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サーミじん

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サーミじん
サーミじん男性だんせいとサーミの伝統でんとうてきなテント
そう人口じんこう
c. 227,000
居住きょじゅう地域ちいき
サーミ人の旗 ラップランド133,400
ノルウェーの旗 ノルウェー37,890[1]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ30,000[2]
スウェーデンの旗 スウェーデン14,600[3]
フィンランドの旗 フィンランド9,350[4]
ロシアの旗 ロシア1,991[5]
ウクライナの旗 ウクライナ136[6]
言語げんご
サーミ諸語しょご
宗教しゅうきょう
ルーテル教会きょうかい, en:Laestadianism, 東方とうほう正教せいきょう, シャーマニズム
関連かんれんする民族みんぞく
ウラルけい民族みんぞく

サーミじん(サーミじん、北部ほくぶサーミ:Sápmi)は、スカンジナビア半島はんとう北部ほくぶラップランドおよロシア北部ほくぶコラ半島はんとう居住きょじゅうする先住民せんじゅうみんぞくフィン・ウゴルけいのうちフィン・サーミ諸語しょごぞくするサーミはなすが、ほとんどがおなじフィン・ウゴルけいフィンランドおよび、スウェーデンノルウェーロシアなどもはなマルチリンガルである。かつては「ラップじん」ともばれていたが、現在げんざいでは古語こごまたは蔑称べっしょうられ、かれ自身じしんはサーミ、あるいはサーメと自称じしょうしている。すず使つかった工芸こうげい細工ざいく有名ゆうめいである。伝統でんとうてきにサーミじんは、沿岸えんがん漁業ぎょぎょう毛皮けがわ捕獲ほかくひつじ放牧ほうぼくなど、さまざまな生業せいぎょういとなんできた。もっともよくられている生業せいぎょうは、はん遊牧ゆうぼくのトナカイ放牧ほうぼくである。2007ねん現在げんざい、サーミじんやく10%がトナカイの放牧ほうぼく従事じゅうじしており、にく毛皮けがわ交通こうつう手段しゅだん提供ていきょうしている。ノルウェーでは、やく2,800にんのサーミじんがフルタイムでトナカイの放牧ほうぼくたずさわっている。[7]伝統でんとうてき環境かんきょうてき文化ぶんかてき政治せいじてき理由りゆうから、北欧ほくおう諸国しょこく一部いちぶ地域ちいきでは、トナカイの放牧ほうぼく法的ほうてきにサーミじんだけにみとめられている。[8]

概要がいよう[編集へんしゅう]

サーミじん居住きょじゅう地域ちいき

もともと狩猟しゅりょう遊牧ゆうぼくおこな民族みんぞくであったが、現在げんざいまち生活せいかつするグループもふくめて、ほとんどのサーミは定住ていじゅう生活せいかついとなんでいる。ノルウェーではかつて「ラップじん」ともばれていたが、現在げんざいでは古語こごまたは蔑称べっしょうられる。フィンランドではラッピけんにいるフィンランドじんはlappilainenを自称じしょうし、サーミじんのことをlappalainenとびどちらもラップランドにんでいるため外国がいこくじんにはわかりにくいちがいとなっている。人種じんしゅスカンジナビア人種じんしゅ特徴とくちょうである金髪きんぱつ碧眼へきがん容貌ようぼうフィンじんエストニアじん同様どうよう容貌ようぼうコーカソイド特徴とくちょうがある。また、フィンじん、エストニアじんよりもひくいため、おおむサモエードじんハンティじんマンシじんちかモンゴロイド北部ほくぶモンゴロイドけい容貌ようぼうつグループもおおく、父系ふけい遺伝子いでんしハプログループNなかだか頻度ひんどられる(紀元前きげんぜん中国ちゅうごく東北とうほくにあるりょうかわ文明ぶんめいひとからも発見はっけんされる[9])。

歴史れきし[編集へんしゅう]

サーミじんおもわれる民族みんぞくのことがはじめて文献ぶんけんじょうあらわれるのは、紀元きげん1世紀せいき古代こだいローマ歴史れきしタキトゥスによってあらわされた『ゲルマーニア』においてである。この文献ぶんけんでは、サーミという名前なまえではなく、フェンニーという名前なまえばれている。

「フェンニー」という今日きょうの「フィン(ランド)」につうじるものがある。実際じっさい、フィンランドじんあいだ民族みんぞく復興ふっこう機運きうんたかまった当時とうじ、このフェンニーこそが我々われわれ直接ちょくせつ祖先そせんであると主張しゅちょうするうごきも存在そんざいしたが、しかしここでげられたフェンニーがフィンランドじんであるとはかんがえられない。今日きょうまでにおこなわれた研究けんきゅうによると、ここにうフェンニーはむしろ、西にしヴィスワがわ下流かりゅうからウラル山系さんけいかう地域ちいき点々てんてんなが居住きょじゅうとし、のちにはフィンランドわん沿岸えんがんいた方面ほうめんにもていたしるしおうけい以外いがい若干じゃっかん民族みんぞくひろしたものであるらしい[10]。また、サガ世界せかいにも、交易こうえきおこなみんとして、サーミじんらしき民族みんぞくについて言及げんきゅうしている個所かしょもある。

いずれにせよ、それ以後いごスカンディナヴィア半島はんとう移住いじゅうしてきた様々さまざま民族みんぞく、「国家こっか」がふたたびこのサーミじん注目ちゅうもくはじめるのは、13世紀せいき以後いご北欧ほくおうもろ国家こっか」が誕生たんじょうし、その国境こっきょう規定きていする必要ひつようしょうじたときであった。

以下いか、サーミじん歴史れきしおおきく3つの時代じだいけて説明せつめいする。

1251ねんから1550ねん[編集へんしゅう]

この時期じきノルウェーロシアノヴゴロド王国おうこくスウェーデンさんこくあいだラップランドにおける国境こっきょう徴税ちょうぜいけんかんする合意ごうい成立せいりつする。この合意ごういした元々もともと単一たんいつ民族みんぞくであったサーミじん分断ぶんだんされ、ことなる国家こっかの、ことなる支配しはい体制たいせい徴税ちょうぜい体制たいせい司法しほう体制たいせいしたかれることとなった。現在げんざいのフィンランド近郊きんこう居住きょじゅうしていたサーミじんは、スウェーデンの支配しはいしたかれた。これは、当時とうじフィンランドがスウェーデンの一部いちぶまれていたことに起因きいんする。また、スウェーデンはカトリック教会きょうかい支配しはいにあったが、ラップランドもこの体制たいせいまれた。

コラ半島はんとう居住きょじゅうしていたサーミじん(skoltサーミとばれる)は正教会せいきょうかいノヴゴロド公国こうこく支配しはいかれた。また、Skoltサーミはツァー土地とちみずかんしてぜいされ、土地とち登記とうき義務ぎむうことになった。

現在げんざいフィンマルクけん居住きょじゅうしていたすべてのノルウェー・サーミじんはロシアの統治とうちかれた。

このように様々さまざま国家こっか統治とうちかれたサーミじんであったが、これに先立さきだ12世紀せいきころから、すでにサーミじんはノルウェー国王こくおうたいし、「ラップぜい」をはらうことをもとめられていた。このラップぜいとは、そもそもみつぎおさめてき人頭じんとうぜいてき性格せいかくつよいものであり、支払しはらいはカマスひとし乾燥かんそうぎょトナカイクジラアザラシ皮革ひかくロープとうもとめられていた。これは、「ラップ」が17世紀せいきまでいずれの「国家こっか」の国民こくみんなのか明確めいかくにはさだめられていなかったため、従来じゅうらい農民のうみんたいするような徴税ちょうぜいせなかったことに起因きいんしている[11][12]。また、当時とうじから「ラップ」のトナカイ飼育しいく狩猟しゅりょう漁労ぎょろう活動かつどう特別とくべつな、「ラップ生活せいかつ様式ようしき」として法律ほうりつなかにも明記めいき認識にんしきされ農地のうちぜい徴収ちょうしゅう対象たいしょうとはなりなかったことも、その原因げんいんの1つとなっている[12][13]

1551ねんから1808ねん[編集へんしゅう]

サーミじん家族かぞく(1900ねんごろ)

17世紀せいき初頭しょとう、「ラップ」はノルウェーもしくはスウェーデン=フィンランド国民こくみんとして「国家こっか」にまれた。この帰属きぞく背景はいけいには、ノルウェーとスウェーデン両国りょうこくあいだ関係かんけい悪化あっかしており、以前いぜんのような曖昧あいまい国境こっきょう規定きてい両国りょうこくあいだ安全あんぜん保障ほしょうじょうこのましくないものであったという事実じじつがある。

そして1751ねん国境こっきょう条約じょうやく締結ていけつされた。これはデンマーク=ノルウェー王国おうこくとスウェーデン(およびその一部いちぶ東部とうぶ地方ちほう」であったフィンランド)のあいだわされたもので、ラップランドにおける北欧ほくおうしょ国家こっか国境こっきょう明確めいかくさだめるという性質せいしつったものであった。しかしこの条約じょうやくは、けっしてサーミじん権利けんり侵害しんがいするものではなかった。国境こっきょう条約じょうやくだいじょうだいこうには、サーミじんはトナカイの遊牧ゆうぼくをする民族みんぞくであり、そのためには両国りょうこく土地とち必要ひつようであるということ。どうだいじゅうじょうには、その生活せいかつ様式ようしき維持いじするため、両国りょうこく公平こうへい援助えんじょおこなうことをめるむねしるされていた。

この国境こっきょう条約じょうやくは、サーミじん権利けんりとその生活せいかつ様式ようしき正当せいとうせいみとめるものであったが、しかしこの締結ていけつにともない、おおくの「ラップ」は定住ていじゅうみちえらんだ。また、定住ていじゅうしなかったサーミじんたいしても、相変あいかわらず「ラップぜい」は適用てきようされつづけたが、この時代じだいになって、「ラップぜい」はその本来ほんらいみつぎおさめてき人頭じんとうぜいてき性格せいかくのものから、土地とち水域すいいき借用しゃくようぜい変化へんかしていった。このことが、サーミじんいつつのことなる生活せいかつ様式ようしき直接ちょくせつ原因げんいんとなった。つまり、だい規模きぼトナカイ遊牧ゆうぼく専業せんぎょうみん山岳さんがくサーミじん」、農耕のうこう牧畜ぼくちく狩猟しゅりょう漁労ぎょろうおこな定住ていじゅうみんとしての「海岸かいがんサーミじん」、「森林しんりんサーミじん」、「河川かせんサーミじん」「みずうみサーミじん」などをした。

上記じょうきとおり、「山岳さんがくサーミじん」は「ラップぜい」の対象たいしょうであったが、定住ていじゅう農民のうみんしたサーミじんおもひつじうし飼育しいく専業せんぎょうにしていたとおもわれる)は、「ラップ」とはなされなくなった。そして、「ラップぜい」を免除めんじょされ、わって農地のうち徴収ちょうしゅうぜいされた。このてんから、北欧ほくおうしょ国家こっかの「ラップじん」にたいする基本きほんてき姿勢しせいをうかがうことができる。つまりこの措置そちは、北欧ほくおうしょ国家こっかにしてみれば、トナカイ遊牧ゆうぼくという「ラップ生活せいかつ様式ようしき」をつづける、あるしゅ異質いしつ文化ぶんか生活せいかつ様式ようしきっているものこそが「民族みんぞく」であり、自分じぶんたちとおな生活せいかつ農耕のうこう漁労ぎょろう)をおこなうようになったみんは、すでに自分じぶんたちとおなじである、という認識にんしき明示めいじにほかならない。

18世紀せいき後半こうはんになると、スウェーデンりょうにおいてスウェーデンじんがラップ地域ちいき北上ほくじょうし、開拓かいたく植民しょくみんおこなうために定住ていじゅうしたため、この地域ちいきのサーミじんはさらに北部ほくぶ東部とうぶへといやられることとなった。サーミじんなかには、定住ていじゅうしたスウェーデンじん混交こんこうしてスウェーデンしたものすくなくない[14]

1809ねん以降いこう[編集へんしゅう]

1809ねんロシア帝国ていこくぐん猛攻もうこうまえにスウェーデンは降伏ごうぶくし、フィンランドはフレデリクスハムンのやくにおいてロシアりょうまれた(ロシア・スウェーデン戦争せんそう)。そして北欧ほくおうしょ国家こっかなかにロシアという「異質いしつな」国家こっかはいんだことにより、ラップ追加ついか条項じょうこう事実じじつじょうその意味いみうしない、とくに「山岳さんがくサーミじん」の遊牧ゆうぼく生活せいかつ窮地きゅうちたされた。またこれにちをかけるように1852ねんにはノルウェーとフィンランドの国境こっきょうが、1888ねんにはスウェーデンとフィンランドの国境こっきょう閉鎖へいさされてしまう。当時とうじ、スウェーデンはノルウェーと同君どうくん連合れんごうんでおり(スウェーデン=ノルウェー)、ノルウェーの国境こっきょうせんはロシアりょう複雑ふくざつんでいた。ロシアにたいする安全あんぜん保障ほしょうは、クリミア戦争せんそうはさんで切実せつじつ問題もんだいとなったため、スウェーデン政府せいふは1855ねんイギリスおよフランスと「11月条約じょうやく」を締結ていけつし、連合れんごう王国おうこく領土りょうど漁業ぎょぎょうけんをロシアに譲渡じょうとしないことを誓約せいやくした[15]

ロシアの統治とうちにおいても、サーミじん納税のうぜい義務ぎむされていたが、議会ぎかい参加さんかすることはゆるされなかった。代表だいひょうのいない議会ぎかいにおいてサーミじん権利けんり議論ぎろんされ、その結果けっか、サーミじん土地とちみず使用しようけんまった無視むしされる事態じたいになった。さらに、サーミじん狩猟しゅりょう文化ぶんか経済けいざいてき基盤きばんは、トナカイやビーバーといった狩猟しゅりょう動物どうぶつ乱獲らんかくされたことにより完全かんぜんこわされた。そして、狩猟しゅりょう動物どうぶつ減少げんしょうともない「ラップぜい」の納税のうぜい不可能ふかのうとなり、ついに1924ねん完全かんぜん廃止はいしされた。これは同時どうじに、かれらの権利けんり縮小しゅくしょうにもつながっていった。

以後いご、サーミじん課税かぜい対象たいしょうがい土地とちもとめての移住いじゅうと、それらの土地とちを「おおやけしようとするうごきがかえされた。

だい世界せかい大戦たいせん、スコルトサーミじん土地とちきゅうソ連それん割譲かつじょうされ、その結果けっか、スコルトサーミじんだい多数たすうがフィンランドに移住いじゅうした。

1986ねんチェルノブイリ原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこ以降いこうトナカイ汚染おせんすすみ、伝統でんとうてき放牧ほうぼく生活せいかつおくことはいっそうむずかしくなった。キノコ地衣ちいるいなどの菌類きんるい放射ほうしゃせい物質ぶっしつ吸収きゅうしゅうしやすいとわれ、トナカイの主食しゅしょくハナゴケ地衣ちいるい一種いっしゅ)であることから、とく汚染おせんすすんだとおもわれる[よう出典しゅってん]

21世紀せいき[編集へんしゅう]

2023ねん、ノルウェーにあるサーミじんトナカイ放牧ほうぼくじょう風力ふうりょく発電はつでん施設しせつ建設けんせつされたことにたいし、サーミじん団体だんたい環境かんきょう保護ほご団体だんたいとともに抗議こうぎ活動かつどう展開てんかい同年どうねん3がつ1にちにはスウェーデン活動かつどうグレタ・トゥーンベリ参加さんかして政府せいふ庁舎ちょうしゃまえ抗議こうぎ活動かつどうおこなった[16]

行政ぎょうせい社会しゃかいてき地位ちい[編集へんしゅう]

サーミのはた。1986ねん北欧ほくおうサーミ会議かいぎ決定けっていされた

サーミじん社会しゃかいてき立場たちばは、1992ねんにフィンランドで施行しこうされた「サーミ言語げんごほう」と、「サーミじんほん草案そうあん」によって規定きていされている。このなかで、サーミじんとは、「ラップぜい」を支払しはらっていたサーミじん子孫しそんたち、あるいは、上記じょうきのようなサーミじん出自しゅつじち、本人ほんにんみずから、もしくはその両親りょうしん祖父母そふぼなかすくなくとも一人ひとりがサーミだいいち言語げんごとしてまなんだひとがいるもの、あるいは、その子孫しそんであるとさだめられた。つまり、民族みんぞく規定きていするものは、言語げんごであるとの見解けんかいられた。これにより、なんらかの事情じじょうでサーミだいいち言語げんごとしてまなんだ外国がいこくじんをもその範疇はんちゅうふくむことになってしまったが、民族みんぞく言語げんごによって規定きていするといった方法ほうほう自体じたいは、サーミじんにも比較的ひかくてきおだやかにれられた。

また、サーミじん自分じぶんたちのアイデンティティ確立かくりつないし獲得かくとくするために設立せつりつした、以下いか組織そしき存在そんざいする。

サーミ議会ぎかい
フィンランドにむサーミじんによって4ねんごとに選出せんしゅつされる20めい議員ぎいんから構成こうせいされる民族みんぞく特別とくべつ議会ぎかい
サーミ代表だいひょうだん
フィンランドりょうラップランドけん県知事けんちじ、5めいのフィンランド関係かんけいちょう代表だいひょうしゃ、5めいの「サーミ議会ぎかい代表だいひょうしゃによって構成こうせいされる。この組織そしき北欧ほくおう諸国しょこく国際こくさいてき機関きかんである「北欧ほくおう評議ひょうぎかい」(en;Nordic Council)、「北欧ほくおう閣僚かくりょう評議ひょうぎかい」がサーミ問題もんだいかんして各国かっこくおこな各種かくしゅ勧告かんこくたいするフィンランド行政ぎょうせいがわざらとしてつくられた。

サーミの社会しゃかい[編集へんしゅう]

サーミとはけっしてトナカイ遊牧ゆうぼく専業せんぎょうみんのみをすのではない。それらのみんはサーミ全体ぜんたいのわずかにぎず、トナカイ遊牧ゆうぼく以外いがい生活せいかつ様式ようしきった人々ひとびとのほうがおお[17]

サーミは、おおきくけて種類しゅるい生活せいかつ様式ようしき分類ぶんるいできる。

ノルウェーの山岳さんがくサーミじん(2006ねん
海岸かいがんサーミじん(1884ねん).
山岳さんがくサーミじん
だい規模きぼなトナカイ遊牧ゆうぼく専業せんぎょうとする人々ひとびと。「サーミじん」といて連想れんそうされるのはこの系統けいとう人々ひとびとであり、北欧ほくおう諸国しょこく観光かんこう資源しげんとして活用かつようしているサーミじんのイメージもこれがもととなっている。もっとも、現在げんざいではトナカイの遊牧ゆうぼくのみを職業しょくぎょうとしているひと皆無かいむひとしく、その副業ふくぎょうとしてだいいち産業さんぎょうについているひとがほとんどである。
海岸かいがんサーミじん
サガにえがかれた交易こうえきみんとはかれらのことをしたとおもわれるが、現在げんざいではのスカンディナヴィアじんわらない生活せいかつおくっており、その生計せいけい中心ちゅうしん漁業ぎょぎょうふくめただいいち産業さんぎょうだいさん産業さんぎょうにある。
森林しんりんサーミじん
小規模しょうきぼのトナカイ放牧ほうぼくおこな人々ひとびとで、漁業ぎょぎょう農業のうぎょうやそのだいさん産業さんぎょうとの兼業けんぎょうおもとしている。山岳さんがくサーミじん森林しんりんサーミじんにおけるちがいは、その飼育しいくするトナカイのたねちがいからている。山岳さんがくサーミじん飼育しいくするトナカイは広大こうだい牧草ぼくそうとそれにともな長距離ちょうきょり移動いどう必要ひつようしゅであるが、森林しんりんサーミじん飼育しいくしているのは、森林しんりん周辺しゅうへんえる地衣ちいるい主食しゅしょくとし、だい規模きぼ移動いどう必要ひつようとしないしゅである。
河川かせんサーミじんみずうみサーミじん
この2つのあいだ明確めいかくちがいはない。ただ、漁業ぎょぎょうおもとする人々ひとびとであることが共通きょうつうしている。このふたつをける要素ようそは、その漁場ぎょじょうちがいである。「みずうみサーミじん(イナリラップ)」は、フィンランドのさい北部ほくぶ位置いちするイナリ漁業ぎょぎょうおこな人々ひとびと(1996ねん現在げんざいでおよそ20にん程度ていど)をとくし、「河川かせんサーミじん」はその大小だいしょうかわりょうおこなひとす。

このように多様たよう生活せいかつ様式ようしきつサーミ民族みんぞくであるが、以下いか本来ほんらいのサーミ民族みんぞく社会しゃかいについて説明せつめいする。

サーミ民族みんぞく社会しゃかい支配しはいしていたのは、シイーダ (Siida) とばれる多数たすう親族しんぞくからなる集団しゅうだんであった。

シイーダのリーダーはそのシイーダない最年長さいねんちょう男性だんせいもしくは女性じょせいつとめ、日々ひび生活せいかつ、つまり、いつトナカイを移動いどうさせるか、どのメンバーがどこのみずうみりょうをするか、どれだけるかといったことを決定けっていした。トナカイをうサーミじん場合ばあい、シイーダの構成こうせいいんはそれぞれが各自かくじのトナカイを所有しょゆうしているが、飼育しいく管理かんり共同きょうどうおこなっている。また漁業ぎょぎょうおこなうサーミじんのシイーダはおな漁船ぎょせんおとこたちによって構成こうせいされている。このような組織そしき広大こうだい土地とちしょう人数にんずう管理かんりするさい有効ゆうこう手段しゅだんとして開発かいはつされ、なが歴史れきしなか発展はってんしたものだった。またことなるシイーダあいだにおいても長老ちょうろう同士どうしが、様々さまざま問題もんだい解決かいけつするための一種いっしゅ協議きょうぎかい形成けいせいしていた。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

1731ねんフランス科学かがくアカデミー子午線しごせんちょう測量そくりょうするためトルネだに派遣はけんした調査ちょうさたい参加さんかしていたレジノー・ウーティエは、現地げんち文化ぶんかについて記録きろくのこしている[18]

言語げんご[編集へんしゅう]

民族みんぞく衣装いしょう[編集へんしゅう]

サーミじん民族みんぞく衣装いしょう

サーミじん民族みんぞく衣装いしょう特徴付とくちょうづけるのは、とくにその色彩しきさいゆたかな上着うわぎ、コルト(Kolt)である。フェルトつくられるこの上着うわぎは、おも女性じょせいによってられ、地方ちほうごとにこまかな差異さい見受みうけられる。たとえば、帽子ぼうしのデザイン、フェルトの地色じいろかざけのちがいによって、それをているひとが、どのむら出身しゅっしんであるのか、大体だいたいのことがわかるという。

このコルトは、ついじゅうすうねんまえまで、あまり積極せっきょくてきられることはなかった。もちろんサーミ民族みんぞく評議ひょうぎかいなど、民族みんぞくとしてのほこりと自由じゆううったえる組織そしき参加さんかする一部いちぶのサーミじんたちはそのかぎりではなかったが、長年ながねんおよんだ先住民せんじゅうみんぞく軽視けいし風潮ふうちょうなかで、自分じぶんたちがサーミ民族みんぞくであることを宣言せんげんするのは、並大抵なみたいてい勇気ゆうきではできないことだった。

その影響えいきょうからか、コルトをえるひと減少げんしょうしてしまっていた。しかし、「民族みんぞくてきなもの」がふたた見直みなおされつつあるなか、サーミじん若年じゃくねんそう中心ちゅうしんとなり、ふたた民族みんぞく衣装いしょう積極せっきょくてきけていこうというながれがまれている。現在げんざい伝統でんとうてきなサーミじん衣装いしょうけているのは、それをずっとつづけている老人ろうじんや、サーミじん文化ぶんかてき自由じゆう支持しじするわか世代せだいおも作家さっか芸術げいじゅつ、インテリなど)である。そういったそうからはわずかにずれた、「普通ふつうのサーミじん」にしても、特別とくべつ場合ばあい礼服れいふくとして、普段着ふだんぎとして、民族みんぞく衣装いしょう機会きかい確実かくじつえてきている。

工芸こうげいひん[編集へんしゅう]

トナカイのかわをなめし、ドゥオッチを製作せいさくしているサーミじん女性じょせい(1954ねん
ドゥオッチ

サーミじんつく工芸こうげいひんは、ドゥオッチ (Duodji) とばれている。工芸こうげいひんといっても鑑賞かんしょうのためのものではなく、あくまでもにち用品ようひんとして、機能きのうてき実際じっさいてきなデザインのものがほとんどである。

ドゥオッチには、様々さまざま素材そざい使つかわれる。ほね、トナカイのかく動物どうぶつ毛皮けがわ真珠しんじゅブリキ刺繍ししゅうレースなどがおもげられるが、伝統でんとうてき素材そざいとして説明せつめいするとしたら、真珠しんじゅやブリキといったものは除外じょがいされる。サーミじんたちは、歴史れきしつうじて、鉄鉱てっこうせききむぎんといった鉱物こうぶつ資源しげんたなかった。それとき侵略しんりゃくしゃであったほかのスカンディナヴィアじんたちがもたらすてつ製品せいひんは、サーミじんにとって得難えがた貴重きちょうひんとしてあつかわれていた。

もっと伝統でんとうてき資源しげんはトナカイである。トナカイを遊牧ゆうぼくする習慣しゅうかんのない海岸かいがんサーミ、河川かせんサーミ、みずうみサーミはそのかぎりではなかったが、森林しんりんサーミや山岳さんがくサーミのあいだでは、トナカイはまさ万能ばんのう資源しげんだった。トナカイの毛皮けがわ遊牧ゆうぼくちゅうまいであるテント(ラッボ)を、トナカイのかくでナイフのつくり、トナカイの毛皮けがわつくった衣服いふくくつを、トナカイのけんつくったいとわせていた。

サメリャマのように、「てるところのない」資源しげんとして使つかわれていたトナカイであったが、そのトナカイのかわぐためのナイフだけは、てつ製品せいひんたよらざるをなかった。当時とうじてつ製品せいひんはスカンディナヴィアじんから購入こうにゅうするれいがほとんどであったが、サーミじんなかにも、こうした技術ぎじゅつ習得しゅうとくするものがいないわけではなかった。かれらは専業せんぎょう鍛冶たんやとなったが、サーミじんにとっては神秘しんぴてきとさええる技能ぎのうのために、鍛冶屋かじやは、偉大いだい魔法まほうちからっているとさえかんがえられていた。

山岳さんがくサーミじんにとって最大さいだいとみはトナカイであった。しかし17世紀せいき、スカンディナヴィア半島はんとう北部ほくぶからぎん発掘はっくつされはじめ、山岳さんがくサーミじんがその遊牧ゆうぼくという特性とくせいからぎん運搬うんぱんったことで、サーミじんあいだぎんとみ象徴しょうちょうとしての意味いみがあることがひろがった。そのときから、サーミじんぎん細工ざいく所有しょゆうすることで、とみ顕示けんじするようになった。現在げんざいでもその名残なごり確実かくじつのこっており、サーミの人々ひとびとあいだでは、ぎん細工ざいく非常ひじょうこのまれるという。

これら工芸こうげいひんは、「観光かんこう資源しげん・サーミじん」をたずねて観光かんこうきゃく勿論もちろん、スカンディナヴィアじんたちにもひろ販売はんばいされている。これらの売上うりあげは、地元じもと経済けいざいおおきく貢献こうけんし、元々もともと用品ようひんであった工芸こうげいひんは、いまものとしての側面そくめんほうおおきくなりつつある。

現在げんざい比較的ひかくてき日本にっぽんでもはいりやすいサーミの工芸こうげいひんとして、ククサげられる。ククサは白樺しらかんばのこぶからつくられたカップで、「これをおくられたひとしあわせになる」といういいつたえがあるとされているが、それが実際じっさい伝承でんしょうであるのか、それとも商業しょうぎょうじょう宣伝せんでん文句もんくぎないのかはさだかではない。

宗教しゅうきょう教会きょうかい[編集へんしゅう]

ノアイデ使用しようしたドラム

サーミじん信仰しんこうは、そもそも森羅万象しんらばんしょう宿やど様々さまざま精霊せいれい対象たいしょうとした精霊せいれい信仰しんこうであった。ぶし人間にんげん動物どうぶつ健康けんこう繁栄はんえい自然しぜんがもたらす様々さまざま災害さいがい恩恵おんけい、あらゆるもの精霊せいれいちからによるものとしんじていた。そのため、すべての事象じしょう根源こんげんである精霊せいれいこえシャーマン存在そんざいは、サーミじん宗教しゅうきょうにおいて必要ひつよう不可欠ふかけつなものだった。

精霊せいれいたち、また、ちちであり、ははである太陽たいよう大地だいち交信こうしんし、森羅万象しんらばんしょう変化へんか原因げんいんめるために存在そんざいしていたのが、ノアイデばれるシャーマンであった。ノアイデはきわめてまれ才能さいのうであり、それゆえに、かれらはつね尊敬そんけい畏怖いふ対象たいしょうでありつづけていた。

ラエスタジアス牧師ぼくし(Lars Levi Læstadius). (1800-1861)

サーミじん社会しゃかいは、かみ意志いしと、シイーダない古老ころうたちの知恵ちえもとづいて運営うんえいされていた。古老ころうたちは、現世げんせい問題もんだい人々ひとびといさかいや、狩猟しゅりょう漁労ぎょろうを、いつ、どこでおこなうかといったようなこと)を解決かいけつしていたが、かみ現世げんせいかんする問題もんだいかんしては、ノアイデに一任いちにんされていた。ノアイデはシャーマン・ドラムをらしながらトランス状態じょうたいおちいり、どの精霊せいれい問題もんだいこしているのか、どうすればそれを解決かいけつすることができるのかをる。だれかが病気びょうきになったとき、そのたましい肉体にくたいはなれているというかんがかたがサーミには存在そんざいしているが、この「ぬすまれた」たましいもどし、病気びょうきなおすのも、ノアイデの仕事しごとだった。

こうした精霊せいれい信仰しんこうも、16世紀せいきはいり、キリスト教きりすときょう布教ふきょうがラップランドまでおよんだとき例外れいがいなく弾圧だんあつ対象たいしょうとなった。現在げんざいサーミじんだい多数たすうルーテル教会きょうかい、もしくは正教会せいきょうかいぞくしているが、17〜18世紀せいきまでには、この基盤きばんはすでに出来上できあがっていたとられる。このながれに抵抗ていこうし、精霊せいれいとノアイデへの信仰しんこう忠実ちゅうじつまもつづけたサーミじんも、けっしてすくなくはなかったが、宣教師せんきょうしたちは、かれらを迫害はくがいし、とくにノアイデの改宗かいしゅう撲滅ぼくめつつとめた。

キリスト教きりすときょう布教ふきょううごきがもっとたかまったのが、19世紀せいきラエスタジアス牧師ぼくしかれ自身じしんもサーミじんである)が、サーミじん改宗かいしゅうおとずれたときであった。かれ創始そうししたラエスタジアスはノルウェー、スウェーデン、フィンランドで現在げんざいでもひろ信仰しんこうされている[19]。しかしキリスト教きりすときょうのサーミじんへの布教ふきょうは、サーミ固有こゆう文化ぶんか破壊はかい意味いみしていた。北欧ほくおう民族みんぞくとはことなり、かれらはそれによって民族みんぞくてき集団しゅうだん形成けいせいすることはなかったうえに、サーミじんしょ国家こっかへの分割ぶんかつ帰属きぞくへといたった。また、サーミによる聖書せいしょは、まだていない[20] (cf. スカンディナヴィアのキリスト教化きょうか#最後さいご異教徒いきょうと)。

こうしたキリスト教化きょうかながれのなかで、それでもノアイデは19世紀せいきなかばまでのこっていた。精霊せいれいいての知識ちしき薬草やくそうもちいての民間みんかん療法りょうほう方法ほうほういまなお伝承でんしょうされているが、それと信仰しんこうむすびつく、ということは、完全かんぜんになくなってしまった。

音楽おんがく[編集へんしゅう]

サーミじん歌手かしゅのLisa Thomasson(Lapp-Lisa). 1878-1932

サーミじん音楽おんがく特徴付とくちょうづけるのは、ヨイク (Yoikあるいはjuoiggus)とばれる、基本きほんてき伴奏ばんそう即興そっきょうである。

ヨイクは、上述じょうじゅつしたシャーマニズム関連かんれんして誕生たんじょうした音楽おんがくである。サーミのシャーマン、ノアイデは、トランス状態じょうたいおちいとき幻覚げんかく作用さようのあるベニテングタケ一種いっしゅ服用ふくようしていた。このキノコに誘発ゆうはつされたはげしいトランス状態じょうたいなか精霊せいれいとの交信こうしんおこなうのだが、さらにその状態じょうたいふかめるため、大声おおごえうたわれていたうた、これがヨイクである。

シャーマニズムとの関連かんれんから、ヨイクは自然しぜんかいとコミュニケーションをるための道具どうぐ方法ほうほうとしてとらえられる。太陽たいようつきやまかわなどを対象たいしょうに、その成立せいりつかんする物語ものがたりうたう、叙事詩じょじしのような形式けいしきることもあれば、対象たいしょうへの賛美さんび感謝かんしゃうた讃歌さんかのような形式けいしきることもある。

自然しぜんかいたいしてだけでなく、人間にんげん同士どうしコミュニケーションのためにももちいられる。あかぼう誕生たんじょうしたとき、その子供こどもたいしてうたわれたり、したしいひと同士どうしで、そのひと外観がいかん人格じんかくてき美点びてん欠点けってん人生じんせいなど描写びょうしゃしたヨイクをうたうこともある。また、たった一人ひとりでトナカイがそりったとき、その孤独こどくいやすためにもうたわれる。

ヨイクは、けっして吟唱ぎんしょうのようなものではない。メロディーだけ、リズムだけで構成こうせいされるようなヨイクも存在そんざいするが、による、“うたう”ヨイクが優勢ゆうせいであることはたしかである。しかし、このが、実際じっさいのサーミじん口語こうごおこなわれるということはない。ヨイクを構成こうせいする言葉ことばは、極度きょくど省略しょうりゃく簡略かんりゃくされた特別とくべつ言葉ことば、あるいは象徴しょうちょうてきなイメージぐんからなっている。そのため、サミじん自然しぜんたいする視点してん生活せいかつ感性かんせい共有きょうゆうしないサーミじんにとって、ヨイクをそのままに理解りかいすることはほぼ不可能ふかのうといっていいだろう。この“わかりにくさ”のために、ヨイクはしばしばヨーデル比較ひかくされる。しかしこれはおおきなあやまりである。元々もともとたにたにあいだひつじいたちの連絡れんらく手段しゅだんとして発生はっせいしたヨーデルとちがい、ヨイクは子音しいん母音ぼいんわせからり、うたはそれを慎重しんちょう選択せんたく配列はいれつすることによって、一言ひとこと膨大ぼうだい情報じょうほうたせる。

18–19世紀せいきにかけ、のスカンディナヴィアじん統治とうちかれ、民族みんぞくてきなものを否定ひていする価値かちかんにさらされていた状況じょうきょうなかで、ヨイクをつたえることに執着しゅうちゃくしたものたちは、かたちえ、ヨイクを存続そんぞくさせることを選択せんたくした。

つまり、弦楽器げんがっき打楽器だがっき管楽器かんがっきによる伴奏ばんそうともなったヨイクをした。

元々もともとヨイクはシャーマン・ドラムをらしながらおこなわれていたため、楽器がっき伴奏ばんそうがつくことになん不思議ふしぎはないようにおもわれる。しかし、たとえばノルウェーじん民族みんぞく楽器がっきランゲレイクフィンランドじん民族みんぞく楽器がっきカンテレ使つかうことでみずからの民族みんぞくてき地位ちい同時どうじ向上こうじょうさせようとしていたふしもある。事実じじつ南部なんぶスウェーデンにおいて、サーミじん社交しゃこうてき場所ばしょ積極せっきょくてきかけ、ダンスおどり、ヴァイオリン演奏えんそうすることさえしていた。今世紀こんせいきはじめにはコラ半島はんとうのスコルト・サーミじんはロシアりゅうアコーディオン演奏えんそうし、カドリール一種いっしゅのスクエア・ダンス)をおどることがステータスになってもいた。

老年ろうねんそうのほとんどはヨイクをうたおうとせず、中年ちゅうねんそうはヨイクをらないといった状況じょうきょうまれつつあったなか、ヨイクは復興ふっこうきざしをせる。わかいインテリそう民族みんぞくてきアイデンティティの復興ふっこう確立かくりつかかげ、ヨイクを再興さいこうはじめた。しかし、このながれもすぐにはむすばなかった。ヨイクをすること、それはキリスト教会きょうかい政府せいふによって処罰しょばつ対象たいしょうとされていた。

民族みんぞくてきアイデンティティ復興ふっこううごきは、ニルス=アスラク・ヴァルケアパー通称つうしょう:アイル)というフィンランド国籍こくせきのサーミじん現代げんだい詩人しじんがヨイクをはじめたことで一気いっきすすんだ。かれ目的もくてきは、ふるいスタイルのヨイクを、あくまでその基本きほんそこねることなく復活ふっかつさせることであった。かれ目論見もくろみ成功せいこうしたといえる。ニルスは1994ねんノルウェーのリレハンメルおこなわれた冬季とうきオリンピック開会かいかいしき壇上だんじょうでヨイクを熱唱ねっしょうし、おおくのサーミじん勇気ゆうき希望きぼうあたえた。

民族みんぞく意識いしきたかまるなか、そのながれにさらに拍車はくしゃをかける存在そんざいあらわれる。それが、マリ・ボイネ (英語えいご) というサーミじん女性じょせいである。彼女かのじょ政治せいじてきメッセージを歌詞かしめたヨイクを次々つぎつぎ発表はっぴょうみずからの政治せいじてき立場たちば明確めいかくにするとともに、様々さまざま問題もんだいについて賛否さんぴ要求ようきゅうされはじめたサーミじんうったえかけはじめた。

彼女かのじょのヨイクのスタイルとして特徴とくちょうてきなのは、ギター伴奏ばんそうともなっている、ということである。彼女かのじょのメイン・テーマは先住民せんじゅうみん植民しょくみん主義しゅぎものことなる民族みんぞくあいだきた文化ぶんかてき衝突しょうとつ悲劇ひげき表現ひょうげんすることである。

1973ねん、フィンランドのカウスティネン民族みんぞく音楽おんがく研究所けんきゅうじょ開設かいせつされ、ヘイッキ・ライティネン初代しょだい所長しょちょう就任しゅうにんすると、かれは「民族みんぞく音楽おんがくはあまねく博物館はくぶつかんから民衆みんしゅうもとりなければならない。それだけが、民族みんぞく音楽おんがくのこれる唯一ゆいいつみちである」というスローガンをかかげ、フィンランドの民族みんぞく音楽おんがく次々つぎつぎ復興ふっこうはじめた。ふえカンテレなどの古代こだい音楽おんがく民族みんぞく歌謡かよう見直みなおされ、その研究けんきゅうおこなわれるとともに、それらの音楽おんがく演奏えんそう吟唱ぎんしょうするグループができはじめた。

アンゲリン・テュトット (英語えいご) も、ってみればこうしたながれのなか誕生たんじょうしたグループであった。アンゲリン・テュトット、のちアンゲリット改名かいめいすることになるこのグループは、ウルスラとトゥーニのランスマン姉妹しまいによって1982ねん結成けっせいされた。元々もともと少女しょうじょ時代じだいからヨイクに興味きょうみっていたこの姉妹しまいだったが、最初さいしょ学校がっこう先生せんせい命令めいれいされるようなかたちはじめたらしい。しかし、そんな事情じじょうをよそにやがてにんはヨイクに熱中ねっちゅう。89ねんには現在げんざいソロで活躍かつやくちゅうのウッラ・ピルッティヤルヴィをくわさんにん活動かつどうはじめる。その、やはり現代げんだいてき民族みんぞく歌謡かようのグループとして結成けっせいされたヴァルッティナ (英語えいご) のリーダー、サリ・カーシネン (英語えいご) に見出みいだされ、彼女かのじょ主催しゅさいしているレーベルからCDすことになった。

彼女かのじょたちのヨイクの特色とくしょくは、まずその多様たよう音楽おんがくせいにある。伝統でんとう重視じゅうしする一方いっぽう様々さまざま音楽おんがくたとえばプログラミングを重視じゅうししたクラブけいサウンドをれてみたり、のヨーロッパ音楽おんがくれたりもしている。

彼女かのじょたち尊敬そんけいするヨイクの第一人者だいいちにんしゃニルス=アスラク・ヴァルケアパーやマリ・ボイネも、ヨイクをジャズロックとあわせるなどして色々いろいろ表現ひょうげんスタイルをこころみているが、アンゲリットの二人ふたりけっしてそれにひけをとってはいない。子供こどもころから世界せかい各地かくちまわってジャンルをわないフェスティバルに参加さんかし、自分じぶんたちのヨイクをかせているほか、地元じもとのクラブけいのKLFのアルバムに参加さんかするなどしてひろ視野しやつづけている。このためであろうか、自分じぶんたちのアルバムにもドラム・ベースやアンビエント・サウンドをれてつね時代じだいせいかんじさせるヨイクを発表はっぴょうしている。これまでにヨーロッパの国々くにぐにはもちろん、エストニア、ロシア、アメリカ、中国ちゅうごくでも積極せっきょくてきにパフォーマンスをおこなっている。日本にっぽんにも来日らいにちし、そのなかアイヌミュージシャンとの共演きょうえん経験けいけんしている。

遺伝子いでんし[編集へんしゅう]

サーミじん大分おおいたるいではコーカソイドぞくすが、ウラル語族ごぞく関連かんれんするモンゴロイドけいハプログループN (Y染色せんしょくたい)が48%のなか頻度ひんどでみられる[21]いでおおいのがげんスカンジナビアけいY染色せんしょくたい‐I1で、やく31%みられる[22]。mtDNAはヨーロッパのふるいタイプがおおいが、ひがしアジア起源きげんとするウラルけいハプログループZ (mtDNA)もわずかにみられる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Statistic Norway, SSB., https://web.archive.org/web/20120309115644/http://www.ssb.no/english/subjects/00/00/10/samer_en/  Retrieved from Internet Archive 8 January 2014.
  2. ^ The International Sami Journal, Baiki, http://www.baiki.org/content/about.htm 
  3. ^ Ethnologue. “Languages of Sweden”. Ethnologue.com. 2013ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  4. ^ [リンク] Eduskunta — Kirjallinen kysymys 20/2009, FI: Parliament, http://www.eduskunta.fi/faktatmp/utatmp/akxtmp/kk_20_2009_p.shtml[リンク] 
  5. ^ Russian census of 2002, RU, http://www.perepis2002.ru/index.html?id=87 
  6. ^ State statistics committee of Ukraine - National composition of population, 2001 census (Ukrainian)
  7. ^ https://web.archive.org/web/20070927172745/http://www.galdu.org/govat/doc/eng_reindeer.pdf
  8. ^ https://web.archive.org/web/20081218111552/http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3760/is_200001/ai_n8885279
  9. ^ Yinqiu Cui, Hongjie Li, Chao Ning, Ye Zhang, Lu Chen, Xin Zhao, Erika Hagelberg and Hui Zhou (2013)"Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. " BMC 13:216
  10. ^ 1994 タキトゥス 『ゲルマーニア』 岩波書店いわなみしょてん p223 l3-7
  11. ^ 1993 葛野くずの浩昭ひろあき 「山岳さんがくラップ」と「サミ民族みんぞく」-サミじん民族みんぞく問題もんだいの「くにぬきてき特性とくせいについて- 『社会しゃかい人類じんるいがく年報ねんぽう』vol.19 p52
  12. ^ a b LUNDMARK 1989:34-35
  13. ^ 1993 葛野くずの浩昭ひろあき 「山岳さんがくラップ」と「サミ民族みんぞく」-サミじん民族みんぞく問題もんだいの「くにぬきてき特性とくせいについて- 『社会しゃかい人類じんるいがく年報ねんぽう』vol.19
  14. ^ 2003 武田たけだ 『物語ものがたり スウェーデン』 しん評論ひょうろん p105
  15. ^ 2003 武田たけだ 『物語ものがたり スウェーデン』 しん評論ひょうろん p176。この条約じょうやくは、実際じっさいじょう無効むこうしたが、1908ねん正式せいしき廃止はいしされた。
  16. ^ 風力ふうりょく発電はつでん施設しせつ抗議こうぎ、グレタ・トゥンベリさんが参加さんかした理由りゆうとは”. CNN (2023ねん3がつ2にち). 2023ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  17. ^ 1993 綾部あやべ恒雄つねお 『世界せかいみん-ひかりかげ下巻げかん 信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶんしゃ監修かんしゅう 明石あかし書房しょぼう
  18. ^ Journal d'un voyage au Nord: en 1736 et 1737(1744[1], 1746。復刻ふっこくばん: Nabu Press (2010), ISBN 9781142718312
  19. ^ 1995 Witebsky Piers:ちょ 柏木かしわぎ里美さとみ:やく世界せかい先住民せんじゅうみん5 いまはわたしのくにといえない ラップランドのサーミじん東京とうきょうリブリオ出版しゅっぱん
  20. ^ 1998 百瀬ももせひろし熊野くまのさとし村井むらい誠人まさと北欧ほくおう (世界せかい各国かっこく)』 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ p136 - p137、p140
  21. ^ Tambets K, Rootsi S, Kivisild T, Help H, Serk P, Loogväli EL et al. (2004). "The western and eastern roots of the Saami--the story of genetic "outliers" told by mitochondrial DNA and Y chromosomes". Am. J. Hum. Genet. 74 (4): 661–82. doi:10.1086/383203. PMC 1181943. PMID 15024688.
  22. ^ Rootsi, Siiri (2004). Human Y-chromosomal variation in European populations (PhD Thesis). Tartu University Press. hdl:10062/1252.[page needed]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 小谷おたにあきら北欧ほくおうちいさなたび ラップランド幻想げんそう紀行きこう東京書籍とうきょうしょせき、1995ねん
  • Witebsky Piers 『世界せかい先住民せんじゅうみんぞく⑤ いまはわたしのくにといえない ラップランドのサーミじん東京とうきょうリブリオ出版しゅっぱん、1995ねん
  • 百瀬ももせひろし村井むらい誠人まさとへんんでたびする世界せかい歴史れきし文化ぶんか 北欧ほくおう新潮社しんちょうしゃ、1996ねん
  • 葛野くずの浩昭ひろあき民俗みんぞくがく研究けんきゅう』54/2 『トナカイのみみしるしゆう放牧ほうぼく社会しゃかい歴史れきし 〜フィンランド、ウツヨキ地域ちいきのトナカイ放牧ほうぼく組合くみあいれいに〜』 日本にっぽん民族みんぞく学会がっかい、1989ねん
  • 葛野くずの浩昭ひろあき社会しゃかい人類じんるいがく年報ねんぽう』Vol.19 『「山岳さんがくラップ」と「サミ民族みんぞく」 〜サミじん民族みんぞく問題もんだいの「くにぬきてき特性とくせいについて』 東京都立大学とうきょうとりつだいがく社会しゃかい人類じんるいがく学会がっかい、1993ねん
  • 綾部あやべ恒夫つねおへん世界せかいみん 〜ひかりかげ下巻げかん 「サミじん明石書店あかししょてん、1993ねん
  • 葛野くずの浩昭ひろあき季刊きかん人類じんるいがく』20-4 『「トナカイ・サミじん」と「みずがんひと」 〜トナカイ遊牧ゆうぼくけいサミじん定住ていじゅう漁労ぎょろう狩猟しゅりょうけいサミじんの「すみわけ」とその混乱こんらん京都大学きょうとだいがく人類じんるいがく研究けんきゅうかい、1989ねん
  • タキトゥスゲルマーニア岩波書店いわなみしょてん、1994ねん
  • 百瀬ももせひろし熊野くまのさとし村井むらい誠人まさと北欧ほくおう (世界せかい各国かっこく)』 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1998ねん
  • 武田たけだ龍夫たつお物語ものがたり スウェーデン -バルト大国たいこくいろどった国王こくおう女王じょおうたち-しん評論ひょうろん、2003ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]