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三國志/卷02 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

三國志さんごくし/まき02

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 しょ·みかど 三國志さんごくし
しょ·ぶんみかど
しょ·あかりみかど 
维基百科 まいり维基百科ひゃっかなかてき曹丕
維基大典文言もんごん維基大典たいてんぶんぶん皇帝こうてい

ぶん皇帝こうていいみな丕,桓,たけみかど太子たいし也。中平なかひらよんねんふゆなま于譙。しょ》曰:みかどせいゆう雲氣うんき青色あおいろ而圜如車盖當其上,終日しゅうじつもちしゃ以爲いたり貴之たかゆきしょう人臣じんしんとしはちさいのうぞくぶんゆういっざいとげはくぬき古今ここん經傳けいでん諸子しょしひゃくいえこれしょぜん騎射きしゃこうげきつるぎ。舉茂ざいくだり。《けんじみかど起居ききょちゅう》曰:けんやすじゅうねんためちょうあつししょ辟。ふとしひょうゆたか辟臣子弟していせん舉故以實」。使つかいさむらいちゅうもりこう祿ろくくん郗慮ぶしたてまつさくめんゆたかかんけんやすじゅうろくねんため五官ごかんちゅうろうはたふく丞相じょうしょうじゅうねんたてため太子たいしりゃく》曰:ふとし不時ふじ立太子りったいし太子たいしうたぐ有高ありだかもとりょしゃぜんしょうじん,乃呼といたい曰:「其貴乃不可ふかげん。」とい:「ことぶき幾何きか?」もとりょ曰:「其壽,いたりよんじゅうとうゆうしょうゆう也。」いく而立じりつためおう太子たいしいたりねんよんじゅう而薨。ふとしくずれ,嗣位ため丞相じょうしょうおう袁宏《かんかんみかどみことのり曰:「太子たいし丕:むかしすめらぎ天授てんじゅ乃顯こう以翼わがすめらぎとげ攘除羣凶,ひらけてい九州きゅうしゅうひろこうしげ績,ひかり宇宙うちゅうちんようたれ拱負扆じゅう有餘ゆうよてん憖遺いちろうえいたもつあまりいちにん早世そうせいせんしん哀悼あいとうきずきり。丕奕宣明のぶあきむべ文武ぶんぶ,紹熙ぜんいとぐちこん使つかい使ぶし大夫たいふはな歆奉さくみことのり授丕丞相じょうしょう印綬いんじゅおう璽紱,りょう冀州まき方今ほうこんがいゆうのことりこ,遐夷賔,旗鼓きこなおざい邊境へんきょう干戈かんかとく韜刃,斯乃播揚ひろしれつたてこうたれめいあき也。あにとくおさむ諒闇りょうあんれいきわむ曾、閔之こころざし哉?其敬服けいふくちんいのちそもそも弭憂なつけつくり祗厥いとぐちあきら庶功,以稱ちん。於戲,つとむあずか!」尊王そんのうきさき曰王ふとしきさきあらためけんやすじゅうねんためのべやすし元年がんねん

元年がんねんがつしょかのえいぬれい曰:「關津せきのつ所以ゆえん通商つうしょうたびいけえん所以ゆえんわざわいあら也。しつらえきん重稅じゅうぜい所以ゆえん便びんみん;其除籞之きんけい關津せきのつぜいみなふく什一。」からしたまもの諸侯しょこう王將おうしょうしょうやめ大將たいしょうあわ萬斛ばんこく,帛せんひき金銀きんぎんかくゆう差等さとう使者ししゃ循行ぐんこくゆうたがえ掊克暴虐ぼうぎゃくしゃ,舉其ざいみずのえいぬ,以大ちゅう大夫たいふ賈詡ためふとしじょう大夫たいふはな歆爲相國しょうこくだいおうあきらため大夫たいふおけつねさむらいさむらいろうかくよんにん,其宦人爲じんいかんしゃとくしょしょれいため金策きんさくちょれいぞう石室いしむろ

はつかん熹平ねん龍見たつみ譙,ひかり祿ろく大夫たいふきょうげんといたいれいたん颺:「此何さち也?」颺曰:「其國とうゆう王者おうじゃきょう及五じゅうねんまたとうふくてんごとつねぞう,此其おう也。」內黃いんとうだま而記いたりよんじゅうねんのぼりしょうざい三月さんがつ龍見たつみ譙,とう聞之曰:「たん颺之ごと,其驗茲乎!」しょ》曰:おう召見とういい曰:「むかしなり風聞ふうぶんすわえおか繇而けいごととも,鄧晨しんじしょうおおやけげん而自おさめ光武みつたけとう以篤おい服膺ふくよううらないじゅつ識天どうあにゆう乎!」たまものとうこくひゃく斛,

おのれ以前いぜん將軍しょうぐんなつほうあつしため大將軍だいしょうぐん。濊貃、扶餘たん于、焉耆、于闐おうみなかく使つかい奉獻ほうけんしょ》曰:へいいぬれい史官しかんそうおさむじゅうはじむ、羲、和之かずゆきしょく,欽若ひろしてん歷象れきしょう日月じつげつ星辰せいしん奉天ほうてんしんまつあん:《しょゆうげん而不聞其しょく也。ちょうれい曰:「尚書しょうしょぼくしゃ玠、たてまつつねおうおさむすずししげるろうちゅうれい袁渙、しょうしゃ奐、まんせん中尉ちゅういじょ奕、くにふちとうみな忠直ただなお在朝ざいちょうくつ仁義じんぎなみはやそく,而子孫しそんりょうおそ,惻然愍之,其皆はいおとこためろうちゅう。」

なつよんがつちょうにょうやすけんげんしろ雉見。しょ》曰:たまものにょうやす田租でんそ,勃海ぐんひゃくうししゅだいさんにちふとつね以太ろうほこら宗廟そうびょう庚午こうご大將軍だいしょうぐんなつほうあつし薨。しょ》曰:おうもとふくこう鄴東城門じょうもんはつあいまごもり曰:ざいれい天子てんし哭同せい宗廟そうびょうもんそと。哭於城門じょうもんしつ其所也。

五月ごがつつちのえとら天子てんしいのちおうついみこと皇祖こうそふとしじょう曰太おう夫人ふじんちょう曰太おうきさきふう王子おうじあきらため武德ぶとくこうりゃく》曰:以侍ちゅうていしょうため武德ぶとくこうでんれい曰:「りゅうふかしふとおもねこんわれきむかず璧由さと;礱之以砥礪,錯之以他さんのう致連じょうあたいためいのちたからがくまたひととぎ礪也。しょう篤學とくがく大儒たいじゅつとむ以經がく輔侯,むべ旦夕たんせきにゅうさむらい,曜明其志。」これがつ,馮翊山賊さんぞくていあまおうあきらりつしゅくだみなふう列侯れっこうしょ》曰:はつていあまおうあきら及盧すいえびすりつ其屬おうしょ以示あさ曰:「ぜんよくゆうれいわれ討鮮卑者,われしたがえ而降;またゆうよく使われ今秋こんしゅう討盧すいえびすしゃわれ聽,いままたくだむかしたけこういちはかりごと而當,ゆう自得じとくいろそし悝。われいませつ此,是也これや以爲すわ而降,其功だい於動兵革へいかく也。」

さけいずみはなちょうわきちょうすすむとうかく太守たいしゅ以叛。金城きんじょう太守たいしゅのり討進,これはなくだはなため兖州刺史ししおう淩傳》。

ろくがつからしへい東郊とうこうしょ》曰:公卿くぎょうしょうおうはなぶたきんふし庚午こうごとげみなみせいりゃく》曰:王將おうしょう出征しゅっせいささえちゅうろうはた新平にっぺい霍性じょう踈諫曰:「しん聞文おうあずか紂之ごと天下てんかくく囊無とがめ凡百ぼんぴゃく君子くんし,莫肯よう訊。こん大王だいおうからだそく乾坤けんこんこうひらけよん聦,使つかい賢愚けんぐかくけんしょぶんまわしふくおもんみ先王せんおうこうあずか,而今のうごとこれるいしょうためとく聖人せいじん曰『とく百姓ひゃくしょう歡心かんしん』。兵書へいしょ曰『たたかえ,危事也』以六こく力戰りきせんつよしはたうけたまわへい,豳王そうしゅうどうようきょういい大王だいおう且當じゅう本朝ほんちょう而守其雌,こうとら卧,功業こうぎょうなり。而今刱基,便びんふくおこりへいへいしゃ凶器きょうき,必有きょう擾,擾則思亂おもいみだれらん不意ふいしんいい此危,危於累卵るいらんむかしなつあきらかくれしんさんねんえきゆうどお而復』,ろんゆうはばかあらため』。まことねがい大王だいおう揆古察今,深謀遠慮しんぼうえんりょ與三よそう事大じだいおっと筭其長短ちょうたんしん沐浴もくよく先王せんおうぐうまたはつあらためせいふく重任じゅうにん,雖知げんさわりゅううろこ阿諛あゆきんぶく,竊感しょ誦,危而。」そうどおりみかどいかとげかん就考,竟殺すんで而悔追原おいばら及。

あきなながつかのえたつれい曰:「のきながえ有明臺ありあけだい勛有衢室とえみな所以ゆえんこう詢于也。かん曰:みかどりつあかりだいしゃうえかん於兵也;堯有衢室問者もんじゃしも聽於みん也;しゅんゆうつげ善之よしゆき旌,而主蔽也;禹立けん於朝,而備訴訟そしょう也;ゆうそうまち廷,以觀みん也;たけおうゆうれいだい囿,而賢しゃ進也しんや:此古聖帝せいてい明王みょうおう所以ゆえんゆう而勿しつとく而勿忘也。百官ひゃっかん有司ゆうし,其務以職つきぶんまわし諫,しょうりつひね軍法ぐんぽうちょうあきら制度せいどまきまもるさる政事せいじ縉紳しんしんこう六藝りくげいわれしょうけんらん焉。」

まごけん使つかい奉獻ほうけんしょくしょうはじめたちりつしゅくだたけ氐王楊僕りつしゅじん內附,きょかんぐんりゃくおうひつれい曰:「われまえ使つかいせん國威こくいれい,而達そくらいわれおもんみ春秋しゅんじゅう襃儀ちちそくふうはいたち使つかいかえりょう新城しんじょう太守たいしゅきんふくゆう扶老攜幼くびこう王化おうかしゃわれ聞夙すなみん自縛じばく其君以歸かみみのり,豳國しゅう襁負其子而入酆、鎬,斯豈ほぼせりおびえこれしょ致哉?乃風どう其情而仁義じんぎかん其衷,歡心かんしん內發使しか也。以此而推,西南せいなんはた萬里ばんりそとけん、備將あずかだれもり乎?」

きのえうま軍次ぐんじ于譙,だいきょう六軍及譙父老百姓于邑東。しょ》曰:しつらえ伎樂ぎがくひゃくおどけれい曰:「先王せんおうみならく其所せいれい忘其ほん。譙,霸王くに真人まさとほん,其復譙租稅そぜいねん。」さんろう吏民上壽じょうじゅにちゆう而罷。へいさるおやほこら譙陵。まごもり曰:むかししゃ先王せんおう以孝天下でんか也,內節天性てんせいそとほどこせ四海しかいそんつき其敬,ほろびごく其哀,思慕しぼ諒闇りょうあんよせせい冢宰,曰「さんねん天子てんしたち于庶じん」。おっとしかざいさんこれあつし臣子しんしおんあつし,雍熙これたかし經國けいこくみちかた聖人せいじん所以ゆえんどおり天地てんちあつ人倫じんりんあらわいたりきょうあつし風俗ふうぞく,斯まんせい不易ふえきてん,百王服膺之制也。れいもとかんむり,鄶人ちょ庶見そしおさむくだ朞,なかはつ不仁ふじん歎,頹忘戚,君子くんし以爲らく,魯侯えきふく春秋しゅんじゅう其不おわりあに以墜いたりつう誠心せいしん哀樂あいらくだいふししゃ哉?雖三季之としゆきまつ七雄ななおへいなおゆうはい縗斬於旬ついたちあいだしゃくあさつえ於反哭之しゃ也。逮于漢文かんぶんへんえき古制こせい人道じんどうきの一旦いったん而廢,縗素だつ至尊しそん,四海散其遏密,かん闕於羣后,大化たいか墜於くんおや;雖心そん貶約,おもんばかざい經綸けいりんいたり於樹とくたれごえたかしへんぞくかた以道うす於當ねんふう穨於ひゃくだい矣。且武おうしゅ牧野まきのじんすすむじょうぼく縗而さんそちため俘,おうつとむずみこうふく其焉がいおうすんでついかんせいがえ大禮たいれいしょ莫重あい而設饗宴きょうえんらくきょ貽厥はじめ而墜王化おうかもと,及至受禪じゅぜんあらわおさめじょ,忘其いたり恤以誣先ひじりてん天心てんしん矣,はたなに以終!以知おうよわい遐,ぼくこれ促也。はちがつせき邑縣げんおおとりすめらぎしゅう

ふゆじゅういちがつみずのとれい曰:「しょしょう征伐せいばつ士卒しそつ死亡しぼうしゃある收斂しゅうれんわれ甚哀;其告ぐんこくきゅう槥音まもる櫝殯斂,送致そうち其家,かんためしつらえさい。」漢書かんしょ高祖こうそはちがつれい曰:「士卒しそつ從軍じゅうぐんため槥。」おう劭曰:「槥,しょうかん也,こんいい櫝。」おうひゃくいち曰:「槥車ざい道路どうろ征夫いくおとくきゅう。」りくだいはか曰:「かん細木ほそき而悶おそ,覩洪櫝而ねん槥。」丙午ひのえうまぎょういたりきょく蠡。

かんみかど衆望しゅうぼうざい,乃召羣公卿くぎょう袁宏《かんかんみかどみことのり曰:「ちん在位ざいいさんじゅうゆう,遭天とろけくつがえさいわいよりゆき祖宗そそうれい,危而ふくそんしかおおせ天文てんもん,俯察民心みんしんほのおせいすうすんでおわりぎょううんざい乎曹以前いぜんおうすんでじゅかみ武之たけゆき績,こんおうまたひかり明德めいとく應其おうご歷數れきすう昭明しょうめいしん可知かち矣。おっと大道だいどうこれぎょう天下てんかためこうせんけん與能よのうから堯不わたし於厥,而名播於無窮むきゅうちんとも而慕焉,こん其追かかと堯典,ぜん于魏おう。」つげほこらだかびょう使つかいけん大夫たいふちょうおとぶしたてまつ璽綬ぜんさつ曰:「咨爾おうむかししゃみかど堯禪于虞しゅんしゅんまた以命禹,天命てんめい于常,おもんみ有德うとくかんどうりょうおそせいしつ其序,くだ及朕躬,大亂たいらん茲昏,羣兇肆逆,宇內顛覆てんぷくよりゆきたけおう神武じんむ,拯茲なん四方しほうおもんみきよしなつ,以保綏我宗廟そうびょうあにいちにん乂,俾九ふくじつ受其たまものこんおう欽承ぜんいとぐちひかり于乃とく,恢文武之たけゆき大業おおわざあきらなんじこうひろしれつ皇靈こうれいくだみずにんしんつげちょう,誕惟あきらさいすずちんいのち,僉曰なんじかつ恊于おそれしゅんようりつわがからてんけいへりくだなんじ。於戲!てん歷數れきすうざいなんじ躬,まこと其中,てん祿ろくながおわりくん其祗じゅん大禮たいれいきょう茲萬こく,以肅承天命てんめい。」

けんじみかどでんぜんだいしゅごと曰:ひだりちゅうろうはたふくひょうおう曰:「むかし先王せんおうはつたてたかしこくざいさかいがいしゃ聞之ひつじしんみな以爲はいおうたけ庶、きょうごう羈旅かんちゅういいしん曰:『必爲こう便びんおう也。てい天下てんかしゃ公子こうし桓,かみこれしょいのちとう合符あいふ讖,以應天人てんにんくらい。』しん以合鎮南將軍しょうぐんちょう魯,魯亦といあいしょ所出しょしゅつごう曰:『孔子こうしだまばん也。天子てんし歷數れきすう,雖ひゃくせい可知かち。』月餘げつよゆうほろびじんらいうつしとくさつぶんそつ如合ごうちょう於內がくせきみぎ知名ちめい。魯雖ゆうふところこくしん,沈溺みち變化へんかはて寤合げんこうみつあずかしんさくしつ國人くにびときょうあるよく西通にしどおり,魯即いか曰:『やすしためこうやつ不爲ふためりゅう備上きゃく也。』げんはつ惻痛,まことゆうよししかごうさきむかえ王師おうし往歲おうさいびょうほろび於鄴。しん在朝ざいちょうまい爲所しどころおやせんせつ此意,ゆうよろしどる敢顯ごと殿下でんか即位そくい初年しょねんただしさちしゅみず日月じつげつ而至,ゆういのちてんあきらしかしるみるしか聖德せいとくほらたちひょうあきらじつ乾坤けんこんていけい萬國ばんこくさくまことしんごと慶賀けいがよくげんあいけんごとくんつきれいにん以爲諂。きょうしんめいぎょうけがれ賤,入朝にゅうちょう日淺ひあさげんためざいゆうそもそも而已。いまひろしさわよんひょうれいおんかく天地てんちうみ內翕習,ことかた歸服きふくちょうおうなみしゅう,以揚きゅういのち始終しじゅうまこと臧。しん勝喜かつよしまい,謹具ひょうどおり。」おうれい曰:「以示がいうすき德之のりゆきじんなにのう致此,敢當也;斯誠先王せんおう至德しとくどおり神明しんめいかた非人ひにん力也りきや。」おうさむらいちゅうりゅう廙、からし毗、りゅう曄、尚書しょうしょれい桓階、尚書しょうしょひね矯、ちん羣、きゅうごと黃門こうもんさむらいろうおう毖、ただしぐうとうげん:「しんふく讀左ちゅうろうはたふくじょうことこうぬきげん,以效神明しんめいおう,稽之古代こだいゆうしかしゃ也。堯稱歷數れきすうざい躬,璿璣以明天道てんとうしゅうたけしせん而赤がらす銜書;かん兆而神母告符;こうせん庂微,成木なりきよう光武みつたけ布衣ふいめいやめ勒讖。てんこれしょいのち以著聖哲せいてつゆう言語げんごこえ,芬芳においとく知也ともやかちけんぞう以示じんほろもの以效みみかんとくおとろえややしみすうせい,桓、れいすえすめらぎごくけん,曁于大亂たいらんじゅうねんてん泯,誕生たんじょうあかりきよし,以濟其難,以符讖先ちょ,以彰至德しとく殿下でんか踐阼朞,而靈ぞうへん于上,羣瑞おう于下,四方しほう不羈ふきみん歸心きしんむかいよしただ懼在,雖典せき所傳しょでんわかいまもり也。しんわらわ遠近えんきん,莫不けり。」おうれい曰:「すきうし駮似とら,莠之よう禾,ことゆう而非しゃ今日きょう矣。覩斯げんごと良重よしえわれ不德ふとく。」於是尚書しょうしょぼくしゃ宣告せんこくかんりょう使つかい聞知ぶんちからしふとしすすむもとしばじょうだいかん讖緯於魏おう曰:「えきでん曰:『聖人せいじん受命じゅめい而王,りゅう以戊日見ひみ。』なながつよんにちつちのえとら龍見たつみ,此帝おう受命じゅめいみずさいちょあかりしゃ也。また曰:『はつろくくつしもかげはじめしこり也。』またゆうせきちゅう大穴おおあな天子てんしみや,厥咎しかこん蝗蟲ばったおう也。また曰:『聖人せいじん以德おや天下でんかひとしおんあまねひろし,厥應麒麟きりん以戊おのれにちいたり,厥應聖人せいじん受命じゅめい。』また曰:『聖人せいじん清淨せいじょうぎょう中正ちゅうせい賢人けんじんぶくいたりみんしたがえいのち,厥應麒麟きりんらい。』《春秋しゅんじゅうかん含孳》曰:『かん以魏,以徵。』《春秋しゅんじゅうだまばん讖》曰:『だいあかしゃ公子こうし。』《春秋しゅんじゅう佐助さすけ》曰:『かん以許あきらしつ天下でんか。』白馬はくばれい雲上うんじょうごと曰:『もとあきら於當ぬりだかとうぬりだかしゃとうあきら於許。』とうぬりだかしゃ也;ぞうしゃりょうかん是也これやとうみち而高だいしゃ當代とうだいかんこんもとあきら於許,かんちょうぜっ於許,乃今こう,如李くもげんもとあきら相應そうおう也。《佐助さすけまた曰:『かん以蒙まごほろび。』せつしゃ以蒙まごかんじゅうよんみかど童蒙どうもう昏,以弱ほろびある雜文ざつぶんためこうむ其孫とうしつ天下でんか,以爲かんみかど正嗣まさつぐ少時しょうじためただしこうめい不正ふせいこうむらんあら惑,其子孫しそん以弱ほろび。《こうけいちゅう讖》曰:『ひがしぜっこうよこいちせい聦明。よんひゃくこれがいえきせい而王。天下てんかこう,致太ひらめきょはちかぶとども禮樂れいがくせい萬民ばんみんよしみらくざつ。』此魏おうせいいみなちょ讖。《えきうん讖》曰:『げんきょひがし西にしゆううまりょう日並ひなみこうきょ。其爲ぬしはんため輔。はちよんじゅう氣受きうけ真人しんじん。』げんうまもと兩日りょうじつあきらかんとう以許ほろびとう以許あきら今際いまわかいこれざいもと其大こう也。《えきうんまた曰:『おにざいやま,禾女連うなつらおう天下でんか。』しん聞帝王者おうじゃぎょうしらげえきせいだいきょうかい,以ななひゃくじゅうねんためいち軌。有德うとくしゃこれいたり於八ひゃくとくしゃ及,いたりよんひゃく以周はちひゃくろくじゅうななねんなつよんひゃくすうじゅうねんかんぎょうなつただしまでいまよんひゃくじゅうろくさいまた高祖こうそ受命じゅめいかず雖起乙未おとみしか其兆徵始於獲麟。以來いらいななひゃくねんてん歷數れきすうはた以盡おわり帝王ていおうきょうつねいちせいふとほろなかみかどすわ常明つねあき,而赤みかどすわつね,以爲きょう而赤おとろえきょうほろびやや以來いらいよんじゅうねんまた熒惑しつしょく不明ふめいじゅう有餘ゆうよねんけんやすじゅうねん彗星すいせいさきじょむらさきほろじゅうさんねんふく掃太ほろしん天子てんし東南とうなん以來いらいじゅうさんねん白虹はくこうぬき月蝕げっしょく熒惑,ねんおのれみずのえ丙午ひのえうま日蝕にっしょくみなすいめつぞう也。殿下でんか即位そくいはつ踐阼,とくはい天地てんち行合ゆきあい神明しんめい恩澤おんたくみつる溢,こうよんひょうかく上下じょうげ以黃りゅうすうおおとりすめらぎ仍翔,麒麟きりんみな臻,白虎びゃっここうひとし前後ぜんごけんじ於郊甸;甘露かんろ醴泉,じゅうかみぶつしゅうみずなみ。斯皆帝王ていおう受命じゅめいえきせい也。むかしみかど受命じゅめいふうきさき受河しゅん、禹有天下でんかおおとりすめらぎしょうらくしょおう白鳥しらとりためぶんおうため西伯さいはくあかとり銜丹しょおういん白魚しらうおますぶね高祖こうそはじめおこりしろ虵爲ちょうきょあと瑞應ずいおうみなため聖人せいじんきょうかんかん前後ぜんこうだいわざわいこん茲之みず,察圖讖之うん,揆河らくこれしょ甄,わかこんだいさい美也みやおっととくとしほししゃみちはじめきょうむかしおういんとしざいうずらゆうしゅう分野ぶんや也。高祖こうそにゅうはたほし聚東有漢うかん分野ぶんや也。こん茲歲ぼしざいだいはりゆう分野ぶんや也。而天瑞應ずいおうなみしゅうらい臻,四方しほう,襁負而至,兆民ちょうみん欣戴,咸樂よしみけい。《春秋しゅんじゅう大傳だいでん》曰:『しゅうこうなん以不魯?ぶた以爲雖有つぎたいもりぶんきみがい聖人せいじん受命じゅめい而王。』しゅうこうはんせいしかばね以爲孔子こうしこれ,以爲しゅうこうきよし不爲ふため兆民ちょうみん也。きょうぼうさくえきでん曰:『凡爲王者おうじゃ惡者わるものこれ弱者じゃくしゃだつこれえきせい改代かいたい天命てんめいおうつねにんはかりごと鬼謀きぼう百姓ひゃくしょう與能よのう。』ふくおもんみ殿下でんかたい堯舜もりあきら,膺ななひゃくこれぜんだいとう武之たけゆきうん,值天いのちうつり授,かわらくしょひょう所載しょさい,怛然明白めいはく天下てんか學士がくししょども也。しんしょくざい史官しかんこう察徵,讖效際會さいかいこれ,謹以上聞じょうぶん。」おうれい曰:「むかししゅうぶんさんふん天下でんかゆう其二そのじ,以服ごといんなか歎其至德しとくこうだんくつ天子てんしせき,聽天下之したのだんおわりしかふくあきら辟,しょ其人。われ雖德及二きよし,敢忘高山こうざんけいぎょう義哉よしやわかおっとから堯、しゅん、禹之あとみな以聖しつ茂德しげのりしょのうじょう和靈われい祇,したやすしまんせいりゅうたたえ今日きょうこんわれとくいたりうす也,にんいたりひな也,遭遇そうぐう際會さいかいこううけたまわ先王せんおうあまりぎょうおん四海しかいさわ及天,雖傾くら竭府以振こく百姓ひゃくしょうなおかんしゃつき煖,ひだるしゃつき飽。夙夜ゆう懼,どる敢遑やすし,庶欲保全ほぜんかみちょうもり今日きょう,以沒于地,以全こく下見したみ先王せんおう,以塞負荷ふかせめもちせまこころざしきょくまもり此而やめ。雖屢蒙祥瑞しょうずいとうこれせん惶,五色ごしき無主むしゅわか芝之しばのげんあにところ聞乎?こころ慄手悼,しょなり不宣ふせんしんわれあいだ作詩さくし曰:『らん悠悠ゆうゆう白骨はっこつしたがえよこまんあいあいみん靡恃,われはた整理せいりふくあきら致仕ちし。』庶欲もり此辭以自おわりそつ虛言きょげん也。むべせんしめせ遠近えんきん使つかいあきら赤心せきしん。」於是さむらいちゅうからし毗、りゅう曄、つねさむらいでんたつみまもる臻、尚書しょうしょれい桓階、尚書しょうしょひね矯、ちん羣、きゅうごとちゅう博士はかせじょうりんただしともえとうそう曰:「伏見ふしみふとしすすむもとしばじょうこく受命じゅめい令書れいしょ懇切こんせつまこと謙讓けんじょう,雖舜、禹、ぶんよし以過。しか先哲せんてつおうしょ以受天命てんめい而不しゃまこときゅう遵皇てんふく兆民ちょうみんもちどるとくやめ也。且易曰:『かん天文てんもん以察へんかん人文じんぶん化成かせい天下でんか。』また曰:『てんたれぞう吉凶きっきょう聖人せいじんそく河出かわでらくしょ聖人せいじんこう。』以爲天文てんもんいんじん而變,いたり於河らくこれしょちょ于洪はんすなわちいんしゅうこう而用矣。斯言,まこと帝王ていおうあかり天道てんとう大要たいよう也。以由とくおうろくしゃだいきょう於前,しつどうすうつきしゃ迭廢於後,つてそし萇弘よくささえてんこれしょ壞,而說蔡墨『かみなりじょういぬいこれせつ明神みょうじん存亡そんぼう人力じんりきしょのう逮也。こんかんしつおとろえかえみかどつな墮墜,天子てんしみことのり,歇滅聞,すめらぎてんはた捨舊而命しん,百姓旣去漢而爲魏,あきらしかしるあきら知也ともや先王せんおうばちらんひらはたたてひろしもといたり於殿,以至德しとくとう歷數れきすううん即位そくい以來いらいてんおう人事じんじつばらしかだい備,神靈しんれいせきけん往古おうこきゅうしるしよしみちょうまたがえつ前代ぜんだいしばしょちゅううんせいぬき讖,斯文しぶん乃著於前世ぜんせいあずかかんなみよしごと天命てんめい乆矣,殿下でんか所得しょとく而拒也。神明しんめいこうもち禋享,兆民ちょうみん顒顒,咸注よしみねがいおもんみ殿下でんからんせき明文あきふみきゅう天下てんか公義きみよし,輒宣れいがい內,布告ふこくしゅうぐん使つかいいのちちょあきら,而殿謙虛けんきょ。」れい曰:「した四方以明孤款心,是也これやいたり於覽あまりやめあに所謂いわゆる哉?やすししょこらえ哉?しょきょうゆびろんわかわれりょう審也しんやおっときょだん謬稱,ひなうすしょどるとう也。且聞らい東征とうせいけいこおりけんれき屯田とんでん百姓ひゃくしょうめんゆうひだるしょくころもあるたん褐不かんつみみなざい以上いじょう慙衆みずしも士民しみんよし斯言とくひさしこらえへんおうなんことみかどしゃ也!むべとめいき此議,じゅうわれ不德ふとく使つかい逝之愧後君子くんし。」みずのとうし宣告せんこく羣寮。とくぐんちゅうすすむ司馬しば懿、さむらいてい渾、ひつじひめあわび勛、武周ぶしゅうとうげん:「れい如左。ふく讀太すすむもとしばじょういのちごとしんとう聞有からおとろえ天命てんめいざいおそれおそれおとろえ天命てんめいざいなつしかのり天地てんちれい歷數れきすううん去就きょしゅうおもんみとく所在しょざい孔子こうし曰:『おおとりとりいたりかわ不出ふしゅつわれやめ矣夫!』こんかんしつおとろえやすかずおきしつ以來いらいくにすべ屢絕,桓、れい荒淫こういん祿ろくおおやけしつ,此乃天命てんめい去就きょしゅう一朝一夕いっちょういっせき,其所由來ゆらい乆矣。殿下でんか踐阼,至德しとくこうかく上下じょうげ天人てんにん感應かんおうみずなみ臻,こうきゅうゆうわか今日きょうもりおっと大人おとなしゃ先天せんてん而天どるたがえ後天こうてん奉天ほうてんてんやめいたり而猶謙讓けんじょうしゃしゅん、禹所不爲ふため也,せいみんこうむ救濟きゅうさいめぐみ,羣類受育ちょうほどこせこん八方はっぽう顒顒,大小だいしょうちゅうもちすめらぎてん乃眷,神人しんじんどうはかりごと,十分而九以委質,しゅうぶん所謂いわゆるきょう也。しんわらわ上下じょうげふくしょ不安ふあん。」れい曰:「これしょ不足ふそくしゃどう義也よしや所有しょゆうあまりしゃ苟妄也;常人じょうじんせい,賤所不足ふそく所有しょゆうあまり曰『患無,患所以立』。雖寡とく,庶自めん於常じんとうとおっといしやぶ不可ふかだつけんたんすり不可ふかだつあか』。せきほろものなお斯質,きょうわれたく士人しじんすえれつ,曾受きょう君子くんし哉?且於陵子りょうこなか以仁ためとみかしわ成子なるこだか以義ためとうとあわびこげかんみつぎげん,棄其蔬而けやきたきぎしゃそしさつしつやめみなじゅう而弗われどく何人なんにんむかししゅうたけし大聖たいせい也,使つかい叔旦めいにかわ鬲於よん內,使つかいこう召約ほろ於共あたまはくえびす、叔齊しょうあずかわらい曰:『むかしかみみのりゆう天下でんか以人壞自なり以人卑自だか。』以爲しゅういん以恭也。われとくしゅうたけし而義慙夷、ひとし,庶欲どお苟妄しつどうたてせきだつ,邁於りょうところとみ,蹈栢成之しげゆきところたかあわびこげさだいたり,遵薪しゃしんぶし曰:『三軍さんぐんだつそち匹夫ひっぷ不可ふかだつこころざし。』われ斯志,あにだつ哉?」おつさつみことのりおうぜんだい天下でんか曰:「おもんみのべやすし元年がんねんじゅうがつおつ皇帝こうてい曰:咨爾おうおっと命運めいうんいややすしとくますくださんだいぼくねんちょ春秋しゅんじゅう以天いのち于常,帝王ていおういちせい由來ゆらいなお矣。かんどうりょうおそためやめ乆,やすじゅんやめせいしつ其序,おきしつたん祚,三世さんぜ嗣,すめらぎつなはじめ虧,みかどてん頹沮。曁于ちん躬,てんくだこれわざわい,遭無妄厄うんかい,值炎せいかそけ昧之へんきょう輦轂,わざわいよし閹宦。ただしたくじょう釁,あく甚澆、𤡬,こう遷省ふとぼくみやびょうとげ使九州きゅうしゅうはばきれつよしてきとらそうはななつかなえにえまむしへびふさがみちとう斯之尺土しゃくどふくかんゆう,一夫豈復朕民?さいわいよりゆきたけおういさお膺符うん,奮揚神武じんむ,芟夷兇暴きょうぼうせいじょうなつ乂皇こんおう纘承ぜんいとぐち至德しとく光昭みつあき衡不迷,ぬのとくゆうとおこえきょう四海しかいじんふうおうぎおに四方しほうこうちんにんしんひびきおうてん歷數れきすう實在じつざいしか躬。むかしおそれしゅんゆう大功たいこうじゅう,而放くんぜん以天だい禹有疏導績,而重はなぜん以帝かんうけたまわ堯運,ゆうでんきよしよしじゅんれい祇,紹天明てんめいいのち,釐降じょ,以嬪于魏。使つかい使ぶしぎょう大夫たいふごとふとしつねおとたてまつ皇帝こうてい璽綬,おう其永くん萬國ばんこくたかしてんまこと其中,てん祿ろくながおわり敬之たかゆき哉?」於是尚書しょうしょれい桓階とうそう曰:「かん天子てんしぜん陛下へいか陛下へいか以聖あかりとく歷數れきすうじょうけたまわかんぜんまこととう天心てんしんおっと天命てんめいどるとくやめ,兆民之望弗可得違,しん請會列侯れっこうしょしょう、羣臣陪隷,はつ璽書,じゅん天命てんめい禮儀れいぎれつそう。」れい曰:「とうおわり不當ふとううけたまわこれ而已。なおりょうかえかたゆうれい。」尚書しょうしょれいとうまたそう曰:「むかし堯、しゅんぜん於文いたりかん,以師せい受命じゅめいかしこてん敢怠遑,便びん即位そくい行在所あんざいしょこんとう受禪じゅぜんだいめいじむべかいひゃくりょう羣司,ろくぐんみなざいくだり使つかい咸覩天命てんめい。營中促狹,於平たかししょしつらえだんじょうたてまつ荅休いのちしん輒與さむらいちゅうつねさむらい會議かいぎ禮儀れいぎふとし史官しかん吉日きちじつ訖,ふくそう。」れい曰:「われこと敢當そとまたなにごと也!」さむらいちゅうりゅう廙、つねさむらいまもる臻等そう曰:「かん遵唐堯公天下でんか陛下へいか聖德せいとく膺歷すううん天人てんにんどう忻,靡不とくしょむべじゅんれいそく踐皇阼。といたいすすむもとしば今月こんげつじゅうななにちおのれむべなり受禪じゅぜんいのち,輒治だん場之ばのしょしょとう施行しこうべつそう。」れい曰:「ぞく見外けんがい便びんしつらえだんじょう,斯何いい乎?こんとうゆずる受詔也。ただし於帳まえはつ璽書,威儀いぎ如常,且天かんやめさくだん使。」すんではつ璽書,おうれい曰:「とう奉還ほうかん璽綬ためゆずるあきらわれあにたてまつ此詔うけたまわ此貺よこしまむかし堯讓天下でんか於許ゆかりしゅうささえはじめしゅんまたゆずる於善まき石戶いしどのうきたじんある退すさ而耕潁之ある以幽これやましあるとお入山にゅうざんりん,莫知其處,ある攜子入海いりうみ終身しゅうしんはんある以爲はずかしめとう深淵しんえん;且顏しょく懼天なぐこれかんまもり知足ちそくあかりぶん王子おうじさがせらくあなせんしょ熏而不出ふしゅつ柳下やぎしためぐみ以三公之貴易其介,曾參以晉、すわえとみえき其仁:斯九しゃ,咸高ぶし而尚よしけいとみ而賤とうと書名しょめい千載せんざい,于今しょう焉。もとめじんとくひとしひとしあにざいとお孤獨こどくなんため如哉?よしゆう東海とうかい而逝,たてまつかんちょうみことのり也。亟爲うえあきらかえ璽綬,宣之のぶゆき天下でんか使つかい咸聞焉。」おのれ宣告せんこく羣寮,したまた下天下しもてが。輔國將軍しょうぐんきよしえんこうりゅうわかとうひゃくじゅうにん上書うわがき曰:「ふく讀令しょふかかつゆずるせいこん惻,至誠しせいがいあきらしんとうゆうしょ不安ふあん何者なにもの石戶いしどきたじん匹夫ひっぷきょう狷,ぎょうごうよしことけいしゃ以史遷謂しかまことひじりあきらしょとうまれ慕。且有おそれぎゃく勛之ぜんなつ禹亦これつて曰:『しゅんのぼる帝位ていいわか固有こゆう。』斯誠せい人知じんち天命てんめい不可ふかぎゃく歷數れきすうどる也。ふくおもんみ陛下へいかおういぬいうん至德しとくはつ聞,しょうあきら于天,さんれいくだみずにんしん以和,きゅうちょう雜沓ざっとう萬國ばんこくひびきおう,雖欲勿用,はた焉避?而固執こしつ謙虛けんきょたがえてんぎゃくしゅ,慕匹夫ひっぷ微分びぶんうえきよしこれしょ蹈,たがえけい讖之明文めいぶんしんじひゃく穿鑿せんさく所以ゆえんたてまつ荅天いのちひかり衆望しゅうぼう也。しんとう昧死以請,輒整頓せいとんだんじょういたり吉日きちじつ受命じゅめい,如前そう分別ふんべつうつしれい宣下せんげ。」おうれい曰:「むかしかしわ成子しげこだかなつ禹而匿野,かお闔辭魯幣而遠あとおっと以王しゃおも諸侯しょこうとうと,而ゆるがせなにそく?其節だか也。烈士れっし徇榮めい義夫よしお高貞たかさだかい,雖蔬しょくひさごいんらくざい其中。以仲あまおう駘,而子さんよしみさるこんしょきょうみな股肱ここう腹心ふくしんそく以明,而今咸若斯,のりしょきょうゆう形骸けいがい內,而孤もとめため形骸けいがいそと,其不相知おうちあしかい。亟爲うえあきらかえ璽綬,勿復紛紛ふんぷん也。」輔國將軍しょうぐんとういちひゃくじゅうにんまたそう曰:「しん聞符いのちきょしゅうこころどるたがえ孔子こうし曰:『しゅうこう其爲せい乎?以天ゆずる天地てんち日月じつげつけい萬物ばんぶつ也。』以舜嚮天はい受命じゅめいこんとくつき炎上えんじょうすうおわりみかど明德めいとく,祚隆だいみずあきら晢,受命じゅめいすんでかたひかりてんした神人しんじんどうおう,雖有おそれおおとりなりしゅうおどさかな方今ほうこんことあし以喻。而陛たがえ天命てんめい以飾しょうぎょうぎゃく人心じんしん以守わたしこころざしうえ忤皇穹眷いのちむねちゅう忘聖人達ひとたちぶしすう人臣じんしん翹首もち所以ゆえんあげひじり道之みちゆきだか衢,じょう無窮むきゅう懿勳也。しんとう聞事ききごとくんゆうけんじがえみちたてまつうえゆう逆鱗げきりんかたそうよししんとう敢以請。」れい曰:「太古たこ聖王せいおう也,至德しとくあい乾坤けんこん惠澤けいたくひとし造化ぞうかれいきょうゆう乎昆ちゅうひとしおんあまね草木くさき日月じつげつしょあきら,戴天くつ含氣有生ゆうせいるい,靡不被服ひふく清風せいふう沐浴もくよくげんとく以金かわおこり,苛慝不作ふさく風雨ふううおうぶしただしさちさわるい而見。こん百姓ひゃくしょうかんしゃだんひだるしゃ飽,鰥者しつ,寡者よめけん、備尚そんまい以干戚,ぽうはたせい以齊おのえびすやくいき於外,士民しみんやす於內,みみ未聞みもん康哉こうさいうた覩擊壤之おどけ嬰兒えいじたく於高あまりかて以宿於田畒:人事じんじ備,いたり如此也。よる曜景ぼしつう真人しんじんかわ龍馬りょうまやまぞうしゃ,蓂莢うえかいぬり,萐莆未生みしょう庖廚,おうははけんじはくたまきみぞさがせ未見みけんちん裘:れいみずこうまた如彼也。むかしひがし季子としこようなり大庭おおばのきながえ、赫胥きみ,咸得以此就功勒名。こんしょきょうどく不可ふかしょうかりせいこころ竭慮,以和天人てんにん,以格いたり使つかいかれしゅごと備,羣瑞こうしかこうやす乃議此乎,なに遽相愧相せり如是にょぜ也?はやためゆずるあきらうえかえ璽綬,じゅうわれ德也とくや。」さむらいちゅうりゅう廙等そう曰:「ふくおもんみ陛下へいか大聖たいせいじゅん懿,とう天命てんめい歷數れきすうかん天象てんしょうそくみずほちょあきらこうぬきそく文義ふみよし煥炳,察人事じんじそく四海しかいひとしこころ,稽前だいそくどう;而固こばめぜんいのち踐尊せいこん惻,しんとう敢不たてまつみことのり?輒具あきら使者ししゃ。」たてまつれい曰:「たいはく三以天下讓,にんとく而稱焉,なか歎其至德しとく孤獨こどく何人なんにん?」庚申こうしんおう上書うわがき曰:「皇帝こうてい陛下へいかたてまつ今月こんげつおつ璽書,ふく聽冊いのち內驚ふるえせい爽散えつ不知ふちしょしょしんまえじょうかえあいくらい退すさもりはんこく聖恩せいおん聽許ちょうきょしん雖無古人こじんりょうとく定之さだゆきこころざしおのれそんせいじつ其私ねがい寤陛猥損謬之いのちはつみことのり,以加德之のりゆきしん。且聞堯禪じゅうはな,舉其かつ諧之とくしゅん授文いのちさい其齊ひじりよしなおしも咨四だけうえかん璿璣。こんしんとくおそれなつぎょうくん,而承歷數れきすうはかおうせん授之いのち,內自揆撫,とく以稱。且許よし匹夫ひっぷなおこばめ帝位ていいぜんまき布衣ふい,而逆おそれみことのりしん雖鄙蔽,敢忘もりぶし以當大命たいめいかちいたりねがい。謹拜あきら陳情ちんじょう使つかいぎょう相國しょうこく永壽えいじゅしょう糞土ふんどしんもうはじめかなで,并上璽綬。」からしとりきゅうごとちゅう博士はかせりんただしともえ上表じょうひょう曰:「てんゆうじゅう以爲分野ぶんや王公おうこうくにかくゆう所屬しょぞくしゅうざいうずらざいだいはりとしぼしぎょうれきじゅうこく天子てんし受命じゅめい諸侯しょこう以封。しゅうぶんおうはじめ受命じゅめいさいざいうずらいたりたけおうじゅうさんねんさいほしふくざいうずら春秋しゅんじゅうでん曰:『たけおう紂,さいざいうずら歲之としゆき所在しょざいそくわがゆうしゅう分野ぶんや也。』むかし光和こうわななねんとしざいだいはりたけおうはじめ受命じゅめいためはた討黃はばとしあらためねんため中平なかひら元年がんねんけんやす元年がんねんさいふくざいだいはりはじめはい大將軍だいしょうぐんじゅうさんねんふくざいだいはりはじめはい丞相じょうしょういまじゅうねんさいふくざいだいはり陛下へいか受命じゅめい。此魏とくとしあずかしゅうぶんおう受命じゅめい相應そうおう今年ことしあおりゅうざいかのえ推度わざわい曰:『かのえしゃさら也,しゃしげる也,せいいのち天下でんか。』また曰:『王者おうじゃぬのとく於子,治成はるしげ於丑。』此言今年ことしてんさらいのち聖人せいじん制治せいじ天下でんかぬのとく於民也。以改せい天下でんかあずかとききょう矣。顓頊受命じゅめいさいざいいのこ韋,まもるきょ其地,またざいいのこ韋,春秋しゅんじゅうでん曰:『まもる,顓頊墟也。』こんじゅうがつけんのり顓頊受命じゅめいぶん也,はじめじゅうがつ受禪じゅぜん,此同始祖しそ受命じゅめいけん也。氏族しぞく出自しゅつじ顓頊,あずかしゅんどう春秋しゅんじゅうしゅん以土とくうけたまわ堯之いまたかしまた以土とくうけたまわかん,於行うんかい於堯しゅん授受じゅじゅつぎしん聞天去就きょしゅう固有こゆうつねぶん聖人せいじんとうこれあきらしかうたぐ堯捐骨肉こつにく而禪ゆうおそれおわり恡色,しゅんはつ壠畒而君天下でんかわか固有こゆう,其相受授,あいだかえ天下でんかやめでん矣,所以ゆえんきゅう天命てんめい天下てんか不可ふかいちにちくん也。こんかんうんやめおわり妖異よういぜっやめしん陛下へいか受天めいじみずつげちょう丁寧ていねいしょう悉,反覆はんぷく備至,雖言語げんごしょう喻,以代此。こんすんではつ詔書しょうしょ,璽綬固執こしつ謙讓けんじょううえぎゃく天命てんめいしたたがえ民望みんぼうしん謹按いにしえ典籍てんせきまいり以圖ぬきこれぎょううん及天どう所在しょざいそくみことけんざい今年ことし此月,あきら分明ふんみょうただ陛下へいか遷思えきおもんばか,以時即位そくいあらわつげ天帝てんてい而告天下でんかしかこう改正かいせいついたちえきふくしょく正大せいだいごう天下てんか幸甚こうじん。」れい曰:「凡斯みなむべ聖德せいとく曰:『苟非其人,みちきょぎょう。』てんみず雖彰,須德而光;われとくうすこれにんえびすあし以當いまゆずる,冀見聽許ちょうきょそと內咸使聞知ぶんち。」みずのえいぬさつみことのり曰:「皇帝こうていといおうげんむねたてまつ庚申こうしんしょいたしょたたえ引,聞之。ちんおもんみかんじゅうねんよんひゃくうんしゅうすうおわりぎょう祚已訖,天心てんしんやめうつりちょう民望みんぼうぜってんこれしょはいゆうらい矣。こん大命たいめいゆうしょ底止ていし神器じんぎとう聖德せいとくたがえてん不順ふじゅんぎゃくしゅう不祥ふしょうおう其體ゆうおそれ盛德せいとくおう歷數れきすうよしみかい以禎さちよし讖表ろく神人しんじんどうおう受命じゅめい咸宜。ちんかしこ上帝じょうてい,致位于王;てん不可ふかたがえしゅう不可ふかこばめ。且重はなぎゃく堯命,だい禹不しゅんわかおっとゆかりまき匹夫ひっぷせいせきかたすめらぎざいみかどしょとうしょう慕。こん使つかいおんたてまつ皇帝こうてい璽綬,おう其陟帝位ていいぎゃくちんいのち,以祗奉天ほうてんしん焉。」於是尚書しょうしょれい桓階とうそう曰:「こんかん使おんたてまつ璽書いたしんとう以爲天命てんめい不可ふか稽,神器じんぎ不可ふか瀆。しゅうたけし中流ちゅうりゅうゆう白魚しらうおおうまち而大ごうやめけんしゅん受大ふもとくわかげうつり而已のぼる帝位ていいみな所以ゆえん祗承天命てんめいわか此之そく也。かたゆずるよし以守ぶしためとうと,必道しん於神れい符合ふごう於天而已。えき曰:『其受命じゅめい如響,ゆう遠近えんきんかそけふかとげ知來ちらいぶつ天下てんかいたり賾,其孰のうあずか於此?』こん陛下へいかおううんすうためすめらぎてん所子ところご,而復稽滯於辭ゆずる低回ていかい於大おだいごう所以ゆえんそく天地てんちみちふく萬國ばんこくもちしんとう敢以請,輒勑有司ゆうしおさむだんじょう吉日きちじつ受禪じゅぜんいのちはつ璽綬。」れい曰:「冀三讓而不見聽,なん汲汲きゅうきゅう於斯乎?」甲子きのえねおう上書うわがき曰:「たてまつ今月こんげつみずのえいぬ璽書,じゅうせいいのちふく聽冊つげ肝膽かんたんせん悸,不知ふちしょ措。天下てんか神器じんぎぜんだいじゅうこと堯將ぜんしゅんおさめ于大ふもとしゅんいのち禹,げんけいつげこう烈風れっぷう迷,九州きゅうしゅう攸平,詢事こうごとしかこう乃命,而猶謙讓けんじょう于德嗣。きょうしん頑固がんこしつひじり,乃應てんすべ,受終あかりみことのり;敢守ほろふしかえりこころざし箕山みのやま勝大かつおおねがい。謹拜ひょう陳情ちんじょう使つかい并奉じょう璽綬。」さむらいちゅうりゅう廙等そう曰:「しんとう聖帝せいていたがえ明主めいしゅぎゃくじんえきしょうどおり天下でんかこころざしだん天下でんかうたぐふくおもんみ陛下へいかたいゆうおそれうえきよしうけたまわ德之のりゆきぎょううんとう陽明ようめい夷之えびすのかいおうかん祚終すうごうちぎりすめらぎごくどうりょう以聖みず表徵ひょうちょう天下てんかどうおうれきうん去就きょしゅう深切しんせつちょあかりろん天命てんめい所與しょよ時宜じぎ所與しょよそう受命じゅめいこれしんにち晏,曜靈ほどこせこうきゅうくもふけ乃天どう恱懌,民心みんしん欣戴,而仍閉拒,於禮なんきょ?且羣せい不可ふかいちにち無主むしゅ神器じんぎ不可ふか以斯須無すべしんゆうたがえきみ成業せいぎょうしもゆう矯上以立ごとしんとう敢不じゅう以死請。」おうれい曰:「天下てんか重器じゅうき王者おうじゃ正統せいとう,以聖德せいとくとうこれなおゆう懼心,われ何人なんにん哉?且公卿くぎょういたりとぼしおも,斯豈小事しょうじ,且宜以待かたゆずるこれ,乃當さら其可みみ。」ちょうしげるさつみことのりおう曰:「てん訖漢祚,たつぞうちょあきらちん祗天いのち,致位于王,仍陳歷數れきすう於詔さつ,喻符うん於翰すみ神器じんぎ不可ふか以辭こばめ皇位こうい不可ふか謙讓けんじょう,稽於天命てんめいいたり于再さん。且四海しかい不可ふかいちにち曠主,萬機不可以斯須乏統,けんだい業者ぎょうしゃかかわ小節しょうせつ天命てんめいしゃ繫細ぶつ以舜受大ぎょういのち而無へりくだゆずるやめ聖人せいじんたちぶしまたどお乎!こん使つかいおんたてまつ皇帝こうてい璽綬,おう其欽承,以荅天下でんか嚮應もち焉。」相國しょうこくはな歆、ふとしじょう賈詡、大夫たいふおうあきら及九卿上言曰:「しんとう召到,伏見ふしみふとしすすむもとしばひだりちゅうろうはたふくしょじょう讖、いのちさむらいちゅうりゅう廙等せんじょしゅしんにんれいどうはかりごとまたかんちょう陛下へいかひじりどおり神明しんめい聖德せいとくさん于虞、なついんみずおう備至,聽歷すう所在しょざいとげけんじ璽綬,かたゆずる尊號そんごうのうごとりん,莫不抃舞,かわらくしょ天命てんめい瑞應ずいおう人事じんじ恊于てんみんげん恊于てんじょ。而陛せい秉勞けんからだなおかつゆずるあきらみことのり懇切こんせつ聽許ちょうきょしんわらわ小人こども,莫不邑。しんとう聞自及今,ゆう天下てんかしゃつねざい乎一せいこう以德ぜいのり盛衰せいすいざい乎彊じゃくろん終始しゅうしのりはいきょうざい乎期うんとうおそれ歷數れきすう不在ふざい厥子而在しゅん、禹。しゅん、禹雖ふところかつゆずるせり,羣后たま帛而あさ,兆民懷欣戴而歸之,率土そっとあげ謌謠而詠其守ぶしかかわ不可ふかとく而常しょたちぶしこれけん不可ふかとく而乆避;以或へりくだくらい而不𠫤,ある受禪じゅぜん而不やめ𠫤しゃ未必みひついやすめらぎちょうしゃ未必みひつ渴帝祚,かくせり天命てんめい而不とく以已。すんでぜんこれのりとうため賔于ゆうおそれおそれかぶとためきゃく于夏だいしかのりぜんだいよしどく受之しゃじつおう天福てんぷく,授之しゃまたあずかゆう餘慶よけい焉。かんあきら和之かずゆきせいおおへんやや以陵おそ,洎乎こうれいつね其心,しいたげけんがいひとし,聚斂せいざい嬖豎,みん如讎,とげれい上天じょうてんふるえいか,百姓從風如歸;當時とうじのり四海しかいかなえにえすんでぼつのりはつみやにわちょうぜいなみ竭,帝室ていしつとげ卑,わかざいみかどしゅん末節まっせつなお聖代せいだい而授,荊人だきだま璞,なおおもえ良工りょうこう而刊きょう漢國かんごく旣往きおう,莫之のうただし,推器うつりくん聖哲せいてつかた其宜也。かんちょうしつすんでねがいぜんれいはやてい也,てん率土そっと,必將ゆうぬしぬし率土そっとしゃ陛下へいか其孰のうにん所謂いわゆるろんとくあずかためこうこう推讓矣。天命てんめい不可ふかひさ稽,民望みんぼう不可ふかひさたがえしんとう慺慺,勝大かつおおねがいふく請陛わり撝謙こころざしおさむ受禪じゅぜんれいふくひとしん,慰外內之ねがい。」れい曰:「以德そく不足ふそく,以時そくえびすとりこめつわか以羣けんれいとく首領しゅりょうおわりくんこく,於孤あし矣。わかしゃえびすあし以辱四海しかいいたり乎天みず人事じんじみな先王せんおう聖德せいとくのこけいなんゆう焉?以未敢聞いのち。」おのれおう上書うわがき曰:「しん聞舜ゆう賔于よんもんくん,乃受禪じゅぜん于陶とう,禹有そんこくななひゃくこれこう,乃承祿ろく於有おそれしん以蒙蔽,とくひじり,猥當てんすべ敢聞いのち。敢屢こう疏,りゃくひねわたしねがい,庶章どおりむらさきにわとくぜんほろふしじょうたち宸極,永守ながもり本志ほんし。而音じゅうふく銜命,さるせいみことのりしんしん實戰じっせん惕,不發ふはつ璽書,而音はさま於嚴みことのり復命ふくめいねがい陛下へいかはせでん騁馹,召音かえだいかち至誠しせい,謹使むね奉書ほうしょ。」相國しょうこく歆、ふとしじょう詡、大夫たいふろう及九きょうそう曰:「しんとうふく讀詔しょ,於悒えき甚。しんとう聞易しょう聖人せいじん奉天ほうてん論語ろんごうん君子くんしかしこ天命てんめい天命てんめいゆう去就きょしゅうしかこうみかどしゃゆうぜんだい以唐ぜんおそれいのちざいなんじ躬,おそれじゅんとういい受終;堯知天命てんめいおのれとくぜんしゅんしゅん歷數れきすうざい躬,敢不受;とくぜん奉天ほうてん也,敢不受,かしこ天命てんめい也。かんちょう雖承まつりょうおそこれあまりなおつとむ奉天ほうてんいのち以則堯之どう以願ぜん帝位ていい而歸二女じじょ。而陛せい於大おだい受命じゅめいはつそもそもおそれなつこれたちぶしなおのべりょうゆず退ずさ,而所枉者だいところただししゃしょうしょしょうしゃけいしょりゃくしゃじゅうちゅうじん凡士なおため陛下へいか陋之。ぼつしゃゆうれいのりじゅうはな必忿憤於蒼梧之しんはかだい禹必うつ悒於かい稽之山陰さんいんたけおう必不恱於しょうりょうげんみや矣。以臣とう敢以請。且漢せいざい閹宦,祿ろく帝室ていしつななせい矣,とげしゅうせき于其宮殿きゅうでん,而二京爲之丘墟。とうとき四海しかいとろけくつがえ天下てんかぶんくずれたけおうちかしころもかぶと而冠かぶと,沐雨而櫛ふうためみん請命,のりかつ萬國ばんこくためばちみだれのり致升ひらめばとみん而立じりつちょうちくみや而置吏,元元もともと,罔於まえぎょう,而始ゆうづくり於華なつ陛下へいか即位そくい光昭みつあき文德ふみのり,以翊武功ぶこうつとむ恤民かくれ如傷,懼者やすしろうしゃいきかんしゃ以暖,ひだるしゃ以充,とおじん以恩ふく,寇敵以恩くだ,邁恩しゅとく光被こうひよんひょう稽古けいこあつむつみしげる于放勛,もう吞舟,ひろ乎周ぶん以布せい朞,にんしんなみすめらぎてんそくくだ甘露かんろ而臻よんれいきさきそくてい芝草しばくさ而吐醴泉,とらひょう鹿しかうさぎみなもと其色,雉鳩きじばと燕雀えんじゃくまたしろ其羽,連理れんり同心どうしんふりさいさかなちん祥瑞しょうずいぶつ雜沓ざっとう於其あいだしゃ畢備。古人こじんゆうごと:『ほろ禹,われ其魚乎!』ほろだいのりしんとう白骨はっこつ交橫于曠野あらの矣。ふくしょう羣臣がい內前あきらかなで所以ゆえんひねじょ陛下へいかいのちしゃ,莫不じょうかわらく圖書としょよりどころ天地てんち瑞應ずいおういんかんあさ款誠,せんまんぽうけいいいしん矣省矣;さんおう以及,みかど以加。みんいのちかか於魏くに民心みんしん繫於せいさんじゅう有餘ゆうよねん矣,此乃千世時至之會,萬載一遇之秋;たちふしひろたびむべあきら於斯ぎわかかわ牽小ぶしほどこせ於此ひさ稽天いのちつみざいしんとう。輒營だんじょう禮儀れいぎ吉日きちじつあきらつげひろしてん上帝じょうてい,秩羣しんれい,須禋さい畢,かい羣寮於朝どう年號ねんごうせいついたちふくしょくとう施行しこう。」じょうふくれい曰:「むかししゃだいしゅんめし糗茹そうはた終身しゅうしん焉,斯則ぜんこころざし也。及至うけたまわ堯禪,ちん裘,つまじょわか固有こゆう,斯則じゅん天命てんめい也。羣公卿くぎょうまこと以天いのち不可ふかこばめ民望みんぼう不可ふかたがえまた曷以焉?」庚午こうごさつみことのりおう曰:「むかし堯以はいてんとく,秉ろくごうおもなお覩歷うんかずうつり於有おそれ委讓いじょう帝位ていいゆるがせ遺跡いせきこんてんすんで訖我かんいのち,乃眷きた顧,みかどすめらぎこれぎょうじつゆうだいちんもり空名くうめい以竊,顧視ぜんことなおゆう慙德,而王へりくだゆずるいたりさんよんちんよう懼焉。おっとまんじょうしゃ知命ちめいたちぶし數也かずやおそれなつきみしょうたぐくんれつたれ于萬美名びめいでん於無きゅういまもり尚書しょうしょれいさむらいちゅう覬喻,おう其速のぼる帝位ていい,以順天人てんにんしんふくちん大願たいがん。」於是尚書しょうしょれい桓階とうそう曰:「いまかんいのちやめよんいたり,而陛前後ぜんこう固辭こじしんとうふく以爲上帝じょうてい聖德せいとくうんりゅうだい,斯豈すうつてしょうしゅうゆう天下でんか甲子きのえねあさいん帝位ていい牧野ぼくやにち也,じょしょうついほんげんおういたりじゅつひめあまねうえろくきさききびなま受命じゅめいすんでかた,厥德かいかんおとろえはいぎょうやめぜっさんたつたれ其徵,史官しかんちょ其驗,耆老さきいにしえうらない百姓ひゃくしょうきょう謌謠こえ陛下へいかおうてん受禪じゅぜんとうはやそくだんじょうしば上帝じょうていまことよろしひさしとま神器じんぎこばめおくちょうこれねがいしん下太しもふとれいもとたつ今月こんげつじゅうきゅうにち登壇とうだん受命じゅめい,請詔さんおおやけ羣卿,じょう禮儀れいぎべつそう。」れい曰:「。」乃爲だん於繁庚午こうごおうますだんそく阼,百官ひゃっかん陪位。こと訖,くだだん燎成れい而反。あらためのべやすしためはつ大赦たいしゃけんじみかどでん》曰:からしおう登壇とうだん受禪じゅぜん公卿くぎょう列侯れっこうしょしょう匈奴きょうどたん于、四夷朝者數萬人陪位,燎祭天地てんちだけよん瀆,曰:「皇帝こうていしん丕敢ようげんおすあきらつげ于皇皇后こうごうみかどかん歷世れきせいじゅうゆうよん,踐年よんひゃくじゅうゆうろく四海しかい困窮こんきゅうおうつなだてぬき錯行,れいさちなみ,推術すうしゃおもんばかこれ古道ふるみち,咸以ためてん歷數れきすううんおわり茲世,凡諸よしみさちみんしんあきら有漢うかんすうおわりごく受命じゅめいかんぬし以神むべ授於しん憲章けんしょうゆうおそれ,致位于丕。丕震かしこ天命てんめい,雖休勿休。羣公庶尹ろくごとこれにんそと及將,洎于蠻夷ばんいくんちょう,僉曰:『天命てんめい不可ふか以辭こばめ神器じんぎ不可ふか以久曠,羣臣不可ふか以無ぬし萬機ばんき不可ふか以無みつる。』丕祇承すめらぎぞう,敢不欽承。ぼくもりかめちょうゆう大橫おおよこ,筮之さんえきちょうゆうかわちょう,謹擇元日がんじつあずか羣寮登壇とうだん受帝璽綬,つげるい于爾大神だいじんただしかゆうぜんなおきょう永吉ながよし兆民ちょうみんもち,祚于ゆうとおる。」とげせいみことのり三公みつきみ:「上古じょうこはじめゆうくん也,必崇おん以美風俗ふうぞくしか百姓順教而刑辟厝焉。こんちんうけたまわ帝王ていおういとぐち,其以のべやすし元年がんねんためはつ元年がんねん改正かいせいついたちえきふくしょくこと徽號,どうりつ度量どりょううけたまわぎょう大赦たいしゃ天下でんかこと以下いかしょ不當ふとうとく赦,みな赦除。」《たかし春秋しゅんじゅう》曰:みかどますだんあや畢,顧謂羣臣曰:「しゅん、禹之ごとわれ知之ともゆき矣。」竇《さがせかみ》曰:そう大夫たいふ邢史しんあかり於天どうしゅうたかしおうさんじゅうななねんけいこうとい曰:「天道てんとう其何さち?」たい曰:「ねんがつちょうしんしょう死後しごねんがつちょうしげるすすむほろびほろびねんきみはたおわりおわりよんひゃくねん,邾王天下でんか。」にわか而皆如其ごとところうん邾王天下でんかしゃいいきょう也。邾,曹姓,また曹姓,みな邾之。其年すうのり錯,未知みち邢史しつ其數よこしまはた年代ねんだい久遠くおんちゅう記者きしゃでん而有謬也?

はつ元年がんねん十一月じゅういちがつみずのととり,以河內之山陽さんよう邑萬戶奉漢帝爲山陽公,ぎょうかんせいついたち,以天れい郊祭,上書うわがきしょうしん京都きょうと有事ゆうじ于太びょう,致胙;ふうこうよんため列侯れっこうついみこと皇祖こうそたいおう曰太皇帝こうていこうたけおう曰武皇帝こうてい尊王そんのうふとしきさき皇太后こうたいごうたまものおとこ子爵ししゃくじんいちきゅうためちち孝悌こうていりょく田人たびときゅう。以漢諸侯しょこうおうためたかしとくこう列侯れっこうためせきちゅうこう。以潁かげしげるていため繁昌はんじょうけんふう爵增かくゆうあらため相國しょうこくため大夫たいふためそらたてまつつねためふとつねろうちゅうれいためこう祿ろくくんだいため廷尉,大農だいのうためだいつかさみのりぐんこくけん邑,しょ改易かいえきさら授匈やつみなみたん于呼廚泉璽綬,たまものあおぶたしゃじょう輿こし寶劔ほうけんたま玦。十二月じゅうにがつはつ營洛みやつちのえうまこう洛陽らくようしんまつあんしょ書記しょきみかどきょ北宮きたみや,以建はじめ殿どのあさ羣臣,もん曰承あきらひねおもえおうしょく曰「謁帝うけたまわあきらいおり是也これやいたりあかりみかどはじめ於漢南宮なんぐうたかしいさお殿どのしょおこり太極たいきょくあきらしょ殿しんがり。《しょ》曰:以夏すうためとくてんそくようなつただし,而服しょくなお。《りゃく》曰:みことのり以漢ぎょう也,すいらくみず」而加「ふるとり」。於行ためみずおす也,みずとく而乃りゅうとくすい而柔,じょふるとりみず」,へん「雒」ためらく」。

これさいちょうみずこうじょう戴陵諫不よろしすうぎょう弋獵,みかどだいいかりょうげん死罪しざい一等いっとう

ねんはる正月しょうがつ,郊祀天地てんちあかりどうかぶといぬこうりょういたりげんりょう使者ししゃ以太ろうほこらかんおつ朝日あさひ東郊とうこうしんまつ以爲れい天子てんし以春ぶん朝日あさひ秋分しゅうぶんゆうがつひろ此年正月しょうがつ郊祀,ゆうがつおつ朝日あさひのりゆう無月むげつぶたぶんだつ也。あんあかりみかど朝日あさひゆうがつみな如禮ぶん故知こち此紀ためあやましゃ也。はつれいぐんこくこう滿まんじゅうまんしゃさい察孝かどいちにん;其有しゅうことかかわ戶口とぐちからしふん三公みつきみ邑,ふう子弟していかくいち人爲じんい列侯れっこうみずのえうまふく潁川ぐんいちねん田租でんそしょみことのり曰:「潁川,先帝せんてい所由しょゆうおこりへい征伐せいばつ也。かんわたりやく四方しほう瓦解がかい遠近えんきん顧望,而此ぐん守義もりよしちょうたけしほこ老弱ろうじゃくかてむかしかん以秦ちゅうため國本こくほん光武みつたけ恃河內爲おうはじめこんちんふく於此登壇とうだん受禪じゅぜんてん以此こおりつばさなりだい。」あらためもとけんためもとあきらけん。以魏ぐん東部とうぶため陽平ようへいぐん西部せいぶため廣平ひろへいぐんりゃく》曰:あらため長安ながやす、譙、もとあきら、鄴、洛陽らくようため立石たていしひょう西にしかいむべきた循太ぎょう東北とうほくかい陽平ようへいみなみ循魯ひがしかい郯,ためなかれい天下てんか聽內徙,ふくねんまたぞう其復。

みことのり曰:「むかしなかあま大聖たいせいざいふところ帝王ていおううつわとうおとろえしゅうこれまつ受命じゅめいうんざい魯、まもるあさ教化きょうか乎洙、泗之じょう,悽悽焉,遑遑焉,よくこごめおのれ以存どう,貶身以救世きゅうせい。于時王公おうこうおわり莫能よう,乃退こうだいれいおさむもとおうこといん魯史而制春秋しゅんじゅう,就太而正みやび頌,俾千載せんざいこれ,莫不むね其文以述作じゅっさくおおせ其聖以成はかりごと,咨!いいいのち大聖たいせい,億載之師表者也。遭天大亂たいらんひゃくまつ墮壞だかい舊居きゅうきょびょう,毀而おさむ,襃成これぜっ而莫ままし,闕里聞講頌之ごえ,四時不覩蒸甞之位,斯豈所謂いわゆるたかしれいほうこう盛德せいとくひゃくせい必祀しゃ哉!其以ろうあなともためそうきよしこう,邑ひゃくたてまつ孔子こうしまつ。」れい魯郡おさむおこりきゅうびょうおけ百戶吏卒以守衞之,また於其がいこうため室屋むろや以居學者がくしゃ

さんがつ遼東りゃおとん太守たいしゅ公孫こうそんきょうためしゃ將軍しょうぐんはつふく銖錢。なつよんがつ,以車將軍しょうぐん曹仁ため大將軍だいしょうぐん五月ごがつていあまふく叛,曹仁討斬六月ろくがつかのえはつまつたけよん瀆,咸秩羣祀。しょ》:きのえたつ,以京宗廟そうびょう未成みせいみかどおやほこらたけ皇帝こうてい于建はじめ殿どの,躬執饋奠,如家じんれいちょうしげる夫人ふじん甄氏そつつちのえたつみそにちゆうしょく有司ゆうしそうめんふとしじょうみことのり曰:「わざわいこれさく,以譴元首げんしゅ,而歸股肱ここうあに禹、ざいおのれ乎?其令百官各虔厥職,ゆう天地てんち眚,勿復劾三こう。」

あきはちがつまごけん使つかいたてまつあきら,并遣于禁とうかえちょう使つかいふとつね邢貞ぶしはいけんため大將軍だいしょうぐんふうくれおうきゅうすずふゆじゅうがつ,授楊あやこう祿ろく大夫たいふしょ》曰:おのれ公卿くぎょうあさついたちだん,并引かんたいじょう楊彪,まち以客れいみことのり曰:「おっとさき王制おうせい几杖たまもの所以ゆえん賔禮耇襃たかし元老げんろう也。むかしあなこうたくしげみな淑德しゅくとくだかねん,受茲よしみすずおおやけかんおさむしん,乃祖やめらいせいちょ名節めいせつねんななじゅうぎょう踰矩,いい老成ろうせいじん矣,しょむべちょう以章きゅうとく。其賜こうのべねんつえ及馮几;謁請便びん使つえいれまた使つかいちょ鹿しかがわかんむり。」あやゆずる聽,竟著ぬのたんころもかわべん以見。《ぞく漢書かんしょ》曰:あやかん祚將おわり以累ため三公みつきみはじためしんとげしょうあし攣,ふくぎょうせきじゅうねんみかどそく王位おういよく以爲ふとしじょうれい近臣きんしん宣旨せんじあや曰:「甞以かんちょうため三公みつきみ,值世おとろえみだれ不能ふのうりつ尺寸しゃくすんえきわかふくためしん,於國えらべまた不爲ふためさかえ也。」みかどだつ其意。はつよんねんみことのりはいこう祿ろく大夫たいふ,秩中せんせき朝見ちょうけん三公みつきみ,如孔こう故事こじあやうえあきらかたゆずるみかど聽,またためもん施行しこう,致吏そつ,以優崇之たかゆきとしはちじゅうよん,以ろくねん薨。おさむことひねおもえおうつたえ〉。以穀とうとやめ銖錢。しょ》曰:十一月じゅういちがつつら鎮西ちんぜいすすむ軍曹ぐんそういのちしゅはた及州ぐんへい討破叛胡もとあしすいふうしょうとう斬首ざんしゅまんきゅうなまくちじゅうまんひつじいちひゃくいちじゅういちまんくちうしはちまん河西かさいとげたいらみかどはつ聞胡けつすい灌顯いい左右さゆうしょしょう曰:「むかし隗嚻灌略,而光武みつたけいん疲弊ひへいしんへいめつこんえびすけつすい灌顯,其事せい相似そうじやぶえびすごとこんいたりひさ。」旬日じゅんじつやぶえびすつげげきいた上大かみおおわらい曰:「われさく帷幕いばく內,しょしょう奮擊於まんそと,其相おうわか合符あいふちぎり前後ぜんごせんかつとりこゆう如此也。」おのれ,以大將軍だいしょうぐん曹仁ためだい司馬しば十二月じゅうにがつぎょうひがしじゅんとしちくりょうくもだい

三年春正月丙寅朔,にちゆう蝕之。庚午こうご行幸ぎょうこうもとあきらみやみことのり曰:「いまけいこういにしえみつげ也;じゅうしつ邑,必有忠信ちゅうしんわかきりねんしかりょなおしゅうすすむあらわ前世ぜんせい也。其令ぐんこくしょせん,勿拘老幼ろうよう;儒通けいじゅつ,吏達文法ぶんぽういたみな試用しよう有司ゆうし糾故以實しゃ。」しょ》曰:みずのとまごけん上書うわがきせつ:「りゅう備支とうよんまんにんうまさんせんひき秭歸,請往埽撲,以克としためこう。」みかどほう曰:「むかし隗嚻へいわざわいはつ栒邑,禽,へんおこり扞關,將軍しょうぐん其亢厲威武いぶつとむ奇功きこう,以稱われ。」

がつ,鄯善、かめ茲、于闐おうかく使つかい奉獻ほうけんみことのり曰:「西戎せいじゅうそくじょ,氐、羌來おうしょ美之みゆきごろしゃ西域せいいきがいえびすなみ款塞內附,おう劭《〈漢書かんしょちゅう》曰:款,叩也;みな叩塞もんらい服從ふくじゅう其遣使者ししゃなでろう。」西域せいいきとげどおりおけつちのえおのれこうじょう

さんがつおつうしだてひとしおおやけあきらため平原へいげんおうみかどおとうと鄢陵こうあきらとうじゅういちにんみなためおうはつせいふうおう庶子しょしためごうこう,嗣王庶子しょしためていこうおおやけ庶子しょしためていはくかぶといぬたて皇子おうじ霖爲河東かとうおうかぶとうまぎょうさいわいじょう邑。なつよんがつつちのえさるたて鄄城こううえため鄄城おうみずのとぎょうかえもとあきらみや五月ごがつ,以荊、あげこうひょうはちぐんため荊州,まごけんりょうまき也;荊州江北こうほくしょぐんため郢州。

閏月じゅんげつまごけんやぶりゅう備於えびすりょうはつみかど聞備へい東下ひがししもあずかけん交戰こうせんしがらみれんななひゃくあまりさといい羣臣曰:「備不あかつきへいあにゆうなな百里營可以拒敵者乎!『つとげん險阻けんそ而爲ぐんしゃためてきしょ禽』,此兵也。まごけんじょうことこんいたり矣。」ななにちやぶ備書いた

あきなながつ,冀州だいいなごみんひだる使つかい尚書しょうしょもり畿持ぶしひらきくら廩以振はちがつしょく大將たいしょうけんりつしゅくだしょ》曰:けん及領みなみぐん太守たいしゅ郃等さんひゃくいちじゅうはちにんまい荊州刺史ししたてまつ上所かみところかり印綬いんじゅ、棨戟、幢麾、きばもんしゃけんとうまい行在所あんざいしょみかどおけしゅ設樂したら引見いんけん於承こう殿どのけん、郃等じん人前ひとまえひねみかどため論說ろんせつ軍旅ぐんりょ成敗せいばい去就きょしゅうこれぶんしょしょう恱。たまものけんきん帛、車馬しゃばころも裘、とばりちょう妻妾さいしょうしも及偏裨皆ゆうはいけんためさむらいちゅう鎮南將軍しょうぐんふう列侯れっこう即日そくじつ召使めしつかい驂乘;及封郃等よんじゅうにんみなため列侯れっこうため將軍しょうぐんろうしょうひゃく餘人よにん

きゅうがつかぶとうまみことのり曰:「夫婦ふうふじんあずかせいらんほん也。自今じこん以後いご,羣臣とくそうごとふとしきさききさきぞくいえとくとう輔政にんまたとくよこ受茅爵;以此みことのりでん後世こうせいわかゆうたがえ天下てんかども誅之。」まごもり曰:おっと經國けいこく營治,必憑しゅん喆之輔,けんたちれいとく,必居さんらんにん雖周しつもりゆう婦人ふじんあずか焉。しかのりひつじさるどううけたまわてん南面なんめんさんしたがえれいいいいたりじゅんいたり號令ごうれい天子てんしそうごと專行せんこう義也よしやむかしざいさるりょじつただしゆうしゅう。苟以天下でんか爲心いしんおもんみとくつえのりおや疏之授,いたりこう一也かずやなにいたりきさきぞく而必斥遠哉?かん王道おうどうりょうおそれい外戚がいせき憑寵,しょくためらんかい。於此,とき昏道うん祚將うつりたておうりょなんあにとぼしちょうわざわい乎?而後かん其若此,ふかふところさんどく戒也。いたり於魏ぶんとげはついちがいみことのりいい有識ゆうしき爽言,みかどしゃ之宏ゆきひろかのえたて皇后こうごうかくたまもの天下でんかおとこ子爵ししゃくじんきゅう;鰥寡あつし癃及まずし不能ふのう自存じそんしゃたまものこく

ふゆじゅうがつ甲子きのえねおもてくび山東さんとうためことぶきりょうさくおわりせい曰:「れいくにくん即位そくいため椑,椑音扶歷はんそん忘亡也。しんまつ按:れい天子てんし諸侯しょこうかんかくゆうじゅうすうかん親身しんみしゃ曰椑。むかし堯葬こくりんつうじゅ,禹葬かい稽,のう不易ふえきうねりょ春秋しゅんじゅう》:堯葬於穀りんつうじゅしゅんそう於紀,不變ふへん其肆;禹葬かい稽,變人へんじんそう於山りんのりあい乎山りんふうじゅこれせい上古じょうこ也,われ焉。ことぶきりょういんさんためたい無爲むいふうじゅたて寑殿,造園ぞうえん邑,つう神道しんとうおっとそう也者,ぞう也,よくじんとく也。骨無ほねなし痛痒つうよう,冢非棲神たくれいはかさいよく存亡そんぼう黷也,ためかん槨足以朽こつころもふすまあし以朽にく而已。われ營此おか墟不しょくよく使えきだいこう不知ふち其處。ほどこせあしずみぞう金銀きんぎんどうてついち以瓦ごうぬりしゃ、芻靈かんただしうるし際會さいかいさんめし含無以珠だまほどこせたま襦玉くしげしょぞく所爲しょい也。まご以璵璠斂,孔子こうしれききゅう而救たとえ暴骸中原なかはらそうこうあつそう君子くんしいいはなもとらく莒不しん,以爲棄君於惡。漢文かんぶんみかど不發ふはつ,霸陵もとめ也;光武みつたけはらりょうふうじゅ也。霸陵かんいさおざいしゃくばらりょうつみざいあかりみかどしゃくちゅう以利くんあきらみかどあい以害おや也。忠臣ちゅうしん孝子こうしむべおもえなかおかあきらしゃくこれげん,鑒華もとらく莒、あきらみかど戒,そん所以ゆえんやすくんていおや使つかいたましいれいまん危,斯則けんひじり忠孝ちゅうこう矣。及今,ゆうほろびこれこくまたこれはか也。らん以來いらいかんしょりょう發掘はっくついたり乃燒たまくしげきん縷,骸骨がいこつ并盡,焚如けい也,あにじゅうつう哉!わざわいよし乎厚そうふうじゅ。『くわ、霍爲わが戒』,またあきら乎?其皇后こうごう及貴じん以下いか不隨ふずいおうくにしゃ有終ゆうしゅうぼつみなそう澗西,ぜんまた以表其處矣。ぶたしゅんそう蒼梧そうごしたがえのべりょうそうとおざい嬴、ひろしたましい而有れいこれ也,いち澗之あいだ不足ふそくためとおわかたがえこんみことのり,妄有しょ變改へんかいづくりほどこせわれため戮尸地下ちか,戮而じゅう戮,而重臣子しんしため蔑死君父くんぷ不忠ふちゅう不孝ふこう使つかい死者ししゃゆうはたぶくなんじ。其以此詔ぞう宗廟そうびょうふくざい尚書しょうしょ祕書ひしょさん。」

これがつまごけんふく叛。ふく郢州ため荊州。みかどもとあきらみなみせいしょ軍兵ぐんびょう並進へいしんけん臨江こばめもり十一月じゅういちがつからしうし行幸ぎょうこうあて庚申こうしんみそにちゆうしょくこれさい穿ほじれいしば

よんねんはる正月しょうがつみことのり曰:「らん以來いらい兵革へいかく戢,天下てんかこれにん,互相ざんころせこんうみ內初じょう,敢有わたし復讎ふくしゅうしゃみなぞく。」ちくみなみじゅんだい于宛。三月さんがつへいさるぎょうあてかえ洛陽らくようみやみずのとがつはんこころ中央ちゅうおう大星おおぼししょ丙午ひのえうまみことのり曰:「まごけん殘害ざんがいみんぶつちん以寇不可ふかちょうぶんいのちもうしょうさんみちなみせいこんせいひがししょぐんあずかけんとうりょはんとうみずせんのり斬首ざんしゅよんまんせんまんそうだい司馬しばよりどころもり濡須,其所禽獲また以萬すうちゅうぐんせいみなみ攻圍こういりょうひだり將軍しょうぐんちょう郃等舳艫じくろちょくわたりげき其南なぎさぞく赴水溺死できししゃすうせんにんまたため地道じみちおさむじょう城中じょうちゅうがいすずめねずみとく出入でいり,此几じょうにくみみ!而賊ちゅう癘氣疾病しっぺい,夾江ぬりおそれしょうしみ污。むかししゅうたけしいん,旋師はじめかんせい隗嚻,かえぐんだかひらめみなてん而度ぞくじょう也。且成かいさんめんこれもう天下てんかじんこん開江ひらくえりょうかこえ,以緩なり禽。且休りょくやくやめしょう繇戍,畜養士民しみん,咸使安息あんそく。」丁未ていみだい司馬しば曹仁薨。これがつだい疫。

なつがつゆう鶘鳥しゅうれいしばみことのり曰:「此詩じん所謂いわゆる污澤也。曹詩『とげきょうおおやけどお君子くんし而近小人こども』,いまあにゆうけん智之としゆきしょ于下乎?いやのり斯鳥なんため而至?其博舉天儁德しげざい獨行どっこう君子くんし,以荅曹人とげ。」しょ》曰:からしとり有司ゆうしそうづくりびょうたてふとしすめらぎ帝廟ていびょう大長おおちょうあき特進とくしんこうあずか高祖こうそごうさいおやつき以次毀;特立とくりつたけすめらぎ帝廟ていびょうよんとおるまつためたいばん毀也。

ろくがつかぶといぬにんじょうおうあきら薨于京都きょうとかぶとさるふとしじょう賈詡薨。太白たいはくひるこれがつ大雨おおあめらく溢流,殺人さつじんみん,壞廬たくしょ》曰:なながつ乙未おとみ大軍たいぐんとう使つかいふとつね以特うしいちつげほこら于郊。しんまつ按:郊祀そうちゅう尚書しょうしょ毓議まつ厲殃ごとうん:「犧牲ぎせい祭器さいき,如前後ぜんごつげ郊之れい。」如此,のりたかし出師すいしみなつげ郊也。あきはちがつちょうしげる,以廷じょう鍾繇ためふとしじょうしょ》曰:有司ゆうしそうあらためかん宗廟そうびょうやす世樂せらく曰正世樂せらくよしみいたりらく曰迎れいらく武德ぶとくらく曰武頌樂,あきらようらく曰昭ぎょうらくくも翹舞曰おおとりしょうまいいくいのちまい曰靈おうまい武德ぶとくまい曰武頌舞,文昭ふみあきまい大昭たいしょうまいぎょうまい大武おおだけまいからしこうりょう于熒とげひがしじゅんろんせいまごけんこうしょしょうやめしん爵增かくゆう九月くがつかぶとたつ行幸ぎょうこうもとあきらみやしょ》曰:十二月じゅうにがつへいとらたまもの山陽さんようこう夫人ふじん沐邑,おおやけおんな曼爲長樂ながらぐん公主こうしゅしょく邑各ひゃくふゆ甘露かんろくだよしりんえんしんまつ按:よしりんえん即今そっこんはなりんえんひとしおうかおる即位そくいあらためためはなりん

ねんはる正月しょうがつはつれい謀反ぼうほん大逆だいぎゃく乃得しょうつげ,其餘みな勿聽;敢妄しょうつげ,以其ざいざい三月さんがつぎょうもとあきらかえ洛陽らくようみやなつよんがつたてふとしがくせい五經ごきょうためしほうおけ春秋しゅんじゅうこくはり博士はかせ五月ごがつ有司ゆうし公卿くぎょうあささくのぞむいんそううたぐこと,聽斷大政たいせい論辨ろんべん得失とくしつあきなながつぎょうひがしじゅんこうもとあきらみやはちがつため水軍すいぐん親御おやごりゅうぶね,循蔡、頴,浮淮,幸壽ゆきとしはるあげしゅうかいはた士民しみんはんさいけいやめ皆原かいはらじょ九月くがつとげいたり廣陵こうりょう,赦青、じょしゅう改易かいえきしょしょうもりふゆじゅうがつおつ太白たいはくひるくだりかえもとあきらみやしょみずのととりみことのり曰:「こん綏,なにとおこれふところこんこと而民しょう上下じょうげしょうへい以文ほう,百姓無所措其手足。むかし泰山たいざん哭者,以爲苛政かせい甚於猛虎もうこわれ備儒しゃふうふく聖人せいじんのこきょうあに以目翫其ぎょうたがえ其誡しゃ哉?こうけいけい,以惠百姓ひゃくしょう。」十一月じゅういちがつかのえとら,以冀しゅうひだる使者ししゃひらきくら廩振つちのえさるみそにちゆうしょく

十二月じゅうにがつみことのり曰:「先王せんおうせいれい所以ゆえんあきらこうごとだいのり郊社,其次宗廟そうびょうさんたつぎょう名山めいざん大川おおかわ此族也,不在ふざいまつてん。叔世おとろえみだれたかししんみこいたり乃宮殿どの內,牖之あいだ沃酹,甚矣其惑也。自今じこん,其敢しつらえまつこれさい巫祝ふしゅくげんみな以執ひだりどうろんちょ于令てん。」これさい穿ほじてんふち

ろくねんはるがつ使者ししゃ循行もとあきら以東いとうつき沛郡,もんみんしょやましにが貧者ひんじゃかしこれりゃくみことのり曰:「むかしのきながえけんよんめんこれごうしゅうたけししょうゆう亂臣らんしんじゅうにん』,斯蓋さきせい所以ゆえんからだこく君民くんみんあきらなり天工てんこうけんため也。こん內有公卿くぎょう以鎮京師けいしそとしつらえまきはく以監四方しほういたり於元えびす出征しゅっせいのりぐんちゅうよろしゆう柱石ちゅうせきけんそち輜重しちょう所在しょざいまたむべゆう鎮守ちんじゅ重臣じゅうしんしかこうしゃ以周ぎょう天下でんか內外おもんばかわれこんとうせいぞくよく守之もりゆき積年せきねん。其以尚書しょうしょれい潁鄉こうひね羣爲鎮軍大將軍だいしょうぐん尚書しょうしょぼくしゃ西鄉さいごうほう司馬しば懿爲なでぐん大將軍だいしょうぐんわかわれ臨江授諸はた方略ほうりゃくのりなでぐんとうとめもとあきらとくしょぐんろく後臺ごだい文書ぶんしょごと;鎮軍ずいしゃとうただしとくしゅぐんろくぎょう尚書しょうしょごとみなかりふし鼓吹こすいきゅうちゅう軍兵ぐんびょうろくひゃくにんわれほしすうちく宮室きゅうしつ往來おうらい其中,ぞくげきかたち便びんへいげきわかあるのりとう舒六ぐん遊獵ゆうりょうきょうたまものぐん。」さんがつ行幸ぎょうこう召陵,つう討虜みぞおつかえもとあきらみや。并州刺史ししはり習討鮮卑軻比のう大破たいはからしみかどためふね東征とうせい五月ごがつつちのえさるこう譙。みずのえいぬ,熒惑いれふとほろ

ろくがつ利成としなりぐんへい蔡方とう以郡はんころせ太守たいしゅじょただしたむろこうじょうにんぶく步兵ほへいこうじょうだんあきらあずかあおしゅう刺史しし討平;其見おびえりゃく亡命ぼうめいしゃみな赦其ざい

あきなながつたて皇子おうじ鑒爲東武とうぶおうはちがつみかどとげ以舟譙循うずにゅう淮,したがえりく道幸みちゆきじょ九月くがつちくひがしじゅんだいふゆじゅうがつ行幸ぎょうこう廣陵こうりょうしろ,臨江觀兵かんぺいえびすそつじゅうあまりまん旌旗せいきすうひゃくさとしょみかど於馬じょうため曰:「觀兵かんぺい臨江すい水流すいりゅうなんほこほこ成山なりやまりんげんかぶと曜日ようびこうもうしょうふところ暴怒,きもせいしたがえよこだれうんこうみずひろ一葦いちい以航,不戰ふせんこごめてきとりこ,戢兵たたえ賢良けんりょうおおやけたく岐邑,じつはじめ翦殷しょうはじめけんじ營虎ろうていじん懼稽顙。たかし國務こくむこうふえさきれいやぶほろびきょうのう淮泗あいだちくしつじょかたりょうむべうんけんりゃく,六軍咸恱康;あに東山ひがしやま悠悠ゆうゆうゆうきず。」これさい大寒だいかん水道すいどう冰,ふねとく入江いりえ,乃引還。十一月じゅういちがつ東武とうぶおう鑒薨。十二月じゅうにがつぎょう譙過はり使つかい以太ろうまつかんたいじょうきょうげん

ななねんはる正月しょうがつ將幸まさゆきもとあきらもとあきら城南しろみなみもんくずしみかどこころあくとげ不入ふにゅうみずのえぎょうかえ洛陽らくようみや三月さんがつちくきゅうはなだいなつがつへいたつみかどやましあつ,召中ぐん大將軍だいしょうぐん曹真、鎮軍大將軍だいしょうぐんひね羣、せい東大とうだい將軍しょうぐん曹休、なでぐん大將軍だいしょうぐん司馬しばせんおうなみ受遺みことのり輔嗣ぬし後宮こうきゅうよしひめあきらやめ其家。ちょうみかどくずし于嘉ぶく殿どのねんよんじゅうしょ》曰:殯於たかしはなまえ殿どのろくがつつちのえとらそうくびりょう殯及そうみな以終せい從事じゅうじたかし春秋しゅんじゅう》曰:あきらみかどはたおくそう,曹真、ちん羣、おうあきらとう以暑ねつかた諫,乃止。まごもり曰:おっと窀穸こと孝子こうしきょくつう也,人倫じんりんみち,於斯莫重。天子てんしなながつ而葬,どう軌畢いたりおっと以義かんじょうなおつき臨隧あいきょう乎天せいはつちゅうあつし禮者れいしゃ重之しげゆき哉!たかしとく,仍世もと矣。むかしはなもとあつそう君子くんし以爲棄君於惡,羣等諫,棄孰甚焉!鄄城こううえため誄曰:「おもんみはつななねん五月ごがつななにちだいくだり皇帝こうていくずれ嗚呼あああい哉!于時てんふるえ駭,崩山くえやま隕霜,せいうすけいぬき錯行,百姓ひゃくしょうよび嗟,萬國ばんこく悲悼,わか考妣こうひおんはかとう,擗踊郊野,おおせそう穹蒼,僉曰なん辜,早世そうせい殞喪,嗚呼あああい哉!悲夫だいぎょう忽焉こつえんひかりほろびえい棄萬こくくも往雨ぜっうけたまわといあらゆるがせ,惛懵哽咽,そでほこさき抽刃,歎自僵斃,追慕ついぼさんりょう甘心かんしんどうあなかんおもんみ南風みなみかぜおもんみ以鬱とどこおおわり於偕ぼつゆびけいちかいこうしょさきひろあきらげんなまわか浮寄,おもんみとくろんあさ聞夕逝,あなこころざし所存しょぞんすめらぎ雖一ぼつてん祿ろくながのべなに以述とくひょう旃。なに以詠いさお宣之のぶゆき管絃かんげん。乃作誄曰:皓皓こうこうふとりょうはじめぶん中和ちゅうわ產物さんぶつ,肈有人倫じんりん,爰曁さんすめらぎまこと秉道しんくだ逮五みかどつぎ以懿じゅんさんだい製作せいさくかかとたけたてくん嗣不維,もう于秦,くずしらくめつがく,儒坑れい焚,せい而殲,かん乃因,どるもとめ古訓こくん,嬴政遵,おうつなみかどてん,闃爾聞。末光すえみつかそけ昧,みちきわむうん遷,乾坤けんこん迴歷,簡聖授賢,乃眷だいぎょうぞく以黎もとりゅうけい祚,ごうちぎりじょうげんぎょうじょう改號かいごうかわねんあきらあきら赫赫かくかく受命じゅめい于天。じんふう偃物,とく以禮せんさちおもんみせいしつ,嶷在よう妍。庻幾ろくてんまなぶにわ潛心せんしん罔,亢志あおめいざいしゅうろう,如玉瑩,聽察嚮,瞻覩かたち。其剛如金,其貞如瓊,如氷絜,如砥たいら。爵公無私むし,戮違けいしんきょうまん,攬照下情かじょうおもえ股肱ここうよしみむかしりょさがせあげがわ陋,舉湯だい禹;拔才巖穴がんけつよもぎただとく縈,どるかかわ禰祖。たくひょう道義どうぎどる營厥けわし六合くにただしおそれひとしちぎりども遵,しも以純みん,恢折規矩きくかつ紹前じんじょうひんせい,襃貶以因。いん輅,ぎょうなつたつきむみどり葆龍うろこ,紼冕たかしうらら,衡紞おもんみしんみこと肅禮よう,矚之わかかみほうまきみょう舉,欽於恤民,とらはたぶし,鎮彼よん鄰;しゅはたしょ勦,きゅう壤被ふるえ,疇克わか?孰敢しんけん旌海ひょう萬里ばんりちりとりこ備凶てっとり殪江岷,けんわか涸魚,いぬい腊矯うろこ,肅慎おさめみつげえつこうちんじょうささえ絕域ぜついきさむらい內賔。とく先皇せんのうこう太古たいこうえれいくだみずはつ叔祜:かわりゅうらくかめ,淩波ゆうたいらひとしおうなわかみ鸞翔まいすうさいかちかいじょけいふうおうぎあつあきらじゅうもと禽,はし郊野;しん鍾寶かなえかたちきゅうくもえい甘露かんろ,瀸塗宇;れいしばおかせぬましゅはなかげなぎさかいかい凱風,祁祁あま,稼穡ゆたかとうわがきびわがきびいえ佩惠くんこうむ慈父じふ致太ひろしとくぜんはたのぼり介山かいざん先皇せんのうさく儷。鐫石きのいさおけんろくしゅみずほうたかしふうぜんかえりこう天地てんち,賔禮ひゃくれいくんいのちぶんまわしもちさいよんだけ,燎封たてまつしば,肅于南郊なんこうむねまつ上帝じょうていさん牲旣きょうなつ禘秋甞,もとほうたすくさいけんじ璧奉あきら。鸞輿かそけしげるりゅう旂太つね,爰迄ふとしびょう,鍾鼓鍠鍠,頌德えいこうはち佾鏘鏘。皇祖こうそすんできょうれつこうらいとおるかみよいどめくだ茲福さち天地てんち震蕩しんとうだいぎょう康之やすゆきさんたつくら昧,だい行光ゆきみつすめらぎひろしぜっ維,だいくだりつな神器じんぎ莫統,だいくだりとう禮樂れいがくはいたゆだいぎょうちょう仁義じんぎりく沈,だいくだりあげ潛龍せんりゅうかくれおおとりだいぎょうしょう;疏狄遐康,だいぎょうただしこれ在位ざいいななもとこう仍舉,はたえいふとしぜっさんむべ作物さくもつながため神主かんぬしことぶきおわり金石かねいしとう筭東ちち如何いか奄忽,摧身きさき,俾我棾棾,靡瞻靡顧。嗟嗟すめらぎ穹,えびすやすししのぶつとむ嗚呼あああい哉!あきらかん吉凶きっきょうからだどお存亡そんぼうふかたれてんせいさる嗣皇。聖上せいじょうけんたてまつじゅんはた,乃剏げん宇,ためくびなずらえ迹穀りんつい堯慕とう合山あやまどうりょう疆,ぬりしゃ芻靈,珠玉しゅぎょく靡藏。ひゃくかみ警侍,らい賔幽どうこう禽田じゅうもちたましいしょう。於是,俟大隧之致功兮,ねりもと辰之たつゆきよしただしせんはなたい於梓みや兮,馮正殿どの以居れい。顧望嗣之ごう咷兮,そん臨者悲聲,悼晏すんでおさむ兮,かんよう車之くるまのそくせい。浮飛たましい於輕霄兮,就黃墟以めつがた三光之昭晰兮,げんたく冥冥めいめい。嗟一往之不反兮,つう閟闥ちょう扃。咨遠しんすがめすがめ兮,なりきょういみな以怛おどろきこころ孤絕こぜつ而靡つげ兮,まがえ流涕りゅうてい而交頸。おもえおんさかえ以橫奔兮,閡闕塞嶢崢,顧衰絰以けい舉兮,さこせきぼうわが嬰。よく高飛たかとび而遙いこい兮,はばか天網てんもうとおけいはるかとうこつ於山あし兮,報恩ほうおんやしなえ於下おしたにわ。慨拊こころ而自悼兮,懼施じゅう而命けい,嗟微これこう兮,あま九死きゅうし而忘せいいくつかさいのちやくせき兮,さきかみ而隕れい天蓋てんがいだか而察卑兮,冀神明しんめいわが聽。どくうつ而莫愬兮,つい顧景而憐がたそう斯文しぶん以寫おもえ兮,ゆい翰墨かんぼく以敷まこと嗚呼あああい哉!」

はつみかどこう文學ぶんがく,以著述ちょじゅつためつとむところ勒成たれひゃくへんまた使つかいしょ儒撰しゅう經傳けいでんずいるいしょうしたがえ,凡千へんごうすめらぎらんしょ》曰:みかどはつざい東宮とうぐう疫癘えきれい大起だいき時人じじんきずみかどふか感歎かんたんあずかもとしょけいしゃだいおうろうしょ曰:「なまゆうななしゃくかたちためいちかんただ立德りっとくあげめい以不くち,其次莫如ちょへんせき疫癘えきれいすうおこり士人しじん落,どく何人なんにんのうぜん其壽?」ろんせんしょちょてんろん》、詩賦しふぶたひゃくへんしゅうしょ儒於肅城もん內,こうろん大義たいぎただしただし倦。つねよしみ漢文かんぶんみかどためくん寬仁かんじんげんだまつとむよく德化とっかみんゆうけんひじりふう時文じぶんがくしょ儒,ある以爲孝文たかふみ雖賢,其於聦明,通達つうたつ國體こくたい如賈よしみみかどよしただしちょふとし宗論しゅうろん》曰:「むかしゆうなえ賔,じゅうはなまい以干戚,じょう他稱たしょうみかど孝文たかふみなで以恩とくおうあさすず几杖以撫其意,而天よりゆきやす;乃弘さんしょうきょう,愷悌これよく使曩時るいいきみんとく闊步かっぽ高談こうだん危懼きくしんわか賈誼ざいさとし,籌畫國政こくせいとくけんしんうつわかん、晏之姿すがたあにわか孝文たかふみ大人おとなりょう哉?」さんねんなか,以孫けん不服ふふくふくはんふとし宗論しゅうろん於天明示めいじねがい征伐せいばつ也。他日たじつまた從容しょうようげん曰:「顧我またゆうしょ漢文かんぶんみかどしゃさんころせうすきあきらこう鄧通;まき夫人ふじんころも曳地ひきちしゅう上書うわがき囊爲ちょうとばり。以爲漢文かんぶん儉而無法むほうしゅうときさきいえただしとう養育よういく以恩而不とう假借かしゃく以權,すんでさわつみほうまたとくがい矣。」其欲秉持中道ちゅうどう,以爲帝王ていおう儀表ぎひょうしゃ如此。えびすおきくれれき》曰:みかど以素しょしょちょてんろん》及詩餉孫けんまた以紙うつしいちつうあずかちょうあきら

ひょう曰:ぶんみかど天資てんし文藻ぶんそうしたひつ成章せいしょう博聞はくぶんつよし識,才藝さいげいけん該;てんろんみかど敘曰:はつ平之ひらのもとただしたくころせしゅ鴆后,盪覆王室おうしつ四海旣困中平之政,けんあくたくきょうぎゃく家家いえいえ思亂おもいみだれ人人ひとびと危。山東さんとうまきもり咸以春秋しゅんじゅうよし,「まもるじん討州吁于濮」,げん人人ひとびとみなとく討賊。於是だいきょう義兵ぎへいめいごうだい俠,富室ふむろつよしぞく,飄揚くもかい萬里ばんりしょう赴;兖、せん於滎かわ內之かぶとぐん於孟たくとげ遷大西都さいと長安ながやす。而山東大とうだいしゃれんぐんこくちゅうしゃ嬰城邑,小者こもの聚阡陌,以還しょう吞滅。かいはばもり於海、岱,やま寇暴於并、冀,じょうしょううたておさむ席卷せっけん而南,さと邑望けむり而奔,城郭じょうかく覩塵而潰,百姓ひゃくしょう死亡しぼう,暴骨如莽。ねんさいうえ以世かた擾亂じょうらんきょうあまりがくろくさい而知またきょうあまり騎馬きばはちさい而能騎射きしゃ矣。以時おおゆえまいせいつねしたがえけんやすはつ上南かみなせい荊州,いたりあてちょう繡降。旬日じゅんじつ而反,亡兄ぼうけいこうかどおさむ從兄じゅうけいやすみんぐうがい時余じよねんじゅうさい乘馬じょうばとくだっおっと文武ぶんぶみちかく隨時ずいじ而用,なま於中平之ひらのちょう於戎たびあいだ以少こう弓馬きゅうば,于今おとろえ;逐禽輒じゅうはせつねひゃくにちからだけんしんごと猒。けんやすじゅうねんはじめてい冀州,濊、貊貢りょうゆみつばめだいけんじ名馬めいばとき歲之としゆき暮春ぼしゅんすすきぶし和風わふうおうぎぶつゆみ燥手やわらくさあさじゅうこえあずかぞく兄子せこりょう於鄴西にし終日しゅうじつしゅ麞鹿きゅう,雉兔さんじゅうこうぐんみなみせい內蠡,尚書しょうしょれい荀彧奉使犒軍,あまり談論だんろんすえ,彧言:「聞君ぜん左右さゆう,此實なんのう。」こと:「執事しつじ覩夫こうはつこうたて,俯馬蹄ばてい而仰がつささえ也。」彧喜わらい曰:「乃爾!」あまり曰:「らちゆうつねみちてきゆうつねしょ,雖每はつ輒中,至妙しみょう也。わかはせ平原へいげん,赴豐そうようずるじゅう,截輕禽,使つかいゆみきょ彎,しょちゅう必洞,斯則みょう矣。」ぐんさいしゅちょうきょうざいすわ,顧彧拊手曰「ぜん」。またがくげきつるぎ,閱師矣,四方しほうほうかくことただ京師けいしためぜん。桓、れいあいだゆうとら賁王こしよし斯術,しょう於京河南かなんおもねげんむかしあずかえつゆうとく其法,したがえおもねがくしらげじゅく。甞與ひらとりこ將軍しょうぐんりゅういさお、奮威將軍しょうぐん鄧展とうどもいん宿やど聞展ぜんゆうしゅひじあかつきへいまたたたえ其能空手からてにゅう白刃はくじん與論よろんつるぎ良久よしひさいいげん將軍しょうぐんほう也,あまり顧甞好之よしゆきまたとくぜんじゅついんもとめあずかあまりたいどきしゅたけなわみみねつぽうしょくいも蔗,便びん以爲つえ下殿しもとのすう交,三中みなか其臂,左右さゆうだいわらいてん不平ふへいもとめさら爲之ためゆきことわれほうきゅうぞくなんしょうちゅうめんひとしひじみみてんげんねがいふくいち交,あまり其欲突以取交中也ちゅうやいんにせふかしんてんはてひろまえ却脚鄛,せい截其顙,すわちゅうおどろきかえすわわらい曰:「むかしけい使じゅん于意其故かたさら授以祕術ひじゅついまあまりまたねがい鄧將ぐん捐棄伎,さら受要道也みちや。」一坐盡歡。おっとごと不可ふかいいおのれちょうしょうあかつきふくいいたい俗名ぞくみょうそう戟爲すわてつしつ,鑲楯ため木戶きどしたがえひねこく袁敏がく,以單おさむふくまいためわかかみたい不知ふち所出しょしゅつさき曰若逢敏於狹ちょくけつみみあまり於他おどけろうことしょうところただだん棊略つき其巧,しょうためむかし京師けいしさきこう有馬ありまごうきょうこう東方とうほう安世やすよちょう公子きみこつね恨不あずかかれすうしゃたいうえみやびこう詩書ししょぶんせき,雖在軍旅ぐんりょしゃくまき每每まいまいじょうしょう從容しょうようつねげんじんしょうこう學則がくそくおもえせん長則ながのりぜん忘,長大ちょうだい而能勤學きんがくしゃただわれあずか袁伯ぎょうみみ以少誦詩、ろん,及長而備れき五經ごきょうよんかん諸子しょしひゃくいえげん,靡不畢覽。《博物はくぶつこころざし》曰:みかどぜんだん棊,のうよう手巾しゅきんかくときゆういち書生しょせいまたのう低頭ていとう以所かんむりちょかずらはばかく撇棊。わか曠大これ,勵以公平こうへいまこと,邁志そんどう克廣かつひろとくしんのりいにしえ賢主けんしゅなにとおこれゆう哉!

ほん西にしすすむ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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