称号 しょうごう :皇帝 こうてい
敬称 けいしょう
陛下 へいか His Majesty the Emperor His Imperial Majesty (H.I.M.)
愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥儀 ふぎ (あいしんかくら ふぎ、アイシンギョロ・プーイー、満 まん 洲 しゅう 語 ご :ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ ᡦᡠ ᡞ 、転写 てんしゃ :aisin gioro pu i、1906年 ねん 2月 がつ 7日 にち - 1967年 ねん 10月17日 にち )は、清 きよし の第 だい 12代 だい にして最後 さいご の皇帝 こうてい (在位 ざいい :1908年 ねん 12月2日 にち - 1912年 ねん 2月 がつ 12日 にち )、後 のち に満 まん 洲 しゅう 国 こく 執政 しっせい (1932年 ねん 3月9日 にち - 1934年 ねん 3月1日 にち )、満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい (在位 ざいい :1934年 ねん 3月 がつ 1日 にち - 1945年 ねん 8月 がつ 18日 にち )。1960年 ねん から中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 中国 ちゅうごく 人民 じんみん 政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ (政 せい 協 きょう )文 ぶん 史 し 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい 専門 せんもん 委員 いいん 、1964年 ねん から政 せい 協 きょう 全国 ぜんこく 委員 いいん を兼任 けんにん 。
字 じ は「耀之」。号 ごう は「浩然 こうぜん 」。辛 からし 亥 い 革命 かくめい 後 ご の呼称 こしょう としては、廃帝 はいてい と中華民国 ちゅうかみんこく 側 がわ から呼 よ ばれる一方 いっぽう 、旧 きゅう 清朝 せいちょう の立場 たちば からは遜 へりくだ 帝 みかど (「遜 へりくだ 」は「ゆずる」の意 い )とも呼 よ ばれた。末代 まつだい 皇帝 こうてい (末 まつ 帝 みかど )と呼 よ ばれる場合 ばあい もある。また、唯一 ゆいいつ 火葬 かそう された皇帝 こうてい のため「火 ひ 龍 りゅう (龍 りゅう は皇帝 こうてい を指 さ す)」とも呼 よ ばれる。
中華 ちゅうか 圏 けん 最後 さいご の皇帝 こうてい であり、その生涯 しょうがい を題材 だいざい にした映画 えいが から『ラストエンペラー 』として知 し られる。幼 よう 帝 みかど として2歳 さい で清朝 せいちょう 第 だい 12代 だい 皇帝 こうてい に即位 そくい し、元号 げんごう から宣 せん 統 みつる 帝 みかど と称 しょう される。辛 からし 亥 い 革命 かくめい 後 こう は遜 へりくだ 清 きよし 皇室 こうしつ 小 しょう 朝廷 ちょうてい として大 だい 清 きよし 皇帝 こうてい の尊号 そんごう は保持 ほじ されたが、張 ちょう 勲 いさお 復辟 ふくへき で復位 ふくい して12日間 にちかん で再 ふたた び退位 たいい した。
その後 ご も清 しん 室 しつ 優待 ゆうたい 条件 じょうけん により紫 むらさき 禁城 きんじょう に住 す むことは許 ゆる されたものの、北京 ぺきん 政変 せいへん で紫 むらさき 禁城 きんじょう を追 お われてしまう。さらに当初 とうしょ 庇護 ひご を受 う けようとしたイギリス やオランダ 公館 こうかん に庇護 ひご を拒否 きょひ されてしまい、天津 てんしん の日本 にっぽん 租界 そかい で日本 にっぽん 公館 こうかん の庇護 ひご を受 う けた。
これ以降 いこう の縁 えん で、満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 以降 いこう 関東軍 かんとうぐん の主導 しゅどう で建国 けんこく された満 まん 洲 しゅう 国 こく の執政 しっせい に就任 しゅうにん 、満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん 大元帥 だいげんすい や満 まん 洲 しゅう 国 こく 協和 きょうわ 会 かい 名誉 めいよ 総裁 そうさい などを兼任 けんにん し、帝政 ていせい 移行 いこう 後 ご の満 まん 洲 しゅう 国 こく の皇帝 こうてい として即位 そくい した。満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい としては元号 げんごう から康徳 やすのり 帝 みかど (康徳 やすのり 皇帝 こうてい )と称 しょう されることもある。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における日本 にっぽん の敗戦 はいせん と、ソビエト連邦 れんぽう 軍 ぐん (赤軍 せきぐん )の侵略 しんりゃく を受 う けた満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく の解散 かいさん とともに退位 たいい した。
ソ連 それん 赤軍 せきぐん の捕虜 ほりょ となって中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に引 ひ き渡 わた され、1959年 ねん の遼寧 りょうねい 省 しょう 撫 なで 順 じゅん 戦犯 せんぱん 管理 かんり 所 しょ からの釈放 しゃくほう 後 ご の1960年 ねん 2月 がつ から1961年 ねん 3月 がつ まで中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の周 しゅう 恩来 おんらい の指示 しじ により、一般 いっぱん 市民 しみん にとしての生活 せいかつ に慣 な れるための「労働 ろうどう 鍛錬 たんれん 」として中国科学院 ちゅうごくかがくいん 植物 しょくぶつ 研究所 けんきゅうじょ の北京 ぺきん 植物 しょくぶつ 園 えん に庭師 にわし として勤務 きんむ したが、すぐに政 せい 協 きょう 文 ぶん 史 し 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい 専門 せんもん 委員 いいん に就任 しゅうにん した。さらに晩年 ばんねん の1964年 ねん には、満 まん 洲 しゅう 民族 みんぞく の代表 だいひょう として政 せい 協 きょう 全国 ぜんこく 委員 いいん に選出 せんしゅつ され、北京 ぺきん で生涯 しょうがい を終 お えた。
1906年 ねん に、清朝 せいちょう の第 だい 11代 だい 皇帝 こうてい 光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど の皇 すめらぎ 弟 おとうと である醇 あつし 親王 しんのう 載 の 灃 と、光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど の従弟 じゅうてい で、西 にし 太 ふとし 后 きさき の腹心 ふくしん 栄 さかえ 禄 ろく の娘 むすめ であるグワルギャ氏 し (瓜 ふり 爾 しか 佳 けい 氏 し )・幼 よう 蘭 らん の子 こ として、清国 きよくに (大 だい 清 きよし 帝国 ていこく )の首都 しゅと である順 じゅん 天 てん 府 ふ (北京 ぺきん )に生 う まれる。祖父 そふ は愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 奕譞 、曽 そ 祖父 そふ は道 みち 光 こう 帝 みかど となる。
溥儀 ふぎ (右 みぎ )と醇 あつし 親王 しんのう に抱 いだ かれる溥傑 (1909年 ねん )
1900年 ねん に発生 はっせい した義和 よしかず 団 だん の乱 らん を乗 の り越 こ え、当時 とうじ 依然 いぜん として強 つよ い権力 けんりょく を持 も っていた西 にし 太 ふとし 后 きさき が1908年 ねん に光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど の後継 こうけい 者 しゃ として溥儀 ふぎ を指名 しめい したことにより、溥儀 ふぎ はわずか2歳 さい 10か月 げつ で皇帝 こうてい に即位 そくい させられ、清朝 せいちょう の第 だい 12代 だい ・宣 せん 統 すべ 帝 みかど となった。また、当時 とうじ は「承継 しょうけい 同 どう 治 ち 兼 けん 祧光緒 いとぐち (同時 どうじ に同 どう 治 ち 帝 みかど と光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど の2人 ふたり の養子 ようし になる)」という形 かたち で皇位 こうい を継承 けいしょう した。即位 そくい 式 しき は紫 むらさき 禁城 きんじょう 太 ふと 和 かず 殿 どの で行 おこな われ、新 あたら しい皇帝 こうてい の即位 そくい は世界 せかい 各国 かっこく で大 おお きく報 ほう じられた。その後 ご 宣 せん 統 すべ 帝 みかど は多 おお くの宦官 かんがん や女官 にょかん らとともに紫 むらさき 禁城 きんじょう で暮 く らすこととなる。
西 にし 太 ふとし 后 きさき は溥儀 ふぎ を後継 こうけい 者 しゃ とするとともに、溥儀 ふぎ の父 ちち ・醇 あつし 親王 しんのう を監 かん 国 こく 摂政 せっしょう 王 おう に任命 にんめい して政治 せいじ の実権 じっけん を委 ゆだ ね、同年 どうねん 11月14日 にち に光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど が崩御 ほうぎょ した翌日 よくじつ に74歳 さい で崩御 ほうぎょ した。
光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど の崩御 ほうぎょ に関 かん して、当初 とうしょ から毒殺 どくさつ されたのではないかという説 せつ があり、2007年 ねん に行 おこな われた調査 ちょうさ では、光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど の遺髪 いはつ から大量 たいりょう の砒素 ひそ が検出 けんしゅつ されたため、毒殺 どくさつ の可能 かのう 性 せい がより濃厚 のうこう になった。
誰 だれ が光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど を暗殺 あんさつ したかについては、西 にし 太 ふとし 后 きさき と光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど の死亡 しぼう 時期 じき が近 ちか いため、「西 にし 太 ふとし 后 きさき が光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど を自分 じぶん よりも長生 ながい きさせないために暗殺 あんさつ した」とする説 せつ がある一方 いっぽう で、「戊 つちのえ 戌 いぬ 変 へん 法 ほう で光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど を裏切 うらぎ っている袁世凱 が、光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど が復権 ふっけん して自身 じしん に報復 ほうふく するのを恐 おそ れて暗殺 あんさつ した」という説 せつ もあり、溥儀 ふぎ は自伝 じでん 『わが半生 はんせい 』で「袁世凱による殺害 さつがい 」という見方 みかた を示 しめ している。しかしいずれも確 かく たる証拠 しょうこ がなく、誰 だれ が光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど を暗殺 あんさつ したかは不明 ふめい である。
中華民国 ちゅうかみんこく 臨時 りんじ 大 だい 総統 そうとう に就任 しゅうにん した袁世凱
その翌年 よくねん の1909年 ねん 初 はじ めに醇 あつし 親王 しんのう は、兄 あに である光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど を裏切 うらぎ って戊 つちのえ 戌 いぬ 変 へん 法 ほう を潰 つぶ したとして憎 にく んでいた北洋 ほくよう 大臣 だいじん 兼 けん 直 ちょく 隷総督 とく の袁世凱を失脚 しっきゃく させ、さらに袁世凱を殺害 さつがい しようとしたが、内部 ないぶ 情報 じょうほう を得 え た袁世凱はかろうじて北京 ぺきん を逃 のが れ河南 かなん 省 しょう 彰 あきら 徳 とく に蟄居 ちっきょ することとなった。
その後 ご 袁世凱は、清国 きよくに 政府 せいふ による民間 みんかん 資本 しほん 鉄道 てつどう の国有 こくゆう 化 か とその反対 はんたい 運動 うんどう をきっかけに1911年 ねん 10月 がつ 10日 とおか に辛 からし 亥 い 革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ すると、湖北 こほく 省 しょう の武 たけ 昌 あきら で起 お きた反乱 はんらん (武 たけ 昌 あきら 起 おこり 義 よし )の鎮圧 ちんあつ を名目 めいもく に政界 せいかい に復帰 ふっき した。袁世凱は清国 きよくに 政府 せいふ に第 だい 2代 だい 内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん の地位 ちい を要求 ようきゅう するとともに、醇 あつし 親王 しんのう の摂政 せっしょう 王 おう 退位 たいい を要求 ようきゅう した。
反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ のために袁世凱の武力 ぶりょく に頼 たよ らなければならない清朝 せいちょう 政府 せいふ は袁世凱の要求 ようきゅう を受 う け入 い れたが、袁世凱はさらに孫 まご 文 ぶん らと、宣 せん 統 すべ 帝 みかど を退位 たいい させる代 か わりに自 みずか らが中華民国 ちゅうかみんこく 臨時 りんじ 政府 せいふ の臨時 りんじ 大 だい 総統 そうとう に就任 しゅうにん するという裏 うら 取引 とりひき をし、隆裕 たかひろ 皇太后 こうたいごう に宣 せん 統 すべ 帝 みかど の退位 たいい を迫 せま り、隆裕 たかひろ 皇太后 こうたいごう は皇族 こうぞく を集 あつ めて連日 れんじつ 御前 ごぜん 会議 かいぎ を開 ひら いた。
その席上 せきじょう で粛親王 おう 善 ぜん 耆 、恭 きょう 親王 しんのう 溥偉 などは退位 たいい に激 はげ しく反対 はんたい したが、清朝 せいちょう 皇族 こうぞく が頼 たよ りとしていた日本 にっぽん の陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう 留学生 りゅうがくせい で皇族 こうぞく 出身 しゅっしん の良 りょう 弼 が暗殺 あんさつ されるという事態 じたい におよび、隆裕 たかひろ 皇太后 こうたいごう はついに皇帝 こうてい の退位 たいい を決断 けつだん し、1912年 ねん 2月 がつ に宣 せん 統 すべ 帝 みかど は退位 たいい することとなった[1] 。粛親王 おう は日本 にっぽん 租借 そしゃく 地 ち の関東 かんとう 州 しゅう 旅順 りょじゅん へ、恭 きょう 親王 しんのう はドイツ 租借 そしゃく 地 ち の青島 ちんたお に逃 のが れてその後 ご も清朝 せいちょう 復辟 ふくへき 運動 うんどう を行 おこな った。
宣 せん 統 すべ 帝 みかど の退位 たいい にあたり、清朝 せいちょう 政府 せいふ と中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ との間 あいだ に「清 しん 室 しつ 優待 ゆうたい 条件 じょうけん 」が締結 ていけつ された。優待 ゆうたい 条件 じょうけん は、
皇帝 こうてい は退位 たいい 後 ご も『大 だい 清 きよし 皇帝 こうてい 』の尊号 そんごう を保持 ほじ し、中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ はこれを外国 がいこく 元首 げんしゅ と同等 どうとう に礼遇 れいぐう すること。
溥儀 ふぎ が引 ひ き続 つづ き紫 むらさき 禁城 きんじょう (と頤和園 えん )で生活 せいかつ すること。
中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ が清朝 せいちょう 皇室 こうしつ に対 たい して毎年 まいとし 400万 まん 両 りょう を支払 しはら い、清朝 せいちょう の陵墓 りょうぼ を永久 えいきゅう に保護 ほご すること。
などが取 と りきめられた。そのため溥儀 ふぎ は退位 たいい 後 ご も紫 むらさき 禁城 きんじょう で宦官 かんがん らと皇帝 こうてい としての生活 せいかつ を続 つづ けた。この頃 ころ 、弟 おとうと の溥傑 と初対面 しょたいめん を果 は たした。
その後 ご 、袁世凱は溥儀 ふぎ に代 か わり自 みずか らが「皇帝 こうてい 」となるべく奔走 ほんそう し、1915年 ねん 12月12日 にち に「帝政 ていせい 復活 ふっかつ 」を宣言 せんげん して皇帝 こうてい に即位 そくい した。
その後 ご 、1916年 ねん 1月 がつ 1日 にち より年号 ねんごう を洪 ひろし 憲 けん と定 さだ め、国号 こくごう を「中華 ちゅうか 帝国 ていこく 」に改 あらた めた。だが北洋 ほくよう 軍閥 ぐんばつ や日本 にっぽん 政府 せいふ などの各 かく 方面 ほうめん からの強 つよ い反対 はんたい により、即位 そくい 直後 ちょくご の同年 どうねん 3月 がつ に退位 たいい することを余儀 よぎ なくされ、失意 しつい の中 なか で同年 どうねん 6月 がつ に死去 しきょ した。
袁世凱が死去 しきょ した翌年 よくねん の1917年 ねん に、対 たい ドイツ問題 もんだい で黎 はじむ 元 もと 洪 ひろし 大 だい 総統 そうとう と政敵 せいてき の段 だん 祺瑞国務 こくむ 総理 そうり の確執 かくしつ が激化 げきか した(府 ふ 院 いん の争 あらそ い )。同年 どうねん 5月23日 にち には、黎 はじむ 元 もと 洪 ひろし が段 だん 祺瑞を罷免 ひめん に追 お い込 こ んだものの、民 みん 国 こく 期 き になっても辮髪 べんぱつ を止 と めないほどの保守 ほしゅ 派 は で革命 かくめい 後 ご も清朝 せいちょう に忠節 ちゅうせつ を尽 つく す張 ちょう 勲 いさお が、この政治 せいじ 的 てき 空白 くうはく 時 じ に乗 じょう じて帝政 ていせい 復古 ふっこ によって政権 せいけん を奪還 だっかん しようと、中華民国 ちゅうかみんこく の立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい を目指 めざ す康有為 こうゆうい を呼 よ び寄 よ せて、すでに退位 たいい していた溥儀 ふぎ を再 ふたた び即位 そくい させて7月 がつ 1日 にち に帝政 ていせい の復古 ふっこ を宣言 せんげん し、いわゆる「張 ちょう 勲 いさお 復辟 ふくへき 事件 じけん 」に発展 はってん した。
張 ちょう 勲 いさお は、幼少 ようしょう の溥儀 ふぎ を擁 よう して自 みずか ら議 ぎ 政 せい 大臣 だいじん と直 ちょく 隷総督 とく 兼 けん 北洋 ほくよう 大臣 だいじん となった。国会 こっかい および憲法 けんぽう を破棄 はき し、共和 きょうわ 制 せい 廃止 はいし と清朝 せいちょう の復辟 ふくへき を成 な し遂 と げるも、仲間割 なかまわ れから段 だん 祺瑞に敗 やぶ れオランダ 公使 こうし 館 かん に避難 ひなん 。最終 さいしゅう 的 てき に溥儀 ふぎ の復辟 ふくへき は13日間 にちかん で挫折 ざせつ した。その後 ご 、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく は馮玉祥 ぎょくしょう や蔣介石 せき 、張 ちょう 作 さく 霖 などの軍閥 ぐんばつ による勢力 せいりょく 争 あらそ いという、混沌 こんとん とした状況 じょうきょう を迎 むか えることとなる。
溥儀 ふぎ が使用 しよう していた英語 えいご の教科書 きょうかしょ
婉容(前 まえ )とジョンストン(左 ひだり )、イザベル・イングラム(右 みぎ )
文 ぶん 繡
関東大震災 かんとうだいしんさい
その後 ご 、溥儀 ふぎ の後見 こうけん 役 やく 的 てき 立場 たちば になっていた父 ちち の醇 あつし 親王 しんのう 載 の 灃と、西 にし 太 ふとし 后 きさき の側近 そっきん だった李 り 鴻章 こうしう の息子 むすこ で、清国 きよくに の欽差全権 ぜんけん 大臣 だいじん を務 つと め、駐 ちゅう イギリス 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし でもあった李 り 経 けい 方 かた の勧 すす めによって、近代 きんだい 的 てき な西洋 せいよう 風 ふう の教育 きょういく と併 あわ せて英語 えいご の教育 きょういく を受 う けることを目的 もくてき に、1919年 ねん 3月 がつ にイギリス 拓 ひらけ 務 つとむ 省 しょう の官僚 かんりょう で、中国 ちゅうごく 語 ご に堪能 かんのう だったスコットランド人 じん のレジナルド・ジョンストン を帝 みかど 師 し (家庭 かてい 教師 きょうし )として紫 むらさき 禁城 きんじょう 内 ない に招聘 しょうへい した。
ジョンストンは、1919年 ねん 3月 がつ 3日 にち に13歳 さい の溥儀 ふぎ と初 はじ めて面談 めんだん した際 さい の様子 ようす を次 つぎ のように記 しる し、イギリス本国 ほんごく に報告 ほうこく した。
この
若 わか い
皇帝 こうてい は、
英語 えいご も、その
他 た のヨーロッパ
語 ご もまったく
知 し らないけれども、
学習 がくしゅう 意欲 いよく は
極 きわ めて
高 たか くて、
知的 ちてき 関心 かんしん も
旺盛 おうせい である。(
中略 ちゅうりゃく )シナの
政治 せいじ 的 てき 地位 ちい や
他国 たこく との
比較 ひかく における
重要 じゅうよう 度 ど についても、
誤 あやま った
考 かんが えや
誇張 こちょう された
考 かんが えに
囚 とら われていないように
見受 みう けられる。(
中略 ちゅうりゃく )とても「
人間味 にんげんみ のある」
少年 しょうねん で、
活発 かっぱつ な
性質 せいしつ 、
知性 ちせい 、
鋭 するど いユーモアのセンスの
持 も ち
主 ぬし である。さらに
礼儀 れいぎ 作法 さほう がすばらしく
立派 りっぱ で、
高 こう 慢心 まんしん とは
無縁 むえん である。
環境 かんきょう が
極端 きょくたん に
人為 じんい 的 てき であったことや
仰々 ぎょうぎょう しく
見 み せかける
宮廷 きゅうてい 日課 にっか を
考慮 こうりょ すると、これはむしろ
驚 おどろ くべきことである。
— レジナルド・ジョンストン、『完訳 かんやく 紫 むらさき 禁城 きんじょう の黄昏 たそがれ 』第 だい 11章 しょう (中山 なかやま 理 さとし 訳 わけ )
溥儀 ふぎ は当初 とうしょ 、見 み ず知 し らずの外国 がいこく 人 じん であるジョンストンを受 う け入 い れることを拒否 きょひ していたものの、ジョンストンとの初対面 しょたいめん 時 じ にその語学 ごがく 力 りょく と博学 はくがく ぶりに感心 かんしん し、一転 いってん して受 う け入 い れることを決断 けつだん した。ジョンストンは紫 むらさき 禁城 きんじょう 内 ない には居住 きょじゅう せず、城 しろ 外 がい の後 のち 門 もん 付近 ふきん に居住 きょじゅう し自動車 じどうしゃ で通勤 つうきん した。
ジョンストンより日々 ひび 教育 きょういく をうける中 なか で、自動車 じどうしゃ や洋服 ようふく 、自転車 じてんしゃ 、電話 でんわ 、英語 えいご 雑誌 ざっし などのヨーロッパの最新 さいしん の輸入 ゆにゅう 品 ひん を与 あた えられ、その後 ご 「洋服 ようふく には似合 にあ わない」との理由 りゆう で辮髪 べんぱつ を切 き るなど、紫 むらさき 禁城 きんじょう 内 ない で生活 せいかつ をしながらも、ジョンストンがもたらした英国 えいこく 風 ふう の生活 せいかつ 様式 ようしき と風俗 ふうぞく 、思想 しそう の影響 えいきょう を受 う けることとなる一方 いっぽう 、溥儀 ふぎ の西洋 せいよう 化 か に対 たい し敵意 てきい を持 も った一部 いちぶ の宦官 かんがん や女官 にょかん たちとそれらと仲 なか の良 よ い新聞 しんぶん などから、ジョンストンは攻撃 こうげき を受 う けることとなる。
この頃 ころ 溥儀 ふぎ はジョンストンより「ヘンリー (Henry)」という名 な を与 あた えられ、その後 ご もこの名前 なまえ を欧米 おうべい 人 じん に対 たい して好 この んで使用 しよう した。
その後 ご の1922年 ねん 11月には、満 まん 洲 しゅう 旗 はた 人 じん でダフール族 ぞく のゴブロ氏 し (郭 かく 布 ぬの 羅 ら 氏 し )・婉容 を皇后 こうごう として、蒙 こうむ 古 ふる 旗 はた 人 じん の鄂爾徳 とく 特 とく 氏 し ・文 ぶん 繡 を淑 よし 妃 ひ として迎 むか え、紫 むらさき 禁城 きんじょう において盛大 せいだい な結婚式 けっこんしき を挙 あ げる。
溥儀 ふぎ 自身 じしん は「時代遅 じだいおく れの慣習 かんしゅう である」として淑 よし 妃 ひ を迎 むか えることに反対 はんたい したものの、側近 そっきん らの勧 すす めで1人 ひとり だけ迎 むか えることに同意 どうい した。また、結婚 けっこん 後 ご には中国 ちゅうごく の皇帝 こうてい として初 はじ めてイギリスや日本 にっぽん 、フランス などの外交 がいこう 官 かん を中心 ちゅうしん とした外国 がいこく 人 じん を招待 しょうたい した「歓迎 かんげい 会 かい 」を催 もよお した。
結婚 けっこん 後 ご に婉容の家庭 かてい 教師 きょうし として北京 ぺきん 生 う まれのアメリカ人 じん イザベル・イングラム (en:Isabel Ingram )が就任 しゅうにん し、婉容にはイングラムより「エリザベス(Elizabeth)」の英名 えいめい が与 あた えられた。この頃 ころ 自分 じぶん 用 よう の自動車 じどうしゃ を入手 にゅうしゅ した他 ほか 、婉容とともにイギリスやアメリカ への留学 りゅうがく を画策 かくさく するものの、実現 じつげん することはなかった。
この頃 ころ 、溥儀 ふぎ は中華民国 ちゅうかみんこく 内 ない の混沌 こんとん とした政情 せいじょう の中 なか にあったものの、正妻 せいさい とジョンストンらの側近 そっきん 、宦官 かんがん らとともに紫 むらさき 禁城 きんじょう の中 なか で平穏 へいおん な日々 ひび を過 す ごしていたが、清国 きよくに の大阪 おおさか 総領事 そうりょうじ や総理 そうり 衙門章 あきら 京 きょう 、湖南 こなん 布 ぬの 政 せい 使 し 等 とう を歴任 れきにん した後 のち の1924年 ねん に総理 そうり 内務 ないむ 府 ふ 大臣 だいじん (教育 きょういく 掛 かけ )となった鄭 てい 孝 たかし 胥 の薦 すす めを受 う けて、退位 たいい を受 う けて予算 よさん が減 へ らされた紫 むらさき 禁城 きんじょう 内 ない の経費 けいひ 削減 さくげん と近代 きんだい 化 か を推 お し進 すす めた。
同年 どうねん 6月 がつ には、美術 びじゅつ 品 ひん が多 おお く置 お かれている紫 むらさき 禁城 きんじょう 内 ない の「建 けん 福 ぶく 院 いん 」の目録 もくろく 一覧 いちらん を作成 さくせい し、これまで頻繁 ひんぱん に行 おこな われていた宦官 かんがん による美術 びじゅつ 品 ひん の横領 おうりょう を一掃 いっそう することを目論 もくろ んだものの、目録 もくろく 作成 さくせい 直後 ちょくご の6月27日 にち 未明 みめい に一部 いちぶ の宦官 かんがん らが「建 けん 福 ぶく 院 いん 」に放火 ほうか し、横領 おうりょう の証拠 しょうこ 隠滅 いんめつ を図 はか った。
これに激怒 げきど した溥儀 ふぎ は、中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ の力 ちから を借 か りて約 やく 1,200名 めい いた宦官 かんがん のほとんどを一斉 いっせい 解雇 かいこ し、日頃 ひごろ の宦官 かんがん による横暴 おうぼう に対 たい して怒 いか りを感 かん じていた国民 こくみん やマスコミ から称賛 しょうさん をうけた。その後 ご も長年 ながねん 紫 むらさき 禁城 きんじょう に居 い ついていた女官 にょかん を追放 ついほう するなど、紫 むらさき 禁城 きんじょう 内 ない の経費 けいひ 削減 さくげん と近代 きんだい 化 か を推 お し進 すす め議論 ぎろん を呼 よ んだ。
当時 とうじ 溥儀 ふぎ は、中国 ちゅうごく 国内 こくない における洪水 こうずい や飢饉 ききん 、さらには生活 せいかつ 困窮 こんきゅう 者 しゃ に対 たい して常 つね に同情 どうじょう を寄 よ せ、これらの支援 しえん のために多 おお くの義捐 ぎえん 金 きん を送 おく ったものの、その全 すべ ては自 みずか らの命令 めいれい でさらに匿名 とくめい で行 おこな っていた。
1923年 ねん 9月1日 にち に日本 にっぽん で起 お きた関東大震災 かんとうだいしんさい においては、ジョンストンから震災 しんさい の発生 はっせい を伝 つた えられると、即座 そくざ に日本 にっぽん に対 たい する義捐 ぎえん 金 きん を送 おく ることを表明 ひょうめい し、併 あわ せて紫 むらさき 禁城 きんじょう 内 ない にある膨大 ぼうだい な宝石 ほうせき などを送 おく り、大日本帝国 だいにっぽんていこく 側 がわ で換金 かんきん し義捐 ぎえん 金 きん とするよう芳沢 よしざわ 謙吉 けんきち 公使 こうし に伝 つた えた。
これに対 たい し大日本帝国 だいにっぽんていこく 政府 せいふ (以降 いこう 、日本 にっぽん 政府 せいふ と略 りゃく す)は、換金 かんきん せずに評価 ひょうか 額 がく と同 おな じ金額 きんがく を皇室 こうしつ から支出 ししゅつ し、宝石 ほうせき などは皇室 こうしつ 財産 ざいさん として保管 ほかん することを申 もう し出 で た。その後 ご 日本 にっぽん 政府 せいふ は代表 だいひょう 団 だん を溥儀 ふぎ のもとに送 おく り、この恩 おん に謝 しゃ した。なおこの際 さい に、「溥儀 ふぎ は何 なん の政治 せいじ 的 てき な動機 どうき を持 も たず、純粋 じゅんすい に同情 どうじょう の気持 きも ちを持 も って行 い った」とジョンストンは自書 じしょ の中 なか で回想 かいそう している。
馮玉祥 ぎょくしょう (左 ひだり から2番目 ばんめ )や張 ちょう 作 さく 霖(同 どう 3番目 ばんめ )
その後 ご も中国 ちゅうごく の武力 ぶりょく 統一 とういつ を図 はか る軍閥 ぐんばつ 同士 どうし の戦闘 せんとう はますます活発 かっぱつ 化 か し、1924年 ねん 10月 がつ には馮玉祥 ぎょくしょう と孫 まご 岳 だけ が起 お こした第 だい 二 に 次 じ 奉 たてまつ 直 ちょく 戦争 せんそう に伴 ともな うクーデター (北京 ぺきん 政変 せいへん )が発生 はっせい し、直 ちょく 隷派の曹錕 大 だい 総統 そうとう が監禁 かんきん され、馮玉祥 ぎょくしょう と孫 まご 岳 だけ が北京 ぺきん を支配 しはい することとなった。さらに馮玉祥 ぎょくしょう と孫 まご 岳 だけ は政変 せいへん 後 ご 、帝 みかど 号 ごう を廃 はい して清 しん 室 しつ 優待 ゆうたい 条件 じょうけん の一方 いっぽう 的 てき な清算 せいさん を通達 つうたつ し、紫 むらさき 禁城 きんじょう に軍隊 ぐんたい を送 おく り溥儀 ふぎ とその側近 そっきん らを紫 むらさき 禁城 きんじょう から強制 きょうせい 的 てき に退去 たいきょ させた。
当初 とうしょ 溥儀 ふぎ は醇 あつし 親王 しんのう の王宮 おうきゅう である北府 きたご へ一時 いちじ 的 てき に身 み を寄 よ せ、その後 ご ジョンストンが総理 そうり 内務 ないむ 府 ふ 大臣 だいじん の鄭 てい 孝 たかし 胥 と陳 ちん 宝 たから 琛 の意向 いこう を受 う けて上海 しゃんはい 租界 そかい や天津 てんしん 租界 そかい 内 うち のイギリス公館 こうかん やオランダ 公館 こうかん に庇護 ひご を申 もう し出 で たものの、ジョンストンの母国 ぼこく であるイギリス公館 こうかん からは内政 ないせい 干渉 かんしょう となることを恐 おそ れ受 う け入 い れを拒否 きょひ された。
竹本 たけもと 多吉 たきち 大佐 たいさ 夫妻 ふさい とともに(1924年 ねん )
在 ざい 北京 ぺきん 日本 にっぽん 公使館 こうしかん
頼 たよ りにしていたイギリスとオランダから受 う け入 い れを拒否 きょひ されたジョンストンは、関東大震災 かんとうだいしんさい の義捐 ぎえん 金 きん などを通 つう じて溥儀 ふぎ と顔見知 かおみし りだった芳澤 よしざわ 謙吉 けんきち 特命 とくめい 全権 ぜんけん 公使 こうし に受 う け入 い れを打診 だしん した。
これに対 たい して芳澤 よしざわ 公使 こうし は最終 さいしゅう 的 てき に受 う け入 い れを表明 ひょうめい し、溥儀 ふぎ ら一 いち 行 ぎょう は11月29日 にち に北京 ぺきん の日本 にっぽん 公使館 こうしかん に入 はい り、日本 にっぽん 政府 せいふ による庇護 ひご を受 う けることになった。翌 よく 1925年 ねん 2月 がつ には鄭 てい 孝 たかし 胥と日本 にっぽん の中国 ちゅうごく 駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん 、駐 ちゅう 天津 てんしん 日本 にっぽん 総領事館 そうりょうじかん の仲介 ちゅうかい で、溥儀 ふぎ 一 いち 行 ぎょう の身柄 みがら の受 う け入 い れを表明 ひょうめい した日本 にっぽん 政府 せいふ の勧 すす めにより天津 てんしん 市 し の日本 にっぽん 租界 そかい の張 ちょう 園 えん に移 うつ ることとなる。
この事 こと は、1905年 ねん の日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の勝利 しょうり によるロシア 権益 けんえき の移譲 いじょう 以降 いこう 、満 まん 洲 しゅう への本格 ほんかく 進出 しんしゅつ の機会 きかい を狙 ねら っていた日本 にっぽん 陸軍 りくぐん (関東軍 かんとうぐん )と溥儀 ふぎ がその後 ご 緊密 きんみつ な関係 かんけい を持 も ち始 はじ めるきっかけとなるものの、この頃 ころ の日本 にっぽん 政府 せいふ 及 およ び日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の立場 たちば は、あくまで第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における同盟 どうめい 国 こく であり、当時 とうじ も強力 きょうりょく な友好国 ゆうこうこく であるイギリス国民 こくみん であるジョンストンの申 もう し出 で を受 う けて、イギリスとオランダが受 う け入 い れを拒否 きょひ した溥儀 ふぎ を一時 いちじ 的 てき に租界 そかい 内 ない に庇護 ひご するだけであり、溥儀 ふぎ との関係 かんけい を積極 せっきょく 的 てき に利用 りよう する意思 いし はなかった。
それどころか日本 にっぽん 政府 せいふ は、紫 むらさき 禁城 きんじょう から強制 きょうせい 的 てき に退去 たいきょ されたものの当時 とうじ も中華民国 ちゅうかみんこく および満 まん 洲 しゅう に強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を持 も っており、政治 せいじ 的 てき に微妙 びみょう な立場 たちば にいた溥儀 ふぎ を受 う け入 い れることが、中華民国 ちゅうかみんこく に対 たい する内政 ないせい 干渉 かんしょう になりかねないと困惑 こんわく していた。
イギリスの租借 そしゃく 領 りょう 時代 じだい の威海衛 いかいえい (1930年 ねん )
溥儀 ふぎ が清 しん 室 しつ 優待 ゆうたい 条件 じょうけん を失 うしな ったことを受 う けて同年 どうねん に帝 みかど 師 し を辞任 じにん したジョンストンは、天津 てんしん 港 こう からP&O の汽船 きせん でイギリスに帰国 きこく した。なお、ジョンストンはイギリスに帰国 きこく する直前 ちょくぜん に天津 てんしん に滞在 たいざい していた溥儀 ふぎ を訪問 ほうもん し、この際 さい に溥儀 ふぎ はジョンストンに記念 きねん 品 ひん を下賜 かし している。
しかしジョンストンは、溥儀 ふぎ と別 わか れた2年 ねん 後 ご の1927年 ねん にイギリスの租借 そしゃく 領 りょう であるポート・エドワード(威海衛 いかいえい )の植民 しょくみん 地 ち 行政 ぎょうせい 長官 ちょうかん (弁務 べんむ 官 かん )に就任 しゅうにん することとなり再 ふたた び中華民国 ちゅうかみんこく へと戻 もど ることとなり、1930年 ねん 10月に威海衛 いかいえい がイギリスから中華民国 ちゅうかみんこく へ返還 へんかん されるまでこの地 ち に駐在 ちゅうざい した。
イギリスに帰国 きこく したジョンストンは、その知識 ちしき 、経験 けいけん と語学 ごがく 力 りょく を生 い かしてロンドン大学 だいがく の東洋 とうよう 学 がく 及 およ び中国 ちゅうごく 語 ご 教授 きょうじゅ に就任 しゅうにん し、1931年 ねん に太平洋 たいへいよう 会議 かいぎ への出席 しゅっせき のために再 ふたた び中華民国 ちゅうかみんこく を訪 おとず れた際 さい に溥儀 ふぎ と再会 さいかい する。
その後 ご 1934年 ねん に、溥儀 ふぎ の家庭 かてい 教師 きょうし 時代 じだい から溥儀 ふぎ の満 まん 洲 しゅう 国 こく 「元首 げんしゅ 」(執政 しっせい )就任 しゅうにん までの動向 どうこう を綴 つづ った「紫 むらさき 禁城 きんじょう の黄昏 たそがれ 」(原題 げんだい :『Twilight in the Forbidden City 』)を著 あらわ し[8] [注 ちゅう 1] 、翌 よく 1935年 ねん には満 まん 洲 しゅう 国 こく を訪 おとず れ「皇帝 こうてい 」となった溥儀 ふぎ と再会 さいかい するなど、生涯 しょうがい を通 つう じて溥儀 ふぎ との交流 こうりゅう は続 つづ いた。
天津 てんしん 時代 じだい の溥儀 ふぎ と婉容
ジョンストンは去 さ ったものの、溥儀 ふぎ の住 す んでいた日本 にっぽん 租界 そかい のある天津 てんしん は、この頃 ころ の国共 こっきょう 内戦 ないせん の主 おも な戦闘 せんとう 地域 ちいき から離 はな れていたことや、日本 にっぽん やイギリス、フランス などの列強 れっきょう をはじめとする外国 がいこく 租界 そかい が多 おお かったため、両 りょう 軍 ぐん が租界 そかい を持 も つ諸 しょ 外国 がいこく に刺激 しげき を与 あた えることを恐 おそ れたこと、さらに張 ちょう 作 さく 霖爆殺 ばくさつ 事件 じけん 以降 いこう 、急速 きゅうそく に関東軍 かんとうぐん の支配 しはい が強 つよ まっていたこともあり、国共 こっきょう 内戦 ないせん などの影響 えいきょう を受 う けることはなかった。
日本 にっぽん 政府 せいふ は、既 すで に皇帝 こうてい の座 ざ を退 しりぞ いていたものの、社会 しゃかい 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく も高 たか く注目 ちゅうもく を受 う けていた溥儀 ふぎ の扱 あつか いに引 ひ き続 つづ き苦慮 くりょ していた。この様 よう な状況 じょうきょう 下 か で溥儀 ふぎ を自国 じこく の租界 そかい から追 お い出 だ すわけにもいかないため、溥儀 ふぎ はその後 ご も日本 にっぽん からボディーガード として送 おく られた吉岡 よしおか 安直 あんちょく 陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ などとともに、天津 てんしん の日本 にっぽん 租界 そかい の張 ちょう 園 えん 、後 のち に移転 いてん した協 きょう 昌 あきら 里 さと の静 せい 園 えん に留 と まり、婉容と文 ぶん 繡、そして鄭 てい 孝 たかし 胥をはじめとする紫 むらさき 禁城 きんじょう 時代 じだい からの少数 しょうすう の側近 そっきん らとともに静 しず かに暮 く らしていた。
この頃 ころ に至 いた っても中華民国 ちゅうかみんこく 国内 こくない の政治 せいじ 的 てき 状況 じょうきょう は混沌 こんとん としたままで、1927年 ねん 4月 がつ には「上海 しゃんはい クーデター 」が勃発 ぼっぱつ し、孫 まご 文 ぶん の死後 しご に跡 あと を継 つ いだ蔣介石 せき 率 ひき いる中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 右派 うは が、対立 たいりつ する中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう を弾圧 だんあつ した。その後 ご 、蔣介石 せき は南京 なんきん にて「南京 なんきん 国民 こくみん 政府 せいふ 」を樹立 じゅりつ し、党 とう および国民 こくみん 政府 せいふ の実権 じっけん を掌握 しょうあく するものの、同年 どうねん 7月 がつ に国共 こっきょう 合作 がっさく を破棄 はき したことで、ソビエト連邦 れんぽう からの支援 しえん を受 う けた中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の残党 ざんとう が反発 はんぱつ し国共 こっきょう 内戦 ないせん がはじまる。
溥儀 ふぎ を紫 むらさき 禁城 きんじょう から追放 ついほう した北京 ぺきん 政変 せいへん 後 ご 、1926年 ねん に政権 せいけん を掌握 しょうあく した張 ちょう 作 さく 霖 の政権 せいけん も磐石 ばんじゃく なものではなかった。1928年 ねん に蔣介石 せき が開始 かいし した北 きた 伐 き により、張 ちょう 作 さく 霖は北京 ぺきん から脱出 だっしゅつ した。しかし同年 どうねん 6月 がつ 、乗 の っていた列車 れっしゃ を関東軍 かんとうぐん に爆破 ばくは されて死亡 しぼう した(張 ちょう 作 さく 霖爆殺 ばくさつ 事件 じけん )。その後 ご 張 ちょう 作 さく 霖 の息子 むすこ の張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう は蔣介石 せき に降伏 ごうぶく し、両者 りょうしゃ は相 あい 通 つう じて関東軍 かんとうぐん に対 たい し挑発 ちょうはつ 行動 こうどう を繰 く り返 かえ すこととなる。
文 ぶん 繡
このような政治 せいじ 的 てき 混乱 こんらん のなかで、1928年 ねん に国民党 こくみんとう の軍閥 ぐんばつ 孫 まご 殿 どの 英 えい の軍隊 ぐんたい が河北 かほく 省 しょう の清 せい 東陵 とうりょう を略奪 りゃくだつ するという事件 じけん が発生 はっせい した(東陵 とうりょう 事件 じけん )。なかでも乾 いぬい 隆 たかし 帝 みかど の裕 ひろし 陵 りょう と西 にし 太 ふとし 后 きさき の定 てい 東陵 とうりょう は墓 はか 室 しつ を暴 あば かれて、遺体 いたい から宝飾 ほうしょく 品 ひん のみならず衣服 いふく もはぎとられるなど、徹底的 てっていてき な略奪 りゃくだつ を受 う けた。
「この恨 うら みに報 むく いなかったなら、私 わたし は愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら の子孫 しそん ではない」と怒 おこ った溥儀 ふぎ は国民 こくみん 政府 せいふ に抗議 こうぎ したが、孫 まご 殿 どの 英 えい は国民党 こくみんとう の高官 こうかん に賄賂 わいろ を贈 おく っていたためになんら処罰 しょばつ されることはなく、溥儀 ふぎ を大 おお いに憤慨 ふんがい させた。東陵 とうりょう 事件 じけん は溥儀 ふぎ にとって紫 むらさき 禁城 きんじょう を退去 たいきょ させられた時 とき 以上 いじょう に衝撃 しょうげき 的 てき な事件 じけん であり、これによって清朝 せいちょう 復辟 ふくへき の念 ねん を一層 いっそう 強 つよ くしたという。
しかし、日本 にっぽん 租界 そかい での静 しず かな暮 く らしの中 なか で、正妻 せいさい の婉容との確執 かくしつ が深 ふか まった側室 そくしつ の文 ぶん 繡と別居 べっきょ 後 ご 、1931年 ねん に文 ぶん 繡が生涯 しょうがい 再婚 さいこん をしないという条件 じょうけん で離婚 りこん が成立 せいりつ した。溥儀 ふぎ は中国 ちゅうごく の歴史 れきし 上 じょう 、離婚 りこん 歴 れき を持 も つ唯一 ゆいいつ の皇帝 こうてい となった。
離婚 りこん 後 ご 文 ぶん 繡は溥儀 ふぎ に対 たい して慰謝 いしゃ 料 りょう を求 もと めて告訴 こくそ し、これに応 おう じて溥儀 ふぎ が慰謝 いしゃ 料 りょう 5万 まん 5千 せん 元 げん を支払 しはら ったものの、文 ぶん 繡は溥儀 ふぎ の性癖 せいへき や家庭 かてい 内 ない および宮廷 きゅうてい 内 ない の内情 ないじょう をマスコミに暴露 ばくろ する。この事 こと を受 う けて文 ぶん 繡は離婚 りこん 後 ご すべての位 い を剥奪 はくだつ され平民 へいみん となり、小学校 しょうがっこう の教師 きょうし として1953年 ねん に死亡 しぼう する。
チチハル に入城 にゅうじょう した関東軍 かんとうぐん (1931年 ねん )
1931年 ねん 9月18日 にち に、中華民国 ちゅうかみんこく の奉天 ほうてん 郊外 こうがい の柳 やなぎ 条 じょう 湖 みずうみ で南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう の線路 せんろ の爆破 ばくは 事件 じけん が発生 はっせい した。満 まん 洲 しゅう に展開 てんかい する関東軍 かんとうぐん を含 ふく む日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は、これを「張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう ら東北 とうほく 軍 ぐん による破壊 はかい 工作 こうさく 」と断定 だんてい した(「柳 やなぎ 条 じょう 湖 みずうみ 事件 じけん 」)。この爆破 ばくは 事件 じけん は関東軍 かんとうぐん による自作 じさく 自演 じえん だった。
この後 のち 、関東軍 かんとうぐん は爆破 ばくは 事件 じけん に対 たい する報復 ほうふく として、本国 ほんごく 政府 せいふ のみならず日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の意向 いこう を無視 むし して、満 まん 洲 しゅう を根城 ねじろ にしていた張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう 軍 ぐん との間 あいだ の戦 たたか い、いわゆる「満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 」を開始 かいし した。
規模 きぼ にも質 しつ にも勝 まさ る関東軍 かんとうぐん は張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう 軍 ぐん を圧倒 あっとう し、すぐさま奉天 ほうてん や長春 ちょうしゅん 、営口 などの近隣 きんりん 都市 とし を占領 せんりょう した。さらに21日 にち には、林 はやし 銑 ずく 十 じゅう 郎 ろう 中将 ちゅうじょう の率 ひき いる朝鮮 ちょうせん 駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん が独断 どくだん で日 にち 中 ちゅう 間 あいだ の国境 こっきょう の越境 えっきょう を始 はじ め、満 まん 洲 しゅう 地域 ちいき 一帯 いったい に侵攻 しんこう した。さらに関東軍 かんとうぐん は戦線 せんせん 拡大 かくだい に反対 はんたい する軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 本庄 ほんじょう 繁 しげる を押 お し切 き ったばかりか、不拡大 ふかくだい 方針 ほうしん を進 すす めようとした日本 にっぽん 政府 せいふ 、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の決定 けってい を無視 むし して反撃 はんげき し、戦線 せんせん を拡大 かくだい する。
その後 ご 関東軍 かんとうぐん はわずか5ヶ月 かげつ の間 あいだ に全 ぜん 満 まん 洲 しゅう 地域 ちいき を占領 せんりょう したが、張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう は蔣介石 せき 率 ひき いる国民 こくみん 政府 せいふ の指示 しじ により、まとまった抵抗 ていこう をせずに満 まん 洲 しゅう から撤退 てったい し、間 ま もなく満 まん 洲 しゅう 一帯 いったい は関東軍 かんとうぐん の支配 しはい 下 か に入 はい った。
満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく と清朝 せいちょう 復辟 ふくへき の画策 かくさく [ 編集 へんしゅう ]
土肥 どい 原 はら 賢二 けんじ
川島 かわしま 芳子 よしこ
その後 ご 、関東軍 かんとうぐん は国際 こくさい 世論 せろん の批判 ひはん を避 さ けるため、満 まん 洲 しゅう に対 たい して永続 えいぞく 的 てき な武力 ぶりょく 占領 せんりょう や植民 しょくみん 地 ち 化 か ではなく、日本 にっぽん の影響 えいきょう 力 りょく を残 のこ した国家 こっか の樹立 じゅりつ を目論 もくろ み、親日 しんにち 的 てき な軍閥 ぐんばつ による共和 きょうわ 国 こく の設立 せつりつ を画策 かくさく した。
しかしこの様 よう な形 かたち での新 あら たな共和 きょうわ 国 こく の設立 せつりつ は、中華民国 ちゅうかみんこく のみならず、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に多 おお くの租界 そかい と利権 りけん を持 も つイギリスやアメリカ、フランスやイタリア 、そして国際 こくさい 連盟 れんめい 加盟 かめい 国 こく をはじめとする国際 こくさい 社会 しゃかい の支持 しじ を得 え にくいと判断 はんだん した。国家 こっか に正統 せいとう 性 せい を持 も たせるために、清朝 せいちょう の皇帝 こうてい で満 まん 洲 しゅう 族 ぞく 出身 しゅっしん であり、さらに北京 ぺきん 政変 せいへん による紫 むらさき 禁城 きんじょう 追放 ついほう 以降 いこう 日本 にっぽん 租界 そかい へ身 み を寄 よ せていた溥儀 ふぎ を元首 げんしゅ に擁 よう いた君主 くんしゅ 制 せい 国家 こっか を設立 せつりつ することを画策 かくさく した。
この様 よう な関東軍 かんとうぐん の目論 もくろ みを受 う けて、関東軍 かんとうぐん の特務 とくむ 機関 きかん 長 ちょう だった土肥 どい 原 はら 賢二 けんじ が溥儀 ふぎ の説得 せっとく にかかるために天津 てんしん の日本 にっぽん 租界 そかい へ向 む かい、その後 ご 溥儀 ふぎ と会談 かいだん し「満 まん 洲 しゅう 国 こく 元首 げんしゅ 」就任 しゅうにん の提案 ていあん を行 おこな った。
紫 むらさき 禁城 きんじょう 追放 ついほう 以降 いこう 、かねてから「清朝 せいちょう の復辟 ふくへき 」を熱望 ねつぼう していた上 うえ に、東陵 とうりょう 事件 じけん 後 ご にその思 おも いを強 つよ くした溥儀 ふぎ は、土肥 どい 原 げん による満 まん 洲 しゅう 国 こく 元首 げんしゅ 就任 しゅうにん の提案 ていあん を受 う け、「清朝 せいちょう の復辟 ふくへき 」を条件 じょうけん に満 まん 洲 しゅう 国 こく 元首 げんしゅ への就任 しゅうにん に同意 どうい した。
その後 ご 溥儀 ふぎ は、関東軍 かんとうぐん の保護 ほご の下 した で天津 てんしん の自宅 じたく を出 で て、湯 ゆ 崗子温泉 おんせん を経 へ て11月13日 にち に営口に到着 とうちゃく 、南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう が経営 けいえい する旅順 りょじゅん のヤマトホテル に留 とど まった[9] 。溥儀 ふぎ が旅順 りょじゅん へ向 む かった後 のち 、粛親王 おう 善 よし 耆の第 だい 14王女 おうじょ で当時 とうじ 関東軍 かんとうぐん に協力 きょうりょく していた川島 かわしま 芳子 よしこ が、天津 てんしん に残 のこ された婉容を連 つ れ出 だ すことを関東 かんとう 軍 ぐん から依頼 いらい され、実際 じっさい に婉容を天津 てんしん から旅順 りょじゅん へ護送 ごそう する任務 にんむ を行 おこな っている。
この様 よう な溥儀 ふぎ の行動 こうどう に対 たい して、宋 そう 子 こ 文 ぶん ら国民 こくみん 政府 せいふ の有力 ゆうりょく 者 しゃ が、当時 とうじ 太平洋 たいへいよう 会議 かいぎ のために中華民国 ちゅうかみんこく に滞在 たいざい していたジョンストンに対 たい し溥儀 ふぎ の決定 けってい を翻 ひるがえ させるように働 はたら きかけるように依頼 いらい した他 ほか 、中華民国 ちゅうかみんこく 内 ない のマスコミも溥儀 ふぎ の動 うご きを憂慮 ゆうりょ した。しかし、東陵 とうりょう 事件 じけん における蔣介石 せき や張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう の反応 はんのう に失望 しつぼう していた上 うえ 、清朝 せいちょう の復辟 ふくへき を強 つよ く望 のぞ んでいた溥儀 ふぎ は、これらの中華民国 ちゅうかみんこく の有力 ゆうりょく 者 しゃ による反対 はんたい 意見 いけん を退 しりぞ け、関東軍 かんとうぐん の提案 ていあん を受 う け入 い れることとなった。
執政 しっせい 就任 しゅうにん 式典 しきてん での溥儀 ふぎ
執政 しっせい 令 れい
その後 ご 関東軍 かんとうぐん は、遼寧 りょうねい 省 しょう (当時 とうじ は奉天 ほうてん 省 しょう )と吉林 きつりん 省 しょう 、黒龍江 こくりゅうこう 省 しょう の各地 かくち の要人 ようじん との協議 きょうぎ を開始 かいし した。最終 さいしゅう 的 てき に1932年 ねん 2月 がつ 18日 にち に、後 のち に満 まん 洲 しゅう 国 こく の国務 こくむ 総理 そうり となる張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ を委員 いいん 長 ちょう とする東北 とうほく 行政 ぎょうせい 委員 いいん 会 かい が、中華民国 ちゅうかみんこく からの民族 みんぞく 自決 じけつ による分離 ぶんり 独立 どくりつ を宣言 せんげん し、その後 ご 、東北 とうほく 行政 ぎょうせい 委員 いいん 会 かい の委員 いいん を中心 ちゅうしん に内閣 ないかく を編成 へんせい した。
溥儀 ふぎ はその後 ご に満 まん 洲 しゅう 国 こく の元首 げんしゅ に就任 しゅうにん することが決定 けってい していたにも拘 かか わらず、この満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく に至 いた る関東 かんとう 軍 ぐん と有力 ゆうりょく 者 しゃ らの協議 きょうぎ に参加 さんか できなかったばかりか、協議 きょうぎ の概要 がいよう さえも伝 つた えられることはなかった。
新 あら たな年号 ねんごう である「大同 だいどう 元年 がんねん 」となる1932年 ねん 3月1日 にち に、長春 ちょうしゅん 市 し 内 うち の張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ の公邸 こうてい で満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく 宣言 せんげん が行 おこな われ、満 まん 洲 しゅう 国 こく に在住 ざいじゅう する主 おも な民族 みんぞく (満 まん 洲 しゅう 人 じん 、日本人 にっぽんじん 、漢人 かんど 、蒙 こうむ 古人 こじん 、朝鮮 ちょうせん 人 じん )による「五 ご 族 ぞく 協和 きょうわ 」を掲 かか げ、長春 ちょうしゅん の名 な を改 あらた め新 しん 京 きょう に首都 しゅと を置 お く満 まん 洲 しゅう 国 こく が建国 けんこく された。
満 まん 洲 しゅう 国 こく の建国 けんこく を受 う け、溥儀 ふぎ は同年 どうねん 3月9日 にち に「執政 しっせい 」に就任 しゅうにん した。この際 さい に溥儀 ふぎ は、皇帝 こうてい よりも格下 かくした である「執政 しっせい 」への就任 しゅうにん を嫌 いや がり、あくまで皇帝 こうてい への即位 そくい を主張 しゅちょう するが、関東 かんとう 軍 ぐん から「時期 じき 尚早 しょうそう 」として撥 は ねつけられてしまう。「執政 しっせい 」となった溥儀 ふぎ は、関東軍 かんとうぐん の日本人 にっぽんじん 将校 しょうこう から、皇帝 こうてい へ対 たい する敬称 けいしょう である「陛下 へいか 」ではなく、国家 こっか 君主 くんしゅ 以外 いがい の高官 こうかん に対 たい する呼 よ び方 かた である「閣下 かっか 」と呼 よ ばれ激怒 げきど したと伝 つた えられている。また、就任 しゅうにん に伴 ともな って映画 えいが 『ラストエンペラー』などでも描 えが かれた愛用 あいよう の丸 まる いサングラス をかけるのをやめることとなった[11] 。
溥儀 ふぎ が執政 しっせい に就任 しゅうにん した直後 ちょくご の3月 がつ に、国際 こくさい 連盟 れんめい から柳 やなぎ 条 じょう 湖 みずうみ 事件 じけん 及 およ び満 まん 洲 しゅう 事変 じへん と満 まん 洲 しゅう 国 こく 、および日 にち 華 はな 両国 りょうこく の調査 ちょうさ のために派遣 はけん されたイギリス の第 だい 2代 だい リットン伯爵 はくしゃく ヴィクター・ブルワー=リットン 率 ひき いる、いわゆる「リットン調査 ちょうさ 団 だん 」が満 まん 洲 しゅう 国 こく を訪問 ほうもん し、5月には溥儀 ふぎ にも調査 ちょうさ の一環 いっかん としてリットン以下 いか 調査 ちょうさ 団 だん に謁見 えっけん した。この時期 じき 、関東軍 かんとうぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう だった小磯 こいそ 國昭 くにあき (後 ご の内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん )に対 たい し、「中原 なかはら への進出 しんしゅつ を企図 きと して関東軍 かんとうぐん の支援 しえん を求 もと め、達成 たっせい 後 ご は日本 にっぽん に満 まん 洲 しゅう を割譲 かつじょう する」とまで言 い ったが、小磯 こいそ に諌 いさ められている[12] 。
満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく 軍 ぐん 大元帥 だいげんすい 服 ふく で皇帝 こうてい に即位 そくい する溥儀 ふぎ
「執政 しっせい 」就任 しゅうにん の2年 ねん 後 ご 、1934年 ねん 3月1日 にち にようやく溥儀 ふぎ は満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい に即位 そくい した。満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい としての溥儀 ふぎ は「康徳 やすのり 帝 みかど 」と称 しょう される。「清 きよし 」と「満 まん 洲 しゅう 」という2つの帝国 ていこく で正式 せいしき に3回 かい 皇帝 こうてい に即位 そくい したのは溥儀 ふぎ のみである。
溥儀 ふぎ の皇帝 こうてい 即位 そくい に併 あわ せて、それまでは「満 まん 洲 しゅう 国 こく 」と呼 よ ばれていた国名 こくめい も「満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく 」と呼 よ ばれることが多 おお くなった。元号 げんごう も「康徳 やすのり 」に改元 かいげん された(当初 とうしょ は「啓運 けいうん 」を予定 よてい していたが、直前 ちょくぜん で「康徳 やすのり 」に変更 へんこう された)。同時 どうじ に紫 むらさき 禁城 きんじょう 時代 じだい からの教育 きょういく 掛 かけ で、満 まん 洲 しゅう 国 こく 総理 そうり 内務 ないむ 府 ふ 大臣 だいじん でもあり、建国 けんこく 前 まえ に溥儀 ふぎ と日本 にっぽん 陸軍 りくぐん との間 あいだ を取 と り持 も ったことから関東軍 かんとうぐん からの評価 ひょうか が高 たか かった鄭 てい 孝 たかし 胥が国務 こくむ 総理 そうり 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した。
同日 どうじつ に新 しん 京 きょう 市内 しない で行 おこな われた皇帝 こうてい 即位 そくい 式 しき の際 さい に溥儀 ふぎ は、満 まん 洲 しゅう 国 こく のスローガンの1つである「五 ご 族 ぞく 協和 きょうわ 」を掲 かか げる上 うえ で、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく の民族 みんぞく 色 しょく を出 だ すことを嫌 きら った関東軍 かんとうぐん からの強 つよ い勧 すす めで満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん の軍服 ぐんぷく (大 だい 総帥 そうすい 服 ふく )着用 ちゃくよう で行 おこな われた[13] 。
しかし、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく としての意識 いしき が強 つよ い溥儀 ふぎ の強 つよ い依頼 いらい により、新 しん 京 きょう 市内 しない の順 じゅん 天 てん 広場 ひろば に置 お かれた特設 とくせつ 会場 かいじょう にて、即位 そくい 式 しき に先立 さきだ って即位 そくい を清朝 せいちょう の先祖 せんぞ に報告 ほうこく する儀式 ぎしき である「告 つげ 天 てん 礼 れい 」が行 おこな われ、この際 さい に溥儀 ふぎ は満 まん 洲 しゅう 族 ぞく の民族 みんぞく 衣装 いしょう である龍 りゅう 袍 ほう を着用 ちゃくよう した[13] 。しかし同時 どうじ に満 まん 洲 しゅう 国 こく 政府 せいふ からは「これは清朝 せいちょう の復辟 ふくへき を意味 いみ しない」旨 むね の声明 せいめい が出 だ されていた[13] 。
溥儀 ふぎ の皇宮 こうぐう は、執政 しっせい 当時 とうじ と同様 どうよう に満 まん 洲 しゅう 国 こく 首都 しゅと の新 しん 京 きょう 特別 とくべつ 市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ に置 お かれた。皇帝 こうてい に即位 そくい した当初 とうしょ 溥儀 ふぎ 夫妻 ふさい は内廷 ないてい の緝煕楼 ろう (しゅうきろう)に住 す んでいたが、「皇宮 こうぐう とするには狭 せま く威厳 いげん が足 た りない」と考 かんが えた満 まん 洲 しゅう 国 こく 政府 せいふ により、1938年 ねん に新 あら たに同 どう 徳 いさお 殿 どの が皇宮 こうぐう として建 た てられた。しかし、関東軍 かんとうぐん による盗聴 とうちょう を恐 おそ れて溥儀 ふぎ 自身 じしん は一 いち 度 ど も皇宮 こうぐう として利用 りよう しなかった。
日 ひ 満 まん 議定 ぎてい 書 しょ に調印 ちょういん する鄭 てい 孝 たかし 胥初代 しょだい 国務 こくむ 総理 そうり 大臣 だいじん
関東軍 かんとうぐん の主導 しゅどう によって作 つく られた満 まん 洲 しゅう 国 こく の組織 そしき 法 ほう 上 うえ では、皇帝 こうてい は国務 こくむ 総理 そうり 大臣 だいじん を始 はじ めとする大臣 だいじん を任命 にんめい することができたが、次官 じかん 以下 いか の官僚 かんりょう に対 たい しては「日 ひ 満 まん 議定 ぎてい 書 しょ 」により、関東軍 かんとうぐん が日本人 にっぽんじん を満 まん 洲 しゅう 国 こく の官吏 かんり に任命 にんめい 、もしくは罷免 ひめん する権限 けんげん を持 も っていたので、関東軍 かんとうぐん の同意 どうい がなければ任免 にんめん することができなかった。また「日 ひ 満 まん 議定 ぎてい 書 しょ 」では、国政 こくせい に関 かか わるような重要 じゅうよう 事項 じこう の決定 けってい には、皇帝 こうてい の溥儀 ふぎ だけでなく関東軍 かんとうぐん の認証 にんしょう が必要 ひつよう とされていた。
実際 じっさい に、関東軍 かんとうぐん の日本人 にっぽんじん 高級 こうきゅう 将校 しょうこう で「御用 ごよう 掛 かけ 」として引 び き継 ままし き満 まん 洲 しゅう 国 こく に送 おく り込 こ まれた吉岡 よしおか 安直 あんちょく や工藤 くどう 忠 ただし が常 つね に溥儀 ふぎ とともに行動 こうどう し、その行動 こうどう や発言 はつげん に対 たい し「助言 じょげん 」するなど、皇帝 こうてい の称号 しょうごう こそあるにしろ、事実 じじつ 上 じょう 関東軍 かんとうぐん の「傀儡 かいらい 」と言 い えるような状況 じょうきょう だった。さらに満 まん 洲 しゅう 国 こく の官職 かんしょく の約 やく 半分 はんぶん が日本人 にっぽんじん で占 し められ、国籍 こくせき 法 ほう が存在 そんざい しないことなど、関東軍 かんとうぐん の大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を受 う けている満 まん 洲 しゅう 国 こく は、「独立 どくりつ 国 こく 」とはかけ離 はな れていた。
1932年 ねん 4月 がつ には満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん が設立 せつりつ されたが、「日 ひ 満 まん 議定 ぎてい 書 しょ 」では関東軍 かんとうぐん の満 まん 洲 しゅう 国 こく への駐留 ちゅうりゅう が認 みと められていた上 うえ に、満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん も事実 じじつ 上 じょう 関東軍 かんとうぐん の指揮 しき 下 か にあった。1935年 ねん 7月 がつ に日本 にっぽん 軍 ぐん の陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう を卒業 そつぎょう した溥傑 が、同年 どうねん 9月 がつ に満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん に入隊 にゅうたい した。
満 まん 洲 しゅう 国 こく 海軍 かいぐん を謁見 えっけん する溥儀 ふぎ (1935年 ねん )
溥儀 ふぎ と工藤 くどう 忠 ただし
日本 にっぽん 政府 せいふ や日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の意図 いと を無視 むし した関東軍 かんとうぐん による満 まん 洲 しゅう 国 こく への介入 かいにゅう はその後 ご も増 ま していき、1937年 ねん 2月 がつ には、溥儀 ふぎ と関東軍 かんとうぐん の植田 うえだ 謙吉 けんきち 司令 しれい 官 かん の間 あいだ で念書 ねんしょ が交 か わされ、「満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい に男子 だんし が居 い ない場合 ばあい 、日本 にっぽん の天皇 てんのう の叡慮 えいりょ によりそれを定 さだ める」とされ[14] 、実際 じっさい に溥儀 ふぎ に男子 だんし がいなかったことから、事実 じじつ 上 じょう 溥儀 ふぎ の後継 こうけい 者 しゃ は日本 にっぽん (関東軍 かんとうぐん )が定 さだ めることとなった。
これ以降 いこう 溥儀 ふぎ は、以前 いぜん に比 くら べて関東軍 かんとうぐん による暗殺 あんさつ (と溥儀 ふぎ の暗殺 あんさつ による親 しん 日本 にっぽん 的 てき な志向 しこう を持 も つ皇帝 こうてい への交代 こうたい )を恐 おそ れるようになって行 い ったと言 い われている。
溥儀 ふぎ は1937年 ねん に満 まん 洲 しゅう 旗 はた 人 じん 他 た 他 た 拉 ひしげ 氏 し 出身 しゅっしん の譚 たん 玉 だま 齢 よわい を側室 そくしつ として迎 むか え祥 さち 貴人 きじん としたが、譚 たん 玉 だま 齢 よわい はわずか5年 ねん 後 ご の1942年 ねん に死去 しきょ した。溥儀 ふぎ はこの死 し について「関東軍 かんとうぐん による毒殺 どくさつ 」と疑 うたが い、ソ連 それん の要請 ようせい (事実 じじつ 上 じょう の強制 きょうせい )を受 う けて出廷 しゅってい した東京 とうきょう 裁判 さいばん においてもそのように証言 しょうげん している。しかし遺族 いぞく はそれを戦後 せんご 否定 ひてい しているばかりか、実際 じっさい に単 たん なる病死 びょうし だったと証明 しょうめい されている。譚 たん 玉 だま 齢 よわい の死後 しご は漢 かん 族 ぞく の李 り 玉 たま 琴 きん を側室 そくしつ として迎 むか え福貴 ふき 人 じん とした。
満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく に際 さい しても溥儀 ふぎ と一緒 いっしょ に満 まん 洲 しゅう 入 い りし、満 まん 洲 しゅう 国 こく の初代 しょだい 国務 こくむ 総理 そうり として溥儀 ふぎ を支 ささ えた鄭 てい 孝 たかし 胥は、「我 わ が国 くに はいつまでも子供 こども ではない」と、建国 けんこく 後 ご も実権 じっけん を握 にぎ る関東 かんとう 軍 ぐん を批判 ひはん する発言 はつげん を行 おこな ったことから、溥儀 ふぎ の皇帝 こうてい 即位 そくい のわずか1年 ねん 後 ご の1935年 ねん 5月に辞任 じにん に追 お い込 こ まれた。
頭山 とうやま 満 みつる と川島 かわしま 芳子 よしこ
しかし、満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 以降 いこう 日本 にっぽん 政府 せいふ や大本営 だいほんえい の意向 いこう を無視 むし して動 うご くことの多 おお かった関東軍 かんとうぐん が、現地 げんち 人 じん はおろか日本 にっぽん 政府 せいふ の意思 いし をも無視 むし し過度 かど に介入 かいにゅう する形 かたち での満 まん 洲 しゅう 国 こく の運営 うんえい 、さらに関東軍 かんとうぐん 主導 しゅどう で実権 じっけん を伴 ともな わない形 かたち での溥儀 ふぎ の「皇帝 こうてい 就任 しゅうにん 」に対 たい しては、日本 にっぽん 国内 こくない の有識者 ゆうしきしゃ 、特 とく にアジア諸国 しょこく の欧米 おうべい の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい からの自主 じしゅ 独立 どくりつ を目指 めざ すアジア主義 しゅぎ 者 しゃ や右翼 うよく からの反発 はんぱつ が強 つよ かった。
一 いち 例 れい として、当時 とうじ の日本 にっぽん の政界 せいかい に強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていたアジア主義 しゅぎ 者 しゃ の巨頭 きょとう で玄 げん 洋 よう 社 しゃ の総帥 そうすい 、かつ亡命 ぼうめい 中 ちゅう に支援 しえん を行 おこな うなど蔣介石 せき との関係 かんけい も深 ふか かった頭山 とうやま 満 みつる は、満 まん 洲 しゅう 事変 じへん から満 まん 洲 しゅう 国 こく の建国 けんこく に至 いた る関東軍 かんとうぐん の暴走 ぼうそう と、それに対 たい する日本 にっぽん 政府 せいふ のあいまいな対応 たいおう に強 つよ い憂慮 ゆうりょ と怒 いか りを示 しめ していた。
頭山 とうやま は、1935年 ねん に溥儀 ふぎ が来日 らいにち した際 さい にも日 ひ 満 まん 政府 せいふ から歓迎 かんげい 式典 しきてん や公式 こうしき 晩 ばん さん会 かい への出席 しゅっせき の招待 しょうたい を受 う けたものの、満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく に至 いた るまでの関東軍 かんとうぐん の暴走 ぼうそう を止 と められないままでいた岡田 おかだ 内閣 ないかく と大本営 だいほんえい 、そして関東 かんとう 軍 ぐん への抗議 こうぎ の意味 いみ を込 こ めて「気 き が進 すす まない」との理由 りゆう でこれを断 こと わっている。
溥儀 ふぎ の来日 らいにち 記念 きねん 切手 きって (1935年 ねん )
溥儀 ふぎ と昭和 しょうわ 天皇 てんのう 、スターリン と蔣介石 せき が表紙 ひょうし に載 の った『タイム 』(1936年 ねん 2月 がつ )
満 まん 洲 しゅう 国 こく において溥儀 ふぎ と関東軍 かんとうぐん との関係 かんけい はこの様 よう な状況 じょうきょう ではあったものの、日 にち 満 まん 友好 ゆうこう を促進 そくしん する狙 ねら いと、満 まん 洲 しゅう 国 こく 並 なら びに溥儀 ふぎ の威信 いしん を国内外 こくないがい に高 たか めることを目的 もくてき として、1935年 ねん 4月 がつ に溥儀 ふぎ が昭和 しょうわ 天皇 てんのう の招待 しょうたい により日本 にっぽん を国賓 こくひん として公式 こうしき 訪問 ほうもん することに決定 けってい した。これは溥儀 ふぎ にとって初 はつ の外国 がいこく 訪問 ほうもん となった。
公式 こうしき 訪問 ほうもん 時 じ には満 まん 洲 しゅう 海軍 かいぐん 艦 かん は使用 しよう せず、日本 にっぽん 側 がわ が日本 にっぽん 海軍 かいぐん の練習 れんしゅう 戦艦 せんかん 「比叡 ひえい 」を御召 おめし 艦 かん として提供 ていきょう した。大連 たいれん 港 こう より4月 がつ 6日 にち の早朝 そうちょう に横浜 よこはま 港 こう に到着 とうちゃく した溥儀 ふぎ は、東京 とうきょう 駅 えき まで専用 せんよう 列車 れっしゃ で向 む かった。東京 とうきょう 駅 えき に溥儀 ふぎ 一 いち 行 ぎょう が到着 とうちゃく した際 さい には、両国 りょうこく の深 ふか い関係 かんけい を表 あらわ すように、昭和 しょうわ 天皇 てんのう 自 みずか らが東京 とうきょう 駅 えき のホームまで溥儀 ふぎ を迎 むか えに行 い くという、日本 にっぽん の歴史 れきし 上 じょう 無 な い異例 いれい の歓待 かんたい を行 おこ なった。この様 よう な天皇 てんのう による歓待 かんたい は現在 げんざい まで例 れい がない。
天皇 てんのう のみならず多 おお くの皇族 こうぞく が訪日 ほうにち した溥儀 ふぎ を温 あたた かく迎 むか えたほか、政府 せいふ も通常 つうじょう の友好国 ゆうこうこく の元首 げんしゅ への歓待 かんたい をはるかに超 こ える規模 きぼ の異例 いれい の歓待 かんたい を行 おこな った。約 やく 100人 にん からなる溥儀 ふぎ 一 いち 行 ぎょう は到着 とうちゃく 後 ご に赤坂 あかさか 離宮 りきゅう に滞在 たいざい し、天皇 てんのう や皇族 こうぞく 、閣僚 かくりょう や各国 かっこく の外交 がいこう 団 だん が招 まね かれ公式 こうしき 晩餐 ばんさん 会 かい が開 ひら かれた。その後 ご は靖国神社 やすくにじんじゃ への参拝 さんぱい や近衛 このえ 師団 しだん の閲兵 えっぺい 式 しき などの公式 こうしき 日程 にってい をこなした他 ほか 、専用 せんよう 列車 れっしゃ で奈良 なら 県 けん [15] や京都 きょうと 府 ふ 、広島 ひろしま 県 けん など日本 にっぽん 国内 こくない 各地 かくち を訪問 ほうもん した。
訪日 ほうにち 中 ちゅう は、新聞 しんぶん やラジオ 、雑誌 ざっし やニュース映画 えいが など日本 にっぽん 中 ちゅう のマスコミが溥儀 ふぎ の行動 こうどう や発言 はつげん を逐一 ちくいち 報道 ほうどう し、新聞 しんぶん 社 しゃ や出版 しゅっぱん 社 しゃ から報道 ほうどう 写真 しゃしん 集 しゅう が発売 はつばい されたほか、いわゆる「追 お っかけ 」も発生 はっせい するなど、溥儀 ふぎ 自身 じしん の人柄 ひとがら もあいまって日本 にっぽん の皇室 こうしつ や指導 しどう 者 しゃ 層 そう のみならず日本 にっぽん 国民 こくみん からも高 たか い人気 にんき を集 あつ めた。
東京 とうきょう 駅前 えきまえ には奉祝 ほうしゅく 門 もん が作 つく られ、銀座 ぎんざ は両国 りょうこく の国旗 こっき や電 でん 飾 かざり で飾 かざ られた。また東京 とうきょう 市電 しでん はライトアップされた花 はな 電車 でんしゃ を走 はし らせ、逓信 ていしん 省 しょう は溥儀 ふぎ の訪日 ほうにち を記念 きねん して記念 きねん 切手 きって を4種 しゅ 発行 はっこう するなど、官民 かんみん を挙 あ げた歓迎 かんげい を行 おこな った。一 いち 通 とお りの日程 にってい を終 お えた溥儀 ふぎ 一 いち 行 ぎょう は、4月 がつ 25日 にち 夜 よる に広島 ひろしま 県 けん 宮島 みやじま 港 こう より、御召 おめし 艦 かん の「比叡 ひえい 」で帰国 きこく の途 と に就 つ いた。
当時 とうじ の溥儀 ふぎ は、年齢 ねんれい が近 ちか い(昭和 しょうわ 天皇 てんのう の方 ほう が5歳 さい 年長 ねんちょう )上 じょう に、自分 じぶん と同 おな じ君主 くんしゅ 制 せい 国家 こっか の国家 こっか 元首 げんしゅ だった昭和 しょうわ 天皇 てんのう の「兄弟分 きょうだいぶん 」であるという気持 きも ちが強 つよ かったとされている。また、皇太后 こうたいごう 節子 せつこ は、流産 りゅうざん した子 こ と同 おな い年 どし の溥儀 ふぎ を「満 まん 洲 しま 殿 どの 」と呼 よ び、我 わ が子 こ のように親 した しく接 せっ したと言 い われている。
溥傑と嵯峨 さが 浩 ひろし (1937年 ねん )
1937年 ねん には、日本 にっぽん の陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう を卒業 そつぎょう し満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん の将校 しょうこう となっていた溥傑と、嵯峨 さが 侯爵 こうしゃく 家 いえ の令嬢 れいじょう で皇室 こうしつ の親戚 しんせき (先代 せんだい 侯爵 こうしゃく 嵯峨 さが 公 こう 勝 かち の夫人 ふじん 仲子 なかこ は、明治天皇 めいじてんのう の生母 せいぼ の中山 なかやま 慶子 けいこ の実弟 じってい 忠光 ただみつ の娘 むすめ )に当 あ たる嵯峨 さが 浩 ひろし の縁談 えんだん が関東軍 かんとうぐん の主導 しゅどう で進 すす められ、2月 がつ 6日 にち に駐日 ちゅうにち 満 まん 洲 しゅう 国 こく 大使館 たいしかん の発表 はっぴょう で2人 ふたり の結婚 けっこん が内定 ないてい し、同年 どうねん 4月 がつ 3日 にち に東京 とうきょう の軍人 ぐんじん 会館 かいかん (現 げん ・九段会館 くだんかいかん )で挙式 きょしき が行 おこな われ、日 にち 満 まん 両国 りょうこく で大 おお きな話題 わだい を呼 よ んだ。
新婚 しんこん 当時 とうじ の溥傑は日本 にっぽん の陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 学校 がっこう に在籍 ざいせき していたため、2人 ふたり は近隣 きんりん の千葉 ちば 市 し 稲毛 いなげ に新居 しんきょ (愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥傑仮寓 かぐう )を構 かま えた。後 ご 、同年 どうねん 9月 がつ に溥傑が、10月には浩 ひろし が新 しん 京 きょう へ渡 わた った。その後 ご 1938年 ねん 2月 がつ に、長女 ちょうじょ である慧 とし 生 せい が生 う まれる。
結婚 けっこん 後 ご の溥傑と浩 ひろし は、浩 ひろし が新 しん 京 きょう に渡 わた った1年 ねん 後 ご の1938年 ねん 10月 がつ に、溥傑が満 まん 洲 しゅう 国 こく 駐日 ちゅうにち 大使館 たいしかん 附 ふ 武官 ぶかん 室 しつ 勤務 きんむ を命 めい じられて東京 とうきょう 府 ふ に赴任 ふにん したが、翌 よく 1939年 ねん 11月には奉天 ほうてん の歩兵 ほへい 将校 しょうこう 軍 ぐん 官 かん 学校 がっこう 教官 きょうかん に任官 にんかん され教鞭 きょうべん を執 と ることになるなど、満 まん 洲 しゅう 国 こく と日本 にっぽん を行 い き来 き する生活 せいかつ を送 おく る。
溥儀 ふぎ は当初 とうしょ 、嵯峨 さが 浩 ひろし のことを「関東軍 かんとうぐん のスパイ」ではと疑念 ぎねん を持 も っていたが、1938年 ねん に長女 ちょうじょ の慧 とし 生 せい 、1940年 ねん には次女 じじょ の嫮生 と2人 ふたり の子供 こども が生 う まれたことや、溥傑と浩 ひろし の関係 かんけい が良好 りょうこう なこと、溥儀 ふぎ に対 たい して常 つね に皇帝 こうてい としての敬意 けいい を持 も った態度 たいど を続 つづ けたことなどを受 う けて、浩 ひろし に対 たい する警戒 けいかい を少 すこ しずつ解 と いて行 い ったと言 い われている。とはいえ子 こ のない溥儀 ふぎ は、関東軍 かんとうぐん の方 ほう では溥傑に男子 だんし が生 う まれれば自身 じしん を退位 たいい させてその子 こ に帝位 ていい を継 つ がせるつまりではないかとみて、その場合 ばあい 自身 じしん ら兄弟 きょうだい の生命 せいめい がどうなるかと恐 おそ れていたことを、自伝 じでん 『わが半生 はんせい 「満州 まんしゅう 国 こく 」皇帝 こうてい の自伝 じでん 』において述 の べている。
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )[ 編集 へんしゅう ]
南京 なんきん に入城 にゅうじょう する日本 にっぽん 軍 ぐん (1937年 ねん )
溥儀 ふぎ が皇帝 こうてい に就任 しゅうにん した4年 ねん 後 ご の1937年 ねん 7月 がつ 7日 にち に、北平 きたひら 市 し (現 げん :北京 ぺきん 市 し )西南 せいなん の盧溝橋 ろこうきょう で起 お きた盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん を契機 けいき として日本 にっぽん 軍 ぐん と国民 こくみん 革命 かくめい 軍 ぐん (国民党 こくみんとう 軍 ぐん )の間 あいだ で日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )が勃発 ぼっぱつ した。その後 ご 、中華民国 ちゅうかみんこく 内 ない において内戦 ないせん 状態 じょうたい にあった国民党 こくみんとう と共産党 きょうさんとう は、日本 にっぽん 軍 ぐん に対抗 たいこう するための抗日 こうにち 民族 みんぞく 統一 とういつ 戦線 せんせん である第 だい 二 に 次 じ 国共 こっきょう 合作 がっさく を構築 こうちく した。
日本 にっぽん 軍 ぐん は中華民国 ちゅうかみんこく 沿岸 えんがん の港 みなと を全 すべ て閉鎖 へいさ し、1938年 ねん 後半 こうはん に入 はい ると海上 かいじょう からの一切 いっさい の補給 ほきゅう 路 ろ の閉鎖 へいさ に成功 せいこう した。国民 こくみん 政府 せいふ は重慶 たーちん に遷都 せんと して抵抗 ていこう を続 つづ けていたが、殆 ほとん どの戦線 せんせん で活動 かつどう を停止 ていし 。南京 なんきん 陥落 かんらく 後 ご は臨時 りんじ 首都 しゅと の重慶 たーちん にも日本 にっぽん 軍 ぐん の圧力 あつりょく が高 たか まった。
国民 こくみん 政府 せいふ は、同 どう 国内 こくない における利権 りけん を確保 かくほ しようとしたソビエト連邦 れんぽう は戦闘 せんとう 機 き などを貸与 たいよ したほか、アメリカもアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 義勇軍 ぎゆうぐん を派遣 はけん するなどこれを支援 しえん した。
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう を通 つう じて関東軍 かんとうぐん は、日本人 にっぽんじん や朝鮮 ちょうせん 系 けい の将兵 しょうへい を続々 ぞくぞく と支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん へ異動 いどう させたが、満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん は自国 じこく の防衛 ぼうえい に専念 せんねん し国民党 こくみんとう 軍 ぐん との戦闘 せんとう には参加 さんか しなかった。このこともあり溥儀 ふぎ も日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう に対 たい して主 おも だった活動 かつどう や発言 はつげん はしていない。
溥儀 ふぎ の2回 かい 目 め の来日 らいにち (1940年 ねん )
昭和 しょうわ 天皇 てんのう と溥儀 ふぎ の握手 あくしゅ (1940年 ねん 6月 がつ 26日 にち )
1940年 ねん 6月 がつ に皇紀 こうき 2600年 ねん 記念 きねん 行事 ぎょうじ が東京 とうきょう で行 おこな われた際 さい にも、タイ王国 おうこく や中華民国 ちゅうかみんこく (汪 ひろし 兆 ちょう 銘 めい 政権 せいけん ) などの日本 にっぽん の友好国 ゆうこうこく (なお当時 とうじ の東 ひがし アジアの独立 どくりつ 国 こく は日本 にっぽん と満 まん 洲 しゅう 国 こく の他 ほか は、タイ王国 おうこく と中華民国 ちゅうかみんこく とソ連 それん しか存在 そんざい していなかった。他 た は全 すべ て日 にち 米 べい 英 えい 仏 ふつ 蘭 らん の植民 しょくみん 地 ち と領土 りょうど だった)の首脳 しゅのう 陣 じん 同様 どうよう に奉祝 ほうしゅく のために再 ふたた び訪日 ほうにち した。
この際 さい は日本 にっぽん 海軍 かいぐん の戦艦 せんかん 「日向 ひなた 」を皇帝 こうてい 御召 おめし 艦 かん とし、6月26日 にち に大連 たいれん 港 こう から横浜 よこはま 港 こう に到着 とうちゃく した際 さい に高松宮 たかまつのみや 宣仁 のぶひと 親王 しんのう の出迎 でむか えを受 う けた後 のち 、再 ふたた び東京 とうきょう 駅 えき に出迎 でむか えた昭和 しょうわ 天皇 てんのう と5年 ねん 振 ふ りに固 かた い握手 あくしゅ を交 まじ えた[16] 。
この訪問 ほうもん の際 さい に溥儀 ふぎ は、皇紀 こうき 2600年 ねん 記念 きねん 行事 ぎょうじ への参加 さんか などの公式 こうしき 日程 にってい をこなしたのみならず、溥儀 ふぎ を特 とく に親 した しく感 かん じていた皇太后 こうたいごう 節子 せつこ が設 もう けた午餐 ごさん 会 かい に招待 しょうたい されたほか、東京 とうきょう を離 はな れて伊勢神宮 いせじんぐう への参拝 さんぱい や滋賀 しが 県 けん 訪問 ほうもん などをした後 のち に、神戸 こうべ 港 こう から帰国 きこく の途 と に就 つ いた。
伊勢神宮 いせじんぐう を訪 おとず れた後 のち には、溥儀 ふぎ の発案 はつあん で「日 にち 満 まん 一 いち 神 かみ 一 いち 崇 たかし 」を表明 ひょうめい し満 まん 洲 しゅう 国 こく 帝 みかど 宮内 くない に「建国 けんこく 神 しん 廟 びょう 」が作 つく られ、神体 しんたい として天 てん 照 あきら 大神 おおがみ が祀 まつ られた。また、溥儀 ふぎ が初 はつ 来日 らいにち から帰国 きこく した際 さい には「もし大満 だいま 洲 しゅう 帝国 ていこく 皇帝 こうてい に不忠 ふちゅう であれば、それは天皇 てんのう に不忠 ふちゅう であり、天皇 てんのう に不忠 ふちゅう であれば満 まん 洲 しゅう 皇帝 こうてい に不忠 ふちゅう となる」と、日本 にっぽん 出身 しゅっしん 者 しゃ が多 おお くを占 し める満 まん 洲 しゅう 国 こく 政府 せいふ 首脳 しゅのう 部 ぶ に対 たい して訓示 くんじ を行 おこな ったなど、満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい としての自 みずか らの地位 ちい を強固 きょうこ にする為 ため 日本 にっぽん 国 こく の皇室 こうしつ との親 した しい関係 かんけい を表明 ひょうめい していた。
この2回 かい が溥儀 ふぎ にとって最初 さいしょ で最後 さいご の公式 こうしき 外遊 がいゆう だった。溥儀 ふぎ は1935年 ねん と1940年 ねん の2回 かい の訪日 ほうにち ともに、この頃 ころ よりアヘン 中毒 ちゅうどく などいくつかの病気 びょうき が伝 つた えられた婉容 を同伴 どうはん せず、単独 たんどく で訪日 ほうにち を行 おこな った。
満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん の戦闘 せんとう 機 き (1942年 ねん )
満 まん 洲 しゅう 国内 こくない で演習 えんしゅう を行 おこな う関東軍 かんとうぐん の九 きゅう 五 ご 式 しき 軽 けい 戦車 せんしゃ (1944年 ねん )
その後 ご の1941年 ねん 12月7日 にち の太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )の開戦 かいせん により、日本 にっぽん が中華民国 ちゅうかみんこく に併 あわ せてイギリスやアメリカ、オランダやオーストラリア などの連合 れんごう 国 こく と交戦 こうせん 状態 じょうたい に入 はい った。
しかし、満 まん 洲 しゅう 国 こく は連合 れんごう 国 こく 各国 かっこく に対 たい する宣戦 せんせん 布告 ふこく を行 おこな わず、さらに満 まん 洲 しゅう 国 こく の同盟 どうめい 国 こく である日本 にっぽん と、満 まん 洲 しゅう 国 こく の隣国 りんごく ソビエト連邦 れんぽう との間 あいだ に日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく が存在 そんざい することから、満 まん 洲 しゅう 国内 こくない は国民党 こくみんとう 軍 ぐん や共産党 きょうさんとう 軍 ぐん によるゲリラ 攻撃 こうげき がたびたび行 おこな われており、それらと満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん の戦闘 せんとう は行 おこな われていたものの、日本 にっぽん 軍 ぐん とイギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん 、中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん との戦闘 せんとう 地域 ちいき から離 はな れていることもあり平静 へいせい が続 つづ いた。1943年 ねん に東京 とうきょう で開催 かいさい された大 だい 東亜 とうあ 会議 かいぎ は実務 じつむ 者 しゃ 会議 かいぎ であるために出席 しゅっせき せず、張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ 総理 そうり を出席 しゅっせき させている。
1943年 ねん には溥傑が日本 にっぽん の陸軍 りくぐん 大 だい 学校 がっこう に教官 きょうかん として配属 はいぞく されたため、溥傑とその一家 いっか は東京 とうきょう に居 きょ を移 うつ すこととなった。この頃 ころ 、日本 にっぽん 軍 ぐん はまだまだ各地 かくち で勢 いきお いを保 たも っていたものの、事実 じじつ 上 じょう 1国 こく だけでイギリスやアメリカ、中華民国 ちゅうかみんこく やオーストラリアなど複数 ふくすう 国 こく からなる連合 れんごう 国 こく と対峙 たいじ していた上 うえ 、オーストラリア北部 ほくぶ やアメリカ西海岸 にしかいがん 、アフリカ 南部 なんぶ など国力 こくりょく を超 こ えて戦線 せんせん が拡大 かくだい していたこともあり、1944年 ねん に入 はい ると各地 かくち で次第 しだい に敗戦 はいせん の色 いろ を濃 こ くしてゆく。なお、同年 どうねん 溥傑は学習 がくしゅう 院 いん に入学 にゅうがく した長女 ちょうじょ の慧 とし 生 せい を東京 とうきょう に残 のこ し、妻 つま や次女 じじょ の嫮生とともに新 しん 京 きょう に戻 もど った。
その後 ご も主 おも な戦場 せんじょう から遠 とお く離 はな れた上 うえ に、農業 のうぎょう 生産 せいさん も順調 じゅんちょう に行 おこな われていた満 まん 洲 しゅう 国内 こくない は平静 へいせい を保 たも ったものの、多 おお くの関東軍 かんとうぐん が南方 なんぽう 戦線 せんせん へ移動 いどう するのと同時 どうじ に、多 おお くの食料 しょくりょう が食糧難 しょくりょうなん になってきていた日本 にっぽん に輸出 ゆしゅつ されるようになっていく。
さらに1945年 ねん に入 はい ると工業 こうぎょう 地帯 ちたい や軍 ぐん の基地 きち などが、イギリス領 りょう インド帝国 ていこく 経由 けいゆ で中華民国 ちゅうかみんこく 内陸 ないりく 部 ぶ の成都 せいと 基地 きち から飛来 ひらい したアメリカ軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき 機 き などの攻撃 こうげき をたびたび受 う け、これらの爆 ばく 撃 げき 機 き と満 まん 洲 しゅう 国 こく 飛行 ひこう 隊 たい の戦闘 せんとう 機 き との空中 くうちゅう 戦 せん が行 おこな われるなど、少 すこ しずつ戦火 せんか の影響 えいきょう を受 う けるようになってゆく。
満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい を退位 たいい した記念 きねん 碑 ひ
満 まん 洲 しゅう 国 こく 湾岸 わんがん 警備 けいび がおかれていた旅順 りょじゅん 口 こう 区 く を占領 せんりょう したソ連 それん 軍 ぐん
その後 ご 1945年 ねん 8月 がつ 8日 にち に、先立 さきだ って行 おこな われたヤルタ会議 かいぎ でのイギリスやアメリカなどのほかの連合 れんごう 国 こく との密約 みつやく により、ソ連 それん 政府 せいふ はモスクワ に終戦 しゅうせん 仲介 ちゅうかい 依頼 いらい に来 き ていた駐 ちゅう ソ連 それん 日本 にっぽん 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし 佐藤 さとう 尚武 なおたけ に対 たい し、1946年 ねん 4月 がつ 26日 にち まで有効 ゆうこう だった日 ひ ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく の一方 いっぽう 的 てき な破棄 はき と宣戦 せんせん 布告 ふこく を通告 つうこく し、その数 すう 十 じゅう 分 ふん 後 ご にソ連 それん 軍 ぐん の大 だい 部隊 ぶたい が北西 ほくせい の外 そと 蒙 こうむ 古 ふる および北東 ほくとう の沿海州 えんかいしゅう 、北 きた の孫呉 そんご 方面 ほうめん 及 およ びハイラル 方面 ほうめん の3方向 ほうこう からソ満 まん 国境 こっきょう を越 こ えて、日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく である満 まん 洲 しゅう 国 こく に侵攻 しんこう した。ソ連 それん は満 まん 洲 しゅう 国 こく には宣戦 せんせん 布告 ふこく 等 とう は行 おこ なわず、日本 にっぽん の支配 しはい 地域 ちいき への侵攻 しんこう と言 い う位置付 いちづ けだった。
大本営 だいほんえい は1945年 ねん 5月 がつ 、大連 たいれん 、新 しん 京 きょう 、図 ず 們を結 むす ぶ最終 さいしゅう 防衛 ぼうえい 線 せん を策定 さくてい 、満 まん 洲 しゅう の4分 ぶん の3を放棄 ほうき して南 みなみ 満 まん 洲 しゅう での対 たい ソ持久 じきゅう 戦 せん を決定 けってい 。ソ連 それん の対 たい 日 にち 参戦 さんせん を9月 がつ 以降 いこう と読 よ んでいた甘 あま さはあるにせよ、太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん の戦況 せんきょう 悪化 あっか のため精鋭 せいえい を南方 なんぽう に転出 てんしゅつ させられていた関東軍 かんとうぐん はすぐさま通 つう 化 か に後退 こうたい した。
1945年 ねん 5月 がつ のドイツ の敗北 はいぼく 以降 いこう 、対 たい 日 にち 侵攻 しんこう に備 そな えてヨーロッパ戦線 せんせん から転進 てんしん しソ満 まん 国境 こっきょう 付近 ふきん に集結 しゅうけつ していたソ連 それん 軍 ぐん に対 たい して、装備 そうび が貧弱 ひんじゃく な満州 まんしゅう 国軍 こくぐん は各 かく 部隊 ぶたい が分断 ぶんだん され、効果 こうか 的 てき な反撃 はんげき もできないままに潰滅 かいめつ 状態 じょうたい になった。軍 ぐん や官僚 かんりょう 、満 まん 鉄 てつ 関係 かんけい 者 しゃ を乗 の せた列車 れっしゃ は居留民 きょりゅうみん を置 お き去 ざ りにし、追撃 ついげき を阻止 そし するために通過 つうか 後 ご の橋梁 きょうりょう などを破壊 はかい していった。
溥儀 ふぎ やその家族 かぞく 、満 まん 洲 しゅう 国 こく の閣僚 かくりょう や関東 かんとう 軍 ぐん の上層 じょうそう 部 ぶ たちは、ソ連 それん 軍 ぐん の進撃 しんげき が進 すす むと8月 がつ 10日 とおか に首都 しゅと の新 しん 京 きょう の放棄 ほうき を決定 けってい し、8月 がつ 13日 にち に日本 にっぽん 領 りょう 朝鮮 ちょうせん との国境 こっきょう に程近 ほどちか い通 つう 化 か 省 しょう 臨江県 けん の大 だい 栗子 りつこ に、南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう の特別 とくべつ 列車 れっしゃ で避難 ひなん した。
しかし、事実 じじつ 上 じょう 1国 こく で連合 れんごう 国 こく と戦 たたか っていた日本 にっぽん が8月 がつ 15日 にち に連合 れんごう 国 こく に対 たい して降伏 ごうぶく したことにより、その2日 にち 後 ご の8月 がつ 17日 にち に国務 こくむ 院 いん が満 まん 洲 しゅう 国 こく の解体 かいたい を決定 けってい 、8月 がつ 18日 にち 未明 みめい に大 だい 栗子 くりご で満 まん 洲 しゅう 国 こく の解散 かいさん を自 みずか ら宣言 せんげん するとともに、満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい を退位 たいい した。
四 よん 式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き
満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい を退位 たいい した溥儀 ふぎ は、日本 にっぽん 政府 せいふ より日本 にっぽん への亡命 ぼうめい を打診 だしん されたこともあり、日本 にっぽん 軍 ぐん との連絡 れんらく の元 もと で8月 がつ 19日 にち 朝 あさ に満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん の輸送 ゆそう 機 き で大 だい 栗子 くりご から奉天 ほうてん へ向 む かった。奉天 ほうてん の飛行場 ひこうじょう では、岐阜 ぎふ 基地 きち から京 きょう 城 しろ 、平壌 ぴょんやん 経由 けいゆ で送 おく られてきた日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の救援 きゅうえん 機 き (四 よん 式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き )が手配 てはい されていたため、これを奉天 ほうてん で待 ま つ予定 よてい だった[17] 。
しかし同日 どうじつ 昼 ひる に、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の救援 きゅうえん 機 き の到着 とうちゃく に先立 さきだ ち奉天 ほうてん に進軍 しんぐん して来 き たソ連 それん の空挺 くうてい 部隊 ぶたい に捕 と らえられた。その後 ご 、溥儀 ふぎ や溥傑、毓嶦 及 およ び吉岡 よしおか ら満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく 宮中 きゅうちゅう 一 いち 行 ぎょう は直 ただ ちにソ連 それん 領内 りょうない に移送 いそう され、さらにソ連 それん 極東 きょくとう 部 ぶ のチタ を経 へ て
ハバロフスク の第 だい 45特別 とくべつ 地区 ちく (将校 しょうこう 収容 しゅうよう 所 しょ )に収容 しゅうよう された[18] 。
その後 ご も溥儀 ふぎ ら満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく 宮中 きゅうちゅう 一 いち 行 ぎょう の身柄 みがら はソ連 それん に留 と め置 お かれ、中華民国 ちゅうかみんこく に引 ひ き渡 わた されることはなかった。収監 しゅうかん 中 ちゅう に中華民国 ちゅうかみんこく への引渡 ひきわた しを恐 おそ れてソ連 それん 永住 えいじゅう とソ連 それん 共産党 きょうさんとう への入党 にゅうとう を希望 きぼう したが、却下 きゃっか されている[19] [20] 。溥儀 ふぎ はこのほか、ソ連 それん の歓心 かんしん を買 か うため多数 たすう の財宝 ざいほう の提供 ていきょう を申 もう し出 で ていた[21] 。
婉容や浩 ひろし は溥儀 ふぎ や溥傑の航空機 こうくうき による日本 にっぽん への亡命 ぼうめい に同行 どうこう できず、地上 ちじょう での移動 いどう を余儀 よぎ なくされた末 すえ に、わずかな親族 しんぞく や従者 じゅうしゃ と共 とも に満 まん 洲 しゅう 国内 こくない に取 と り残 のこ され、ソ連 それん モンゴル連合 れんごう 軍 ぐん とともに満 まん 洲 しゅう に侵攻 しんこう して来 き た八 はち 路 ろ 軍 ぐん に捕 と らえられた。
さらに大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 後 ご まもなく第 だい 二 に 次 じ 国共 こっきょう 内戦 ないせん が始 はじ まり、八 はち 路 ろ 軍 ぐん が中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 軍 ぐん に追 お われる中 なか で各地 かくち を転々 てんてん 連 つ れ回 まわ され、1946年 ねん 2月 がつ には、通 つう 化 か で通 つう 化 か 事件 じけん に巻 ま き込 こ まれることとなった。
逃亡 とうぼう 中 ちゅう にアヘン 中毒 ちゅうどく の禁断症状 きんだんしょうじょう が出 で た婉容は、その後 ご 嵯峨 さが 浩 ひろし などの親族 しんぞく や従者 じゅうしゃ と引 ひ き離 はな され、吉林 きつりん 省 しょう 延吉 えんきち の監獄 かんごく 内 ない でアヘン中毒 ちゅうどく の禁断症状 きんだんしょうじょう と栄養失調 えいようしっちょう のために、誰 だれ にも看取 みと られることもないままに孤独 こどく 死 し したといわれる。死後 しご どこに埋葬 まいそう されたかは現在 げんざい でも分 わ かっていない。
ソ連 それん 軍 ぐん 将校 しょうこう と共 とも に東京 とうきょう 裁判 さいばん に向 む かう溥儀 ふぎ (1946年 ねん 8月 がつ 9日 にち )
溥儀 ふぎ がソ連 それん の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に収監 しゅうかん された翌年 よくねん の1946年 ねん に開廷 かいてい した極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん (東京 とうきょう 裁判 さいばん )には、証人 しょうにん として連合 れんごう 国 こく 側 がわ から指名 しめい され、ソ連 それん の監視 かんし 下 か において空路 くうろ 東京 とうきょう へ護送 ごそう され、同年 どうねん 8月 がつ 16日 にち よりソ連 それん 側 がわ からの証人 しょうにん として証言 しょうげん を行 おこな った。
ここで、板垣 いたがき 征四郎 せいしろう (当時 とうじ は大佐 たいさ )から「本庄 ほんじょう 繁 しげる 司令 しれい 官 かん の命令 めいれい として満 まん 洲 しゅう 国 こく における領 りょう 軸 じく になって欲 ほ しい」、という依頼 いらい があったことを証言 しょうげん し、「自分 じぶん の立場 たちば は日本 にっぽん の傀儡 かいらい 以外 いがい 何 なに ものでもない」と主張 しゅちょう した。
「顧問 こもん の話 はなし では、板垣 いたがき はもしもこの申 もう し出 で を拒絶 きょぜつ すれば、生命 せいめい の危険 きけん があると脅迫 きょうはく した。それで、両 りょう 名 な と顧問 こもん の1人 ひとり の羅 ら 振 ふ 玉 たま は、板垣 いたがき の申 もう し出 で を受諾 じゅだく するようにと私 わたし に勧 すす めた」、「本当 ほんとう の気持 きも ちは拒絶 きょぜつ したかった。しかし4人 にん の顧問 こもん は受諾 じゅだく を勧 すす めた。当時 とうじ 、日本 にっぽん 軍 ぐん の圧迫 あっぱく を如何 いか なる民主 みんしゅ 国家 こっか も阻止 そし しなかった。私 わたし だけでは抵抗 ていこう 出来 でき なかった」、「私 わたし の意志 いし は拒絶 きょぜつ するにあったが、武力 ぶりょく 圧迫 あっぱく を受 う け、しかも一方 いっぽう に顧問 こもん から生命 せいめい が危険 きけん だから応諾 おうだく せよと勧 すす められて、遂 つい にやむを得 え ず受諾 じゅだく したのだ」、「日本 にっぽん は満 まん 洲 しゅう を植民 しょくみん 地 ち 化 か し、神道 しんとう による宗教 しゅうきょう 侵略 しんりゃく を行 おこな おうとした」と証言 しょうげん した。
「私 わたし の妻 つま は日本 にっぽん 軍 ぐん に毒殺 どくさつ された」と語 かた り、日本 にっぽん 軍 ぐん を糾弾 きゅうだん するとともに「満 まん 洲 しゅう 問題 もんだい に関 かん する責任 せきにん は全 すべ て日本 にっぽん にある」と強調 きょうちょう した。これに対 たい して、被告 ひこく 側 がわ の弁護 べんご 団 だん は、反対 はんたい 尋問 じんもん において、満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく 当時 とうじ の南 みなみ 次郎 じろう 陸相 りくしょう に送 おく られた、日 にち 満 まん 提携 ていけい を認 みと める「宣 せん 統 すべ 帝 みかど 親書 しんしょ 」を証拠 しょうこ として提出 ていしゅつ して溥儀 ふぎ の証言 しょうげん 内容 ないよう の信憑 しんぴょう 性 せい を追及 ついきゅう した[注 ちゅう 2] 。ちなみに、東京 とうきょう 裁判 さいばん において、検察 けんさつ 陣 じん から直接 ちょくせつ 尋問 じんもん を受 う けた証人 しょうにん は溥儀 ふぎ のみだった。 [要 よう 出典 しゅってん ] ジョンストンの著書 ちょしょ である『紫 むらさき 禁城 きんじょう の黄昏 たそがれ 』も弁護 べんご 側 がわ 資料 しりょう として提出 ていしゅつ されたが、さしたる理由 りゆう も提示 ていじ されないままに却下 きゃっか され裁判 さいばん 資料 しりょう とはされなかった[23] 。
後 のち に認 みと めた自叙伝 じじょでん 『わが半生 はんせい 』では、「今日 きょう 、あの時 とき の証言 しょうげん を思 おも い返 かえ すと、私 わたし は非常 ひじょう に残念 ざんねん に思 おも う。私 わたし は、当時 とうじ 自分 じぶん が将来 しょうらい 祖国 そこく の処罰 しょばつ を受 う ける事 こと を恐 おそ れ」、「自分 じぶん の罪業 ざいごう を隠蔽 いんぺい し、同時 どうじ に自分 じぶん の罪業 ざいごう と関係 かんけい のある歴史 れきし の真相 しんそう について隠蔽 いんぺい した」と記 しる している。これはあくまで溥儀 ふぎ 自身 じしん の責任 せきにん に関 かん してのことである。藤原 ふじわら 家 か の流 なが れである三条 さんじょう 家 か の分家 ぶんけ である嵯峨 さが 侯爵 こうしゃく 家 か の生 う まれで溥儀 ふぎ の弟 おとうと である溥傑と結婚 けっこん した嵯峨 さが 浩 ひろし は、溥儀 ふぎ の証言 しょうげん は、ソ連 それん 監視 かんし 下 か で多少 たしょう の誇張 こちょう はあったとはいえ、ほぼ事実 じじつ 通 どお りであったとしている[24] 。
撫 なで 順 じゅん 戦犯 せんぱん 管理 かんり 所 しょ
その後 ご の1950年 ねん には、ソ連 それん と同 おな じく連合 れんごう 国 こく の1国 こく であり、国連 こくれん の常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく でもあった中華民国 ちゅうかみんこく ではなく、国共 こっきょう 内戦 ないせん にソ連 それん の援助 えんじょ を受 う けて勝利 しょうり した中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう によって前年 ぜんねん に中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に建国 けんこく された中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく へ身柄 みがら を移 うつ された。
その後 ご 、公式 こうしき な裁判 さいばん で裁 さば かれることすらないままに、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 当時 とうじ には存在 そんざい していなかった同国 どうこく の「戦犯 せんぱん 」として、撫 なで 順 じゅん の政治 せいじ 犯 はん 収容 しゅうよう 所 しょ (撫 なで 順 じゅん 戦犯 せんぱん 管理 かんり 所 しょ )に弟 おとうと の溥傑や同 おな じくソ連 それん 軍 ぐん にとらえられた満 まん 洲 しゅう 国 こく の閣僚 かくりょう や軍 ぐん の上層 じょうそう 部 ぶ 61人 にん 、さらに1,000人 にん を超 こ える日本 にっぽん 軍 ぐん の捕虜 ほりょ らとともに収監 しゅうかん され、「再 さい 教育 きょういく 」を受 う けることとなった。その後 ご 同年 どうねん 10月 がつ にハルビン の政治 せいじ 犯 はん 収容 しゅうよう 所 しょ に移動 いどう させられ、1954年 ねん には再 ふたた び撫 なで 順 じゅん の政治 せいじ 犯 はん 収容 しゅうよう 所 しょ に移動 いどう させられた。
収監 しゅうかん 中 ちゅう の溥儀 ふぎ は模範 もはん 囚 しゅう と言 い われるような礼儀 れいぎ 正 ただ しい言動 げんどう を行 おこな っていたと伝 つた えられている。一方 いっぽう で「収監 しゅうかん されてからしばらく、溥儀 ふぎ の生活 せいかつ 力 りょく のなさ(自分 じぶん で服 ふく や靴 くつ を履 は けない、掃除 そうじ をしない、作業 さぎょう が決 き まって溥儀 ふぎ のところで滞 とどこお るなど)により周 まわ りから不満 ふまん も絶 た えなかった」とも伝 つた えられている。
政治 せいじ 犯 はん 収容 しゅうよう 所 しょ に収監 しゅうかん 中 ちゅう の1957年 ねん 12月10日 にち に、かつて可愛 かわい がっていた溥傑の長女 ちょうじょ の慧 とし 生 せい が、学習 がくしゅう 院 いん の同級生 どうきゅうせい の大久保 おおくぼ 武道 たけみち と日本 にっぽん 静岡 しずおか 県 けん で自殺 じさつ した事件 じけん (天城山 あまぎさん 心中 しんちゅうの )を知 し り、悲 かな しんでいたことを日記 にっき 内 ない に記 しる している。
鹿 しか 鍾麟 (左 ひだり )、熊 くま 秉坤 (右 みぎ )と共 とも に、辛 からし 亥 い 革命 かくめい 50周年 しゅうねん 式典 しきてん に参列 さんれつ した際 さい の溥儀 ふぎ (1961年 ねん )
1959年 ねん 12月4日 にち に、当時 とうじ の国家 こっか 主席 しゅせき 劉少奇 りゅうしょうき の出 だ した戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん に対 たい する特赦 とくしゃ 令 れい を受 う け、12月9日 にち に模範 もはん 囚 しゅう として特赦 とくしゃ された。釈放 しゃくほう 後 ご の1960年 ねん 1月 がつ 26日 にち に、溥儀 ふぎ が政治 せいじ 犯 はん 収容 しゅうよう 所 しょ に収監 しゅうかん されている際 さい も溥儀 ふぎ に対 たい して何 なに かと便宜 べんぎ を図 はか っていた周 しゅう 恩来 おんらい 首相 しゅしょう と中 ちゅう 南海 なんかい で会談 かいだん し、釈放 しゃくほう 後 ご の将来 しょうらい について話 はな し合 あ った結果 けっか 、一般 いっぱん 市民 しみん の生活 せいかつ に慣 な れることを目的 もくてき に、周 しゅう 恩来 おんらい の薦 すす めで中国科学院 ちゅうごくかがくいん が運営 うんえい する北京 ぺきん 植物 しょくぶつ 園 えん での庭師 にわし としての勤務 きんむ を行 おこな うこととなった[25] 。
文 ぶん 史 し 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい 専門 せんもん 委員 いいん 就任 しゅうにん [ 編集 へんしゅう ]
北京 ぺきん 植物 しょくぶつ 園 えん での勤務 きんむ は、「一般 いっぱん 市民 しみん として馴染 なじ む」ための名目 めいもく 的 てき なもので短期間 たんきかん で終 お わり、その後 ご は全国 ぜんこく 政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ 文 ぶん 史 し 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい 専門 せんもん 委員 いいん になり、主 おも に文 ぶん 史 し 資料 しりょう 研究 けんきゅう を行 おこな う。また、溥儀 ふぎ とともに収容 しゅうよう 所 しょ に収監 しゅうかん されていた溥傑も1960年 ねん 11月20日 にち に釈放 しゃくほう され、溥儀 ふぎ と浩 ひろし との再会 さいかい を果 は たしている。
その後 ご 1962年 ねん には、看護 かんご 婦 ふ をしていた一般人 いっぱんじん の李 り 淑 よし 賢 けん と結婚 けっこん し李 り 淑 よし 賢 けん は溥儀 ふぎ の5人 にん 目 め の妻 つま となった[26] 。溥儀 ふぎ にとって最後 さいご の結婚 けっこん となったが、夫婦 ふうふ ともども高齢 こうれい であることもあり子 こ を授 さず かることはなかった。しかし溥儀 ふぎ と溥傑は夫婦 ふうふ でお互 たが いの家 いえ を行 い き来 き し、日本 にっぽん にいた溥傑と浩 ひろし の子 こ の慧 とし 生 せい と嫮生 と文通 ぶんつう するなど、兄弟 きょうだい 仲 なか はますます良好 りょうこう であった。
周 しゅう 恩来 おんらい (右 みぎ )と陶 すえ 鋳 い (1966年 ねん )
政 せい 協 きょう 文 ぶん 史 し 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい 専門 せんもん 委員 いいん として文 ぶん 史 し 資料 しりょう 研究 けんきゅう 活動 かつどう を行 おこな う傍 かたわ ら、1964年 ねん には多 た 民族 みんぞく 国家 こっか となった中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 内 ない において、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく と漢 かん 族 ぞく の民族 みんぞく 間 あいだ の調和 ちょうわ を目指 めざ す周 しゅう 恩来 おんらい の計 けい らいで満 まん 洲 しゅう 族 ぞく の代表 だいひょう として政 せい 協 きょう 全国 ぜんこく 委員 いいん という国会 こっかい 議員 ぎいん 相当 そうとう の格式 かくしき の職 しょく に選出 せんしゅつ され、その死去 しきょ まで委員 いいん を務 つと めた。また、溥傑も全国 ぜんこく 人民 じんみん 代表 だいひょう 大会 たいかい 常務 じょうむ 委員 いいん 会 かい 委員 いいん を務 つと めている。
周 しゅう 恩来 おんらい は、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう 出身 しゅっしん で学 がく がない多 おお くの共産党 きょうさんとう 幹部 かんぶ と異 こと なり家柄 いえがら もよく教養 きょうよう もあり、清朝 せいちょう 最後 さいご の皇帝 こうてい であり、その後 ご 不幸 ふこう な運命 うんめい を辿 たど った溥儀 ふぎ に対 たい して常 つね に同情 どうじょう 的 てき だったと言 い われている。
しかし、毛沢東 もうたくとう には別 べつ の目的 もくてき があり、ロシア帝国 ていこく 最後 さいご の皇帝 こうてい ニコライ2世 せい とその一家 いっか を虐殺 ぎゃくさつ したソ連 それん に対 たい する中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の優越 ゆうえつ 性 せい を示 しめ すために、溥儀 ふぎ を今度 こんど は共産党 きょうさんとう の傀儡 かいらい として思想 しそう 改造 かいぞう する狙 ねら いがあったとされる[27] 。
晩年 ばんねん の溥儀 ふぎ (中央 ちゅうおう 、左 ひだり が溥傑 、右 みぎ が李 り 淑 よし 賢 けん 。)
溥儀 ふぎ は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい の嵐 あらし が吹 ふ き荒 あ れる中 なか で癌 がん (腎臓 じんぞう がん )を患 わずら った。政 せい 協 きょう 全国 ぜんこく 委員 いいん という要職 ようしょく ではあるが、清朝 せいちょう 皇帝 こうてい という「反 はん 革命 かくめい 的 てき 」な出自 しゅつじ の溥儀 ふぎ の治療 ちりょう を行 おこな うことで紅衛兵 こうえいへい に攻撃 こうげき されることを恐 おそ れた多 おお くの病院 びょういん から入院 にゅういん を拒否 きょひ されたが、政 せい 協 きょう 主席 しゅせき も務 つと める周 しゅう 恩来 おんらい の手配 てはい で、北京 ぺきん 市内 しない の病院 びょういん に入院 にゅういん することになった。
しかし溥儀 ふぎ が治療 ちりょう を受 う けていることを知 し った紅衛兵 こうえいへい が、入院 にゅういん 先 さき の病院 びょういん に押 お しかけて騒 さわ いだため、医師 いし たちは溥儀 ふぎ に治療 ちりょう を施 ほどこ さず放置 ほうち した。その報告 ほうこく を受 う けて立腹 りっぷく した周 しゅう 恩来 おんらい は、直接 ちょくせつ 院長 いんちょう に電話 でんわ して溥儀 ふぎ の治療 ちりょう を行 おこな わせたが、既 すで に末期 まっき 状態 じょうたい だった溥儀 ふぎ は治療 ちりょう のかいもなく1967年 ねん 10月17日 にち に死去 しきょ した。「最後 さいご に食 た べたいものは」の質問 しつもん に、溥儀 ふぎ は「チキンラーメン 」と答 こた えたという[13] [28] 。
溥儀 ふぎ の遺骨 いこつ は当初 とうしょ 北京 ぺきん 郊外 こうがい の北京 ぺきん 市 し 八 はち 宝山 たからやま 人民 じんみん 墓 ぼ に埋葬 まいそう されたが、1995年 ねん 河北 かほく 省 しょう 易 えき 県 けん にある清朝 せいちょう の歴代 れきだい 皇帝 こうてい の陵墓 りょうぼ 清 きよし 西陵 せいりょう の近 ちか くの民間 みんかん 墓地 ぼち 「華 はな 龍 りゅう 皇 すめらぎ 園 えん 」の経営 けいえい 者 しゃ が、李 り 淑 よし 賢 けん に溥儀 ふぎ の墓 はか を作 つく ることを提案 ていあん し、これに同意 どうい した彼女 かのじょ によって溥儀 ふぎ の遺骨 いこつ は同 どう 墓地 ぼち 「献 けんじ 陵 りょう 」に移 うつ された。また、後 のち に「献 けんじ 陵 りょう 」の側 がわ に皇后 こうごう 婉容と貴人 きじん 譚 たん 玉 だま 齢 よわい の墓 はか も造 つく られたが、婉容の遺骨 いこつ は見 み つかっていないため縁 えん の品 しな のみが収 おさ められている。李 り 淑 よし 賢 けん 自身 じしん は北京 ぺきん 市 し 八 はち 宝山 たからやま 人民 じんみん 墓 ぼ に葬 ほうむ られている。
2004年 ねん 、愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 家 か より溥儀 ふぎ に廟 びょう 号 ごう 「恭 きょう 宗 むね 」、諡号 しごう 「愍皇帝 こうてい 」が追贈 ついぞう された。また皇后 こうごう 婉容 に「孝 こう 恪 つとむ 愍皇后 こうごう 」の諡号 しごう を追贈 ついぞう 。後妻 ごさい 李 り 淑 よし 賢 けん を「皇后 こうごう 」に追 つい 封 ふう し、「孝 こう 睿愍皇后 こうごう 」の諡号 しごう を追贈 ついぞう 。溥儀 ふぎ が満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい 時代 じだい に迎 むか えた貴人 きじん 譚 たん 玉 だま 齢 よわい に「明 あきら 賢 けん 皇 すめらぎ 貴 とうと 妃 ひ 」(溥儀 ふぎ が満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい 時代 じだい の1942年 ねん に死去 しきょ し、同年 どうねん 「明 あきら 賢 けん 貴 とうと 妃 ひ 」と諡 おくりな されている)、貴人 きじん 李 り 玉 たま 琴 きん に「敦 あつし 粛福貴 ふき 妃 ひ 」の諡号 しごう を追贈 ついぞう した。淑 よし 妃 ひ 文 ぶん 繍 は離婚 りこん によって庶民 しょみん に降格 こうかく されていたという理由 りゆう から諡号 しごう は追贈 ついぞう されなかった。
2017年 ねん 9月には、「中国 ちゅうごく 近代 きんだい 史 し に不可欠 ふかけつ な人物 じんぶつ 」として溥儀 ふぎ を専門 せんもん 的 てき に研究 けんきゅう する「溥儀 ふぎ 研究 けんきゅう 院 いん 」が、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 政府 せいふ の正式 せいしき な認可 にんか と後援 こうえん を受 う けて長春 ちょうしゅん に設立 せつりつ された[29] 。
正妻 せいさい である婉容 と側室 そくしつ である文 ぶん 繡 と1922年 ねん に結婚 けっこん するが、後 のち に文 ぶん 繡と離婚 りこん 、その後 ご アヘン 中毒 ちゅうどく になった婉容とも満 まん 洲 しゅう 国 こく 崩壊 ほうかい を受 う け逃亡 とうぼう する中 なか 生 い き別 わか れになる。なお、満 まん 洲 しゅう 国 こく 時代 じだい に北京 ぺきん の旗 はた 人 じん 出身 しゅっしん の譚 たん 玉 だま 齢 よわい (他 た 他 た 拉 ひしげ 氏 し 、祥 さち 貴人 きじん )、長春 ちょうしゅん の漢 かん 族 ぞく 出身 しゅっしん の李 り 玉 たま 琴 きん (福貴 ふき 人 じん )を側室 そくしつ として迎 むか えたが、それぞれ死別 しべつ 、離婚 りこん している。
溥儀 ふぎ は自伝 じでん 『我 が 的 てき 前半 ぜんはん 生 せい 』で婉容については「私 わたし が彼女 かのじょ について知 し っているのは、吸毒(アヘン)の習慣 しゅうかん に染 そ まったこと、許 ゆる し得 え ない行為 こうい があったことぐらいである」とだけ書 か いている。「許 ゆる し得 え ない行為 こうい 」とは満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい 時代 じだい に愛人 あいじん を作 つく り、その子供 こども を産 う んだとされる事 こと を指 さ すと思 おも われる。子供 こども は溥儀 ふぎ の命 いのち により生 う まれてすぐにボイラー に放 ほう り込 こ まれ殺害 さつがい されたと言 い われる。
李 り 玉 たま 琴 きん は満 まん 洲 しゅう 国 こく 崩壊 ほうかい 後 ご の1945年 ねん に離婚 りこん を表明 ひょうめい 。1957年 ねん 5月、撫 なで 順 じゅん の政治 せいじ 犯 はん 収容 しゅうよう 所 しょ に収監 しゅうかん されていた溥儀 ふぎ に面会 めんかい し正式 せいしき に離婚 りこん 。翌年 よくねん 、吉林 きつりん 省 しょう のラジオ局 きょく エンジニアの黄 き 毓庚という人物 じんぶつ と再婚 さいこん し、2人 ふたり の息子 むすこ を儲 もう けた。このためか溥儀 ふぎ は自伝 じでん 『我 が 的 てき 前半 ぜんはん 生 せい 』で玉 たま 琴 きん についてはほとんど言及 げんきゅう していない。玉 たま 琴 きん は文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい 期 き に迫害 はくがい を受 う けたため、溥儀 ふぎ の妻 つま ではないことの確認 かくにん を溥儀 ふぎ に申 もう し立 た てた。溥儀 ふぎ は玉 たま 琴 きん とは既 すで に離婚 りこん しており玉 たま 琴 きん の家族 かぞく にも何 なん ら特権 とっけん は与 あた えていない旨 むね の証明 しょうめい 書 しょ を書 か いた。
1959年 ねん に特赦 とくしゃ された後 のち 、1962年 ねん に看護 かんご 婦 ふ をしていた漢 かん 族 ぞく の李 り 淑 よし 賢 けん (1924年 ねん - 1997年 ねん )と再婚 さいこん し、その後 ご の生涯 しょうがい を沿 そ い遂 と げることになる。生涯 しょうがい で子 こ をもうける事 こと は無 な かった。溥儀 ふぎ に子供 こども ができなかったことについて義妹 ぎまい の嵯峨 さが 浩 ひろし は「同性愛 どうせいあい であったため」と推測 すいそく し、2人 ふたり 目 め の正妻 せいさい である李 り 淑 よし 賢 けん は同性愛 どうせいあい を否定 ひてい し、「インポテンツ だったため正常 せいじょう な夫婦 ふうふ 関係 かんけい が築 きず けなかった」と主張 しゅちょう している。牧 まき 久 ひさ 著 ちょ 『転生 てんせい 』では、幼少 ようしょう 時 じ に女官 にょかん や宦官 かんがん に性的 せいてき 虐待 ぎゃくたい を受 う けていたと疑 うたが われている。
『我 わ が半生 はんせい 』(原題 げんだい :我 が 的 てき 前半 ぜんはん 生 せい 、英語 えいご 題 だい :The former half of my life )は、唯一 ゆいいつ の自伝 じでん である。執筆 しっぴつ は、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく で「政治 せいじ 犯 はん 」として「再 さい 教育 きょういく 」を受 う けていた1957年 ねん 後半 こうはん から一 いち 年 ねん 余 あま りをかけて、20万 まん 字 じ の初稿 しょこう を完成 かんせい させた。その後 ご 内容 ないよう のいくつかの部分 ぶぶん において専門 せんもん 家 か の意見 いけん が分 わ かれるなどし、第 だい 一 いち 稿 こう 、第 だい 二 に 稿 こう が作 つく られたのち、最終 さいしゅう 的 てき に1964年 ねん 3月 がつ に正式 せいしき 出版 しゅっぱん された。日本語 にほんご 訳本 やくほん (小野 おの 忍 しのぶ ・新島 にいじま 淳 あつし 良 りょう ・野原 のはら 四郎 しろう ・丸山 まるやま 昇 のぼる 訳 わけ 、各 かく 全 ぜん 2巻 かん で筑摩 ちくま 叢書 そうしょ 、新版 しんぱん ちくま文庫 ぶんこ )が出版 しゅっぱん されている。また、残 のこ された日記 にっき の断片 だんぺん が『溥儀 ふぎ 日記 にっき 』(王 おう 慶 けい 祥 さち 編 へん [30] 、学生 がくせい 社 しゃ )が出版 しゅっぱん されている。
2007年 ねん 、同書 どうしょ が中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく において大幅 おおはば に加筆 かひつ した完全 かんぜん 版 ばん として出版 しゅっぱん されることとなった。極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん での偽証 ぎしょう を謝罪 しゃざい し、日本 にっぽん 軍 ぐん と満 まん 洲 しゅう 国 こく との連絡 れんらく 役 やく を務 つと めた関東軍 かんとうぐん 将校 しょうこう の吉岡 よしおか 安直 あんちょく に罪 つみ を擦 なす り付 つ けたと後 のち に反省 はんせい したことなど、1964年版 ねんばん 当時 とうじ に削除 さくじょ された16万 まん 字 じ 近 ちか い部分 ぶぶん が今回 こんかい 盛 も り込 こ まれている。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 国内 こくない での報道 ほうどう によると、今回 こんかい 1964年版 ねんばん 前 まえ の第 だい 一 いち 稿 こう 、二 に 稿 こう から、
序言 じょげん ≪中国人 ちゅうごくじん 的 てき 骄傲 (中国人 ちゅうごくじん の誇 ほこ り)≫
第 だい 六 ろく 章 しょう 《伪满十 じゅう 四 よん 年 ねん 》的 てき 第 だい 一 いち 节≪“同 どう 时上演 じょうえん 的 てき 另一 いち 台 だい 戏——摘录一个参与者的记述 ” (第 だい 6章 しょう 「満 まん 洲 しゅう 国 こく 14年 ねん 」の第 だい 1節 せつ “もう一人 ひとり を同時 どうじ に演 えん じる ― 一 いち 参加 さんか 者 しゃ の記述 きじゅつ より引用 いんよう する”)≫
第 だい 七 なな 章 しょう 《在 ざい 苏联的 てき 五 ご 年 ねん 》的 てき 第 だい 四 よん 节≪“远东国 こく 际军事 ごと 法 ほう 庭 にわ ” (第 だい 7章 しょう 「ソ連 それん の5年 ねん 」の第 だい 4節 せつ “極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい ”)≫
第 だい 十 じゅう 章 しょう 《一切 いっさい 都 と 在 ざい 变》的 てき 第 だい 四 よん 节≪“离婚 ” (第 だい 10章 しょう 「新 あたら しい一章 いっしょう 」の第 だい 4節 せつ “離婚 りこん ”)≫
などを含 ふく んでいる。
溥儀 ふぎ には継承 けいしょう 者 しゃ がおらず死去 しきょ した際 さい に遺言 ゆいごん 書 しょ がなかったため、版元 はんもと の群衆 ぐんしゅう 出版 しゅっぱん 社 しゃ から北京 ぺきん 市 し の西城 さいじょう 裁判所 さいばんしょ へ、同書 どうしょ を「相続 そうぞく 人 じん のない財産 ざいさん 」とする認定 にんてい 請求 せいきゅう を提出 ていしゅつ した。裁判所 さいばんしょ は請求 せいきゅう に基 もと づき審査 しんさ を開始 かいし したが、まだ裁判所 さいばんしょ の判断 はんだん は示 しめ されていない。
工藤 くどう 忠 ただし 『皇帝 こうてい 溥儀 ふぎ :私 わたし は日本 にっぽん を裏切 うらぎ ったか』(世界 せかい 社 しゃ 、1952年 ねん )、ISBN B000JBBCCK、絶版 ぜっぱん
牧 まき 久 ひさ 『転生 てんせい 満州 まんしゅう 国 こく 皇帝 こうてい ・愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥儀 ふぎ と天皇 てんのう 家 か の昭和 しょうわ 』 (小学館 しょうがくかん 、2022年 ねん )
王 おう 慶 けい 祥 さち 『毛沢東 もうたくとう 、周 しゅう 恩来 おんらい と溥儀 ふぎ 』(松田 まつだ 徹 とおる 訳 やく 、科学 かがく 出版 しゅっぱん 社 しゃ 東京 とうきょう 、2017年 ねん )
『中原 なかはら の虹 にじ 』浅田 あさだ 次郎 じろう 著 しる 講談社 こうだんしゃ (2006-2007) のち文庫 ぶんこ
『天子 てんし 蒙塵 もうじん 』浅田 あさだ 次郎 じろう 著 ちょ 講談社 こうだんしゃ (2016年 ねん )
溥儀 ふぎ が主人公 しゅじんこう である映画 えいが
ラストエンペラー (1987年 ねん 、イタリア / 中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく / イギリス)
火 ひ 龍 りゅう (1986年 ねん 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく / 香港 ほんこん )
溥儀 ふぎ 役 やく :レオン・カーフェイ 。収容 しゅうよう 所 しょ から出所 しゅっしょ してから病院 びょういん で死去 しきょ するまでの溥儀 ふぎ と再婚 さいこん した李 り 淑 よし 賢 けん との生活 せいかつ を描 えが いている。
溥儀 ふぎ の周辺 しゅうへん を描 えが く映画 えいが
溥儀 ふぎ を主人公 しゅじんこう としたテレビドラマ
ラストエンペラー (VHS邦題 ほうだい :末代 まつだい 皇帝 こうてい THE LAST EMPEROR、1988年 ねん 、中国 ちゅうごく )
末代 まつだい 皇帝 こうてい 伝奇 でんき (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) (英 えい 題 だい :THE LAST EMPEROR LEGEND、中国 ちゅうごく ・長城 ちょうじょう 影 かげ 視 し 制作 せいさく 、2014年 ねん 、全 ぜん 60話 わ 、日本 にっぽん 未 み 公開 こうかい )
溥儀 ふぎ 役 やく :応 おう 懿暄 →陳 ちん 鴻 ひろし 錦 にしき →余 よ 少 しょう 群 ぐん →趙 ちょう 文 ぶん 瑄 。溥儀 ふぎ の即位 そくい 、大 だい 清 きよし 帝国 ていこく の滅亡 めつぼう 、紫 むらさき 禁城 きんじょう での名 な ばかり皇帝 こうてい としてのモラトリアム、満 まん 洲 しゅう 国 こく の建国 けんこく と滅亡 めつぼう 、囚人 しゅうじん 生活 せいかつ 、新 しん 中国 ちゅうごく での公民 こうみん としての豊 ゆた かな生活 せいかつ 、最後 さいご に文革 ぶんかく の勃発 ぼっぱつ と溥儀 ふぎ の死 し までを、重厚 じゅうこう に描 えが く。
溥儀 ふぎ の周辺 しゅうへん を描 えが くテレビドラマ
^ 同書 どうしょ は溥儀 ふぎ に捧 ささ げられている。
^ 溥儀 ふぎ はこの親書 しんしょ を偽作 ぎさく と主張 しゅちょう した。だが、裁判所 さいばんしょ の命令 めいれい により、科学 かがく 捜査 そうさ 研究所 けんきゅうじょ の写真 しゃしん 課 か 課長 かちょう である高村 たかむら 巌 いわお が筆跡 ひっせき 鑑定 かんてい を行 おこな った結果 けっか 、親書 しんしょ に記入 きにゅう された文字 もじ のほとんどが溥儀 ふぎ の真筆 しんぴつ であると断定 だんてい された[22] 。
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