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みち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
みち
こうかん
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
兗州ひねとめぐんひねとめけん
拼音 Lù Zhāo
主君しゅくん 曹操そうそう
テンプレートを表示ひょうじ

みち(ろ しょう、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん時代じだい末期まっき武将ぶしょう兗州ひねとめぐんひねとめけん現在げんざい河南かなんしょう開封かいふうさち)のひと曹操そうそう配下はいかにあって、具体ぐたいてき戦功せんこう記述きじゅつとぼしいが、同僚どうりょうしゅれい行動こうどうともにすることおおかった歴戦れきせん将軍しょうぐんである。

略歴りゃくれき

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たてやすし4ねん199ねん)、曹操そうそうりゅう袁術討伐とうばつさせようとし、しゅれいみち招をその指揮しきくわえた。しかし、討伐とうばつ着手ちゃくしゅまえに袁術は病死びょうしした。そのしゅれいみち招はりゅう備をじょしゅうのこして、曹操そうそうした帰還きかんした。

けんやす13ねん208ねん)、曹操そうそう荊州征伐せいばつかうさいちょうげんしょうりょう太守たいしゅ兼任けんにんし、さらにみやこただしまもるぐんとなった。みち招はこのとき于禁ちょうりょうちょうしゅれいのり・馮楷の6将軍しょうぐんともちょうげん指揮しきはいっている。

けんやす17ねん212ねん)、やはりしゅれいともに、くだりまもるぐん将軍しょうぐん任命にんめいされたなつほうふかし指揮しきはいり、長安ながやす駐屯ちゅうとんした。このときなつほうふかしぐん南山なんざんりゅうつよし撃破げきはしてそのぐん降伏ごうぶくさせ、さらにうまちょうかんとげきゅう配下はいかだったりょうきょうっている。

以後いご史書ししょ見当みあたらない。

演義えんぎ

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では「みちあきらろしょう」の登場とうじょうする。史実しじつどおりに、しゅれいどもりゅう備の袁術討伐とうばつ随行ずいこうするよう、曹操そうそうからめいじられる。しかし、りゅう備の指示しじしたがい、ぐんのこしたまましゅれい2人ふたりだけでもと帰還きかんしてしまったため、曹操そうそういかりをい、処刑しょけいされそうになる。荀彧が諫言したため2にんゆるされている。以降いこう登場とうじょうしない。

吉川よしかわ英治えいじばん横山よこやま光輝みつてるばん

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吉川よしかわ英治えいじ小説しょうせつ三国志さんごくし』、ならびにそれを原作げんさくとした横山よこやま光輝みつてるによる漫画まんが三国志さんごくし』では「あきらろしょう」の名義めいぎ登場とうじょうする。

参考さんこう文献ぶんけん

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