出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2012年 ねん 12月 )
サーミ人 じん サーミ人 じん 男性 だんせい とサーミの伝統 でんとう 的 てき なテント
総 そう 人口 じんこう c. 227,000居住 きょじゅう 地域 ちいき ラップランド 133,400 ノルウェー 37,890[1] アメリカ 30,000[2] スウェーデン 14,600[3] フィンランド 9,350[4] ロシア 1,991[5] ウクライナ 136[6] 言語 げんご サーミ諸語 しょご 宗教 しゅうきょう ルーテル教会 きょうかい , en:Laestadianism , 東方 とうほう 正教 せいきょう , シャーマニズム 関連 かんれん する民族 みんぞく 他 た のウラル系 けい 民族 みんぞく
サーミ人 じん (サーミじん、北部 ほくぶ サーミ語 ご :Sápmi)は、スカンジナビア半島 はんとう 北部 ほくぶ ラップランド 及 およ びロシア 北部 ほくぶ コラ半島 はんとう に居住 きょじゅう する先住民 せんじゅうみん 族 ぞく 。フィン・ウゴル系 けい のうちフィン・サーミ諸語 しょご に属 ぞく するサーミ語 ご を話 はな すが、ほとんどが同 おな じフィン・ウゴル語 ご 系 けい のフィンランド語 ご および、スウェーデン語 ご 、ノルウェー語 ご 、ロシア語 ご なども話 はな すマルチリンガル である。かつては「ラップ人 じん 」とも呼 よ ばれていたが、現在 げんざい では古語 こご または蔑称 べっしょう と受 う け取 と られ、彼 かれ ら自身 じしん はサーミ、あるいはサーメと自称 じしょう している。錫 すず を使 つか った手 て 工芸 こうげい 細工 ざいく が有名 ゆうめい である。伝統 でんとう 的 てき にサーミ人 じん は、沿岸 えんがん 漁業 ぎょぎょう 、毛皮 けがわ の捕獲 ほかく 、羊 ひつじ の放牧 ほうぼく など、さまざまな生業 せいぎょう を営 いとな んできた。最 もっと もよく知 し られている生業 せいぎょう は、半 はん 遊牧 ゆうぼく のトナカイ放牧 ほうぼく である。2007年 ねん 現在 げんざい 、サーミ人 じん の約 やく 10%がトナカイの放牧 ほうぼく に従事 じゅうじ しており、肉 にく 、毛皮 けがわ 、交通 こうつう 手段 しゅだん を提供 ていきょう している。ノルウェーでは、約 やく 2,800人 にん のサーミ人 じん がフルタイムでトナカイの放牧 ほうぼく に携 たずさ わっている。[7] 伝統 でんとう 的 てき 、環境 かんきょう 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき 、政治 せいじ 的 てき 理由 りゆう から、北欧 ほくおう 諸国 しょこく の一部 いちぶ の地域 ちいき では、トナカイの放牧 ほうぼく は法的 ほうてき にサーミ人 じん だけに認 みと められている。[8]
サーミ人 じん の居住 きょじゅう 地域 ちいき
もともと狩猟 しゅりょう ・遊牧 ゆうぼく を行 おこな う民族 みんぞく であったが、現在 げんざい は町 まち で生活 せいかつ するグループも含 ふく めて、ほとんどのサーミは定住 ていじゅう 生活 せいかつ を営 いとな んでいる。ノルウェー語 ご ではかつて「ラップ人 じん 」とも呼 よ ばれていたが、現在 げんざい では古語 こご または蔑称 べっしょう と受 う け取 と られる。フィンランド語 ご ではラッピ県 けん にいるフィンランド人 じん はlappi lainenを自称 じしょう し、サーミ人 じん のことをlappa lainenと呼 よ びどちらもラップランドに住 す んでいるため外国 がいこく 人 じん にはわかりにくい違 ちが いとなっている。人種 じんしゅ はスカンジナビア人種 じんしゅ の特徴 とくちょう である金髪 きんぱつ 碧眼 へきがん の容貌 ようぼう を持 も つフィン人 じん 、エストニア人 じん と同様 どうよう の容貌 ようぼう を持 も つコーカソイド の特徴 とくちょう がある。また、フィン人 じん 、エストニア人 じん よりも背 せ が低 ひく いため、概 おおむ ねサモエード人 じん やハンティ人 じん とマンシ人 じん に近 ちか いモンゴロイド (北部 ほくぶ モンゴロイド )系 けい 容貌 ようぼう を持 も つグループも多 おお く、父系 ふけい 遺伝子 いでんし のハプログループN も中 なか ~高 だか 頻度 ひんど で見 み られる(紀元前 きげんぜん の中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ にある遼 りょう 河 かわ 文明 ぶんめい 人 ひと からも発見 はっけん される[9] )。
サーミ人 じん と思 おも われる民族 みんぞく のことが初 はじ めて文献 ぶんけん 上 じょう に現 あらわ れるのは、紀元 きげん 1世紀 せいき に古代 こだい ローマ の歴史 れきし 家 か タキトゥス によって著 あらわ された『ゲルマーニア 』においてである。この文献 ぶんけん では、サーミという名前 なまえ ではなく、フェンニーという名前 なまえ で呼 よ ばれている。
「フェンニー」という名 な は今日 きょう の「フィン(ランド)」に通 つう じるものがある。実際 じっさい 、フィンランド人 じん の間 あいだ に民族 みんぞく 復興 ふっこう の機運 きうん が高 たか まった当時 とうじ 、このフェンニーこそが我々 われわれ の直接 ちょくせつ の祖先 そせん であると主張 しゅちょう する動 うご きも存在 そんざい したが、しかしここで挙 あ げられたフェンニーがフィンランド人 じん の祖 そ であるとは考 かんが えられない。今日 きょう までに行 おこな われた研究 けんきゅう によると、ここに言 い うフェンニーはむしろ、西 にし はヴィスワ川 がわ 下流 かりゅう からウラル山系 さんけい に向 む かう地域 ちいき を点々 てんてん と長 なが く居住 きょじゅう 地 ち とし、後 のち にはフィンランド湾 わん の沿岸 えんがん に至 いた る方面 ほうめん にも来 き ていた印 しるし 欧 おう 系 けい 以外 いがい の若干 じゃっかん の民族 みんぞく を広 ひろ く指 さ したものであるらしい[10] 。また、サガ の世界 せかい にも、交易 こうえき を行 おこな う民 みん として、サーミ人 じん らしき民族 みんぞく について言及 げんきゅう している個所 かしょ もある。
いずれにせよ、それ以後 いご スカンディナヴィア半島 はんとう に移住 いじゅう してきた様々 さまざま な民族 みんぞく 、「国家 こっか 」が再 ふたた びこのサーミ人 じん に注目 ちゅうもく し始 はじ めるのは、13世紀 せいき 以後 いご 、北欧 ほくおう 諸 もろ 「国家 こっか 」が誕生 たんじょう し、その国境 こっきょう を規定 きてい する必要 ひつよう が生 しょう じた時 とき であった。
以下 いか 、サーミ人 じん の歴史 れきし を大 おお きく3つの時代 じだい に分 わ けて説明 せつめい する。
1251年 ねん から1550年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
この時期 じき 、ノルウェー 、ロシア (ノヴゴロド )王国 おうこく 、スウェーデン の三 さん 国 こく 間 あいだ でラップランド における国境 こっきょう 、徴税 ちょうぜい 権 けん に関 かん する合意 ごうい が成立 せいりつ する。この合意 ごうい の下 した 、元々 もともと 単一 たんいつ の民族 みんぞく であったサーミ人 じん は分断 ぶんだん され、異 こと なる国家 こっか の、異 こと なる支配 しはい 体制 たいせい 、徴税 ちょうぜい 体制 たいせい 、司法 しほう 体制 たいせい の下 した に置 お かれることとなった。現在 げんざい のフィンランド近郊 きんこう に居住 きょじゅう していたサーミ人 じん は、スウェーデンの支配 しはい の下 した に置 お かれた。これは、当時 とうじ フィンランドがスウェーデンの一部 いちぶ に組 く み込 こ まれていたことに起因 きいん する。また、スウェーデンはカトリック教会 きょうかい の支配 しはい 下 か にあったが、ラップランドもこの体制 たいせい に組 く み込 こ まれた。
コラ半島 はんとう に居住 きょじゅう していたサーミ人 じん (skoltサーミと呼 よ ばれる)は正教会 せいきょうかい とノヴゴロド公国 こうこく の支配 しはい 下 か に置 お かれた。また、Skoltサーミはツァー に土地 とち 、水 みず に関 かん して税 ぜい を課 か され、土地 とち 登記 とうき の義務 ぎむ も負 お うことになった。
現在 げんざい のフィンマルク県 けん に居住 きょじゅう していた全 すべ てのノルウェー・サーミ人 じん はロシアの統治 とうち 下 か に置 お かれた。
このように様々 さまざま な国家 こっか の統治 とうち 下 か に置 お かれたサーミ人 じん であったが、これに先立 さきだ つ12世紀 せいき 頃 ころ から、すでにサーミ人 じん はノルウェー国王 こくおう に対 たい し、「ラップ税 ぜい 」を払 はら うことを求 もと められていた。このラップ税 ぜい とは、そもそも貢 みつぎ 納 おさめ 的 てき 、人頭 じんとう 税 ぜい 的 てき 性格 せいかく の強 つよ いものであり、支払 しはら いはカマス 等 ひとし の乾燥 かんそう 魚 ぎょ 、トナカイ の仔 こ 、クジラ やアザラシ の皮革 ひかく ロープ等 とう で求 もと められていた。これは、「ラップ」が17世紀 せいき までいずれの「国家 こっか 」の国民 こくみん なのか明確 めいかく には定 さだ められていなかったため、従来 じゅうらい の農民 のうみん に対 たい するような徴税 ちょうぜい を課 か せなかったことに起因 きいん している[11] [12] 。また、当時 とうじ から「ラップ」のトナカイ飼育 しいく 、狩猟 しゅりょう 、漁労 ぎょろう 活動 かつどう が特別 とくべつ な、「ラップ生活 せいかつ 様式 ようしき 」として法律 ほうりつ の中 なか にも明記 めいき 、認識 にんしき され農地 のうち 税 ぜい 徴収 ちょうしゅう の対象 たいしょう とはなり得 え なかったことも、その原因 げんいん の1つとなっている[12] [13] 。
1551年 ねん から1808年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
サーミ人 じん の家族 かぞく (1900年 ねん ごろ)
17世紀 せいき 初頭 しょとう 、「ラップ」はノルウェーもしくはスウェーデン=フィンランド の国民 こくみん として「国家 こっか 」に組 く み込 こ まれた。この帰属 きぞく の背景 はいけい には、ノルウェーとスウェーデン両国 りょうこく 間 あいだ の関係 かんけい が悪化 あっか しており、以前 いぜん のような曖昧 あいまい な国境 こっきょう 規定 きてい は両国 りょうこく 間 あいだ の安全 あんぜん 保障 ほしょう 上 じょう 好 この ましくないものであったという事実 じじつ がある。
そして1751年 ねん 、国境 こっきょう 条約 じょうやく が締結 ていけつ された。これはデンマーク=ノルウェー 王国 おうこく とスウェーデン(及 およ びその一部 いちぶ 「東部 とうぶ 地方 ちほう 」であったフィンランド)の間 あいだ で交 か わされたもので、ラップランドにおける北欧 ほくおう 諸 しょ 国家 こっか の国境 こっきょう を明確 めいかく に定 さだ めるという性質 せいしつ を持 も ったものであった。しかしこの条約 じょうやく は、決 けっ してサーミ人 じん の権利 けんり を侵害 しんがい するものではなかった。国境 こっきょう 条約 じょうやく ・第 だい 二 に 条 じょう 第 だい 二 に 項 こう には、サーミ人 じん はトナカイの遊牧 ゆうぼく をする民族 みんぞく であり、そのためには両国 りょうこく の土地 とち が必要 ひつよう であるということ。同 どう ・第 だい 十 じゅう 条 じょう には、その生活 せいかつ 様式 ようしき を維持 いじ するため、両国 りょうこく が公平 こうへい な援助 えんじょ を行 おこな うことを取 と り決 き める旨 むね が記 しる されていた。
この国境 こっきょう 条約 じょうやく は、サーミ人 じん の権利 けんり とその生活 せいかつ 様式 ようしき の正当 せいとう 性 せい を認 みと めるものであったが、しかしこの締結 ていけつ にともない、多 おお くの「ラップ」は定住 ていじゅう 化 か の道 みち を選 えら んだ。また、定住 ていじゅう 化 か しなかったサーミ人 じん に対 たい しても、相変 あいか わらず「ラップ税 ぜい 」は適用 てきよう され続 つづ けたが、この時代 じだい になって、「ラップ税 ぜい 」はその本来 ほんらい の貢 みつぎ 納 おさめ 的 てき 、人頭 じんとう 税 ぜい 的 てき 性格 せいかく のものから、土地 とち や水域 すいいき の借用 しゃくよう 税 ぜい に変化 へんか していった。このことが、サーミ人 じん の五 いつ つの異 こと なる生活 せいかつ 様式 ようしき を生 う み出 だ す直接 ちょくせつ の原因 げんいん となった。つまり、大 だい 規模 きぼ トナカイ遊牧 ゆうぼく 専業 せんぎょう 民 みん 「山岳 さんがく サーミ人 じん 」、農耕 のうこう 、牧畜 ぼくちく 、狩猟 しゅりょう 、漁労 ぎょろう を行 おこな う定住 ていじゅう 民 みん としての「海岸 かいがん サーミ人 じん 」、「森林 しんりん サーミ人 じん 」、「河川 かせん サーミ人 じん 」「湖 みずうみ サーミ人 じん 」などを生 う み出 だ した。
上記 じょうき の通 とお り、「山岳 さんがく サーミ人 じん 」は「ラップ税 ぜい 」の対象 たいしょう であったが、定住 ていじゅう 農民 のうみん 化 か したサーミ人 じん (主 おも に羊 ひつじ や牛 うし の飼育 しいく を専業 せんぎょう にしていたと思 おも われる)は、「ラップ」とは見 み なされなくなった。そして、「ラップ税 ぜい 」を免除 めんじょ され、代 か わって農地 のうち 徴収 ちょうしゅう 税 ぜい を課 か された。この点 てん から、北欧 ほくおう 諸 しょ 国家 こっか の「ラップ人 じん 」に対 たい する基本 きほん 的 てき な姿勢 しせい をうかがうことができる。つまりこの措置 そち は、北欧 ほくおう 諸 しょ 国家 こっか にしてみれば、トナカイ遊牧 ゆうぼく という「ラップ生活 せいかつ 様式 ようしき 」を続 つづ ける、ある種 しゅ 異質 いしつ な文化 ぶんか 、生活 せいかつ 様式 ようしき を持 も っている者 もの こそが「他 た 民族 みんぞく 」であり、自分 じぶん たちと同 おな じ生活 せいかつ (農耕 のうこう や漁労 ぎょろう )を行 おこな うようになった民 みん は、すでに自分 じぶん たちと同 おな じである、という認識 にんしき の明示 めいじ にほかならない。
18世紀 せいき 後半 こうはん になると、スウェーデン領 りょう においてスウェーデン人 じん がラップ地域 ちいき を北上 ほくじょう し、開拓 かいたく や植民 しょくみん を行 おこな うために定住 ていじゅう したため、この地域 ちいき のサーミ人 じん はさらに北部 ほくぶ や東部 とうぶ へと追 お いやられることとなった。サーミ人 じん の中 なか には、定住 ていじゅう したスウェーデン人 じん と混交 こんこう してスウェーデン化 か した者 もの も少 すく なくない[14] 。
1809年 ねん 、ロシア帝国 ていこく 軍 ぐん の猛攻 もうこう の前 まえ にスウェーデンは降伏 ごうぶく し、フィンランドはフレデリクスハムンの和 わ 約 やく においてロシア領 りょう に組 く み込 こ まれた(ロシア・スウェーデン戦争 せんそう )。そして北欧 ほくおう 諸 しょ 国家 こっか の中 なか にロシアという「異質 いしつ な」国家 こっか が入 はい り込 こ んだことにより、ラップ追加 ついか 条項 じょうこう は事実 じじつ 上 じょう その意味 いみ を失 うしな い、特 とく に「山岳 さんがく サーミ人 じん 」の遊牧 ゆうぼく 生活 せいかつ は窮地 きゅうち に立 た たされた。またこれに追 お い討 う ちをかけるように1852年 ねん にはノルウェーとフィンランドの国境 こっきょう が、1888年 ねん にはスウェーデンとフィンランドの国境 こっきょう が閉鎖 へいさ されてしまう。当時 とうじ 、スウェーデンはノルウェーと同君 どうくん 連合 れんごう を組 く んでおり(スウェーデン=ノルウェー )、ノルウェーの国境 こっきょう 線 せん はロシア領 りょう に複雑 ふくざつ に食 く い込 こ んでいた。ロシアに対 たい する安全 あんぜん 保障 ほしょう は、クリミア戦争 せんそう を挟 はさ んで切実 せつじつ な問題 もんだい となったため、スウェーデン政府 せいふ は1855年 ねん にイギリス 及 およ びフランス と「11月条約 じょうやく 」を締結 ていけつ し、連合 れんごう 王国 おうこく 領土 りょうど と漁業 ぎょぎょう 権 けん をロシアに譲渡 じょうと しないことを誓約 せいやく した[15] 。
ロシアの統治 とうち 下 か においても、サーミ人 じん は納税 のうぜい の義務 ぎむ を課 か されていたが、議会 ぎかい に参加 さんか することは許 ゆる されなかった。代表 だいひょう のいない議会 ぎかい においてサーミ人 じん の権利 けんり が議論 ぎろん され、その結果 けっか 、サーミ人 じん と土地 とち 、水 みず 使用 しよう 権 けん は全 まった く無視 むし される事態 じたい になった。さらに、サーミ人 じん の狩猟 しゅりょう 文化 ぶんか の経済 けいざい 的 てき 基盤 きばん は、トナカイやビーバー といった狩猟 しゅりょう 動物 どうぶつ が乱獲 らんかく されたことにより完全 かんぜん に打 う ち壊 こわ された。そして、狩猟 しゅりょう 動物 どうぶつ の減少 げんしょう に伴 ともな い「ラップ税 ぜい 」の納税 のうぜい が不可能 ふかのう となり、ついに1924年 ねん 、完全 かんぜん に廃止 はいし された。これは同時 どうじ に、彼 かれ らの権利 けんり の縮小 しゅくしょう にもつながっていった。
以後 いご 、サーミ人 じん の課税 かぜい 対象 たいしょう 外 がい の土地 とち を求 もと めての移住 いじゅう と、それらの土地 とち を「公 おおやけ 地 ち 」化 か しようとする動 うご きが繰 く り返 かえ された。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、スコルトサーミ人 じん の土地 とち が旧 きゅう ソ連 それん に割譲 かつじょう され、その結果 けっか 、スコルトサーミ人 じん の大 だい 多数 たすう がフィンランドに移住 いじゅう した。
1986年 ねん のチェルノブイリ原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 事故 じこ 以降 いこう 、トナカイ の汚染 おせん が進 すす み、伝統 でんとう 的 てき な放牧 ほうぼく 生活 せいかつ を送 おく る事 こと はいっそう難 むずか しくなった。キノコ や地衣 ちい 類 るい などの菌類 きんるい は放射 ほうしゃ 性 せい 物質 ぶっしつ を吸収 きゅうしゅう しやすいと言 い われ、トナカイの主食 しゅしょく がハナゴケ (地衣 ちい 類 るい の一種 いっしゅ )であることから、特 とく に汚染 おせん が進 すす んだと思 おも われる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
2023年 ねん 、ノルウェーにあるサーミ人 じん のトナカイ 放牧 ほうぼく 場 じょう に風力 ふうりょく 発電 はつでん 施設 しせつ が建設 けんせつ されたことに対 たい し、サーミ人 じん の団体 だんたい が環境 かんきょう 保護 ほご 団体 だんたい とともに抗議 こうぎ 活動 かつどう を展開 てんかい 。同年 どうねん 3月 がつ 1日 にち にはスウェーデン の活動 かつどう 家 か グレタ・トゥーンベリ も参加 さんか して政府 せいふ 庁舎 ちょうしゃ 前 まえ で抗議 こうぎ 活動 かつどう を行 おこな った[16] 。
行政 ぎょうせい ・社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい [ 編集 へんしゅう ]
サーミの旗 はた 。1986年 ねん の北欧 ほくおう サーミ会議 かいぎ で決定 けってい された
サーミ人 じん の社会 しゃかい 的 てき 立場 たちば は、1992年 ねん にフィンランドで施行 しこう された「サーミ言語 げんご 法 ほう 」と、「サーミ人 じん 本 ほん 草案 そうあん 」によって規定 きてい されている。この中 なか で、サーミ人 じん とは、「ラップ税 ぜい 」を支払 しはら っていたサーミ人 じん の子孫 しそん たち、あるいは、上記 じょうき のようなサーミ人 じん の出自 しゅつじ を持 も ち、本人 ほんにん 自 みずか ら、もしくはその両親 りょうしん 、祖父母 そふぼ の中 なか に少 すく なくとも一人 ひとり がサーミ語 ご を第 だい 一 いち 言語 げんご として学 まな んだ人 ひと がいる者 もの 、あるいは、その子孫 しそん であると定 さだ められた。つまり、民族 みんぞく を規定 きてい するものは、言語 げんご であるとの見解 けんかい が取 と られた。これにより、何 なん らかの事情 じじょう でサーミ語 ご を第 だい 一 いち 言語 げんご として学 まな んだ外国 がいこく 人 じん をもその範疇 はんちゅう に含 ふく むことになってしまったが、民族 みんぞく を言語 げんご によって規定 きてい するといった方法 ほうほう 自体 じたい は、サーミ人 じん にも比較的 ひかくてき 穏 おだ やかに受 う け入 い れられた。
また、サーミ人 じん が自分 じぶん たちのアイデンティティ を確立 かくりつ ないし獲得 かくとく するために設立 せつりつ した、以下 いか の組織 そしき が存在 そんざい する。
サーミ議会 ぎかい
フィンランドに住 す むサーミ人 じん によって4年 ねん ごとに選出 せんしゅつ される20名 めい の議員 ぎいん から構成 こうせい される民族 みんぞく 特別 とくべつ 議会 ぎかい 。
サーミ代表 だいひょう 団 だん
フィンランド領 りょう ラップランド県 けん の県知事 けんちじ 、5名 めい のフィンランド関係 かんけい 庁 ちょう 代表 だいひょう 者 しゃ 、5名 めい の「サーミ議会 ぎかい 」代表 だいひょう 者 しゃ によって構成 こうせい される。この組織 そしき は北欧 ほくおう 諸国 しょこく の国際 こくさい 的 てき 機関 きかん である「北欧 ほくおう 評議 ひょうぎ 会 かい 」(en;Nordic Council )、「北欧 ほくおう 閣僚 かくりょう 評議 ひょうぎ 会 かい 」がサーミ問題 もんだい に関 かん して各国 かっこく に行 おこな う各種 かくしゅ の勧告 かんこく に対 たい するフィンランド行政 ぎょうせい 側 がわ の受 う け皿 ざら として作 つく られた。
サーミとは決 けっ してトナカイ遊牧 ゆうぼく 専業 せんぎょう の民 みん のみを指 さ すのではない。それらの民 みん はサーミ全体 ぜんたい のわずかに過 す ぎず、トナカイ遊牧 ゆうぼく 以外 いがい の生活 せいかつ 様式 ようしき を持 も った人々 ひとびと のほうが多 おお い[17] 。
サーミは、大 おお きく分 わ けて五 ご 種類 しゅるい の生活 せいかつ 様式 ようしき に分類 ぶんるい できる。
ノルウェーの山岳 さんがく サーミ人 じん (2006年 ねん )
海岸 かいがん サーミ人 じん (1884年 ねん ).
山岳 さんがく サーミ人 じん
大 だい 規模 きぼ なトナカイ遊牧 ゆうぼく を専業 せんぎょう とする人々 ひとびと 。「サーミ人 じん 」と聞 き いて連想 れんそう されるのはこの系統 けいとう の人々 ひとびと であり、北欧 ほくおう 諸国 しょこく が観光 かんこう 資源 しげん として活用 かつよう しているサーミ人 じん のイメージもこれが元 もと となっている。もっとも、現在 げんざい ではトナカイの遊牧 ゆうぼく のみを職業 しょくぎょう としている人 ひと は皆無 かいむ に等 ひと しく、その他 た 副業 ふくぎょう として第 だい 一 いち 次 じ 産業 さんぎょう についている人 ひと がほとんどである。
海岸 かいがん サーミ人 じん
サガに描 えが かれた交易 こうえき の民 みん とは彼 かれ らのことを指 さ したと思 おも われるが、現在 げんざい では他 た のスカンディナヴィア人 じん と変 か わらない生活 せいかつ を送 おく っており、その生計 せいけい の中心 ちゅうしん は漁業 ぎょぎょう を含 ふく めた第 だい 一 いち 次 じ 産業 さんぎょう 、第 だい 三 さん 次 じ 産業 さんぎょう にある。
森林 しんりん サーミ人 じん
小規模 しょうきぼ のトナカイ放牧 ほうぼく を行 おこな う人々 ひとびと で、漁業 ぎょぎょう 、農業 のうぎょう やその他 た 第 だい 三 さん 次 じ 産業 さんぎょう との兼業 けんぎょう を主 おも としている。山岳 さんがく サーミ人 じん と森林 しんりん サーミ人 じん における違 ちが いは、その飼育 しいく するトナカイの種 たね の違 ちが いから来 き ている。山岳 さんがく サーミ人 じん が飼育 しいく するトナカイは広大 こうだい な牧草 ぼくそう 地 ち とそれに伴 ともな う長距離 ちょうきょり の移動 いどう が必要 ひつよう な種 しゅ であるが、森林 しんりん サーミ人 じん が飼育 しいく しているのは、森林 しんりん の周辺 しゅうへん に生 は える地衣 ちい 類 るい を主食 しゅしょく とし、大 だい 規模 きぼ な移動 いどう を必要 ひつよう としない種 しゅ である。
河川 かせん サーミ人 じん と湖 みずうみ サーミ人 じん
この2つの間 あいだ に明確 めいかく な違 ちが いはない。ただ、漁業 ぎょぎょう を主 おも とする人々 ひとびと であることが共通 きょうつう している。この二 ふた つを分 わ ける要素 ようそ は、その漁場 ぎょじょう の違 ちが いである。「湖 みずうみ サーミ人 じん (イナリラップ)」は、フィンランドの最 さい 北部 ほくぶ に位置 いち するイナリ湖 こ で漁業 ぎょぎょう を行 おこな う人々 ひとびと (1996年 ねん 現在 げんざい でおよそ20人 にん 程度 ていど )を特 とく に指 さ し、「河川 かせん サーミ人 じん 」はその他 た 大小 だいしょう の川 かわ で漁 りょう を行 おこな う人 ひと を指 さ す。
このように多様 たよう な生活 せいかつ 様式 ようしき を持 も つサーミ民族 みんぞく であるが、以下 いか で本来 ほんらい のサーミ民族 みんぞく の社会 しゃかい について説明 せつめい する。
サーミ民族 みんぞく の社会 しゃかい を支配 しはい していたのは、シイーダ (Siida ) と呼 よ ばれる多数 たすう の親族 しんぞく からなる集団 しゅうだん であった。
シイーダのリーダーはそのシイーダ内 ない の最年長 さいねんちょう の男性 だんせい もしくは女性 じょせい が勤 つと め、日々 ひび の生活 せいかつ 、つまり、いつトナカイを移動 いどう させるか、どのメンバーがどこの湖 みずうみ で漁 りょう をするか、どれだけ採 と るかといったことを決定 けってい した。トナカイを飼 か うサーミ人 じん の場合 ばあい 、シイーダの構成 こうせい 員 いん はそれぞれが各自 かくじ のトナカイを所有 しょゆう しているが、飼育 しいく や管理 かんり は共同 きょうどう で行 おこな っている。また漁業 ぎょぎょう を行 おこな うサーミ人 じん のシイーダは同 おな じ漁船 ぎょせん に乗 の る男 おとこ たちによって構成 こうせい されている。このような組織 そしき は広大 こうだい な土地 とち を小 しょう 人数 にんずう で管理 かんり する際 さい の有効 ゆうこう な手段 しゅだん として開発 かいはつ され、長 なが い歴史 れきし の中 なか で発展 はってん したものだった。また異 こと なるシイーダ間 あいだ においても長老 ちょうろう 同士 どうし が、様々 さまざま な問題 もんだい を解決 かいけつ するための一種 いっしゅ の協議 きょうぎ 会 かい を形成 けいせい していた。
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1731年 ねん 、フランス科学 かがく アカデミー が子午線 しごせん 弧 こ 長 ちょう を測量 そくりょう するためトルネ谷 だに に派遣 はけん した調査 ちょうさ 隊 たい に参加 さんか していたレジノー・ウーティエ は、現地 げんち の文化 ぶんか について記録 きろく を残 のこ している[18] 。
サーミ人 じん の民族 みんぞく 衣装 いしょう
サーミ人 じん の民族 みんぞく 衣装 いしょう を特徴付 とくちょうづ けるのは、特 とく にその色彩 しきさい 豊 ゆた かな上着 うわぎ 、コルト(Kolt)である。フェルト 地 ち で作 つく られるこの上着 うわぎ は、主 おも に女性 じょせい の手 て によって織 お られ、地方 ちほう ごとに細 こま かな差異 さい が見受 みう けられる。例 たと えば、帽子 ぼうし のデザイン、フェルトの地色 じいろ や飾 かざ り付 づ けの違 ちが いによって、それを着 き ている人 ひと が、どの村 むら の出身 しゅっしん であるのか、大体 だいたい のことがわかるという。
このコルトは、つい十 じゅう 数 すう 年 ねん 前 まえ まで、あまり積極 せっきょく 的 てき に着 き られることはなかった。もちろんサーミ民族 みんぞく 評議 ひょうぎ 会 かい など、民族 みんぞく としての誇 ほこ りと自由 じゆう を訴 うった える組織 そしき に参加 さんか する一部 いちぶ のサーミ人 じん たちはその限 かぎ りではなかったが、長年 ながねん に及 およ んだ先住民 せんじゅうみん 族 ぞく 軽視 けいし の風潮 ふうちょう の中 なか で、自分 じぶん たちがサーミ民族 みんぞく であることを宣言 せんげん するのは、並大抵 なみたいてい の勇気 ゆうき ではできないことだった。
その影響 えいきょう からか、コルトを縫 ぬ える人 ひと は減少 げんしょう してしまっていた。しかし、「民族 みんぞく 的 てき なもの」が再 ふたた び見直 みなお されつつある中 なか 、サーミ人 じん の若年 じゃくねん 層 そう が中心 ちゅうしん となり、再 ふたた び民族 みんぞく 衣装 いしょう を積極 せっきょく 的 てき に身 み に付 つ けていこうという流 なが れが生 う まれている。現在 げんざい 伝統 でんとう 的 てき なサーミ人 じん の衣装 いしょう を身 み に付 つ けているのは、それをずっと着 き 続 つづ けている老人 ろうじん や、サーミ人 じん の文化 ぶんか 的 てき な自由 じゆう を支持 しじ する若 わか い世代 せだい (主 おも に作家 さっか や芸術 げいじゅつ 家 か 、インテリなど)である。そういった層 そう からはわずかにずれた、「普通 ふつう のサーミ人 じん 」にしても、特別 とくべつ な場合 ばあい の礼服 れいふく として、普段着 ふだんぎ として、民族 みんぞく 衣装 いしょう を着 き る機会 きかい は確実 かくじつ に増 ふ えてきている。
トナカイの皮 かわ をなめし、ドゥオッチを製作 せいさく しているサーミ人 じん 女性 じょせい (1954年 ねん )
ドゥオッチ
サーミ人 じん が作 つく る手 て 工芸 こうげい 品 ひん は、ドゥオッチ (Duodji ) と呼 よ ばれている。工芸 こうげい 品 ひん といっても鑑賞 かんしょう のためのものではなく、あくまでも日 にち 用品 ようひん として、機能 きのう 的 てき 、実際 じっさい 的 てき なデザインのものがほとんどである。
ドゥオッチには、様々 さまざま な素材 そざい が使 つか われる。木 き や骨 ほね 、トナカイの角 かく 、動物 どうぶつ の毛皮 けがわ や真珠 しんじゅ 、ブリキ 、刺繍 ししゅう 、レース などが主 おも に挙 あ げられるが、伝統 でんとう 的 てき な素材 そざい として説明 せつめい するとしたら、真珠 しんじゅ やブリキといったものは除外 じょがい される。サーミ人 じん たちは、歴史 れきし を通 つう じて、鉄鉱 てっこう 石 せき や金 きむ 、銀 ぎん といった鉱物 こうぶつ 資源 しげん を持 も たなかった。それ故 こ 、時 とき に侵略 しんりゃく 者 しゃ であった他 ほか のスカンディナヴィア人 じん たちがもたらす鉄 てつ 製品 せいひん は、サーミ人 じん にとって得難 えがた い貴重 きちょう 品 ひん として扱 あつか われていた。
最 もっと も伝統 でんとう 的 てき な資源 しげん はトナカイである。トナカイを遊牧 ゆうぼく する習慣 しゅうかん のない海岸 かいがん サーミ、河川 かせん サーミ、湖 みずうみ サーミはその限 かぎ りではなかったが、森林 しんりん サーミや山岳 さんがく サーミの間 あいだ では、トナカイは正 まさ に万能 ばんのう の資源 しげん だった。トナカイの毛皮 けがわ で遊牧 ゆうぼく 中 ちゅう の住 す まいであるテント(ラッボ )を、トナカイの角 かく でナイフの柄 え を作 つく り、トナカイの毛皮 けがわ で作 つく った衣服 いふく や靴 くつ を、トナカイの腱 けん で作 つく った糸 いと で縫 ぬ い合 あ わせていた。
サメ やリャマ のように、「捨 す てるところのない」資源 しげん として使 つか われていたトナカイであったが、そのトナカイの皮 かわ を剥 は ぐためのナイフ の刃 は だけは、鉄 てつ 製品 せいひん に頼 たよ らざるを得 え なかった。当時 とうじ 鉄 てつ 製品 せいひん はスカンディナヴィア人 じん から購入 こうにゅう する例 れい がほとんどであったが、サーミ人 じん の中 なか にも、こうした技術 ぎじゅつ を習得 しゅうとく するものがいないわけではなかった。彼 かれ らは専業 せんぎょう の鍛冶 たんや 屋 や となったが、サーミ人 じん にとっては神秘 しんぴ 的 てき とさえ言 い える技能 ぎのう のために、鍛冶屋 かじや は、偉大 いだい な魔法 まほう の力 ちから を持 も っているとさえ考 かんが えられていた。
山岳 さんがく サーミ人 じん にとって最大 さいだい の富 とみ はトナカイであった。しかし17世紀 せいき 、スカンディナヴィア半島 はんとう 北部 ほくぶ から銀 ぎん が発掘 はっくつ され始 はじ め、山岳 さんがく サーミ人 じん がその遊牧 ゆうぼく という特性 とくせい から銀 ぎん の運搬 うんぱん を請 う け負 お ったことで、サーミ人 じん の間 あいだ に銀 ぎん が富 とみ の象徴 しょうちょう としての意味 いみ があることが広 ひろ がった。その時 とき から、サーミ人 じん は銀 ぎん 細工 ざいく を所有 しょゆう することで、富 とみ を顕示 けんじ するようになった。現在 げんざい でもその名残 なごり は確実 かくじつ に残 のこ っており、サーミの人々 ひとびと の間 あいだ では、銀 ぎん 細工 ざいく が非常 ひじょう に好 この まれるという。
これら工芸 こうげい 品 ひん は、「観光 かんこう 資源 しげん ・サーミ人 じん 」を訪 たず ねて来 き た観光 かんこう 客 きゃく は勿論 もちろん 、スカンディナヴィア人 じん たちにも広 ひろ く販売 はんばい されている。これらの売上 うりあげ は、地元 じもと の経済 けいざい に大 おお きく貢献 こうけん し、元々 もともと 日 び 用品 ようひん であった手 て 工芸 こうげい 品 ひん は、今 いま や売 う り物 もの としての側面 そくめん の方 ほう が大 おお きくなりつつある。
現在 げんざい 、比較的 ひかくてき 日本 にっぽん でも手 て に入 はい りやすいサーミの工芸 こうげい 品 ひん として、ククサ が挙 あ げられる。ククサは白樺 しらかんば の木 き のこぶから作 つく られたカップで、「これを贈 おく られた人 ひと は幸 しあわ せになる」というい伝 いつた えがあるとされているが、それが実際 じっさい の伝承 でんしょう であるのか、それとも商業 しょうぎょう 上 じょう の宣伝 せんでん 文句 もんく に過 す ぎないのかは定 さだ かではない。
宗教 しゅうきょう と教会 きょうかい [ 編集 へんしゅう ]
ノアイデ が使用 しよう したドラム
サーミ人 じん の信仰 しんこう は、そもそも森羅万象 しんらばんしょう に宿 やど る様々 さまざま な精霊 せいれい を対象 たいしょう とした精霊 せいれい 信仰 しんこう であった。季 き 節 ぶし 、人間 にんげん や動物 どうぶつ の健康 けんこう や繁栄 はんえい 、自然 しぜん がもたらす様々 さまざま な災害 さいがい や恩恵 おんけい 、あらゆる物 もの が精霊 せいれい の力 ちから によるものと信 しん じていた。そのため、全 すべ ての事象 じしょう の根源 こんげん である精霊 せいれい の声 こえ を聞 き くシャーマン の存在 そんざい は、サーミ人 じん の宗教 しゅうきょう において必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ なものだった。
精霊 せいれい たち、また、父 ちち であり、母 はは である太陽 たいよう や大地 だいち と交信 こうしん し、森羅万象 しんらばんしょう の変化 へんか の原因 げんいん を突 つ き止 と めるために存在 そんざい していたのが、ノアイデ と呼 よ ばれるシャーマン であった。ノアイデは極 きわ めて稀 まれ な才能 さいのう であり、それ故 ゆえ に、彼 かれ らは常 つね に尊敬 そんけい と畏怖 いふ の対象 たいしょう であり続 つづ けていた。
ラエスタジアス牧師 ぼくし (Lars Levi Læstadius). (1800-1861)
サーミ人 じん の社会 しゃかい は、神 かみ の意志 いし と、シイーダ内 ない の古老 ころう たちの知恵 ちえ に基 もと づいて運営 うんえい されていた。古老 ころう たちは、現世 げんせい の問題 もんだい (人々 ひとびと の諍 いさか いや、狩猟 しゅりょう 、漁労 ぎょろう を、いつ、どこで行 おこな うかといったようなこと)を解決 かいけつ していたが、神 かみ や非 ひ 現世 げんせい に関 かん する問題 もんだい に関 かん しては、ノアイデに一任 いちにん されていた。ノアイデはシャーマン・ドラムを打 う ち鳴 な らしながらトランス状態 じょうたい に陥 おちい り、どの精霊 せいれい が問題 もんだい を引 ひ き起 お こしているのか、どうすればそれを解決 かいけつ することができるのかを知 し る。誰 だれ かが病気 びょうき になったとき、その魂 たましい は肉体 にくたい を離 はな れているという考 かんが え方 かた がサーミには存在 そんざい しているが、この「盗 ぬす まれた」魂 たましい を取 と り戻 もど し、病気 びょうき を治 なお すのも、ノアイデの仕事 しごと だった。
こうした精霊 せいれい 信仰 しんこう も、16世紀 せいき に入 はい り、キリスト教 きりすときょう の布教 ふきょう がラップランドまで及 およ んだ時 とき 、例外 れいがい なく弾圧 だんあつ の対象 たいしょう となった。現在 げんざい サーミ人 じん の大 だい 多数 たすう がルーテル教会 きょうかい 、もしくは正教会 せいきょうかい に属 ぞく しているが、17〜18世紀 せいき までには、この基盤 きばん はすでに出来上 できあ がっていたと見 み られる。この流 なが れに抵抗 ていこう し、精霊 せいれい とノアイデへの信仰 しんこう を忠実 ちゅうじつ に守 まも り続 つづ けたサーミ人 じん も、決 けっ して少 すく なくはなかったが、宣教師 せんきょうし たちは、彼 かれ らを迫害 はくがい し、特 とく にノアイデの改宗 かいしゅう 、撲滅 ぼくめつ に努 つと めた。
キリスト教 きりすときょう 布教 ふきょう の動 うご きが最 もっと も高 たか まったのが、19世紀 せいき 、ラエスタジアス牧師 ぼくし (彼 かれ 自身 じしん もサーミ人 じん である)が、サーミ人 じん の改宗 かいしゅう に訪 おとず れたときであった。彼 かれ が創始 そうし したラエスタジアス派 は はノルウェー、スウェーデン、フィンランドで現在 げんざい でも広 ひろ く信仰 しんこう されている[19] 。しかしキリスト教 きりすときょう のサーミ人 じん への布教 ふきょう は、サーミ固有 こゆう の文化 ぶんか の破壊 はかい を意味 いみ していた。他 た の北欧 ほくおう の民族 みんぞく とは異 こと なり、彼 かれ らはそれによって民族 みんぞく 的 てき 集団 しゅうだん を形成 けいせい することはなかった上 うえ に、サーミ人 じん の諸 しょ 国家 こっか への分割 ぶんかつ 帰属 きぞく へと至 いた った。また、サーミ語 ご による聖書 せいしょ は、まだ出 で ていない[20] (cf. スカンディナヴィアのキリスト教化 きょうか #最後 さいご の異教徒 いきょうと )。
こうしたキリスト教化 きょうか の流 なが れの中 なか で、それでもノアイデは19世紀 せいき 半 なか ばまで生 い き残 のこ っていた。精霊 せいれい に付 つ いての知識 ちしき や薬草 やくそう を用 もち いての民間 みんかん 療法 りょうほう の方法 ほうほう は今 いま なお伝承 でんしょう されているが、それと信仰 しんこう が結 むす びつく、ということは、完全 かんぜん になくなってしまった。
サーミ人 じん 歌手 かしゅ のLisa Thomasson(Lapp-Lisa). 1878-1932
サーミ人 じん の音楽 おんがく を特徴付 とくちょうづ けるのは、ヨイク (Yoikあるいはjuoiggus)と呼 よ ばれる、基本 きほん 的 てき に無 む 伴奏 ばんそう の即興 そっきょう 歌 か である。
ヨイクは、上述 じょうじゅつ したシャーマニズム と関連 かんれん して誕生 たんじょう した音楽 おんがく である。サーミのシャーマン 、ノアイデは、トランス状態 じょうたい に陥 おちい る時 とき 、幻覚 げんかく 作用 さよう のあるベニテングタケ の一種 いっしゅ を服用 ふくよう していた。このキノコに誘発 ゆうはつ された激 はげ しいトランス状態 じょうたい の中 なか 、精霊 せいれい との交信 こうしん を行 おこな うのだが、さらにその状態 じょうたい を深 ふか めるため、大声 おおごえ で歌 うた われていた歌 うた 、これがヨイクである。
シャーマニズムとの関連 かんれん から、ヨイクは自然 しぜん 界 かい とコミュニケーションを取 と るための道具 どうぐ 、方法 ほうほう としてとらえられる。太陽 たいよう や月 つき 、山 やま 、川 かわ などを対象 たいしょう に、その成立 せいりつ に関 かん する物語 ものがたり を歌 うた う、叙事詩 じょじし のような形式 けいしき を取 と ることもあれば、対象 たいしょう への賛美 さんび と感謝 かんしゃ を歌 うた う讃歌 さんか のような形式 けいしき を取 と ることもある。
自然 しぜん 界 かい に対 たい してだけでなく、人間 にんげん 同士 どうし のコミュニケーション のためにも用 もち いられる。赤 あか ん坊 ぼう が誕生 たんじょう した時 とき 、その子供 こども に対 たい して歌 うた われたり、親 した しい人 ひと 同士 どうし で、その人 ひと の外観 がいかん 、人格 じんかく 的 てき 美点 びてん 、欠点 けってん 、人生 じんせい など描写 びょうしゃ したヨイクを歌 うた い合 あ うこともある。また、たった一人 ひとり でトナカイが牽 ひ く橇 そり に乗 の ったとき、その孤独 こどく を癒 いや すためにも歌 うた われる。
ヨイクは、決 けっ して吟唱 ぎんしょう 詩 し のようなものではない。メロディー だけ、リズム だけで構成 こうせい されるようなヨイクも存在 そんざい するが、詩 し による、“歌 うた う”ヨイクが優勢 ゆうせい であることは確 たし かである。しかし、この詩 し が、実際 じっさい のサーミ人 じん の口語 こうご で行 おこな われるということはない。ヨイクを構成 こうせい する詩 し の言葉 ことば は、極度 きょくど に省略 しょうりゃく 、簡略 かんりゃく 化 か された特別 とくべつ の言葉 ことば 、あるいは象徴 しょうちょう 的 てき なイメージ群 ぐん からなっている。そのため、サミ人 じん の自然 しぜん に対 たい する視点 してん や生活 せいかつ 、感性 かんせい を共有 きょうゆう しない非 ひ サーミ人 じん にとって、ヨイクをそのままに理解 りかい することはほぼ不可能 ふかのう といっていいだろう。この“わかりにくさ”のために、ヨイクはしばしばヨーデル と比較 ひかく される。しかしこれは大 おお きな誤 あやま りである。元々 もともと 谷 たに と谷 たに の間 あいだ で羊 ひつじ 飼 か いたちの連絡 れんらく 手段 しゅだん として発生 はっせい したヨーデルと違 ちが い、ヨイクは子音 しいん と母音 ぼいん の組 く み合 あ わせから成 な り、歌 うた い手 て はそれを慎重 しんちょう に選択 せんたく 、配列 はいれつ することによって、一言 ひとこと に膨大 ぼうだい な情報 じょうほう を持 も たせる。
18–19世紀 せいき にかけ、他 た のスカンディナヴィア人 じん の統治 とうち 下 か に置 お かれ、民族 みんぞく 的 てき なものを否定 ひてい する価値 かち 観 かん にさらされていた状況 じょうきょう の中 なか で、ヨイクを伝 つた えることに執着 しゅうちゃく した者 もの たちは、形 かたち を変 か え、ヨイクを存続 そんぞく させることを選択 せんたく した。
つまり、弦楽器 げんがっき や打楽器 だがっき 、管楽器 かんがっき による伴奏 ばんそう を伴 ともな ったヨイクを生 う み出 だ した。
元々 もともと ヨイクはシャーマン・ドラムを打 う ち鳴 な らしながら行 おこな われていたため、楽器 がっき の伴奏 ばんそう がつくことに何 なん ら不思議 ふしぎ はないように思 おも われる。しかし、例 たと えばノルウェー人 じん の民族 みんぞく 楽器 がっき ランゲレイク やフィンランド人 じん の民族 みんぞく 楽器 がっき カンテレ を使 つか うことで自 みずか らの民族 みんぞく 的 てき 地位 ちい を同時 どうじ に向上 こうじょう させようとしていた節 ふし もある。事実 じじつ 、南部 なんぶ スウェーデンにおいて、サーミ人 じん は社交 しゃこう 的 てき な場所 ばしょ に積極 せっきょく 的 てき に出 で かけ、ダンス を踊 おど り、ヴァイオリン を演奏 えんそう することさえしていた。今世紀 こんせいき 初 はじ めにはコラ半島 はんとう のスコルト・サーミ人 じん はロシア流 りゅう のアコーディオン を演奏 えんそう し、カドリール (一種 いっしゅ のスクエア・ダンス)を踊 おど ることがステータスになってもいた。
老年 ろうねん 層 そう のほとんどはヨイクを歌 うた おうとせず、中年 ちゅうねん 層 そう はヨイクを知 し らないといった状況 じょうきょう が生 う まれつつあった中 なか 、ヨイクは復興 ふっこう の兆 きざ しを見 み せる。若 わか いインテリ層 そう が民族 みんぞく 的 てき アイデンティティの復興 ふっこう と確立 かくりつ を掲 かか げ、ヨイクを再興 さいこう し始 はじ めた。しかし、この流 なが れもすぐには実 み を結 むす ばなかった。ヨイクをすること、それはキリスト教会 きょうかい と政府 せいふ によって処罰 しょばつ の対象 たいしょう とされていた。
民族 みんぞく 的 てき アイデンティティ復興 ふっこう の動 うご きは、ニルス=アスラク・ヴァルケアパー (通称 つうしょう :アイル)というフィンランド国籍 こくせき のサーミ人 じん 現代 げんだい 詩人 しじん がヨイクを始 はじ めたことで一気 いっき に進 すす んだ。彼 かれ の目的 もくてき は、古 ふる いスタイルのヨイクを、あくまでその基本 きほん を損 そこ ねることなく復活 ふっかつ させることであった。彼 かれ の目論見 もくろみ は成功 せいこう したといえる。ニルスは1994年 ねん ノルウェーのリレハンメル で行 おこな われた冬季 とうき オリンピック の開会 かいかい 式 しき 壇上 だんじょう でヨイクを熱唱 ねっしょう し、多 おお くのサーミ人 じん に勇気 ゆうき と希望 きぼう を与 あた えた。
民族 みんぞく 意識 いしき が高 たか まる中 なか 、その流 なが れにさらに拍車 はくしゃ をかける存在 そんざい が現 あらわ れる。それが、マリ・ボイネ (英語 えいご ) というサーミ人 じん 女性 じょせい である。彼女 かのじょ は政治 せいじ 的 てき メッセージを歌詞 かし に込 こ めたヨイクを次々 つぎつぎ と発表 はっぴょう 、自 みずか らの政治 せいじ 的 てき 立場 たちば を明確 めいかく にすると共 とも に、様々 さまざま な問題 もんだい について賛否 さんぴ を要求 ようきゅう され始 はじ めたサーミ人 じん に訴 うった えかけ始 はじ めた。
彼女 かのじょ のヨイクのスタイルとして特徴 とくちょう 的 てき なのは、ギター の伴奏 ばんそう を伴 ともな っている、ということである。彼女 かのじょ のメイン・テーマは先住民 せんじゅうみん と植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 者 もの 、異 こと なる民族 みんぞく 間 あいだ に起 お きた文化 ぶんか 的 てき 衝突 しょうとつ の悲劇 ひげき を表現 ひょうげん することである。
1973年 ねん 、フィンランドのカウスティネン に民族 みんぞく 音楽 おんがく 研究所 けんきゅうじょ が開設 かいせつ され、ヘイッキ・ライティネン が初代 しょだい 所長 しょちょう に就任 しゅうにん すると、彼 かれ は「民族 みんぞく 音楽 おんがく はあまねく博物館 はくぶつかん から民衆 みんしゅう の元 もと へ降 お りなければならない。それだけが、民族 みんぞく 音楽 おんがく が生 い き残 のこ れる唯一 ゆいいつ の道 みち である」というスローガンを掲 かか げ、フィンランドの民族 みんぞく 音楽 おんがく を次々 つぎつぎ と復興 ふっこう し始 はじ めた。木 き の笛 ふえ 、カンテレ などの古代 こだい の音楽 おんがく や民族 みんぞく 歌謡 かよう が見直 みなお され、その研究 けんきゅう が行 おこな われると共 とも に、それらの音楽 おんがく を演奏 えんそう 、吟唱 ぎんしょう するグループができ始 はじ めた。
アンゲリン・テュトット (英語 えいご ) も、言 い ってみればこうした流 なが れの中 なか で誕生 たんじょう したグループであった。アンゲリン・テュトット、後 のち にアンゲリット と改名 かいめい することになるこのグループは、ウルスラとトゥーニのランスマン姉妹 しまい によって1982年 ねん に結成 けっせい された。元々 もともと 少女 しょうじょ 時代 じだい からヨイクに興味 きょうみ を持 も っていたこの姉妹 しまい だったが、最初 さいしょ は学校 がっこう の先生 せんせい に命令 めいれい されるような形 かたち で始 はじ めたらしい。しかし、そんな事情 じじょう をよそにやがて二 に 人 にん はヨイクに熱中 ねっちゅう 。89年 ねん には現在 げんざい ソロで活躍 かつやく 中 ちゅう のウッラ・ピルッティヤルヴィを加 くわ え三 さん 人 にん で活動 かつどう を始 はじ める。その後 ご 、やはり現代 げんだい 的 てき 民族 みんぞく 歌謡 かよう のグループとして結成 けっせい されたヴァルッティナ (英語 えいご ) のリーダー、サリ・カーシネン (英語 えいご ) に見出 みいだ され、彼女 かのじょ が主催 しゅさい しているレーベルからCD を出 だ すことになった。
彼女 かのじょ たちのヨイクの特色 とくしょく は、まずその多様 たよう な音楽 おんがく 性 せい にある。伝統 でんとう を重視 じゅうし する一方 いっぽう 、様々 さまざま な音楽 おんがく 、例 たと えばプログラミングを重視 じゅうし したクラブ 系 けい サウンドを取 と り入 い れてみたり、他 た のヨーロッパ音楽 おんがく を取 と り入 い れたりもしている。
彼女 かのじょ 達 たち が尊敬 そんけい するヨイクの第一人者 だいいちにんしゃ 、ニルス=アスラク・ヴァルケアパー やマリ・ボイネも、ヨイクをジャズロック とあわせるなどして色々 いろいろ な表現 ひょうげん スタイルを試 こころ みているが、アンゲリットの二人 ふたり も決 けっ してそれにひけをとってはいない。子供 こども の頃 ころ から世界 せかい 各地 かくち を回 まわ ってジャンルを問 と わないフェスティバルに参加 さんか し、自分 じぶん 達 たち のヨイクを聞 き かせているほか、地元 じもと のクラブ系 けい のKLFのアルバムに参加 さんか するなどして広 ひろ い視野 しや を持 も ち続 つづ けている。このためであろうか、自分 じぶん 達 たち のアルバムにもドラム・ベースやアンビエント ・サウンドを取 と り入 い れて常 つね に時代 じだい 性 せい を感 かん じさせるヨイクを発表 はっぴょう している。これまでにヨーロッパの国々 くにぐに はもちろん、エストニア 、ロシア、アメリカ、中国 ちゅうごく でも積極 せっきょく 的 てき にパフォーマンスを行 おこな っている。日本 にっぽん にも二 に 度 ど 来日 らいにち し、その中 なか でアイヌ のミュージシャン との共演 きょうえん も経験 けいけん している。
サーミ人 じん は大分 おおいた 類 るい ではコーカソイド に属 ぞく すが、ウラル語族 ごぞく と関連 かんれん するモンゴロイド 系 けい ハプログループN (Y染色 せんしょく 体 たい ) が48%の中 なか 頻度 ひんど でみられる[21] 。次 つ いで多 おお いのが原 げん スカンジナビア系 けい Y染色 せんしょく 体 たい ‐I1 で、約 やく 31%みられる[22] 。mtDNAはヨーロッパの古 ふる いタイプが多 おお いが、東 ひがし アジア を起源 きげん とするウラル系 けい ハプログループZ (mtDNA) もわずかにみられる。
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Witebsky Piers 『世界 せかい の先住民 せんじゅうみん 族 ぞく ⑤ いまはわたしの国 くに といえない ラップランドのサーミ人 じん 』 東京 とうきょう リブリオ出版 しゅっぱん 、1995年 ねん
百瀬 ももせ 宏 ひろし ・村井 むらい 誠人 まさと 編 へん 『読 よ んで旅 たび する世界 せかい の歴史 れきし と文化 ぶんか 北欧 ほくおう 』 新潮社 しんちょうしゃ 、1996年 ねん
葛野 くずの 浩昭 ひろあき 『民俗 みんぞく 学 がく 研究 けんきゅう 』54/2 『トナカイの耳 みみ 印 しるし と遊 ゆう ・放牧 ほうぼく 社会 しゃかい の歴史 れきし 〜フィンランド、ウツヨキ地域 ちいき のトナカイ放牧 ほうぼく 組合 くみあい を例 れい に〜』 日本 にっぽん 民族 みんぞく 学会 がっかい 、1989年 ねん
葛野 くずの 浩昭 ひろあき 『社会 しゃかい 人類 じんるい 学 がく 年報 ねんぽう 』Vol.19 『「山岳 さんがく ラップ」と「サミ民族 みんぞく 」 〜サミ人 じん の民族 みんぞく 問題 もんだい の「国 くに 貫 ぬき 」的 てき 特性 とくせい について』 東京都立大学 とうきょうとりつだいがく 社会 しゃかい 人類 じんるい 学 がく 学会 がっかい 、1993年 ねん
綾部 あやべ 恒夫 つねお 編 へん 『世界 せかい の民 みん 〜光 ひかり と影 かげ 』下巻 げかん 「サミ人 じん 」 明石書店 あかししょてん 、1993年 ねん
葛野 くずの 浩昭 ひろあき 『季刊 きかん 人類 じんるい 学 がく 』20-4 『「トナカイ・サミ人 じん 」と「水 みず 岸 がん の人 ひと 」 〜トナカイ遊牧 ゆうぼく 系 けい サミ人 じん と定住 ていじゅう 漁労 ぎょろう ・狩猟 しゅりょう 系 けい サミ人 じん の「すみわけ」とその混乱 こんらん 』 京都大学 きょうとだいがく 人類 じんるい 学 がく 研究 けんきゅう 会 かい 、1989年 ねん
タキトゥス 『ゲルマーニア 』 岩波書店 いわなみしょてん 、1994年 ねん
百瀬 ももせ 宏 ひろし 、熊野 くまの 聰 さとし 、村井 むらい 誠人 まさと 『北欧 ほくおう 史 し (世界 せかい 各国 かっこく 史 し )』 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1998年 ねん
武田 たけだ 龍夫 たつお 『物語 ものがたり スウェーデン史 し -バルト大国 たいこく を彩 いろど った国王 こくおう 、女王 じょおう たち- 』 新 しん 評論 ひょうろん 、2003年 ねん
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