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馮亭

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

てい(ふう てい、生年せいねん不明ふめい - 紀元前きげんぜん260ねん)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいかん地方ちほう官吏かんりとして一時いちじてきうえとうもりつとめ、のちちょうってはなようくん地位ちいあたえられてづかえた人物じんぶつ

略歴りゃくれき

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かんうえとうまもりからちょうはなようくん

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紀元前きげんぜん265ねんはた武安たけやすくんしろおこりかんおう現在げんざい河南かなんしょうこげ作市さくいち沁陽)をた。うえとうかん領土りょうどとしてはとなり、かんはたじょうくん謝罪しゃざい使者ししゃとして派遣はけんすると、うえとう割譲かつじょうすることを条件じょうけんとしてはた和議わぎもうれた。

一方いっぽううえとうまもりつとめる靳黈もと使者ししゃ派遣はけんして当地とうちはなれるようつたえたが、靳黈はそのいのちそむいてうえとうまりつづけたため、かん桓恵おうはた宰相さいしょう范雎許可きょか約束やくそくちがえずうえとう割譲かつじょうするために靳黈をうえとうまもりから解任かいにんし、馮亭をあらためてうえとうまもりにんじた。

馮亭はうえとう着任ちゃくにんして1かげつうえとうみんを「かんであるしんていとは連絡れんらくたれ、はたうえとうけてぐんすすめてきているため、このままでかんちからてにできない。このうえちょうにこのささげて帰服きふくすれば、はたちょうめざるをず、そうすればかんちょう協力きょうりょくしてぐんしてはたこうすることができる」と扇動せんどうし、みん支持しじるとちょううえとう献上けんじょうするむね書簡しょかんした。

これをけ、ちょうこうなりおう平原ひらはらくんとそのおとうとたいらようくん相談そうだんし、平原ひらはらくんうえとう接収せっしゅう賛成さんせいしてたいらようくん接収せっしゅう反対はんたいしたが、こうなりおうなやんだすえうえとう接収せっしゅう決断けつだんすると、ぐん派遣はけんした。

馮亭はちょうからはなようくん称号しょうごうしょくさんまんをもってふうこうされた[1][2][3]

長平ながだいたたかいと馮亭の

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だが、この事態じたいはたあきらじょうおう激怒げきどし、紀元前きげんぜん262ねん宰相さいしょう范雎めいじて将軍しょうぐんおうひきいるぐんうえとう侵攻しんこうさせた。これにより、うえとうみんおおくがちょうこく長平ながだい現在げんざい山西さんせいしょうすすむ城市じょうし高平たかひら付近ふきん)へのがれたため、おうひきいるはたぐんはそのまま長平ながだいり、ちょうれん大将たいしょうとする迎撃げいげきぐん派遣はけんし、長平ながだいたたか勃発ぼっぱつした。

馮亭は長平ながだいたたかいにおいて、れん頗にわったちょうぐん大将たいしょうちょうくくおう齕にわってしろおこりひきいるはたぐん大敗たいはいしたさい戦死せんしした[4]

子孫しそん

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馮亭の戦死せんし、その宗族そうぞくはそれぞれじょうとうまたはちょうって存続そんぞくした。

うえとうけい子孫しそん

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ちょうけい子孫しそん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ウィキソース出典 史記しき ちょうだいじゅうさん (中国ちゅうごく), 史記しき/まき043, ウィキソースより閲覧えつらん 史記しき ちょうだいじゅうさん こうなりおうよんねんこう
  2. ^ ウィキソース出典 史記しき しろおこりおう翦列でんだいじゅうさん (中国ちゅうごく), 史記しき/まき073#しろおこり, ウィキソースより閲覧えつらん 史記しき しろおこりおう翦列でん しろおこり あきらおうよんじゅうねんこう
  3. ^ ウィキソース出典 戰國せんごくさくまきじゅうはち ちょうはじめ (中国ちゅうごく), 戰國せんごくさく/まき18#しんおういい公子こうしほか, ウィキソースより閲覧えつらん 戰國せんごくさくまきじゅうはち しんおういい公子こうしこう
  4. ^ a b c d e ウィキソース出典 漢書かんしょ まきななじゅうきゅう 馮奉でん (中国ちゅうごく), 漢書かんしょ/まき079, ウィキソースより閲覧えつらん 漢書かんしょ まきななじゅうきゅう 馮奉でん
  5. ^ a b c d 漢書かんしょまきななじゅうきゅう 馮奉でん

参考さんこう文献ぶんけん

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