邪馬台国やまたいこく畿内きないせつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ほんこうでは、邪馬台国やまたいこく所在地しょざいちかんする学説がくせつのうち、畿内きない地方ちほうにあるとする邪馬台国やまたいこく畿内きないせつ(やまたいこくきないせつ)を概説がいせつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

新井あらい白石はくせきが「古史こしどおりあるとい」において大和やまとこくせついた。しかしのちに「外国がいこくこと調書ちょうしょ」で筑後ちくごこく山門やまとぐんせついた[1]以降いこう江戸えど時代じだいから現在げんざいまで学界がっかい主流しゅりゅうは「畿内きないせつ」(内藤ないとう湖南こなんら)と「九州きゅうしゅうせつ」(白鳥庫吉しらとりくらきちら)のせつおおきくかれている。ただし、九州きゅうしゅうせつには、邪馬台国やまたいこくが”移動いどうした"とするせつ(「東遷とうせんせつ」)と"移動いどうしなかった"とするせつがある。「東遷とうせんせつ」では、邪馬台国やまたいこく畿内きない移動いどうしてヤマト王権おうけんになったとする。

久米くめ雅雄まさおは「王朝おうちょう並立へいりつろん」を提唱ていしょうし、「ぐんいたり女王じょおうこくまんせんあまりさと」の「女王じょおうこく」と、「海路かいろさんじゅうにち」(「みなみいたりとうこくすいぎょうじゅうにち」をて「みなみいたり邪馬台国やまたいこくすいぎょうじゅうにち」してたどりく)の「邪馬台国やまたいこく」とはべつの「そうことなるこく」であり、筑紫つくしにあった女王じょおうこくが「倭国わのくに大乱たいらん」をつうじて畿内きないしたしんおう邪馬台国やまたいこくであるとする[2]

1960年代ねんだいには、畿内きない邪馬台国やまたいこく時期じきにあたる遺物いぶつがあまり出土しゅつどしないのにくらべ、九州きゅうしゅうでは豊富ほうふであるとかんがえられていたが、1970年代ねんだいから交差こうさ年代ねんだい決定けっていほうによる考古学こうこがくてき年代ねんだい決定けっていろん研究けんきゅうすすみ、畿内きないせつ有力ゆうりょくとする意見いけんもある[3][4][5][6]。この畿内きないせつてば、3世紀せいき日本にっぽんすくなくとも大和やまとから大陸たいりくいた交通こうつう確保かくほできた勢力せいりょく存在そんざいしたことになり、大和やまと中心ちゅうしんとした西日本にしにほん全域ぜんいきおおきな影響えいきょうりょく勢力せいりょくすなわち「ヤマト王権おうけん」がこの時期じきすで成立せいりつしているとの見方みかたができる。

邪馬台国やまたいこく畿内きないせつ基本きほんてき論拠ろんきょ[編集へんしゅう]

邪馬台国やまたいこく畿内きないせつには、琵琶湖びわこ湖畔こはん大阪おおさかなどの複数ふくすうせつ存在そんざいする。このなかでは、奈良ならけん桜井さくらい三輪山みわやまちかくのまといこう遺跡いせき(まきむくいせき)を邪馬台国やまたいこく比定ひていするせつ有力ゆうりょくとされている。 邪馬台国やまたいこく畿内きないせつでは、「畿内きないには最大さいだいきゅう都市とし遺跡いせきがある。朝貢ちょうこうした邪馬台国やまたいこくはその当時とうじ日本にっぽん列島れっとう最大さいだい勢力せいりょくであったはず」という仮定かていもとづいている。

  • よこしまだい」は当時とうじ中国ちゅうごく発音はつおんで"*jamadə"であったと言語げんごがくてき推定すいていされ、当時とうじ日本語にほんごでは清音せいおん濁音だくおん区別くべつしないことから、「大和やまと」の当時とうじ発音はつおんである"jamatə"と完全かんぜん一致いっちすること。
  • まといこう遺跡いせき当時とうじとしては広大こうだい面積めんせき最大さいだいきゅう集落しゅうらくあとであり、一種いっしゅ都市とし遺跡いせきである。
  • 年代ねんだい調査ちょうさ成果せいかにより、倭人わじんでん時代じだい卑弥呼ひみこ247ねんごろ(3世紀せいきなかば)ぼつ)と遺跡いせき時代じだい始期しきは2世紀せいき後半こうはん(180ねん)〜3世紀せいき前半ぜんはん(210ねんごろ最盛さいせいは3世紀せいきわりごろ〜4世紀せいきはじめ)がおおむ合致がっちしているとかんがえる。
  • 吉備きびおもねさんひがし四国しこく瀬戸内せとうちがわ)の勢力せいりょく技術ぎじゅつによるとられる初期しょき前方後円墳ぜんぽうこうえんふん卑弥呼ひみこ没年ぼつねんちかくにつくられはじめ(はし古墳こふん[7])、大和やまと中心ちゅうしん分布ぶんぷし、時代じだいくだるにつれて全国ぜんこくひろがっていったこと。
  • 3世紀せいき後半こうはんには北九州きたきゅうしゅうから南関東みなみかんとうにいたる全国ぜんこく各地かくち土器どき出土しゅつどし、まといむかい当時とうじ日本にっぽん列島れっとうだい部分ぶぶん統括とうかつする交流こうりゅうセンターてき役割やくわりたしたことがうかがえること。
  • 卑弥呼ひみこ使との関係かんけいうかがわせるけいはつさんねんせいはじめ元年がんねんめいつものもある三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう畿内きない中心ちゅうしん分布ぶんぷしていること[8]
  • 弥生やよい時代じだいから古墳こふん時代じだいにかけておよそ4,000まいかがみ出土しゅつどするが、そのうち紀年きねんきょう13まいのうち年号ねんごうしるした10まいは235ねん〜244ねんあいだおさまってめいされており、そのうちの5まい畿内きない分布ぶんぷしていること。この時期じき畿内きない勢力せいりょく中国ちゅうごく年号ねんごうせっしうる勢力せいりょくであったことを物語ものがたるとかんがえる。
  • 日本書紀にほんしょき神功じんぐうおさむでは、こころざしと『こう漢書かんしょ』の倭国わのくに女王じょおう神功じんぐう皇后こうごうむすけているようにめる。
  • ずいしょ』では、する場所ばしょよこしま靡堆を「こころざしうところのよこしまだいなるものなり」となに疑問ぎもんもなく同一どういつしていること。
  • 近畿きんきみなみいが、現存げんそんする「こころざし」はすべてそう時代じだい刊行かんこうほんもととしているので、それ以前いぜん写本しゃほんなかに、みなみひがし記載きさいしたものがある可能かのうせい[9]

畿内きない卑弥呼ひみこ時代じだいである3世紀せいきから国内こくない最大さいだい規模きぼ勢力せいりょくとして存在そんざいしていたことはうたがいようがない。

ぎゃくに、畿内きないせつ弱点じゃくてんとしてげられるのはつぎてんである。

  • 朝貢ちょうこうしたからとって、邪馬台国やまたいこく日本にっぽん列島れっとう最大さいだい勢力せいりょくであったとはかぎらないこと。さらにまといこう遺跡いせきからは九州きゅうしゅう地方ちほう遺物いぶつ出土しゅつどとぼしく、大陸たいりくけい遺物いぶつまったくといってよいほど発見はっけんされていないこと。
  • まといこう遺跡いせき年代ねんだい問題もんだいから卑弥呼ひみこ治世ちせい遺跡いせきとする見解けんかいたいする批判ひはんがあり、上記じょうきせつともなって邪馬台国やまたいこく大和やまとあさ並立へいりつせつや、王朝おうちょうとまではいえなくとも邪馬台国やまたいこくとはべつ地方ちほう勢力せいりょくがあったとかんがえられること。
  • こころざし倭人わじんでん」の記述きじゅつ北九州きたきゅうしゅう小国しょうこく詳細しょうさい紹介しょうかいする一方いっぽうで、畿内きないせつとうこく比定ひていする近畿きんき以西いせい存在そんざいしたはずの吉備きびこく出雲いずもこく仔細しさいにはまったれられておらず、近畿きんきけんまでふく道程どうてい記述きじゅつとみなすのは不自然ふしぜん[10]
  • こころざし倭人わじんでん」をかぎり、邪馬台国やまたいこく伊都いとこくやつこくといった北部ほくぶ九州きゅうしゅうくにより南側みなみがわにあること。また、記紀ききにはもと伊都いと国王こくおうもとやつ国王こくおう北部ほくぶ九州きゅうしゅう征伐せいばつった仲哀ちゅうせつ天皇てんのう降伏ごうぶくして、たまけんなど先祖せんぞ伝来でんらい神器じんぎ仲哀ちゅうせつ天皇てんのうしたとの記述きじゅつがあること。ただし、考古学こうこがくてきにはこれらの記紀きき記述きじゅつ信憑しんぴょうせい非常ひじょうひくい。
  • きゅうとうしょ』では邪馬台国やまたいこく日本にっぽんこくべつこくとしてあつかっていること。

かつて、畿内きないせつ重要じゅうよう根拠こんきょとされていたせつ以下いかである。

  • 三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう卑弥呼ひみこ皇帝こうていからたまわった100まいかがみであるとするせつ - しかし、すでつかったものだけでも400~500めん以上いじょうになること、中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとうから1めん出土しゅつどれいがないこと、製造せいぞう時期じきながさからとくせつには無理むりがあること、中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがくいん考古学こうこがく研究所けんきゅうじょちょう王仲殊おうちゅうしゅが「それらはかんきょうではない」と発表はっぴょうするなど中国ちゅうごく学者がくしゃおおむ日本にっぽんきょうせつ支持しじしたことなどから、九州きゅうしゅうせつがわから「三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうすべ日本にっぽんせい」との反論はんろんけた。
  • 邪馬台国やまたいこく長官ちょうかんささえ(いきま?)とたれじん天皇てんのう「いくめ」の近似きんじせい指摘してきするせつ - 大和やまと朝廷ちょうてい史書ししょである記紀ききには、卑弥呼ひみこ使つかいのこととう具体ぐたいてきかれていない。田道たみちあいだもり常世とこよへのたび伝説でんせつを、使つかいにあてるせつもある。

まといこう遺跡いせき[編集へんしゅう]

はし古墳こふん[編集へんしゅう]

はし古墳こふん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 渡邉わたなべ義浩よしひろこころざし倭人わじんでんなぞく 三国志さんごくしから邪馬台国やまたいこく中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ 2164〉、2012ねん5がつ25にち、13ぺーじISBN 978-4-12-102164-9http://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/05/102164.html 
  2. ^ 久米くめ雅雄まさおしん邪馬台国やまたいこくろん女王じょおう鬼道きどう征服せいふく戦争せんそう―」『歴史れきしにおける政治せいじ民衆みんしゅう』1986ねん、「おややまとおうしるしとその歴史れきしてき背景はいけい」『日本にっぽん印章いんしょう研究けんきゅう雄山閣ゆうざんかく、2004ねん)。
  3. ^ 石野いしの 博信ひろのぶ大和やまとまといこう遺跡いせき』、邪馬台国やまたいこく候補こうほまといこう遺跡いせき (シリーズ「遺跡いせきまなぶ」) 、田原本たわらもとまち教育きょういく委員いいんかい唐古からこかぎ遺跡いせき考古学こうこがく
  4. ^ 伊藤いとう和史かずし. “毎日新聞まいにちしんぶん連載れんさいふか日本にっぽん 邪馬台国やまたいこく”. 邪馬台国やまたいこくかい. 2011ねん11月12にち閲覧えつらん
  5. ^ “「九州きゅうしゅうせつ無理むり…」新井あらい白石はくせき以来いらい邪馬台国やまたいこく論争ろんそうゴールちかし まといこう遺跡いせき. 産経新聞さんけいしんぶん. (2009ねん11月11にち). オリジナルの2009ねん11月14にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091114105617/http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091111/acd0911111059006-n1.htm 2011ねん11月12にち閲覧えつらん 
  6. ^ 。ただし、年輪ねんりん年代ねんだいがくでは原理げんりてき遺跡いせき年代ねんだい上限じょうげんしか決定けっていできないうえに、専門せんもんかずすくなく、日本にっぽん標準ひょうじゅん年輪ねんりん曲線きょくせんひとつの研究けんきゅうグループによって作成さくせいされ、正確せいかくデータの公表こうひょうすらなされておらず追試ついし検証けんしょうおこなわれていないためである。放射ほうしゃせい炭素たんそ年代ねんだい測定そくていほうにしても、測定そくてい資料しりょうをとることは遺物いぶつ損傷そんしょうすることでもあり機材きざい必要ひつようなので追試ついし検証けんしょうおこなわれないとの指摘してきもある。
  7. ^ 奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょは280〜300ねん(±10〜20ねん)と推定すいてい
  8. ^ 畿内きないせつ九州きゅうしゅうせつわず、三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう日本にっぽん制作せいさくされたものとするせつがある。
  9. ^ 九州きゅうしゅうせつでは、しょ編纂へんさんたった当時とうじ大和やまと朝廷ちょうていが、参照さんしょうした中国ちゅうごく史書ししょしょこう漢書かんしょなど)にある古代こだい国家こっか記述きじゅつしょれたにすぎないとする。
  10. ^ ぐん使北部ほくぶ九州きゅうしゅう所在しょざいする伊都いとこくつねに「ちゅう」したと倭人わじんでんにあるので、北部ほくぶ九州きゅうしゅう小国しょうこくかんする記述きじゅつばかりがくわしいことは不思議ふしぎではない。また、小路こうじたいじきとうこく出雲いずもにあてている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 寺沢てらさわかおる 「ヤマト王権おうけん誕生たんじょう-おうみやこまといこう遺跡いせきとその古墳こふん奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょへん / 佐原さはらしん+ウェルナー・シュタインハウス監修かんしゅう日本にっぽん考古学こうこがく 学生がくせいしゃ、2005ねん12月。ISBN 4-311-75035-8
  • 和田わだ大系たいけい 日本にっぽん歴史れきし2 古墳こふん時代じだい小学館しょうがくかん<小学館しょうがくかんライブラリー>、1992ねん8がつISBN 4-09-461002-2