レズギ人ぎじん

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レズギ人ぎじん
Лезгияр

レズギ人ぎじん民族みんぞくはた
そう人口じんこう
やく100まんにん
居住きょじゅう地域ちいき
ロシアの旗 ロシア やく800,000にん[1]
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャンやく193,300にん(アゼルバイジャン政府せいふ、2016ねん[2]
言語げんご
レズギ
宗教しゅうきょう
イスラム教いすらむきょうスンニ, 少数しょうすうシーア[3][4][5]
関連かんれんする民族みんぞく
タバサランじん, アグールじん, ルトゥルじん, ブドゥフじん, クリツじん, ラクじん, ツァフルじん, アーキじん, ジェクじん, きたコーカサス話者わしゃおよびきたコーカサス民族みんぞく

レズギ人ぎじん (レズギじん、ロシア: лезгиныアゼルバイジャン: Ləzgilər、レズギ:лезгияр) とは、おもダゲスタン共和きょうわこく南部なんぶおよびアゼルバイジャン共和きょうわこく北東ほくとう先住民せんじゅうみんレズギはなす、北東ほくとうコーカサス地方ちほう民族みんぞくである。

日本にっぽん国内こくない書籍しょせきではレズギンじんレズギンぞくといった翻訳ほんやく表記ひょうきられる[6]

民族みんぞくめい[編集へんしゅう]

レズギ人ぎじん

レズギじんという民族みんぞくめい由来ゆらいかんしては、さらなる研究けんきゅうもとめられている。とはいえ、大半たいはん研究けんきゅうしゃはレズギ(Lezgi)の起源きげん古代こだいLegiおよび中世ちゅうせい初期しょきLakziからであろうと考察こうさつしている。

現代げんだいのレズギ人ぎじんは、インド・ヨーロッパ語族ごぞく導入どうにゅう以前いぜんよりこの地域ちいきはなされてきた北東ほくとうコーカサスはなす。かれらは文化ぶんかてきにも言語げんごてきにも、ダゲスタン南部なんぶアグールじんや、すことおいところではツァフルじんルトゥルじんタバサランじん(レズギ人ぎじん北方ほっぽう隣人りんじん)と密接みっせつ関係かんけいしている。もっと遠方えんぽうではあるが、アゼルバイジャン北部ほくぶ少数しょうすう民族みんぞくであるジェクじんクリツじんラクじんシャダフじんブドゥフじんキナルグじんとも関連かんれんがある。これらのグループがレズギじんともに、レズギ話者わしゃである先住民せんじゅうみんのサムール支族しぞく[注釈ちゅうしゃく 1]形成けいせいする。

レズギ人ぎじんは、青銅器せいどうき時代じだいにダゲスタン南部なんぶ地域ちいき居住きょじゅうした人々ひとびとからの子孫しそん一部いちぶだとしんじられている。しかし、ヨーロッパとアジア全体ぜんたい人口じんこうへの遺伝いでんてきつながりをしめパキスタンブルショーじんとのいちじるしい類似るいじせいなど、過去かこ4000ねんあいだ中央ちゅうおうアジア人種じんしゅとかなりの混合こんごうきたことをしめすDNAじょう証拠しょうこがいくつかある。

ロシア革命かくめい以前いぜんは、レズギ人ぎじん民族みんぞく集団しゅうだんとしての共通きょうつう自称じしょうっていなかった。かれらはむら地域ちいき宗教しゅうきょう一族いちぞく、または自由じゆう社会しゃかいによって自分じぶん自身じしんびならわしていた。革命かくめいまえは、レズギ人ぎじんロシアじんから「Kyurintsy」「Akhtintsy」「Lezgintsy」とばれていた。「レズギじん(Lezgin)」という民族みんぞくめい自体じたいにもかなりの問題もんだいがある。ソビエト時代じだい以前いぜんは「Lezgin」という言葉ことば様々さまざま文脈ぶんみゃく使つかわれていた。現在げんざいのレズギじんとしてられる人々ひとびとだけを場合ばあいもあったが、にはダゲスタン南部なんぶ(レズギ人ぎじん、アグールじん、ルトゥルじん、タバサランじん、ツァフルじん)の様々さまざま人々ひとびとすべてをすこともあり、ダゲスタン南部なんぶおよびアゼルバイジャン北部ほくぶ(クリツじん、ジェクじん、キナルグじん、ブドゥフじん、シャダフじん)の人々ひとびとすべて、北東ほくとうコーカサス話者わしゃすべて、または北東ほくとうコーカサスじんアヴァールじんダルギンじんラクじんチェチェンじんイングーシじん)のうち先住民せんじゅうみんムスリムすべてをすこともあった。革命かくめい以前いぜん作品さくひんさいには、「レズギ人ぎじん」という民族みんぞくめい意味いみする範囲はんい様々さまざまであることに注意ちゅういする必要ひつようがある。

ロシア革命かくめい以前いぜんは、「レズギ人ぎじん」が現在げんざいのロシアのダゲスタン共和きょうわこく居住きょじゅうするすべての民族みんぞく適用てきようされる用語ようごであった[7]。19世紀せいきには、コーカサス地方ちほうのアヴァールじん、ラクじんほか多数たすうふくめ、ナフ以外いがい北東ほくとうコーカサス言語げんごはなすべての民族みんぞくグループをすものとして、この用語ようごがよりひろ意味いみ使用しようされた(ただし、北東ほくとうコーカサス言語げんごはなヴェナフじんは「Circassians」とばれた)。

歴史れきし[編集へんしゅう]

19世紀せいきロシア・ペルシャ戦争せんそう結果けっかこったロシアじんによる占領せんりょう崩壊ほうかいまで、イラン支配しはいするデルベントあせこく行政ぎょうせいには、おおくのレズギ人ぎじんふくまれていた。

紀元前きげんぜん4世紀せいきに、レズギはな多数たすう部族ぶぞくがコーカサス東部とうぶ地方ちほうカフカス・アルバニア王国おうこく(このくに自体じたい紀元前きげんぜん513ねんペルシアアケメネスあさまれた)にて形成けいせいされた26部族ぶぞく統合とうごうした[8][9]当初とうしょはペルシアだけでなくパルティア統治とうち影響えいきょうで、カフカス・アルバニア王国おうこくはシルバン(Shirvan)やラクジ(Lakzi)などいくつかの地域ちいき分割ぶんかつされた。

レズギはな部族ぶぞくは、侵入しんにゅうしてきたアレキサンダー大王だいおう対抗たいこうするペルシャの旗下きかガウガメラのたたか参加さんかした[8]

パルティア統治とうちした、イランの政治せいじてき文化ぶんかてき影響えいきょうはカフカス・アルバニア国家こっか全域ぜんいきひろがっていき、そこにはレズギはな部族ぶぞく居住きょじゅうする場所ばしょふくまれていた[10]。パルティアじんんだ戦争せんそうのためこの地域ちいきのローマ宗主そうしゅけん散発さんぱつてきだったのだが、このくにはイベリア(ひがしジョージア)やアルバニア(コーカサス)とともに、アルサケスあさ支部しぶ統治とうちするひろしアルサケス連盟れんめい一部いちぶとなっていた[10]文化ぶんかてきには、アルタクシアス治世ちせいでのヘレニズム優位ゆういふたたび「イラン主義しゅぎ優勢ゆうせいつづき、その兆候ちょうこうとしてギリシャではなく以前いぜんパルティアがこの地域ちいき教育きょういく言語げんごとなった[10]。この時代じだい侵攻しんこうは、レズギ部族ぶぞくんでいた場所ばしょふく地域ちいきを134ねんから136ねんにかけて攻撃こうげきしたアランじんによってなされた。しかしヴォロガセス3せいかれらにげるよう、おそらくは金銭きんせんはらって説得せっとくした。

252-253ねんに、レズギ語部かたりべぞく統治とうちはパルティアじんからサーサーンあさペルシャじんわった。カフカス・アルバニア王国おうこく現在げんざいのサーサーンあさづけいさおこく自身じしん君主くんしゅせいたもたれた従属じゅうぞくこく)となった[11]。アルバニアのおう実質じっしつてき権力けんりょくたず、だい部分ぶぶん市民しみんてき宗教しゅうきょうてき軍事ぐんじてき権威けんいは、どう領土りょうどにおけるサーサーンあさマルズバーン軍事ぐんじ総督そうとく)にあった[12]

西暦せいれき300ねんごろすう年間ねんかんマ帝国まていこく一部いちぶのレズギン地方ちほう最南端さいなんたん支配しはいけん獲得かくとくしたが、そのサーサーンあさペルシャが支配しはいけんもどすと、それ以降いこうイスラーム教徒きょうとのペルシア征服せいふくこるまでなん世紀せいきにもわたってこの地域ちいき支配しはいした。

レズギ人ぎじんおそらく8世紀せいきはじめてイスラームけん紹介しょうかいされたが、15世紀せいきまでレズギンじんアニミズム信仰しんこうのままだった。そのころムスリム影響えいきょうつよくなり、みなみからペルシアの貿易ぼうえき業者ぎょうしゃがやってて、きたからはかねちょうあせこく圧力あつりょくつよめていた。16世紀せいき初頭しょとう、ペルシアのサファヴィーあさなに世紀せいきにもわたりダゲスタンのだい部分ぶぶん強固きょうこ統治とうちしていた。1578-1590ねんだいオスマン・サファヴィー戦争せんそう英語えいごばん結果けっかとして、オスマン帝国ていこくがその地域ちいき支配しはい短期間たんきかんアッバース1せいおうしたでサファヴィーあさもどされるまでのあいだうばった。

サファヴィーあさペルシア時代じだい著名ちょめいなレズギ人ぎじんにはファス=アリ・ハン・ダヘスターニ(en)がおり、かれは1716ねんから1720ねんまでおうシャースルターン・フサイン治世ちせいにサファヴィーあさだい宰相さいしょうつとめた人物じんぶつである。18世紀せいき初頭しょとうまでに、サファヴィーあさおおきく衰退すいたいした状態じょうたいだった。1721ねん、レズギ人ぎじんはシルヴァンの州都しゅうとシャマキ(Shamakhi)を略奪りゃくだつした。18世紀せいきのサファヴィーあさ崩壊ほうかい期間きかんは、Lak Kazi Kumukhあせこくがレズギ人ぎじん一部いちぶ統治とうちしていた。

18世紀せいき前半ぜんはんに、ペルシアはナーディル・シャーしたでコーカサス全体ぜんたいわたってその全権ぜんけん回復かいふくすることに成功せいこうした。ナーディルの死後しごかれ国家こっかをいくつかのちいさなあせこく分割ぶんかつした。一部いちぶのレズギ人ぎじんは、現在げんざいのアゼルバイジャンにあるクバあせこく(en)の一部いちぶとなり、のものはデルベントあせこく管轄かんかつにあった。レズギ人ぎじん主要しゅよう部分ぶぶんは「自由じゆう社会しゃかい(Magalim)」(アフティ近辺きんぺん、アルティ近辺きんぺん、クレ、ドクス近辺きんぺん[注釈ちゅうしゃく 2]団結だんけつした。

1860年代ねんだいのレズギ人ぎじん

1813ねんゴレスターン条約じょうやく結果けっかとして、ロシアじんはダゲスタン南部なんぶ現代げんだいのアゼルバイジャン共和きょうわこくだい部分ぶぶん支配しはいした[13]。1828ねんトルコマーンチャーイ条約じょうやくは、ダゲスタンおよびレズギ人ぎじん居住きょじゅうする軍事ぐんじてき均衡きんこうからイランを排除はいじょした地域ちいきたいするロシアの支配しはい期限きげん強化きょうかした[13][14]。ロシア政権せいけんはそのキウリンあせこく(Kiurin Khanate)を設立せつりつし、のキウリン地区ちく[注釈ちゅうしゃく 3]になった。しかし、ダゲスタンにいるレズギ人ぎじんおおくは19世紀せいきロシア・ペルシャ戦争せんそう勃発ぼっぱつとほぼどう時期じきはじまったコーカサス戦争せんそう参加さんかし、ロシア統治とうちに25年間ねんかん反抗はんこうしていたアヴァールじんイマーム・シャミールともにロシアじんたたかった。ロシアがわがダゲスタンおよびレズギじんたいする統治とうちかためたのは、1859ねんかれ敗北はいぼくしたのちのことである。

1930ねんに、シェイク・モハメド・エフェンディ・シュタルスキムがソビエト統治とうちたいする反乱はんらんこし、それはすうヶ月かげつ鎮圧ちんあつされた。20世紀せいきに、レズギスタン共和きょうわこくを(独立どくりつこくまたは自治じち地域ちいきとして)創設そうせつするこころみがなされた。

1940年代ねんだい一部いちぶのレズギ人ぎじんスターリン政権せいけんによって中央ちゅうおうアジアに強制きょうせい送還そうかんされた。

歴史れきしじょう概念がいねん[編集へんしゅう]

ヘロドトスストラボンだいプリニウスふく古代こだいギリシアの歴史れきしは、カフカス・アルバニア王国おうこくんでいた「Legoi」の人々ひとびと言及げんきゅうしており、9世紀せいきから10世紀せいきのアラブじん歴史れきし現在げんざいのダゲスタン南部なんぶにあるLakz王国おうこく言及げんきゅうした[16]。アル=マソウディはこの地域ちいき住民じゅうみんをLakzams(レズギ人ぎじん)と[17]かれらはシルバンをきたからの侵略しんりゃくしゃからまもった[18]。レズギじんという民族みんぞくぐんおそらく、アフティ、アルティ、ドクス近辺きんぺん同盟どうめいおよびルトゥルじんなか一部いちぶ部族ぶぞく合併がっぺいした結果けっかとしてしょうじたとされている。

地理ちり[編集へんしゅう]

コーカサス地図ちずからのレズギ人ぎじん地域ちいき。ヨハン・グスタフ・ギャバー製作せいさく(1728ねん

レズギ人ぎじんは、ダゲスタン南部なんぶとアゼルバイジャン北部ほくぶ国境こっきょう地域ちいきにまたがる狭小きょうしょう地域ちいきんでいる。そのだい部分ぶぶんはダゲスタン南東なんとう(アフティンスキー地区ちく、ドクスパリンスキー地区ちく、スレイマン=スタリスキー地区ちく、クラフスキー地区ちく、マガラムケンツキー地区ちく、ヒフスキー地区ちく、デルベンツキー地区ちく、ルトゥリスキー地区ちく)および隣接りんせつするアゼルバイジャン北東ほくとうグバけんグサルけんガフけんハチマズけんオグズけんガバラけんシャキけんイスマイルけん)に存在そんざいする。

レズギ人ぎじん領域りょういきは2つの地形ちけいたい、すなわち山岳さんがく地帯ちたい山麓さんろく地帯ちたいかれる。レズギ人ぎじん地域ちいきだい部分ぶぶん山岳さんがく地帯ちたいにあり、そこには標高ひょうこう3,500m以上いじょうたっする山頂さんちょう(ババダグ[注釈ちゅうしゃく 4]のような)がいくつかある。サムールがわとGulgeri Chaiがわ支流しりゅうによって形成けいせいされた、ふかくて孤立こりつした峡谷きょうこくおよび地溝ちこうがある。山岳さんがく地帯ちたいなつ非常ひじょうあつ乾燥かんそうしており、かんばつ状態じょうたい継続けいぞくてき脅威きょういとなる。この地域ちいきには、ふか渓谷けいこく小川おがわ沿った以外いがいにはほとんど樹木じゅもくい。かんばつにたいせいがある低木ていぼく雑草ざっそう自然しぜん植物しょくぶつだい部分ぶぶんめている。ここのふゆふうつよくて残酷ざんこくなほどさむい。この地域ちいきでレズギ人ぎじんおも畜産ちくさんぎょう大半たいはんひつじ山羊やぎ)と工芸こうげいひん産業さんぎょう従事じゅうじしていた。

レズギ人ぎじん領域りょういきさいひがしはし、そこは山々やまやまカスピ海かすぴかいせま沿岸えんがん平野へいやへとわり、アゼルバイジャン最南端さいなんたんへとつづ丘陵きゅうりょう地帯ちたいである。この地域ちいき比較的ひかくてきおだやかで、非常ひじょう乾燥かんそうしたふゆあつ乾燥かんそうしたなつむかえる。ここもまた樹木じゅもくがほとんどない。この地域ちいきでは、畜産ちくさんぎょう職人しょくにん仕事しごと一部いちぶ農業のうぎょうかわ付近ふきんおき積層せきそう沿いで)によって補助ほじょされていた。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

文化ぶんか素材そざいはアゼルバイジャン、とくにアゼルバイジャンにむレズギ人ぎじんおおきな影響えいきょうおよぼしている。中心ちゅうしんとなる民謡みんよう活発かっぱつ楽器がっき演奏えんそうともなっておど性質せいしつ叙情じょじょうてきうたぞくしており、その演奏えんそう自体じたい完全かんぜんメリスマである。フォークアートもまたおどりの表現ひょうげんで、そのなかでもとく有名ゆうめいな「レスギンカ(en)」[注釈ちゅうしゃく 5]はコーカサスの人々ひとびとあいだ一般いっぱんてきである。よりいた男性だんせい舞踊ぶようのZarb makamなど もある。

レズギ人ぎじんによる最初さいしょ劇場げきじょうは、1906ねんにアフティのむらはじまった。1935ねん、セミプロのチームにもとづいてレズギの州立しゅうりつ音楽おんがくドラマ劇場げきじょう創設そうせつされ、スレイマン・スタルスキー(en)にちなんで名付なづけられた。1998ねんには、アゼルバイジャン共和きょうわこくのグサルけんにある国立こくりつレズギン劇場げきじょうがこけらとしをむかえた。

言語げんご[編集へんしゅう]

レズギコーカサス諸語しょごのうちレズギ諸語しょご(ここにはアグールルトゥルツァフルタバサランブドゥフクリツウディふくまれる)にぞくする言語げんごである。

レズギには、密接みっせつ関連かんれんした(相互そうご理解りかいできる)3つの方言ほうげんがあり、それはクリン方言ほうげん(グネイやクラクともばれる)、アフティ方言ほうげん、クバ方言ほうげんである。クリン方言ほうげんは3つのなかもっとひろ普及ふきゅうしており、歴史れきしてきにダゲスタンのレズギ人ぎじん領域りょういきもっと重要じゅうよう文化ぶんかてき政治せいじてき経済けいざい的中てきちゅう心地ごこちであったクラフ(en)のまちふくむ、ダゲスタンにおけるレズギ地域ちいき大半たいはんはなされている。アフティ方言ほうげんはダゲスタン南東なんとうはなされている。3つのうちもっともトルコちかいクバ方言ほうげんは、アゼルバイジャン北部ほくぶのレズギ域内いきないひろがっている(これはどう地域ちいき文化ぶんかてき経済けいざいてき焦点しょうてんであるクバのまちにちなんで名付なづけられた)。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

現在げんざいのレズギ人ぎじんおもイスラム教徒きょうとスンニで、ダゲスタンのミスキンジャむら少数しょうすうシーアらしている[20]。レズギ人ぎじん集落しゅうらくおもなものは村落そんらく(hur)である。かくむらにはモスク農村のうそん地域ちいきむらでの公共こうきょう生活せいかつさい重要じゅうよう問題もんだい対処たいしょするため住民じゅうみん男性だんせいがわ)をあつめるキム(Kim)というむら集会しゅうかいしょがあった。

舞踊ぶよう[編集へんしゅう]

レズギ人ぎじんレスギンカおどっているところ。アフティむら、1900ねん

レズギ舞踊ぶようばれる、レズギの男性だんせいソロおよびペアのダンスが、コーカサスのおおくの人々ひとびとあいだ一般いっぱんてきである。おどりは2つの映像えいぞう使つかったものである。おとこは「わし」のようにい、おそいペースとはやいペースを交互こうごえていく。もっと壮観そうかんいは、つま先立さきだちになって様々さまざま方向ほうこう両手りょうてげる男性だんせいうごきである。女性じょせい優美ゆうび姿勢しせいなめらかなうごきで魅了みりょうする「白鳥はくちょう」のかたちう。女性じょせい男性だんせいうしろで、おとこのダンスのテンポをげていく。当然とうぜんのことながら、コーカサスのあらゆる人々ひとびとあいだ一般いっぱんてきなこの舞踊ぶようは、レズギ人ぎじん古代こだいからの象徴しょうちょうてき動物どうぶつトーテム)にもとづいて命名めいめいされた。その単語たんご「Lek」(レズギ:лекь)はわし意味いみしている。

人口じんこう[編集へんしゅう]

レズギ人ぎじんおもアゼルバイジャン共和きょうわこくロシア連邦れんぽう(ダゲスタン)にんでいる。そう人口じんこうやく70まんにんで、うち47.4まんにんがロシアでらしているとかんがえられている。アゼルバイジャンでは、政府せいふ国勢調査こくせいちょうさが180,300にんしている[21]。しかし、レズギ人ぎじん国内こくない組織そしきは60まんから90まんにんだと主張しゅちょうしており、アゼルバイジャンにおける職業しょくぎょうおよび教育きょういくでの差別さべつからのがれるためレズギ人ぎじんおおくがアゼルバイジャン国籍こくせき主張しゅちょうする不一致ふいっちがあると[22]。アゼルバイジャン政府せいふ同化どうか政策せいさくにもかかわらず、レズギ人ぎじん人口じんこう政府せいふ統計とうけい結果けっかよりもおおいことはうたが余地よちがない[23]

スバンテ・コーネルつぎのように付記ふきしている。

アゼルバイジャンで正式せいしき登録とうろくされているレズギ人ぎじんかずやく18まんにんであるが、アゼルバイジャンじんとして登録とうろくされているレズギ人ぎじんかずはこの数字すうじなんばいおおいとレズギ人ぎじんたち主張しゅちょうしており、一部いちぶではアゼルバイジャンに70まんにんちょうのレズギ人ぎじんがいるとのせつもある。これらの数字すうじはアゼルバイジャン政府せいふによって否定ひていされているが、おおくのアゼルバイジャンじん個人こじんてきには、レズギじんおよびタリシュじんクルドじんについても、その人口じんこう公式こうしき数字すうじよりもはるかにたかいという事実じじつみとめている[24]

おもにスターリンによる国外こくがい追放ついほう政策せいさくがあったため、レズギ人ぎじんはまた中央ちゅうおうアジアにもんでいる[25]

アゼルバイジャンでの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

レズギ人ぎじんは「一般いっぱんてきえば」アゼルバイジャンの社会しゃかいにうまくんでいる。人種じんしゅ結婚けっこんもさらに一般いっぱんてきである。最後さいごに、アゼルバイジャンのレズギ人ぎじんは、ダゲスタンにいる同族どうぞく比較ひかくしてよりいレベルの教育きょういくけている[24]

1992ねんに、サドヴァル(Sadval)という名前なまえのレズギ人ぎじん組織そしきがレズギ人ぎじん権利けんり促進そくしんするために設立せつりつされた。サドヴァルは、レズギ人ぎじんあつまって定住ていじゅうするロシアおよびアゼルバイジャンの地域ちいき単一たんいつのレズギ国家こっかとして創設そうせつできるよう、ロシア-アゼルバイジャンの国境こっきょうなおしをもとめる活動かつどうおこなった。アゼルバイジャンではサムール(Samur)とばれるより穏健おんけん組織そしき結成けっせいされ、アゼルバイジャンにいるレズギ人ぎじんのためのより文化ぶんかてき自治じち提唱ていしょうしている。

レズギ人ぎじんむかしから失業しつぎょう土地とち不足ふそくくるしめられた。1994ねんだいいちチェチェン紛争ふんそう勃発ぼっぱつおも結果けっかは、ロシア-アゼルバイジャンあいだ国境こっきょう閉鎖へいさであった。結果けっかとして、レズギ人ぎじんかれらの歴史れきしなかはじめて、自分じぶんたち移動いどう制限せいげんする国際こくさいてき国境こっきょうによる分断ぶんだん経験けいけんした。

アゼルバイジャンにおけるレズギ人ぎじん動員どういんたかまりは、1990年代ねんだいまつったとされる。サドヴァルは、バクー地下鉄ちかてつ爆破ばくは事件じけん関与かんよしていたとの公式こうしきもうてののち、アゼルバイジャン当局とうきょくにより活動かつどう禁止きんしされた。ナゴルノ・カラバフ戦争せんそう終結しゅうけつと、強制きょうせい徴兵ちょうへいたいするレズギ人ぎじん抵抗ていこうが、動員どういんすべき重要じゅうよう問題もんだいうごきをうばった。1998ねん、サドヴァルは「中庸ちゅうよう」と「過激かげき」の両翼りょうよくかれ、そのロシア-アゼルバイジャン国境こっきょうのどちらがわでもその人気にんきだい部分ぶぶんうしなってしまったようである。

しかし、アゼルバイジャンじんとレズギ人ぎじん関係かんけいは、イスラム原理げんり主義しゅぎがレズギ人ぎじんあいだいな人気にんき享受きょうじゅしていたという主張しゅちょうによって複雑ふくざつでありつづけた。2000ねん7がつにアゼルバイジャンの治安ちあん部隊ぶたいは、アゼルバイジャン国家こっかたいする反乱はんらんくわだてたとの容疑ようぎで、イスラムの戦士せんし(Warriors of Islam)と名付なづけられた集団しゅうだんのレズギ人ぎじんおよびアバールじん民族みんぞくのメンバーを逮捕たいほした。

レズギ人ぎじんは、2005ねん11月の議会ぎかい選挙せんきょ比例ひれい代表だいひょうかられてしまったのちアゼルバイジャン議会ぎかい(ミリー・メジリス)での代表だいひょう議員ぎいんすくなすぎることに懸念けねん表明ひょうめいした。まえ国会こっかいではレズギ人ぎじん2人ふたり国会こっかい議員ぎいんによる代表だいひょうとなっていたが、現在げんざい1人ひとりだけが代表だいひょうである。

レズギはレズギ人ぎじん定住ていじゅうするおおくの地域ちいき外国がいこくとしておしえられているが、教材きょうざいとぼしい。レズギ教科書きょうかしょはロシアからており、現地げんち状況じょうきょう適応てきおうしていない。レズギ新聞しんぶん利用りよう可能かのうであるが、レズギ人ぎじんはまた自分じぶんたちのゆたかな口頭こうとう伝承でんしょう消滅しょうめつたいして懸念けねん表明ひょうめいしている。アゼルバイジャンで利用りよう可能かのう唯一ゆいいつのレズギテレビ放送ほうそうはロシアからの国境こっきょうえて受信じゅしんされるものである。

2006ねん3がつ、アゼルバイジャンのメディアは、サドヴァルがダゲスタンで作戦さくせん実行じっこうする「地下ちか」テロ組織そしき結成けっせいしたとほうじた。ダゲスタン国境こっきょうえるロシアの治安ちあん部隊ぶたいは、これらの報告ほうこく懐疑かいぎてき応対おうたいした。

ダゲスタンの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

ダゲスタンにいるレズギ人ぎじんは、ダゲスタン南部なんぶのレズギ人ぎじん居住きょじゅう地域ちいき失業しつぎょうりつ共和きょうわこく平均へいきん32%の2ばいであると報告ほうこくしている。これは、ダゲスタン南部なんぶのレズギ人ぎじん密集みっしゅう地域ちいきをアゼルバイジャンないむためロシア-アゼルバイジャンの国境こっきょうなおしをもとめる、2006ねん1がつのサドヴァル運動うんどうからのあらたなびかけの一因いちいんになった可能かのうせいがある。

1999ねん3がつに、べつ組織そしきのレズギ人ぎじん国民こくみん文化ぶんか自治じち連盟れんめい(en)がレズギ人ぎじんのための文化ぶんかてき自治じち提唱ていしょうする域外いきがい運動うんどうとして設立せつりつされた。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

以下いか著名ちょめいじん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ロシアアゼルバイジャン国境こっきょうながれるサムールがわ流域りゅういき活動かつどう拠点きょてんとする部族ぶぞくたち総称そうしょうす。
  2. ^ 現在げんざいのタゲスタン共和きょうわこくでいうところの、アフティンスキー地区ちく(en)やドクスパリンスキー地区ちく(en)をす。
  3. ^ 現在げんざいうダゲスタン沿岸えんがんにあたる地域ちいき[15]
  4. ^ トルコにも同名どうめいのBabadagというやま標高ひょうこう1969m)があるが、本文ほんぶんはアゼルバイジャンにある標高ひょうこう3629mのやま詳細しょうさいBabadağ (Azerbaijan)参照さんしょう
  5. ^ クラシック音楽おんがくかいではバレエきょくガイーヌ」でのレスギンカがられており、日本にっぽん国内こくないでもしばしば演奏えんそうされている[19]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Национальный состав населения Российской Федерации согласно переписи аселения 2010 года”. gks.ru. 2011ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ Cornell, Svante (2016). Small Nations and Great Powers: A Study of Ethnopolitical Conflict in the Caucasus. Routledge. p. 259. ISBN 978-1135796693. "Whereas officially the number of Lezgins registered as such in Azerbaijan is around 380,000, the Lezgins claim (...)" 
  3. ^ The Role of Ethnic Minorities in Border Regions: Forms of their composition, problems of development and political rights”. 2014ねん12月18にち閲覧えつらん。 “Although the Lezgin are Sunni Muslims, there is a strong Shiite minority.”
  4. ^ Friedrich, Paul (1994). Encyclopedia of World Cultures: Russia and Eurasia, China. G.K. Hall. p. 243. ISBN 978-0816118106. "Given the strong Azerbaijani influence on them, however, there is a sizable Shiite minority among the Lezgins" 
  5. ^ Cole, Jeffrey E. (2016). Ethnic Groups of Europe: An Encyclopedia: An Encyclopedia. ABC-CLIO. p. 237. ISBN 978-1598843033. "The Lezgins are Muslims; the great majority are Sunni of the Shafi'i rite, with small numbers of Lezgins living near or inside Azerbaijan being Shiite." 
  6. ^ レズギンぞく北東ほくとうコーカサスの部族ぶぞく)/(Lesgians.)にちぶんけんデータベースHP.2019ねん7がつ19にち閲覧えつらん
  7. ^ Olson, James Stuart; Pappas, Nicholas Charles (1994). An Ethnohistorical dictionary of the Russian and Soviet empires. Greenwood Publishing Group. p. 438. ISBN 0-313-27497-5. https://books.google.com/books?id=CquTz6ps5YgC&pg=PA438 
  8. ^ a b Chaumont, M. L. Albania Archived 2007-03-10 at the Wayback Machine..Encyclopaedia Iranica.
  9. ^ Bruno Jacobs, "ACHAEMENID RULE IN Caucasus" in Encyclopædia Iranica. January 9, 2006. 引用いんよう翻訳ほんやく「コーカサス地方ちほうにおけるアケメネスあさ支配しはいは、おそくとも紀元前きげんぜん513-512ねんダレイオス1せいのスキタイ運動うんどう過程かてい確立かくりつされた。シス=コーカサス地方ちほう範囲はんい北側きたがわ)のペルシャの支配しはい短期間たんきかんでダレイオス以降いこうのアケメネスあさ時代じだいすべてではないとはいえ、だいコーカサスがながきにわたって帝国ていこく北側きたがわ境界きょうかい形成けいせいしたことを考古学こうこがくてき発見はっけんしめしている」
  10. ^ a b c Toumanoff, Cyril. The Arsacids. Encyclopædia Iranica. excerpt:"Whatever the sporadic suzerainty of Rome, the country was now a part-together with Iberia (East Georgia) and (Caucasian) Albania, where other Arsacid branched reigned-of a pan-Arsacid family federation. Culturally, the predominance of Hellenism, as under the Artaxiads, was now followed by a predominance of "Iranianism," and, symptomatically, instead of Greek, as before, Parthian became the language of the educated"
  11. ^ Yarshater, p. 141.
  12. ^ Nevertheless, "despite being one of the chief vassals of Sasanian Shahanshah, the Albanian king had only a semblance of authority, and the Sassanid marzban (military governor) held most civil, religious, and military authority.
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  25. ^ Yo'av Karny,"Highlanders: A Journey to the Caucasus in Quest of Memory",Macmillan, 2001. pp 112:引用いんようやく最後さいごの1989ねんぜんソビエト国勢調査こくせいちょうさでは、ダゲスタンで204,400にん、アゼルバイジャンで171,395にんのレズギ人ぎじん記録きろくされていた。どちらの数値すうちも、両方りょうほうの「故郷こきょう」におけるレズギ人数にんずうのほぼ同一どういつ減少げんしょうりつ(5%)を反映はんえいしている。ソビエト連邦れんぽう地域ちいきおもにロシア、カザフスタン、トルクメニスタンでおよそ65,000にんのレズギ人ぎじん集計しゅうけいされている」