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あいしんさとし溥儀ふぎ

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溥儀ふぎから転送てんそう
せんすべみかど あいしんさとし溥儀ふぎ
きよし
だい12だい皇帝こうてい
ちょういさお復辟ふくへきどき溥儀ふぎ(1917ねん
王朝おうちょう きよし
在位ざいい期間きかん 1908ねん12月2にち - 1912ねん2がつ12にち
1917ねん7がつ1にち - 1917ねん7がつ12にちちょういさお復辟ふくへき
都城みやこのじょう むらさき禁城きんじょう
せいいみな あいしんさとし溥儀ふぎ
まんしゅう aisin gioro pu i
諡号しごう皇帝こうてい
びょうごう きょうむね
生年せいねん ひかりいとぐち32ねん1がつ14にち1906ねん2がつ7にち
没年ぼつねん (1967-10-17) 1967ねん10月17にち(61さいぼつ
ちち あつし親王しんのう実父じっぷ
どうみかど養父ようふ
ひかりいとぐちみかど養父ようふ
はは あつし親王しんのうふりしかけいようらん
后妃こうひ こうつとむ皇后こうごう
こう睿愍皇后こうごう
あかりけんすめらぎとうと
あつし福貴ふき
陵墓りょうぼ はなりゅうすめらぎえんけんじりょう
年号ねんごう せんみつる: 1909ねん - 1912ねん
まんしゅうこく大同だいどう : 1932ねん - 1934ねん
まんしゅうこく康徳やすのり : 1934ねん - 1945ねん
康徳やすのりみかど あいしんさとし溥儀ふぎ
清末きよすえみかど
まんしゅうこく皇帝こうてい
まんしゅうこく皇帝こうてい時代じだい溥儀ふぎ
在位ざいい 1932ねん3月9にち - 1934ねん3月1にち執政しっせい
1934ねん3がつ1にち - 1945ねん8がつ18にち皇帝こうてい
戴冠たいかんしき 1932ねん3月9にちみちだい衙門執政しっせい
1934ねん3月1にちあんず花村はなむらじゅんてん広場ひろばつげてんれい)・皇宮こうぐうつとむみんろう即位そくいしき
べつごう 浩然こうぜんごう)、ヘンリー(英名えいめい

ぜん あいしんさとし溥儀ふぎ
出生しゅっしょう (1906-02-07) 1906ねん2がつ7にち
清の旗 きよし ちょく隷省じゅんてん
死去しきょ (1967-10-17) 1967ねん10月17にち(61さいぼつ
中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく 北京ぺきん
埋葬まいそう 1995ねん
中華人民共和国の旗 中国ちゅうごく 河北かほくしょうていえきけん はなりゅうすめらぎりょうえん
配偶はいぐうしゃ
家名かめい あいしんさとし
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称号しょうごう皇帝こうてい
敬称けいしょう
あいしんさとし 溥儀ふぎ
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ あいしんさとし 溥儀ふぎ
簡体字かんたいじ 爱新觉罗 溥仪
拼音 Àixīnjuéluó Pǔyí
ラテン P'u3-i2
和名わみょう表記ひょうき あいしんかくら ふぎ
発音はつおん転記てんき アイシンジュエルオ プーイー
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あいしんさとし 溥儀ふぎ(あいしんかくら ふぎ、アイシンギョロ・プーイー、まんしゅうᠠᡞᠰᡞᠨ
ᡤᡞᠣᠷᠣ
ᡦᡠ ᡞ
転写てんしゃ:aisin gioro pu i、1906ねん2がつ7にち - 1967ねん10月17にち)は、きよしだい12だいにして最後さいご皇帝こうてい在位ざいい1908ねん12月2にち - 1912ねん2がつ12にち)、のちまんしゅうこく執政しっせい1932ねん3月9にち - 1934ねん3月1にち)、まんしゅうこく皇帝こうてい在位ざいい:1934ねん3がつ1にち - 1945ねん8がつ18にち)。1960ねんから中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく人民じんみん政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎせいきょうぶん研究けんきゅう委員いいんかい専門せんもん委員いいん1964ねんからせいきょう全国ぜんこく委員いいん兼任けんにん

は「耀之」。ごうは「浩然こうぜん」。からし革命かくめい呼称こしょうとしては、廃帝はいてい中華民国ちゅうかみんこくがわからばれる一方いっぽうきゅう清朝せいちょう立場たちばからはへりくだみかど(「へりくだ」は「ゆずる」の)ともばれた。末代まつだい皇帝こうていまつみかど)とばれる場合ばあいもある。また、唯一ゆいいつ火葬かそうされた皇帝こうていのため「りゅうりゅう皇帝こうていす)」ともばれる。

概要がいよう

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中華ちゅうかけん最後さいご皇帝こうていであり、その生涯しょうがい題材だいざいにした映画えいがから『ラストエンペラー』としてられる。ようみかどとして2さい清朝せいちょうだい12だい皇帝こうてい即位そくいし、元号げんごうからせんみつるみかどしょうされる。からし革命かくめいこうへりくだきよし皇室こうしつしょう朝廷ちょうていとしてだいきよし皇帝こうてい尊号そんごう保持ほじされたが、ちょういさお復辟ふくへき復位ふくいして12日間にちかんふたた退位たいいした。

そのしんしつ優待ゆうたい条件じょうけんによりむらさき禁城きんじょうむことはゆるされたものの、北京ぺきん政変せいへんむらさき禁城きんじょうわれてしまう。さらに当初とうしょ庇護ひごけようとしたイギリスオランダ公館こうかん庇護ひご拒否きょひされてしまい、天津てんしん日本にっぽん租界そかい日本にっぽん公館こうかん庇護ひごけた。

これ以降いこうえんで、まんしゅう事変じへん以降いこう関東軍かんとうぐん主導しゅどう建国けんこくされたまんしゅうこく執政しっせい就任しゅうにんまんしゅう国軍こくぐん大元帥だいげんすいまんしゅうこく協和きょうわかい名誉めいよ総裁そうさいなどを兼任けんにんし、帝政ていせい移行いこうまんしゅうこく皇帝こうていとして即位そくいした。まんしゅうこく皇帝こうていとしては元号げんごうから康徳やすのりみかど康徳やすのり皇帝こうてい)としょうされることもある。だい世界せかい大戦たいせんにおける日本にっぽん敗戦はいせんと、ソビエト連邦れんぽうぐん赤軍せきぐん)の侵略しんりゃくけたまんしゅう帝国ていこく解散かいさんとともに退位たいいした。

ソ連それん赤軍せきぐん捕虜ほりょとなって中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくわたされ、1959ねん遼寧りょうねいしょうなでじゅん戦犯せんぱん管理かんりしょからの釈放しゃくほう1960ねん2がつから1961ねん3がつまで中国共産党ちゅうごくきょうさんとうしゅう恩来おんらい指示しじにより、一般いっぱん市民しみんにとしての生活せいかつれるための「労働ろうどう鍛錬たんれん」として中国科学院ちゅうごくかがくいん植物しょくぶつ研究所けんきゅうじょ北京ぺきん植物しょくぶつえん庭師にわしとして勤務きんむしたが、すぐにせいきょうぶん研究けんきゅう委員いいんかい専門せんもん委員いいん就任しゅうにんした。さらに晩年ばんねん1964ねんには、まんしゅう民族みんぞく代表だいひょうとしてせいきょう全国ぜんこく委員いいん選出せんしゅつされ、北京ぺきん生涯しょうがいえた。

生涯しょうがい

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年表ねんぴょう

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生誕せいたん

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1906ねんに、清朝せいちょうだい11だい皇帝こうていひかりいとぐちみかどすめらぎおとうとであるあつし親王しんのうと、ひかりいとぐちみかど従弟じゅうていで、西にしふとしきさき腹心ふくしんさかえろくむすめであるグワルギャふりしかけい)・ようらんとして、清国きよくにだいきよし帝国ていこく)の首都しゅとであるじゅんてん北京ぺきん)にまれる。祖父そふあいしんさとし奕譞祖父そふみちこうみかどとなる。

だい12だい清朝せいちょう皇帝こうてい

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溥儀ふぎみぎ)とあつし親王しんのういだかれる溥傑(1909ねん

1900ねん発生はっせいした義和よしかずだんらんえ、当時とうじ依然いぜんとしてつよ権力けんりょくっていた西にしふとしきさき1908ねんひかりいとぐちみかど後継こうけいしゃとして溥儀ふぎ指名しめいしたことにより、溥儀ふぎはわずか2さい10かげつ皇帝こうてい即位そくいさせられ、清朝せいちょうだい12だいせんすべみかどとなった。また、当時とうじは「承継しょうけいどう けん祧光いとぐち同時どうじどうみかどひかりいとぐちみかど2人ふたり養子ようしになる)」というかたち皇位こうい継承けいしょうした。即位そくいしきむらさき禁城きんじょうふとかず殿どのおこなわれ、あたらしい皇帝こうてい即位そくい世界せかい各国かっこくおおきくほうじられた。そのせんすべみかどおおくの宦官かんがん女官にょかんらとともにむらさき禁城きんじょうらすこととなる。

西にしふとしきさき溥儀ふぎ後継こうけいしゃとするとともに、溥儀ふぎちちあつし親王しんのうかんこく摂政せっしょうおう任命にんめいして政治せいじ実権じっけんゆだね、同年どうねん11月14にちひかりいとぐちみかど崩御ほうぎょした翌日よくじつに74さい崩御ほうぎょした。

ひかりいとぐちみかど崩御ほうぎょかんして、当初とうしょから毒殺どくさつされたのではないかというせつがあり、2007ねんおこなわれた調査ちょうさでは、ひかりいとぐちみかど遺髪いはつから大量たいりょう砒素ひそ検出けんしゅつされたため、毒殺どくさつ可能かのうせいがより濃厚のうこうになった。

だれひかりいとぐちみかど暗殺あんさつしたかについては、西にしふとしきさきひかりいとぐちみかど死亡しぼう時期じきちかいため、「西にしふとしきさきひかりいとぐちみかど自分じぶんよりも長生ながいきさせないために暗殺あんさつした」とするせつがある一方いっぽうで、「つちのえいぬへんほうひかりいとぐちみかど裏切うらぎっている袁世凱が、ひかりいとぐちみかど復権ふっけんして自身じしん報復ほうふくするのをおそれて暗殺あんさつした」というせつもあり、溥儀ふぎ自伝じでん『わが半生はんせい』で「袁世凱による殺害さつがい」という見方みかたしめしている。しかしいずれもかくたる証拠しょうこがなく、だれひかりいとぐちみかど暗殺あんさつしたかは不明ふめいである。

清朝せいちょう崩壊ほうかい退位たいい

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中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんした袁世凱

その翌年よくねん1909ねんはじめにあつし親王しんのうは、あにであるひかりいとぐちみかど裏切うらぎってつちのえいぬへんほうつぶしたとしてにくんでいた北洋ほくよう大臣だいじんけんちょく隷総とくの袁世凱を失脚しっきゃくさせ、さらに袁世凱を殺害さつがいしようとしたが、内部ないぶ情報じょうほうた袁世凱はかろうじて北京ぺきんのが河南かなんしょうあきらとく蟄居ちっきょすることとなった。

その袁世凱は、清国きよくに政府せいふによる民間みんかん資本しほん鉄道てつどう国有こくゆうとその反対はんたい運動うんどうをきっかけに1911ねん10がつ10日とおかからし革命かくめい勃発ぼっぱつすると、湖北こほくしょうたけあきらきた反乱はんらんたけあきらおこりよし)の鎮圧ちんあつ名目めいもく政界せいかい復帰ふっきした。袁世凱は清国きよくに政府せいふだい2だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん地位ちい要求ようきゅうするとともに、あつし親王しんのう摂政せっしょうおう退位たいい要求ようきゅうした。

反乱はんらん鎮圧ちんあつのために袁世凱の武力ぶりょくたよらなければならない清朝せいちょう政府せいふは袁世凱の要求ようきゅうれたが、袁世凱はさらにまごぶんらと、せんすべみかど退位たいいさせるわりにみずからが中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんするといううら取引とりひきをし、隆裕たかひろ皇太后こうたいごうせんすべみかど退位たいいせまり、隆裕たかひろ皇太后こうたいごう皇族こうぞくあつめて連日れんじつ御前ごぜん会議かいぎひらいた。

その席上せきじょう粛親おうぜんきょう親王しんのう溥偉などは退位たいいはげしく反対はんたいしたが、清朝せいちょう皇族こうぞくたよりとしていた日本にっぽん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう留学生りゅうがくせい皇族こうぞく出身しゅっしんりょう暗殺あんさつされるという事態じたいにおよび、隆裕たかひろ皇太后こうたいごうはついに皇帝こうてい退位たいい決断けつだんし、1912ねん2がつせんすべみかど退位たいいすることとなった[1]。粛親おう日本にっぽん租借そしゃく関東かんとうしゅう旅順りょじゅんへ、きょう親王しんのうドイツ租借そしゃく青島ちんたおのがれてその清朝せいちょう復辟ふくへき運動うんどうおこなった。

せんすべみかど退位たいいにあたり、清朝せいちょう政府せいふ中華民国ちゅうかみんこく政府せいふとのあいだに「しんしつ優待ゆうたい条件じょうけん」が締結ていけつされた。優待ゆうたい条件じょうけんは、

  • 皇帝こうてい退位たいいも『だいきよし皇帝こうてい』の尊号そんごう保持ほじし、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふはこれを外国がいこく元首げんしゅ同等どうとう礼遇れいぐうすること。
  • 溥儀ふぎつづむらさき禁城きんじょう(と頤和えん)で生活せいかつすること。
  • 中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ清朝せいちょう皇室こうしつたいして毎年まいとし400まんりょう支払しはらい、清朝せいちょう陵墓りょうぼ永久えいきゅう保護ほごすること。

などがりきめられた。そのため溥儀ふぎ退位たいいむらさき禁城きんじょう宦官かんがんらと皇帝こうていとしての生活せいかつつづけた。このころおとうと溥傑初対面しょたいめんたした。

袁世凱の皇帝こうてい即位そくい

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その、袁世凱は溥儀ふぎわりみずからが「皇帝こうてい」となるべく奔走ほんそうし、1915ねん12月12にちに「帝政ていせい復活ふっかつ」を宣言せんげんして皇帝こうてい即位そくいした。

その1916ねん1がつ1にちより年号ねんごうひろしけんさだめ、国号こくごうを「中華ちゅうか帝国ていこく」にあらためた。だが北洋ほくよう軍閥ぐんばつ日本にっぽん政府せいふなどのかく方面ほうめんからのつよ反対はんたいにより、即位そくい直後ちょくご同年どうねん3がつ退位たいいすることを余儀よぎなくされ、失意しついなか同年どうねん6がつ死去しきょした。

ちょういさお復辟ふくへき事件じけん

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袁世凱が死去しきょした翌年よくねん1917ねんに、たいドイツ問題もんだいはじむもとひろしだい総統そうとう政敵せいてきだん祺瑞国務こくむ総理そうり確執かくしつ激化げきかした(いんあらそ)。同年どうねん5月23にちには、はじむもとひろしだん祺瑞を罷免ひめんんだものの、みんこくになっても辮髪べんぱつめないほどの保守ほしゅ革命かくめい清朝せいちょう忠節ちゅうせつつくちょういさおが、この政治せいじてき空白くうはくじょうじて帝政ていせい復古ふっこによって政権せいけん奪還だっかんしようと、中華民国ちゅうかみんこく立憲りっけん君主くんしゅせい目指めざ康有為こうゆういせて、すでに退位たいいしていた溥儀ふぎふたた即位そくいさせて7がつ1にち帝政ていせい復古ふっこ宣言せんげんし、いわゆる「ちょういさお復辟ふくへき事件じけん」に発展はってんした。

ちょういさおは、幼少ようしょう溥儀ふぎようしてみずかせい大臣だいじんちょく隷総とくけん北洋ほくよう大臣だいじんとなった。国会こっかいおよび憲法けんぽう破棄はきし、共和きょうわせい廃止はいし清朝せいちょう復辟ふくへきげるも、仲間割なかまわれからだん祺瑞にやぶオランダ公使こうしかん避難ひなん最終さいしゅうてき溥儀ふぎ復辟ふくへきは13日間にちかん挫折ざせつした。その中国ちゅうごく大陸たいりく玉祥ぎょくしょう蔣介せきちょうさくなどの軍閥ぐんばつによる勢力せいりょくあらそいという、混沌こんとんとした状況じょうきょうむかえることとなる。

ジョンストンとの出会であ

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溥儀ふぎ使用しようしていた英語えいご教科書きょうかしょ
婉容(まえ)とジョンストン(ひだり)、イザベル・イングラム(みぎ
ぶん
関東大震災かんとうだいしんさい

その溥儀ふぎ後見こうけんやくてき立場たちばになっていたちちあつし親王しんのう灃と、西にしふとしきさき側近そっきんだった鴻章こうしう息子むすこで、清国きよくにの欽差全権ぜんけん大臣だいじんつとめ、ちゅうイギリス特命とくめい全権ぜんけん大使たいしでもあったけいかたすすめによって、近代きんだいてき西洋せいようふう教育きょういくあわせて英語えいご教育きょういくけることを目的もくてきに、1919ねん3がつイギリスひらけつとむしょう官僚かんりょうで、中国ちゅうごく堪能かんのうだったスコットランドじんレジナルド・ジョンストンみかど家庭かてい教師きょうし)としてむらさき禁城きんじょうない招聘しょうへいした。

ジョンストンは、1919ねん3がつ3にちに13さい溥儀ふぎはじめて面談めんだんしたさい様子ようすつぎのようにしるし、イギリス本国ほんごく報告ほうこくした。

このわか皇帝こうていは、英語えいごも、そののヨーロッパもまったくらないけれども、学習がくしゅう意欲いよくきわめてたかくて、知的ちてき関心かんしん旺盛おうせいである。(中略ちゅうりゃく)シナの政治せいじてき地位ちい他国たこくとの比較ひかくにおける重要じゅうようについても、あやまったかんがえや誇張こちょうされたかんがえにとらわれていないように見受みうけられる。(中略ちゅうりゃく)とても「人間味にんげんみのある」少年しょうねんで、活発かっぱつ性質せいしつ知性ちせいするどいユーモアのセンスのぬしである。さらに礼儀れいぎ作法さほうがすばらしく立派りっぱで、こう慢心まんしんとは無縁むえんである。環境かんきょう極端きょくたん人為じんいてきであったことや仰々ぎょうぎょうしくせかける宮廷きゅうてい日課にっか考慮こうりょすると、これはむしろおどろくべきことである。 — レジナルド・ジョンストン、『完訳かんやく むらさき禁城きんじょう黄昏たそがれだい11しょう中山なかやまさとし わけ

溥儀ふぎ当初とうしょらずの外国がいこくじんであるジョンストンをれることを拒否きょひしていたものの、ジョンストンとの初対面しょたいめんにその語学ごがくりょく博学はくがくぶりに感心かんしんし、一転いってんしてれることを決断けつだんした。ジョンストンはむらさき禁城きんじょうないには居住きょじゅうせず、しろがいのちもん付近ふきん居住きょじゅう自動車じどうしゃ通勤つうきんした。

ジョンストンより日々ひび教育きょういくをうけるなかで、自動車じどうしゃ洋服ようふく自転車じてんしゃ電話でんわ英語えいご雑誌ざっしなどのヨーロッパの最新さいしん輸入ゆにゅうひんあたえられ、その洋服ようふくには似合にあわない」との理由りゆう辮髪べんぱつるなど、むらさき禁城きんじょうない生活せいかつをしながらも、ジョンストンがもたらした英国えいこくふう生活せいかつ様式ようしき風俗ふうぞく思想しそう影響えいきょうけることとなる一方いっぽう溥儀ふぎ西洋せいようたい敵意てきいった一部いちぶ宦官かんがん女官にょかんたちとそれらとなか新聞しんぶんなどから、ジョンストンは攻撃こうげきけることとなる。

このころ溥儀ふぎはジョンストンより「ヘンリー(Henry)」というあたえられ、そのもこの名前なまえ欧米おうべいじんたいしてこのんで使用しようした。

結婚けっこん

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その1922ねん11月には、まんしゅうはたじんダフールぞくのゴブロかくぬの)・婉容皇后こうごうとして、こうむふるはたじんの鄂爾とくとくぶんよしとしてむかえ、むらさき禁城きんじょうにおいて盛大せいだい結婚式けっこんしきげる。

溥儀ふぎ自身じしんは「時代遅じだいおくれの慣習かんしゅうである」としてよしむかえることに反対はんたいしたものの、側近そっきんらのすすめで1人ひとりだけむかえることに同意どういした。また、結婚けっこんには中国ちゅうごく皇帝こうていとしてはじめてイギリスや日本にっぽんフランスなどの外交がいこうかん中心ちゅうしんとした外国がいこくじん招待しょうたいした「歓迎かんげいかい」をもよおした。

結婚けっこんに婉容の家庭かてい教師きょうしとして北京ぺきんまれのアメリカじんイザベル・イングラム(en:Isabel Ingram)が就任しゅうにんし、婉容にはイングラムより「エリザベス(Elizabeth)」の英名えいめいあたえられた。このころ自分じぶんよう自動車じどうしゃ入手にゅうしゅしたほか、婉容とともにイギリスやアメリカへの留学りゅうがく画策かくさくするものの、実現じつげんすることはなかった。

宦官かんがん改革かいかく

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このころ溥儀ふぎ中華民国ちゅうかみんこくない混沌こんとんとした政情せいじょうなかにあったものの、正妻せいさいとジョンストンらの側近そっきん宦官かんがんらとともにむらさき禁城きんじょうなか平穏へいおん日々ひびごしていたが、清国きよくに大阪おおさか総領事そうりょうじ総理そうり衙門あきらきょう湖南こなんぬのせい使とう歴任れきにんしたのち1924ねん総理そうり内務ないむ大臣だいじん教育きょういくかけ)となったていたかしすすめをけて、退位たいいけて予算よさんらされたむらさき禁城きんじょうない経費けいひ削減さくげん近代きんだいすすめた[2]

同年どうねん6がつには、美術びじゅつひんおおかれているむらさき禁城きんじょうないの「けんぶくいん」の目録もくろく一覧いちらん作成さくせいし、これまで頻繁ひんぱんおこなわれていた宦官かんがんによる美術びじゅつひん横領おうりょう一掃いっそうすることを目論もくろんだものの、目録もくろく作成さくせい直後ちょくご6月27にち未明みめい一部いちぶ宦官かんがんらが「けんぶくいん」に放火ほうかし、横領おうりょう証拠しょうこ隠滅いんめつはかった。

これに激怒げきどした溥儀ふぎは、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふちからりてやく1,200めいいた宦官かんがんのほとんどを一斉いっせい解雇かいこし、日頃ひごろ宦官かんがんによる横暴おうぼうたいしていかりをかんじていた国民こくみんマスコミから称賛しょうさんをうけた。その長年ながねんむらさき禁城きんじょうついていた女官にょかん追放ついほうするなど、むらさき禁城きんじょうない経費けいひ削減さくげん近代きんだいすす議論ぎろんんだ。

慈善じぜん活動かつどう

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当時とうじ溥儀ふぎは、中国ちゅうごく国内こくないにおける洪水こうずい飢饉ききん、さらには生活せいかつ困窮こんきゅうしゃたいしてつね同情どうじょうせ、これらの支援しえんのためにおおくの義捐ぎえんきんおくったものの、そのすべてはみずからの命令めいれいでさらに匿名とくめいおこなっていた[3]

1923ねん9月1にち日本にっぽんきた関東大震災かんとうだいしんさいにおいては、ジョンストンから震災しんさい発生はっせいつたえられると、即座そくざ日本にっぽんたいする義捐ぎえんきんおくることを表明ひょうめいし、あわせてむらさき禁城きんじょうないにある膨大ぼうだい宝石ほうせきなどをおくり、大日本帝国だいにっぽんていこくがわ換金かんきん義捐ぎえんきんとするよう芳沢よしざわ謙吉けんきち公使こうしつたえた。

これにたい大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ以降いこう日本にっぽん政府せいふりゃくす)は、換金かんきんせずに評価ひょうかがくおな金額きんがく皇室こうしつから支出ししゅつし、宝石ほうせきなどは皇室こうしつ財産ざいさんとして保管ほかんすることをもうた。その日本にっぽん政府せいふ代表だいひょうだん溥儀ふぎのもとにおくり、このおんしゃした。なおこのさいに、「溥儀ふぎなん政治せいじてき動機どうきたず、純粋じゅんすい同情どうじょう気持きもちをってった」とジョンストンは自書じしょなか回想かいそうしている[4]

むらさき禁城きんじょう追放ついほう

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玉祥ぎょくしょうひだりから2番目ばんめ)やちょうさく霖(どう3番目ばんめ

その中国ちゅうごく武力ぶりょく統一とういつはか軍閥ぐんばつ同士どうし戦闘せんとうはますます活発かっぱつし、1924ねん10がつには馮玉祥ぎょくしょうまごだけこしただいたてまつちょく戦争せんそうともなクーデター北京ぺきん政変せいへん)が発生はっせいし、ちょく隷派の曹錕だい総統そうとう監禁かんきんされ、馮玉祥ぎょくしょうまごだけ北京ぺきん支配しはいすることとなった。さらに馮玉祥ぎょくしょうまごだけ政変せいへんみかどごうはいしてしんしつ優待ゆうたい条件じょうけん一方いっぽうてき清算せいさん通達つうたつし、むらさき禁城きんじょう軍隊ぐんたいおく溥儀ふぎとその側近そっきんらをむらさき禁城きんじょうから強制きょうせいてき退去たいきょさせた。

当初とうしょ溥儀ふぎあつし親王しんのう王宮おうきゅうである北府きたご一時いちじてきせ、そのジョンストンが総理そうり内務ないむ大臣だいじんていたかしちんたから意向いこうけて上海しゃんはい租界そかい天津てんしん租界そかいうちのイギリス公館こうかんオランダ公館こうかん庇護ひごもうたものの、ジョンストンの母国ぼこくであるイギリス公館こうかんからは内政ないせい干渉かんしょうとなることをおそれを拒否きょひされた[5]

日本にっぽんへの接近せっきん困惑こんわく

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竹本たけもと多吉たきち大佐たいさ夫妻ふさいとともに(1924ねん)
ざい北京ぺきん日本にっぽん公使館こうしかん

たよりにしていたイギリスとオランダかられを拒否きょひされたジョンストンは、関東大震災かんとうだいしんさい義捐ぎえんきんなどをつうじて溥儀ふぎ顔見知かおみしりだった芳澤よしざわ謙吉けんきち特命とくめい全権ぜんけん公使こうしれを打診だしんした。

これにたいして芳澤よしざわ公使こうし最終さいしゅうてきれを表明ひょうめいし、溥儀ふぎいちぎょう11月29にち北京ぺきん日本にっぽん公使館こうしかんはいり、日本にっぽん政府せいふによる庇護ひごけることになった[6]よく1925ねん2がつにはていたかし胥と日本にっぽん中国ちゅうごく駐屯ちゅうとんぐんちゅう天津てんしん日本にっぽん総領事館そうりょうじかん仲介ちゅうかいで、溥儀ふぎいちぎょう身柄みがられを表明ひょうめいした日本にっぽん政府せいふすすめにより天津てんしん日本にっぽん租界そかいちょうえんうつることとなる。

このことは、1905ねんにち戦争せんそう勝利しょうりによるロシア権益けんえき移譲いじょう以降いこうまんしゅうへの本格ほんかく進出しんしゅつ機会きかいねらっていた日本にっぽん陸軍りくぐん関東軍かんとうぐん)と溥儀ふぎがその緊密きんみつ関係かんけいはじめるきっかけとなるものの、このころ日本にっぽん政府せいふおよ日本にっぽん陸軍りくぐん立場たちばは、あくまでだいいち世界せかい大戦たいせんにおける同盟どうめいこくであり、当時とうじ強力きょうりょく友好国ゆうこうこくであるイギリス国民こくみんであるジョンストンのもうけて、イギリスとオランダがれを拒否きょひした溥儀ふぎ一時いちじてき租界そかいない庇護ひごするだけであり、溥儀ふぎとの関係かんけい積極せっきょくてき利用りようする意思いしはなかった。

それどころか日本にっぽん政府せいふは、むらさき禁城きんじょうから強制きょうせいてき退去たいきょされたものの当時とうじ中華民国ちゅうかみんこくおよびまんしゅうつよ影響えいきょうりょくっており、政治せいじてき微妙びみょう立場たちばにいた溥儀ふぎれることが、中華民国ちゅうかみんこくたいする内政ないせい干渉かんしょうになりかねないと困惑こんわくしていた[6]

ジョンストンとのわかれと再会さいかい

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イギリスの租借そしゃくりょう時代じだい威海衛いかいえい(1930ねん

溥儀ふぎしんしつ優待ゆうたい条件じょうけんうしなったことをけて同年どうねんみかど辞任じにんしたジョンストンは、天津てんしんこうからP&O汽船きせんでイギリスに帰国きこくした。なお、ジョンストンはイギリスに帰国きこくする直前ちょくぜん天津てんしん滞在たいざいしていた溥儀ふぎ訪問ほうもんし、このさい溥儀ふぎはジョンストンに記念きねんひん下賜かししている[7]

しかしジョンストンは、溥儀ふぎわかれた2ねん1927ねんにイギリスの租借そしゃくりょうであるポート・エドワード(威海衛いかいえい)の植民しょくみん行政ぎょうせい長官ちょうかん弁務べんむかん)に就任しゅうにんすることとなりふたた中華民国ちゅうかみんこくへともどることとなり、1930ねん10月に威海衛いかいえいがイギリスから中華民国ちゅうかみんこく返還へんかんされるまでこの駐在ちゅうざいした。

イギリスに帰国きこくしたジョンストンは、その知識ちしき経験けいけん語学ごがくりょくかしてロンドン大学だいがく東洋とうようがくおよ中国ちゅうごく教授きょうじゅ就任しゅうにんし、1931ねん太平洋たいへいよう会議かいぎへの出席しゅっせきのためにふたた中華民国ちゅうかみんこくおとずれたさい溥儀ふぎ再会さいかいする。

その1934ねんに、溥儀ふぎ家庭かてい教師きょうし時代じだいから溥儀ふぎまんしゅうこく元首げんしゅ」(執政しっせい就任しゅうにんまでの動向どうこうつづった「むらさき禁城きんじょう黄昏たそがれ」(原題げんだい:『Twilight in the Forbidden City』)をあらわ[8][ちゅう 1]よく1935ねんにはまんしゅうこくおとずれ「皇帝こうてい」となった溥儀ふぎ再会さいかいするなど、生涯しょうがいつうじて溥儀ふぎとの交流こうりゅうつづいた。

天津てんしん租界そかいでのらし

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天津てんしん時代じだい溥儀ふぎと婉容

ジョンストンはったものの、溥儀ふぎんでいた日本にっぽん租界そかいのある天津てんしんは、このころ国共こっきょう内戦ないせんおも戦闘せんとう地域ちいきからはなれていたことや、日本にっぽんやイギリス、フランスなどの列強れっきょうをはじめとする外国がいこく租界そかいおおかったため、りょうぐん租界そかいしょ外国がいこく刺激しげきあたえることをおそれたこと、さらにちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん以降いこう急速きゅうそく関東軍かんとうぐん支配しはいつよまっていたこともあり、国共こっきょう内戦ないせんなどの影響えいきょうけることはなかった。

日本にっぽん政府せいふは、すで皇帝こうてい退しりぞいていたものの、社会しゃかいてき影響えいきょうりょくたか注目ちゅうもくけていた溥儀ふぎあつかいにつづ苦慮くりょしていた[6]。このよう状況じょうきょう溥儀ふぎ自国じこく租界そかいからすわけにもいかないため、溥儀ふぎはその日本にっぽんからボディーガードとしておくられた吉岡よしおか安直あんちょく陸軍りくぐん中佐ちゅうさなどとともに、天津てんしん日本にっぽん租界そかいちょうえんのち移転いてんしたきょうあきらさとせいえんまり、婉容とぶん繡、そしてていたかし胥をはじめとするむらさき禁城きんじょう時代じだいからの少数しょうすう側近そっきんらとともにしずかにらしていた。

国共こっきょう内戦ないせん

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このころいたっても中華民国ちゅうかみんこく国内こくない政治せいじてき状況じょうきょう混沌こんとんとしたままで、1927ねん4がつには「上海しゃんはいクーデター」が勃発ぼっぱつし、まごぶん死後しごあといだ蔣介せきひきいる中国ちゅうごく国民党こくみんとう右派うはが、対立たいりつする中国共産党ちゅうごくきょうさんとう弾圧だんあつした。その、蔣介せき南京なんきんにて「南京なんきん国民こくみん政府せいふ」を樹立じゅりつし、とうおよび国民こくみん政府せいふ実権じっけん掌握しょうあくするものの、同年どうねん7がつ国共こっきょう合作がっさく破棄はきしたことで、ソビエト連邦れんぽうからの支援しえんけた中国共産党ちゅうごくきょうさんとう残党ざんとう反発はんぱつ国共こっきょう内戦ないせんがはじまる。

溥儀ふぎむらさき禁城きんじょうから追放ついほうした北京ぺきん政変せいへん1926ねん政権せいけん掌握しょうあくしたちょうさく政権せいけん磐石ばんじゃくなものではなかった。1928ねんに蔣介せき開始かいししたきたにより、ちょうさく霖は北京ぺきんから脱出だっしゅつした。しかし同年どうねん6がつっていた列車れっしゃ関東軍かんとうぐん爆破ばくはされて死亡しぼうした(ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん)。そのちょうさく息子むすこちょうまなぶりょう蔣介せき降伏ごうぶくし、両者りょうしゃあいつうじて関東軍かんとうぐんたい挑発ちょうはつ行動こうどうかえすこととなる。

東陵とうりょう事件じけん

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ぶん

このような政治せいじてき混乱こんらんのなかで、1928ねん国民党こくみんとう軍閥ぐんばつまご殿どのえい軍隊ぐんたい河北かほくしょうせい東陵とうりょう略奪りゃくだつするという事件じけん発生はっせいした(東陵とうりょう事件じけん)。なかでもいぬいたかしみかどひろしりょう西にしふとしきさきてい東陵とうりょうはかしつあばかれて、遺体いたいから宝飾ほうしょくひんのみならず衣服いふくもはぎとられるなど、徹底的てっていてき略奪りゃくだつけた。

「このうらみにむくいなかったなら、わたしあいしんさとし子孫しそんではない」とおこった溥儀ふぎ国民こくみん政府せいふ抗議こうぎしたが、まご殿どのえい国民党こくみんとう高官こうかん賄賂わいろおくっていたためになんら処罰しょばつされることはなく、溥儀ふぎおおいに憤慨ふんがいさせた。東陵とうりょう事件じけん溥儀ふぎにとってむらさき禁城きんじょう退去たいきょさせられたとき以上いじょう衝撃しょうげきてき事件じけんであり、これによって清朝せいちょう復辟ふくへきねん一層いっそうつよくしたという。

ぶん繡との離婚りこん

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しかし、日本にっぽん租界そかいでのしずかならしのなかで、正妻せいさいの婉容との確執かくしつふかまった側室そくしつぶん繡と別居べっきょ1931ねんぶん繡が生涯しょうがい再婚さいこんをしないという条件じょうけん離婚りこん成立せいりつした。溥儀ふぎ中国ちゅうごく歴史れきしじょう離婚りこんれき唯一ゆいいつ皇帝こうていとなった。

離婚りこんぶん繡は溥儀ふぎたいして慰謝いしゃりょうもとめて告訴こくそし、これにおうじて溥儀ふぎ慰謝いしゃりょう5まん5せんげん支払しはらったものの、ぶん繡は溥儀ふぎ性癖せいへき家庭かていないおよび宮廷きゅうていない内情ないじょうをマスコミに暴露ばくろする。このことけてぶん繡は離婚りこんすべての剥奪はくだつされ平民へいみんとなり、小学校しょうがっこう教師きょうしとして1953ねん死亡しぼうする。

まんしゅう事変じへん

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チチハル入城にゅうじょうした関東軍かんとうぐん(1931ねん

1931ねん9月18にちに、中華民国ちゅうかみんこく奉天ほうてん郊外こうがいやなぎじょうみずうみみなみまんしゅう鉄道てつどう線路せんろ爆破ばくは事件じけん発生はっせいした。まんしゅう展開てんかいする関東軍かんとうぐんふく日本にっぽん陸軍りくぐんは、これを「ちょうまなぶりょう東北とうほくぐんによる破壊はかい工作こうさく」と断定だんていした(「やなぎじょうみずうみ事件じけん」)。この爆破ばくは事件じけん関東軍かんとうぐんによる自作じさく自演じえんだった。

こののち関東軍かんとうぐん爆破ばくは事件じけんたいする報復ほうふくとして、本国ほんごく政府せいふのみならず日本にっぽん陸軍りくぐん意向いこう無視むしして、まんしゅう根城ねじろにしていたちょうまなぶりょうぐんとのあいだたたかい、いわゆる「まんしゅう事変じへん」を開始かいしした。

規模きぼにもしつにもまさ関東軍かんとうぐんちょうまなぶりょうぐん圧倒あっとうし、すぐさま奉天ほうてん長春ちょうしゅん営口などの近隣きんりん都市とし占領せんりょうした。さらに21にちには、はやしずくじゅうろう中将ちゅうじょうひきいる朝鮮ちょうせん駐屯ちゅうとんぐん独断どくだんにちちゅうあいだ国境こっきょう越境えっきょうはじめ、まんしゅう地域ちいき一帯いったい侵攻しんこうした。さらに関東軍かんとうぐん戦線せんせん拡大かくだい反対はんたいするぐん司令しれいかん本庄ほんじょうしげるったばかりか、不拡大ふかくだい方針ほうしんすすめようとした日本にっぽん政府せいふ日本にっぽん陸軍りくぐん決定けってい無視むしして反撃はんげきし、戦線せんせん拡大かくだいする。

その関東軍かんとうぐんはわずか5ヶ月かげつあいだぜんまんしゅう地域ちいき占領せんりょうしたが、ちょうまなぶりょうは蔣介せきひきいる国民こくみん政府せいふ指示しじにより、まとまった抵抗ていこうをせずにまんしゅうから撤退てったいし、もなくまんしゅう一帯いったい関東軍かんとうぐん支配しはいはいった。

まんしゅうこく建国けんこく清朝せいちょう復辟ふくへき画策かくさく

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土肥どいはら賢二けんじ
川島かわしま芳子よしこ

その関東軍かんとうぐん国際こくさい世論せろん批判ひはんけるため、まんしゅうたいして永続えいぞくてき武力ぶりょく占領せんりょう植民しょくみんではなく、日本にっぽん影響えいきょうりょくのこした国家こっか樹立じゅりつ目論もくろみ、親日しんにちてき軍閥ぐんばつによる共和きょうわこく設立せつりつ画策かくさくした。

しかしこのようかたちでのあらたな共和きょうわこく設立せつりつは、中華民国ちゅうかみんこくのみならず、中国ちゅうごく大陸たいりくおおくの租界そかい利権りけんつイギリスやアメリカ、フランスやイタリア、そして国際こくさい連盟れんめい加盟かめいこくをはじめとする国際こくさい社会しゃかい支持しじにくいと判断はんだんした。国家こっか正統せいとうせいたせるために、清朝せいちょう皇帝こうていまんしゅうぞく出身しゅっしんであり、さらに北京ぺきん政変せいへんによるむらさき禁城きんじょう追放ついほう以降いこう日本にっぽん租界そかいせていた溥儀ふぎ元首げんしゅよういた君主くんしゅせい国家こっか設立せつりつすることを画策かくさくした。

このよう関東軍かんとうぐん目論もくろみをけて、関東軍かんとうぐん特務とくむ機関きかんちょうだった土肥どいはら賢二けんじ溥儀ふぎ説得せっとくにかかるために天津てんしん日本にっぽん租界そかいかい、その溥儀ふぎ会談かいだんし「まんしゅうこく元首げんしゅ就任しゅうにん提案ていあんおこなった。

むらさき禁城きんじょう追放ついほう以降いこう、かねてから「清朝せいちょう復辟ふくへき」を熱望ねつぼうしていたうえに、東陵とうりょう事件じけんにそのおもいをつよくした溥儀ふぎは、土肥どいげんによるまんしゅうこく元首げんしゅ就任しゅうにん提案ていあんけ、「清朝せいちょう復辟ふくへき」を条件じょうけんまんしゅうこく元首げんしゅへの就任しゅうにん同意どういした。

その溥儀ふぎは、関東軍かんとうぐん保護ほごした天津てんしん自宅じたくて、崗子温泉おんせん11月13にちに営口に到着とうちゃくみなみまんしゅう鉄道てつどう経営けいえいする旅順りょじゅんヤマトホテルとどまった[9]溥儀ふぎ旅順りょじゅんかったのち、粛親おうよし耆のだい14王女おうじょ当時とうじ関東軍かんとうぐん協力きょうりょくしていた川島かわしま芳子よしこが、天津てんしんのこされた婉容をすことを関東かんとうぐんから依頼いらいされ、実際じっさいに婉容を天津てんしんから旅順りょじゅん護送ごそうする任務にんむおこなっている。

このよう溥儀ふぎ行動こうどうたいして、そうぶん国民こくみん政府せいふ有力ゆうりょくしゃが、当時とうじ太平洋たいへいよう会議かいぎのために中華民国ちゅうかみんこく滞在たいざいしていたジョンストンにたい溥儀ふぎ決定けっていひるがえさせるようにはたらきかけるように依頼いらいしたほか中華民国ちゅうかみんこくないのマスコミも溥儀ふぎうごきを憂慮ゆうりょした。しかし、東陵とうりょう事件じけんにおける蔣介せきちょうまなぶりょう反応はんのう失望しつぼうしていたうえ清朝せいちょう復辟ふくへきつよのぞんでいた溥儀ふぎは、これらの中華民国ちゅうかみんこく有力ゆうりょくしゃによる反対はんたい意見いけん退しりぞけ、関東軍かんとうぐん提案ていあんれることとなった[10]

まんしゅうこく執政しっせい就任しゅうにん

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執政しっせい就任しゅうにん式典しきてんでの溥儀ふぎ
執政しっせいれい

その関東軍かんとうぐんは、遼寧りょうねいしょう当時とうじ奉天ほうてんしょう)と吉林きつりんしょう黒龍江こくりゅうこうしょう各地かくち要人ようじんとの協議きょうぎ開始かいしした。最終さいしゅうてき1932ねん2がつ18にちに、のちまんしゅうこく国務こくむ総理そうりとなるちょうけいめぐみ委員いいんちょうとする東北とうほく行政ぎょうせい委員いいんかいが、中華民国ちゅうかみんこくからの民族みんぞく自決じけつによる分離ぶんり独立どくりつ宣言せんげんし、その東北とうほく行政ぎょうせい委員いいんかい委員いいん中心ちゅうしん内閣ないかく編成へんせいした。

溥儀ふぎはそのまんしゅうこく元首げんしゅ就任しゅうにんすることが決定けっていしていたにもかかわらず、このまんしゅうこく建国けんこくいた関東かんとうぐん有力ゆうりょくしゃらの協議きょうぎ参加さんかできなかったばかりか、協議きょうぎ概要がいようさえもつたえられることはなかった。

あらたな年号ねんごうである「大同だいどう元年がんねん」となる1932ねん3月1にちに、長春ちょうしゅんうちちょうけいめぐみ公邸こうていまんしゅうこく建国けんこく宣言せんげんおこなわれ、まんしゅうこく在住ざいじゅうするおも民族みんぞくまんしゅうじん日本人にっぽんじん漢人かんどこうむ古人こじん朝鮮ちょうせんじん)による「ぞく協和きょうわ」をかかげ、長春ちょうしゅんあらたしんきょう首都しゅとまんしゅうこく建国けんこくされた。

まんしゅうこく建国けんこくけ、溥儀ふぎ同年どうねん3月9にちに「執政しっせい」に就任しゅうにんした。このさい溥儀ふぎは、皇帝こうていよりも格下かくしたである「執政しっせい」への就任しゅうにんいやがり、あくまで皇帝こうていへの即位そくい主張しゅちょうするが、関東かんとうぐんから「時期じき尚早しょうそう」としてねつけられてしまう。「執政しっせい」となった溥儀ふぎは、関東軍かんとうぐん日本人にっぽんじん将校しょうこうから、皇帝こうていたいする敬称けいしょうである「陛下へいか」ではなく、国家こっか君主くんしゅ以外いがい高官こうかんたいするかたである「閣下かっか」とばれ激怒げきどしたとつたえられている。また、就任しゅうにんともなって映画えいが『ラストエンペラー』などでもえがかれた愛用あいようまるサングラスをかけるのをやめることとなった[11]

溥儀ふぎ執政しっせい就任しゅうにんした直後ちょくごの3がつに、国際こくさい連盟れんめいからやなぎじょうみずうみ事件じけんおよまんしゅう事変じへんまんしゅうこく、およびにちはな両国りょうこく調査ちょうさのために派遣はけんされたイギリスだい2だいリットン伯爵はくしゃくヴィクター・ブルワー=リットンひきいる、いわゆる「リットン調査ちょうさだん」がまんしゅうこく訪問ほうもんし、5月には溥儀ふぎにも調査ちょうさ一環いっかんとしてリットン以下いか調査ちょうさだん謁見えっけんした。この時期じき関東軍かんとうぐん参謀さんぼうちょうだった小磯こいそ國昭くにあき内閣ないかく総理そうり大臣だいじん)にたいし、「中原なかはらへの進出しんしゅつ企図きとして関東軍かんとうぐん支援しえんもとめ、達成たっせい日本にっぽんまんしゅう割譲かつじょうする」とまでったが、小磯こいそいさめられている[12]

皇帝こうてい即位そくい

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まんしゅう帝国ていこくぐん大元帥だいげんすいふく皇帝こうてい即位そくいする溥儀ふぎ

執政しっせい就任しゅうにんの2ねん1934ねん3月1にちにようやく溥儀ふぎまんしゅうこく皇帝こうてい即位そくいした。まんしゅうこく皇帝こうていとしての溥儀ふぎは「康徳やすのりみかど」としょうされる。「きよし」と「まんしゅう」という2つの帝国ていこく正式せいしきに3かい皇帝こうてい即位そくいしたのは溥儀ふぎのみである。

溥儀ふぎ皇帝こうてい即位そくいあわせて、それまでは「まんしゅうこく」とばれていた国名こくめいも「まんしゅう帝国ていこく」とばれることがおおくなった。元号げんごうも「康徳やすのり」に改元かいげんされた(当初とうしょは「啓運けいうん」を予定よていしていたが、直前ちょくぜんで「康徳やすのり」に変更へんこうされた)。同時どうじむらさき禁城きんじょう時代じだいからの教育きょういくかけで、まんしゅうこく総理そうり内務ないむ大臣だいじんでもあり、建国けんこくまえ溥儀ふぎ日本にっぽん陸軍りくぐんとのあいだったことから関東軍かんとうぐんからの評価ひょうかたかかったていたかし胥が国務こくむ総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんした。

同日どうじつしんきょう市内しないおこなわれた皇帝こうてい即位そくいしきさい溥儀ふぎは、まんしゅうこくのスローガンの1つである「ぞく協和きょうわ」をかかげるうえで、まんしゅうぞく民族みんぞくしょくすことをきらった関東軍かんとうぐんからのつよすすめでまんしゅう国軍こくぐん軍服ぐんぷくだい総帥そうすいふく着用ちゃくようおこなわれた[13]

しかし、まんしゅうぞくとしての意識いしきつよ溥儀ふぎつよ依頼いらいにより、しんきょう市内しないじゅんてん広場ひろばかれた特設とくせつ会場かいじょうにて、即位そくいしき先立さきだって即位そくい清朝せいちょう先祖せんぞ報告ほうこくする儀式ぎしきである「つげてんれい」がおこなわれ、このさい溥儀ふぎまんしゅうぞく民族みんぞく衣装いしょうであるりゅうほう着用ちゃくようした[13]。しかし同時どうじまんしゅうこく政府せいふからは「これは清朝せいちょう復辟ふくへき意味いみしない」むね声明せいめいされていた[13]

溥儀ふぎ皇宮こうぐうは、執政しっせい当時とうじ同様どうようまんしゅうこく首都しゅとしんきょう特別とくべつ中心ちゅうしんかれた。皇帝こうてい即位そくいした当初とうしょ溥儀ふぎ夫妻ふさい内廷ないていの緝煕ろう(しゅうきろう)にんでいたが、「皇宮こうぐうとするにはせま威厳いげんりない」とかんがえたまんしゅうこく政府せいふにより、1938ねんあらたにどういさお殿どの皇宮こうぐうとしててられた。しかし、関東軍かんとうぐんによる盗聴とうちょうおそれて溥儀ふぎ自身じしんいち皇宮こうぐうとして利用りようしなかった。

まん議定ぎていしょ

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まん議定ぎていしょ調印ちょういんするていたかし初代しょだい国務こくむ総理そうり大臣だいじん

関東軍かんとうぐん主導しゅどうによってつくられたまんしゅうこく組織そしきほううえでは、皇帝こうてい国務こくむ総理そうり大臣だいじんはじめとする大臣だいじん任命にんめいすることができたが、次官じかん以下いか官僚かんりょうたいしては「まん議定ぎていしょ」により、関東軍かんとうぐん日本人にっぽんじんまんしゅうこく官吏かんり任命にんめい、もしくは罷免ひめんする権限けんげんっていたので、関東軍かんとうぐん同意どういがなければ任免にんめんすることができなかった。また「まん議定ぎていしょ」では、国政こくせいかかわるような重要じゅうよう事項じこう決定けっていには、皇帝こうてい溥儀ふぎだけでなく関東軍かんとうぐん認証にんしょう必要ひつようとされていた。

実際じっさいに、関東軍かんとうぐん日本人にっぽんじん高級こうきゅう将校しょうこうで「御用ごようかけ」としてまましまんしゅうこくおくまれた吉岡よしおか安直あんちょく工藤くどうただしつね溥儀ふぎとともに行動こうどうし、その行動こうどう発言はつげんたいし「助言じょげん」するなど、皇帝こうてい称号しょうごうこそあるにしろ、事実じじつじょう関東軍かんとうぐんの「傀儡かいらい」とえるような状況じょうきょうだった。さらにまんしゅうこく官職かんしょくやく半分はんぶん日本人にっぽんじんめられ、国籍こくせきほう存在そんざいしないことなど、関東軍かんとうぐんおおきな影響えいきょうりょくけているまんしゅうこくは、「独立どくりつこく」とはかけはなれていた。

1932ねん4がつにはまんしゅう国軍こくぐん設立せつりつされたが、「まん議定ぎていしょ」では関東軍かんとうぐんまんしゅうこくへの駐留ちゅうりゅうみとめられていたうえに、まんしゅう国軍こくぐん事実じじつじょう関東軍かんとうぐん指揮しきにあった。1935ねん7がつ日本にっぽんぐん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょうした溥傑が、同年どうねん9がつまんしゅう国軍こくぐん入隊にゅうたいした。

関東軍かんとうぐんによる介入かいにゅう拡大かくだい

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まんしゅうこく海軍かいぐん謁見えっけんする溥儀ふぎ(1935ねん
溥儀ふぎ工藤くどうただし

日本にっぽん政府せいふ日本にっぽん陸軍りくぐん意図いと無視むしした関東軍かんとうぐんによるまんしゅうこくへの介入かいにゅうはそのしていき、1937ねん2がつには、溥儀ふぎ関東軍かんとうぐん植田うえだ謙吉けんきち司令しれいかんあいだ念書ねんしょわされ、「まんしゅうこく皇帝こうてい男子だんしない場合ばあい日本にっぽん天皇てんのう叡慮えいりょによりそれをさだめる」とされ[14]実際じっさい溥儀ふぎ男子だんしがいなかったことから、事実じじつじょう溥儀ふぎ後継こうけいしゃ日本にっぽん関東軍かんとうぐん)がさだめることとなった。

これ以降いこう溥儀ふぎは、以前いぜんくらべて関東軍かんとうぐんによる暗殺あんさつ(と溥儀ふぎ暗殺あんさつによるしん日本にっぽんてき志向しこう皇帝こうていへの交代こうたい)をおそれるようになってったとわれている。

溥儀ふぎは1937ねんまんしゅうはたじんひしげ出身しゅっしんたんだまよわい側室そくしつとしてむかさち貴人きじんとしたが、たんだまよわいはわずか5ねん1942ねん死去しきょした。溥儀ふぎはこのについて「関東軍かんとうぐんによる毒殺どくさつ」とうたがい、ソ連それん要請ようせい事実じじつじょう強制きょうせい)をけて出廷しゅっていした東京とうきょう裁判さいばんにおいてもそのように証言しょうげんしている。しかし遺族いぞくはそれを戦後せんご否定ひていしているばかりか、実際じっさいたんなる病死びょうしだったと証明しょうめいされている。たんだまよわい死後しごかんぞくたまきん側室そくしつとしてむか福貴ふきじんとした。

まんしゅうこく建国けんこくさいしても溥儀ふぎ一緒いっしょまんしゅうりし、まんしゅうこく初代しょだい国務こくむ総理そうりとして溥儀ふぎささえたていたかし胥は、「くにはいつまでも子供こどもではない」と、建国けんこく実権じっけんにぎ関東かんとうぐん批判ひはんする発言はつげんおこなったことから、溥儀ふぎ皇帝こうてい即位そくいのわずか1ねん1935ねん5月に辞任じにんまれた。

日本にっぽん国内こくないからの反発はんぱつ

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頭山とうやまみつる川島かわしま芳子よしこ

しかし、まんしゅう事変じへん以降いこう日本にっぽん政府せいふ大本営だいほんえい意向いこう無視むししてうごくことのおおかった関東軍かんとうぐんが、現地げんちじんはおろか日本にっぽん政府せいふ意思いしをも無視むし過度かど介入かいにゅうするかたちでのまんしゅうこく運営うんえい、さらに関東軍かんとうぐん主導しゅどう実権じっけんともなわないかたちでの溥儀ふぎの「皇帝こうてい就任しゅうにん」にたいしては、日本にっぽん国内こくない有識者ゆうしきしゃとくにアジア諸国しょこく欧米おうべい植民しょくみん支配しはいからの自主じしゅ独立どくりつ目指めざアジア主義しゅぎしゃ右翼うよくからの反発はんぱつつよかった。

いちれいとして、当時とうじ日本にっぽん政界せいかいつよ影響えいきょうりょくっていたアジア主義しゅぎしゃ巨頭きょとうげんようしゃ総帥そうすい、かつ亡命ぼうめいちゅう支援しえんおこなうなど蔣介せきとの関係かんけいふかかった頭山とうやまみつるは、まんしゅう事変じへんからまんしゅうこく建国けんこくいた関東軍かんとうぐん暴走ぼうそうと、それにたいする日本にっぽん政府せいふのあいまいな対応たいおうつよ憂慮ゆうりょいかりをしめしていた。

頭山とうやまは、1935ねん溥儀ふぎ来日らいにちしたさいにもまん政府せいふから歓迎かんげい式典しきてん公式こうしきばんさんかいへの出席しゅっせき招待しょうたいけたものの、まんしゅうこく建国けんこくいたるまでの関東軍かんとうぐん暴走ぼうそうめられないままでいた岡田おかだ内閣ないかく大本営だいほんえい、そして関東かんとうぐんへの抗議こうぎ意味いみめて「すすまない」との理由りゆうでこれをことわっている。

はつ来日らいにち

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溥儀ふぎ来日らいにち記念きねん切手きって(1935ねん
溥儀ふぎ昭和しょうわ天皇てんのうスターリン蔣介せき表紙ひょうしった『タイム』(1936ねん2がつ

まんしゅうこくにおいて溥儀ふぎ関東軍かんとうぐんとの関係かんけいはこのよう状況じょうきょうではあったものの、にちまん友好ゆうこう促進そくしんするねらいと、まんしゅうこくならびに溥儀ふぎ威信いしん国内外こくないがいたかめることを目的もくてきとして、1935ねん4がつ溥儀ふぎ昭和しょうわ天皇てんのう招待しょうたいにより日本にっぽん国賓こくひんとして公式こうしき訪問ほうもんすることに決定けっていした。これは溥儀ふぎにとってはつ外国がいこく訪問ほうもんとなった。

公式こうしき訪問ほうもんにはまんしゅう海軍かいぐんかん使用しようせず、日本にっぽんがわ日本にっぽん海軍かいぐん練習れんしゅう戦艦せんかん比叡ひえい」を御召おめしかんとして提供ていきょうした。大連たいれんこうより4がつ6にち早朝そうちょう横浜よこはまこう到着とうちゃくした溥儀ふぎは、東京とうきょうえきまで専用せんよう列車れっしゃかった。東京とうきょうえき溥儀ふぎいちぎょう到着とうちゃくしたさいには、両国りょうこくふか関係かんけいあらわすように、昭和しょうわ天皇てんのうみずからが東京とうきょうえきのホームまで溥儀ふぎむかえにくという、日本にっぽん歴史れきしじょう異例いれい歓待かんたいおこなった。このよう天皇てんのうによる歓待かんたい現在げんざいまでれいがない。

天皇てんのうのみならずおおくの皇族こうぞく訪日ほうにちした溥儀ふぎあたたかくむかえたほか、政府せいふ通常つうじょう友好国ゆうこうこく元首げんしゅへの歓待かんたいをはるかにえる規模きぼ異例いれい歓待かんたいおこなった。やく100にんからなる溥儀ふぎいちぎょう到着とうちゃく赤坂あかさか離宮りきゅう滞在たいざいし、天皇てんのう皇族こうぞく閣僚かくりょう各国かっこく外交がいこうだんまねかれ公式こうしき晩餐ばんさんかいひらかれた。その靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱい近衛このえ師団しだん閲兵えっぺいしきなどの公式こうしき日程にっていをこなしたほか専用せんよう列車れっしゃ奈良ならけん[15]京都きょうと広島ひろしまけんなど日本にっぽん国内こくない各地かくち訪問ほうもんした。

訪日ほうにちちゅうは、新聞しんぶんラジオ雑誌ざっしやニュース映画えいがなど日本にっぽんちゅうのマスコミが溥儀ふぎ行動こうどう発言はつげん逐一ちくいち報道ほうどうし、新聞しんぶんしゃ出版しゅっぱんしゃから報道ほうどう写真しゃしんしゅう発売はつばいされたほか、いわゆる「っかけ」も発生はっせいするなど、溥儀ふぎ自身じしん人柄ひとがらもあいまって日本にっぽん皇室こうしつ指導しどうしゃそうのみならず日本にっぽん国民こくみんからもたか人気にんきあつめた。

東京とうきょう駅前えきまえには奉祝ほうしゅくもんつくられ、銀座ぎんざ両国りょうこく国旗こっきでんかざりかざられた。また東京とうきょう市電しでんはライトアップされたはな電車でんしゃはしらせ、逓信ていしんしょう溥儀ふぎ訪日ほうにち記念きねんして記念きねん切手きってを4しゅ発行はっこうするなど、官民かんみんげた歓迎かんげいおこなった。いちとおりの日程にっていえた溥儀ふぎいちぎょうは、4がつ25にちよる広島ひろしまけん宮島みやじまこうより、御召おめしかんの「比叡ひえい」で帰国きこくいた。

当時とうじ溥儀ふぎは、年齢ねんれいちかい(昭和しょうわ天皇てんのうほうが5さい年長ねんちょうじょうに、自分じぶんおな君主くんしゅせい国家こっか国家こっか元首げんしゅだった昭和しょうわ天皇てんのうの「兄弟分きょうだいぶん」であるという気持きもちがつよかったとされている。また、皇太后こうたいごう節子せつこは、流産りゅうざんしたおなどし溥儀ふぎを「まんしま殿どの」とび、のようにしたしくせっしたとわれている。

溥傑と嵯峨さがひろし結婚けっこん

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溥傑と嵯峨さがひろし(1937ねん

1937ねんには、日本にっぽん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょうまんしゅう国軍こくぐん将校しょうこうとなっていた溥傑と、嵯峨さが侯爵こうしゃくいえ令嬢れいじょう皇室こうしつ親戚しんせき先代せんだい侯爵こうしゃく嵯峨さがこうかち夫人ふじん仲子なかこは、明治天皇めいじてんのう生母せいぼ中山なかやま慶子けいこ実弟じってい忠光ただみつむすめ)にたる嵯峨さがひろし縁談えんだん関東軍かんとうぐん主導しゅどうすすめられ、2がつ6にち駐日ちゅうにちまんしゅうこく大使館たいしかん発表はっぴょう2人ふたり結婚けっこん内定ないていし、同年どうねん4がつ3にち東京とうきょう軍人ぐんじん会館かいかんげん九段会館くだんかいかん)で挙式きょしきおこなわれ、にちまん両国りょうこくおおきな話題わだいんだ。

新婚しんこん当時とうじの溥傑は日本にっぽん陸軍りくぐん歩兵ほへい学校がっこう在籍ざいせきしていたため、2人ふたり近隣きんりん千葉ちば稲毛いなげ新居しんきょあいしんさとし溥傑仮寓かぐう)をかまえた。同年どうねん9がつに溥傑が、10月にはひろししんきょうわたった。その1938ねん2がつに、長女ちょうじょであるとしせいまれる。

結婚けっこんの溥傑とひろしは、ひろししんきょうわたった1ねんの1938ねん10がつに、溥傑がまんしゅうこく駐日ちゅうにち大使館たいしかん武官ぶかんしつ勤務きんむめいじられて東京とうきょう赴任ふにんしたが、よく1939ねん11月には奉天ほうてん歩兵ほへい将校しょうこうぐんかん学校がっこう教官きょうかん任官にんかんされ教鞭きょうべんることになるなど、まんしゅうこく日本にっぽんする生活せいかつおくる。

溥儀ふぎ当初とうしょ嵯峨さがひろしのことを「関東軍かんとうぐんのスパイ」ではと疑念ぎねんっていたが、1938ねん長女ちょうじょとしせい1940ねんには次女じじょ嫮生2人ふたり子供こどもまれたことや、溥傑とひろし関係かんけい良好りょうこうなこと、溥儀ふぎたいしてつね皇帝こうていとしての敬意けいいった態度たいどつづけたことなどをけて、ひろしたいする警戒けいかいすこしずついてったとわれている。とはいえのない溥儀ふぎは、関東軍かんとうぐんほうでは溥傑に男子だんしまれれば自身じしん退位たいいさせてその帝位ていいがせるつまりではないかとみて、その場合ばあい自身じしん兄弟きょうだい生命せいめいがどうなるかとおそれていたことを、自伝じでん『わが半生はんせい 「満州まんしゅうこく皇帝こうてい自伝じでん』においてべている。

にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん

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南京なんきん入城にゅうじょうする日本にっぽんぐん(1937ねん

溥儀ふぎ皇帝こうてい就任しゅうにんした4ねんの1937ねん7がつ7にちに、北平きたひらげん北京ぺきん西南せいなん盧溝橋ろこうきょうきた盧溝橋ろこうきょう事件じけん契機けいきとして日本にっぽんぐん国民こくみん革命かくめいぐん国民党こくみんとうぐん)のあいだにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)が勃発ぼっぱつした。その中華民国ちゅうかみんこくないにおいて内戦ないせん状態じょうたいにあった国民党こくみんとう共産党きょうさんとうは、日本にっぽんぐん対抗たいこうするための抗日こうにち民族みんぞく統一とういつ戦線せんせんであるだい国共こっきょう合作がっさく構築こうちくした。

日本にっぽんぐん中華民国ちゅうかみんこく沿岸えんがんみなとすべ閉鎖へいさし、1938ねん後半こうはんはいると海上かいじょうからの一切いっさい補給ほきゅう閉鎖へいさ成功せいこうした。国民こくみん政府せいふ重慶たーちん遷都せんとして抵抗ていこうつづけていたが、ほとんどの戦線せんせん活動かつどう停止ていし南京なんきん陥落かんらく臨時りんじ首都しゅと重慶たーちんにも日本にっぽんぐん圧力あつりょくたかまった。

国民こくみん政府せいふは、どう国内こくないにおける利権りけん確保かくほしようとしたソビエト連邦れんぽう戦闘せんとうなどを貸与たいよしたほか、アメリカもアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく義勇軍ぎゆうぐん派遣はけんするなどこれを支援しえんした。

にちちゅう戦争せんそうつうじて関東軍かんとうぐんは、日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんけい将兵しょうへい続々ぞくぞくささえ派遣はけんぐん異動いどうさせたが、まんしゅう国軍こくぐん自国じこく防衛ぼうえい専念せんねん国民党こくみんとうぐんとの戦闘せんとうには参加さんかしなかった。このこともあり溥儀ふぎにちちゅう戦争せんそうたいしておもだった活動かつどう発言はつげんはしていない。

度目どめ来日らいにち

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溥儀ふぎの2かい来日らいにち(1940ねん
昭和しょうわ天皇てんのう溥儀ふぎ握手あくしゅ(1940ねん6がつ26にち

1940ねん6がつ皇紀こうき2600ねん記念きねん行事ぎょうじ東京とうきょうおこなわれたさいにも、タイ王国おうこく中華民国ちゅうかみんこくひろしちょうめい政権せいけんなどの日本にっぽん友好国ゆうこうこく(なお当時とうじひがしアジアの独立どくりつこく日本にっぽんまんしゅうこくほかは、タイ王国おうこく中華民国ちゅうかみんこくソ連それんしか存在そんざいしていなかった。すべにちべいえいふつらん植民しょくみん領土りょうどだった)の首脳しゅのうじん同様どうよう奉祝ほうしゅくのためにふたた訪日ほうにちした。

このさい日本にっぽん海軍かいぐん戦艦せんかん日向ひなた」を皇帝こうてい御召おめしかんとし、6月26にち大連たいれんこうから横浜よこはまこう到着とうちゃくしたさい高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう出迎でむかえをけたのちふたた東京とうきょうえき出迎でむかえた昭和しょうわ天皇てんのうと5ねんりにかた握手あくしゅまじえた[16]

この訪問ほうもんさい溥儀ふぎは、皇紀こうき2600ねん記念きねん行事ぎょうじへの参加さんかなどの公式こうしき日程にっていをこなしたのみならず、溥儀ふぎとくしたしくかんじていた皇太后こうたいごう節子せつこもうけた午餐ごさんかい招待しょうたいされたほか、東京とうきょうはなれて伊勢神宮いせじんぐうへの参拝さんぱい滋賀しがけん訪問ほうもんなどをしたのちに、神戸こうべこうから帰国きこくいた。

伊勢神宮いせじんぐうおとずれたのちには、溥儀ふぎ発案はつあんで「にちまんいちかみいちたかし」を表明ひょうめいまんしゅうこくみかど宮内くないに「建国けんこくしんびょう」がつくられ、神体しんたいとしててんあきら大神おおがみまつられた。また、溥儀ふぎはつ来日らいにちから帰国きこくしたさいには「もし大満だいましゅう帝国ていこく皇帝こうてい不忠ふちゅうであれば、それは天皇てんのう不忠ふちゅうであり、天皇てんのう不忠ふちゅうであればまんしゅう皇帝こうてい不忠ふちゅうとなる」と、日本にっぽん出身しゅっしんしゃおおくをめるまんしゅうこく政府せいふ首脳しゅのうたいして訓示くんじおこなったなど、まんしゅうこく皇帝こうていとしてのみずからの地位ちい強固きょうこにするため日本にっぽんこく皇室こうしつとのしたしい関係かんけい表明ひょうめいしていた。

この2かい溥儀ふぎにとって最初さいしょ最後さいご公式こうしき外遊がいゆうだった。溥儀ふぎは1935ねんと1940ねんの2かい訪日ほうにちともに、このころよりアヘン中毒ちゅうどくなどいくつかの病気びょうきつたえられた婉容同伴どうはんせず、単独たんどく訪日ほうにちおこなった。

だい世界せかい大戦たいせん

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まんしゅう国軍こくぐん戦闘せんとう(1942ねん
まんしゅう国内こくない演習えんしゅうおこな関東軍かんとうぐんきゅうしきけい戦車せんしゃ(1944ねん

その1941ねん12月7にち太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)の開戦かいせんにより、日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくあわせてイギリスやアメリカ、オランダやオーストラリアなどの連合れんごうこく交戦こうせん状態じょうたいはいった。

しかし、まんしゅうこく連合れんごうこく各国かっこくたいする宣戦せんせん布告ふこくおこなわず、さらにまんしゅうこく同盟どうめいこくである日本にっぽんと、まんしゅうこく隣国りんごくソビエト連邦れんぽうとのあいだにち中立ちゅうりつ条約じょうやく存在そんざいすることから、まんしゅう国内こくない国民党こくみんとうぐん共産党きょうさんとうぐんによるゲリラ攻撃こうげきがたびたびおこなわれており、それらとまんしゅう国軍こくぐん戦闘せんとうおこなわれていたものの、日本にっぽんぐんとイギリスぐんアメリカぐん中華民国ちゅうかみんこくぐんとの戦闘せんとう地域ちいきからはなれていることもあり平静へいせいつづいた。1943ねん東京とうきょう開催かいさいされただい東亜とうあ会議かいぎ実務じつむしゃ会議かいぎであるために出席しゅっせきせず、ちょうけいめぐみ総理そうり出席しゅっせきさせている。

1943ねんには溥傑が日本にっぽん陸軍りくぐんだい学校がっこう教官きょうかんとして配属はいぞくされたため、溥傑とその一家いっか東京とうきょうきょうつすこととなった。このころ日本にっぽんぐんはまだまだ各地かくちいきおいをたもっていたものの、事実じじつじょう1こくだけでイギリスやアメリカ、中華民国ちゅうかみんこくやオーストラリアなど複数ふくすうこくからなる連合れんごうこく対峙たいじしていたうえ、オーストラリア北部ほくぶやアメリカ西海岸にしかいがんアフリカ南部なんぶなど国力こくりょくえて戦線せんせん拡大かくだいしていたこともあり、1944ねんはいると各地かくち次第しだい敗戦はいせんいろくしてゆく。なお、同年どうねん溥傑は学習がくしゅういん入学にゅうがくした長女ちょうじょとしせい東京とうきょうのこし、つま次女じじょの嫮生とともにしんきょうもどった。

そのおも戦場せんじょうからとおはなれたうえに、農業のうぎょう生産せいさん順調じゅんちょうおこなわれていたまんしゅう国内こくない平静へいせいたもったものの、おおくの関東軍かんとうぐん南方なんぽう戦線せんせん移動いどうするのと同時どうじに、おおくの食料しょくりょう食糧難しょくりょうなんになってきていた日本にっぽん輸出ゆしゅつされるようになっていく。

さらに1945ねんはいると工業こうぎょう地帯ちたいぐん基地きちなどが、イギリスりょうインド帝国ていこく経由けいゆ中華民国ちゅうかみんこく内陸ないりく成都せいと基地きちから飛来ひらいしたアメリカぐんばくげきなどの攻撃こうげきをたびたびけ、これらのばくげきまんしゅうこく飛行ひこうたい戦闘せんとうとの空中くうちゅうせんおこなわれるなど、すこしずつ戦火せんか影響えいきょうけるようになってゆく。

帝国ていこく崩壊ほうかい皇帝こうてい退位たいい

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まんしゅうこく皇帝こうてい退位たいいした記念きねん
まんしゅうこく湾岸わんがん警備けいびがおかれていた旅順りょじゅんこう占領せんりょうしたソ連それんぐん

その1945ねん8がつ8にちに、先立さきだっておこなわれたヤルタ会議かいぎでのイギリスやアメリカなどのほかの連合れんごうこくとの密約みつやくにより、ソ連それん政府せいふモスクワ終戦しゅうせん仲介ちゅうかい依頼いらいていたちゅうソ連それん日本にっぽん特命とくめい全権ぜんけん大使たいし佐藤さとう尚武なおたけたいし、1946ねん4がつ26にちまで有効ゆうこうだった中立ちゅうりつ条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はき宣戦せんせん布告ふこく通告つうこくし、そのすうじゅうふんソ連それんぐんだい部隊ぶたい北西ほくせいそとこうむふるおよび北東ほくとう沿海州えんかいしゅうきた孫呉そんご方面ほうめんおよハイラル方面ほうめんの3方向ほうこうからソまん国境こっきょうえて、日本にっぽん同盟どうめいこくであるまんしゅうこく侵攻しんこうした。ソ連それんまんしゅうこくには宣戦せんせん布告ふこくとうおこなわず、日本にっぽん支配しはい地域ちいきへの侵攻しんこう位置付いちづけだった。

大本営だいほんえいは1945ねん5がつ大連たいれんしんきょう們をむす最終さいしゅう防衛ぼうえいせん策定さくていまんしゅうの4ぶんの3を放棄ほうきしてみなみまんしゅうでのたい持久じきゅうせん決定けっていソ連それんたいにち参戦さんせんを9がつ以降いこうんでいたあまさはあるにせよ、太平洋たいへいよう方面ほうめん戦況せんきょう悪化あっかのため精鋭せいえい南方なんぽう転出てんしゅつさせられていた関東軍かんとうぐんはすぐさまつう後退こうたいした。

1945ねん5がつドイツ敗北はいぼく以降いこうたいにち侵攻しんこうそなえてヨーロッパ戦線せんせんから転進てんしんしソまん国境こっきょう付近ふきん集結しゅうけつしていたソ連それんぐんたいして、装備そうび貧弱ひんじゃく満州まんしゅう国軍こくぐんかく部隊ぶたい分断ぶんだんされ、効果こうかてき反撃はんげきもできないままに潰滅かいめつ状態じょうたいになった。ぐん官僚かんりょうまんてつ関係かんけいしゃせた列車れっしゃ居留民きょりゅうみんりにし、追撃ついげき阻止そしするために通過つうか橋梁きょうりょうなどを破壊はかいしていった。

溥儀ふぎやその家族かぞくまんしゅうこく閣僚かくりょう関東かんとうぐん上層じょうそうたちは、ソ連それんぐん進撃しんげきすすむと8がつ10日とおか首都しゅとしんきょう放棄ほうき決定けっていし、8がつ13にち日本にっぽんりょう朝鮮ちょうせんとの国境こっきょう程近ほどちかつうしょう臨江けんだい栗子りつこに、みなみまんしゅう鉄道てつどう特別とくべつ列車れっしゃ避難ひなんした。

しかし、事実じじつじょう1こく連合れんごうこくたたかっていた日本にっぽん8がつ15にち連合れんごうこくたいして降伏ごうぶくしたことにより、その2にち8がつ17にち国務こくむいんまんしゅうこく解体かいたい決定けってい8がつ18にち未明みめいだい栗子くりごまんしゅうこく解散かいさんみずか宣言せんげんするとともに、まんしゅうこく皇帝こうてい退位たいいした。

ソ連それんへの抑留よくりゅう

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よんしきじゅう爆撃ばくげき

まんしゅうこく皇帝こうてい退位たいいした溥儀ふぎは、日本にっぽん政府せいふより日本にっぽんへの亡命ぼうめい打診だしんされたこともあり、日本にっぽんぐんとの連絡れんらくもと8がつ19にちあさまんしゅう国軍こくぐん輸送ゆそうだい栗子くりごから奉天ほうてんかった。奉天ほうてん飛行場ひこうじょうでは、岐阜ぎふ基地きちからきょうしろ平壌ぴょんやん経由けいゆおくられてきた日本にっぽん陸軍りくぐん救援きゅうえんよんしきじゅう爆撃ばくげき)が手配てはいされていたため、これを奉天ほうてん予定よていだった[17]

しかし同日どうじつひるに、日本にっぽん陸軍りくぐん救援きゅうえん到着とうちゃく先立さきだ奉天ほうてん進軍しんぐんしてソ連それん空挺くうてい部隊ぶたいらえられた。その溥儀ふぎや溥傑、毓嶦およ吉岡よしおかまんしゅう帝国ていこく宮中きゅうちゅういちぎょうただちにソ連それん領内りょうない移送いそうされ、さらにソ連それん極東きょくとうチタハバロフスクだい45特別とくべつ地区ちく将校しょうこう収容しゅうようしょ)に収容しゅうようされた[18]。 その溥儀ふぎまんしゅう帝国ていこく宮中きゅうちゅういちぎょう身柄みがらソ連それんかれ、中華民国ちゅうかみんこくわたされることはなかった。収監しゅうかんちゅう中華民国ちゅうかみんこくへの引渡ひきわたしをおそれてソ連それん永住えいじゅうソ連それん共産党きょうさんとうへの入党にゅうとう希望きぼうしたが、却下きゃっかされている[19][20]溥儀ふぎはこのほか、ソ連それん歓心かんしんうため多数たすう財宝ざいほう提供ていきょうもうていた[21]

婉容の

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婉容やひろし溥儀ふぎや溥傑の航空機こうくうきによる日本にっぽんへの亡命ぼうめい同行どうこうできず、地上ちじょうでの移動いどう余儀よぎなくされたすえに、わずかな親族しんぞく従者じゅうしゃともまんしゅう国内こくないのこされ、ソ連それんモンゴル連合れんごうぐんとともにまんしゅう侵攻しんこうしてはちぐんらえられた。

さらに大戦たいせん終結しゅうけつまもなくだい国共こっきょう内戦ないせんはじまり、はちぐん中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐんわれるなか各地かくち転々てんてんまわされ、1946ねん2がつには、つうつう事件じけんまれることとなった。

逃亡とうぼうちゅうアヘン中毒ちゅうどく禁断症状きんだんしょうじょうた婉容は、その嵯峨さがひろしなどの親族しんぞく従者じゅうしゃはなされ、吉林きつりんしょう延吉えんきち監獄かんごくないでアヘン中毒ちゅうどく禁断症状きんだんしょうじょう栄養失調えいようしっちょうのために、だれにも看取みとられることもないままに孤独こどくしたといわれる。死後しごどこに埋葬まいそうされたかは現在げんざいでもかっていない。

東京とうきょう裁判さいばん

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ソ連それんぐん将校しょうこうとも東京とうきょう裁判さいばんかう溥儀ふぎ(1946ねん8がつ9にち

溥儀ふぎソ連それん強制きょうせい収容しゅうようしょ収監しゅうかんされた翌年よくねん1946ねん開廷かいていした極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)には、証人しょうにんとして連合れんごうこくがわから指名しめいされ、ソ連それん監視かんしにおいて空路くうろ東京とうきょう護送ごそうされ、同年どうねん8がつ16にちよりソ連それんがわからの証人しょうにんとして証言しょうげんおこなった。

ここで、板垣いたがき征四郎せいしろう当時とうじ大佐たいさ)から「本庄ほんじょうしげる司令しれいかん命令めいれいとしてまんしゅうこくにおけるりょうじくになってしい」、という依頼いらいがあったことを証言しょうげんし、「自分じぶん立場たちば日本にっぽん傀儡かいらい以外いがいなにものでもない」と主張しゅちょうした。 「顧問こもんはなしでは、板垣いたがきはもしもこのもう拒絶きょぜつすれば、生命せいめい危険きけんがあると脅迫きょうはくした。それで、りょう顧問こもん1人ひとりたまは、板垣いたがきもう受諾じゅだくするようにとわたしすすめた」、「本当ほんとう気持きもちは拒絶きょぜつしたかった。しかし4にん顧問こもん受諾じゅだくすすめた。当時とうじ日本にっぽんぐん圧迫あっぱく如何いかなる民主みんしゅ国家こっか阻止そししなかった。わたしだけでは抵抗ていこう出来できなかった」、「わたし意志いし拒絶きょぜつするにあったが、武力ぶりょく圧迫あっぱくけ、しかも一方いっぽう顧問こもんから生命せいめい危険きけんだから応諾おうだくせよとすすめられて、ついにやむを受諾じゅだくしたのだ」、「日本にっぽんまんしゅう植民しょくみんし、神道しんとうによる宗教しゅうきょう侵略しんりゃくおこなおうとした」と証言しょうげんした。

わたしつま日本にっぽんぐん毒殺どくさつされた」とかたり、日本にっぽんぐん糾弾きゅうだんするとともに「まんしゅう問題もんだいかんする責任せきにんすべ日本にっぽんにある」と強調きょうちょうした。これにたいして、被告ひこくがわ弁護べんごだんは、反対はんたい尋問じんもんにおいて、まんしゅうこく建国けんこく当時とうじみなみ次郎じろう陸相りくしょうおくられた、にちまん提携ていけいみとめる「せんすべみかど親書しんしょ」を証拠しょうことして提出ていしゅつして溥儀ふぎ証言しょうげん内容ないよう信憑しんぴょうせい追及ついきゅうした[ちゅう 2]ちなみに、東京とうきょう裁判さいばんにおいて、検察けんさつじんから直接ちょくせつ尋問じんもんけた証人しょうにん溥儀ふぎのみだった。[よう出典しゅってん]ジョンストンの著書ちょしょである『むらさき禁城きんじょう黄昏たそがれ』も弁護べんごがわ資料しりょうとして提出ていしゅつされたが、さしたる理由りゆう提示ていじされないままに却下きゃっかされ裁判さいばん資料しりょうとはされなかった[23]

のちみとめた自叙伝じじょでん『わが半生はんせい』では、「今日きょう、あのとき証言しょうげんおもかえすと、わたし非常ひじょう残念ざんねんおもう。わたしは、当時とうじ自分じぶん将来しょうらい祖国そこく処罰しょばつけることおそれ」、「自分じぶん罪業ざいごう隠蔽いんぺいし、同時どうじ自分じぶん罪業ざいごう関係かんけいのある歴史れきし真相しんそうについて隠蔽いんぺいした」としるしている。これはあくまで溥儀ふぎ自身じしん責任せきにんかんしてのことである。藤原ふじわらながれである三条さんじょう分家ぶんけである嵯峨さが侯爵こうしゃくまれで溥儀ふぎおとうとである溥傑と結婚けっこんした嵯峨さがひろしは、溥儀ふぎ証言しょうげんは、ソ連それん監視かんし多少たしょう誇張こちょうはあったとはいえ、ほぼ事実じじつどおりであったとしている[24]

収監しゅうかん

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なでじゅん戦犯せんぱん管理かんりしょ

その1950ねんには、ソ連それんおなじく連合れんごうこくの1こくであり、国連こくれん常任じょうにん理事りじこくでもあった中華民国ちゅうかみんこくではなく、国共こっきょう内戦ないせんソ連それん援助えんじょけて勝利しょうりした中国共産党ちゅうごくきょうさんとうによって前年ぜんねん中国ちゅうごく大陸たいりく建国けんこくされた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく身柄みがらうつされた。

その公式こうしき裁判さいばんさばかれることすらないままに、だい世界せかい大戦たいせん当時とうじには存在そんざいしていなかった同国どうこくの「戦犯せんぱん」として、なでじゅん政治せいじはん収容しゅうようしょなでじゅん戦犯せんぱん管理かんりしょ)におとうとの溥傑やおなじくソ連それんぐんにとらえられたまんしゅうこく閣僚かくりょうぐん上層じょうそう61にん、さらに1,000にんえる日本にっぽんぐん捕虜ほりょらとともに収監しゅうかんされ、「さい教育きょういく」をけることとなった。その同年どうねん10がつハルビン政治せいじはん収容しゅうようしょ移動いどうさせられ、1954ねんにはふたたなでじゅん政治せいじはん収容しゅうようしょ移動いどうさせられた。

収監しゅうかんちゅう溥儀ふぎ模範もはんしゅうわれるような礼儀れいぎただしい言動げんどうおこなっていたとつたえられている。一方いっぽうで「収監しゅうかんされてからしばらく、溥儀ふぎ生活せいかつりょくのなさ(自分じぶんふくくつけない、掃除そうじをしない、作業さぎょうまって溥儀ふぎのところでとどこおるなど)によりまわりから不満ふまんえなかった」ともつたえられている。

政治せいじはん収容しゅうようしょ収監しゅうかんちゅう1957ねん12月10にちに、かつて可愛かわいがっていた溥傑の長女ちょうじょとしせいが、学習がくしゅういん同級生どうきゅうせい大久保おおくぼ武道たけみち日本にっぽん静岡しずおかけん自殺じさつした事件じけん天城山あまぎさん心中しんちゅうの)をり、かなしんでいたことを日記にっきないしるしている。

釈放しゃくほう

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鹿しか鍾麟(ひだり)、くま秉坤(みぎ)とともに、からし革命かくめい50周年しゅうねん式典しきてん参列さんれつしたさい溥儀ふぎ(1961ねん

1959ねん12月4にちに、当時とうじ国家こっか主席しゅせき劉少奇りゅうしょうきした戦争せんそう犯罪はんざいじんたいする特赦とくしゃれいけ、12月9にち模範もはんしゅうとして特赦とくしゃされた。釈放しゃくほうの1960ねん1がつ26にちに、溥儀ふぎ政治せいじはん収容しゅうようしょ収監しゅうかんされているさい溥儀ふぎたいしてなにかと便宜べんぎはかっていたしゅう恩来おんらい首相しゅしょうちゅう南海なんかい会談かいだんし、釈放しゃくほう将来しょうらいについてはなった結果けっか一般いっぱん市民しみん生活せいかつれることを目的もくてきに、しゅう恩来おんらいすすめで中国科学院ちゅうごくかがくいん運営うんえいする北京ぺきん植物しょくぶつえんでの庭師にわしとしての勤務きんむおこなうこととなった[25]

ぶん研究けんきゅう委員いいんかい専門せんもん委員いいん就任しゅうにん

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北京ぺきん植物しょくぶつえんでの勤務きんむは、「一般いっぱん市民しみんとして馴染なじむ」ための名目めいもくてきなもので短期間たんきかんわり、その全国ぜんこく政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎぶん研究けんきゅう委員いいんかい専門せんもん委員いいんになり、おもぶん資料しりょう研究けんきゅうおこなう。また、溥儀ふぎとともに収容しゅうようしょ収監しゅうかんされていた溥傑も1960ねん11月20にち釈放しゃくほうされ、溥儀ふぎひろしとの再会さいかいたしている。

その1962ねんには、看護かんごをしていた一般人いっぱんじんよしけん結婚けっこんよしけん溥儀ふぎの5にんつまとなった[26]溥儀ふぎにとって最後さいご結婚けっこんとなったが、夫婦ふうふともども高齢こうれいであることもありさずかることはなかった。しかし溥儀ふぎと溥傑は夫婦ふうふでおたがいのいえし、日本にっぽんにいた溥傑とひろしとしせい嫮生文通ぶんつうするなど、兄弟きょうだいなかはますます良好りょうこうであった。

せいきょう全国ぜんこく委員いいん就任しゅうにん

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しゅう恩来おんらいみぎ)とすえ(1966ねん

せいきょうぶん研究けんきゅう委員いいんかい専門せんもん委員いいんとしてぶん資料しりょう研究けんきゅう活動かつどうおこなかたわら、1964ねんには民族みんぞく国家こっかとなった中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくないにおいて、まんしゅうぞくかんぞく民族みんぞくあいだ調和ちょうわ目指めざしゅう恩来おんらいけいらいでまんしゅうぞく代表だいひょうとしてせいきょう全国ぜんこく委員いいんという国会こっかい議員ぎいん相当そうとう格式かくしきしょく選出せんしゅつされ、その死去しきょまで委員いいんつとめた。また、溥傑も全国ぜんこく人民じんみん代表だいひょう大会たいかい常務じょうむ委員いいんかい委員いいんつとめている。

しゅう恩来おんらいは、労働ろうどうしゃ階級かいきゅう出身しゅっしんがくがないおおくの共産党きょうさんとう幹部かんぶことなり家柄いえがらもよく教養きょうようもあり、清朝せいちょう最後さいご皇帝こうていであり、その不幸ふこう運命うんめい辿たどった溥儀ふぎたいしてつね同情どうじょうてきだったとわれている。

しかし、毛沢東もうたくとうにはべつ目的もくてきがあり、ロシア帝国ていこく最後さいご皇帝こうていニコライ2せいとその一家いっか虐殺ぎゃくさつしたソ連それんたいする中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく優越ゆうえつせいしめすために、溥儀ふぎ今度こんど共産党きょうさんとう傀儡かいらいとして思想しそう改造かいぞうするねらいがあったとされる[27]

死去しきょ

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晩年ばんねん溥儀ふぎ中央ちゅうおうひだり溥傑みぎよしけん。)

溥儀ふぎ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく文化ぶんかだい革命かくめいあらしれるなかがん腎臓じんぞうがん)をわずらった。せいきょう全国ぜんこく委員いいんという要職ようしょくではあるが、清朝せいちょう皇帝こうていという「はん革命かくめいてき」な出自しゅつじ溥儀ふぎ治療ちりょうおこなうことで紅衛兵こうえいへい攻撃こうげきされることをおそれたおおくの病院びょういんから入院にゅういん拒否きょひされたが、せいきょう主席しゅせきつとめるしゅう恩来おんらい手配てはいで、北京ぺきん市内しない病院びょういん入院にゅういんすることになった。

しかし溥儀ふぎ治療ちりょうけていることをった紅衛兵こうえいへいが、入院にゅういんさき病院びょういんしかけてさわいだため、医師いしたちは溥儀ふぎ治療ちりょうほどこさず放置ほうちした。その報告ほうこくけて立腹りっぷくしたしゅう恩来おんらいは、直接ちょくせつ院長いんちょう電話でんわして溥儀ふぎ治療ちりょうおこなわせたが、すで末期まっき状態じょうたいだった溥儀ふぎ治療ちりょうのかいもなく1967ねん10月17にち死去しきょした。「最後さいごべたいものは」の質問しつもんに、溥儀ふぎは「チキンラーメン」とこたえたという[13][28]

死後しご

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溥儀ふぎ遺骨いこつ当初とうしょ北京ぺきん郊外こうがい北京ぺきんはち宝山たからやま人民じんみん埋葬まいそうされたが、1995ねん河北かほくしょうえきけんにある清朝せいちょう歴代れきだい皇帝こうてい陵墓りょうぼきよし西陵せいりょうちかくの民間みんかん墓地ぼちはなりゅうすめらぎえん」の経営けいえいしゃが、よしけん溥儀ふぎはかつくることを提案ていあんし、これに同意どういした彼女かのじょによって溥儀ふぎ遺骨いこつどう墓地ぼちけんじりょう」にうつされた。また、のちに「けんじりょう」のがわ皇后こうごう婉容と貴人きじんたんだまよわいはかつくられたが、婉容の遺骨いこつつかっていないためえんしなのみがおさめられている。よしけん自身じしん北京ぺきんはち宝山たからやま人民じんみんほうむられている。

2004ねんあいしんさとしより溥儀ふぎびょうごうきょうむね」、諡号しごう「愍皇帝こうてい」が追贈ついぞうされた。また皇后こうごう婉容に「こうつとむ皇后こうごう」の諡号しごう追贈ついぞう後妻ごさいよしけんを「皇后こうごう」についふうし、「こう睿愍皇后こうごう」の諡号しごう追贈ついぞう溥儀ふぎまんしゅうこく皇帝こうてい時代じだいむかえた貴人きじんたんだまよわいに「あきらけんすめらぎとうと」(溥儀ふぎまんしゅうこく皇帝こうてい時代じだい1942ねん死去しきょし、同年どうねんあきらけんとうと」とおくりなされている)、貴人きじんたまきんに「あつし福貴ふき」の諡号しごう追贈ついぞうした。よしぶん離婚りこんによって庶民しょみん降格こうかくされていたという理由りゆうから諡号しごう追贈ついぞうされなかった。

2017ねん9月には、「中国ちゅうごく近代きんだい不可欠ふかけつ人物じんぶつ」として溥儀ふぎ専門せんもんてき研究けんきゅうする「溥儀ふぎ研究けんきゅういん」が、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ正式せいしき認可にんか後援こうえんけて長春ちょうしゅん設立せつりつされた[29]

家族かぞく

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正妻せいさい側室そくしつ

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正妻せいさいである婉容側室そくしつであるぶん1922ねん結婚けっこんするが、のちぶん繡と離婚りこん、そのアヘン中毒ちゅうどくになった婉容ともまんしゅうこく崩壊ほうかい逃亡とうぼうするなかわかれになる。なお、まんしゅうこく時代じだい北京ぺきんはたじん出身しゅっしんたんだまよわいひしげさち貴人きじん)、長春ちょうしゅんかんぞく出身しゅっしんたまきん福貴ふきじん)を側室そくしつとしてむかえたが、それぞれ死別しべつ離婚りこんしている。

溥儀ふぎ自伝じでんてき前半ぜんはんせい』で婉容については「わたし彼女かのじょについてっているのは、吸毒(アヘン)の習慣しゅうかんまったこと、ゆるない行為こういがあったことぐらいである」とだけいている。「ゆるない行為こうい」とはまんしゅうこく皇帝こうてい時代じだい愛人あいじんつくり、その子供こどもんだとされることすとおもわれる。子供こども溥儀ふぎいのちによりまれてすぐにボイラーほうまれ殺害さつがいされたとわれる。

たまきんまんしゅうこく崩壊ほうかい1945ねん離婚りこん表明ひょうめい1957ねん5月、なでじゅん政治せいじはん収容しゅうようしょ収監しゅうかんされていた溥儀ふぎ面会めんかい正式せいしき離婚りこん翌年よくねん吉林きつりんしょうのラジオきょくエンジニアの毓庚という人物じんぶつ再婚さいこんし、2人ふたり息子むすこもうけた。このためか溥儀ふぎ自伝じでんてき前半ぜんはんせい』でたまきんについてはほとんど言及げんきゅうしていない。たまきん文化ぶんかだい革命かくめい迫害はくがいけたため、溥儀ふぎつまではないことの確認かくにん溥儀ふぎもうてた。溥儀ふぎたまきんとはすで離婚りこんしておりたまきん家族かぞくにもなん特権とっけんあたえていないむね証明しょうめいしょいた。

再婚さいこん

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1959ねん特赦とくしゃされたのち1962ねん看護かんごをしていたかんぞくよしけん1924ねん - 1997ねん)と再婚さいこんし、その生涯しょうがい沿げることになる。生涯しょうがいをもうけることかった。溥儀ふぎ子供こどもができなかったことについて義妹ぎまい嵯峨さがひろしは「同性愛どうせいあいであったため」と推測すいそくし、2人ふたり正妻せいさいであるよしけん同性愛どうせいあい否定ひていし、「インポテンツだったため正常せいじょう夫婦ふうふ関係かんけいきずけなかった」と主張しゅちょうしている。まきひさちょ転生てんせい』では、幼少ようしょう女官にょかん宦官かんがん性的せいてき虐待ぎゃくたいけていたとうたがわれている。

兄弟きょうだい

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自伝じでん

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半生はんせい』(原題げんだいてき前半ぜんはんせい英語えいごだいThe former half of my life)は、唯一ゆいいつ自伝じでんである。執筆しっぴつは、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくで「政治せいじはん」として「さい教育きょういく」をけていた1957ねん後半こうはんからいちねんあまりをかけて、20まん初稿しょこう完成かんせいさせた。その内容ないようのいくつかの部分ぶぶんにおいて専門せんもん意見いけんかれるなどし、だいいち稿こうだい稿こうつくられたのち、最終さいしゅうてきに1964ねん3がつ正式せいしき出版しゅっぱんされた。日本語にほんご訳本やくほん小野おのしのぶ新島にいじまあつしりょう野原のはら四郎しろう丸山まるやまのぼるわけかく ぜん2かん筑摩ちくま叢書そうしょ新版しんぱんちくま文庫ぶんこ)が出版しゅっぱんされている。また、のこされた日記にっき断片だんぺんが『溥儀ふぎ日記にっき』(おうけいさちへん[30]学生がくせいしゃ)が出版しゅっぱんされている。

2007ねん同書どうしょ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにおいて大幅おおはば加筆かひつした完全かんぜんばんとして出版しゅっぱんされることとなった。極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんでの偽証ぎしょう謝罪しゃざいし、日本にっぽんぐんまんしゅうこくとの連絡れんらくやくつとめた関東軍かんとうぐん将校しょうこう吉岡よしおか安直あんちょくつみなすけたとのち反省はんせいしたことなど、1964年版ねんばん当時とうじ削除さくじょされた16まんちか部分ぶぶん今回こんかいまれている。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく国内こくないでの報道ほうどうによると、今回こんかい1964年版ねんばんまえだいいち稿こう稿こうから、

  • 序言じょげん中国人ちゅうごくじんてき骄傲中国人ちゅうごくじんほこり)≫
  • だいろくしょう《伪满じゅうよんねんてきだいいち节≪“どう上演じょうえんてきいちだい戏——摘录一个参与者的记述だい6しょうまんしゅうこく14ねん」のだい1せつ“もう一人ひとり同時どうじえんじる ― いち参加さんかしゃ記述きじゅつより引用いんようする”)≫
  • だいななしょうざい苏联てきねんてきだいよん节≪“远东こく际军ごとほうにわだい7しょうソ連それんの5ねん」のだい4せつ極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ法廷ほうてい”)≫
  • だいじゅうしょう一切いっさいざい变》てきだいよん节≪“离婚だい10しょうあたらしい一章いっしょう」のだい4せつ離婚りこん”)≫

などをふくんでいる。

溥儀ふぎには継承けいしょうしゃがおらず死去しきょしたさい遺言ゆいごんしょがなかったため、版元はんもと群衆ぐんしゅう出版しゅっぱんしゃから北京ぺきん西城さいじょう裁判所さいばんしょへ、同書どうしょを「相続そうぞくじんのない財産ざいさん」とする認定にんてい請求せいきゅう提出ていしゅつした。裁判所さいばんしょ請求せいきゅうもとづき審査しんさ開始かいししたが、まだ裁判所さいばんしょ判断はんだんしめされていない。

題材だいざいにしたしょ作品さくひん

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ノンフィクション書籍しょせき

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  • 工藤くどうただし皇帝こうてい溥儀ふぎわたし日本にっぽん裏切うらぎったか』(世界せかいしゃ、1952ねん)、ISBN B000JBBCCK、絶版ぜっぱん
  • まきひさ転生てんせい 満州まんしゅうこく皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎ天皇てんのう昭和しょうわ』 (小学館しょうがくかん、2022ねん)
  • おうけいさち毛沢東もうたくとうしゅう恩来おんらい溥儀ふぎ』(松田まつだとおるやく科学かがく出版しゅっぱんしゃ東京とうきょう、2017ねん

フィクション書籍しょせき

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映画えいが

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溥儀ふぎ主人公しゅじんこうである映画えいが
溥儀ふぎ周辺しゅうへんえが映画えいが

テレビドラマ

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溥儀ふぎ主人公しゅじんこうとしたテレビドラマ
溥儀ふぎ周辺しゅうへんえがくテレビドラマ

舞台ぶたい

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漫画まんが

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 同書どうしょ溥儀ふぎささげられている。
  2. ^ 溥儀ふぎはこの親書しんしょ偽作ぎさく主張しゅちょうした。だが、裁判所さいばんしょ命令めいれいにより、科学かがく捜査そうさ研究所けんきゅうじょ写真しゃしん課長かちょうである高村たかむらいわお筆跡ひっせき鑑定かんていおこなった結果けっか親書しんしょ記入きにゅうされた文字もじのほとんどが溥儀ふぎ真筆しんぴつであると断定だんていされた[22]

出典しゅってん

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  1. ^ 清朝せいちょう皇帝こうてい末裔まつえい日本にっぽん眼科がんかにちちゅうのつながりひろげたい」”. 産経さんけいニュース (2022ねん2がつ5にち). 2022ねん2がつ7にち閲覧えつらん
  2. ^ ジョンストン 2005b, p. 306.
  3. ^ ジョンストン 2005b, p. 246.
  4. ^ ジョンストン 2005b, p. 315.
  5. ^ ジョンストン 2005b, p. 365.
  6. ^ a b c ジョンストン 2005b, p. 366.
  7. ^ ジョンストン 2005b, p. 388.
  8. ^ ジョンストン 2005ねん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  9. ^ 旅順りょじゅん黄金山おうごんざん溥儀ふぎろう大連たいれん観光かんこう名所めいしょ、2018ねん
  10. ^ ジョンストン 2005b, p. 393.
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  12. ^ 小磯こいそ日記にっきである葛山かつらやまひろしつめより。[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  13. ^ a b c d 吉川よしかわとし (2017ねん10がつ9にち). “「ラストエンペラー」溥儀ふぎ没後ぼつご50ねん波乱はらん生涯しょうがいをふりかえ”. HUFFPOST. The Huffington Post. 2022ねん9がつ10日とおか閲覧えつらん
  14. ^ まんしゅうこく溥儀ふぎ歴史れきしぐんぞうシリーズ まんしゅう帝国ていこく学研がっけん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  15. ^ 満州まんしゅうこく皇帝こうてい溥儀ふぎもてなしたグラスやさらはつ公開こうかい 奈良ならホテル”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2014ねん12月10にち). https://www.sankei.com/article/20141210-WTOXJ2NBOBJR7OF3JBACT4TXVM/ 
  16. ^ 日本にっぽんニュース だい3ごう. NHK. (1940ねん6がつ26にち). https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300388_00000&seg_number=001 2012ねん1がつ21にち閲覧えつらん 
  17. ^ 溥儀ふぎ まぼろし救出きゅうしゅつげき中日新聞ちゅうにちしんぶん2003ねん8がつ4にち
  18. ^ 長勢ながせりょう『シベリア抑留よくりゅうぜんはら書房しょぼう、2013ねん8がつ8にち、190ぺーじISBN 9784562049318 
  19. ^ 保阪ほさかただしかん昭和しょうわ講座こうざだいごう[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  20. ^ 賈英はな末代まつだい皇帝こうていてき非常ひじょう人生じんせい人民じんみん文学ぶんがく出版しゅっぱんしゃ、2012ねん[ようページ番号ばんごう]
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  25. ^ おうこうけん溥傑ひろし夫人ふじんへのしゅう総理そうり配慮はいりょ」『人民じんみん中国ちゅうごく』2005ねん10がつ2010ねん1がつ3にち閲覧えつらん 
  26. ^ よしけんちょ『わがおっと溥儀ふぎ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  27. ^ Edward Behr (1987). The Last Emperor. Futura. pp. 283-285. ISBN 9780773680258 
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  30. ^ 訳書やくしょは、よしけん『わがおっと溥儀ふぎへん学生がくせいしゃ、1997ねん)、著書ちょしょ毛沢東もうたくとうしゅう恩来おんらい溥儀ふぎ』(科学かがく出版しゅっぱんしゃ、2017ねん)がある。
  31. ^ 立命館大学りつめいかんだいがく畑中はたなか和夫かずお名誉めいよ教授きょうじゅは、あいしんさとし溥傑への名誉めいよ法学ほうがく博士はかせごう贈呈ぞうてい経緯けいいについてわれたさい以下いかのようにべている。(以下いか引用いんよう)『昭和しょうわ14,5ねんごろまん高等こうとう学校がっこう設立せつりつにあたり、当時とうじのおかねで50まんえんという巨額きょがく寄付きふあいしんさとし溥儀ふぎからけた。そのうち20まんえんで、衣笠きぬがさの6まんつぼ土地とち購入こうにゅうし、校舎こうしゃて、さらに学生がくせいけの奨学しょうがくきん基金ききん創設そうせつできた。まんしゅうこく皇帝こうていからの寄付きふけたのはたていのちかん秋田あきた工業こうぎょう専門せんもん学校がっこうげん秋田大学あきただいがく前身ぜんしん)の2つだった。この寄付きふいちけんについて、まんしゅうこくたていのちかん仲介ちゅうかいをしたのが、当時とうじまんしゅうこく駐日ちゅうにち大使たいしとして日本にっぽんにいた溥傑であった。月日つきひながれて、溥傑中国ちゅうごく全人代ぜんじんだいなか常務じょうむ委員いいんとしての肩書かたがきで訪日ほうにちし、清水寺きよみずでらたずねたおりのこと、おもはなしなかで、この寄付きふいちけんを溥傑おぼえていて「そのようなえんのあるたていのちかんてみたい」とっているとのはなしが、清水寺きよみずでらルートで畑中はたなか教授きょうじゅつたわった。このはなしけて、畑中はたなか教授きょうじゅまなべ内外ないがいひと相談そうだんかさね、「まさかかえしてくれとはおっしゃるまい」など心配しんぱいもしながら、もと侯爵こうしゃく嵯峨さがなどにも相談そうだんし、嵯峨さが侯爵こうしゃくから「しかるべき処遇しょぐうをすればい」とのアドバイスをて、総長そうちょう判断はんだんで、当時とうじの溥傑肩書かたがきに相応ふさわしい名誉めいよ学位がくいとしての「法学ほうがく博士はかせごうおくることとなった。』(立命館大学りつめいかんだいがく千葉ちば校友こうゆうかいサイト「ちば校友こうゆうつどい」にて、畑中はたなか和夫かずお名誉めいよ教授きょうじゅだんとして紹介しょうかい
  32. ^ 1939ねん昭和しょうわ14ねん)3がつ16にちまんしゅうこく補助ほじょきん交付こうふ通達つうたつ財団ざいだん法人ほうじんりついのちかんはっせられた。補助ほじょきん内容ないようは1939年度ねんど30まんえん、40年度ねんど20まんえんカ年かねん継続けいぞく合計ごうけい50まんえんであった(『たていのちかんまん高等こうとう工科こうか学校がっこう - 理工学部りこうがくぶ前史ぜんし一齣ひとこま -(ちょ伊藤いとう武夫たけお)』、「たていのちかんひゃくねん紀要きようだいごう(1994ねん3がつ)」55ぺーじ-60ぺーじより)

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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あいしんさとし溥儀ふぎ

1906ねん2がつ7にち - 1967ねん10月17にち

爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
ひかりいとぐちみかど
清朝せいちょう皇帝こうてい
1908ねん - 1912ねん
共同きょうどう統治とうちしゃ あつし親王しんのう (1908ねん - 1912ねん
空位くうい
次代じだい在位ざいいしゃ
せんすべみかど
先代せんだい
せんすべみかど
清朝せいちょう皇帝こうてい
1917ねん
復辟ふくへき失敗しっぱい
先代せんだい
せんすべみかど
復辟ふくへき失敗しっぱい
清朝せいちょう皇帝こうてい
しんしつ優待ゆうたい条件じょうけんした

1912ねん - 1917ねん
1917ねん - 1924ねん
復辟ふくへき
北京ぺきん政変せいへんむらさき禁城きんじょうから追放ついほう
新設しんせつ
まんしゅうこく執政しっせい
1932ねん - 1934ねん
帝政ていせい成立せいりつ
新設しんせつ
帝政ていせい成立せいりつ
まんしゅうこく皇帝こうてい
1934ねん - 1945ねん
まんしゅうこく消滅しょうめつ
公職こうしょく
先代せんだい
ひかりいとぐちみかど
清朝せいちょう皇帝こうてい
中国ちゅうごく元首げんしゅ
1908ねん - 1912ねん
次代じだい
まごぶん
中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじだい総統そうとう
先代せんだい
はじむもとひろし
中華民国ちゅうかみんこくだい総統そうとう
中国ちゅうごく元首げんしゅ
1917ねん
次代じだい
はじむもとひろし
中華民国ちゅうかみんこくだい総統そうとう
新設しんせつ
まんしゅう元首げんしゅ
1932ねん - 1945ねん
次代じだい
蔣介せき
中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ主席しゅせき