タタール人 じん татарлар tatarlar 総 そう 人口 じんこう 合計 ごうけい : ~730万 まん 人 にん [1]
居住 きょじゅう 地域 ちいき ロシア
5,319,877[9] ウクライナ 319,377[10] [11] ウズベキスタン ~239,965[12] (クリミア・タタール人 じん ) カザフスタン 208,987[13] トルコ 500,000–6,900,000[4] [5] [6] [14] アフガニスタン 100,000[15] (推定 すいてい ) トルクメニスタン 36,655[16] キルギス 28,334[17] アゼルバイジャン 25,900[18] ルーマニア ~20,000[19] アメリカ 10,000[20] ベラルーシ 3,000[21] フランス 700[22] スイス 1,045+[23] 中国 ちゅうごく 3,556[24] カナダ 56,000[25] (混血 こんけつ を含 ふく む) ポーランド 1,916[26] ブルガリア 5,003[27] フィンランド 600–700[28] 日本 にっぽん 600–2000[29] オーストラリア 900+[30] チェコ 300+[31] エストニア 2,000[32] ラトビア 2,800[3] リトアニア 2,800–3,200[33] [34] [35] [36] イラン 20,000–30,000[37] (ヴォルガ・タタール人 じん ) 言語 げんご キプチャク語 ご 群 ぐん 宗教 しゅうきょう 大半 たいはん がスンニ派 は イスラーム東方 とうほう 正教会 せいきょうかい の少数 しょうすう 派 は が存在 そんざい 関連 かんれん する民族 みんぞく バシキール人 じん クリミア・タタール人 じん テュルク人 じん
タタール (Tatar, タタール語 ご : татарлар )は、北 きた アジア のモンゴル 高原 こうげん とシベリア とカザフステップ から東 ひがし ヨーロッパ のリトアニア にかけての幅広 はばひろ い地域 ちいき にかけて活動 かつどう したテュルク系 けい 民族 みんぞく に対 たい して用 もち いられてきた民族 みんぞく 総称 そうしょう である[38] 。日本 にっぽん では、中国 ちゅうごく から伝 つた わった韃靼 だったん (だったん)という表記 ひょうき も用 もち いてきた[39] 。
タタル (Татарла, Татар - Tatarla, Tatar) という語 かたり は、テュルク系 けい 遊牧 ゆうぼく 国家 こっか である突厥 (とっけつ)がモンゴル高原 こうげん の東北 とうほく で遊牧 ゆうぼく していた諸 しょ 部族 ぶぞく を総称 そうしょう して呼 よ んだ他称 たしょう である。この語 かたり はテュルク語 ご で「他 た の人々 ひとびと 」を意味 いみ するとされ[41] 、その最古 さいこ の使用 しよう 例 れい は突厥文字 もじ で記 しる した碑文 ひぶん (突厥碑文 ひぶん )においてであった。まもなく中国 ちゅうごく 側 がわ もテュルク語 ご のタタルを取 と り入 い れ、『新 しん 五 ご 代 だい 史 し 』や『遼 りょう 史 し 』において「達 いたる 靼」「達 いたる 旦 だん 」などと表記 ひょうき したが、これは他称 たしょう ではなく、彼 かれ らの自称 じしょう であるといい[42] 、タタルを自称 じしょう とする部族 ぶぞく が形成 けいせい されていた。
後 のち にタタルと自称 じしょう する人々 ひとびと はモンゴル部族 ぶぞく に従属 じゅうぞく してモンゴル帝国 ていこく の一員 いちいん となり、ヨーロッパ遠征 えんせい に従軍 じゅうぐん したため、ヨーロッパの人々 ひとびと にその名 な を知 し られた。ヨーロッパではモンゴルの遊牧 ゆうぼく 騎馬 きば 民族 みんぞく が「タルタル (Tartar)」と呼 よ ばれるようになり、その土地 とち 名 めい も「モンゴリア(モンゴル高原 こうげん )」という語 かたり が定着 ていちゃく するまでは「タルタリー」と呼 よ ばれた。中 なか でもロシア語 ご の「タタール(Татар )」はよく知 し られているが、ロシアはヨーロッパの中 なか で最 もっと も長 なが くモンゴル(タタール人 じん )の支配 しはい を受 う けた国 くに であり、ロシア人 じん にとって「タタールのくびき (татарское иго )」という苦 にが い歴史 れきし として認識 にんしき されている。東 ひがし ヨーロッパではモンゴル帝国 ていこく の崩壊 ほうかい 後 ご にロシアの周縁 しゅうえん で継承 けいしょう 政権 せいけん を形成 けいせい したムスリム (イスラム教徒 きょうと )の諸 しょ 集団 しゅうだん をタタールと称 しょう した。彼 かれ らの起源 きげん は、モンゴル帝国 ていこく の地方 ちほう 政権 せいけん のうちで後 のち のロシア領 りょう を支配 しはい したジョチ・ウルス においてイスラム教 いすらむきょう を受容 じゅよう しテュルク化 か したモンゴル人 じん と彼 かれ らに同化 どうか した土着 どちゃく のテュルク系 けい 、フィン・ウゴル系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく などで、これが現在 げんざい のロシア・東 ひがし ヨーロッパのタタール民族 みんぞく に繋 つな がっている。
一方 いっぽう 、東 ひがし アジアでもモンゴル帝国 ていこく の崩壊 ほうかい 後 ご も「タタル」の語 かたり は使 つか われ続 つづ け、漢字 かんじ で「韃靼 だったん 」と記 しる された。この韃靼 だったん はかつての達 いたる 靼(タタル部 ぶ )ではなく、モンゴル人 じん 全体 ぜんたい を指 さ しているため、使 つか い方 かた としてはヨーロッパと類似 るいじ している。
以上 いじょう のように、「タタル」という呼 よ び名 な は突厥碑文 ひぶん の他称 たしょう に始 はじ まり、のちに突厥碑文 ひぶん のタタルから派生 はせい したタタル部 ぶ (達 いたる 靼)が自称 じしょう するようになった。同 おな じく突厥碑文 ひぶん のタタルから派生 はせい したモンゴルがユーラシア大陸 たいりく を支配 しはい する巨大 きょだい な帝国 ていこく に形成 けいせい すると、タタル部 ぶ はその一員 いちいん となるが、この時代 じだい にモンゴル帝国 ていこく の遊牧民 ゆうぼくみん 全体 ぜんたい がヨーロッパ、中国 ちゅうごく から「タルタル、韃靼 だったん 」と他称 たしょう された。今 いま はテュルク系 けい ムスリムのことを指 さ す場合 ばあい が多 おお い。
現在 げんざい では、旧 きゅう ソビエト連邦 れんぽう を中心 ちゅうしん にシベリアから東 ひがし ヨーロッパにかけて居住 きょじゅう するテュルク系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく がタタール(タタール語 ご : Татарлар , Tatarlar)を自称 じしょう するが、現在 げんざい 「タタール」と呼 よ ばれる諸 しょ 民族 みんぞく はロシア連邦 れんぽう 内 うち のヴォルガ川 がわ 中 ちゅう 流域 りゅういき (イデル=ウラル 地域 ちいき )に住 す むヴォルガ・タタール人 じん (カザン・タタール人 じん )、ヴォルガ川下 かわしも 流域 りゅういき に住 す むアストラハン・タタール人 じん 、シベリア に住 す むシベリア・タタール人 じん 、クリミア半島 くりみあはんとう に住 す むクリミア・タタール人 じん 、ベラルーシ 、リトアニア およびポーランド に住 す むリプカ・タタール人 じん などに分 わ かれる。
タタール人 じん の人口 じんこう が多 おお い国 くに はロシアで、統計 とうけい 上 じょう の総 そう 人口 じんこう はおよそ550万 まん 人 にん とロシア人 じん に次 つ ぐ多数 たすう 派 は 民族 みんぞく である。このうち数 かず が多 おお いのはヴォルガ・タタール人 じん で、ヴォルガ中 ちゅう 流域 りゅういき のタタールスタン共和 きょうわ 国 こく に200万 まん 人 にん 、隣 となり のバシコルトスタン共和 きょうわ 国 こく に100万 まん 人 にん が居住 きょじゅう する。また、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく にもロシアから移住 いじゅう したタタール人 じん が少数 しょうすう 民族 みんぞく のタタール族 ぞく (タタール語 ご 版 ばん 、中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) とされ、新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く に2010年 ねん 現在 げんざい で4890人 にん [44] が暮 く らす[注 ちゅう 1] 。
タタールの語源 ごげん は古 こ テュルク語 ご で、「他 た の人々 ひとびと 」を意味 いみ した[41] Tatar (タタル)である。
伝統 でんとう 的 てき にはもっぱら、中国 ちゅうごく 語 ご では韃靼 だったん (ダーダー、拼音 : dádá )、アラビア語 ご では تتر (タタル)、ペルシア語 ご では تاتار (タータール)、ロシア語 ご では Татар (タタール)、西 にし ヨーロッパ の諸 しょ 言語 げんご では Tartar (タルタル)と表記 ひょうき される[45] 。
韃靼 だったん の口語 こうご 形 がた として韃子 があるが、モンゴルを侮辱 ぶじょく する言葉 ことば であり、陝西 せんせい 省 しょう や山西 さんせい 省 しょう の漢人 かんど たちは現在 げんざい でもときどき口 くち にする言葉 ことば である[46] 。
宮脇 みやわき 淳子 じゅんこ は韃靼 だったん という語 かたり について、「中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう の明 あきら は、モンゴル高原 こうげん で遊牧 ゆうぼく 生活 せいかつ を送 おく っている人 ひと びとが、元朝 がんちょう と深 ふか い関係 かんけい にあるモンゴル帝国 ていこく の後裔 こうえい であることを知 し りながら、かれらをモンゴル(蒙 こうむ 古 いにしえ )と呼 よ ばずに、わざとタタル(韃靼 だったん )とよんだ。それは、中華 ちゅうか 思想 しそう の立場 たちば では、正統 せいとう はただひとつしかなく、明朝 みんちょう だけがモンゴル帝国 ていこく の宗主 そうしゅ 国 こく 元朝 がんちょう の継承 けいしょう 者 しゃ でなければならなかったからである」と分析 ぶんせき している[46] 。
突厥碑文 ひぶん には、「三 さん 十 じゅう 姓 せい タタル (オトゥズ・タタル、Otuz Tatar)」や、「九 きゅう 姓 せい タタル (トクズ・タタル、Toquz Tatar)」という複数 ふくすう の部族 ぶぞく (姓 せい )からなる集団 しゅうだん が登場 とうじょう する。このうちの三 さん 十 じゅう 姓 せい タタルは中国 ちゅうごく 史書 ししょ に記 しる されている室 しつ 韋 (しつい)に比定 ひてい されている。
8世紀 せいき の『ホショ・ツァイダム碑文 ひぶん (キョル・テギン碑文 ひぶん )』に、「バイカル湖 こ の東岸 とうがん 方面 ほうめん のクリカン(骨 ほね 利 り 干 ひ )とシラムレン川 がわ のキタン(契 ちぎり 丹 に )の間 あいだ に、オトゥズ・タタル(三 さん 十 じゅう 姓 せい タタル)がいた」と刻 きざ まれたように、突厥 の時代 じだい から室 しつ 韋は三 さん 十 じゅう 姓 せい タタルと呼 よ ばれていたのであるが、一方 いっぽう で『シネ・ウス碑文 ひぶん 』などに「トクズ・タタル(九 きゅう 姓 せい タタル)」という集団 しゅうだん がセレンゲ川 がわ 下流 かりゅう 近 ちか くに居住 きょじゅう していたことも記 しる されている。九 きゅう 姓 せい タタルと三 さん 十 じゅう 姓 せい タタルとの関係 かんけい はわかっていないが、九 きゅう 姓 せい タタルが三 さん 十 じゅう 姓 せい タタルと同 おな じ起源 きげん であるとすれば、これも室 しつ 韋から分 わ かれた集団 しゅうだん であると推測 すいそく できる。しかし、『新 しん 五 ご 代 だい 史 し 』に記 しる されている「達 いたる 靼(たつたん、タタル)」は「靺鞨 の遺 のこ 種 たね 」と記 しる されており、室 しつ 韋の後身 こうしん とは記 しる されていない。
860年代 ねんだい に九 きゅう 姓 せい タタルは回 かい 鶻 (ウイグル)を滅 ほろ ぼした黠戛斯 (キルギス)を撃退 げきたい し、オルホン川 がわ 流域 りゅういき に割拠 かっきょ した。13世紀 せいき にモンゴルが強大 きょうだい になるまでモンゴル高原 こうげん の支配 しはい 部族 ぶぞく であったケレイト 王家 おうけ はおそらく九 きゅう 姓 せい タタルの後身 こうしん である可能 かのう 性 せい が高 たか い。
一方 いっぽう で、室 しつ 韋の旧 きゅう 地 ち に残 のこ っていた三 さん 十 じゅう 姓 せい タタルは、かつて九 きゅう 姓 せい タタルが住 す んでいたセレンゲ川上 かわかみ 流域 りゅういき や、ケルレン川 がわ 上流 じょうりゅう にまで住 じゅう 地 ち を広 ひろ げ、11世紀 せいき から13世紀 せいき にかけて活躍 かつやく するモンゴルやタタルといった部族 ぶぞく の起源 きげん となる。
13世紀 せいき の東 ひがし アジア諸国 しょこく と北方 ほっぽう 諸 しょ 民族 みんぞく 。
モンゴル高原 こうげん 中央 ちゅうおう 部 ぶ で黠戛斯(キルギス)の遊牧 ゆうぼく 国家 こっか が倒 たお れると、タタル諸 しょ 部族 ぶぞく は南下 なんか を開始 かいし し、モンゴル高原 こうげん の中部 ちゅうぶ から東部 とうぶ に広 ひろ く分布 ぶんぷ するようになった。高原 こうげん の東南 とうなん に遊牧 ゆうぼく していたキタイ(契 ちぎり 丹 に )が遼 りょう を建国 けんこく すると、これらの遊牧 ゆうぼく 諸 しょ 部族 ぶぞく は遼 りょう の支配 しはい を受 う け、ときに遼 りょう に反抗 はんこう しながら部族 ぶぞく の興亡 こうぼう を続 つづ ける。この時期 じき に台頭 たいとう したのが、ケレイト 部 ぶ 、ジャライル 部 ぶ 、メルキト 部 ぶ 、モンゴル 部 ぶ 、バルグト 部 ぶ といった諸 しょ 部族 ぶぞく であり、これらと並 なら んで有力 ゆうりょく 部族 ぶぞく となったのがタタル部 ぶ である。すなわち、この時代 じだい のタタル部 ぶ とはかつて突厥が三 さん 十 じゅう 姓 せい タタルと他称 たしょう した室 しつ 韋の後裔 こうえい の一部 いちぶ であり、タタルを自称 じしょう の部族 ぶぞく 名 めい とした集団 しゅうだん であった。『元朝 がんちょう 秘史 ひし 』によると、タタル部族 ぶぞく にはアルチ 、チャガン 、ドタウト 、アルクイ の4氏族 しぞく があるという。一方 いっぽう 、『集 しゅう 史 し 』ではトトクリウト を筆頭 ひっとう に、同 おな じくアルチ、チャガンの他 ほか にクイン ,テレイト ,バルクイ の計 けい 6氏族 しぞく が数 かぞ えられている。
12世紀 せいき 、南 みなみ 宋 そう ・金 きむ 代 だい の中国 ちゅうごく ではモンゴル高原 こうげん 東部 とうぶ ・北東 ほくとう 部 ぶ に居住 きょじゅう するタタル部 ぶ など諸 しょ 部族 ぶぞく を「黒 くろ 韃靼 だったん 」、モンゴル高原 こうげん 南部 なんぶ (内 うち 蒙 こうむ 古 ふる )に居住 きょじゅう するオングト など諸 しょ 部族 ぶぞく を「白 しろ 韃靼 だったん 」と呼 よ んでいた[49] 。
タタル部 ぶ は遼 りょう に代 か わって成立 せいりつ した金 かね と結 むす んで、モンゴル部 ぶ のアンバガイ・カン を殺害 さつがい した。そのため12世紀 せいき 末 まつ 、モンゴル部 ぶ の部族 ぶぞく 長 ちょう となったチンギス・カン によってタタル部 ぶ は滅 ほろ ぼされた。やがてチンギス・カンが、モンゴル高原 こうげん のモンゴル・テュルク系 けい 遊牧 ゆうぼく 諸 しょ 部族 ぶぞく を統合 とうごう してモンゴル帝国 ていこく を建 た てると、かつてのタタル部 ぶ も勢力 せいりょく は振 ふ るわなかったものの、モンゴル帝国 ていこく を構成 こうせい する一部 いちぶ 族 ぞく として存続 そんぞく した。
『集 あつまり 史 し 』では、チンギス・カンのオルドの管理 かんり を行 おこな っていた最 さい 有力 ゆうりょく の大 だい ハトゥンが第 だい 1皇后 こうごう ボルテ を含 ふく め5人 にん いたことが記 しる されているが、うち第 だい 5皇后 こうごう イェスルンおよび第 だい 3皇后 こうごう イェスゲンの姉妹 しまい はトトクリウト・タタル氏族 しぞく の首長 しゅちょう イェケ・チェレンの娘 むすめ であった。チンギス・カンの養子 ようし としてホエルンらに養育 よういく されたシギ・クトクやクリ・ノヤンなど、タタル部族 ぶぞく は氏族 しぞく それぞれがチンギス・カン家 か の各 かく 王家 おうけ で有力 ゆうりょく な部将 ぶしょう や姻族 いんぞく として政権 せいけん の中枢 ちゅうすう を担 にな った。
モンゴル帝国 ていこく の諸 しょ 政権 せいけん のうち、中国 ちゅうごく とモンゴル高原 こうげん を支配 しはい した元 もと は、1368年 ねん に北 きた へ逃 のが れて北元 きたもと となったが、やがて1388年 ねん にクビライ 直系 ちょっけい のハーンが殺害 さつがい されてクビライの王 おう 統 みつる がほぼ断絶 だんぜつ し、モンゴル高原 こうげん 西部 せいぶ の諸 しょ 部族 ぶぞく がオイラト 部族 ぶぞく 連合 れんごう を形成 けいせい してモンゴル部族 ぶぞく 連合 れんごう と対立 たいりつ し始 はじ めた。
一方 いっぽう 、中国 ちゅうごく を取 と り戻 もど すことができた漢 かん 民族 みんぞく の明 あきら ではモンゴルのことを「蒙 こうむ 古 いにしえ 」と呼 よ ばず、かつてのモンゴル系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん の総称 そうしょう であった「韃靼 だったん 」と呼 よ ぶことになった。これは彼 かれ らが元朝 がんちょう の後継 こうけい 政権 せいけん であることを言葉 ことば の上 うえ で否認 ひにん したためである。そのため明代 あきよ に記 しる された史料 しりょう や清 しん 代 だい に編纂 へんさん された正史 せいし 『明 あかり 史 し 』では、モンゴルは韃靼 だったん の名 な で記録 きろく されている。
モンゴルが韃靼 だったん と呼 よ ばれるようになった明代 あきよ でも、モンゴルの東 ひがし に住 す む女 おんな 真 しん (のちの満州 まんしゅう 人 じん )はモンゴルのことを Monggo(モンゴ)と呼 よ び続 つづ けていた。のちに明 あかり に代 か わって満州 まんしゅう 人 じん が立 た てた清 きよし は韃靼 だったん の名称 めいしょう を採用 さいよう せず、モンゴルの漢字 かんじ 表記 ひょうき は「韃靼 だったん 」から「蒙 こうむ 古 いにしえ 」に戻 もど った。清 しん 代 だい には西 にし トルキスタン に居住 きょじゅう するイスラム教徒 きょうと も含 ふく めた、北 きた アジア・中央 ちゅうおう アジアの諸 しょ 集団 しゅうだん を指 さ して「韃靼 だったん 」という言葉 ことば が使 つか われるようになった。
日本 にっぽん では、江戸 えど 時代 じだい から沿海州 えんかいしゅう 、アムール川 がわ 流域 りゅういき を含 ふく む北 きた アジア・中央 ちゅうおう アジアを指 さ す呼称 こしょう として「韃靼 だったん 」の語 かたり が用 もち いられたが、領域 りょういき や実態 じったい について明確 めいかく な定義 ていぎ は存在 そんざい していなかった。
ヨーロッパ のキリスト教 きりすときょう 世界 せかい の中 なか でも最 もっと も東 ひがし に位置 いち し、恒常 こうじょう 的 てき にテュルク系 けい の遊牧民 ゆうぼくみん と接触 せっしょく していたルーシ (現在 げんざい のロシア・ウクライナ[52] )は1223年 ねん にモンゴル帝国 ていこく の最初 さいしょ の襲撃 しゅうげき を受 う け、1237年 ねん にはバトゥ 率 ひき いる征 せい 西 にし 軍 ぐん の侵攻 しんこう を受 う けて、ノヴゴロド公国 こうこく 以外 いがい は全 すべ てモンゴルの支配 しはい 下 か に入 はい った。ルーシの人々 ひとびと は、おそらく周囲 しゅうい にいたポロヴェツ などのテュルク系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん が東方 とうほう のモンゴル系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん たちをタタルと呼 よ んでいたのにならって、彼 かれ ら東 ひがし からやってきた遊牧民 ゆうぼくみん たちをタタールと呼 よ んだ。
1245年 ねん 、モンゴル皇帝 こうてい グユク に謁見 えっけん するためローマ からカラコルムに向 む かったローマ教皇 きょうこう インノケンティウス4世 せい の使者 ししゃ プラノ・カルピニ は往路 おうろ 途中 とちゅう 、ルーシの古都 こと キエフ が襲撃 しゅうげき により今 いま や廃墟 はいきょ であったことを記 しる している。
バトゥの征 せい 西 にし で大 だい 被害 ひがい を受 う けたルーシは、続 つづ けてバトゥがヴォルガ川下 かわしも 流 りゅう に留 とど まって建国 けんこく したジョチ・ウルス の支配 しはい 下 か に入 はい り、モンゴルへの服従 ふくじゅう と貢 みつぎ 納 おさめ を強制 きょうせい された。モスクワ大公 たいこう 国 こく が1480年 ねん に貢 みつげ 納 おさめ を廃止 はいし し、他 た 地域 ちいき も独立 どくりつ するまで約 やく 200年 ねん 前後 ぜんこう にわたって続 つづ くことになる、このモンゴル=タタールによる支配 しはい のことをロシア史 し では「タタールの軛 くびき (くびき)」と呼 よ ぶ。
ジョチ・ウルスのモンゴル人 じん たちはやがて言語 げんご 的 てき にはテュルク語 ご 化 か 、宗教 しゅうきょう 的 てき にはイスラム教 いすらむきょう 化 か してゆく。15世紀 せいき にはジョチ・ウルスは再編 さいへん と解体 かいたい が進 すす んでクリミア半島 くりみあはんとう にクリミア・ハン国 こく 、ヴォルガ川中 かわなか 流域 りゅういき にカザン・ハン国 こく 、西 にし シベリア にシビル・ハン国 こく などが生 う まれるが、これらの地域 ちいき ではかつてのモンゴル系 けい 支配 しはい 者 しゃ と土着 どちゃく のテュルク系 けい などの様々 さまざま な人々 ひとびと が混交 こんこう し、現在 げんざい クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼 よ ばれるような民族 みんぞく が形成 けいせい されていった。タタールの中 なか には、ロシアやルーマニア に移住 いじゅう して、キリスト教 きょう を受 う け入 い れて現地 げんち に同化 どうか する者 もの も多 おお く現 あら われており、ユスポフ家 か 、カンテミール家 か など有力 ゆうりょく な貴族 きぞく となった家 いえ もある。
ロシアは、16世紀 せいき 頃 ころ までに「タタールの軛 くびき 」を脱 だっ するが、その後 ご もクリミアやヴォルガ、シベリアなどに広 ひろ く散 ち らばるテュルク=モンゴル系 けい の人々 ひとびと をタタールと呼 よ んだ。ロシア帝国 ていこく は18世紀 せいき までにこれらのタタールはほとんど全 すべ てを支配 しはい 下 か に置 お く。
ロシア治下 ちか のタタールのうち、ヴォルガ川中 かわなか 流域 りゅういき のカザン 周辺 しゅうへん に住 す むヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済 けいざい 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき に成長 せいちょう し、ロシア領内 りょうない のムスリム(イスラム教徒 きょうと )中 ちゅう で最大 さいだい の共同 きょうどう 体 たい へと発展 はってん していった。ロシア・ソビエト連邦 れんぽう では様々 さまざま な民族 みんぞく に分 わ かれたタタールたちをまとめてタタール民族 みんぞく として扱 あつか っていたが、それらのうちで継続 けいぞく してタタールの自治 じち 共和 きょうわ 国 こく を持 も つことができたのはヴォルガ・タタール人 じん のみであった(ソビエト連邦 れんぽう ロシアSFSR タタール自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく →ロシア連邦 れんぽう タタールスタン共和 きょうわ 国 こく )。このため、ロシア領 りょう を話題 わだい とする多 おお くの文脈 ぶんみゃく で、単 たん にタタール人 じん といったときも、狭義 きょうぎ にはヴォルガ・タタール人 じん を指 さ していることが多 おお い。クリミア・タタール人 じん は1921年 ねん ロシアSFSRにクリミア自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の建国 けんこく を許可 きょか されたが、ヨシフ・スターリン によるクリミア・タタール人 じん 追放 ついほう 政策 せいさく により人口 じんこう 比 ひ 民族 みんぞく が大幅 おおはば に減少 げんしょう 、1945年 ねん にはクリミア州 しゅう に格下 かくさ げとなった。1954年 ねん 管轄 かんかつ がウクライナSSR に移動 いどう 。ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご のウクライナ ではクリミア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく として、2014年 ねん のロシアによるクリミアの併合 へいごう 後 のち にはクリミア共和 きょうわ 国 こく としてそれぞれ自治 じち 権 けん が復活 ふっかつ している。
13世紀 せいき から17世紀 せいき において、多様 たよう なタタール族 ぞく がポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく に移住 いじゅう や難民 なんみん とし居住 きょじゅう した。ポーランド王 おう =リトアニア大公 たいこう は、高 たか いスキルの戦士 せんし として知 し られていたタタール人 じん を好 この んだからである。13世紀 せいき -14世紀 せいき の間 あいだ 、リプカ・タタール人 じん が移住 いじゅう し、15世紀 せいき から16世紀 せいき にはクリミア・タタール人 じん とノガイ族 ぞく などが移住 いじゅう し、ポーランド軍 ぐん で高 たか い評価 ひょうか を得 え ていた。16世紀 せいき から17世紀 せいき に、ヴォルガ・タタール人 じん が移住 いじゅう した。主 おも にリトアニア大公 たいこう 国 こく (現在 げんざい のリトアニア とベラルーシ )に定住 ていじゅう した。ポーランドには、リプカ・タタール人 じん を筆頭 ひっとう に、ハザール を起源 きげん とするクリミア・カライム人 じん など多 おお くのタタール系 けい やテュルク系 けい 民族 みんぞく が定住 ていじゅう した。
バトゥの征 せい 西 にし は東 ひがし ヨーロッパのポーランド からハンガリー まで達 たっ し、ルーシのみならず西 にし ヨーロッパ・カトリック圏 けん にも大 おお きな衝撃 しょうげき を与 あた えているが、西 にし ヨーロッパの人々 ひとびと は、ロシア語 ご のタタールという名 な をさらにギリシャ語 ご で地獄 じごく の住民 じゅうみん を意味 いみ するタルタロス に重 かさ ね合 あ わせ、モンゴル人 じん たちをタルタル人 じん と呼 よ んだ。そしてモンゴル帝国 ていこく 以来 いらい 、中央 ちゅうおう ユーラシア、中央 ちゅうおう アジア、北 きた アジアの諸 しょ 民族 みんぞく をタルタル人 じん と呼 よ ぶ用法 ようほう が長 なが く残 のこ ることになる。
例 たと えばモンゴル高原 こうげん や北 きた アジアは、19世紀 せいき まで西 にし ヨーロッパの人々 ひとびと によってタルタリーと呼 よ ばれており、その地 ち の住民 じゅうみん であるモンゴル系 けい 、テュルク系 けい の遊牧民 ゆうぼくみん たちはタルタル人 じん 、タルタリー人 じん と呼 よ ばれつづけていた。17世紀 せいき に清 きよし を建 た てた満州 まんしゅう 人 じん はツングース系 けい の非 ひ 遊牧民 ゆうぼくみん であるが、彼 かれ らもヨーロッパ人 じん にはタルタル人 じん の一種 いっしゅ とみなされていた。近代 きんだい に中央 ちゅうおう ユーラシアの諸 しょ 民族 みんぞく に関 かん する知識 ちしき がヨーロッパの人々 ひとびと に根付 ねつ くにつれ、タルタルの名 な は使 つか われなくなっていくが[53] 、その名残 なごり は現代 げんだい において払拭 ふっしょく されてはいない。例 たと えば、ヴォルガ・タタール人 じん などのタタールの名 な を冠 かん する民族 みんぞく が英語 えいご 圏 けん で言及 げんきゅう されるとき、Tatars ではなく Tartars と綴 つづ られることもしばしばである。
中国 ちゅうごく の少数 しょうすう 民族 みんぞく の一 ひと つタタール族 ぞく (タタール語 ご 版 ばん 、中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) [注 ちゅう 2] は、18世紀 せいき 以降 いこう にロシアから移住 いじゅう したタタール人 じん の子孫 しそん であり、上述 じょうじゅつ の韃靼 だったん とは無関係 むかんけい である。中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く における人口 じんこう は4890人 にん (2010年 ねん )[44] 。新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く に以下 いか の郷 さと (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) [注 ちゅう 3] レベルの行政 ぎょうせい 区 く が唯一 ゆいいつ ある。
1917年 ねん のロシア革命 かくめい によって国 くに を追 お われたタタール人 じん たちが日本 にっぽん に逃 のが れており、彼 かれ らは日本 にっぽん に最初 さいしょ に入 はい ってきたムスリム の集団 しゅうだん とされる。彼 かれ らは日本 にっぽん にイスラム教 いすらむきょう を持 も ち込 こ んだ最初 さいしょ 期 き の集団 しゅうだん であり、東京 とうきょう などに回教 かいきょう 礼拝 れいはい 堂 どう (1938年 ねん 完成 かんせい 、現在 げんざい の東京 とうきょう ジャーミイ )などを作 つく った[55] 。この回教 かいきょう 堂 どう の開 ひらき 堂 どう 式典 しきてん にはイエメン 王子 おうじ 、サウジアラビア王国 おうこく やエジプト王国 おうこく の国王 こくおう 名代 なだい ら中東 ちゅうとう イスラム圏 けん からの来賓 らいひん を含 ふく め約 やく 300人 にん のムスリムが出席 しゅっせき した。設立 せつりつ を主導 しゅどう した在日 ざいにち タタール人 じん 指導 しどう 者 しゃ ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー は先立 さきだ つ1927年 ねん に東京 とうきょう 回教 かいきょう 学校 がっこう も開校 かいこう している。在日 ざいにち タタール人 じん が日本 にっぽん 社会 しゃかい に受 う け入 い れられたのは、アジア大陸 たいりく 進出 しんしゅつ にあたってイスラム世界 せかい の好意 こうい が重要 じゅうよう だと日本 にっぽん 政府 せいふ ・軍部 ぐんぶ が認識 にんしき していたためである[56] 。
彼 かれ らは在日 ざいにち タタール人 じん が第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で敗 やぶ れて崩壊 ほうかい したオスマン帝国 ていこく に代 か わり成立 せいりつ したトルコ共和 きょうわ 国 こく の国籍 こくせき を求 もと めたが、同国 どうこく は原則 げんそく として国籍 こくせき を与 あた えなかった。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、駐 ちゅう 日 にち トルコ大使 たいし は本国 ほんごく への引 ひ き揚 あ げ時 じ に、大戦 たいせん でトルコがどちらにつくかはわからず、無 む 国籍 こくせき のままがよいと語 かた ったと伝承 でんしょう される(大戦 たいせん 末期 まっき 、トルコは日 にち 独 どく へ宣戦 せんせん 布告 ふこく した)。戦後 せんご 、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう に派兵 はへい したトルコ軍 ぐん 将兵 しょうへい は通訳 つうやく や慰問 いもん で在日 ざいにち タタール人 じん の世話 せわ になり2組 くみ の夫婦 ふうふ が生 う まれたほか、戦死 せんし 者 しゃ は在日 ざいにち タタール人 じん イマーム により葬儀 そうぎ が執 と り行 おこな われた。その功績 こうせき を評価 ひょうか したトルコ政府 せいふ が国籍 こくせき 付与 ふよ を認 みと めた。トルコのほかアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく やオーストラリア へ移住 いじゅう した人々 ひとびと もおり、かつて数 すう 百 ひゃく ~千 せん 人 にん 程度 ていど いた在日 ざいにち タタール人 じん は、子孫 しそん が参加 さんか する東京 とうきょう トルコ協会 きょうかい の会員 かいいん と日本人 にっぽんじん 家族 かぞく を含 ふく めて40人 にん 程度 ていど に減 へ っている[57] 。
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^ 当時 とうじ は、北東 ほくとう ルーシのノヴゴロド公国 こうこく 、ウラジーミル・スーズダリ大公 たいこう 国 こく や南西 なんせい ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公 たいこう 国 こく など10以上 いじょう のルーシ (諸侯 しょこう )が分裂 ぶんれつ ・割拠 かっきょ していた。
^ 過渡 かと 期 き では、例 たと えば19世紀 せいき のコンスタンティン・ムラジャ・ドーソン は、その著書 ちょしょ 『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至 いた るモンゴル族 ぞく の歴史 れきし 』(日本語 にほんご 題 だい は『モンゴル帝国 ていこく 史 し 』)において、今日 きょう では学術 がくじゅつ 上 じょう モンゴル系 けい 民族 みんぞく (Mongolic people)と称 しょう する諸 しょ 部族 ぶぞく のことを「タルタルの諸 しょ 種族 しゅぞく 」と記 しる している。
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