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こごめ

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こごめ(くつ かい、? - 紀元前きげんぜん312ねん)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいすわえ政治せいじ将軍しょうぐん。またのこごめ[1]こごめぶた[2]かれることもある[3][4]すわえ公子こうしであるこごめきずからはじまるこごめひとどう時代じだいこごめはら親族しんぞくである[5]。のちにはたはいめぐみぶんおうつか丞相じょうしょうとなったとするせつもある[6]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ふところおう16ねん紀元前きげんぜん313ねん)、すわえふところおうこごめ匄らさんめい大夫たいふ派遣はけんし、ひとし合従がっしょうしてはたきょく沃(現在げんざい山西さんせいしょう臨汾きょく沃県から河南かなんしょう三門さんもんかい陝州南西なんせい)を占拠せんきょし、さらに於中(現在げんざい河南かなんしょう南陽なんよう西にしかいけんひがし)を包囲ほういした。

すわえひとし合従がっしょうぐんおそれためぐみぶんおうちょうただしすわえ派遣はけんした。ちょうただししょう於の現在げんざい河南かなんしょう南陽なんよう淅川けんろくひゃくさと四方しほう割譲かつじょうするからひとしとの同盟どうめい破棄はきしてしいともうれた。ちょうただし提示ていじした広大こうだい土地とちくらんだふところおうちんの諫言にみみさず、はた停戦ていせんひとし同盟どうめい解除かいじょげる使者ししゃおく一方いっぽう約束やくそくるための使者ししゃちょうただし随行ずいこうさせた[7][8][9]

はたもどったちょうただしくるまからちて怪我けがをしたかぜよそおい3カ月かげつあいだすわえ使者ししゃおうとしなかった。ふところおうはこれはひとしとの関係かんけい完全かんぜん清算せいさんしていないことが原因げんいんかんがえ、勇士ゆうしそうのこひとし派遣はけんひとしせんおう侮辱ぶじょくさせた。せんおう激怒げきどし、はた同盟どうめいむすぶことをめた。はたひとし同盟どうめい締結ていけつ確認かくにんしたちょうただしすわえからの使者ししゃうと、すわえ約束やくそくしていたしょう於のろくひゃくさと四方しほうではなくろくさと四方しほう割譲かつじょうすると宣言せんげんした。使者ししゃ抗議こうぎしたがききいれられず、すわえ帰国きこくするとふところおうにこれをげ、ふところおうちょうただしだまされたことに気付きづ激怒げきどし、はたつためのぐんおこした[10]

ふところおういのちこごめひきいるすわえぐんは於中を猛然もうぜん攻撃こうげきし、さらにはしらこくけいみどりしょうにしたぐんはた同盟どうめいこくであるかんの雍氏(現在げんざい河南かなんしょうもとあきら禹州北東ほくとう)を包囲ほういさせた[11][12]

どう時期じきひとしそう合従がっしょうしてはた同盟どうめいこくであるなつめ現在げんざい山東さんとうしょう菏沢東明とうめいけんみなみ)を包囲ほういした[13]はためぐみぶんおうみっつのぐん編成へんせいし、1ぐんには庶長あきらしょうとし於中の救援きゅうえん派遣はけんし、1ぐんにはあましげるしょうとしてすわえかんちゅう現在げんざい湖北こほくしょうじゅうせき西にし)をめさせてこれを占領せんりょうさせ[11]最後さいごの1ぐんには庶長のぶなさとやましいたまんしょうとし、かん連合れんごうぐんともにそれぞれをめるすわえひとしぐんたらせた[11][14][1]

ふところおう17ねん紀元前きげんぜん312ねん)、ぶなさとやましひきいるぐんは雍氏でけいみどりひきいるすわえぐん撃破げきはしょうぐん合流ごうりゅうした[12]あきらひきいるはたかん連衡れんこうぐん丹陽たんよう現在げんざい河南かなんしょう南陽なんよう淅川けんすいと淅水がまじわる一帯いったい)にてこごめひきいるすわえぐん交戦こうせんし、これを撃破げきはし8まんすわえへいくび大将たいしょうこごめ匄にくわえ裨将ぐん逢侯うしら70めいあまりしょうらえた[11][15]のちこごめ匄は処刑しょけいされ[6]、このちにじょうじたはたぐんかんちゅうろくひゃくさと奪取だっしゅし、かんちゅうぐん設置せっちした(たんよう藍田あいだたたか中国語ちゅうごくごばん)。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 史記しきまきななじゅういちぶな里子さとごあましげる列伝れつでん明年みょうねん,(厳君げんくんやましじょあきらおさむすわえはいすわえはたこごめ丐,かんちゅうぶな里子さとごあましげる列伝れつでん 日本語にほんごやく
  2. ^ こごめぶた兄弟きょうだいとする見解けんかいる。春秋しゅんじゅうこごめについて 山田やまだ たかしひとし - 立命館大学りつめいかんだいがく 20P なにひろし系譜けいふより
  3. ^ 戦国せんごくさく きゅうじゅうろくぺーじ - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  4. ^ 戦国せんごくさく まきだいよん しん 7ぺーじ
  5. ^ 春秋しゅんじゅうこごめについて 山田やまだ たかしひとし - 立命館大学りつめいかんだいがく
  6. ^ a b 戦国せんごくさくまきよんしんさくあましげるやくはたたかし而攻すわえあましげるやくはた而攻すわえすわえあいしんしゃこごめぶたため楚和そわ於秦,はたあきらせき而聴すわえ使。『戦国せんごくさく』のこのふしってこごめ匄は捕虜ほりょとなったのち、はた宰相さいしょうとなったとするせつもある。
  7. ^ 戦国せんごくさくまきよんしんさく二斉助楚攻秦:ひとしすわえおさむはたきょく沃。其後,はたよくひとしひとしすわえ交善,めぐみおう患之。
  8. ^ 史記しきまきよんじゅういちえつおう践世すわえさん大夫たいふはりきゅうぐんきたかこえきょく沃・於中。
  9. ^ 史記しきまきよんじゅうすわえ:(すわえふところおうじゅうろくねんはたよくひとし,而楚あずかひとししたがえおやはためぐみおう患之,乃宣言せんげんちょうただしめんしょう使つかいちょうただしみなみすわえおういいすわえおう曰:“…おうため閉関而絶ひとしこん使つかい使者ししゃしたがえ西にししんしょぶんすわえしょう於之地方ちほうろくひゃく如是にょぜのりひとしじゃく矣。”ふところおうだいえついん使いち将軍しょうぐん西にし受封
  10. ^ 史記しきまきよんじゅうすわえちょうただしいたりしんしょうよい墜車,しょうびょう不出ふしゅつさんがつ不可ふかとくすわえおう曰:“以吾ぜっひとしためなおうすよこしま?”乃使勇士ゆうしそうのこきたはずかしめひとしおうひとしおうだいいかおりすわえ而合於秦。はたひとし交合こうごうちょうただし乃起あさいいすわえ将軍しょうぐん曰:“なん受地?したがえぼういたりぼうこうろくさと。”すわえ将軍しょうぐん曰:“しん所以ゆえんいのちしゃろくひゃくろくさと。”そく以帰ほうふところおうふところおうだいいかきょうはたしん
  11. ^ a b c d 史記しきまきはた本紀ほんぎ:(はためぐみぶんおう)(更年こうねんじゅうさんねん,庶長あきらげきすわえ於丹とりこ其将こごめ匄,斬首ざんしゅはちまんまたおさむすわえかんちゅうろくひゃくおけかんちゅうぐんすわえかこえ雍氏,はた使つかい庶長やましじょかん而東おさむひとしいたまんじょおさむつばめ
  12. ^ a b 史記しきまきじゅうろくこく年表ねんぴょう:(かんせんめぐみおうじゅういちねんはたすけわがおさむすわえかこえけいみどり
  13. ^ 史記しきしゅうかいかん 引徐こう曰:ひとしそうかこえなつめ
  14. ^ 史記しきまきななじゅういちぶな里子さとごあましげる列伝れつでんおうあましげる)而説使つかいはた,而佐しょうりゃくていかんちゅう
  15. ^ 和訳わやく史記しき列伝れつでん 上巻じょうかん だいじゅうよん こごめげん賈生列伝れつでん353ぺーじ - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]