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ダウールぞく

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ダウールぞく
中国ちゅうごく いたる斡爾ぞく
拼音 Dáwò'ěr zú
そう人口じんこう
132,394にん(2000ねん
居住きょじゅう地域ちいき
言語げんご
ダウール中国ちゅうごくモンゴル
宗教しゅうきょう
チベット仏教ぶっきょうシャーマニズム

ダウールぞくいたる斡爾ぞく)は、モンゴルけい民族みんぞく中国ちゅうごく領内りょうない内モンゴル自治うちもんごるじち北部ほくぶフルンボイル黒竜江こくりゅうこうしょう元来がんらい居住きょじゅうであり、またきよしだいいぬいたかし年間ねんかん(18世紀せいき後半こうはん)にはしん駐屯ちゅうとんへい派遣はけんされ、その末裔まつえいすうせんにんきゅう駐屯ちゅうとん現在げんざいタルバガタイ地区ちく)に分布ぶんぷしている。人口じんこうやく13まん2せんにん

概要がいよう

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清朝せいちょう時代じだいには、エヴェンキぞくオロチョンぞく、ホーチン・バルグ(ひねバルグ)などとともにソロンはちはたふくまれ、言語げんご文化ぶんかなどのめんで、のモンゴルけいしょ集団しゅうだんとはかなりことなる独自どくじせいゆうしつつ、伝統でんとうてきみずからを「モンゴルの一部いちぶ」と認識にんしきしてきた。中国ちゅうごく人民じんみん政府せいふ建国けんこく直後ちょくご国民こくみん民族みんぞく所属しょぞくさだめるためにった作業さぎょう(「民族みんぞく識別しきべつ工作こうさく」)では、ソロンはちはた構成こうせいするしょぞくのうち、バルガこうむぞく一部いちぶとして「識別しきべつ」される一方いっぽう、ダウールをふくむそのかくぞくは、それぞれが別個べっこ民族みんぞくとして「識別しきべつ」され、独立どくりつした少数しょうすう民族みんぞくひとつとしての地位ちい付与ふよされることとなった。

ダウールは固有こゆうとしてモンゴル諸語しょごぞくするダウールゆうするが、自然しぜん地理ちりてき人文じんぶん地理ちりてき環境かんきょうによる影響えいきょうから、従来じゅうらいよりモンゴルとのバイリンガルがおおかった。民族みんぞく出自しゅつじにはモンゴル分岐ぶんきせつちぎりすえ僑説の2せつがあったが、現在げんざい中国ちゅうごく日本にっぽん、ロシアの研究けんきゅうしゃおおくは、その語彙ごい伝承でんしょうからかれらがちぎり貴族きぞく大賀おおが関係かんけいふかいとかんがえている。

きよしだいより、漁業ぎょぎょう牧畜ぼくちく狩猟しゅりょう農耕のうこうなどに従事じゅうじし、かつてはオロチョンぞくエヴェンキぞくなどと交易こうえきおこない、皮革ひかくえに生活せいかつ用品ようひんじゅう散弾さんだんさけなどの嗜好しこうひんをそれらの民族みんぞく供給きょうきゅうした。

内藤ないとう湖南こなんは、おっとあまり建国けんこくしゃであるひがし明王みょうおうまれた国家こっかである橐離こくは、まつ花江はなえ支流しりゅう居住きょじゅうしていたダウールぞくであると指摘してきしている[1][2]

一部いちぶのダウールぞくしんだいまんしゅうはちはた編入へんにゅうされて北京ぺきん移住いじゅうした。せんすべみかど溥儀ふぎ皇后こうごう婉容のゴブロ(gobulo hala、かくひろし勒氏、かくぬの)はまんしゅうぞく同化どうかしたダウールぞく子孫しそんである。

民族みんぞくめい

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日本語にほんごでは、「ダウール」のほか、「ダフール」「ダグール」などの表記ひょうきひろもちいられている。 ダウールによる自称じしょうは「ダウール」(Dawur)で、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによるこの民族みんぞく正式せいしき呼称こしょういたる斡爾ぞく」は、このダウールによる自称じしょうもとづく表記ひょうきである。

「ダグール」「ダゴル」はモンゴルによる呼称こしょう。ダウールぞく出身しゅっしんのモンゴル学者がくしゃオノン・ウルグンゲ著作ちょさくにも「ダグール」という表記ひょうきがみられる。

「ダフール」は、しんだい中国語ちゅうごくごおんをカナ転写てんしゃした表記ひょうき表記ひょうきは「とら」、「いたる瑚爾」、「いたるとらなんじ」、「いたるよびなんじ」などがもちいられた。

言語げんご

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モンゴルの一部いちぶ自認じにんしていたことから、この民族みんぞく知識ちしきじんはまずモンゴルきをまなび、またきよしだいにおいては、かれらの居住きょじゅうにおける行政ぎょうせい用語ようごであったことから、まんしゅうまんしゅう文字もじまなばれた。その結果けっかとして、ダウールには独自どくじ文字もじがなく、全般ぜんぱんてきに、モンゴルからの借用しゃくよう広範こうはんにもちいられ、まんしゅうからの借用しゃくようおおい。しん移住いじゅうしゃは、上記じょうきにくわえ、隣接りんせつするカザフぞく言語げんごにつけることが期待きたいされた。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく統治とうちで、マ字まじアルファベットもちいたダウール表記ひょうき方式ほうしき考案こうあんされたが、公用こうようとして正式せいしき採用さいようされるにはいたらず、公式こうしき場面ばめんでは、モンゴルおよびかつてまんしゅうめていた地位ちいにとってわった中国ちゅうごくもちいられる状況じょうきょうながつづいた。その結果けっか、ダウール母語ぼごとしてにつけるもの非常ひじょうすくなくなり(モンゴルもしくは中国語ちゅうごくごとなる)、ダウールは「消滅しょうめつ危機ききにある言語げんご」のひとつとなってしまった。 あまり一般いっぱんてきではないが、まんしゅう文字もじ使用しようしてダウール発音はつおん表記ひょうきすることもある。

中国ちゅうごくにおけるダウールぞく自治じち地域ちいき民族みんぞく

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自治じちはた

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民族みんぞく

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民族みんぞく

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民族みんぞくきょう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ しげる古代こだいひがしアジアの民族みんぞく国家こっか岩波書店いわなみしょてん、1998ねん3がつ25にち、76ぺーじISBN 978-4000029032 
  2. ^ 内藤ないとう湖南こなん東北とうほく亜細亜あじあ諸国しょこく開闢かいびゃく伝説でんせつ』〈民族みんぞく歴史れきしいち - よん〉1919ねん4がつ。「東北とうほくアジア諸国しょこく、すなわち東部とうぶこうむいにしえより以東いとうかく民族みんぞくは、朝鮮ちょうせん日本にっぽんへかけていち共通きょうつうせる開国かいこく伝説でんせつをもっている。すなわち太陽たいようもしくはなにあるもの霊気れいきかんじて、処女しょじょみ、それがくに元祖がんそとなったというせつであって、ときとしてはその伝説でんせつ変形へんけいして、そのうち一部分いちぶぶんうしなわれ、もしくは部分ぶぶん附加ふかさるるということがあるけれども、その系統けいとうかんがえると、だいたいにおいてひとつの伝説でんせつ分化ぶんかしたものであるということを推断すいだんすること出来できる。そのもっとふるあらわれたのは、おっとあまりこく開闢かいびゃくせつであって、そのしるされたしょおうたかしの『ろん衡』である。『ろん衡』は西暦せいれきいち世紀せいきごろにできたしょであるが、そのきちけんへんに、「きたえびす橐離國王こくおうさむらい婢有娠,おうよくころせこれ。婢對曰。ゆうだい如雞したがえてん而下,わがゆう娠。後產あとざん,捐於豬溷ちゅう,豬以口氣こうき噓之,不死ふしふく徙置らんちゅうよく使馬借ばしゃくころせこれうまふく以口噓之,不死ふしおううたぐ以為天子てんしれい其母おさむやつ畜之,めい東明とうめいれい牧牛ぼくぎゅうあずま明善あきよしおうおそれだつ其國也,よくころせこれ東明とうめいはしみなみいたる掩水,以弓げきすいさかな鱉浮ためきょう東明とうめいとくわたりさかな解散かいさんついへいとくわたりいんおうおっとあまりきたえびす有夫ゆうふあまりこく焉。」とある。『三国志さんごくし』のおっとあまりでんに『りゃく』をいてあるのも、ほぼこれとおなごとで、『こう漢書かんしょ』のおっとあまりでんも、ぶんはややことなるけれども、ことおなじである。このなかに橐離こくとあるはダフール種族しゅぞくことである。まつ花江はなえながかわにノンニーというかわがあり、それと合流ごうりゅうするかわにタオルかわがある(ノンニーかわは嫩江(いちめいだくあま)、タオルかわは洮児す)。そのタオルかわ附近ふきん居住きょじゅうした民族みんぞくがすなわちダフール種族しゅぞくで、すなわち橐離こくである。またおっとあまりこくというのは、今日きょう長春ちょうしゅんから西北せいほくむかって存在そんざいしたくにで、この伝説でんせつはダフール、おっとあまり両国りょうこく関係かんけいしたものである。」 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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