きょうゆうとして8家族かぞく共同きょうどう耕作こうさくし、そこから収穫しゅうかく租税そぜいとした。以上いじょうのような内容ないよう孟子もうしによってかたられているが、ほとんど伝説でんせつじょう制度せいどといってよく、その実態じったい依然いぜんとして不明ふめいである。1920ねんにはえびすてきうたぐふる立場たちばから架空かくう制度せいどであると主張しゅちょうし、論争ろんそうになった[1]

なお、うね(ほ)というのは中国ちゅうごくもちいられた土地とち面積めんせき単位たんいで、10平方へいほう土地とち、すなわち100ぽう意味いみする。1は6しゃくであるから、1うねは600しゃく四方しほうともうことができる。しゃくながさは時代じだいによってわるためうねあらわひろさも一定いっていではないが、しゅうだいころの1うねトル法とるほう換算かんさんすると、およそ1.82aであるとかんがえられている。よって井田いだせいにおけるいち区画くかくは100うね(182a)の面積めんせきゆうすることになる。

儒教じゅきょうむねとし、しゅうとくしゅうこうだん)の政治せいじ理想りそうとする政治せいじ儒家じゅかによってしばしば参考さんこうにされている。

また、日本にっぽん奈良なら時代じだいおこなわれたじょうさとせいもこれを参考さんこうにしたものといわれている。

日本にっぽんでの井田いだせい[編集へんしゅう]

岡山おかやまはん友延とものぶ新田しんでん(とものぶしんでん)[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい岡山おかやまはんおも池田いけだ光政みつまさつなせい親子おやこは、重臣じゅうしん津田つだえいただしめいじて干拓かんたく友延とものぶ新田しんでん現在げんざい備前びぜん)を造成ぞうせいするさい古代こだい中国ちゅうごくならって井田いだせい適用てきようした。友延とものぶ新田しんでんは、南北なんぼくなが長方形ちょうほうけいうえ井田いだ(かみいた、1670ねん完成かんせい)と、正方形せいほうけいした井田いだ(しもいた、1688ねん完成かんせい)とからり、後楽園こうらくえんうちにもこれをした100ぶんの1規模きぼ井田いだもうけられている。

儒教じゅきょう理想りそうてき仁政じんせい実現じつげんすべく、上井かみい造成ぞうせい当初とうしょは9に1公田くでんとする運用うんよう開始かいししたが、やがてはん財政ざいせい危機きき飢饉ききん見舞みまわれて農地のうち同等どうとう租税そぜいりつげたため、実際じっさいには井田いだせいとして機能きのうした期間きかんはごくみじかい。した井田いだは、庶民しょみん教育きょういく施設しせつとして創立そうりつした閑谷しずたに学校がっこう財政ざいせい基盤きばんささえるこうでんてられた。

その土地とち制度せいど[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 楊寛しる西嶋にしじまじょうせい監訳かんやく高木たかぎさとしわけ歴史れきし激流げきりゅう 楊寛自伝じでん ある歴史れきし学者がくしゃ軌跡きせき東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1995ねんISBN 978-4-13-023044-5 52ぺーじ