邪馬台国 畿内 説
概要 [編集 ]
1960
邪馬台国 畿内 説 の基本 的 論拠 [編集 ]
- 「
邪 馬 台 」は当時 の中国 語 の発音 で"*jamadə"であったと言語 学 的 に推定 され、当時 の日本語 では清音 と濁音 を区別 しないことから、「大和 」の当時 の発音 である"jamatə"と完全 に一致 すること。 纏 向 遺跡 は当時 としては広大 な面積 を持 つ最大 級 の集落 跡 であり、一種 の都市 遺跡 である。年代 調査 の成果 により、倭人 伝 の時代 (卑弥呼 247年 頃 (3世紀 半 ば)没 )と遺跡 の時代 (始期 は2世紀 後半 (180年 )〜3世紀 前半 (210年 )頃 。最盛 期 は3世紀 終 わり頃 〜4世紀 初 め)が概 ね合致 していると考 える。吉備 、阿 讃 (東 四国 瀬戸内 側 )の勢力 の技術 によると見 られる初期 の前方後円墳 が卑弥呼 の没年 近 くに作 られはじめ(箸 墓 古墳 [7])、大和 を中心 に分布 し、時代 が下 るにつれて全国 に広 がっていったこと。- 3
世紀 後半 には北九州 から南関東 にいたる全国 各地 の土器 が出土 し、纏 向 が当時 の日本 列島 の大 部分 を統括 する交流 センター的 な役割 を果 たしたことがうかがえること。 卑弥呼 の遣 使 との関係 を窺 わせる景 初 三 年 、正 始 元年 銘 を持 つものもある三角縁神獣鏡 が畿内 を中心 に分布 していること[8]。弥生 時代 から古墳 時代 にかけておよそ4,000枚 の鏡 が出土 するが、そのうち紀年 鏡 13枚 のうち魏 の年号 を記 した10枚 は235年 〜244年 の間 に収 まって銘 されており、そのうちの5枚 が畿内 に分布 していること。この時期 の畿内 勢力 が中国 の年号 と接 しうる勢力 であったことを物語 ると考 える。- 『
日本書紀 』神功 紀 では、魏 志 と『後 漢書 』の倭国 の女王 を神功 皇后 に結 び付 けているように読 める。 - 『
隋 書 』では、都 する場所 邪 靡堆を「魏 志 に謂 うところの邪 馬 臺 なるものなり」と何 の疑問 もなく同一 視 していること。 近畿 は南 に無 いが、現存 する「魏 志 」はすべて宋 時代 の刊行 本 を元 としているので、それ以前 の写本 の中 に、南 を東 と記載 したものがある可能 性 [9]。
魏 に朝貢 したからと言 って、邪馬台国 が日本 列島 最大 勢力 であったとは限 らないこと。さらに纏 向 遺跡 からは九州 地方 の遺物 の出土 も乏 しく、大陸 系 の遺物 は全 くといってよいほど発見 されていないこと。纏 向 遺跡 の年代 の問題 から卑弥呼 治世 時 の遺跡 とする見解 に対 する批判 があり、上記 説 に伴 って邪馬台国 と大和 の二 朝 並立 説 や、王朝 とまではいえなくとも邪馬台国 とは別 の地方 勢力 があったと考 えられること。- 「
魏 志 倭人 伝 」の記述 は北九州 の小国 を詳細 に紹介 する一方 で、畿内 説 が投 馬 国 に比定 する近畿 以西 に存在 したはずの吉備 国 や出雲 国 の仔細 には全 く触 れられておらず、近畿 圏 まで含 む道程 の記述 とみなすのは不自然 [10]。 - 「
魏 志 倭人 伝 」を読 む限 り、邪馬台国 は伊都 国 や奴 国 といった北部 九州 の国 より南側 にあること。また、記紀 には元 伊都 国王 や元 奴 国王 が北部 九州 征伐 に行 った仲哀 天皇 に降伏 して、玉 や剣 など先祖 伝来 の神器 を仲哀 天皇 に差 し出 したとの記述 があること。ただし、考古学 的 にはこれらの記紀 の記述 の信憑 性 は非常 に低 い。 - 『
旧 唐 書 』では邪馬台国 と日本 国 を別 国 として扱 っていること。
かつて、
三角縁神獣鏡 を卑弥呼 が魏 皇帝 から賜 った100枚 の鏡 であるとする説 - しかし、既 に見 つかったものだけでも400~500面 以上 になること、中国 や朝鮮半島 から1面 も出土 例 がないこと、製造 時期 の長 さから特 鋳 説 には無理 があること、中国 社会 科学 院 考古学 研究所 長 王仲殊 が「それらは漢 鏡 ではない」と発表 するなど中国 の学者 が概 ね日本 鏡 説 を支持 したことなどから、九州 説 の側 から「三角縁神獣鏡 は全 て日本 製 」との反論 を受 けた。邪馬台国 長官 の伊 支 馬 (いきま?)と垂 仁 天皇 の名 「いくめ」の近似 性 を指摘 する説 -大和 朝廷 の史書 である記紀 には、卑弥呼 の遣 使 のこと等 具体 的 に書 かれていない。田道 間 守 の常世 への旅 の伝説 を、遣 使 にあてる説 もある。
纒 向 遺跡 [編集 ]
箸 墓 古墳 [編集 ]
脚注 [編集 ]
- ^
渡邉 義浩 『魏 志 倭人 伝 の謎 を解 く三国志 から見 る邪馬台国 』中央公論 新 社 〈中公新書 2164〉、2012年 5月 25日 、13頁 。ISBN 978-4-12-102164-9 。 - ^
久米 雅雄 「新 邪馬台国 論 ―女王 の鬼道 と征服 戦争 ―」『歴史 における政治 と民衆 』1986年 、「親 魏 倭 王 印 とその歴史 的 背景 」『日本 印章 史 の研究 』雄山閣 、2004年 )。 - ^
石野 博信 『大和 ・纒 向 遺跡 』、邪馬台国 の候補 地 ・纒 向 遺跡 (シリーズ「遺跡 を学 ぶ」) 、田原本 町 教育 委員 会 『唐古 ・鍵 遺跡 の考古学 』 - ^
伊藤 和史 . “毎日新聞 連載 「深 読 み日本 史 邪馬台国 」”.邪馬台国 の会 . 2011年 11月12日 閲覧 。 - ^ “「
九州 説 は無理 …」新井 白石 以来 の邪馬台国 論争 ゴール近 し纒 向 遺跡 ”.産経新聞 . (2009年 11月11日 ). オリジナルの2009年 11月14日 時点 におけるアーカイブ。 2011年 11月12日 閲覧 。 - ^ 。ただし、
年輪 年代 学 では原理 的 に遺跡 の年代 の上限 しか決定 できない上 に、専門 家 の数 が少 なく、日本 の標準 年輪 曲線 は一 つの研究 グループによって作成 され、正確 データの公表 すらなされておらず追試 検証 が行 われていないためである。放射 性 炭素 年代 測定 法 にしても、測定 資料 をとることは遺物 を損傷 することでもあり機材 も必要 なので追試 検証 は行 われないとの指摘 もある。 - ^
奈良 県立 橿原考古学研究所 は280〜300年 (±10〜20年 )と推定 - ^
畿内 説 、九州 説 を問 わず、三角縁神獣鏡 を日本 で制作 されたものとする説 がある。 - ^
九州 説 では、書 紀 の編纂 に当 たった当時 の大和 朝廷 が、参照 した中国 の史書 (魏 書 、後 漢書 など)にある古代 国家 の記述 を書 紀 に組 み入 れたにすぎないとする。 - ^
郡 使 は北部 九州 に所在 する伊都 国 に常 に「駐 」したと倭人 伝 にあるので、北部 九州 の小国 に関 する記述 ばかりが詳 しいことは不思議 ではない。また、小路 田 泰 直 は投 馬 国 を出雲 にあてている。
参考 文献 [編集 ]
寺沢 薫 「ヤマト王権 の誕生 -王 都 ・纒 向 遺跡 とその古墳 」奈良 文化財 研究所 編 /佐原 真 +ウェルナー・シュタインハウス監修 『日本 の考古学 下 』学生 社 、2005年 12月。ISBN 4-311-75035-8和田 萃 『大系 日本 の歴史 2古墳 の時代 』小学館 <小学館 ライブラリー>、1992年 8月 。ISBN 4-09-461002-2