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おさむ

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おさむ(ぎ しゅう、506ねんせいはじめ3ねん) - 572ねん武平たけひら3ねん))は、きたひとし文人ぶんじん学者がくしゃはくおこりおくりなぶんさだほんぬき鉅鹿ぐんしたきょくけんちちけんじんひょうきたたかし正史せいししょ』の撰者せんじゃで、ふとしがく博士はかせ

生涯しょうがい

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きたたかしふし閔帝時期じきさむらいろうとなり、起居ききょちゅう皇帝こうてい身辺しんぺん記録きろく)を管掌かんしょうした。そのおさむ国史こくし中書ちゅうしょさむらいろうとなる。きたたかしまつより、あずまたかしきたひとし詔書しょうしょおおくには、おさむぶん採用さいようされ、律令りつりょう改修かいしゅう礼典れいてん整備せいびにも功績こうせきのこしたとされる。温子あつこのぼり邢卲ともに「北地きたじさんさい」としょうされた。

きたひとし建国けんこくは、中書ちゅうしょれい著作ちょさくろうとなる。551ねん天保てんぽう2ねん)、きた編纂へんさんめいじられ、554ねん、『しょ』130かんあらわ奏上そうじょうした。しかし、おさむせんした『しょ』は、編纂へんさんにあたって自分じぶん意見いけんしたがものだけを史官しかんとして任命にんめいしたことや、敵対てきたいしたものをことごとくおとしめ、記述きじゅつ公平こうへいさをくことなどから、評判ひょうばんはすこぶるわるく、「けがれ」としょうされたりもした。また、みずからの才覚さいかくをたのみ傲慢ごうまんであったことや、南朝なんちょうはり使者ししゃとしておもむいたとき迎賓館げいひんかん妓女ぎじょんで南朝なんちょうはりがわ顰蹙ひんしゅくったり、「おどろき蛺蝶(蝶々ちょうちょういさり)」とあだされるほどの好色こうしょくめんや、権力けんりょくしゃ平気へいきでこびへつらったなどのことから、批判ひはんけることが多々たたあったという。『しょ編纂へんさんによって人々ひとびとうらみをったため、577ねんきたひとし滅亡めつぼうすると、はかあばかれ、遺骨いこつそとてられた。文集ぶんしゅう70かんられたというが、つてそんしない。

伝記でんき資料しりょう

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