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チュヴァシ人 じん (チュヴァシ語 ご :чӑвашсем, чӑваш халӑхӗ 、ロシア語 ご :чуваши 、タタール語 ご :Чуашлар )は、ロシア連邦 れんぽう チュヴァシ共和 きょうわ 国 こく を中心 ちゅうしん に居住 きょじゅう するテュルク系 けい 民族 みんぞく 。
チュバシ人 じん とも呼 よ ばれる。
総 そう 人口 じんこう の約 やく 半数 はんすう に相当 そうとう する90万 まん 人 にん が、チュヴァシ共和 きょうわ 国 こく に居住 きょじゅう しており、共和 きょうわ 国内 こくない の多数 たすう 派 は (67.69 %)を占 し める。その他 た 、タタールスタン共和 きょうわ 国 こく (総 そう 人口 じんこう 比 ひ 7.7 %、アクスバイ地区 ちく 、ブア地区 ちく 、ヌルラト地区 ちく 、タテシュ地区 ちく 、チルメシャン地区 ちく 、チュプラレ地区 ちく など)、バシコルトスタン共和 きょうわ 国 こく (7.1 %)、サマラ州 しゅう (6.2 %)、ウリヤノフスク州 しゅう (6.8 %)、チュメニ州 しゅう 、ケメロヴォ州 しゅう 、オレンブルク州 しゅう 、モスクワ州 しゅう 、クラスノヤルスク地方 ちほう 、カザフスタン 、ウクライナ などにも住民 じゅうみん が存在 そんざい する。
テュルク諸語 しょご の中 なか で特異 とくい な特徴 とくちょう を持 も つチュヴァシ語 ご を母語 ぼご とするが、第 だい 2言語 げんご としてロシア語 ご やタタール語 ご を話 はな す者 もの も多 おお い。
ムスリム が多 おお いテュルク系 けい 民族 みんぞく では例外 れいがい 的 てき に、住民 じゅうみん の大半 たいはん が正教 せいきょう の信徒 しんと である。
チュヴァシ人 じん の少年 しょうねん たち
言語 げんご 的 てき 特徴 とくちょう から、3つの下位 かい 集団 しゅうだん に分類 ぶんるい される。
高地 たかち チュヴァシ(вирьял, тури):北 きた チュヴァシヤ、北東 ほくとう チュヴァシヤ
草原 そうげん チュヴァシ(анат енчи):中央 ちゅうおう チュヴァシヤ、南西 なんせい チュヴァシヤ
低地 ていち チュヴァシ(анатри):南 みなみ チュヴァシヤ、チュヴァシヤ以外 いがい
チュヴァシ人 じん の祖先 そせん は、10世紀 せいき にブルガール人 じん のうちヴォルガ・ブルガール国 こく を建国 けんこく したヴォルガ・ブルガール系 けい のスアル部族 ぶぞく 、サビル部族 ぶぞく にさかのぼると考 かんが えられている。モンゴル によるヴォルガ地域 ちいき の征服 せいふく 後 ご 、ブルガール人 じん の一部 いちぶ は、北方 ほっぽう のフィン・ウゴル系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく と混血 こんけつ して、15世紀 せいき から16世紀 せいき ごろに、現在 げんざい のチュヴァシ人 じん の原型 げんけい が形成 けいせい されたとみられる。チュヴァシ人 じん は、15世紀 せいき にカザン・ハン国 こく の支配 しはい 下 か に置 お かれ、イスラーム 化 か した一部 いちぶ は現在 げんざい のタタール人 じん と同化 どうか したとされる。そのために人種 じんしゅ は元来 がんらい はモンゴロイド であったが、現在 げんざい は混血 こんけつ を重 かさ ねた結果 けっか としてコーカソイド に属 ぞく する。
16世紀 せいき にチュヴァシ人 じん の居住 きょじゅう 地域 ちいき はロシア帝国 ていこく に征服 せいふく され、住民 じゅうみん の正教 せいきょう への改宗 かいしゅう が進 すす んだ。1871年 ねん には、キリル文字 もじ を使 つか ったチュヴァシ語 ご の正書法 せいしょほう が制定 せいてい され、チュヴァシ人 じん 知識 ちしき 人 じん 層 そう が形成 けいせい されるようになった。
19世紀 せいき 後半 こうはん のロシア東洋 とうよう 学 がく の発展 はってん により、古代 こだい のブルガール語 ご がチュヴァシ語 ご と近 きん 縁 えん であることが明 あき らかとなると、チュヴァシ人 じん 知識 ちしき 人 じん の間 あいだ で、自 みずか らの民族 みんぞく 起源 きげん をヴォルガ・ブルガール国 こく に求 もと める意識 いしき が高 たか まった。
一方 いっぽう で、1940年代 ねんだい のソ連 それん 民族 みんぞく 学 がく では、ブルガール人 じん の子孫 しそん をタタール人 じん に同定 どうてい し、チュヴァシ人 じん の民族 みんぞく 起源 きげん をフィン・ウゴル系 けい 先住民 せんじゅうみん 族 ぞく に位置 いち づける学説 がくせつ が主流 しゅりゅう となった。こうした学説 がくせつ の背景 はいけい には、ヴォルガ・ブルガール国 こく を、ソ連 それん 領内 りょうない で「自生 じせい 的 てき 」に発展 はってん した民族 みんぞく 集団 しゅうだん として位置 いち づけ、征服 せいふく 者 しゃ であるモンゴル帝国 ていこく の系譜 けいふ を、ソ連邦 それんぽう 内 ない 諸 しょ 民族 みんぞく の民族 みんぞく 起源 きげん 説 せつ から排除 はいじょ する政治 せいじ 的 てき な意図 いと があった。これに反発 はんぱつ したチュヴァシ人 じん 知識 ちしき 人 じん は、ブルガール起源 きげん 説 せつ を発展 はってん させ、1970年代 ねんだい には、タタール人 じん 知識 ちしき 人 じん との間 あいだ で、ブルガールの後継 こうけい 民族 みんぞく を巡 めぐ る民族 みんぞく 起源 きげん 論争 ろんそう を繰 く り広 ひろ げた[1] 。