オロチぞく

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オロチぞく
орочисэл
オロチぞく
そう人口じんこう
やく900にん(1989ねん
居住きょじゅう地域ちいき
ロシア連邦れんぽうハバロフスク地方ちほう
言語げんご
オロチ
宗教しゅうきょう
シャーマニズム
関連かんれんする民族みんぞく
満州まんしゅうぞく
ナナイ
ウィルタ
ウリチ
エヴェンキ
エヴェン
ウデヘ

2010ねんロシア極東きょくとう国勢調査こくせいちょうさにおけるオロチぞく居住きょじゅう集落しゅうらく

オロチぞく、オロチじんО́рочи自称じしょうロシア: орочисэл古称こしょうロシア: нани(ナニ、アムールがわ流域りゅういきナナイからの借用しゃくようна大地だいちниひとで、「土地とち住民じゅうみん」の)は、ロシア少数しょうすう民族みんぞくひとつ。ハバロフスク地方ちほうツングースけい民族みんぞく[1][2]人口じんこうやく900にんおも居住きょじゅういきアムールがわ支流しりゅうウスリーがわアニュイがわスンガリがわまつ花江はなえ)で[2]、トゥムニナがわТумнина)の下流かりゅうキジみずうみなどでも生活せいかつしている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

オロチツングース諸語しょごぞくしており[1]、トゥムニナ方言ほうげんтумнинский)、ハジ方言ほうげんхадинский)、フンガリ方言ほうげんхунгарийский)にかれる。ツングース諸語しょごなかではウデヘもっとちかいとされるが、ナナイおよウリチからも影響えいきょうけているとかんがえられる。1989ねん時点じてんのオロチ母語ぼごとする割合わりあいは17.8%でのこり82.2%がロシアである。書記しょきほうは2000年代ねんだい初頭しょとう確立かくりつされた。

オロチの名称めいしょうは、ラ・ペルーズ探検たんけん1787ねん以降いこうには国外こくがいにおいても認容にんようされていた。しかし、サマルガ・ビキン・ホル・オニュイ・エンガリとう諸川もろかわ沿岸えんがんでは様々さまざま呼称こしょうがあり、一定いってい呼称こしょうさだまっていなかった。そこでパリチェフツキイとブライレフスキイは、身体しんたい特徴とくちょうかわ沿岸えんがん南部なんぶ北部ほくぶいちじるしくちがうことに着目ちゃくもくし、南部なんぶのオロチじんを「ウデヘじん」と呼称こしょうした。

また、1897ねん公式こうしき報告ほうこくしょ発表はっぴょうしたシテルンベルグは、おなじくオロチじんはアムール下流かりゅうから到来とうらいした人々ひとびとであるとして、オロチじん牧歌ぼっかてき生活せいかつしめし、その特徴とくちょうから南部なんぶ由来ゆらいする人々ひとびとではないことを指摘してきした[3]同年どうねん国勢調査こくせいちょうさ確認かくにんされたオロチじんやく2,407めいであり、また、1909ねんのウデヘじんは959にん確認かくにんされている。

ウリチナナイながらく、ロシアじんは19世紀せいきよりアムールの原住民げんじゅうみんをオロチをんできた。この民族みんぞくめいは1930年代ねんだい公式こうしきのパスポートへ採用さいようされた。その土地とち住民じゅうみん」を意味いみするнани民族みんぞく自称じしょうとして普及ふきゅうしたが、ナナイとウリチにとってはこの民族みんぞくめい長年ながねんアムールとともらしてきた原住民げんじゅうみんしていた。

オロチ発祥はっしょうシホテ=アリニ山脈さんみゃく山中さんちゅうきたデ=カストリわんみなみはボチヤかわまでの領域りょういきかんがえられる。ニヴヒアイヌ、さらにエヴェンキなど周辺しゅうへんしょぞく影響えいきょうけ、アムール(амурская)、フンガリ(хунгарийская)、トゥムニナ(тумнинская)、沿海えんかい(ハジ)(приморская (хадинская))、コッピ(коппинская)の5部族ぶぞくかれる[注釈ちゅうしゃく 1]

清朝せいちょう記録きろくした「キヤカラ」という集団しゅうだん現代げんだいウデヘじん・オロチじん祖先そせん推定すいていされている[4]。キヤカラはキヤカラとバンジルガンの2つの氏族しぞく構成こうせいされており、かん熙52ねん1713ねん)から清朝せいちょうぞくしててんがわみつぎおさめおこなった。

1926ねん統計とうけいでは、オロチじんとウデヘじんあわせてやく2,000にんであった。しかし、まんしゅうこく建国けんこく1940ねんいたると、南部なんぶオロチじん・ウデヘじんらのなか急速きゅうそく中華ちゅうか文化ぶんかつよまり、中国人ちゅうごくじん様々さまざま種族しゅぞくもちいる中国語ちゅうごくごの「ターズ」でウデヘじんならわすようになった。

2002ねんぜんロシア国勢調査こくせいちょうさによるロシア居住きょじゅうするオロチぞく人口じんこうは686にんで、一部いちぶでロシアじん混血こんけつすすみ、生活せいかつ様式ようしきがロシアしている。

生業せいぎょう文化ぶんか[編集へんしゅう]

1851ねんのジョン・タリスによる地図ちずには日本海にほんかい沿って「オロチ Orotchi」の地名ちめいしるされている。

おも伝統でんとうてき産業さんぎょうジャコウジカヘラジカキツネイタチクマ)、沿岸えんがんでは漁業ぎょぎょうおこな[2]狩猟しゅりょう弓矢ゆみややり仕掛しかわな、くくりわな自動じどうゆみ使つかわれる。火器かきわなは19世紀せいき導入どうにゅうされた。海獣かいじゅう狩猟しゅりょう漁撈ぎょろう一年中いちねんじゅうおこなわれる。丸木舟まるきぶねまたはおおきな板張いたばりのボートでかわて、アザラシトドもとめて間宮まみや海峡かいきょうやそのわんる。海獣かいじゅうは銛、じゅう流氷りゅうひょう欠片かけら海岸かいがんにおいてはづちによって仕留しとめられる。漁撈ぎょろうしゅとしてサケカラフトマスで、アムールイトウといったさかな漁網ぎょもう定置網ていちあみる。園芸えんげい仕事しごと補助ほじょてきにおこなわれる[1]

食糧しょくりょうはユッコラとばれるサケ・マスのいぬいぎょ狩猟しゅりょう獲物えもの依存いぞんしている[1]。キツネやイタチはおも毛皮けがわようである。

かわ沿った高台たかだい住居じゅうきょさだめ、定住ていじゅう生活せいかつおくり、父系ふけい氏族しぞく組織そしき中心ちゅうしん村落そんらく共同きょうどうたい形成けいせいしている[2]家族かぞく形態けいたい父系ふけい拡大かくだい家族かぞくのかたちをとっている[2]シャーマニズム信仰しんこう中心ちゅうしんとなっており[2]熊祭くままつ儀礼ぎれいなが保持ほじされてきた[1]。オロチぞくのシャーマンはもりなか祭壇さいだん設営せつえいし、守護しゅごれいたいブタ雄鶏おんどりイヌなどを生贄いけにえにささげた[5]祭壇さいだんにはたかはしらなんほんてられ、いただきには鳥獣ちょうじゅうのすがたがきざまれた[5]。また、オオガラスワシとともに氏族しぞく始祖しそとなる伝承でんしょうゆうしており、英雄えいゆうメルゲン、おんな英雄えいゆうプヂを主人公しゅじんこうとする英雄えいゆう叙事詩じょじしをもっている[6]。ハダウとしょうされる創造そうぞうしん太陽たいよう征伐せいばつをおこなったことで原初げんしょ混沌こんとん世界せかい秩序ちつじょをもたらし、人類じんるい生類しょうるい一般いっぱん創造そうぞうをおこなうという神話しんわもある[6]

これらの文化ぶんかは、みなみ近接きんせつするウデヘぞく似通にかよっている[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 極東きょくとう地域ちいきのツングース・まんしゅうけいしょぞくは、先住民せんじゅうみん社会しゃかいにエヴェンキけい民族みんぞく集団しゅうだんながきにわたって波状はじょうてきにやってきて、接触せっしょく同化どうかかえしていって形成けいせいされたものだとかんがえられている[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 荻原おぎわら真子しんじ「オロチぞく」『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん4 オ-カイ』平凡社へいぼんしゃ、1988ねん3がつ 
  • フランク・B・ギブニー へん『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん:しょう項目こうもく事典じてん1』ティビーエス・ブリタニカ、1972ねん9がつ 
    • 「オロチぞく」『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん:しょう項目こうもく事典じてん1』ティビーエス・ブリタニカ、1972ねん9がつ 
  • 松浦まつうらしげる清朝せいちょうのアムール政策せいさく少数しょうすう民族みんぞく京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい東洋とうよう研究けんきゅうくさむらかん〉、2006ねん2がつISBN 978-4876985272 
  • 三上みかみ次男つぐお神田かんだ信夫しのぶ へん東北とうほくアジアの民族みんぞく歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ民族みんぞく世界せかい3〉、1989ねん9がつISBN 4-634-44030-X 
    • 荻原おぎわら眞子しんじ ちょだい1だいIIあきら 民族みんぞく文化ぶんか系譜けいふ」、三上みかみ神田かんだ へん東北とうほくアジアの民族みんぞく歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ民族みんぞく世界せかい3〉、1989ねん 
  • Березницкий С.В. Мифология и верования орочей. СПб, 1999. 188 С.
  • Маргаритов В.П. Об орочах Императорской гавани. СПб., 1988. 56 С.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]