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みなみ匈奴きょうど

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みなみ匈奴きょうどたん于国
匈奴 48ねん - 304ねん 前趙
南匈奴の位置
鮮卑みなみ匈奴きょうど
公用こうよう 匈奴きょうど
首都しゅと 西河にしがわぐんきびけん
たん
48ねん - 56ねん ひしお落尸逐鞮たん
94ねん - 98ねんちんどくしかばね逐侯鞮単于
195ねん - 216ねんよび廚泉
変遷へんせん
建国けんこく 48ねん
かんぜんちょう)の建国けんこく304ねん

みなみ匈奴きょうど(みなみきょうど、拼音:Nán Xiōngnú)は、48ねん匈奴きょうどからかれたみなみ勢力せいりょく。これにたいしてきたのこった勢力せいりょくきた匈奴きょうどという。みなみ匈奴きょうどこうかん服属ふくぞくし、長城ちょうじょう内側うちがわむことをゆるされ、こうかんともきた匈奴きょうど鮮卑たたかった。以来いらい西にしすすむまでのあいだ中国ちゅうごく王朝おうちょうつかえるが、304ねんりゅうふかしかんおうしょうして西にしすすむから独立どくりつしたため、えびすじゅうろくこく時代じだいはじまる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

分裂ぶんれつぜん段階だんかい[編集へんしゅう]

てんおおとり5ねん18ねん)、匈奴きょうどよび而尸どう皋若鞮単于在位ざいい18ねん - 46ねん)が即位そくいすると、がらすたまとめわか鞮単于在位ざいいぜん8ねん13ねん)のであるは、みぎ薁鞬逐王任命にんめいされ、南部なんぶ国境こっきょう地帯ちたいおよびがらす統治とうちまかされた。よび而尸どう皋若鞮単于が即位そくいするさい、その異母弟いぼていであるみぎたに蠡王ほふきば順位じゅんいじょうひだりけんおうになるべきであったが、よび而尸どう皋若鞮単于が自分じぶんゆずりたいためにほふきばころしてしまった。このことをったは、「兄弟きょうだいうえからいえばみぎたに蠡王がつべきであり、うえからいえば先代せんだいである自分じぶんつべきだ」とうらごとをこぼし、よび而尸どう皋若鞮単于にたいして心中しんちゅうの危惧きぐいだき、たん于庭の集会しゅうかいにほとんど出席しゅっせきしなくなった。よび而尸どう皋若鞮単于はあやしんで2人ふたりほねこう派遣はけんし、統率とうそつするへいかんすべりょうさせた。

たてたけし22ねん46ねん)、よび而尸どう皋若鞮単于が死去しきょし、ひだりけんおうであるがらすたち鞮侯ったが、まもなく死去しきょしたので、そのおとうとひだりけんおうかばやつたん于となった。はまたもやたん于になれず憤慨ふんがいしてうらんでいたところ、匈奴きょうど国内こくない連年れんねんひでり(ひでり)といなご(いなご)の被害ひがい相次あいつぎ、草木くさきがすべてれ、国民こくみんの3ぶんの2が死亡しぼうするというだい飢饉ききん見舞みまわされた。たん于蒲やつかんがこの疲弊ひへいじょうじてめてくるかもしれないとおそれ、使者ししゃりょうまで派遣はけんして和親わしんもとめた。そこでこうかんちゅうろうしょうしげる派遣はけんして返答へんとうつたえさせた。一方いっぽうで、はひそかに漢人かんどかく派遣はけんして匈奴きょうど地図ちずほうじた。

たてたけし23ねん47ねん)、西河にしかわ太守たいしゅのもとにうちもうた。2人ふたりほねこう真意しんい見破みやぶり、5月のりゅうほこら匈奴きょうど国会こっかい)に参列さんれつしたさいたん于蒲やつ謀反むほんたくらんでいるとつたえた。このときおとうとややしょうおうがこれをいていたので、すぐさまらせると、支配しはいみなみはちの4~5まんにん招集しょうしゅうし、りょうほねこうかえってきたらころそうとかまえた。りょうほねこう事前じぜんにこれを察知さっちし、たん于蒲やつにこのことをげるとたん于蒲やつは1まん派遣はけんしてたせたが、軍勢ぐんぜいつよもりだったので、かえした。

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南北なんぼく分裂ぶんれつ[編集へんしゅう]

たてたけし24ねん48ねん)、ついにみなみはち大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう)たちに推戴すいたいされ、よびかんよこしまたん于としょうして(本当ほんとうたん于号はひしお落尸逐鞮たん独立どくりつし、みなみ匈奴きょうど建国けんこくした。

たてたけし25ねん49ねんはるひしお落尸逐鞮たん于はおとうとであるひだりけんおうへい1まんあまり派遣はけんして、かばやつおとうとである薁鞬ひだりけんおうってこれをった。莫はさらにきた匈奴きょうどたん于庭(本拠地ほんきょち)をやぶり、その民衆みんしゅう1まん余人よにんうま7せんひきうしひつじ1まんとううばい、きたたん于のがまやつを1せんあまりさと遁走とんそうさせた。さらにみなみ匈奴きょうどこうかんたいして臣下しんかれいり、中国ちゅうごく防壁ぼうへきとなるためむかしよびかんよこしまたんやく復活ふっかつさせたいともうた。

たてたけし26ねん50ねん)、こうかんちゅうろうしょうだん(だんちん)を派遣はけんしてみなみたん于庭をげんぐん西部せいぶふさがから80さと地点ちてんてさせた。そのだん郴がみなみ匈奴きょうど長城ちょうじょう内側うちがわまわせることを申請しんせいしたので、光武みつたけみかどかれらをくも中郡なかぐん移住いじゅうさせることを許可きょかした。しかしそのふゆきた匈奴きょうどみなみ匈奴きょうど攻撃こうげきしたので、光武みつたけみかどかれらを西河にしがわぐんきびけん転居てんきょさせ、さらにみなみたん于を護衛ごえいするため、使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょうかん設置せっちし、それにだん郴を任命にんめいして西河にしがわぐんきびけん赴任ふにんさせた。これによって西河にしがわぐん移住いじゅうしたひしお落尸逐鞮たん于はかんこつこう北地きたじぐんに、みぎけんおうついたちかたぐんに、とう于骨こうげんぐんに、よび衍骨こうくも中郡なかぐんに、ろうこつこうていじょうぐんに、ひだりみなみ将軍しょうぐんかりかどぐんに、ぐりせきこつこうだいぐん駐屯ちゅうとんさせた。

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きた匈奴きょうどとのたたか[編集へんしゅう]

ながひらた6ねん63ねん)、みずうみよこしましかばね逐侯鞮単于在位ざいい63ねん - 85ねん)が即位そくいする。このころきた匈奴きょうどはなおさかんで、しばしば辺境へんきょうらし、かん朝廷ちょうてい憂慮ゆうりょしていた。そこできたたん于は通商つうしょう希望きぼうし、使者ししゃをよこして和親わしんもとめ、あかりみかどきた匈奴きょうど通交つうこうすれば侵寇しんこうしないだろうと期待きたいしてこれをゆるした。

えいひら8ねん65ねん)、こうかんこし司馬しばていしゅうきた派遣はけんしてこのむね返答へんとうさせたところ、みなみ匈奴きょうど須卜こつこうらはかんきた匈奴きょうど使者ししゃわしていることをり、疑惑ぎわくち、かんから離反りはんしようとかんがえ、ひそかにきた匈奴きょうど使者ししゃして、自分じぶんたちをむかえてくれるようにもうれた。ていしゅう長城ちょうじょうると異変いへんかんじ、偵察ていさつしたところ、須卜こつこう使者ししゃらえた。ていしゅう上奏じょうそうし、さらに大将たいしょういて南北なんぼく匈奴きょうどあいだ交通こうつう防止ぼうしすべきであるとった。これによって朝廷ちょうていりょう営を創設そうせつし、使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょうりょう将軍しょうぐんねたくだりりょう将軍しょうぐんとし、ふくこうじょうらいなえひだりこうじょう閻章みぎこうじょうちょうこくらははじむぐんとらきば営のひきいてげんぐんの曼柏に駐屯ちゅうとんさせた。また、じょうはた派遣はけんしてきび駐屯ちゅうとんさせた。そのとしあききた匈奴きょうどは2せん派遣はけんしてついたちかたぐんをうかがいうまかわせんつくり、黄河こうがわたってみなみ匈奴きょうど離反りはんしゃむかえようとしたが、かん防備ぼうびがあったのでげた。そのもしばしば辺境へんきょうしょぐん侵入しんにゅう略奪りゃくだつし、しろ邑をき、人民じんみんころしたり捕獲ほかくしたりすることがおおくなり、黄河こうが以西いせいしろではひるもんじねばならない有様ありさまで、あきらみかどはこれを憂慮ゆうりょした。

えいひら16ねん73ねん)、朝廷ちょうてい縁辺えんぺんへいはっして、しょしょう派遣はけんしてよんみちより長城ちょうじょうきた匈奴きょうどきたせいさせた。みずうみよこしましかばね逐侯鞮単于はひだりけんおうしん派遣はけんしてふとぼくまつりおよび棠に随従ずいじゅうさせ、ついたちかたぐんこう闕からて、涿邪やまにて皋林ゆたか禺犢おうめた。きた匈奴きょうどかんぐんるとくと沙漠さばくわたってった。

たてはじめ元年がんねん76ねん)、皋林ゆたか禺犢おうはまたしゅうひきいて涿邪やまかえしていた。みずうみよこしましかばね逐侯鞮単于はこれをかんらせたので、かんぐんがらすへいひきいてこれをった。このとしみなみ匈奴きょうどいなごがいがひどく、だい飢饉ききんとなったので、あきらみかどはその貧民ひんみん3まん余人よにん食料しょくりょう支給しきゅうした。

元和がんわ2ねん85ねん)、みずうみよこしましかばね逐侯鞮単于が薨去こうきょすると、従弟じゅうていせんほふ於閭鞮単于在位ざいい85ねん - 88ねん)として即位そくいした。このとしほふ於閭鞮単于は1せん余人よにんへいつかわしてりょうおこない、涿邪やまいたったところで、きた匈奴きょうどゆたか禺犢おう遭遇そうぐうした。そこで戦闘せんとうになり、ゆたか禺犢おうくびってかえった。かん朝廷ちょうていはこの功績こうせきとなえてしょうけさせた。そこでまたほふ於閭鞮単于は薁鞬逐王ちんどくしかばね逐侯鞮単于)にめいじてけいすうせんひきいて長城ちょうじょうきた匈奴きょうど急襲きゅうしゅうさせ、せんにん斬首ざんしゅまたは捕虜ほりょとした。きた匈奴きょうど民衆みんしゅうは、みなみ匈奴きょうどかん厚遇こうぐうされているとくと、としすうせんにんずつこうかんくだするようになった。

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きた匈奴きょうど駆逐くちく[編集へんしゅう]

あきら元年がんねん87ねん)、ひがしの鮮卑ぞくきた匈奴きょうど侵攻しんこうしてゆうとめたんころした。これによってきた匈奴きょうど混乱こんらん状態じょうたいとなり、いなごがいによる飢饉ききんくわわって一気いっき衰退すいたいした。翌年よくねんみなみ匈奴きょうどきゅうらんしかばね逐侯鞮単于在位ざいい88ねん - 93ねん)が即位そくいすると、かれはそれにじょうじてきたたん于庭(きたたん于の本拠地ほんきょち)を併合へいごうしようと、かん朝廷ちょうてい上奏じょうそうした。そしてえいはじめ元年がんねん89ねん)、くるま将軍しょうぐん竇憲せい西にし大将軍だいしょうぐん耿秉らがひきいるのちかんみなみ匈奴きょうど連合れんごうぐんきたたん于を稽落やま敗走はいそうさせた。さらに連合れんごうぐんわたしみぞ鞮海まで追撃ついげきし、めいおう以下いかすうまん3せんきゅう斬首ざんしゅなまくちうまうしひつじ・橐駝(ラクダ)などひゃくあまりまんとう獲得かくとくした。このたたかいできた匈奴きょうどゆたか犢須・にち逐・ゆたかわれおっとみぞおうやなぎ鞮ら8120あまりまんにん投降とうこうした。竇憲と耿秉はつばめしかやまのぼり、ふさがること3せんあまりさと地点ちてん記念きねん石碑せきひてた。

えいはじめ2ねん90ねん)、きゅうらんしかばね逐侯鞮単于がまた上奏じょうそうしてきたたん于庭を撃滅げきめつしたいとねがたので、ふたたび連合れんごうぐんは涿邪やまいたった。連合れんごうぐんかれ、ひだり北進ほくしんして西海にしうみぎてかわくもきたいたり、みぎ匈奴きょうど河水こうすいより西にし天山てんざんをめぐって、南進なんしんしてあまほろかわわたり、ぐん合流ごうりゅうして、きたたん于を夜襲やしゅうして包囲ほういした。きたたん于はおおいにおどろき、精鋭せいえいせんひきいて合戦かっせんした。きたたん于は負傷ふしょうして、けいすうじゅうにんれて遁走とんそうした。

えいもと3ねん91ねん)、みぎこうじょう耿夔きたたん于を征討せいとうし、きたたん于ははるか西方せいほうかんきょまで逃走とうそうした。

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たん于安こくちんどくしかばね逐侯鞮単于[編集へんしゅう]

えいもと6ねん94ねん)、たん安国やすくに在位ざいい93ねん - 94ねん)は以前いぜんより使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょうもりたかし不和ふわだったので、天子てんし上書うわがきしてもりたかし告訴こくそしようとした。しかし、もりたかしはその書状しょじょう遮断しゃだんさせ、天子てんしとどかないようにし、ぎゃくくだりりょう将軍しょうぐんしゅ共同きょうどう上書うわがきしてみなみたん于をつようにうながした。かずみかどはこれにしたがい、もりたかししゅ徽のぐんみなみたん于庭(みなみ匈奴きょうど本拠地ほんきょち)に派遣はけんした。たん于安こくかんぐんたことにおどろいてとばりまくぐんててげた。そのもりたかししゅ徽はたん于安こく急襲きゅうしゅうしたので、部民ぶみんおおいにおそれ、たん于安こくはは兄弟きょうだいであるほねこうためらは誅殺ちゅうさつされたくないとおもい、たん于安こくころした。そこでひだりけんおうちんどくしかばね逐侯鞮単于在位ざいい94ねん - 98ねん)として即位そくいした。早速さっそく降伏ごうぶくしていたきた匈奴きょうどじんちんどくしかばね逐侯鞮単于を夜襲やしゅうしたが、ちんどくしかばね逐侯鞮単于はやすしゅうじょうおう恬とともにこれをやぶった。しかしこれをしんくだきた匈奴きょうどじん1520まんにん蜂起ほうきし、きゅうらんしかばね逐侯鞮単于のの薁鞬逐王逢侯擁立ようりつして、ばくきた逃走とうそうしようとした。朝廷ちょうていこうしゃ将軍しょうぐん鄧鴻こしこうじょう馮柱ぎょうりょう将軍しょうぐんしゅ徽を派遣はけんしてこれを討伐とうばつした。逢侯はそのときちんどくしかばね逐侯鞮単于と使つかい匈奴きょうどちゅうろうはたもりたかし牧師ぼくしじょう包囲ほういしていたが、討伐とうばつぐんると逃走とうそうし、だい城塞じょうさいみなみたん于と討伐とうばつぐん追撃ついげきにあい、さらに鮮卑だいみやこまもる抜廆がらす大人おとなの勿柯をひきいるにんひさしまんえびすだに大破たいはさせられ、塞外さいがい遁走とんそうした。えいもと7ねん95ねん)、かんぐん撤退てったいした。

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萬氏尸逐侯鞮単于[編集へんしゅう]

えいもと10ねん98ねん)、ちんどくしかばね逐侯鞮単于が薨去こうきょすると、萬氏尸逐侯鞮単于在位ざいい98ねん - 124ねん)が即位そくいした。萬氏尸逐侯鞮単于は連年れんねんぐんして逢侯をやぶったので、逢侯のしゅう急速きゅうそく困窮こんきゅうしていった。

えいはじめ3ねん109ねん)、萬氏尸逐侯鞮単于に随従ずいじゅうしている漢人かんどかんかん入朝にゅうちょうして帰国きこくし、萬氏尸逐侯鞮単于に「関東かんとう洪水こうずいがあって、人民じんみん飢餓きがしており、かんつのはいまです」といた。萬氏尸逐侯鞮単于はこれをしんじ、挙兵きょへいして使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょう耿種きびにて攻撃こうげきした。これにたい朝廷ちょうていこうしゃ将軍しょうぐんなにふくちゅうろうしょう龐雄派遣はけんして討伐とうばつした。

えいはつ4ねん110ねん)、萬氏尸逐侯鞮単于はせんし、常山つねやま中山なかやま侵略しんりゃくした。朝廷ちょうてい西域せいいきこうじょうりょうくだりりょう将軍しょうぐんとし、遼東りゃおとん太守たいしゅの耿夔とともにこれを撃破げきはさせた。萬氏尸逐侯鞮単于は使者ししゃおくって降伏ごうぶくねがて、龐雄らにたい帽子ぼうしいで陳謝ちんしゃした。朝廷ちょうていはこれをゆるし、処遇しょぐうもととおりとした。

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りゅうわれ斯の反乱はんらん[編集へんしゅう]

えいけん5ねん140ねん)、みなみ匈奴きょうどひだり龍王りゅうおうわれくるまひもらが叛いて西河にしがわぐん侵略しんりゃくし、みぎけんおうさそってきびけん包囲ほういし、ついたちかたぐんだいぐんちょうふみころした。りょう将軍しょうぐんうまつづけは、使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょうりょうなみまもるがらす桓校じょうおうはじめとともに、国境こっきょう部隊ぶたいおよびがらす桓・鮮卑・羌胡けい2まん余人よにん動員どういんし、これを撃破げきはしたが、またすぐにわれ斯らはたむろ聚し、しろ邑をとした。かんじゅんみかどは、使者ししゃをやってとくわかしかばね逐就たん在位ざいい128ねん - 140ねん)を詰問きつもんした。とくわかしかばね逐就たん于はこの反乱はんらん関与かんよしていなかったので、すぐに帽子ぼうしぎ、りょうなみのところにって謝罪しゃざいした。そのりょうなみ病気びょうきになったので、わりにはら太守たいしゅちんひさし使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょうとなると、ちんひさしはさらにとくわかしかばね逐就たん于をてた。それによりとくわかしかばね逐就たん于はおとうとひだりけんおうとともに自殺じさつしてしまった。9月、りゅうわれ斯らはくるまひもたん于にて、ひがしがらす桓・西にしの羌戎およびしょえびすすうまんにんとともにきょうちょうぐんとらきば営をやぶり、上郡かみごおりじょうおよび軍司ぐんじころした。さらに并州りょうしゅうかそけしゅう冀州にも侵略しんりゃくした。11月、使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょうちょうふけかそけしゅうがらす桓・しょぐんの営兵をひきいてたん于車ひも攻撃こうげきした。たん于車ひもらはうま邑で大敗たいはいし、しょごうそちほねこうひきいて降伏ごうぶくした。しかし、りゅうわれ斯だけはその侵入しんにゅう略奪りゃくだつつづけた。

かんやす2ねん143ねん)、かぶとろうもうか以前いぜんよりかん洛陽らくようにいたので、たん于にてられ、よびらんわかしかばね逐就たん在位ざいい143ねん - 147ねん)として即位そくいした。11月、使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょううままこと刺客しかく使つかってりゅうわれ斯をころし、翌年よくねん144ねん)にはみなみ匈奴きょうど反乱はんらん分子ぶんし一掃いっそうした。

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鮮卑とのたたか[編集へんしゅう]

2世紀せいき鮮卑みなみ匈奴きょうど

のべ9ねん166ねん)、安定あんてい属国ぞっこくじょうちょうだいつかさみのりとなり中央ちゅうおう配属はいぞくされ、辺境へんきょうからちょう奐がったことをった鮮卑は、みなみ匈奴きょうどがらす桓と連合れんごう縁辺えんぺんきゅうぐんおかした。朝廷ちょうていはこれをうれい、ふたたびちょう奐をまもる匈奴きょうどちゅうろうしょうとし、これらをたせた。みなみ匈奴きょうどがらす桓はちょう奐が復職ふくしょくしたことをるとすぐに降伏ごうぶくし、鮮卑はふさがっていった。

ちょう奐はりょうしかばね逐就たん在位ざいい147ねん - 172ねん)が国内こくない統率とうそつする能力のうりょくけているとし、りょうしかばね逐就たん于を抑留よくりゅうし、ひだりたに蠡王をてたいと上奏じょうそうしたが却下きゃっかされた。

熹平6ねん177ねん)、ほふとくわかしかばね逐就たん在位ざいい172ねん - 177ねん)はまもるがらす桓校じょうなついくやぶ鮮卑ちゅうろうしょう使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょう臧旻らとともに鮮卑討伐とうばつおこなった。鮮卑のまゆみせきえんじゅ配下はいか部族ぶぞく指揮しきして、これをむかち、臧旻らを大敗たいはいさせた。この遠征えんせい無事ぶじ帰還きかんできた兵馬へいばは10ぶんの1にすぎなかった。

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こうかんまつみなみ匈奴きょうど[編集へんしゅう]

光和こうわ2ねん179ねん)、使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょうちょうおさむたんよびちょう在位ざいい178ねん - 179ねん)となかわるく、ちょうおさむ独断どくだんたん于呼ちょうり、わってみぎけんおう羌渠たん于にてた。ちょうおさむ事前じぜん朝廷ちょうてい承認しょうにんずにたん于を誅殺ちゅうさつしたので、おりしゃで廷尉に護送ごそうされ死罪しざいしょせられたが、羌渠の即位そくいみとめられた。

中平なかひら元年がんねん184ねん)、こうかんはばらんこると、たん于羌みぞみぎけんおう於夫ひきいる援兵えんぺい派遣はけんし、かんちょう援助えんじょした。

中平なかひら4ねん187ねん)、ぜん中山ちゅうざん太守たいしゅちょうじゅんがらす桓・鮮卑とともに反乱はんらんこすと、ふたたびたん于羌みぞれいみかどみことのりによりかそけしゅうまきりゅうおそれしたがい、ひだりけんおう兵力へいりょくさづ援軍えんぐんおもむかせた。

中平なかひら5ねん188ねん)3がつたん于羌みぞ度重たびかさなる徴兵ちょうへいえかねたみぎひしお落はきゅうほふかくえびす白馬はくばどうら10まん余人よにんとともに叛き、たん于羌みぞころした。羌渠のあとをいだのはみぎけんおうの於夫在位ざいい188ねん - 195ねん)だったが、羌渠をころした国人くにびとたちはこれにそむいて、べつ須卜こつこう共立きょうりつしてたん于とした。そこで於夫みずか洛陽らくようみや闕(宮城みやぎもん)にまでてこのことをうったえた。しかし、ちょうどれいみかど崩御ほうぎょ混乱こんらん時期じきであり、そのねがいはかなわず、たん于於おっと白波しらなみぞくとともに河内かわうちしょぐん略奪りゃくだつするが、そこの自警じけいだんはばまれこれも成果せいかなく、本国ほんごくかえろうとしたがれてもらえず、河東かとうぐんにとどまった。

中平なかひら6ねん189ねん)、みなみ匈奴きょうど本国ほんごくでは、須卜こつこうたん于が即位そくい1ねんに、みなみたん于庭のたん于が空位くういとなったので、ろうおう国事こくじおこなった。

はつたいら元年がんねん190ねん)、たん于於おっと曹操そうそうらのはんただしたく連合れんごうぐん結成けっせいさいに、ちょうとともに袁紹ぞくして漳水に駐屯ちゅうとんした。はつたいら2ねん191ねん)、ちょう楊を人質ひとじちにとって袁紹にそむくが、袁紹ぐん麴義追撃ついげきされ、はじむのがれたのちりょう将軍しょうぐん耿祉軍勢ぐんぜいうばって勢力せいりょくかえした。

はつたいら3ねん192ねん)、くろ山賊さんぞくった曹操そうそううちたたかって大敗たいはいし、はつたいら4ねん193ねんはる袁術ひねとめ進出しんしゅつしたさいに、くろ山賊さんぞくとともに袁術を支援しえんしたが、袁術が曹操そうそうやぶれたためか、最終さいしゅうてきたん于於おっと曹操そうそう帰順きじゅんした。

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よび廚泉の抑留よくりゅう匈奴きょうど[編集へんしゅう]

西にしすすむ時代じだい北方ほっぽう遊牧ゆうぼく民族みんぞく領域りょういき

きょうひらた2ねん195ねん)、たん于於おっと死去しきょしたので、わっておとうとよび廚泉たん于となった。

たてやすし7ねん202ねん)、たん于呼廚泉はひら曹操そうそうたいして反乱はんらんこし、かくこうみきとも鍾繇うまちょうぐんたたかったがやぶれ、あらためて曹操そうそうした投降とうこうした。

けんやす21ねん216ねん)7がつたん于呼廚泉は入朝にゅうちょうし、官位かんいさづけられる。しかし、こう就任しゅうにんした曹操そうそうかれ抑留よくりゅうし、わってみぎけんおうみなみ匈奴きょうどしょ監督かんとくさせた。おそらくこのころ曹操そうそうみなみ匈奴きょうどける。

はつ元年がんねん220ねん)、曹丕ぶんみかど)がたかし皇帝こうていとなると、あらためて璽綬をけた。

やすしはじめ元年がんねん265ねん)12月、すすむおう司馬しばえんもとみかどより禅譲ぜんじょう皇帝こうてい即位そくいすると(西にしすすむたけみかど)、たん于呼廚泉はその即位そくいしき参列さんれつした。

やすしはじめ7ねん271ねん)1がつみなみ匈奴きょうどそちりゅうたけし西にしすすむに叛き、長城ちょうじょうあなよこしまじょう駐屯ちゅうとんした。たけみかど司馬しばえん)は婁侯なん楨を派遣はけんして、ふしたせてこれをたせた。11月、りゅうたけしは并州を侵略しんりゃくするが、并州刺史ししりゅう欽らによってやぶられる。

やすしはじめ8ねん272ねん)1がつかんぐんなに楨がりゅうたけしやぶると、みなみ匈奴きょうどひだりそちつとむりゅうたけしころして投降とうこうした。

咸寧2ねん276ねん)2がつ、并州のみなみ匈奴きょうどふさが長城ちょうじょう)をおかしたので、かん并州しょ軍事ぐんじえびすはこれを撃破げきはする。

咸寧3ねん277ねん)12月、たん于呼廚泉が西にしすすむ来朝らいちょうしたので、たけみかどたん于呼廚泉を王公おうこう特進とくしんしたいた。

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政治せいじ体制たいせい[編集へんしゅう]

みなみ匈奴きょうど君主くんしゅごうたんであるが、たいていみなみたん于とばれる。みなみたん于にはほふ各種かくしゅ中心ちゅうしん氏族しぞくであるきょれんだいまえ攣鞮)のものえらばれる。みなみたん于のしたには四角しかくばれるひだりけんおうひだりたに蠡王・みぎけんおうみぎたに蠡王の4やくがあり、そのしたろくかくばれる左右さゆう逐王・左右さゆうぬる禺鞮おう左右さゆうややしょうおうの6やくがあり、けい10やくきょれんだい担当たんとうし、たいていたん于の子弟していからえらばれ、たん于の候補者こうほしゃとなる。

その異姓いせい大臣だいじんとして左右さゆうこつこう左右さゆうしかばね逐骨こうの4やくがあり、そのしたにち逐・且渠・とう官職かんしょくがある。これを担当たんとうするのはよび衍氏・須卜おかりんらん貴種きしゅ四姓しせいをはじめ、かんとう于氏・ろうぐりせきなどの異姓いせいである。

君主くんしゅ
  • たん
四角よつかど
  • ひだりけんおう
  • ひだりたに蠡王
  • みぎけんおう
  • みぎたに蠡王
ろくかく
  • ひだり逐王
  • みぎ逐王
  • ひだりあつし禺鞮おう
  • みぎゆたか禺鞮おう
  • ひだりややしょうおう
  • みぎややしょうおう
異姓いせい大臣だいじん
  • ひだりこつこう
  • みぎこつこう
  • ひだりしかばね逐骨こう
  • みぎしかばね逐骨こう
その官職かんしょく
  • にち
  • 且渠
  • とう

すすむだいになるときょれんだいりゅう名乗なのっており、よんせいよびのべぼくらんたかしとなった。また、官位かんい少々しょうしょうことなり、以下いかのようになる。

  • 左右さゆうけんおう
  • 左右さゆう弈蠡おう
  • 左右さゆう於陸おう
  • 左右さゆうややなおおう
  • 左右さゆうついたちかたおう
  • 左右さゆうどく鹿しかおう
  • 左右さゆうあらわろくおう
  • 左右さゆう安楽あんらくおう

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匈奴きょうど[編集へんしゅう]

たてやすし年間ねんかん196ねん - 220ねん)、曹操そうそうみなみ匈奴きょうどひだりみぎみなみきたなかけ、まもる匈奴きょうどちゅうろうしょうねた并州刺史しし管轄かんかつさせた。はじめはそちいたがすすむふとやすし年間ねんかん280ねん - 290ねん)に五部ごへじょうあらためた。

かんめい 落数 所在しょざい 現在げんざい地名ちめい
ひだり ひだりそちひだりじょう 1まんあまり 并州西河にしがわぐん茲氏(あらわじょうけん 山西さんせいしょう汾陽
みぎ みぎそちみぎじょう 6せんあまり 并州ふとしはらぐん祁県 山西さんせいしょう祁県
中部ちゅうぶ 中部ちゅうぶそち中部ちゅうぶじょう 6せんあまり 并州ふとげんぐんだいりょうけん 山西さんせいしょうぶんすいけん
北部ほくぶ 北部ほくぶそち北部ほくぶじょう 4せんあまり 并州新興しんこうぐん 山西さんせいしょうだいけん
南部なんぶ 南部なんぶそち南部なんぶじょう 3せんあまり つかさしゅうたいらようぐんがまけん 山西さんせいしょう隰県

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じゅうきゅう種族しゅぞく[編集へんしゅう]

みなみ匈奴きょうどは19の種族しゅぞくによって構成こうせいされており、それぞれじりあうことがなかったという[5]種族しゅぞくしたには部族ぶぞくがあり、さらにそのしたには氏族しぞくという単位たんいがある。

  • ほふ各種かくしゅほふ客種きゃくだねとも表記ひょうきされ、匈奴きょうど中心ちゅうしん種族しゅぞくであり、歴代れきだいたん于を輩出はいしゅつし、攣鞮中心ちゅうしんに、どくてつどる赫連)などのかく部族ぶぞく氏族しぞく)にかれた[6]
  • 鮮支しゅ
  • 寇頭しゅ
  • がらすたんしゅ
  • あか勒種
  • 捍咥しゅ
  • くろおおかみしゅ
  • あかすなしゅ
  • うつ鞞種
  • あまどころ莎種
  • 禿かぶろわらわしゅ
  • 勃蔑しゅ
  • 羌渠しゅ羯族
  • よりゆきしゅらんらん)など。
  • 鍾跂しゅ
  • だいろうしゅ
  • 雍屈しゅ
  • 真樹まきたね
  • ちから羯種

[5][4]

歴代れきだいたん[編集へんしゅう]

  1. ひしお落尸逐鞮たん在位ざいい48ねん - 56ねん)…がらすたまとめわか鞮単于の
  2. おか浮尤鞮単于(莫、在位ざいい56ねん - 57ねん)…がらすたまとめわか鞮単于のひしお落尸逐鞮たん于のおとうと
  3. 於慮鞮単于あせ在位ざいい57ねん - 59ねん)…がらすたまとめわか鞮単于のおか浮尤鞮単于のおとうと
  4. ひしお僮尸逐侯鞮単于てき在位ざいい59ねん - 63ねん)…ひしお落尸逐鞮たん于の
  5. おかじょしゃりん鞮単于在位ざいい63ねん)…おか浮尤鞮単于の
  6. みずうみよこしましかばね逐侯鞮単于ちょう在位ざいい63ねん - 85ねん)…ひしお落尸逐鞮たん于のひしお僮尸逐侯鞮単于のおとうと
  7. ほふ於閭鞮単于せん在位ざいい85ねん - 88ねん)…於慮鞮単于の
  8. きゅうらんしかばね逐侯鞮単于たむろほふなに在位ざいい88ねん - 93ねん)…ひしお落尸逐鞮たん于の
  9. 安国やすくにたん安国やすくに在位ざいい93ねん - 94ねん)…於慮鞮単于のほふ於閭鞮単于のおとうと
  10. ちんどくしかばね逐侯鞮単于在位ざいい94ねん - 98ねん)…ひしお僮尸逐侯鞮単于の
  11. 萬氏尸逐侯鞮単于まゆみ在位ざいい98ねん - 124ねん)…みずうみよこしましかばね逐侯鞮単于の
  12. がらす稽侯しかばね逐鞮たん(抜、在位ざいい124ねん - 128ねん)…みずうみよこしましかばね逐侯鞮単于の、萬氏尸逐侯鞮単于のおとうと
  13. とくわかしかばね逐就たんきゅう在位ざいい128ねん - 140ねん)…みずうみよこしましかばね逐侯鞮単于のがらす稽侯しかばね逐鞮たん于のおとうと
  14. よびらんわかしかばね逐就たんかぶとろうもうか在位ざいい143ねん - 147ねん
  15. りょうしかばね逐就たんきょしゃ在位ざいい147ねん - 172ねん
  16. ほふとくわかしかばね逐就たん在位ざいい172ねん - 178ねん
  17. よびちょうたんよびちょう在位ざいい178ねん - 179ねん)…ほふとくわかしかばね逐就たん于の
  18. 羌渠たん(羌渠、在位ざいい179ねん - 188ねん)…どくがらす[7]
  19. もちいたりしかばね逐侯たん(於夫在位ざいい188ねん - 195ねん)…羌渠のりゅうひょうちち
  20. よび廚泉たんよび廚泉、在位ざいい195ねん - 216ねん)…もちいたりしかばね逐侯たん于のおとうと

[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j こう漢書かんしょみなみ匈奴きょうど列伝れつでん
  2. ^ しょてつどるりゅうとらでん、『すすむしょたけみかどこうみつるつてよんえびすでんりゅうもとうみ、赫連勃勃ぼつぼつ、『きたやぶろくかんつねでん
  3. ^ こう漢書かんしょみなみ匈奴きょうど列伝れつでん、『すすむしょよんえびすでん
  4. ^ a b c 内田うちだ 1988
  5. ^ a b すすむしょよんえびすでん
  6. ^ のちに、靳氏をのぞいてりゅうしょうし、そのに畢・ぼくちょうかくしげるみちいしただしおうしょうする一派いっぱた。
  7. ^ しんとうしょ宰相さいしょうけいひょう

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]