杜もり 倉くら(と そう、生なま没年ぼつねん不ふ詳しょう)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいの秦はたの政治せいじ家かで相あい邦くにを務つとめた。『史記しき』では彼かれに対たいする記載きさいはなく、『韓非子かんぴし』の存そん韓かん篇へんでその行動こうどうが記録きろくされている。それによると、五ご国こく合従がっしょう軍ぐんの攻撃こうげきに報復ほうふくするため、軍ぐんを発はっし楚すわえを攻撃こうげきしたとされ、呂りょ不ふ韋の後のちの相あい邦くにだったと考かんがえられている[1]。