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三國志/卷36 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

三國志さんごくし/まき36

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せきはね

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  せきはねくもちょう本字ほんじ長生ちょうせい河東かわとうかいじん也。亡命ぼうめい奔涿ぐんさきぬし於鄉さとあい眾,而羽あずかちょう為之ためゆき禦侮。さきぬしため平原へいげんしょう,以羽、ためべつ司馬しばふんすべきょくさきおもあずかにんそくどうゆかおんわか兄弟きょうだい。而稠じんこうすわ侍立じりつ終日しゅうじつずいさきしゅ周旋しゅうせん避艱けわししょく曰:曹公あずかりゅう備圍りょぬの於下おした邳,せきはねけいこうぬの使しんむべ祿行ろくぎょうもとめすくえ,乞娶其妻,公許こうきょ。臨破,また屢啟於公。おおやけうたぐ其有異色いしょく先遣せんけんむかえいんとめはねこころやす。此與たかし春秋しゅんじゅう所說しょせつ也。さきぬしかさねころせじょしゅう刺史しししゃ胄,使つかいもり邳城,ぎょう太守たいしゅごとしょうん:以羽りょうじょしゅう而身かえしょう沛。

  けんやすねん,曹公東征とうせいさきぬし奔袁紹。曹公禽羽以歸,はいためへん將軍しょうぐんれい甚厚。紹遣大將軍だいしょうぐんがおりょうおさむひがしぐん太守たいしゅりゅうのべ於白,曹公使こうしちょうりょう及羽ため先鋒せんぽうげきはね望見ぼうけんりょう麾蓋,さく馬刺ばさしりょうまん眾之ちゅう其首かえ,紹諸はた莫能とうしゃとげかい白馬はくばかこえ。曹公そくひょうふうためかんことぶきていこうはつ,曹公たけしはねためじん,而察其心しん久留ひさどめいいちょうりょう曰:「きょうためし以情とい。」すんで而遼以問はね歎曰:「われごく曹公まてわがあつしかわれ受劉將軍しょうぐん厚恩こうおんちかい以共不可ふかわれおわりとめわれようとうたてこう以報曹公乃去。」りょう以羽げんほう曹公,曹公義之よしゆきでん》曰:りょうよく白太しらたおそれぶところせしろことくんみち,乃歎曰:「おおやけ君父くんぷ也;兄弟きょうだいみみ。」とげしろふとし曰:「ことくん忘其ほん天下てんか義士ぎし也。なんのう?」りょう曰:「はね受公おん,必立こうほうおおやけ而後也。」及羽ころせがおりょう,曹公知こうち其必じゅう賞賜しょうしはねつきふう其所たまものはいしょつげやめ,而奔さきしゅ於袁ぐん左右さゆうよくおい,曹公曰:「かれかくため其主,勿追也。」しんまつ以為曹公知こうちとめ而心よしみ其志,つい以成其義,ゆうおう霸之,孰能いたり於此乎?斯實曹公きゅう

  したがえさきしゅ就劉ひょうひょうそつ,曹公定こうてい荊州,さきぬし樊將みなみ渡江とのえべつはね乘船じょうせんすうひゃくそうかいりょう。曹公つい至當しとうちょうばんさきぬしはすおもむきかんてきあずかはねせんしょう值,きょういたりなつこうしょく曰:はつりゅう備在もとあずか公共こうきょうりょうりょうちゅう,眾散,すすむ備殺こう,備不したがえ。及在なつこう,飄颻こうなぎさはねいか曰:「往日おうじつりょうちゅうわかしたがえげん今日きょうこま。」備曰:「またため國家こっか惜之みみわか天道てんとう輔正,あんとも不為ふためぶくよこしま!」しんまつ以為備後びんごあずかただしうけたまわとうゆいはかりごとただしこと泄不かつ諧耳,わかため國家こっか惜曹こう,其如此言なに羽若はわかはてゆう此勸而備肯從しゃはた以曹こう腹心ふくしん親戚しんせきじつしげるゆうこと宿やど構,造次ぞうじ所行しょぎょう;曹雖ころせ必不まぬかれ以計而止,なに惜之ゆう乎!既往きおうこと讬為雅言がげんみみまごけんへいさきおもこばめ曹公,曹公引軍退すささきぬしおさむ江南こうなんしょぐん,乃封はい元勳げんくん,以羽ためじょう太守たいしゅとろけ寇將ぐんちゅう江北こうほくさきぬし西にしていえきしゅうはいただしとく荊州ごとはね聞馬ちょうきゅう故人こじんはねしょあずかしょかずらあきらといちょう人才じんさいだれ比類ひるいあきらまもるまえ,乃答曰:「はじめおこりけん文武ぶんぶれつひと一世いっせいすぐる,黥、彭之とうあずかえきとくなみそうさきなお及髯絕倫ぜつりんいっぐん也。」はね鬚髯しゅぜんあきらいいひげはねしょうしょだいえつ,以示賓客ひんきゃく

  はね嘗為流矢ながれやしょちゅうぬき其左ひじそう雖愈,まいいたりかげほねつね疼痛とうつう曰:「有毒ゆうどくどくにゅう於骨,とうやぶひじさくはじめ,刮骨どくしかこう此患乃除みみ。」はね便びんしんひじれい劈之。どきてき請諸しょう飲食いんしょく相對そうたいひじ流離りゅうりみつる於盤,而羽わりあぶ引酒,言笑げんしょう自若じじゃく

  じゅうよんねんさきぬしためかんちゅうおうはいためぜん將軍しょうぐんかりふし鉞。これさいはねりつ眾攻曹仁於樊。曹公于禁じょじんあきだい霖雨,かんすいひろし溢,きんしょとくななぐんみなぼつきんくだはねまた將軍しょうぐん龐德。はり、郟、りく渾群ぬすめあるはるか受羽しるしごうためささえとうふるえはななつ。曹公徙許以避其銳,司馬しばせんおう、蔣濟以為せきとくこころざしまごけん必不げん也。ひとすすむけん躡其もとわり江南こうなん以封けんのり樊圍かい。曹公したがえこれさきけん使つかいためさくおんなののしはずかしめ其使,許婚きょこんけんだいいかてんりゃく》曰:はねかこえ樊,けん使つかいもとめすけ,敕使莫速すすむまたおも簿さき致命ちめい於羽。はね忿其淹遲,またやめ於禁とう,乃罵曰:「鰂子敢爾,如使樊城拔,われ不能ふのうめつなんじよこしま!」けん聞之,其輕おのれにせ手書しゅしょ以謝もと以自往。しんまつ以為荊、雖外むつみ,而內しょう猜防,けんかさねせんみつはつ。按呂こうむつてくも:「ふく精兵せいびょう𦩷𦪇これちゅう使つかい白衣はくいゆらさく商賈しょうこふく。」以此ごとはねもとめじょ於權,けん必不とう往也。わかもとしょう援助えんじょ何故なぜ匿其形跡けいせき乎?またみなみぐん太守たいしゅおうしかよし在江あるえりょう將軍しょうぐんじんたむろ公安こうあんみないやけいおのれはねぐんかおるじん供給きょうきゅう軍資ぐんし不悉ふしつしょうすくいはねごとかえとう治之はるゆき」,かおるひとし咸懷懼不安ふあん。於是けんかげさそえかおるひとしかおるじん使じんむかえけん。而曹こうじょあきらすくい曹仁,しょく曰:はねあずかあきら宿やど相愛そうあいはるかともただしせつ平生へいぜい軍事ぐんじ須臾しゅゆあきら下馬げばせんれい:「とくせきくもちょうあたま賞金しょうきんせんきん。」はねおどろきこわいいあきら曰:「大兄たいけいなんことよこしま!」あきら曰:「此國ことみみ。」はね不能ふのうかつ,引軍退すさかえけんやめよりどころりょうつきとりこ妻子さいしはねぐんとげけんはたぎゃくげきはね及子ひら於臨沮。しょく曰:けん將軍しょうぐんげき及子たいらけんよくかつ以敵りゅう、曹,左右さゆう曰:「おおかみ不可ふかやしなえこう必為がい。曹公そくじょ大患たいかん,乃議徙都。いまあにせい!」乃斬しんまつ按吳しょまごけんはたはんあきらぎゃくだん走路そうろいたりそく,且臨沮去こうりょうさんひゃくあによう不時ふじころせぽう其生乎?またうんけんよくかつ以敵りゅう、曹」,此之しか以絕智者ちしゃくちくれれき曰:けんおくはねくび於曹こう,以諸こうれいそう屍骸しがい

  ついおくりな曰壯繆侯。しょく曰:はね初出しょしゅつぐんかこえ樊,ゆめ豬齧其足,子平しへい曰:「われ今年ことしおとろえ矣,しかかえ!」こうひょうでん曰:はねこうひだりでん諷誦ふうしょうりゃくみな上口うえくちきょう嗣。きょう安國やすくにしょうゆうれいとえ丞相じょうしょうしょかずらあきらふかこれ弱冠じゃっかんためさむらいちゅうちゅうかんぐんすうさいそつすべ嗣,なお公主こうしゅかんいたりとら賁中ろうしょうそつ,以興庶子しょしつねぞくふうしょく曰:龐德かいずい鍾、鄧伐しょくしょくやぶつきめつせき

ちょう

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  ちょうえきとく,涿郡じん也,しょうあずかせきはね俱事さきぬしはね年長ねんちょうすうさい兄事けいじさき主從しゅうじゅう曹公やぶりょぬのしたがえかえけい,曹公はいためちゅうろうしょうさきぬし曹公袁紹、りゅうひょうひょうそつ,曹公にゅう荊州,さきぬし奔江みなみ。曹公おいいちにち一夜いちや,及於とうちょうばんさきぬし聞曹おおやけそついたり,棄妻子さいしはし使つかいしょうじゅうこばめよりどころすい斷橋だんきょう,瞋目よこほこ曰:「はりえき德也とくやきょう決死けっし!」てきみな敢近しゃとげめんさきぬし既定きてい江南えな,以飛ためむべ太守たいしゅせいとりこ將軍しょうぐんふうしんちんこううたてざいみなみぐんさきぬしにゅうえきしゅうかえおさむりゅうあきらあずかしょかずらあきらとうさかのぼりゅう而上,ふんじょうこおりけんいたりしゅうやぶあきらはたともえぐん太守たいしゅげんがおなまがおしかかお曰:「大軍たいぐんいたりなに以不くだ而敢こばめせん?」かおこたえ曰:「きょうとうじょうおかせだつしゅうわがしゅうただしゆう斷頭だんとう將軍しょうぐんゆうくだ將軍しょうぐん也。」いかれい左右さゆう牽去斫頭,顏色かおいろ不變ふへん,曰:「斫頭便びん斫頭,なにためいかよこしま!」たけし而釋,引為賓客ひんきゃく華陽かようこくこころざし》曰:はつさきしゅいれしょくいたりともえぐんかお拊心歎曰:「此所謂いわゆる獨坐どくざきゅうさんとら自衛じえい也!」しょせんかつあずかせんあるじかい於成えきしゅうすんでひらめたまものしょかずらあきら法正のりまさ及關羽金はがねかくひゃくきんぎんせんきんぜにせんまんにしきせんひき,其餘頒賜かくゆう,以飛りょうともえ西にし太守たいしゅ

  曹公やぶちょう魯,とめなつほうふかしちょう郃守かんがわ。郃別とくしょぐんともえ西にしよく徙其みん於漢ちゅう進軍しんぐん宕渠、こうむあたまとろけせきあずかしょうこばめじゅうにちりつせいそつまん餘人よにんしたがえみち邀郃ぐん交戰こうせん山道さんどう迮狹,前後ぜんごとくしょうすくえとげやぶ郃。郃棄えんさんどくあずか麾下きか十餘人從間道退,引軍かえみなみていともえやすさきぬしためかんちゅうおうはいためみぎ將軍しょうぐんかりふしあきらたけ元年がんねん,遷車將軍しょうぐんりょう隸校じょうしんふう西鄉さいごうこうさく曰:「ちんうけたまわてんじょ,嗣奉ひろしぎょうじょざんやすしみだれしょく厥理。こん寇虜さくがいみん荼毒,おもえかんのべ頸鶴もちちんよう怛然,すわ不安ふあんせきしょく甘味あまみせいぐん誥誓,將行まさゆき天罰てんばつ。以君ちゅうあつし,侔蹤召、とらめいせん遐邇,とくあらわめいじこう墉進爵,兼司けんじ於京。其誕はたてんやわらふく以德,叛以けいしょうちん焉。くも乎,『匪疚匪棘,王國おうこくらいごくはじめさとしえびすいさおようすずなんじ祉』。つとむ歟!」

  はつ雄壯ゆうそうたけし於關はかりごとしんほど昱等咸稱まんにんてき也。はねぜんまちそつ而驕於士大夫たいふ愛敬あいきょう君子きみこ而不恤小じんさきぬしつね戒之曰:「きょうけいころせすんでまたにちむち撾健,而令ざい左右さゆう,此取道也みちや。」なお悛。さきおもとうりつへいまんにん閬中かいしゅう。臨發,其帳はたちょういたる、范彊ころせとべもち其首,順流じゅんりゅう而奔まごけん營都とくひょうほうさきぬしさきぬし聞飛とくゆうひょう也,曰:「噫!矣。」ついおくりな曰桓こう長子ちょうしつとはや夭。次子じし紹嗣,かんいたりさむらいちゅう尙書ぼくしゃつと遵爲尙書,ずいしょかずら瞻於緜竹,あずか鄧艾せん

うまちょう

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  うまちょうはじめおこりみぎ扶風しげりょうじん也。ちちあがれいみかどまつあずかあたりあきらかんとげとう俱起ごと於西しゅうはつたいらさんねんとげあがりつ眾詣長安ながやすかんちょう以遂ため鎮西ちんぜい將軍しょうぐんかえ金城きんじょうあがためせい西にし將軍しょうぐんたむろ郿。あがかさね長安ながやす敗走はいそう退すさかえりょうしゅうつかさ隸校じょう鍾繇鎮關ちゅううつりしょとげあがためひね禍福かふくあがちょうずい繇討かく援、こうみき於平ちょうしょう龐德おや援首。あがあずかかんとげ不和ふわもとめかえ京畿けいき。於是ちょうためまもるじょう,以超ためへん將軍しょうぐんふうちんこうりょうあがきょくてんりゃく》曰:あがことぶきしげるうま援後也。桓帝,其父せき,嘗為天水てんすいらんみきじょうこうしつかんいんとめ隴西,あずか羌錯きょいえまずしつまとげめと羌女,なまあがあがしょうひん產業さんぎょうつねしたがえあきら山中さんちゅう材木ざいもく販詣城市じょうし,以自供給きょうきゅうあがためじんちょうはちしゃくあまり身體しんたいひろしだいめんはなゆうこと,而性けんあつにん敬之たかゆきれいみかどまつりょうしゅう刺史しし耿鄙にんしん奸吏,みん王國おうこくとう及氐、羌反叛。しゅうぐんつのはつみん中有ちゅうういさむつとむしゃよく討之,あがざいつのなかしゅうぐんことしょためぐん從事じゅうじてんりょう眾。討賊有功ゆうこうはいぐん司馬しばこう以功遷偏將軍しょうぐんまた遷征西にし將軍しょうぐんつねたむろ汧、隴之あいだはつ平中たいらなかはいせいひがし將軍しょうぐん西にししゅうしょうこくあがひょう軍人ぐんじんおおとぼしもとめ就谷於池とげうつりたむろちょう平岸ひらぎしあたま。而將おううけたまわとうおそれあがためおのれがい,乃攻あが營。ときあがきん備,とげやぶはし西上にしがみかいさん輔亂,ふくらいひがし,而與鎮西ちんぜい將軍しょうぐんかんとげゆいため異姓いせい兄弟きょうだいはじめ甚相おやうたて以部きょくしょう侵入しんにゅうさらため讎敵。あがおさむとげとげはしごう眾還おさむあがころせあが妻子さいしれんへいかいたて安之やすゆきはつ國家こっか綱紀こうき殆弛,乃使隸校じょう鍾繇、りょうしゅうまぎ韋端和解わかいちょうあがかえたむろえんじゅうらてんはいためぜん將軍しょうぐんかりふしふうえんじゅうらこうきた備胡寇,ひがし備白まちしんけん,矜救民きゅうみんいのちさん輔甚やすあいじゅうねんしるしためまもるじょうあがねんおいとげにゅう宿衛しゅくえいはつ,曹公ため丞相じょうしょう,辟騰長子ちょうしちょう就。ちょうため隸校じょうとくぐん從事じゅうじ,討郭援,ためしょちゅう,乃以囊囊其足而戰,やぶ援首。みことのりはいじょしゅう刺史ししはい諫議大夫たいふ。及騰いれいんみことのりはいためへん將軍しょうぐん使つかいりょうあが營。またはいちょうおとうときゅうたてまつくるまじょうきゅうおとうと鐵騎てっきじょう,徙其ぞくみなまい鄴,おもんみちょうどくとめ

  ちょうすんですべ眾,とげあずかかんとげ合從がっしょう,及楊あきこらえなりよろしひとしあいゆい進軍しんぐんいたり潼關。曹公あずかとげちょうたんうまかいちょうまけ其多りょくかげよく突前捉曹こう,曹公左右さゆうはたもと褚瞋盻之,ちょう乃不敢動。曹公よう賈詡はかりごと離間りかんちょうとげさらしょう猜疑さいぎぐん大敗たいはい山陽さんようおおやけ曰:はつ,曹公ぐんざいがまばんよく西にしわたるちょういいかんとげ曰:「むべ於渭きたこばめこれじゅうにち河東かわとうこくつきかれ必走矣。」とげ曰:「可聽かちょうれいわたり,蹙於河中かわなか,顧不快ふかい耶!」ちょうけいとくほどこせ。曹公聞之曰:「うま不死ふしわれそう也。」ちょうはししょえびす,曹公ついいたり安定あんていかい北方ほっぽう有事ゆうじ,引軍ひがしかえ。楊阜せつ曹公曰:「ちょう有信ありのぶぬのいさむ,甚得羌、えびすしんわか大軍たいぐんかえげんため其備,隴上しょぐん國家こっかゆう也。」ちょうはてりつしょえびす以擊隴上郡かみごおりけん,隴上郡かみごおりけんみなおうころせりょうしゅう刺史しし韋康,よりどころ冀城,ゆう其眾。ちょう自稱じしょうせい西にし將軍しょうぐんりょう并州まきとくりょうしゅう軍事ぐんじかん吏民楊阜、きょう敘、りょうひろしちょう衢等,ごうはかりごとげきちょう。阜、敘起於鹵じょうちょうおさむ不能ふのうひろし、衢閉冀城もんちょうとくいれ進退しんたい狼狽ろうばい,乃奔かんちゅうちょう魯。魯不足ふそくあずかけいこと,內懷於邑,聞先ぬしかこえりゅうあきら於成密書みっしょ請降。てんりゃく》曰:けんやすじゅうろくねんちょうあずかかんちゅうしょしょうこうせんほどぎんこらえちょうよこりょうきょうなりよろしうま玩、楊秋、かんとげとう,凡じゅう,俱反,其眾じゅうまんどうよりどころかわ、潼,けんれつ營陳。これさい,曹公西にしせいあずかちょうとうせん於河、渭之交,ちょうとう敗走はいそうちょういたり安定あんていとげ奔涼しゅうみことのりおさむほろびちょういえぞくちょうふくはい於隴じょうこう奔漢ちゅうちょう魯以ためこうさいしゅよくつま以女,ある諫魯曰:「有人ゆうじんわか此不あい其親,焉能愛人あいじん?」魯乃どめはつちょうはん,其小おとうとしゅとめさん輔,及超はいしゅ先入せんにゅうかんちゅうせいだんたね上壽じょうじゅ於超,ちょう搥胸吐血とけつ曰:「闔門ひゃくくち一旦いったんどういのちいまにん相賀あいがよこしま?」すうしたがえ魯求へいよくきたりょうしゅう,魯遣往,また魯將楊白とうよくがい其能,ちょうとげしたがえたけ逃入氐中,てん奔往しょくとしけんやすじゅうきゅうねん也。

  さきおもひとむかえちょうちょう將兵しょうへいみちいた城下じょうかしろ中震ちゅうしんこわあきらそく稽首,てんりゃく曰:備聞ちょういたり曰:「わがとくえきしゅう矣。」乃使じんとめちょう,而潛以兵資之すけゆきちょういたれい引軍たむろ城北しろきたちょういたり一旬而成都潰。以超為平ためひら西にし將軍しょうぐんとく臨沮,いんためぜんていこう山陽さんようおおやけ曰:ちょういん備待あつあずか備言,つねよび備字,せきはねいか,請殺。備曰:「ひときゅうらいかえわがきょうとういか,以呼わが而殺なに以示於天也!」ちょう曰:「如是にょぜとうしめせ以禮。」明日あした大會たいかい,請超いれなみつえがたな立直たちなおちょう顧坐せき直也なおや,乃大おどろきとげいちふくよび備字。明日あした歎曰:「わがいま乃知其所以敗。ため呼人よびとぬしいくためせきちょうしょころせ。」乃尊ごと備。しんまつ按以ためちょう以窮備,受其爵位しゃくいなによう傲慢ごうまん而呼備字?且備にゅうしょくとめせき鎮荊しゅうはね嘗在えき也。はね聞馬ちょうくだ,以書といしょかずらあきらちょう人才じんさいだれ比類ひるい」,とく如書しょくもはね焉得あずかちょう飛立とびたてちょく乎?凡人ぼんじん行事ぎょうじみないい可也かなり不可ふかのりくだり矣。ちょうわかはてよび備字,またいい於理よろししか也。就令請殺ちょうちょうおう聞,ただし立直たちなおなによし便びん以呼くもいくためせきちょうしょころせ乎?げん經理けいりふか忿疾也。袁暐、らくとうもろしょ記載きさいけがれざつきょ謬,わか此之るい,殆不可ふかかちげん也。

  さきぬしためかんちゅうおうはいちょうためひだり將軍しょうぐんかりふしあきらたけ元年がんねん,遷驃將軍しょうぐんりょうりょうしゅうまきしんふう斄鄉こうさく曰:「ちん不德ふとくつぎ至尊しそんたてまつうけたまわ宗廟そうびょう曹操そうそう父子ふしせい其罪,ちんようむご怛,疢如やましくびうみ內怨憤,かえりただしはんほん,暨於氐、羌率ふく,獯鬻慕義。以君しんちょきた威武いぶなみあきら委任いにん授君,こう颺虓とらけんただし萬里ばんりもとめみん瘼。其明せんあさふところどお邇,肅慎賞罰しょうばつ,以篤かん祜,以對於天。」

  ねんそつねんよんじゅうなな。臨沒じょう疏曰:「しんもんむねひゃくくちためはじめとくしょ誅略つきおもんみゆう從弟じゅうてい岱,當為とういほろむねしょくつぎふか讬陛ふくごと。」ついおくりなちょう曰威こううけたまわ嗣。岱位いたりひらきた將軍しょうぐんしん爵陳くらこうちょうおんなはい安平あびらおうてんりゃく曰:はつちょうこれにゅうしょく,其庶つまただし及子あきとめちょう魯。魯敗,曹公どく,以董たまもの閻圃,以秋づけ魯,魯自しゅころせこれ

ただし

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  ちゅうかんます南陽なんようじん也。荊州まきりゅうおもて以為ちゅうろうはたあずかおもてしたがえいわどももりちょうすな攸縣。及曹こうかつ荊州,かりくだり裨將ぐん,仍就にんみつるぞくちょうすなもりかんげんさきぬしみなみていしょぐんちゅうとげしつ隨從ずいじゅういれしょくかやもえ受任じゅにんかえおさむりゅうあきら忠常ただつね先登せんとうおちいじんいさむあつしかんむり三軍さんぐんえきしゅう既定きていはいため討虜將軍しょうぐんけんやすじゅうよんねん,於漢ちゅうじょうぐんやまげきなつこうふちふち眾甚しらげちゅう推鋒必進,すすむりつ士卒しそつきむてん歡聲かんせいどうだにいちせんふちふちぐん大敗たいはい。遷征西にし將軍しょうぐんこれさいさきぬしためかんちゅうおうよくようちゅうため將軍しょうぐんしょかずらあきらせつさきしゅ曰:「忠之ただゆき名望めいぼうもとせきうまりん也。而今便びんれい同列どうれつうまちょうざいきんおや其功,なお喻指;せきはるか聞之,おそれ必不えつとく不可ふか乎!」さきぬし曰:「われとうかい。」とげあずかはねひとしひとしくらいたまもの爵關內侯。明年みょうねんそつついおくりなごうこう敘,はやぼつ

ちょうくも

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  ちょうくもりゅう常山つねやましんじょうじん也。本屬ほんぞく公孫こうそん瓚,瓚遣さきぬし為田ためだ楷拒袁紹,くもとげ隨從ずいじゅうためさきおもぬしくも別傳べつでん曰:くも身長しんちょうはちしゃく姿すがたがお雄偉ゆうい為本ためもとぐんしょ舉,はたしたがえ吏兵まい公孫こうそん瓚。とき袁紹しょう冀州まき,瓚深憂しんゆうしゅうじんしたがえ紹也,ぜん雲來うんらいあざけくも曰:「聞貴しゅうじん皆原かいはら袁氏,きみなにどく回心かいしん,迷而のうはん乎?」くもこたえ曰:「天下てんか訩訩,未知みち孰是,民有みんゆうたおせけんやくひなしゅう論議ろんぎしたがえ仁政じんせい所在しょざい不為ふためゆるがせ袁公わたしあかり將軍しょうぐん也。」とげあずか征討せいとうどきさきぬしまた讬瓚,まいせっおさめくもくもとくふかゆい讬。くも以兄瓚暫さき主知しゅち其不はん,捉手而別,くも曰:「おわり德也とくや。」さきぬし就袁紹,雲見くもみ於鄴。さきおもあずかくもどうゆかねむりみつくもあいつのとくすうひゃくにんみなたたえりゅうひだり將軍しょうぐんきょく,紹不能ふのうとげずいさきしゅいたり荊州。及先ぬしため曹公しょつい於當ちょうばん,棄妻子さいしみなみはしくもだきじゃくそくしゅ也,保護ほごあま夫人ふじんそくしゅはは也,みなとくめんなん。遷為きばもん將軍しょうぐんさきぬしいれしょくくもとめ荊州。くも別傳べつでん曰:はつさきぬしはい有人ゆうじんげんくもやめきたしゃさきぬし以手戟擿曰:「りゅう棄我はし也。」ごろくもいたりしたがえ平江ひらえみなみ,以為へん將軍しょうぐんりょうかつらよう太守たいしゅだいちょうはんはん寡嫂曰樊ゆうこくしょくはんよく以配くもくも曰:「あいあずかどうせいきょうけいなおわがあに。」固辭こじもととき有人ゆうじんすすむくもおさめくも曰:「はんせりくだみみこころはか天下でんかおんなしょう。」とげはんはて逃走とうそうくも纖介。さきあずかなつほうあつしせん於博もちなまなつこうらんらんくも鄉里きょうりじんしょうしょう相知おうちくもしろさきしゅかつこもらんあかり法律ほうりつ,以為ぐんせいくも不用ふようきん,其慎おもんばかるい如此。さきぬしにゅうえきしゅうくもりょうとめ營司。此時さきしゅまご夫人ふじん以權いもうとおごごうしょうくれ吏兵,縱橫じゅうおう不法ふほうさきぬし以雲嚴重げんじゅう,必能整齊せいせいとくにんてのひら內事。けん聞備西にしちょうだいふねせんむかえいもうと,而夫じん內欲しょうおもかえくもあずかちょう勒兵截江,乃得おもかえ

  さきぬしかやもえかえおさむりゅうあきら,召諸かずらあきらあきらりつくもあずかちょうとう俱溯江西えにしじょう平定へいていぐんけんいたりしゅう分遣ぶんけんくもしたがえがい水上すいじょう江陽こうようあずかあきらかい於成成都せいと既定きてい,以雲ため翊軍將軍しょうぐんくも別傳べつでん曰:えきしゅう既定きていよく以成中屋ちゅうやしゃ及城がい園地えんち桑田そうでんぶんたまものしょしょうくも駮之曰:「霍去びょう以匈やつほろび無用むようためれい國賊こくぞくただし匈奴きょうどもとめやす也。須天すあまみやこじょうかくはんくわあずさ歸耕きこう本土ほんど,乃其むべみみえきしゅう人民じんみんはつかか兵革へいかくたくみな歸還きかんこん安居あんきょふくぎょうしかこうやく調ちょうとく其歡しん。」さきぬしそくしたがえこれなつほうふかしはい,曹公そうかん中地なかじうんまいきた山下やましたすうせんまん囊。ちゅう以為くもへいずいちゅうまいただしかえくもしょうすうじゅうけいぎょうかこえむかいちゅうとう。值曹こうあげへい大出おおいでくもためこうぜんほこさきしょげきぽうせん,其大眾至,いきおい偪,とげぜん突其ひね,且鬥且卻。おおやけぐんやめふくあいくもおちいてきかえおもむきかこえはたちょうちょそうくもふくはせかえ營迎ちょおおやけぐんついいたりかこえ,此時沔陽ちょうちょうつばさざいくもかこえ內,つばさよく閉門へいもんこばめもり,而雲入營にゅうえいさらだい開門かいもん,偃旗いきおおやけぐんうたぐくもゆう伏兵ふくへい引去ひきさくもかみなりふるえてんおもんみ以戎いしゆみ於後しゃおおやけぐんおおやけぐんおどろき駭,あい蹂踐,墮漢水中すいちゅう死者ししゃ甚多。さきぬしあきらだんらいいたりくも營圍さくせんしょ,曰:「りゅう一身都是膽也。」作樂さくらいんえんいたり暝,ぐんちゅうごうくもためとら將軍しょうぐんまごけんかさね荊州,さきぬしだいいかよく討權。くも諫曰:「國賊こくぞく曹操そうそうまごけん也,且先めつのりふくみさお雖斃,丕篡ぬすめとういん眾心,はやせきちゅうきょかわ、渭上りゅう以討きょうぎゃく關東かんとう義士ぎし必裹かてさく以迎王師おうしおうおけさきあずかくれせんへいぜいいち交,とくそつかい。」さきぬし聽,とげ東征とうせいとめくもとくしゅうさきぬししつ於秭くもしんへいいたり永安えいあんくれぐんやめ退ずさけんきょう元年がんねんためちゅうまもるぐんせいみなみ將軍しょうぐんふう永昌えいしょうちんこう,遷鎮ひがし將軍しょうぐんねんずいしょかずらあきらちゅうかんちゅう明年みょうねんあきらぐんあげごえよしはす谷道たにみち,曹真だい眾當あきられいくもあずか鄧芝往拒,而身おさむ祁山。くもしばへい弱敵じゃくてききょうしつ於箕だにしか斂眾固守こしゅいたり大敗たいはいぐん退すさ,貶為鎮軍將軍しょうぐんくも別傳べつでん曰:あきら曰:「まちていぐん退すさへいはたふくしょうろくこくぐん退すさへいはたはつあいしつ何故なぜ?」しばこたえ曰:「くもだん軍資ぐんし什物じゅうもつりゃくしょ棄,へいはた無緣むえんしょうしつ。」くもゆう軍資ぐんしあまりきぬあきら使つかいぶんたまもの將士しょうしくも曰:「軍事ぐんじなにためゆうたまもの?其物請悉にゅうあかきし,須じゅうがつためふゆたまもの。」あきら大善だいぜんななねんそつついおくりな順平じゅんぺいこうはつさきぬしおもんみ法正のりまさおくりなぬししょかずらあきら功德くどく蓋世がいせい,蔣琬、禕荷こくおもまたおくりなひね祗寵まてとくこと獎,なつこう遠來えんらい歸國きこくふくとくおくりな;於是せきちょううまちょう、龐統、ちゅう及雲乃追おくりな時論じろん以為さかえくも別傳べつでんのちしゅみことのり曰:「くもむかししたがえ先帝せんていこうせきすんでちょちん以幼おきわたるぬり艱難かんなんよりゆき恃忠じゅんすみ於危けわしおっとおくりなしょ以敘元勳げんくん也,そとくもむべおくりな。」大將軍だいしょうぐんきょう維等,以為くもむかししたがえ先帝せんていろう績既ちょ經營けいえい天下でんか遵奉じゅんぽう法度はっとこうこうしょとうやくつらぬけ金石かねいしちゅう以衛じょうきみねん其賞,れい以厚しん忘其死者ししゃゆうそく不朽ふきゅう生者しょうじゃ感恩かんおんあし以殞。謹按おくりなほうやわらけん慈惠じえ曰順,執事しつじゆうはん曰平,かつていわざわいらん曰平,おうおくりなくも曰順たいらこうくもみつる嗣,かんいたりとら賁中ろうとくぎょうりょうぐん次子じしひろきばもんはたずいきょう維遝ちゅう,臨陳戰死せんし

ひょう

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  ひょう曰:せきはねちょうみなしょうまんにんてきため虎臣こしんはねほうこう曹公,よししゃくいわおがおなみゆう國士こくしふうしかはねつよし而自矜,暴而おん,以短はい理數りすうつね也。うまちょう阻戎いさむ,以覆其族,惜哉!能因のういんきゅう致泰,なおいよいよ乎!ちゅうちょうくもきょう摯壯たけしなみさく爪牙そうが,其灌、滕之歟?

ほん作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经超过100ねん,并且于1929ねん1がつ1にちぜん出版しゅっぱん

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