かい

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タカラガイの一種いっしゅであるキイロダカラのかい

かい(ばいか[1])とは貝殻かいがらもちいた貨幣かへいである。アジアアフリカオセアニアアメリカ使つかわれており、とくタカラガイゆたかさん繁栄はんえい再生さいせいとみなどを象徴しょうちょうし、キイロダカラMonetaria moneta)とハナビラダカラMonetaria annulus)が広範こうはん地域ちいきもちいられた[2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

パプアニューギニアのかい
ヤップとうかい貨・ガウ[3]

かい古来こらいから呪物じゅぶつ装飾そうしょくひん、ゲームのこまなどにもちいられており、貨幣かへいとして使つかわれる条件じょうけんには希少きしょうせいかかわっていた。もっと希少きしょう場合ばあい宗教しゅうきょうてき呪物じゅぶつ特別とくべつ装飾そうしょくひんとして使つかわれ、数量すうりょうえると貨幣かへいとなり、さらにえると日常にちじょう装飾そうしょくひんとなった[注釈ちゅうしゃく 1][5]

タカラガイを珍重ちんちょうした初期しょき文化ぶんかは、紀元前きげんぜん5500ねんごろメソポタミアアッシリア紀元前きげんぜん6000ねんから5000ねん中央ちゅうおうユーラシアのジェイトゥン英語えいごばんひがしアジアの紀元前きげんぜん2000ねんごろうまかま文化ぶんか紀元前きげんぜんパプアニューギニアカフィアヴァナ(Kafiavana)などの遺跡いせきから確認かくにんでき、これらは威信いしんざい呪物じゅぶつとしてタカラガイをもちいたと推測すいそくされる[注釈ちゅうしゃく 2][7][8]

貝類かいるい貨幣かへいとしてすぐれているてんは、

  1. 個数こすうかぞえやすい
  2. 小額しょうがく単位たんいいており日常にちじょう取引とりひき使つかえる
  3. 模造もぞうされにくい
  4. 腐食ふしょく変質へんしつしにくく素材そざいとして安定あんていしている
  5. 取引とりひきされるざいたいして中立ちゅうりつである

などがあげられる[9][10]

かい貨がもっと活発かっぱつ流通りゅうつうしたのは、13世紀せいきから14世紀せいきもと時代じだいにあたる。当時とうじ貨幣かへいにはひがしユーラシアの銅銭どうせん西にしユーラシアの金貨きんか銀貨ぎんかみなみユーラシアのかい貨などがあり、これらは個数こすうかぞえる計数けいすう貨幣かへいであった。これにたいしてモンゴル帝国ていこくもとでは重量じゅうりょうはかって使つか秤量ひょうりょう貨幣かへいぎんあつめ、ユーラシアの征服せいふくすすめるとともに貿易ぼうえきぎん使つかった。もとによって交易こうえきむすびつけられ、ぎん循環じゅんかんして各地かくち交易こうえき活発かっぱつになると、かい貨も雲南うんなんからアフリカにかけて流通りゅうつうした。もとによるぎん循環じゅんかんが14世紀せいきとどこおるようになると、各地かくち交易こうえき減少げんしょうしていった[11][12]

ヨーロッパによるアメリカ植民しょくみんでは金属きんぞく貨幣かへい不足ふそくしており、先住民せんじゅうみんかい貨が法律ほうりつ通貨つうかとしてみとめられて流通りゅうつうした[13]

19世紀せいき以降いこうは、国際こくさい金本位きんほんいせいや、いちこくいち通貨つうか原則げんそく普及ふきゅうすすみ、各地かくちかい貨は国家こっか発行はっこうする硬貨こうか紙幣しへいえられていった[14]使つかわれなくなったかい貨は装飾そうしょく工芸こうげいひんわっていったが、現在げんざいでも貨幣かへいとして流通りゅうつうしている地域ちいきがある[15]

産地さんち[編集へんしゅう]

キイロダカラとハナビラダカラは沖縄おきなわタイランドわんモルディブモザンビークさんする[16]。この2しゅかい貨にえらばれた理由りゆうとして、いずれも水深すいしん2メートルから3メートルの岩礁がんしょう珊瑚礁さんごしょう生息せいそくしており採取さいしゅしやすいてんにあると推測すいそくされる[17]日本語にほんごではハチジョウダカラ英語えいごばんというからちょう7センチのかい子安こやすかいぶが、タカラガイの総称そうしょうとして使つかわれる場合ばあいがある[18]

きたアメリカのかい貨は東海岸ひがしかいがんロングアイランド周辺しゅうへん、オセアニアではソロモン諸島しょとう中心ちゅうしんとなった[19][20]

形状けいじょう[編集へんしゅう]

原料げんりょうとなるかいあなけてひもとおし、ビーズじょうにして使用しようされた。均一きんいつおおきさのかい流通りゅうつうさせるために、採取さいしゅのときにおおきさがえらばれていた。たとえば自然しぜんかいのハナビラダカラはからちょうが8.9ミリメートルから37.4ミリメートルまであるが、ひがしユーラシアで流通りゅうつうしたハナビラダカラは25ミリメートル前後ぜんこうにそろえられている[21]

ひがしアジア[編集へんしゅう]

古代こだい中国ちゅうごくかい貨、中国ちゅうごく貨幣かへい博物館はくぶつかん

紀元前きげんぜん15世紀せいきしょういん)や、紀元前きげんぜん11世紀せいきしゅうでは、東南とうなんアジアからの交易こうえきでタカラガイを入手にゅうしゅし、贈与ぞうよ埋葬まいそうひんもちいた。タカラガイをいとでつないだものをとも中国語ちゅうごくごばんび、王朝おうちょうでは儀礼ぎれいにおける贈与ぞうよ下賜かしなどの互酬のためにタカラガイを使つかったとされる[注釈ちゅうしゃく 3]副葬品ふくそうひんとしてもタカラガイが使つかわれており、呪術じゅじゅつてき意味いみがあった[注釈ちゅうしゃく 4]とも物品ぶっぴん価値かちしめすためにも使つかわれた[26]古代こだい中国ちゅうごくでは経済けいざいかかわる文字もじおおくに「かい」が使つかわれており、タカラガイが神聖しんせいしな貨幣かへいとして使つかわれていたのが理由りゆうとされる。漢字かんじの「かう」に相当そうとうする「かい」や、「あきなう」や「かえる」に相当そうとうする「貿」は、いんしゅう時代じだいかぶとこつぶん金文きんぶんられる。商業しょうぎょう商人しょうにん意味いみする「賈」や、「たから」・「しなもの」・貨幣かへいなどをあらわす「貨」もはやくから使用しようされていた[注釈ちゅうしゃく 5][28]かい亀甲きっこうとともに貴重きちょうとされ、のちにはいしほねどうなどでタカラガイを模倣もほうした貨幣かへいつくられた。すわえはタカラガイをしたどうかい中国語ちゅうごくごばんつくり、しんおうたから貨制という復古ふっこ政策せいさくによってかい貨を流通りゅうつうさせた。『漢書かんしょしょく貨志によれば、たから貨制のかい貨はおおきさによって5種類しゅるい価値かちがあり、最小さいしょうが3せん最大さいだいが216ぜに相当そうとうした。おう莽の政策せいさく破綻はたんしたのちは、かい貨が雲南うんなん以外いがい使つかわれることはなかった[29]

琉球りゅうきゅう進貢しんこうせん。1383ねんあかり大型おおがた進貢しんこうせん琉球りゅうきゅう提供ていきょうし、朝貢ちょうこう回数かいすうなどで琉球りゅうきゅう特例とくれいあたえた[30]
雲南うんなん

東南とうなんアジアにちか雲南うんなんでは、北方ほっぽうよりも大量たいりょうのタカラガイが出土しゅつどしている。『しんとうしょ』のみなみみことのりでんによれば、雲南うんなんみなみみことのりではかい交易こうえき貨幣かへいとして使つかわれ、16まいかいが覓(べき)という単位たんいばれていたという記録きろくがある。みなみみことのりののちのだいこく時代じだいもタカラガイのかい貨は流通りゅうつうしていた[31]。13世紀せいきにはもとくもみなみ征服せいふくしており、当時とうじヴェネツィア商人しょうにんだったマルコ・ポーロは、タカラガイのかい貨が雲南うんなん使つかわれていたと『東方とうほう見聞けんぶんろく』でかたっている。かい貨は80ぎん1サジュ(3.6グラム)にあたり、80単位たんいひもでまとめていたとかんがえられる[注釈ちゅうしゃく 6][33]もと歴史れきしについてかれた『もと』にも、13世紀せいき雲南うんなんかい貨が流通りゅうつうしていた記録きろくがあり、キイロダカラが中心ちゅうしんだった。かい貨はかねわりとして納税のうぜい使つかえたが、かい貨しかたないものにとっては不利ふりだった[注釈ちゅうしゃく 7][34]。タカラガイは密輸みつゆでも雲南うんなんまれており、もと法令ほうれいしゅうもと典章てんしょう』には、雲南うんなんへのタカラガイの密輸みつゆ禁止きんし条例じょうれいがあり、有力ゆうりょくしゃ賄賂わいろえに密輸みつゆ支援しえんしていたと記録きろくがある[35]雲南うんなんではあきら時代じだいもタカラガイが使つかわれた。琉球りゅうきゅう王国おうこくあかりへの朝貢ちょうこうでタカラガイ(うみともえ)550まんおくっており、雲南うんなんかい貨は赤道せきどう付近ふきん以外いがいからも産出さんしゅつしていた可能かのうせいがある[18]朝貢ちょうこう使つかった進貢しんこうせん停泊ていはくしていた那覇なはこう御物ぎょもつじょう(おものぐすく)やわたりむら(わたんぢむら)では、14世紀せいきから16世紀せいき大量たいりょうのタカラガイが発見はっけんされており、もっとおおいのはあかりひろしたけみかどから永楽えいらくみかど時期じきにあたる[36]朝貢ちょうこうあつまったタカラガイは南京なんきん貯蔵ちょぞうされて雲南うんなん皇族こうぞく官僚かんりょうおくられた[37]

1610ねんごろからタカラガイのぎんたいするレートの下落げらくはばおおきくなり、きよし支配しはいとなった1680年代ねんだいにはタカラガイは流通りゅうつうしなくなり、わって銅銭どうせん使つかわれるようになった[注釈ちゅうしゃく 8]原因げんいんは、タカラガイの供給きょうきゅう途絶とぜつしたためとされている[注釈ちゅうしゃく 9][38]

東南とうなんアジア・みなみアジア[編集へんしゅう]

イブン・バットゥータの旅程りょてい
インドシナ

13世紀せいきタイのランナータイちょうをはじめとするしょ王朝おうちょうで、タカラガイのかい貨が使つかわれていた記録きろくがある[40]。13世紀せいき雲南うんなん流通りゅうつうしたタカラガイは、チャオプラヤーがわ流域りゅういきロカック中国語ちゅうごくごばん)からはこばれていた可能かのうせいがある。14世紀せいき商人しょうにんひろし大淵おおふちの『東夷あずまえびすりゃく中国語ちゅうごくごばん』には斛の物産ぶっさんとしてタカラガイの記録きろくがあり、ポーロの『東方とうほう見聞けんぶんろく』とも一致いっちする。タカラガイはタイ沿岸えんがんあつめられたのちに交易こうえきムアンスコータイあさ、ランナータイをへて雲南うんなんはこばれたとかんがえられる[41]

14世紀せいきタンジェ出身しゅっしん旅行りょこうイブン・バットゥータは、『リフラ』でタカラガイのかい貨についてしるしている。モルディブ諸島しょとう生息せいそくするタカラガイがかい貨となり、島民とうみんはベンガルのコメと交換こうかんしていた[注釈ちゅうしゃく 10]。モルディブのタカラガイはベンガルにはこばれたのち、西にしはイエメンからアフリカのスーダンなどにはこばれ、ひがしはタイ南部なんぶから雲南うんなんへとはこばれた[43][42]

インド

4世紀せいきごろグプタあさ時代じだいから、銅貨どうかとともにタカラガイがしょう額面がくめん貨幣かへいとして日常にちじょうきに使つかわれた[44]。18世紀せいきから19世紀せいきベンガル地方ちほうでも市場いちばでは銅貨どうかとタカラガイのかい貨が使つかわれ、比較的ひかくてき高額こうがくルピー銀貨ぎんか納税のうぜいようだった。レートは1ルピー=銅貨どうか64パイ=かい貨5120であり、ムガル帝国ていこく末期まっきまで一般いっぱんてき流通りゅうつうし、一部いちぶ地域ちいきでは19世紀せいき前半ぜんはんまで納税のうぜいかい貨を使用しようできた[注釈ちゅうしゃく 11]。タカラガイはヨーロッパせんによってモルディブ諸島しょとうからオリッサやベンガルなどの海岸かいがんはこばれており、商人しょうにんはモルディブで1ルピー9000のレートで仕入しいれて2500から3000のレートでった。かい貨はかさばるため、イギリスひがしインド会社かいしゃ収税しゅうぜいかん納税のうぜいされたかい貨を地域ちいき送金そうきんできなかったという記録きろくもある。かい貨と銀貨ぎんか相場そうば周期しゅうきてき変化へんかしており、かい貨は農産物のうさんぶつ対価たいかとしてはらわれるので収穫しゅうかく相場そうば上昇じょうしょうし、納税のうぜい必要ひつよう銀貨ぎんか納税のうぜい相場そうば上昇じょうしょうした[46]

アフリカ[編集へんしゅう]

13世紀せいき~15世紀せいき初頭しょとうのマリ帝国ていこくとサハラ交易こうえき
インド洋いんどよう・サハラ交易こうえき

9世紀せいきから10世紀せいきには、インド洋いんどようめんするひがしアフリカからタカラガイやビーズが交易こうえきはこばれ、コンゴがわ流域りゅういき内陸ないりくにあるルバ王国おうこく英語えいごばんシャバルンダ王国おうこく英語えいごばんザンビアにもとどいた[47]。アフリカで交易こうえき使つかわれた最初さいしょのタカラガイは南東なんとうモザンビークさんというせつもある。モザンビークでは現在げんざいもハナビラダカラが採取さいしゅされ、インドけに輸出ゆしゅつされている[48]。13世紀せいき後半こうはんから14世紀せいきごろインド洋いんどようからアフリカへはこばれたタカラガイには2種類しゅるいあり、キイロダカラが上級じょうきゅうで、ハナビラダカラが2きゅうひんとされた[49]西にしアフリカにタカラガイをんだのは、サハラ砂漠さはらさばく横断おうだんするサハラ交易こうえきおこなうアラブひとトゥアレグじんとされており、14世紀せいきには旅行りょこうしゃのイブン・バットゥータがニジェールがわ流域りゅういきかい貨についてしるしている[50][43]

大西洋たいせいよう貿易ぼうえき

15世紀せいきにはベニン王国おうこくコンゴ王国おうこくアルドラ王国おうこくでももちいられ、大西洋たいせいよう貿易ぼうえきはじまるとポルトガルによって沿岸えんがんでもタカラガイのかい貨が流入りゅうにゅうした。奴隷どれい貿易ぼうえきにともなって大西洋たいせいようからの流入りゅうにゅうえて内陸ないりくルートは減少げんしょうし、タカラガイの急増きゅうぞうによってかい貨の価値かち下落げらくした。ニジェールがわ探検たんけんしたマンゴ・パーク記録きろくによれば、1795ねんバンバラ英語えいごばんでは1シリング=250だったが、19世紀せいき中期ちゅうきには1シリング9.5ペンス=2000(10たば)となった[注釈ちゅうしゃく 12][52][53]

1845ねんのアラブ商人しょうにん使つかっていたかい

17世紀せいきから18世紀せいきにかけて欧米おうべいとの奴隷どれい貿易ぼうえきさかえたダホメ王国おうこくでは、タカラガイを通貨つうかとしていた。市場いちばでの食料しょくりょうひん購入こうにゅうなど国内こくない支払しはら手段しゅだんとしてかい貨が使つかわれた。市場いちばでは砂金さきん使つかえたが、小額しょうがくめんであるかい貨のほうがてきしていた[54]かねたいするレートはかね1オンス=かい貨32000安定あんていして維持いじされた[55]。アフリカにはかい貨にじゅう勘定かんじょうもちいる地域ちいきがあり、のマージンとなった。ダホメで卸売おろしうり小売こうりさいには、10×8が100とかぞえられた。このため小売こうり商人しょうにんは20%の代価だいか確保かくほできるようにさだめられていた。西にしスーダンやバンバラでもかい貨について同様どうよう記数きすうほうられた[56]かい貨は金融きんゆうでも使つかわれており、ヨルバじんのアジョとばれる貯蓄ちょちく制度せいどや、エススとばれる庶民しょみん金融きんゆうでタカラガイが通用つうようした。エススではメンバーが定期ていきてき出資しゅっしし、あつまったがく一人ひとりずつってゆくまりだった[注釈ちゅうしゃく 13][58]

ダホメには、タカラガイが貨幣かへいになった由来ゆらいについての伝説でんせつがある。伝説でんせつによれば、はじめは貨幣かへい市場いちばもなく、人々ひとびとたがいのもの交換こうかんしていた。そこにダホメ最初さいしょおうであるテ・アグバンリが外来がいらいしゃとしてあらわれて、市場いちばつくった。そして土着どちゃくおうであるアグワ=ゲデは、大地だいちから食料しょくりょう落花生らっかせい貨幣かへいのタカラガイをして人々ひとびとあたえた。人々ひとびとはアグワ=ゲデをたたえ、市場いちばでタカラガイの貨幣かへい使つかって食料しょくりょううようになったという[59]伝説でんせつ解釈かいしゃくすると、タカラガイは外界がいかいからまれたので現地げんち人々ひとびと生態せいたいなどをらないてん物々交換ぶつぶつこうかんわって貨幣かへい使つかわれるてん貨幣かへい権力けんりょくあらわてんなどが判明はんめいする[60]

植民しょくみん時代じだい

19世紀せいきまつから20世紀せいきにかけて、欧米おうべい諸国しょこくがアフリカ大陸たいりく植民しょくみんとするために進出しんしゅつした。当時とうじもナイジェリアはタカラガイのかい貨が流通りゅうつうしており、イギリスは1920ねんまでにかい貨を非合法ひごうほうとして自国じこく発行はっこうする銅貨どうかえようとした。しかしかい貨は非公式ひこうしき使つかわれつづけ、イギリスはしん貨幣かへい普及ふきゅうさせるために給料きゅうりょう納税のうぜい市場いちばでの取引とりひきにおいてしん貨幣かへい義務ぎむし、次第しだいしん貨幣かへい普及ふきゅうしていった[61]かい貨の取引とりひきわるまでにモルディブで採取さいしゅされたキイロダカラはやく300おくにのぼる[62]

アメリカ[編集へんしゅう]

ホンビノスガイとバイかいつくられたウォンパム

海岸かいがん沿いのアメリカ先住民せんじゅうみんは、ウォンパム英語えいごばんというかい工芸こうげいひん貨幣かへいとして使つかっていた。ニュー・イングランドホンビノスガイナラガンセット英語えいごばんでクォーホグ)やミゾコブシボラからつくられる数珠玉じゅずだまであり、紫色むらさきいろのサキと白色はくしょくのワムピがある[63]くろ暗紫色あんししょくのウォンパムは、一般いっぱんしろよりも価値かちたかかった。ひもむすばれて使つかわれ、ウォンパムピーグともばれた。ウォンパムは装飾そうしょくひん装身具そうしんぐ貢物みつぎものであり、先住民せんじゅうみんにとって貴重きちょうひんだったが、つくることはだれにもできた。先住民せんじゅうみん首長しゅちょうは、これを兵士へいし報酬ほうしゅうとしてわたしていた。ウォンパムをはじめたのはロードアイランド植民しょくみんちかくのナラガンセットぞくであり、ウォンパムを大量たいりょうつくったのはロングアイランドのメトアックぞく英語えいごばんだった。海岸かいがん部族ぶぞくは、かわ沿いのモホークぞくや、さらに内陸ないりく有力ゆうりょく部族ぶぞくへの貢物みつぎものや、五大ごだいみずうみ周辺しゅうへん高価こうかだったビーバーの毛皮けがわれるためにウォンパムを使つかった[19]

ヨーロッパからの入植にゅうしょくしゃはじめてウォンパムを入手にゅうしゅしたのは1627ねんオランダ西にしインド会社かいしゃ経営けいえいするニューネーデルラントのド・ラジェールである。ド・ラジェールはメトアックぞくとの取引とりひきでウォンパムを入手にゅうしゅし、プリマス植民しょくみんんだ。当時とうじ植民しょくみんでは食料しょくりょう自給じきゅうできなかったため、先住民せんじゅうみんとの交易こうえきではウォンパムをビーバー毛皮けがわ・トウモロコシ・鹿しかにく交換こうかんし、武器ぶき・アルコール・ウィスキー・衣類いるいをウォンパムと交換こうかんした。食料しょくりょう自給じきゅうできるようになると、ビーバーの毛皮けがわ交易こうえきでウォンパムが多用たようされた[注釈ちゅうしゃく 14]土地とち購入こうにゅうにもウォンパムが使つかわれ、1657ねん植民しょくみんじんは100ポンドぶんのウォンパムピーグでコナニィカットとう英語えいごばんれている[65]

当時とうじのアメリカ植民しょくみんでは金属きんぞく産出さんしゅつされず、金属きんぞく貨幣かへい発行はっこう本国ほんごくから禁止きんしされていたため、ウォンパムは植民しょくみん同士どうし交易こうえきでも使つかわれるようになった[注釈ちゅうしゃく 15]法律ほうりつでレートがさだめられたことにより、ウォンパムは小額しょうがく法定ほうてい通貨つうかとしてみとめられていった[注釈ちゅうしゃく 16]植民しょくみんじん先住民せんじゅうみん交易こうえき平和へいわつづいたが、毛皮けがわ価格かかく下落げらく、ビーバーの生息せいそくすう減少げんしょうによる毛皮けがわ入手にゅうしゅなんなどの状況じょうきょうかさなって交易こうえきにウォンパムが使つかわれなくなっていった。くわえて、メトアックぞくたちに独占どくせんされていたウォンパムの生産せいさん植民しょくみんじん参入さんにゅうし、しつひくいウォンパムを生産せいさんした[注釈ちゅうしゃく 17]。こうして1661ねんには法定ほうてい通貨つうかとしてのウォンパムは廃止はいしされ、フィリップおう戦争せんそう(1675ねん)で先住民せんじゅうみん植民しょくみんじん対立たいりつ激化げきかした[67]

ウォンパムのほかに、太平洋たいへいようがんではツノガイからのビーズもかい貨となった。メキシコ西部せいぶではウミギクガイ英語えいごばん二枚貝にまいがいはビーズじょうかい貨となりスポンドゥリクス(Spondulix)とばれる[69]チャンネル諸島しょとうチュマシュぞく英語えいごばんは、マクラガイ英語えいごばんのCallianax biplicataの貝殻かいがらから円盤えんばんがたかい貨アンチュムをつく[注釈ちゅうしゃく 18][69]

また、世界せかい恐慌きょうこうなかにも使つかわれたことがある。 1933ねん3月6にちフランクリン・ルーズヴェルト大統領だいとうりょう全米ぜんべい銀行ぎんこうに「銀行ぎんこう休日きゅうじつ」を宣言せんげんした。それは3月12にちまでつづくのであるが[70]カリフォルニアしゅうのピズモビーチというまちでは少額しょうがく釣銭つりせん不足ふそくして不便ふべんいられた。そこで、一部いちぶ地元じもと企業きぎょうハマグリから金額きんがく責任せきにんしゃ署名しょめいしるした代用だいよう貨(scrip currency)を発行はっこうした。世界せかいのハマグリの首都しゅとClam Capital of the World)であることをほこるこのまちにとっては自然しぜんなことであり、短命たんめいわったとはいえ流通りゅうつうした[71]

アメリカのスラングではかい貨幣かへい関係かんけいしめすものがある。二枚貝にまいがい意味いみするクラムは1ドルをあらわし、かい貨の名残なごりとされる。現金げんきん意味いみするスラングとしてはスポンドゥリクスやウォムパムが使つかわれている。支払しはらいを意味いみするシェルアウト(shell out)という表現ひょうげんかい貨が起源きげんとされる[72]

オセアニア[編集へんしゅう]

パプアニューギニアのかい貨・タブ。
パプアニューギニア

ひがしニューブリテンしゅうトーライじん英語えいごばんは、ムシロガイ英語えいごばん巻貝まきがいからビーズじょう工芸こうげいひんつくり、このビーズはタブという貨幣かへいとして現在げんざいでも流通りゅうつうしている[注釈ちゅうしゃく 19][73]。トーライの人々ひとびとはタブをこん賠償ばいしょう支払しはらいや、威信いしんざい交換こうかんなどに伝統でんとうてき使つかってきた[注釈ちゅうしゃく 20]素材そざいがあればだれでもタブをつくれるが、ムシロガイは近隣きんりんには生息せいそくしていないため、遠方えんぽうから獲得かくとくしたりコストをかけてはこ必要ひつようがあり、現在げんざいはソロモン諸島しょとうからはこばれている。タブの単位たんいはいくつかあり、もっともよく使つかうのはポコノとばれ、大人おとな両手りょうてひろげたときの左右さゆうはばやく180センチ)にあたる[注釈ちゅうしゃく 21]貝殻かいがらかず基準きじゅんにする単位たんいとしてはパラタプがあり、1パラタプは貝殻かいがら1個いっこにあたる。最大さいだい単位たんいとしては、100ポコノから1000ポコノを車輪しゃりんじょうにしたロロイがある[15]

タブは日常にちじょう交換こうかんほかに、たのみごとのおれい納税のうぜい裁判さいばん賠償ばいしょうなどに使つかわれる。貯蔵ちょぞうされたタブは、こん葬儀そうぎなどでロロイとして使つかわれ、ロロイはけられて参加さんかしゃ分配ぶんぱいされる[注釈ちゅうしゃく 22]日常にちじょうてき交換こうかんでタブの使用しようっているため、大量たいりょうのタブが儀礼ぎれいはタブを機会きかいであり、現金げんきん収入しゅうにゅうすくない人々ひとびと分配ぶんぱいされたタブでものをする機会きかいでもある[76]

パプアニューギニアにはほかにもかい貨があり、民族みんぞくごとにながさや貝殻かいがらことなるひもじょう形態けいたい使つかっている[77]通貨つうかであるキナ名称めいしょうは、かい貨にもちいていたキナかいクロチョウガイ)を由来ゆらいとする。少数しょうすう民族みんぞくアベラムぞくかい貨クエルエクはオオシャコガイ英語えいごばんからつく腕輪うでわじょうかたちをしており1900年代ねんだい初頭しょとうまで使つかわれていた。ミルンわんではあか貝殻かいがらからつく首飾くびかざがたのバギやしろ貝殻かいがらからつく腕輪うでわがたのムワリがあり、ニューブリテンとうにはあか茶色ちゃいろ貝殻かいがらからつくるタフリアエがある。高地こうちぞくでは、シロチョウガイ最高さいこう貨幣かへいとしてあつかわれる[78]

ひがしニューブリテンとうしゅう政府せいふはタブを補完ほかん通貨つうかとして制度せいどすすめており、1990年代ねんだい通貨つうかとしてみとめられた。1998ねん時点じてんでトーライじん全体ぜんたいで400まんポコノのタブが存在そんざいしており、流通りゅうつうしていたのは4ぶんの1ほどでのこりは老人ろうじんたくわえていた[79]。2002ねん時点じてんで1ポコノ=4-5キナとなり、タブとキナの交換こうかんサービスもある[注釈ちゅうしゃく 23][81]

ランガランガ・ラグーンのかい製作せいさく
ソロモン諸島しょとう・ヤップとう

ソロモン諸島しょとうでは、マライタとうランガランガ・ラグーン英語えいごばんかい貨の製作せいさく地域ちいきとしてられている。素材そざいにするかいは4種類しゅるいあり、くら赤色あかいろのケエ(アマボウシガイ)、赤色あかいろのロム(キクザルガイ)、白色はくしょくのカカヅ(ハイガイ)、黒色こくしょくのクリラ(クロタイラギ)である。これらからつくるビーズじょうかい貨は3種類しゅるいあり、ケエからつくるサフィ、カカヅからつくるイサエ・ガリア、4種類しゅるいわせたアクアラ・アフである[注釈ちゅうしゃく 24]。これらのかい貨はマーケットでられてマライタとうブーゲンヴィルとうガダルカナルとう流通りゅうつうしており、現金げんきん収入しゅうにゅう手段しゅだんとして女性じょせい中心ちゅうしんになって製作せいさくしている。かい貨には紛争ふんそう賠償ばいしょう、カヌーやぶたなど重要じゅうようしなとの交換こうかんほかに、こんとしておっとがわ支払しはらうという重要じゅうよう役割やくわりもある[82]。レートは、アクアラ・アフ1ほん=イサエ・ガリア5ほんから10ほん=200から400ソロモン諸島しょとうドルやく1まんえんから4まんえん)にあたる[注釈ちゅうしゃく 25][84]

そのにも、ケエのビーズをつないだサフィやバニ・アウ、しろ巻貝まきがいからつくるファアア、ケエ・カカヅ・クリラでつくるガダルカナルとうかい貨タリナなどがランガランガで製作せいさくされている[85]。マライタとう南部なんぶではファタファガというかい貨があり、アクアラ・アフ1ほん=ファタファガ2ほんにあたる[78]。ソロモン西部せいぶニュー・ジョージア諸島しょとうには、ポアタという腕輪うでわじょうかい貨がある。ポアタはオオシャコガイからつくられ、世襲せしゅう専門せんもんであるマタゾナが製作せいさくする[86]

巨大きょだいいしでもられるヤップとうには、ウミギクガイからつくるガウというかい貨があり、むら同士どうし紛争ふんそう解決かいけつ重罪じゅうざい賠償金ばいしょうきんとして支払しはらわれた。現在げんざい通貨つうかではないが、銀行ぎんこうではガウを担保たんぽにしたローンが可能かのうとなっている[3]

工芸こうげい交易こうえきとの関係かんけい[編集へんしゅう]

かい貨が日常にちじょうてき使つかわれる地域ちいきでは、貨幣かへい工芸こうげいひんとの区別くべつははっきりしている。しかしかい貨の使用しよう頻度ひんどったり、かい貨の存在そんざいしない文化ぶんかけん人間にんげんにとっては、貨幣かへい工芸こうげいひん区別くべつ困難こんなんとなる。土産物みやげもの装身具そうしんぐとしてったかい多額たがく現金げんきんとみなされ、税関ぜいかんみを禁止きんしされる場合ばあいもある[87]

かい貨のない地域ちいきかい貨の原料げんりょう輸出ゆしゅつしたり、装飾そうしょく呪術じゅじゅつてき目的もくてきかい交易こうえきをすることは世界せかい各地かくちおこなわれてきた。パプアニューギニアではマッシム地方ちほう英語えいごばんかいのネックレスと腕輪うでわ使つかクラもっと有名ゆうめいであり、南東なんとうモツぞくによるヒリ英語えいごばんや、高地こうちのメルパぞくアコヤガイ使つかっておこなモカ英語えいごばんがある[88]南西諸島なんせいしょとうでは弥生やよい時代じだい九州きゅうしゅうイモガイゴホウラ交易こうえきがあり[89]、7世紀せいき以降いこう日本にっぽん朝廷ちょうていとうヤコウガイ交易こうえきおこなわれた[90]アメリカ大陸あめりかたいりくでは、北西ほくせい海岸かいがんトロワぞく英語えいごばん交易こうえきや、中米ちゅうべいコパン[91]南米なんべいモチェにおけるウミギクガイの交易こうえきなどがある[92]物語ものがたり登場とうじょうする題材だいざいとしては、『たけ物語ものがたり』のかぐやひめ求婚きゅうこんしゃもとめた品物しなものなかに「つばめちたる子安こやすかい」(つばめんだ子安こやすかい)があり、入手にゅうしゅ困難こんなん貴重きちょうひんとしての意味いみをもっていた[93]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ タカラガイはインドシナ半島いんどしなはんとうではかい貨であり、雲南うんなん山地さんちでは装飾そうしょくひんチベット高原こうげんでは儀礼ぎれいようしなモンゴル高原こうげんではシャーマンの儀礼ぎれい呪物じゅぶつなどに使つかわれた[4]
  2. ^ タカラガイの形状けいじょう女性じょせいていることから、豊穣ほうじょうねが儀礼ぎれいなどにもちいられた[6]
  3. ^ しょうのタカラガイには南西諸島なんせいしょとうからはこばれたものがふくまれているというせつがあるが、現在げんざいでは否定ひていされている[22][23][24]
  4. ^ 被葬ひそうしゃなかや、口中くちじゅうなどにタカラガイがかれた[25]
  5. ^ しょうしゅうのタカラガイをかい貨とみなすせつ前漢ぜんかんころにできたともいわれており、タカラガイの解釈かいしゃくについては議論ぎろんがある。前漢ぜんかん時代じだいにすでに存在そんざいしていた金属きんぞく貨幣かへいからさかのぼって、過去かこ重宝ちょうほうされていたタカラガイが貨幣かへいだったと類推るいすいした可能かのうせいもある[27]
  6. ^ ポーロの記録きろくには疑問ぎもんてんがあるため、ポーロ自身じしん中国ちゅうごくっておらず、伝聞でんぶんをもとにしているというせつがある[32]
  7. ^ 通常つうじょうのレートではかね1サジュ=かい貨640だったのにたいして納税のうぜいのレートはかね1サジュ=かい貨1600だった[34]
  8. ^ 1524ねんにはぎん1りょう=タカラガイ7200だったが、1647ねんぎん1りょう=56000下落げらくしていた[38]
  9. ^ オランダひがしインド会社かいしゃ進出しんしゅつでタカラガイが西方せいほうおくられるようになったてん薩摩さつまはん琉球りゅうきゅう侵攻しんこうによって琉球りゅうきゅう朝貢ちょうこうとどこおったてんなどがあげられる[39]
  10. ^ かい貨の単位たんいは、タカラガイ100がステヤーフ、700がファール、1200がクッター、10まんがブストゥーとばれ、4ブストゥー=金貨きんか1まいだった[42]
  11. ^ 1814ねんのカタックの通貨つうか内訳うちわけは、金貨きんかを1とすると銀貨ぎんか24、銅貨どうか4、かい貨11となっていた[45]
  12. ^ 1823ねんにナイジェリアを探検たんけんしたヒュー・クラッパートンは、あさ牛乳ぎゅうにゅう1ガロンにかい貨50昼食ちゅうしょくのローストチキン3主食しゅしょくに50使用人しようにんたちへの謝礼しゃれいとして総額そうがく10まん奴隷どれいにはかく2000あたえたといている[51]
  13. ^ こうした庶民しょみん金融きんゆうは、日本にっぽんでは頼母子講たのもしこう無尽むじんフランス語ふらんすごでトンチン、英語えいごロスカ(RSCAs)英語えいごばんばれる[57]
  14. ^ ビーバーの毛皮けがわは、当時とうじのヨーロッパで帽子ぼうし使つかわれる人気にんき商品しょうひんだった。ヨハネス・フェルメール絵画かいが兵士へいしわらおんな』には、ビーバー毛皮けがわ帽子ぼうしをかぶる人物じんぶつえがかれている[64]
  15. ^ アメリカ植民しょくみん金属きんぞく貨幣かへい不足ふそく慢性まんせいてきであり、17世紀せいきから18世紀せいきにかけては代用だいよう貨幣かへいとしてトウモロコシ、毛皮けがわ小麦こむぎべい、タバコなども使つかわれた。有名ゆうめいカリフォルニア・ゴールドラッシュきるのは19世紀せいきである[66]
  16. ^ 1637ねん法律ほうりつでウォンパムピーグは6で1ペンスとさだめられ、1640ねんにはしろのウォンパムピーグが4で1ペンス、ブルーは2で1ペンスとさだめられた[67]
  17. ^ ほねいしによる模造もぞうひんつくったり、しろいウォンパムを染色せんしょくして高価こうかせようとした[68]
  18. ^ チュマシュとは「ビーズの貨幣かへいつくもの」という意味いみあらわ[69]
  19. ^ 使つかわれているかい種類しゅるいはナッサリウス・カメルス(Nassarius camelus)とナッサリウス・フラウドゥレントス(Nassarius fraudulantus)[73]
  20. ^ トーライじんは、パプアニューギニアでもっと伝統でんとう文化ぶんかたもっている民族みんぞく集団しゅうだんのひとつともいわれる。また、19世紀せいき後半こうはんからのドイツりょうニューギニア植民しょくみん支配しはいにより、パプアニューギニアでもっとはやくから西欧せいおう市場いちば経済けいざい貨幣かへい制度せいどせっしてきた集団しゅうだんでもある[74]
  21. ^ ポコノよりおおきい単位たんいとしてアリップがあり、1アリップ=10ポコノとなる。ポコノよりちいさい単位たんいには1/2ポコノにあたるパパール、1/4ポコノにあたるトゥラマリクンがある[15]
  22. ^ 儀礼ぎれいにおけるタブの消費しょうひポトラッチてき示威じい行動こうどうめんや、社会しゃかい秩序ちつじょさい生産せいさんというめんっている[75]
  23. ^ キナのインフレーションのためにタブの価値かちがりつつある[80]
  24. ^ アクアラ・アフはタフリアエともばれ、ながさや形態けいたいによってさらに6種類しゅるいかれる[20]
  25. ^ こんでは、アクアラ・アフ10ほんから20ほんとイサエ・ガリア20から40ほん支払しはらわれる[83]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 宮澤みやざわ知之ともゆき中国ちゅうごく銅銭どうせん世界せかい - ぜに貨から経済けいざいへ』思文閣出版しぶんかくしゅっぱん佛教大学ぶっきょうだいがくたかりょう文化ぶんか叢書そうしょ16〉、2007ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]