もと

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もと(り げんき、生年せいねんしょう - たれ4ねん12月1にち688ねん12月28にち))は、中国ちゅうごくとう高祖こうそふかしじゅうよんなん。霍王にてられた。ていこくおおやけちょうむすめつまむかえた。いとぐちじゅん綽・つなあや繹のちち

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ふかしちょう美人びじんのあいだのとしてまれた。多方面たほうめん才能さいのうがあり、ふかしあいされた。武徳ぶとく6ねん623ねん)、しょくおうふうじられた。武徳ぶとく8ねん625ねん)、くれおうに徙封された。

さだかん7ねん633ねん)、寿ことぶきしゅう刺史ししにんじられ、じつふうろくひゃくけた。さだかん9ねん635ねん)、ふかしくなると、官職かんしょくしてふくし、忌日きじつにいたるまでしょくって、過剰かじょうなまでのれいしめした。さだかん10ねん636ねん)、霍王にあらためふうされ、絳州刺史ししにんじられた。まもなくじょしゅう刺史ししてんじた。もと軌は刺史ししにんじられても、やしきざして読書どくしょし、事務じむちょう司馬しばまかせっきりであった。もと軌は態度たいどつつしんで妄動もうどうせず、他人たにんあたえるものしまなかった。処士しょしりゅうげんたいらをしばしば引見いんけんして、あたかも庶民しょみん同士どうし間柄あいだがらのように交際こうさいした。

さだかん23ねん649ねん)、じつふうせんまで加増かぞうされ、ていしゅう刺史ししにんじられた。突厥ていしゅう攻撃こうげきしたが、もと軌は城門じょうもんひらき、はたのぼりをかかげさせた。突厥はうたがって、あえて入城にゅうじょうしようとせず、夜間やかん遁走とんそうした。ときにていしゅうよしみうんてき結託けったくしていたことが発覚はっかくし、こうはじめはそのいちとう処刑しょけいするようにめいじた。もと軌は人心じんしん安定あんていのために、よしみうんころしたのみで、その人々ひとびとつみおよぼさなかった。こうむねは「ちん命令めいれいしたことをいていたところだ。霍王の明察めいさつがなければ、ていしゅううしなっていただろう」とよろこんだ。もと軌の部下ぶかおうぶんみさおというものがいて、てきたたかってやぶれ、その二子ふたごおうおおとりおうけんちちをかばって戦死せんしした。もと軌がそのことをると、使者ししゃ派遣はけんしてとむらわせ、こうむねにそのことを報告ほうこくした。おうおおとりおうけんにはあさ散大さんだいおっとくらい追贈ついぞうされた。

もと軌が朝廷ちょうていると、しばしばうえ疏して政治せいじ得失とくしつべ、裨益ひえきするところがおおかったので、こうはじめもと軌を尊重そんちょうして、大事だいじがあるたびに相談そうだんした。こうむねると、もと軌はさむらいちゅうりゅうひとしけんとともに陵墓りょうぼ事務じむをつかさどった。もと軌は故事こじをよくっていたので、りゅうひとしけんに「これはわれらのおよぶところではない」と嘆息たんそくさせた。もと軌はくにれい派遣はけんしてふうこく租税そぜい徴収ちょうしゅうさせていたが、くにれい諸国しょこく交易こうえきぜいをかけることを請願せいがんしたところ、「おまえわたし間違まちがいをただすべき立場たちばなのに、かえってわたしいざなおうというのか?」とこたえてゆるさなかった。

たれ拱元ねん685ねん)、つかさくわえられ、もなくじょうしゅう刺史ししとして出向しゅっこうし、さらにあおしゅう刺史ししてんじた。たれ拱4ねん(688ねん)、えつおうさだやぶれると、もと軌はその謀反むほん連座れんざして、黔州ながされることとなった。おりしゃせられてひねくらにいたったとき、くなった。

長男ちょうなんいとぐちこうみやこぐんおうふうじられ、きむしゅう刺史ししをつとめたが、ほうおかして処刑しょけいされた。次男じなんじゅん安定あんていぐんおうふうじられた。三男さんなん綽は胙国こうふうじられた。よんなんつな南陽なんようこうふうじられた。五男いつおあやみなみあきらぐんおおやけふうじられた。末子まっし繹は山陽さんようぐんおおやけふうじられた。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]