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于禁

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于禁
于禁
ひだり將軍しょうぐん
國家こっかひがしかんかんちゅうおう軍隊ぐんたいそく後來こうらいてきしょくかん)→江東こうとう集團しゅうだんそく後來こうらいてきひがしくれ)→曹魏
主君しゅくんあわびしん曹操そうそうりゅうまごけん曹丕
せい
きん
文則ふみのり
しょくかんとら將軍しょうぐんひだり將軍しょうぐんやすどお將軍しょうぐん
ふうえきことぶきていこう
せきぬき东汉泰山たいざん钜平けんこん山東さんとうやすしやすみなみ宁阳县磁窑镇西にし太平おうひらむらにん
逝世221ねん
谥号厲侯
おやぞく
于圭

于禁(—221ねん),文則ふみのり泰山たいざん鉅平县(いま中国ちゅうごく山東さんとうしょうたいやす宁阳县磁窑镇にん东汉すえ曹魏ひだりはた军,りょうしょうこれいち。以堅あつし穩重ちょしょう[1]ただしたいまち部下ぶかげん厲,杀舊友きゅうゆうあきら奉公ほうこう早年そうねんおさむりょぬのせいはば、禦ちょうやぶ袁術こばめ袁紹戰功せんこう赫赫かくかく。淯水なんただゆう于禁のう安定あんてい局面きょくめんゆずる曹軍じゅうせい旗鼓きこ曹操そうそうしょう赞「將軍しょうぐんざいらんのうせい,討暴堅壘けんるいゆう可動かどうふし,雖古名將めいしょうなに以加!」

ざい樊城たたかえちゅういん遭水わざわいしょこまりつりょうななぐんむこうせきはね投降とうこうきさきせきへいはいむぎじょう,于禁また以俘とりこてき份落いれひがしくれ手中しゅちゅうかえり遭到ぶんみかど曹丕以壁あざけ投降とうこうこと,羞慚怨恨えんこんやまいはつ而亡,おくりな厲侯きたそうあなひらなかさく《于將ぐん,叹「淯水いさむかんむり英雄えいゆう成敗せいばいみな偶然ぐうぜん。」[2]

生平おいだいら

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征伐せいばつすなじょう

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中平なかひらろくねんおおやけもと189ねん),よんがつしょうみかどりゅうべん即位そくい[3]大將軍だいしょうぐんなんしん辅政[4]なんしん派遣はけんじょうあわびしん故鄉こきょう泰山たいざん募兵ぼへい[5]かえしかいなんしんやめつかさそらただしたくせんけんあわびしんじすすむ隶校じょう袁紹袭击ただしたく,袁紹かしこ懼董たくしたがえ其計,於是あわびしん引軍かいいた泰山たいざん,招募兵ぼへいまんにん[6]。于禁にゅう[7]

はつたいらさんねん(192ねん),よんがつあわびしんとう请东ぐん太守たいしゅ曹操そうそうりょう兗州まき曹操そうそうむかい击黄はば军,鲍信战死[8],于禁あずか其黨任命にんめいためはく隸屬れいぞく將軍しょうぐんおうあきら[9]ふゆはば军降,曹操そうそう编其せい锐为あお州兵しゅうへい[10]おうあきら认为于禁ゆう大將軍だいしょうぐんざい推薦すいせんきゅう曹操そうそう曹操そうそう召見于禁あずか談話だんわ任命にんめい于禁ため军司[11]

はつたいらよんねん(193ねん),あき曹操そうそうおさむすえ[12],于禁おさむやぶこう[13],迁為おちいじんじょう[14]

きょうひらた元年がんねん(194ねん),なつ兗州たたかえばく发,于禁りつぐんおさむやぶ兗州まきりょぬの二營於濮陽城南,また擊破げきはりょぬの部將ぶしょう高雅こうが於須あきら[15]ねん(195ねん),于禁从曹操そうそうおさむやぶことぶきちょうていとうかずはなれきつね[16]また从曹みさおかこえおさむちょうすすむ雍丘[17]

たてやすし元年がんねん(196ねん),がつ,于禁ずい曹操そうそうせい讨黃はばなにりゅうなにとうひと[18]たむろへい於版はりはば军夜袭曹みさおてき营寨,于禁りつりょう部下ぶか军迎げき,斩杀りゅう辟、邵等じん,并盡くだ其眾,遷平とりここうじょう[19]

ちく構堅營

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けんやすねん(197ねん),正月しょうがつ,于禁ずいそら曹操そうそうおさむたてただしはたちょうちょう投降とうこうまたはん曹操そうそう军败,还至まいかげ[20]非常ひじょう混亂こんらんただどく于禁のう約束やくそく部下ぶか,且戰且退。撤退てったいきさき,于禁發現はつげんあお州兵しゅうへいざい劫掠ごうりゃくだいいかまた追討ついとうあお州兵しゅうへいあお州兵しゅうへい便びんいた曹操そうそう自訴じそ。于禁いたまいかげ先安さきやす营扎寨。有人ゆうじんすすむ于禁さきこう曹操そうそうほう備,于禁せつ:「現在げんざいてき军在做准备,如何いかこうてき?」於是于禁さきちくこうりょうほりみぞきさきさいむかい曹操そうそう解釋かいしゃく曹操そうそうしょう赞于きんふう其為えきことぶきていこう[21]九月くがつ,于禁ずい曹操そうそうおさむ袁術,斬殺ざんさつ袁術ぐんはたはしゆたかりょうつならくよんにん[22][23]

さんねん(198ねん),さんがつ[24],于禁ずい曹操そうそう围張繡於みのる九月くがつ[25]ずいとりこりょぬのしも[26]よんねん(199ねん),よんがつ[27],于禁あずかふみきよしじょあきら曹仁らくすすむとうちょうきゅう眭固於射けん[28]

ぼうもりのべ

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けんやすよんねん(199ねん),はちがつ曹操そうそうあずか大將軍だいしょうぐん袁紹对峙とめ于禁もりのべ以拒袁紹[29][30]ねん(200ねん),正月しょうがつ曹操そうそう東征とうせいりゅう[31]。于禁抵御袁绍てき进攻,また與樂ようらくすすむとうりょう五千擊袁紹別營,くだ袁紹將領しょうりょうなにしげるおうとうじゅう餘人よにん曹操そうそう还,使つかい于禁たむろ原武はらたけけん。于禁擊破げきは袁紹べつ營於杜氏とうじ,遷裨將ぐん[32]。于禁きさきずい曹操そうそうよりどころもりかんわたりあずか袁紹以土山相さんそうたい。袁紹れいへいこう曹操そうそう營地死傷ししょう甚多,へい懼怕。于禁とくもり土山つちやま力戰りきせん激勵げきれい士氣しきこう袁紹はい,于禁遷へん將軍しょうぐん[33]

へいはいはくもち

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けんやすななねん(202ねん[34],于禁与河よこうみなみいんなつほうあつしみなみこばめりゅう備,刘备てき伏兵ふくへい击破,为裨將軍しょうぐんのりところすくい[35][36]じゅうねん(205ねん[37]曹操そうそう上表じょうひょうかんけんじみかどしょう赞于きんらくしんちょうりょうさんにんはい于禁ためとら將軍しょうぐん[38]

含淚ころせとも

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けんやすじゅういちねん(206ねん),あきら豨反叛,于禁あずか臧霸[39]おさむかつ曹操そうそうさいなつほうふかしじょじん[40]あきら豨與于禁舊交きゅうこうこう投降とうこうしょしょうみな以為あきら豨已くだとうゆずる曹操そうそう處置しょち,于禁せつ:“你們不知ふちどう曹公てき命令めいれい嗎!ざい大軍たいぐん包圍ほういざい投降とうこうてきじん不能ふのう赦免しゃめんてきざい。遵行執行しっこう法令ほうれいごとたてまつくんじょうてき氣節きせつあきら豨雖しかてききゅう朋友ほうゆうただしわがあに以因此而しつぶし!”隕涕はたあきら斬殺ざんさつ曹操そうそう聽說嘆曰:“あきら豨不こう投降とうこう,而投奔于きん命運めいうん啊!”[41]きさき于禁たむろ潁陰,あずか乐进、张辽とうはた不和ふわ曹操そうそういのちちょうげんまいり三軍さんぐん軍事ぐんじ和睦わぼく诸将。ちょうげんとく于禁とう參與さんよりょうあかかべたたかえ[42]

運送うんそう糧秣りょうまつ

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けんやすじゅうよんねん(209ねん[43]ちんらんうめしげるざい灊縣、ろくけんはん曹操そうそう派遣はけん于禁、臧霸とう討伐とうばつうめしげるちょうりょうとくちょううしぶたとう討伐とうばつちんらん[44][45]うめしげるくだ,于禁はんうめしげるじょうすきりつ會合かいごうちんらん,转入灊山中さんちゅうてきてんはしらさん[46]ちょうりょうぐんかて不足ふそく,于禁せめ補充ほじゅうちょうりょうとく以斩ちんらん[47]戰後せんご于禁增加ぞうかしょく邑200じょうまえてきゆう1200かず[48]曹操そうそう出征しゅっせい时,つね以于きん为軍ほこさき;还军时,また以于きん殿どのきさき。于禁所得しょとくてき敌军財物ざいぶつみなわたしただし以法御下おしもとく众心[49]曹操そうそう憎惡ぞうおしゅれい于禁りつすうじゅう騎兵きへいおび敕令,ぜん往朱靈的れいてき營中だつ其兵けんしゅれい及其部下ぶかはばか于于きん敢擅どうなりため于禁てき麾下きか部將ぶしょう。于禁遷左將軍しょうぐんかりふしふん邑五ひゃくふういち列侯れっこう[50]

りつぐん投降とうこう

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たてやすし廿にじゅうよんねん(219ねん),まえはたせきはねおさむ曹仁于樊城[51]なながつ曹操そうそう于禁まえ救援きゅうえん[52]はちがつ[53],于禁驻扎ざい邓城[54][55]逢連日大にちだい,以致かんすい暴漲[56],于禁しょとくななぐんみなぜんぼつ。于禁登高とうこう坡望すいぼつ有可ゆか回避かいひてき地方ちほうせきはね乘船じょうせんおさむ于禁とうじん,于禁あずかまもるぐんひろししゅう軍司ぐんじ東里とうりひとし[57]こうかん投降とうこうただどく龐德くだ而被せきしょ[58]曹操そうそう闻讯,あい叹良ひさし[59]。于禁とうさん万人被關押在荊州江陵[60]せきはねたく以軍粮短かけ湘關まい[61]

闰月,まごけん袭击せきみなみぐん太守たいしゅおうしかかおるくだ[62]まごけんはた于禁釋放しゃくほう,請與于禁めんまごけん乘馬じょうば外出がいしゅつ,引領于禁同行どうこうおそれこぼし呵責かしゃく于禁せつ:「你這しゅくだとりこ,竟敢あずかわがまとぬしおおやけなみ以行嗎!?」よくむち于禁,まごけんしかとめこうまごけんざいろうせんかい羣臣どもいん,于禁聞樂ごえ流涕りゅうていおそれこぼしまたせつ:「你想以虛じょうかりらいもとめだつ嗎?」まごけん悵然ちょうぜん不平ふへい[63]

憔悴しょうすいいきどお

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はつねん(221ねんはちがつ[64]まごけん于禁かいたかしおそれこぼししん諫說:「于禁はいりょう國家こっかすうまんぐんため俘虜ふりょまた不能ふのうこく軍政ぐんせい練達れんたつ,于禁一人ひとりあし輕重けいちょう于禁かえはた必疑而疏かえこれたいかた雖無損失そんしつゆう如放いち盜賊とうぞく如斬りょう于禁以明れい於三ぐんあきらあきら忠義ちゅうぎゆずるためしんしゃおうゆうしん。」まごけん聽。群臣ぐんしんおく于禁,おそれこぼしたい于禁せつ:「かく不要ふよう以為ひがしくれぼつ有人ゆうじんざいただてき謀略ぼうりゃくぼつ採用さいようやめりょう。」于禁雖為おそれこぼししょいやあくただしかえもり歎虞こぼし[65]よし为于きん很久ぼつゆうかい,孙权也没ゆうおく质子,ぶんみかど曹丕问黃もんさむらいろうつかさ马孚つかさ马孚说对东吴应该怀柔,应该责备,天下てんかだい势不かいいん为于きん而改变,于禁ぼついた应该另有原因げんいんきさきらい于禁かいたかし果然かぜんいん为得びょう而耽搁[66]曹丕召见。當時とうじ于禁てきひげかみみなしろしょう憔悴しょうすい,曹丕たい于禁表示ひょうじやす慰,任命にんめい為安ためやすどお將軍しょうぐんまたたまものあか紱和どおゆうかんむり[67]。曹丕ゆずる于禁さき拜謁はいえつ曹操そうそう陵墓りょうぼざい使つかいまごけん,于禁いた高陵こうりょういた曹丕預さきいのちじんこのみてきせきはねせんかつ、龐德憤怒ふんぬ自己じこ乞降じょうてき壁畫へきが,羞憤びょう逝,諡號しごう厲侯。厲为恶谥[68]刘宋史学しがく裴松认为恰当[69]于圭嗣爵えきことぶきていこう[70]きたそう史学しがくつかさ马光认为曹丕所作しょさいち君主くんしゅおうとうてき行為こうい[71]

評價ひょうか

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  • 郝经:「张辽、じょあきら诸将たけしもうゆう谋,また关张亚匹;しかしつ於操,终为いさむ而无义。」[72]
  • おう:「无百战百胜将军,きん逢霖,败于关某,为耻也。しか虽比类荀りんちちはじめあきら视,虽败而国家こっかかえしか闻其腆颜降敌也。使つかい二子降楚归晋,われおそれとく死所しにどころ也。きん国家こっか宿将しゅくしょう,以威慑众,のう治乱ちらんまたとう时之杰,惜乎为德终。すんで为羽禽,复为吴得,おく诣文みかど,如此辗转,きん羞死,どく登高とうこうりょう而突しか惭恚发病乎?ぶんみかどしょ为亦过矣,帝王ていおうこれぎょうまた君子くんしこれぎょうしかだいゆうおうなかせんさく驴鸣あじ名士めいしぎょうだい快事かいじ也。」

藝術げいじゅつ形象けいしょう

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さんこく演義えんぎ

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于禁ざい演義えんぎちゅう弓馬きゅうば兼備けんびてき將軍しょうぐん大體だいたいあずか史實しじつじょりょうたてまつ曹操そうそういのち成功せいこうついころせ刘琮母子ぼし[73],以及ざい樊城戰中せんちゅうこくなり怕被邀功てき奸臣かんしん將領しょうりょう

  • 于禁曾先あずかとらしょうてきちょううまちょうたん挑,ただしいたじゅうかい而敗。
    • だいじゅういちかい りゅうすめらぎ叔北うみすくいあなとおる りょゆたかこう濮陽やぶ曹操そうそう〉-りゅう救援きゅうえんとうけんてき時候じこう,于禁だいほえいちごえなに处狂,往那さとあずかちょう单挑,两马しょう交,战到すうごうりゅう備掣そうまた剑麾へいだい进,于禁不敵ふてき敗走はいそう
    • だいじゅうはちかい うまはじめおこりきょうへいゆき恨 曹阿瞞割ひげ棄袍〉-ざい潼關たたかえちゅうあずかうまちょうたん挑,いた八九回就被馬超打敗。
  • だいよんじゅうかい さん江口えぐち曹操そうそうおりへい ぐんえいかい蔣幹ちゅうけい〉-あかかべ战中,曹操そうそうちゅうりょうしゅうてき離間りかんけい斬殺ざんさつすい军都とく蔡瑁、张允,後來こうらいいのち于禁もう二人为赤壁之戰的水军都督。
  • 樊城たたかえてき最後さいごせき羽水うすい淹七ぐん,于禁乞降,以襯たく龐德くだてき氣節きせつ。及後いただいななじゅうきゅうかい あに逼弟曹植 めいおちい叔劉ふうふくほう〉,于禁回國かいこく曹丕以壁諷刺ふうし不堪ふかん羞憤而病

貫中かんちゅうゆう曰:さんじゅう年來ねんらいせつ舊交きゅうこう可憐かれん臨難不忠ふちゅう曹。知人ちじんこう心中しんちゅうの識,かくとらいましたがえこつうら描。

しょう:「于禁さい大体だいたいただ国家こっかそう胜负,一身いっしんべん曲直きょくちょくはた也。」

かげ形象けいしょう

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どう漫遊まんゆうおどけ

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ちゅう

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  1. ^ 三国志さんごくし·于禁传》:于禁さいごうあつしじゅう
  2. ^ 钦定よん库全书清江きよえさんあなしゅう まきじゅう
  3. ^ きさき汉书·灵帝纪》つちのえうま皇子おうじべんそく皇帝こうてい
  4. ^ きさき汉书·なん进传》すすむ與太よたでん袁隗輔政
  5. ^ 三国志さんごくし·ただしたく传》さきしんじょう太山たいざんあわびしん所在しょざい募兵ぼへい
  6. ^ 三国志さんごくし·鲍勋传》:《しょ》:かえいたなるさつき而進やめぐうがいしんいたり京師けいしただしたくまたはじめいたしんたく必為みだれすすむ袁紹かさねたく,紹畏たく敢發。かたりざい紹傳。信乃しの引軍かえ鄉里きょうりおさむしゅまん
  7. ^ 于禁でん》:はばおこりあわびしん招合しゅきんしたがえ焉。
  8. ^ 三国志さんごくし·みかどしん乃與しゅう吏萬潛等至東郡迎太祖領兖州牧。とげすすむへいげきはば於壽ちょうひがししん力戰りきせん鬬死
  9. ^ 于禁でん》:及太りょう兗州,きんあずか其黨俱詣ためはくぞく將軍しょうぐんおうろう
  10. ^ 三国志さんごくし·みかどふゆ,受降そつさんじゅうあまりまん男女だんじょひゃくあまりまんくちおさむ精銳せいえいしゃごうためあお州兵しゅうへい
  11. ^ 于禁でん》:ろうことこもきんざいにん大將軍だいしょうぐんふとし召見與語よごはいぐん司馬しば
  12. ^ 三国志さんごくし·みかどあきふとしせいとうけん
  13. ^ 三国志さんごくししゅうかい:谢钟えい曰:こうじょしゅう诸郡无广县,そく广戚讹。
  14. ^ 于禁でん》:使つかい將兵しょうへいまいじょしゅうおさむこう,拔之,はいおちいひねじょう
  15. ^ 于禁でん》:したがえ討呂ぬの於濮べつやぶぬの營於城南じょうなんまたべつはたやぶ高雅こうが於須あきら
  16. ^ 三国志さんごくし·みかどぬのよるはしふとしふくおさむ,拔定すえふんへいひらめしょけん
  17. ^ 于禁でん》:したがえおさむことぶきちょうていすえはなれきつねかこえちょうちょう於雍おかみな拔之。
  18. ^ 三国志さんごくし·みかどなんじみなみ、潁川はばなんりゅう辟、邵、なに曼等,しゅうかくすうまんはつおう袁術,またまごけんがつふとし進軍しんぐん討破
  19. ^ 于禁でん》:したがえせいはばりゅう辟、邵等,たむろばんはり,邵等夜襲やしゅうふと營,きんそち麾下きか擊破げきは辟、邵等,つき其衆。
  20. ^ 三国志さんごくし·みかどねんはる正月しょうがつおおやけいたあてちょう繡降,すんで而悔ふくはんおおやけあずかたたかえぐんはいため流矢ながれやしょちゅう長子ちょうしのぼる弟子でしやすみんぐうがい公乃きみの引兵かえまいかげ
  21. ^ 于禁でん》:ぐんみだれかくあいだぎょうもとめぶときんどく勒所しょうすうひゃくにん,且戰且引,雖有死傷ししょうそうはなれとりこおいややなるきんじょせいぎょうたい而還。いたりふとししょみち十餘人被創裸走,きんとい其故,曰:「ためあお州兵しゅうへいしょこう。」はつはばくだごうあお州兵しゅうへいふとし寛之ひろゆき敢因えんためりゃくきんいかれい其衆曰:「あお州兵しゅうへい同屬どうぞく曹公,而還ためぞく乎!」乃討かず以罪。あお州兵しゅうへい遽走まいふと自訴じそきんすんでいたり先立さきだて營壘,不時ふじ謁太あるいいきん:「あお州兵しゅうへいやめ訴君矣,むべ促詣おおやけべん。」きん曰:「こんぞくざいついいたりときさきため備,なに以待てき?且公聰明そうめい,譖訴なんえん!」じょ鑿塹やす營訖,乃入謁,具陳ぐちん其狀。ふとしえついいきん曰:「淯水なんわれ其急也,將軍しょうぐんざいらんのうせい,討暴堅壘けんるいゆう可動かどうふし,雖古名將めいしょうなに以加!」於是ろくきん前後ぜんこうこうふうえきことぶきていこう
  22. ^ たけみかど》:あききゅうがつじゅつおかせひねおおやけ東征とうせいじゅつ聞公,棄軍はしとめ其將きょう蕤、ゆたかりょうつならく就;こういた擊破げきは蕤等,みなこれ
  23. ^ 于禁でん》:したがえかこえきょう蕤於蕤等よんしょう
  24. ^ たけみかど》:さんがつおおやけかこえちょう繡於みのる
  25. ^ たけみかど》:きゅうがつおおやけ東征とうせいぬの
  26. ^ 于禁でん》:ふくしたがえおさむちょう繡於みのる,禽呂ぬの於下おした邳,べつあずかきよし、曹仁おさむ眭固於射けんやぶこれ
  27. ^ たけみかど》:なつよんがつ進軍しんぐん臨河,使つかいきよし、曹仁渡河とかげき
  28. ^ 于禁でん》:べつあずかきよし、曹仁おさむ眭固於射けんやぶこれ
  29. ^ たけみかど》:とめ于禁たむろ河上かわかみ
  30. ^ 于禁でん》:绍兵もりきんげん先登せんとうふとしたけし,乃遣步卒ほそつせんにん使つかいきんはたまもりのべ以拒绍
  31. ^ たけみかど》:おおやけはた東征とうせい
  32. ^ 于禁でん》:りゅう備以じょしゅう叛,ふとし東征とうせい。紹攻きんきん堅守けんしゅ,紹不能ふのう拔。ふく與樂ようらくすすむとうはたせんげき紹別營,したがえのべ西南せいなんえんかわいたり汲、よしみけん,焚燒さんじゅうあまりたむろ斬首ざんしゅなまかくすうせんくだ紹將なんしげるおうとうじゅう餘人よにんふとしふく使きんべつはたたむろ原武はらたけげき紹別營於杜氏とうじやぶこれ。遷裨將軍しょうぐん
  33. ^ 于禁でん》:おこし土山つちやま相對そうたい。紹射營中,士卒しそつ死傷ししょうぐんちゅう懼。きんとくもり土山つちやま力戰りきせんえき奮。紹破,遷偏將軍しょうぐん
  34. ^ どおりかん·かんきの五十六いそろく
  35. ^ さきぬしでん》:使つかいこばめなつほうあつし、于禁とう於博もち久之ひさゆきさきぬししつらえ伏兵ふくへい,一旦自燒屯偽遁,あつしとうおいため伏兵ふくへいしょやぶ
  36. ^ のりでん》:せん不利ふりてん往救,備望見ぼうけんすくいいたり,乃散退すさ
  37. ^ 三国志さんごくししゅうかい:此表ざいせいだかみきかんうけたまわこれまえ,应作“じゅうねん”。《张辽传》辽为荡寇はた军在从征袁尚于柳じょうまえまた应在けんやすじゅうねん。此表どうしょう进及于禁、张辽,其为じゅうねん无疑。
  38. ^ 于禁でん》:けんやすじゅういちねんふとしひょうかんみかどしょうしん及于きんちょうりょう曰......於是きんためとら
  39. ^ 臧霸でん》:またあずか于禁討昌豨
  40. ^ なつほうふかしでん》:あきら狶反,于禁げき拔,ふくふちあずかきん并力,とげげき狶,くだ其十あまりたむろ,狶詣きんくだ
  41. ^ 于禁でん》:あきら豨復叛,きんせいきんきゅう進攻しんこう豨;豨與きんゆうきゅうまいきんくだしょしょうみな以爲豨已くだとうおくまいふときん曰:「諸君しょくん不知ふちこうつねれい乎!かこえ而後くだしゃ赦。おっとたてまつほうぎょうれいことじょう節也せつや。豨雖舊友きゅうゆうきんしつぶし乎!」臨與豨決,隕涕而斬ふとしぐんじゅん于,聞而嘆曰:「豨降まいわれ而歸きんあに非命ひめい耶!」
  42. ^ ちょうげんでん》:とき于禁たむろ潁陰,らくしんたむろ翟,ちょうりょうたむろちょうしゃしょしょうにんともきょう使げん并參三軍さんぐんまいことくん喻,とげしょう親睦しんぼくふとしせい荆州,以俨领章りょう太守たいしゅ,徙都とく护军,护于きん、张辽、张郃、しゅ灵、のりみち招、冯楷なな军。
  43. ^ 《资治どおり鉴》まきろくじゅうろく
  44. ^ 三国志さんごくし·张辽传ちんらんうめしげる以氐ろくけん叛,ふとし于禁、臧霸とう討成,りょうとくちょう郃、うしぶたとう討蘭。
  45. ^ 三国志さんごくししゅうかい:陈景うん:氐当さく灊。
  46. ^ 三国志さんごくし·于禁传なりにせくだきんきんかえなりとげはた其衆就蘭,轉入てんにゅう灊山。灊中有ちゅううてんはしらさんこうたかしじゅうあまりさとみちけわしせまみちさいどおりらんとうかべ其上。
  47. ^ 于禁でん》:りょうとうあずからんしょうぐんしょくしょうきんうんかて前後ぜんごしょうぞくりょうとげらんなり
  48. ^ 于禁でん》:ぞうひゃくなみまえせんひゃく
  49. ^ 于禁でん》:ふとしごと征伐せいばつ,咸遞行爲こういぐんほこさきかえためこばめ;而禁ぐんいむせいとくぞく財物ざいぶつしょわたしいれゆかり賞賜しょうしとくじゅうしか以法御下おしも甚得しゅしん
  50. ^ 于禁でん》:ふとし嘗恨しゅれいよくだつ其營。以禁ゆうじゅうきんしょうすうじゅう,齎令しょみちまいれい營奪其軍,れい及其眾莫敢動;乃以れいためきん部下ぶかとく,眾皆ふるえふく,其見はばか如此。遷左將軍しょうぐんかりふし鉞,ふん邑五ひゃくふういち列侯れっこう
  51. ^ 三国志さんごくし·关羽传これさいはねりつ眾攻曹仁於樊。
  52. ^ たけみかど》:于禁じょ曹仁げきせき
  53. ^ たけみかど》:はちがつかんすい溢,灌禁ぐん
  54. ^ えびす以存; 吴媛はな. 于禁"なな军皆ぼつ"与平よへい鲁城もち. 湖北こほく理工りこう学院がくいんがく报:人文じんぶん社会しゃかい科学かがくばん. 2014, 31 (6): 66–68. 
  55. ^ あやかよう. 于禁驻扎しろこう. 湖北こほく文理ぶんり学院がくいんがく报. 2021, 42 (1): 5–9. 
  56. ^ 三国志さんごくし·庞德传かいてん霖雨じゅうにちかんすい暴溢,樊下平地ひらちろくたけ
  57. ^ 《资治どおり鉴·纪一》:はつ,吴王于禁护军ひろししゅう、军司马东さと袞诣みかど
  58. ^ 于禁でん》:かんすい溢,平地ひらちすいすうたけきんとうななぐんみなぼつきんあずかしょしょう登高とうこうもちすいしょ回避かいひはねじょう大船おおぶね就攻きんとうきんとげおもんみ龐德不屈ふくつぶし而死。
  59. ^ 于禁でん》:ふとし聞之,あい嘆者久之ひさゆき,曰:「われきんさんじゅうねんなに臨危しょなんはん如龐とくよこしま!」
  60. ^ しゅつて》:かいかんすい暴起,以舟へいつきとりこきんとうさんまんおくこうりょうおもんみじょう拔。
  61. ^ りょこうむつて》:使于禁すくい樊,つき禽禁とう人馬じんばすうまんたく以糧とぼし,擅取湘關まい
  62. ^ 三国志さんごくし·吕蒙传こうむいたみなみぐんみなみぐん太守たいしゅ糜芳以城くだこうむよりどころりょう
  63. ^ おそれこぼしでん》:しょう于禁ためしょ,繫在じょうちゅうけんいたりしゃく,請與しょう他日たじつけん乘馬じょうば,引禁併行へいこうこぼししかきん曰:「しかくだとりこなに敢與われくんひとし馬首うまくび乎!」よくこうむちげききんけんしかとめこうけん于樓せんかい羣臣いんきん聞樂流涕りゅうていこぼしまた曰:「なんじよく以偽もとめめんよこしま?」けん悵然ちょうぜん不平ふへい
  64. ^ ぶんみかど》:あきはちがつまごけん使つかいたてまつあきら,并遣于禁とうかえ
  65. ^ おそれこぼしでん》:《くれしょ》曰:こうけんあずかほしきんかえきたこぼしふく諫曰:「きんはいすうまんしゅためくだとりこまた不能ふのうきた軍政ぐんせいとくきん必不如所ぶんまわしかえこれ雖無しょそんなおためぬすめ如斬以令三軍さんぐんしめせため人臣じんしんゆうしんしゃ。」けん聽。羣臣おくきんこぼしいいきん曰:「きょう勿謂くれ無人むじんわれはかりごとてき不用ふようみみ。」きん雖為こぼししょあくしかなおもり歎翻
  66. ^ すすむしょ·宗室そうしつでん》:こうきんいたりはて以疾おそとめ
  67. ^ 太平たいへい御覽ごらん》0691ぶんみかどあずか于禁みことのり》曰:むかしかん高祖こうそ脫衣だつい以衣かんしん光武みつたけかい綬以たいただしまことみなじんぬし當時とうじけい功勞こうろうつとむしんいたり也。ふうたまもの將軍しょうぐん以魏おうしょ珮朱韨及とおゆうかんむり
  68. ^ せい义 谥法かい》:杀戮无辜曰厉。ほどこうしゅう书》:致戮无辜曰厉。《ひだり传》隐公さんねん疏引:暴慢ぼうまん无亲曰厉。苏洵《谥法》:暴慢ぼうまん无礼曰厉。《独断どくだん みかど谥》:暴虐ぼうぎゃく无亲曰厉。
  69. ^ 三国志さんごくし·于禁传》裴注:しんまつ以爲かこえ而後くだほう雖不赦;しゅう而送ためたがえいのちきん不爲ふため舊交きゅうこうまれまんいち,而肆其好ころせこれこころ,以戾衆人しゅうじん所以ゆえんそつためくだとりこあくおくりなむべ哉。
  70. ^ 于禁でん》:みかど引見いんけんきんひげかみあきらしろ形容けいよう憔悴しょうすい,泣涕頓首とんしゅみかど慰諭以荀りんちちはじめ明視めいし故事こじはい爲安ためやすどお將軍しょうぐんよく使つかいくれさきれいきたまい鄴謁だかりょうみかど使於陵せきはねせんかつ、龐德憤怒ふんぬきん降服こうふくじょうきん,慚恚發病はつびょう薨。けい嗣,ふうえきことぶきていこうおくりなきん曰厲こう
  71. ^ 《资治どおり鉴》まきろくじゅうきゅうしんこう曰:于禁しょうすうまん眾,はい不能ふのうなまくだ於敵,すんで復歸ふっきぶんみかどはい可也かなりころせ可也かなり,乃畫りょう以辱,斯為きみ矣!
  72. ^ もと·郝经《续后汉书》まきさんじゅうよんしん·张辽乐进于禁张郃じょあきらしゅ灵李てん传》
  73. ^ さんこく演義えんぎ·だいよんじゅういちかい りゅうげんとく攜民渡江とのえ ちょうりゅう單騎たんきすくいぬし

延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:三國志さんごくし/まき17》,出自しゅつじちんひさし三國志さんごくし
ざい维基どもとおる资源阅览影像えいぞう

參考さんこう文獻ぶんけん

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