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タタール

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タタールじんから転送てんそう
タタールじん
татарлар
tatarlar
18世紀せいきのタタールの女性じょせい
そう人口じんこう
合計ごうけい: ~730まんにん[1]
居住きょじゅう地域ちいき
ロシアの旗 ロシア 5,319,877[9]
ウクライナの旗 ウクライナ319,377[10][11]
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン~239,965[12]
(クリミア・タタールじん
カザフスタンの旗 カザフスタン208,987[13]
トルコの旗 トルコ500,000–6,900,000[4][5][6][14]
アフガニスタンの旗 アフガニスタン100,000[15]推定すいてい
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン36,655[16]
キルギスの旗 キルギス28,334[17]
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン25,900[18]
ルーマニアの旗 ルーマニア~20,000[19]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ10,000[20]
ベラルーシの旗 ベラルーシ3,000[21]
フランスの旗 フランス700[22]
スイスの旗 スイス1,045+[23]
中華人民共和国の旗 中国ちゅうごく3,556[24]
カナダの旗 カナダ56,000[25]
混血こんけつふくむ)
ポーランドの旗 ポーランド1,916[26]
ブルガリアの旗 ブルガリア5,003[27]
フィンランドの旗 フィンランド600–700[28]
日本の旗 日本にっぽん600–2000[29]
オーストラリアの旗 オーストラリア900+[30]
チェコの旗 チェコ300+[31]
エストニアの旗 エストニア2,000[32]
ラトビアの旗 ラトビア2,800[3]
リトアニアの旗 リトアニア2,800–3,200[33][34][35][36]
イランの旗 イラン20,000–30,000[37]
(ヴォルガ・タタールじん
言語げんご
キプチャクぐん
宗教しゅうきょう
大半たいはんスンニイスラーム
東方とうほう正教会せいきょうかい少数しょうすう存在そんざい
関連かんれんする民族みんぞく
バシキールじん
クリミア・タタールじん
テュルクじん

タタール(Tatar, タタール: татарлар)は、きたアジアモンゴル高原こうげんシベリアカザフステップからひがしヨーロッパリトアニアにかけての幅広はばひろ地域ちいきにかけて活動かつどうしたテュルクけい民族みんぞくたいしてもちいられてきた民族みんぞく総称そうしょうである[38]日本にっぽんでは、中国ちゅうごくからつたわった韃靼だったん(だったん)という表記ひょうきもちいてきた[39]

概要がいよう

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タタル (Татарла, Татар - Tatarla, Tatar) というかたりは、テュルクけい遊牧ゆうぼく国家こっかである突厥(とっけつ)がモンゴル高原こうげん東北とうほく遊牧ゆうぼくしていたしょ部族ぶぞく総称そうしょうしてんだ他称たしょうである[40]。このかたりテュルクで「人々ひとびと」を意味いみするとされ[41]、その最古さいこ使用しようれい突厥文字もじしるした碑文ひぶん突厥碑文ひぶん)においてであった。まもなく中国ちゅうごくがわもテュルクのタタルをれ、『しんだい』や『りょう』において「いたる靼」「いたるだん」などと表記ひょうきしたが、これは他称たしょうではなく、かれらの自称じしょうであるといい[42]、タタルを自称じしょうとする部族ぶぞく形成けいせいされていた。

のちにタタルと自称じしょうする人々ひとびとはモンゴル部族ぶぞく従属じゅうぞくしてモンゴル帝国ていこく一員いちいんとなり、ヨーロッパ遠征えんせい従軍じゅうぐんしたため、ヨーロッパの人々ひとびとにそのられた。ヨーロッパではモンゴルの遊牧ゆうぼく騎馬きば民族みんぞくが「タルタル (Tartar)」とばれるようになり、その土地とちめいも「モンゴリア(モンゴル高原こうげん)」というかたり定着ていちゃくするまでは「タルタリー」とばれた。なかでもロシアの「タタール(Татар)」はよくられているが、ロシアはヨーロッパのなかもっとながくモンゴル(タタールじん)の支配しはいけたくにであり、ロシアじんにとって「タタールのくびき (татарское иго)」というにが歴史れきしとして認識にんしきされている。ひがしヨーロッパではモンゴル帝国ていこく崩壊ほうかいにロシアの周縁しゅうえん継承けいしょう政権せいけん形成けいせいしたムスリム(イスラム教徒きょうと)のしょ集団しゅうだんをタタールとしょうした。かれらの起源きげんは、モンゴル帝国ていこく地方ちほう政権せいけんのうちでのちのロシアりょう支配しはいしたジョチ・ウルスにおいてイスラム教いすらむきょう受容じゅようしテュルクしたモンゴルじんかれらに同化どうかした土着どちゃくのテュルクけいフィン・ウゴルけいしょ民族みんぞくなどで、これが現在げんざいのロシア・ひがしヨーロッパのタタール民族みんぞくつながっている。

一方いっぽうひがしアジアでもモンゴル帝国ていこく崩壊ほうかいも「タタル」のかたり使つかわれつづけ、漢字かんじで「韃靼だったん」としるされた[43]。この韃靼だったんはかつてのいたる靼(タタル)ではなく、モンゴルじん全体ぜんたいしているため、使つかかたとしてはヨーロッパと類似るいじしている。

以上いじょうのように、「タタル」というは突厥碑文ひぶん他称たしょうはじまり、のちに突厥碑文ひぶんのタタルから派生はせいしたタタルいたる靼)が自称じしょうするようになった。おなじく突厥碑文ひぶんのタタルから派生はせいしたモンゴルがユーラシア大陸たいりく支配しはいする巨大きょだい帝国ていこく形成けいせいすると、タタルはその一員いちいんとなるが、この時代じだいにモンゴル帝国ていこく遊牧民ゆうぼくみん全体ぜんたいがヨーロッパ、中国ちゅうごくから「タルタル、韃靼だったん」と他称たしょうされた。いまはテュルクけいムスリムのことを場合ばあいおおい。

現在げんざいのタタール

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現在げんざいでは、きゅうソビエト連邦れんぽう中心ちゅうしんにシベリアからひがしヨーロッパにかけて居住きょじゅうするテュルクけいしょ民族みんぞくがタタール(タタール: Татарлар, Tatarlar)を自称じしょうするが、現在げんざい「タタール」とばれるしょ民族みんぞくロシア連邦れんぽううちヴォルガがわちゅう流域りゅういきイデル=ウラル地域ちいき)にヴォルガ・タタールじん(カザン・タタールじん)、ヴォルガ川下かわしも流域りゅういきアストラハン・タタールじんシベリアシベリア・タタールじんクリミア半島くりみあはんとうクリミア・タタールじんベラルーシリトアニアおよびポーランドリプカ・タタールじんなどにかれる。

タタールじん人口じんこうおおくにはロシアで、統計とうけいじょうそう人口じんこうはおよそ550まんにんロシアじん多数たすう民族みんぞくである。このうちかずおおいのはヴォルガ・タタールじんで、ヴォルガちゅう流域りゅういきタタールスタン共和きょうわこくに200まんにんとなりバシコルトスタン共和きょうわこくに100まんにん居住きょじゅうする。また、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにもロシアから移住いじゅうしたタタールじん少数しょうすう民族みんぞくタタールぞくタタールばん中国語ちゅうごくごばんとされ、新疆しんきょうウイグル自治じちに2010ねん現在げんざいで4890にん[44]らす[ちゅう 1]

語源ごげん表記ひょうき

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タタールの語源ごげんテュルクで、「人々ひとびと」を意味いみした[41] Tatar(タタル)である。

伝統でんとうてきにはもっぱら、中国ちゅうごくでは韃靼だったん(ダーダー、拼音: dádá)、アラビアでは تتر(タタル)、ペルシアでは تاتار (タータール)、ロシアでは Татар(タタール)、西にしヨーロッパしょ言語げんごでは Tartar(タルタル)と表記ひょうきされる[45]

韃靼だったん口語こうごがたとして韃子があるが、モンゴルを侮辱ぶじょくする言葉ことばであり、陝西せんせいしょう山西さんせいしょう漢人かんどたちは現在げんざいでもときどきくちにする言葉ことばである[46]

宮脇みやわき淳子じゅんこ韃靼だったんというかたりについて、「中国ちゅうごく王朝おうちょうあきらは、モンゴル高原こうげん遊牧ゆうぼく生活せいかつおくっているひとびとが、元朝がんちょうふか関係かんけいにあるモンゴル帝国ていこく後裔こうえいであることをりながら、かれらをモンゴル(こうむいにしえ)とばずに、わざとタタル(韃靼だったん)とよんだ。それは、中華ちゅうか思想しそう立場たちばでは、正統せいとうはただひとつしかなく、明朝みんちょうだけがモンゴル帝国ていこく宗主そうしゅこく元朝がんちょう継承けいしょうしゃでなければならなかったからである」と分析ぶんせきしている[46]

アジアのタタール

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さんじゅうせいタタルときゅうせいタタル

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突厥碑文ひぶんには、「さんじゅうせいタタル(オトゥズ・タタル、Otuz Tatar)」や、「きゅうせいタタル(トクズ・タタル、Toquz Tatar)」という複数ふくすう部族ぶぞくせい)からなる集団しゅうだん登場とうじょうする。このうちのさんじゅうせいタタルは中国ちゅうごく史書ししょしるされているしつ(しつい)に比定ひていされている。

8世紀せいきの『ホショ・ツァイダム碑文ひぶん(キョル・テギン碑文ひぶん)』に、「バイカル東岸とうがん方面ほうめんのクリカン(ほね)とシラムレンがわのキタン(ちぎり)のあいだに、オトゥズ・タタル(さんじゅうせいタタル)がいた」ときざまれたように[47]突厥時代じだいからしつ韋はさんじゅうせいタタルとばれていたのであるが、一方いっぽうで『シネ・ウス碑文ひぶん』などに「トクズ・タタル(きゅうせいタタル)」という集団しゅうだんセレンゲがわ下流かりゅうちかくに居住きょじゅうしていたこともしるされている。きゅうせいタタルとさんじゅうせいタタルとの関係かんけいはわかっていないが、きゅうせいタタルがさんじゅうせいタタルとおな起源きげんであるとすれば、これもしつ韋からかれた集団しゅうだんであると推測すいそくできる。しかし、『しんだい』にしるされている「いたる靼(たつたん、タタル)」は「靺鞨のこたね」としるされており、しつ韋の後身こうしんとはしるされていない。

860年代ねんだいきゅうせいタタルはかい(ウイグル)をほろぼした黠戛斯(キルギス)を撃退げきたいし、オルホンがわ流域りゅういき割拠かっきょした。13世紀せいきにモンゴルが強大きょうだいになるまでモンゴル高原こうげん支配しはい部族ぶぞくであったケレイト王家おうけはおそらくきゅうせいタタルの後身こうしんである可能かのうせいたか[48]

一方いっぽうで、しつ韋のきゅうのこっていたさんじゅうせいタタルは、かつてきゅうせいタタルがんでいたセレンゲ川上かわかみ流域りゅういきや、ケルレンがわ上流じょうりゅうにまでじゅうひろげ、11世紀せいきから13世紀せいきにかけて活躍かつやくするモンゴルやタタルといった部族ぶぞく起源きげんとなる。

タタル

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13世紀せいきひがしアジア諸国しょこく北方ほっぽうしょ民族みんぞく

モンゴル高原こうげん中央ちゅうおうで黠戛斯(キルギス)の遊牧ゆうぼく国家こっかたおれると、タタルしょ部族ぶぞく南下なんか開始かいしし、モンゴル高原こうげん中部ちゅうぶから東部とうぶひろ分布ぶんぷするようになった。高原こうげん東南とうなん遊牧ゆうぼくしていたキタイ(ちぎり)がりょう建国けんこくすると、これらの遊牧ゆうぼくしょ部族ぶぞくりょう支配しはいけ、ときにりょう反抗はんこうしながら部族ぶぞく興亡こうぼうつづける。この時期じき台頭たいとうしたのが、ケレイトジャライルメルキトモンゴルバルグトといったしょ部族ぶぞくであり、これらとならんで有力ゆうりょく部族ぶぞくとなったのがタタルである。すなわち、この時代じだいのタタルとはかつて突厥がさんじゅうせいタタルと他称たしょうしたしつ韋の後裔こうえい一部いちぶであり、タタルを自称じしょう部族ぶぞくめいとした集団しゅうだんであった。『元朝がんちょう秘史ひし』によると、タタル部族ぶぞくにはアルチチャガンドタウトアルクイの4氏族しぞくがあるという。一方いっぽう、『しゅう』ではトトクリウト筆頭ひっとうに、おなじくアルチ、チャガンのほかクインテレイトバルクイけい6氏族しぞくかぞえられている。

12世紀せいきみなみそうきむだい中国ちゅうごくではモンゴル高原こうげん東部とうぶ北東ほくとう居住きょじゅうするタタルなどしょ部族ぶぞくを「くろ韃靼だったん」、モンゴル高原こうげん南部なんぶうちこうむふる)に居住きょじゅうするオングトなどしょ部族ぶぞくを「しろ韃靼だったん」とんでいた[40][43][49]

タタルりょうわって成立せいりつしたかねむすんで、モンゴルアンバガイ・カン殺害さつがいした。そのため12世紀せいきまつ、モンゴル部族ぶぞくちょうとなったチンギス・カンによってタタルほろぼされた。やがてチンギス・カンが、モンゴル高原こうげんのモンゴル・テュルクけい遊牧ゆうぼくしょ部族ぶぞく統合とうごうしてモンゴル帝国ていこくてると、かつてのタタル勢力せいりょくるわなかったものの、モンゴル帝国ていこく構成こうせいする一部いちぶぞくとして存続そんぞくした。

あつまり』では、チンギス・カンのオルドの管理かんりおこなっていたさい有力ゆうりょくだいハトゥンがだい1皇后こうごうボルテふくめ5にんいたことがしるされているが、うちだい5皇后こうごうイェスルンおよびだい3皇后こうごうイェスゲンの姉妹しまいはトトクリウト・タタル氏族しぞく首長しゅちょうイェケ・チェレンのむすめであった。チンギス・カンの養子ようしとしてホエルンらに養育よういくされたシギ・クトクやクリ・ノヤンなど、タタル部族ぶぞく氏族しぞくそれぞれがチンギス・カンかく王家おうけ有力ゆうりょく部将ぶしょう姻族いんぞくとして政権せいけん中枢ちゅうすうになった。

韃靼だったん

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モンゴル帝国ていこくしょ政権せいけんのうち、中国ちゅうごくとモンゴル高原こうげん支配しはいしたもとは、1368ねんきたのがれて北元きたもととなったが、やがて1388ねんクビライ直系ちょっけいのハーンが殺害さつがいされてクビライのおうみつるがほぼ断絶だんぜつし、モンゴル高原こうげん西部せいぶしょ部族ぶぞくオイラト部族ぶぞく連合れんごう形成けいせいしてモンゴル部族ぶぞく連合れんごう対立たいりつはじめた。

一方いっぽう中国ちゅうごくもどすことができたかん民族みんぞくあきらではモンゴルのことを「こうむいにしえ」とばず、かつてのモンゴルけい遊牧民ゆうぼくみん総称そうしょうであった「韃靼だったん」とぶことになった[40]。これはかれらが元朝がんちょう後継こうけい政権せいけんであることを言葉ことばうえ否認ひにんしたためである[50]。そのため明代あきよしるされた史料しりょうしんだい編纂へんさんされた正史せいしあかり』では、モンゴルは韃靼だったん記録きろくされている。

モンゴルが韃靼だったんばれるようになった明代あきよでも、モンゴルのひがしおんなしん(のちの満州まんしゅうじん)はモンゴルのことを Monggo(モンゴ)とつづけていた。のちにあかりわって満州まんしゅうじんてたきよし韃靼だったん名称めいしょう採用さいようせず、モンゴルの漢字かんじ表記ひょうきは「韃靼だったん」から「こうむいにしえ」にもどった。しんだいには西にしトルキスタン居住きょじゅうするイスラム教徒きょうとふくめた、きたアジア・中央ちゅうおうアジアのしょ集団しゅうだんして「韃靼だったん」という言葉ことば使つかわれるようになった[43]

日本にっぽんでは、江戸えど時代じだいから沿海州えんかいしゅうアムールがわ流域りゅういきふくきたアジア・中央ちゅうおうアジアを呼称こしょうとして「韃靼だったん」のかたりもちいられたが、領域りょういき実態じったいについて明確めいかく定義ていぎ存在そんざいしていなかった[51]

ヨーロッパのタタール

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ひがしヨーロッパ

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ヨーロッパキリスト教きりすときょう世界せかいなかでももっとひがし位置いちし、恒常こうじょうてきにテュルクけい遊牧民ゆうぼくみん接触せっしょくしていたルーシ現在げんざいのロシア・ウクライナ[52])は1223ねんにモンゴル帝国ていこく最初さいしょ襲撃しゅうげきけ、1237ねんにはバトゥひきいるせい西にしぐん侵攻しんこうけて、ノヴゴロド公国こうこく以外いがいすべてモンゴルの支配しはいはいった。ルーシの人々ひとびとは、おそらく周囲しゅういにいたポロヴェツなどのテュルクけい遊牧民ゆうぼくみん東方とうほうのモンゴルけい遊牧民ゆうぼくみんたちをタタルとんでいたのにならって、かれひがしからやってきた遊牧民ゆうぼくみんたちをタタールとんだ。 1245ねん、モンゴル皇帝こうていグユク謁見えっけんするためローマからカラコルムにかったローマ教皇きょうこうインノケンティウス4せい使者ししゃプラノ・カルピニ往路おうろ途中とちゅう、ルーシの古都ことキエフ襲撃しゅうげきによりいま廃墟はいきょであったことをしるしている。

バトゥのせい西にしだい被害ひがいけたルーシは、つづけてバトゥがヴォルガ川下かわしもりゅうとどまって建国けんこくしたジョチ・ウルス支配しはいはいり、モンゴルへの服従ふくじゅうみつぎおさめ強制きょうせいされた。モスクワ大公たいこうこくが1480ねんみつげおさめ廃止はいしし、地域ちいき独立どくりつするまでやく200ねん前後ぜんこうにわたってつづくことになる、このモンゴル=タタールによる支配しはいのことをロシアでは「タタールのくびき(くびき)」とぶ。

ジョチ・ウルスのモンゴルじんたちはやがて言語げんごてきにはテュルク宗教しゅうきょうてきにはイスラム教いすらむきょうしてゆく。15世紀せいきにはジョチ・ウルスは再編さいへん解体かいたいすすんでクリミア半島くりみあはんとうクリミア・ハンこく、ヴォルガ川中かわなか流域りゅういきカザン・ハンこく西にしシベリアシビル・ハンこくなどがまれるが、これらの地域ちいきではかつてのモンゴルけい支配しはいしゃ土着どちゃくのテュルクけいなどの様々さまざま人々ひとびと混交こんこうし、現在げんざいクリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールとばれるような民族みんぞく形成けいせいされていった。タタールのなかには、ロシアやルーマニア移住いじゅうして、キリストきょうれて現地げんち同化どうかするものおおあらわれており、ユスポフカンテミールなど有力ゆうりょく貴族きぞくとなったいえもある。

ロシアは、16世紀せいきころまでに「タタールのくびき」をだっするが、そのもクリミアやヴォルガ、シベリアなどにひろらばるテュルク=モンゴルけい人々ひとびとをタタールとんだ[43]ロシア帝国ていこく18世紀せいきまでにこれらのタタールはほとんどすべてを支配しはいく。

ロシア治下ちかのタタールのうち、ヴォルガ川中かわなか流域りゅういきカザン周辺しゅうへんむヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済けいざいてき文化ぶんかてき成長せいちょうし、ロシア領内りょうないのムスリム(イスラム教徒きょうとちゅう最大さいだい共同きょうどうたいへと発展はってんしていった。ロシア・ソビエト連邦れんぽうでは様々さまざま民族みんぞくかれたタタールたちをまとめてタタール民族みんぞくとしてあつかっていたが、それらのうちで継続けいぞくしてタタールの自治じち共和きょうわこくつことができたのはヴォルガ・タタールじんのみであった(ソビエト連邦れんぽうロシアSFSRタタール自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくロシア連邦れんぽうタタールスタン共和きょうわこく)。このため、ロシアりょう話題わだいとするおおくの文脈ぶんみゃくで、たんにタタールじんといったときも、狭義きょうぎにはヴォルガ・タタールじんしていることがおおい。クリミア・タタールじんは1921ねんロシアSFSRにクリミア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく建国けんこく許可きょかされたが、ヨシフ・スターリンによるクリミア・タタールじん追放ついほう政策せいさくにより人口じんこう民族みんぞく大幅おおはば減少げんしょう、1945ねんにはクリミアしゅう格下かくさげとなった。1954ねん管轄かんかつウクライナSSR移動いどうソ連それん崩壊ほうかいウクライナではクリミア自治じち共和きょうわこくとして、2014ねんロシアによるクリミアの併合へいごうのちにはクリミア共和きょうわこくとしてそれぞれ自治じちけん復活ふっかつしている。

13世紀せいきから17世紀せいきにおいて、多様たようなタタールぞくポーランド・リトアニア共和きょうわこく移住いじゅう難民なんみんとし居住きょじゅうした。ポーランドおうリトアニア大公たいこうは、たかいスキルの戦士せんしとしてられていたタタールじんこのんだからである。13世紀せいき-14世紀せいきあいだリプカ・タタールじん移住いじゅうし、15世紀せいきから16世紀せいきにはクリミア・タタールじんノガイぞくなどが移住いじゅうし、ポーランドぐんたか評価ひょうかていた。16世紀せいきから17世紀せいきに、ヴォルガ・タタールじん移住いじゅうした。おもリトアニア大公たいこうこく現在げんざいリトアニアベラルーシ)に定住ていじゅうした。ポーランドには、リプカ・タタールじん筆頭ひっとうに、ハザール起源きげんとするクリミア・カライムじんなどおおくのタタールけいテュルクけい民族みんぞく定住ていじゅうした。

西にしみなみヨーロッパ

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バトゥのせい西にしひがしヨーロッパのポーランドからハンガリーまでたっし、ルーシのみならず西にしヨーロッパ・カトリックけんにもおおきな衝撃しょうげきあたえているが、西にしヨーロッパの人々ひとびとは、ロシアのタタールというをさらにギリシャ地獄じごく住民じゅうみん意味いみするタルタロスかさわせ、モンゴルじんたちをタルタルじんんだ。そしてモンゴル帝国ていこく以来いらい中央ちゅうおうユーラシア、中央ちゅうおうアジア、きたアジアのしょ民族みんぞくをタルタルじん用法ようほうながのこることになる。

たとえばモンゴル高原こうげんきたアジアは、19世紀せいきまで西にしヨーロッパの人々ひとびとによってタルタリーとばれており、その住民じゅうみんであるモンゴルけい、テュルクけい遊牧民ゆうぼくみんたちはタルタルじん、タルタリーじんばれつづけていた。17世紀せいききよしてた満州まんしゅうじんはツングースけい遊牧民ゆうぼくみんであるが、かれらもヨーロッパじんにはタルタルじん一種いっしゅとみなされていた。近代きんだい中央ちゅうおうユーラシアのしょ民族みんぞくかんする知識ちしきがヨーロッパの人々ひとびと根付ねつくにつれ、タルタルの使つかわれなくなっていくが[53]、その名残なごり現代げんだいにおいて払拭ふっしょくされてはいない。たとえば、ヴォルガ・タタールじんなどのタタールのかんする民族みんぞく英語えいごけん言及げんきゅうされるとき、Tatars ではなく Tartarsつづられることもしばしばである。

中国ちゅうごくのタタールぞく

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中国ちゅうごく少数しょうすう民族みんぞくひとタタールぞくタタールばん中国語ちゅうごくごばん[ちゅう 2]は、18世紀せいき以降いこうにロシアから移住いじゅうしたタタールじん子孫しそんであり、上述じょうじゅつ韃靼だったんとは無関係むかんけいである。中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく新疆しんきょうウイグル自治じちにおける人口じんこうは4890にん(2010ねん[44]新疆しんきょうウイグル自治じち以下いかさと中国語ちゅうごくごばん[ちゅう 3]レベルの行政ぎょうせい唯一ゆいいつある。

民族みんぞくきょう

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日本にっぽんのタタールじん

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1917ねんロシア革命かくめいによってくにわれたタタールじんたちが日本にっぽんのがれており、かれらは日本にっぽん最初さいしょはいってきたムスリム集団しゅうだんとされる。かれらは日本にっぽんイスラム教いすらむきょうんだ最初さいしょ集団しゅうだんであり、東京とうきょうなどに回教かいきょう礼拝れいはいどう(1938ねん完成かんせい現在げんざい東京とうきょうジャーミイ)などをつくった[55]。この回教かいきょうどうひらきどう式典しきてんにはイエメン王子おうじサウジアラビア王国おうこくエジプト王国おうこく国王こくおう名代なだい中東ちゅうとうイスラムけんからの来賓らいひんふくやく300にんのムスリムが出席しゅっせきした。設立せつりつ主導しゅどうした在日ざいにちタタールじん指導しどうしゃムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー先立さきだつ1927ねん東京とうきょう回教かいきょう学校がっこう開校かいこうしている。在日ざいにちタタールじん日本にっぽん社会しゃかいれられたのは、アジア大陸たいりく進出しんしゅつにあたってイスラム世界せかい好意こうい重要じゅうようだと日本にっぽん政府せいふ軍部ぐんぶ認識にんしきしていたためである[56]

かれらは在日ざいにちタタールじんだいいち世界せかい大戦たいせんやぶれて崩壊ほうかいしたオスマン帝国ていこくわり成立せいりつしたトルコ共和きょうわこく国籍こくせきもとめたが、同国どうこく原則げんそくとして国籍こくせきあたえなかった。だい世界せかい大戦たいせんなかちゅうにちトルコ大使たいし本国ほんごくへのに、大戦たいせんでトルコがどちらにつくかはわからず、国籍こくせきのままがよいとかたったと伝承でんしょうされる(大戦たいせん末期まっき、トルコはにちどく宣戦せんせん布告ふこくした)。戦後せんご朝鮮ちょうせん戦争せんそう派兵はへいしたトルコぐん将兵しょうへい通訳つうやく慰問いもん在日ざいにちタタールじん世話せわになり2くみ夫婦ふうふまれたほか、戦死せんししゃ在日ざいにちタタールじんイマームにより葬儀そうぎおこなわれた。その功績こうせき評価ひょうかしたトルコ政府せいふ国籍こくせき付与ふよみとめた。トルコのほかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくオーストラリア移住いじゅうした人々ひとびともおり、かつてすうひゃくせんにん程度ていどいた在日ざいにちタタールじんは、子孫しそん参加さんかする東京とうきょうトルコ協会きょうかい会員かいいん日本人にっぽんじん家族かぞくふくめて40にん程度ていどっている[57]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  42. ^ しんだいよんえびす附録ふろくだいさんいたる靼,靺鞨のこたねほんざい奚、ちぎり東北とうほくこうためちぎりしょおさむ,而部ぞく分散ぶんさんあるぞくちぎりあるぞく渤海,べつきょかげやましゃごうたち靼。」
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  52. ^ 当時とうじは、北東ほくとうルーシのノヴゴロド公国こうこくウラジーミル・スーズダリ大公たいこうこく南西なんせいルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうこくなど10以上いじょうルーシ諸侯しょこう)が分裂ぶんれつ割拠かっきょしていた。
  53. ^ 過渡かとでは、たとえば19世紀せいきコンスタンティン・ムラジャ・ドーソンは、その著書ちょしょ『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランにいたるモンゴルぞく歴史れきし』(日本語にほんごだいは『モンゴル帝国ていこく』)において、今日きょうでは学術がくじゅつじょうモンゴルけい民族みんぞく(Mongolic people)としょうするしょ部族ぶぞくのことを「タルタルのしょ種族しゅぞく」としるしている。
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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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