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馮去やまし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

やまし(ふう きょしつ、生年せいねんしょう - 紀元前きげんぜん208ねん)は、はた政治せいじ

人物じんぶつ

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ちょうはなようくん馮亭後裔こうえいとされる[1]はじめすめらぎ37ねん紀元前きげんぜん210ねん)、始皇帝しこうてい最後さいご巡遊じゅんゆうたとき、やましみぎ丞相じょうしょうとして咸陽留守るすをまもった[2]せい元年がんねん紀元前きげんぜん209ねん)、せい皇帝こうてい東方とうほう巡行じゅんこうし、始皇帝しこうていつくったはじめすめらぎななこくせき追記ついきしたとき、やましとならぶ丞相じょうしょうとしてきざまれた[3]。またこのとしつくられた度量衡どりょうこう基準きじゅんとなるけんりょうめいには、「丞相じょうしょう斯去やまし」とあり、丞相じょうしょうとして斯とやましれつしていたことが考古こうこてきにもうらづけられる。二世にせい2ねん紀元前きげんぜん208ねん)、やまし斯や馮劫らとともに「関東かんとう反乱はんらん続発ぞくはつしているのは、軍役ぐんえき労役ろうえき負担ふたんおもく、租税そぜいたかいからであり、阿房宮あぼうきゅう造営ぞうえい中止ちゅうしし、辺境へんきょう軍役ぐんえきらすようにおねがいしたい」とせい皇帝こうてい上奏じょうそうした。しかしせい皇帝こうていはききいれず、斯・馮去やまし・馮劫の3にんごくくだされ、余罪よざい追及ついきゅうされた。やましと馮劫は「しょうしょうはずかしめられず」といって自殺じさつした[4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 漢書かんしょ』馮奉でん
  2. ^ 史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ はじめすめらぎ37ねんじょうによる。ただし『ちょうただししょ』では、やましとされ、始皇帝しこうてい最後さいご巡遊じゅんゆう同行どうこうし、えびす後継こうけいしゃてるよう進言しんげんしている。
  3. ^ 史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ せい元年がんねんじょう
  4. ^ 史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ せい2ねんじょう