レズギ人 ぎじん Лезгияр レズギ人 ぎじん の民族 みんぞく 旗 はた
総 そう 人口 じんこう 約 やく 100万 まん 人 にん 居住 きょじゅう 地域 ちいき ロシア
約 やく 800,000人 にん [1] アゼルバイジャン 約 やく 193,300人 にん (アゼルバイジャン政府 せいふ 、2016年 ねん )[2] 言語 げんご レズギ語 ご 宗教 しゅうきょう イスラム教 いすらむきょう スンニ派 は , 少数 しょうすう がシーア派 は [3] [4] [5] 関連 かんれん する民族 みんぞく タバサラン人 じん , アグール人 じん , ルトゥル人 じん , ブドゥフ人 じん , クリツ人 じん , ラク人 じん , ツァフル人 じん , アーキ人 じん , ジェク人 じん , 北 きた コーカサス語 ご 話者 わしゃ および他 た の北 きた コーカサス民族 みんぞく
レズギ人 ぎじん (レズギじん、ロシア語 ご : лезгины 、アゼルバイジャン語 ご : Ləzgilər 、レズギ語 ご :лезгияр ) とは、主 おも にダゲスタン共和 きょうわ 国 こく 南部 なんぶ およびアゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく 北東 ほくとう 部 ぶ の先住民 せんじゅうみん でレズギ語 ご を話 はな す、北東 ほくとう コーカサス地方 ちほう の民族 みんぞく である。
日本 にっぽん 国内 こくない の書籍 しょせき ではレズギン人 じん やレズギン族 ぞく といった翻訳 ほんやく 表記 ひょうき も見 み られる[6] 。
レズギ人 ぎじん
レズギ人 じん という民族 みんぞく 名 めい の由来 ゆらい に関 かん しては、さらなる研究 けんきゅう が求 もと められている。とはいえ、大半 たいはん の研究 けんきゅう 者 しゃ はレズギ(Lezgi)の起源 きげん が古代 こだい のLegi および中世 ちゅうせい 初期 しょき のLakzi からであろうと考察 こうさつ している。
現代 げんだい のレズギ人 ぎじん は、インド・ヨーロッパ語族 ごぞく の導入 どうにゅう 以前 いぜん よりこの地域 ちいき で話 はな されてきた北東 ほくとう コーカサス語 ご を話 はな す。彼 かれ らは文化 ぶんか 的 てき にも言語 げんご 的 てき にも、ダゲスタン南部 なんぶ のアグール人 じん や、少 すこ し遠 とお いところではツァフル人 じん 、ルトゥル人 じん 、タバサラン人 じん (レズギ人 ぎじん の北方 ほっぽう 隣人 りんじん )と密接 みっせつ に関係 かんけい している。もっと遠方 えんぽう ではあるが、アゼルバイジャン北部 ほくぶ の少数 しょうすう 民族 みんぞく であるジェク人 じん 、クリツ人 じん 、ラク人 じん 、シャダフ人 じん 、ブドゥフ人 じん 、キナルグ人 じん とも関連 かんれん がある。これらのグループがレズギ人 じん と共 とも に、レズギ語 ご 話者 わしゃ である先住民 せんじゅうみん のサムール支族 しぞく [注釈 ちゅうしゃく 1] を形成 けいせい する。
レズギ人 ぎじん は、青銅器 せいどうき 時代 じだい にダゲスタン南部 なんぶ 地域 ちいき へ居住 きょじゅう した人々 ひとびと からの子孫 しそん の一部 いちぶ だと信 しん じられている。しかし、ヨーロッパとアジア全体 ぜんたい 人口 じんこう への遺伝 いでん 的 てき つながりを示 しめ すパキスタン のブルショー人 じん との著 いちじる しい類似 るいじ 性 せい など、過去 かこ 4000年 ねん の間 あいだ に中央 ちゅうおう アジア の人種 じんしゅ とかなりの混合 こんごう が起 お きたことを示 しめ すDNA上 じょう の証拠 しょうこ がいくつかある。
ロシア革命 かくめい 以前 いぜん は、レズギ人 ぎじん は民族 みんぞく 集団 しゅうだん としての共通 きょうつう の自称 じしょう を持 も っていなかった。彼 かれ らは村 むら 、地域 ちいき 、宗教 しゅうきょう 、一族 いちぞく 、または自由 じゆう 社会 しゃかい によって自分 じぶん 自身 じしん を呼 よ びならわしていた。革命 かくめい 前 まえ は、レズギ人 ぎじん はロシア人 じん から「Kyurintsy」「Akhtintsy」「Lezgintsy」と呼 よ ばれていた。「レズギ人 じん (Lezgin)」という民族 みんぞく 名 めい 自体 じたい にもかなりの問題 もんだい がある。ソビエト 時代 じだい 以前 いぜん は「Lezgin」という言葉 ことば が様々 さまざま な文脈 ぶんみゃく で使 つか われていた。現在 げんざい のレズギ人 じん として知 し られる人々 ひとびと だけを指 さ す場合 ばあい もあったが、他 た にはダゲスタン南部 なんぶ (レズギ人 ぎじん 、アグール人 じん 、ルトゥル人 じん 、タバサラン人 じん 、ツァフル人 じん )の様々 さまざま な人々 ひとびと 全 すべ てを指 さ すこともあり、ダゲスタン南部 なんぶ およびアゼルバイジャン北部 ほくぶ (クリツ人 じん 、ジェク人 じん 、キナルグ人 じん 、ブドゥフ人 じん 、シャダフ人 じん )の人々 ひとびと 全 すべ て、北東 ほくとう コーカサス語 ご の話者 わしゃ 全 すべ て、または北東 ほくとう コーカサス人 じん (アヴァール人 じん 、ダルギン人 じん 、ラク人 じん 、チェチェン人 じん 、イングーシ人 じん )のうち先住民 せんじゅうみん のムスリム 全 すべ てを指 さ すこともあった。革命 かくめい 以前 いぜん の作品 さくひん を読 よ む際 さい には、「レズギ人 ぎじん 」という民族 みんぞく 名 めい の意味 いみ する範囲 はんい が様々 さまざま であることに注意 ちゅうい する必要 ひつよう がある。
ロシア革命 かくめい 以前 いぜん は、「レズギ人 ぎじん 」が現在 げんざい のロシアのダゲスタン共和 きょうわ 国 こく に居住 きょじゅう する全 すべ ての民族 みんぞく に適用 てきよう される用語 ようご であった[7] 。19世紀 せいき には、コーカサス地方 ちほう のアヴァール人 じん 、ラク人 じん ほか多数 たすう を含 ふく め、ナフ語 ご 派 は 以外 いがい の北東 ほくとう コーカサス言語 げんご を話 はな す全 すべ ての民族 みんぞく グループを指 さ すものとして、この用語 ようご がより広 ひろ い意味 いみ で使用 しよう された(ただし、北東 ほくとう コーカサス言語 げんご を話 はな すヴェナフ人 じん は「Circassians」と呼 よ ばれた)。
19世紀 せいき ロシア・ペルシャ戦争 せんそう の結果 けっか 起 お こったロシア人 じん による占領 せんりょう と崩壊 ほうかい まで、イラン が支配 しはい するデルベント 汗 あせ 国 こく の行政 ぎょうせい 区 く には、多 おお くのレズギ人 ぎじん が含 ふく まれていた。
紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき に、レズギ語 ご を話 はな す多数 たすう の部族 ぶぞく がコーカサス東部 とうぶ 地方 ちほう のカフカス・アルバニア王国 おうこく (この国 くに 自体 じたい は紀元前 きげんぜん 513年 ねん にペルシア のアケメネス朝 あさ に組 く み込 こ まれた)にて形成 けいせい された26部族 ぶぞく に統合 とうごう した[8] [9] 。当初 とうしょ はペルシアだけでなくパルティア 統治 とうち の影響 えいきょう 下 か で、カフカス・アルバニア王国 おうこく はシルバン(Shirvan )やラクジ(Lakzi)など幾 いく つかの地域 ちいき に分割 ぶんかつ された。
レズギ語 ご を話 はな す部族 ぶぞく は、侵入 しんにゅう してきたアレキサンダー大王 だいおう に対抗 たいこう するペルシャの旗下 きか でガウガメラの戦 たたか い に参加 さんか した[8] 。
パルティア統治 とうち の下 した 、イランの政治 せいじ 的 てき 文化 ぶんか 的 てき 影響 えいきょう はカフカス・アルバニア国家 こっか 全域 ぜんいき に広 ひろ がっていき、そこにはレズギ語 ご を話 はな す部族 ぶぞく が居住 きょじゅう する場所 ばしょ も含 ふく まれていた[10] 。パルティア人 じん と組 く んだ戦争 せんそう のためこの地域 ちいき のローマ宗主 そうしゅ 権 けん は散発 さんぱつ 的 てき だったのだが、この国 くに はイベリア(東 ひがし ジョージア)やアルバニア(コーカサス)と共 とも に、アルサケス朝 あさ の支部 しぶ が統治 とうち する汎 ひろし アルサケス家 か 連盟 れんめい の一部 いちぶ となっていた[10] 。文化 ぶんか 的 てき には、アルタクシアス 治世 ちせい 下 か でのヘレニズム 優位 ゆうい を経 へ て再 ふたた び「イラン主義 しゅぎ 」優勢 ゆうせい が続 つづ き、その兆候 ちょうこう としてギリシャ語 ご ではなく以前 いぜん のパルティア語 ご がこの地域 ちいき の教育 きょういく 言語 げんご となった[10] 。この時代 じだい の侵攻 しんこう は、レズギ部族 ぶぞく が住 す んでいた場所 ばしょ を含 ふく む地域 ちいき を134年 ねん から136年 ねん にかけて攻撃 こうげき したアラン人 じん によってなされた。しかしヴォロガセス3世 せい は彼 かれ らに引 ひ き揚 あ げるよう、恐 おそ らくは金銭 きんせん を払 はら って説得 せっとく した。
252-253年 ねん に、レズギ語部 かたりべ 族 ぞく の統治 とうち はパルティア人 じん からサーサーン朝 あさ ペルシャ人 じん に変 か わった。カフカス・アルバニア王国 おうこく は現在 げんざい のサーサーン朝 あさ の付 づけ 庸 いさお 国 こく (自身 じしん の君主 くんしゅ 制 せい が保 たも たれた従属 じゅうぞく 国 こく )となった[11] 。アルバニアの王 おう は実質 じっしつ 的 てき な権力 けんりょく を持 も たず、大 だい 部分 ぶぶん の市民 しみん 的 てき 、宗教 しゅうきょう 的 てき 、軍事 ぐんじ 的 てき な権威 けんい は、同 どう 領土 りょうど におけるサーサーン朝 あさ のマルズバーン (軍事 ぐんじ 総督 そうとく )にあった[12] 。
西暦 せいれき 300年 ねん 頃 ごろ の数 すう 年間 ねんかん 、ロ ろ ーマ帝国 まていこく は一部 いちぶ のレズギン地方 ちほう 最南端 さいなんたん の支配 しはい 権 けん を獲得 かくとく したが、その後 ご サーサーン朝 あさ ペルシャが支配 しはい 権 けん を取 と り戻 もど すと、それ以降 いこう はイスラーム教徒 きょうと のペルシア征服 せいふく が起 お こるまで何 なん 世紀 せいき にもわたってこの地域 ちいき を支配 しはい した。
レズギ人 ぎじん は恐 おそ らく8世紀 せいき に初 はじ めてイスラーム圏 けん に紹介 しょうかい されたが、15世紀 せいき までレズギン人 じん はアニミズム 信仰 しんこう のままだった。その頃 ころ にムスリム の影響 えいきょう が強 つよ くなり、南 みなみ からペルシアの貿易 ぼうえき 業者 ぎょうしゃ がやって来 き て、北 きた からは金 かね 帳 ちょう 汗 あせ 国 こく が圧力 あつりょく を強 つよ めていた。16世紀 せいき 初頭 しょとう 、ペルシアのサファヴィー朝 あさ は何 なに 世紀 せいき にもわたりダゲスタンの大 だい 部分 ぶぶん を強固 きょうこ に統治 とうち していた。1578-1590年 ねん の第 だい 二 に 次 じ オスマン・サファヴィー戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) の結果 けっか として、オスマン帝国 ていこく がその地域 ちいき の支配 しはい を短期間 たんきかん (アッバース1世 せい 王 おう の下 した でサファヴィー朝 あさ に取 と り戻 もど されるまでの間 あいだ )奪 うば い取 と った。
サファヴィー朝 あさ ペルシア時代 じだい の著名 ちょめい なレズギ人 ぎじん にはファス=アリ・ハン・ダヘスターニ (en )がおり、彼 かれ は1716年 ねん から1720年 ねん まで王 おう (シャー )スルターン・フサイン の治世 ちせい にサファヴィー朝 あさ の大 だい 宰相 さいしょう を務 つと めた人物 じんぶつ である。18世紀 せいき 初頭 しょとう までに、サファヴィー朝 あさ は大 おお きく衰退 すいたい した状態 じょうたい だった。1721年 ねん 、レズギ人 ぎじん はシルヴァンの州都 しゅうと シャマキ(Shamakhi )を略奪 りゃくだつ した。18世紀 せいき のサファヴィー朝 あさ 崩壊 ほうかい 後 ご の期間 きかん は、Lak Kazi Kumukh汗 あせ 国 こく がレズギ人 ぎじん の一部 いちぶ を統治 とうち していた。
18世紀 せいき 前半 ぜんはん に、ペルシアはナーディル・シャー の下 した でコーカサス全体 ぜんたい に渡 わた ってその全権 ぜんけん を回復 かいふく することに成功 せいこう した。ナーディルの死後 しご 、彼 かれ は国家 こっか をいくつかの小 ちい さな汗 あせ 国 こく に分割 ぶんかつ した。一部 いちぶ のレズギ人 ぎじん は、現在 げんざい のアゼルバイジャンにあるクバ汗 あせ 国 こく (en )の一部 いちぶ となり、他 た のものはデルベント 汗 あせ 国 こく の管轄 かんかつ 下 か にあった。レズギ人 ぎじん の主要 しゅよう 部分 ぶぶん は「自由 じゆう 社会 しゃかい (Magalim)」(アフティ近辺 きんぺん 、アルティ近辺 きんぺん 、クレ、ドクス近辺 きんぺん )[注釈 ちゅうしゃく 2] で団結 だんけつ した。
1860年代 ねんだい のレズギ人 ぎじん
1813年 ねん 、ゴレスターン条約 じょうやく の結果 けっか として、ロシア人 じん はダゲスタン南部 なんぶ と現代 げんだい のアゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく の大 だい 部分 ぶぶん を支配 しはい した[13] 。1828年 ねん のトルコマーンチャーイ条約 じょうやく は、ダゲスタンおよびレズギ人 ぎじん が居住 きょじゅう する軍事 ぐんじ 的 てき 均衡 きんこう からイランを排除 はいじょ した他 た 地域 ちいき に対 たい するロシアの支配 しはい を無 む 期限 きげん に強化 きょうか した[13] [14] 。ロシア政権 せいけん はその後 ご キウリン汗 あせ 国 こく (Kiurin Khanate)を設立 せつりつ し、後 ご のキウリン地区 ちく [注釈 ちゅうしゃく 3] になった。しかし、ダゲスタンにいるレズギ人 ぎじん の多 おお くは19世紀 せいき のロシア・ペルシャ戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ とほぼ同 どう 時期 じき に始 はじ まったコーカサス戦争 せんそう に参加 さんか し、ロシア統治 とうち に25年間 ねんかん 反抗 はんこう していたアヴァール人 じん のイマーム・シャミール と共 とも にロシア人 じん と戦 たたか った。ロシア側 がわ がダゲスタンおよびレズギ人 じん に対 たい する統治 とうち を固 かた めたのは、1859年 ねん に彼 かれ が敗北 はいぼく した後 のち のことである。
1930年 ねん に、シェイク・モハメド・エフェンディ・シュタルスキムがソビエト統治 とうち に対 たい する反乱 はんらん を起 お こし、それは数 すう ヶ月 かげつ 後 ご に鎮圧 ちんあつ された。20世紀 せいき に、レズギスタン共和 きょうわ 国 こく を(独立 どくりつ 国 こく または自治 じち 地域 ちいき として)創設 そうせつ する試 こころ みがなされた。
1940年代 ねんだい 、一部 いちぶ のレズギ人 ぎじん はスターリン 政権 せいけん によって中央 ちゅうおう アジアに強制 きょうせい 送還 そうかん された。
歴史 れきし 上 じょう の概念 がいねん [ 編集 へんしゅう ]
ヘロドトス 、ストラボン 、大 だい プリニウス を含 ふく む古代 こだい ギリシアの歴史 れきし 家 か は、カフカス・アルバニア王国 おうこく に住 す んでいた「Legoi」の人々 ひとびと に言及 げんきゅう しており、9世紀 せいき から10世紀 せいき のアラブ人 じん 歴史 れきし 家 か は現在 げんざい のダゲスタン南部 なんぶ にあるLakz王国 おうこく に言及 げんきゅう した[16] 。アル=マソウディはこの地域 ちいき の住民 じゅうみん をLakzams(レズギ人 ぎじん )と呼 よ び[17] 、彼 かれ らはシルバンを北 きた からの侵略 しんりゃく 者 しゃ から守 まも った[18] 。レズギ人 じん という民族 みんぞく 群 ぐん は恐 おそ らく、アフティ、アルティ、ドクス近辺 きんぺん の同盟 どうめい およびルトゥル人 じん の中 なか の一部 いちぶ 部族 ぶぞく が合併 がっぺい した結果 けっか として生 しょう じたとされている。
コーカサス地図 ちず からのレズギ人 ぎじん 地域 ちいき 。ヨハン・グスタフ・ギャバー製作 せいさく (1728年 ねん )
レズギ人 ぎじん は、ダゲスタン南部 なんぶ とアゼルバイジャン北部 ほくぶ の国境 こっきょう 地域 ちいき にまたがる狭小 きょうしょう な地域 ちいき に住 す んでいる。その大 だい 部分 ぶぶん はダゲスタン南東 なんとう 部 ぶ (アフティンスキー地区 ちく 、ドクスパリンスキー地区 ちく 、スレイマン=スタリスキー地区 ちく 、クラフスキー地区 ちく 、マガラムケンツキー地区 ちく 、ヒフスキー地区 ちく 、デルベンツキー地区 ちく 、ルトゥリスキー地区 ちく )および隣接 りんせつ するアゼルバイジャン北東 ほくとう 部 ぶ (グバ県 けん 、グサル県 けん 、ガフ県 けん 、ハチマズ県 けん 、オグズ県 けん 、ガバラ県 けん 、シャキ県 けん 、イスマイル県 けん )に存在 そんざい する。
レズギ人 ぎじん の領域 りょういき は2つの地形 ちけい 帯 たい 、すなわち山岳 さんがく 地帯 ちたい と山麓 さんろく 地帯 ちたい に分 わ かれる。レズギ人 ぎじん 地域 ちいき の大 だい 部分 ぶぶん は山岳 さんがく 地帯 ちたい にあり、そこには標高 ひょうこう 3,500m以上 いじょう に達 たっ する山頂 さんちょう (ババダグ[注釈 ちゅうしゃく 4] のような)が幾 いく つかある。サムール川 がわ とGulgeri Chai川 がわ の支流 しりゅう によって形成 けいせい された、深 ふか くて孤立 こりつ した峡谷 きょうこく および地溝 ちこう がある。山岳 さんがく 地帯 ちたい の夏 なつ は非常 ひじょう に暑 あつ く乾燥 かんそう しており、干 かん ばつ状態 じょうたい が継続 けいぞく 的 てき な脅威 きょうい となる。この地域 ちいき には、深 ふか い渓谷 けいこく や小川 おがわ に沿 そ った木 き 以外 いがい にはほとんど樹木 じゅもく が無 な い。干 かん ばつに耐 たい 性 せい がある低木 ていぼく や雑草 ざっそう が自然 しぜん 植物 しょくぶつ の大 だい 部分 ぶぶん を占 し めている。ここの冬 ふゆ は風 ふう が強 つよ くて残酷 ざんこく なほど寒 さむ い。この地域 ちいき でレズギ人 ぎじん は主 おも に畜産 ちくさん 業 ぎょう (大半 たいはん が羊 ひつじ と山羊 やぎ )と工芸 こうげい 品 ひん 産業 さんぎょう に従事 じゅうじ していた。
レズギ人 ぎじん 領域 りょういき の最 さい 東 ひがし 端 はし 、そこは山々 やまやま がカスピ海 かすぴかい の狭 せま い沿岸 えんがん 平野 へいや へと変 か わり、アゼルバイジャン最南端 さいなんたん へと続 つづ く丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい である。この地域 ちいき は比較的 ひかくてき 穏 おだ やかで、非常 ひじょう に乾燥 かんそう した冬 ふゆ と暑 あつ く乾燥 かんそう した夏 なつ を迎 むか える。ここもまた樹木 じゅもく がほとんどない。この地域 ちいき では、畜産 ちくさん 業 ぎょう と職人 しょくにん 仕事 しごと が一部 いちぶ の農業 のうぎょう (川 かわ 付近 ふきん の沖 おき 積層 せきそう 沿 ぞ いで)によって補助 ほじょ されていた。
文化 ぶんか 素材 そざい はアゼルバイジャン、特 とく にアゼルバイジャンに住 す むレズギ人 ぎじん に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼしている。中心 ちゅうしん となる民謡 みんよう は活発 かっぱつ な楽器 がっき 演奏 えんそう を伴 ともな って踊 おど る性質 せいしつ の叙情 じょじょう 的 てき な歌 うた に属 ぞく しており、その演奏 えんそう 自体 じたい は完全 かんぜん なメリスマ である。フォークアート もまた踊 おど りの表現 ひょうげん で、その中 なか でも特 とく に有名 ゆうめい な「レスギンカ (en )」[注釈 ちゅうしゃく 5] はコーカサスの人々 ひとびと の間 あいだ で一般 いっぱん 的 てき である。より落 お ち着 つ いた男性 だんせい 舞踊 ぶよう のZarb makamなど もある。
レズギ人 ぎじん による最初 さいしょ の劇場 げきじょう は、1906年 ねん にアフティの村 むら で始 はじ まった。1935年 ねん 、セミプロのチームに基 もと づいてレズギの州立 しゅうりつ 音楽 おんがく ドラマ劇場 げきじょう が創設 そうせつ され、スレイマン・スタルスキー (en )にちなんで名付 なづ けられた。1998年 ねん には、アゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく のグサル県 けん にある国立 こくりつ レズギン劇場 げきじょう がこけら落 お としを迎 むか えた。
レズギ語 ご はコーカサス諸語 しょご のうちレズギ諸語 しょご (ここにはアグール語 ご 、ルトゥル語 ご 、ツァフル語 ご 、タバサラン語 ご 、ブドゥフ語 ご 、クリツ語 ご 、ウディ語 ご が含 ふく まれる)に属 ぞく する言語 げんご である。
レズギ語 ご には、密接 みっせつ に関連 かんれん した(相互 そうご 理解 りかい できる)3つの方言 ほうげん があり、それはクリン方言 ほうげん (グネイやクラクとも呼 よ ばれる)、アフティ方言 ほうげん 、クバ方言 ほうげん である。クリン方言 ほうげん は3つの中 なか で最 もっと も広 ひろ く普及 ふきゅう しており、歴史 れきし 的 てき にダゲスタンのレズギ人 ぎじん 領域 りょういき の最 もっと も重要 じゅうよう な文化 ぶんか 的 てき 、政治 せいじ 的 てき 、経済 けいざい 的中 てきちゅう 心地 ごこち であったクラフ(en )の町 まち を含 ふく む、ダゲスタンにおけるレズギ語 ご 地域 ちいき の大半 たいはん で話 はな されている。アフティ方言 ほうげん はダゲスタン南東 なんとう 部 ぶ で話 はな されている。3つのうち最 もっと もトルコ語 ご に近 ちか いクバ方言 ほうげん は、アゼルバイジャン北部 ほくぶ のレズギ語 ご 域内 いきない に広 ひろ がっている(これは同 どう 地域 ちいき の文化 ぶんか 的 てき 、経済 けいざい 的 てき な焦点 しょうてん であるクバの町 まち にちなんで名付 なづ けられた)。
現在 げんざい のレズギ人 ぎじん は主 おも にイスラム教徒 きょうと スンニ派 は で、ダゲスタンのミスキンジャ村 むら に少数 しょうすう のシーア派 は が暮 く らしている[20] 。レズギ人 ぎじん 集落 しゅうらく の主 おも なものは村落 そんらく (hur)である。各 かく 村 むら にはモスク や農村 のうそん 地域 ちいき 、村 むら での公共 こうきょう 生活 せいかつ の最 さい 重要 じゅうよう 問題 もんだい に対処 たいしょ するため住民 じゅうみん (男性 だんせい 側 がわ )を集 あつ めるキム(Kim)という村 むら の集会 しゅうかい 所 しょ があった。
レズギ人 ぎじん がレスギンカ を踊 おど っているところ。アフティ村 むら 、1900年 ねん
レズギ舞踊 ぶよう と呼 よ ばれる、レズギの男性 だんせい ソロおよびペアのダンスが、コーカサスの多 おお くの人々 ひとびと の間 あいだ で一般 いっぱん 的 てき である。踊 おど りは2つの映像 えいぞう を使 つか ったものである。男 おとこ は「鷲 わし 」のように舞 ま い、遅 おそ いペースと速 はや いペースを交互 こうご に入 い れ替 か えていく。最 もっと も壮観 そうかん な舞 ま いは、つま先立 さきだ ちになって様々 さまざま な方向 ほうこう に両手 りょうて を投 な げる男性 だんせい の動 うご きである。女性 じょせい は優美 ゆうび な姿勢 しせい と滑 なめ らかな手 て の動 うご きで魅了 みりょう する「白鳥 はくちょう 」の形 かたち を舞 ま う。女性 じょせい は男性 だんせい の後 うし ろで、男 おとこ のダンスのテンポを上 あ げていく。当然 とうぜん のことながら、コーカサスのあらゆる人々 ひとびと の間 あいだ で一般 いっぱん 的 てき なこの舞踊 ぶよう は、レズギ人 ぎじん の古代 こだい からの象徴 しょうちょう 的 てき 動物 どうぶつ (トーテム )に基 もと づいて命名 めいめい された。その単語 たんご 「Lek」(レズギ語 ご :лекь)は鷲 わし を意味 いみ している。
レズギ人 ぎじん は主 おも にアゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく とロシア連邦 れんぽう (ダゲスタン)に住 す んでいる。総 そう 人口 じんこう は約 やく 70万 まん 人 にん で、うち47.4万 まん 人 にん がロシアで暮 く らしていると考 かんが えられている。アゼルバイジャンでは、政府 せいふ の国勢調査 こくせいちょうさ が180,300人 にん と出 だ している[21] 。しかし、レズギ人 ぎじん の国内 こくない 組織 そしき は60万 まん から90万 まん 人 にん だと主張 しゅちょう しており、アゼルバイジャンにおける職業 しょくぎょう および教育 きょういく での差別 さべつ から逃 のが れるためレズギ人 ぎじん の多 おお くがアゼルバイジャン国籍 こくせき を主張 しゅちょう する不一致 ふいっち があると言 い う[22] 。アゼルバイジャン政府 せいふ の同化 どうか 政策 せいさく にもかかわらず、レズギ人 ぎじん の人口 じんこう が政府 せいふ 統計 とうけい の結果 けっか よりも多 おお いことは疑 うたが う余地 よち がない[23] 。
スバンテ・コーネル は次 つぎ のように付記 ふき している。
アゼルバイジャンで
正式 せいしき 登録 とうろく されているレズ
ギ人 ぎじん の
数 かず は
約 やく 18
万 まん 人 にん であるが、
アゼルバイジャン人 じん として
登録 とうろく されているレズ
ギ人 ぎじん の
数 かず はこの
数字 すうじ の
何 なん 倍 ばい も
多 おお いとレズ
ギ人 ぎじん 達 たち は
主張 しゅちょう しており、
一部 いちぶ ではアゼルバイジャンに70
万 まん 人 にん 超 ちょう のレズ
ギ人 ぎじん がいるとの
説 せつ もある。これらの
数字 すうじ はアゼルバイジャン
政府 せいふ によって
否定 ひてい されているが、
多 おお くのアゼルバイジャン
人 じん が
個人 こじん 的 てき には、レズギ
人 じん および
タリシュ人 じん や
クルド人 じん についても、その
人口 じんこう が
公式 こうしき の
数字 すうじ よりもはるかに
高 たか いという
事実 じじつ を
認 みと めている
[24]
主 おも にスターリンによる国外 こくがい 追放 ついほう 政策 せいさく があったため、レズギ人 ぎじん はまた中央 ちゅうおう アジア にも住 す んでいる[25] 。
アゼルバイジャンでの状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
レズギ人 ぎじん は「一般 いっぱん 的 てき に言 い えば」アゼルバイジャンの社会 しゃかい にうまく溶 と け込 こ んでいる。異 い 人種 じんしゅ 結婚 けっこん もさらに一般 いっぱん 的 てき である。最後 さいご に、アゼルバイジャンのレズギ人 ぎじん は、ダゲスタンにいる同族 どうぞく と比較 ひかく してより良 よ いレベルの教育 きょういく を受 う けている[24] 。
1992年 ねん に、サドヴァル(Sadval)という名前 なまえ のレズギ人 ぎじん 組織 そしき がレズギ人 ぎじん の権利 けんり を促進 そくしん するために設立 せつりつ された。サドヴァルは、レズギ人 ぎじん が寄 よ り集 あつ まって定住 ていじゅう するロシアおよびアゼルバイジャンの地域 ちいき を単一 たんいつ のレズギ国家 こっか として創設 そうせつ できるよう、ロシア-アゼルバイジャンの国境 こっきょう の引 び き直 なお しを求 もと める活動 かつどう を行 おこな った。アゼルバイジャンではサムール(Samur)と呼 よ ばれるより穏健 おんけん な組織 そしき が結成 けっせい され、アゼルバイジャンにいるレズギ人 ぎじん のためのより文化 ぶんか 的 てき な自治 じち を提唱 ていしょう している。
レズギ人 ぎじん は昔 むかし から失業 しつぎょう と土地 とち 不足 ふそく に苦 くる しめられた。1994年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ チェチェン紛争 ふんそう 勃発 ぼっぱつ の主 おも な結果 けっか は、ロシア-アゼルバイジャン間 あいだ の国境 こっきょう 閉鎖 へいさ であった。結果 けっか として、レズギ人 ぎじん は彼 かれ らの歴史 れきし の中 なか で初 はじ めて、自分 じぶん 達 たち の移動 いどう を制限 せいげん する国際 こくさい 的 てき な国境 こっきょう による分断 ぶんだん を経験 けいけん した。
アゼルバイジャンにおけるレズギ人 ぎじん 動員 どういん の高 たか まりは、1990年代 ねんだい 末 まつ に過 す ぎ去 さ ったとされる。サドヴァルは、バクー地下鉄 ちかてつ の爆破 ばくは 事件 じけん に関与 かんよ していたとの公式 こうしき な申 もう し立 た ての後 のち 、アゼルバイジャン当局 とうきょく により活動 かつどう を禁止 きんし された。ナゴルノ・カラバフ戦争 せんそう の終結 しゅうけつ と、強制 きょうせい 徴兵 ちょうへい に対 たい するレズギ人 ぎじん の抵抗 ていこう が、動員 どういん すべき重要 じゅうよう 問題 もんだい の動 うご きを奪 うば った。1998年 ねん 、サドヴァルは「中庸 ちゅうよう 派 は 」と「過激 かげき 派 は 」の両翼 りょうよく に分 わ かれ、その後 ご ロシア-アゼルバイジャン国境 こっきょう のどちら側 がわ でもその人気 にんき の大 だい 部分 ぶぶん を失 うしな ってしまったようである。
しかし、アゼルバイジャン人 じん とレズギ人 ぎじん の関係 かんけい は、イスラム原理 げんり 主義 しゅぎ がレズギ人 ぎじん の間 あいだ で不 ふ 釣 つ り合 あ いな人気 にんき を享受 きょうじゅ していたという主張 しゅちょう によって複雑 ふくざつ であり続 つづ けた。2000年 ねん 7月 がつ にアゼルバイジャンの治安 ちあん 部隊 ぶたい は、アゼルバイジャン国家 こっか に対 たい する反乱 はんらん を企 くわだ てたとの容疑 ようぎ で、イスラムの戦士 せんし (Warriors of Islam)と名付 なづ けられた集団 しゅうだん のレズギ人 ぎじん およびアバール人 じん 民族 みんぞく のメンバーを逮捕 たいほ した。
レズギ人 ぎじん は、2005年 ねん 11月の議会 ぎかい 選挙 せんきょ で比例 ひれい 代表 だいひょう から漏 も れてしまった後 のち にアゼルバイジャン議会 ぎかい (ミリー・メジリス)での代表 だいひょう 議員 ぎいん が少 すく なすぎることに懸念 けねん を表明 ひょうめい した。前 まえ の国会 こっかい ではレズギ人 ぎじん は2人 ふたり の国会 こっかい 議員 ぎいん による代表 だいひょう となっていたが、現在 げんざい は1人 ひとり だけが代表 だいひょう である。
レズギ語 ご はレズギ人 ぎじん が定住 ていじゅう する多 おお くの地域 ちいき で外国 がいこく 語 ご として教 おし えられているが、教材 きょうざい は乏 とぼ しい。レズギ語 ご の教科書 きょうかしょ はロシアから来 き ており、現地 げんち の状況 じょうきょう に適応 てきおう していない。レズギ語 ご の新聞 しんぶん は利用 りよう 可能 かのう であるが、レズギ人 ぎじん はまた自分 じぶん たちの豊 ゆた かな口頭 こうとう 伝承 でんしょう の消滅 しょうめつ に対 たい して懸念 けねん を表明 ひょうめい している。アゼルバイジャンで利用 りよう 可能 かのう な唯一 ゆいいつ のレズギ語 ご テレビ放送 ほうそう はロシアからの国境 こっきょう を越 こ えて受信 じゅしん されるものである。
2006年 ねん 3月 がつ 、アゼルバイジャンのメディアは、サドヴァルがダゲスタンで作戦 さくせん を実行 じっこう する「地下 ちか 」テロ組織 そしき を結成 けっせい したと報 ほう じた。ダゲスタン国境 こっきょう を越 こ えるロシアの治安 ちあん 部隊 ぶたい は、これらの報告 ほうこく に懐疑 かいぎ 的 てき に応対 おうたい した。
ダゲスタンの状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
ダゲスタンにいるレズギ人 ぎじん は、ダゲスタン南部 なんぶ のレズギ人 ぎじん 居住 きょじゅう 地域 ちいき の失業 しつぎょう 率 りつ が共和 きょうわ 国 こく の平均 へいきん 32%の2倍 ばい であると報告 ほうこく している。これは、ダゲスタン南部 なんぶ のレズギ人 ぎじん 密集 みっしゅう 地域 ちいき をアゼルバイジャン内 ない に組 く み込 こ むためロシア-アゼルバイジャンの国境 こっきょう を引 ひ き直 なお しを求 もと める、2006年 ねん 1月 がつ のサドヴァル運動 うんどう からの新 あら たな呼 よ びかけの一因 いちいん になった可能 かのう 性 せい がある。
1999年 ねん 3月 がつ に、別 べつ 組織 そしき のレズギ人 ぎじん 国民 こくみん 文化 ぶんか 自治 じち 連盟 れんめい (en )がレズギ人 ぎじん のための文化 ぶんか 的 てき 自治 じち を提唱 ていしょう する域外 いきがい 運動 うんどう として設立 せつりつ された。
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