ちょう

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ちょう(ぎ ちょう、だいぞう2ねん580ねん) - さだかん17ねん1がつ17にち643ねん2がつ11にち))は、とう政治せいじげんなりほんぬき鉅鹿ぐんしたきょくけん曾祖父そうそふ釗はきたたかしつかえ、祖父そふ彦はきたひとしきたあまねつかえ、ちちちょうけんずいつかえた。叔玉・叔瑜・叔琬・叔璘、むすめ(霍王もとつま)などがいる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

わかいころから、高祖こうそふとしむねの2だいつかえて、諫議大夫たいふひだりひかりろく大夫たいふ秘書ひしょかんさむらいちゅう歴任れきにんして、ていこくおおやけふうじられ、ふとしむねちょく諫(じかに諫言)することで有名ゆうめいであり、そのやりとりは『さだかんせいよう』におおせられている。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

しるし彫像ちょうぞう

幼少ようしょう貧困ひんこんで、ずいすえひそかかわら崗軍)のもとへせた。しかし、ひそかとう敗戦はいせんしたために、建徳けんとく捕虜ほりょとなり、その才能さいのう見出みいだされた。竇建徳けんとくへいやぶれると、とう帰順きじゅんして、太子たいし洗馬せばつまり皇太子こうたいしたてしげる側近そっきん地位ちいた。玄武げんぶもんへんたてしげる元吉もとよし兄弟きょうだい非業ひごうげると、兄弟きょうだいったみんふとしむね)は率直そっちょくさを評価ひょうかして諫議大夫たいふ昇進しょうしんさせた、のち秘書ひしょかんさむらいちゅうなどのしょく転任てんにんした。癇癪かんしゃくこしたふとしむねを200かいあまりもいさめた。しるしいえにはきゃくむかえる正堂せいどうがなかった。ちょうやまいにかかったときふとしむねちいさな宮殿きゅうでんつくろうとしていたので、それをやめてその木材もくざいしるしいえ正堂せいどうを5にちつくらせた。しるし質素しっそ生活せいかつ尊敬そんけいしていたふとしむねえて粗末そまつ寝具しんぐたまわった。逝去せいきょしたさいに、ぶんさだおおやけいみなされた。

ふとしむねかれ非常ひじょうかなしみ、侍臣じしん以下いかのようにったという。

ひと以銅ためきょう以正衣冠いかん。以古ためきょう以見きょうがえ。以人ためきょう以知得失とくしつちょうぼつちんほろびいちきょう矣(ひとどうもっかがみし、もっ衣冠いかんただすべし。ふるきをもっかがみし、もっきょうがえるべし。ひともっかがみし、もっ得失とくしつるべし。しるしぼっするや、ちん いちきょうほろび(うしな)へり。」(『どおりかんまきいちきゅうろく)。

ふとしむねいのち編纂へんさんした『ずいしょ』の序論じょろん、『はりしょ』・『ひねしょ』・『きたひとししょ』の総論そうろんなど、おおくの著作ちょさくがある。その言論げんろんは『さだかんせいよう』におおおさめられている。「ひと生意気なまいきかんじず」や「中原なかはら鹿しかう」の有名ゆうめいな「述懐じゅっかい」というんだ。

西遊せいゆうにおけるちょう[編集へんしゅう]

あきらだい白話はくわ小説しょうせつ西遊せいゆう』では、ちょうあいだ(この)と陰間かげま(あの)を往来おうらいできる人物じんぶつとしてえがかれ、ふとむね囲碁いご対局たいきょくちゅうにうたたねかしたあいだに、天帝てんてい命令めいれいによりゆめなかで涇河の龍王りゅうおう処刑しょけいしたことになっている。うらみをいた涇河龍王りゅうおうふとむね夢枕ゆめまくらあらわれたため、ふとしむね衰弱すいじゃくし、冥府めいふめぐりをおこなって寿命じゅみょうばし帰還きかんした(詳細しょうさい西遊せいゆう成立せいりつ)。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]