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退位たいい

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退位たいい(たいい、英語えいご: abdication)は、君主くんしゅがその地位ちい手放てばなすことである。対義語たいぎご即位そくい権力けんりょく手放てばなすかどうかはケースバイケースである。しばしば譲位じょうい混同こんどうされるが、その意味合いみあいはことなる。

概要がいよう

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通常つうじょう革命かくめい憲法けんぽう法律ほうりつなどによって君主くんしゅせい廃止はいしされないかぎりは、自動的じどうてき継承けいしょうしゃゆずわたすことになる。君主くんしゅ地位ちい継承けいしょうは2種類しゅるいあり、君主くんしゅによって継承けいしょうされる場合ばあいは「退位たいい」とわず、君主くんしゅきているうちに地位ちい権力けんりょく手放てばなすことを「退位たいい」という。また、君主くんしゅ自身じしん意思いしではなく、革命かくめい憲法けんぽうなどで他人たにん君主くんしゅから地位ちい権力けんりょく剥奪はくだつすることは廃位はいいえい:dethronement)という(ただし、この場合ばあいでも剥奪はくだつしたがわ退位たいいよそおうことがある)。

2016ねん平成へいせい28ねん)7がつ13にちだい125だい天皇てんのう明仁あきひと意向いこうしめ主要しゅよう各紙かくし放送ほうそう各局かくきょく報道ほうどうでは、「生前せいぜん退位たいい」の表現ひょうげんおおもちいられた[1][2]。しかし「生前せいぜん」という言葉ことばはその人物じんぶつの「死後しご」を前提ぜんていとして使用しようするため、存命ぞんめい人物じんぶつたいして「生前せいぜん」という言葉ことば非礼ひれいたり、本来ほんらい適当てきとうなものであるとされる。通常つうじょう存命ぞんめい人物じんぶつたいしてもちいるかたりは「譲位じょうい」とするのが適切てきせつである[3]

中世ちゅうせいヨーロッパ世界せかいにおいて、君主くんしゅ生前せいぜん退位たいいする事例じれいはいくつもられた。ただしそれはおもに、政争せいそうやぶれての強制きょうせいてきなものだった。イングランド王国おうこくれいにとると、エドワード2せい1327ねん)、リチャード2せい1399ねん)がげられる。革命かくめい君主くんしゅわれる事例じれい近世きんせい以降いこうにはられるようになった。おなじくイングランドでは、名誉めいよ革命かくめい亡命ぼうめいしたジェームズ2せい(1688ねん)が代表だいひょうれいである。また、君主くんしゅ自身じしんのスキャンダルを理由りゆうとする退位たいいも、近代きんだい以降いこうにはしょうじるようになった(バイエルン王国おうこくルートヴィヒ1せいイギリスエドワード8せいなど)[4]

君主くんしゅ自身じしん高齢こうれい健康けんこう状態じょうたい理由りゆうとする「譲位じょうい」は、ふるくは神聖しんせいローマ皇帝こうていけんスペインおうカール5せいなどのれいられるが、常態じょうたいてきになったのはヨーロッパでも20世紀せいき以降いこうである。その嚆矢こうしとなったのは、1948ねん9月に退位たいいしたオランダのウィルヘルミナ女王じょおうで、68さいとき王位おうい長女ちょうじょユリアナゆずった[4]女性じょせい君主くんしゅから実子じっしへの譲位じょういるならば、アラゴン女王じょおうペトロニラカスティーリャ女王じょおうベレンゲラなど、中世ちゅうせいからしばしばられるが、これらの場合ばあいおとこおうへの譲位じょういである。

退位たいいについて、憲法けんぽう規定きていのあるくにおおい。日本にっぽん・イギリス・スペイン特別とくべつほうによって退位たいいしている。また、憲法けんぽう法律ほうりつ規定きてい根拠こんきょとしないで退位たいいしているくにれいもある(カタールブータンベルギー[5]

20世紀せいき以降いこう退位たいいしたおも君主くんしゅ

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20世紀せいき前半ぜんはん

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くらい 日付ひづけ 後継こうけいしゃ
オスカル2せい ノルウェーの旗 ノルウェー国王こくおう 1905ねん10月26にち[注釈ちゅうしゃく 1] ホーコン7せい
こうはじめ 大韓民国の旗 韓国かんこく皇帝こうてい 1907ねん7がつ20日はつか じゅんむね
じゅんむね 1910ねん8がつ29にち 韓国かんこく併合へいごう
マヌエル2せい ポルトガルの旗 ポルトガル国王こくおう 1910ねん10月4にち 君主くんしゅせい廃止はいし
せんすべみかど 清の旗 だいきよし皇帝こうてい 1912ねん2がつ12にち[注釈ちゅうしゃく 2]
ニコライ2せい ロシアの旗 ロシア皇帝こうてい 1917ねん3月15にち
コンスタンティノス1せい ギリシャの旗 ギリシャ国王こくおう 1917ねん6月11にち アレクサンドロス1せい
せんすべみかど 清の旗 だいきよし皇帝こうてい 1917ねん7がつ12にち[注釈ちゅうしゃく 3] 君主くんしゅせい廃止はいし
フェルディナント ブルガリアの旗 ブルガリア国王こくおう 1918ねん10月3にち ボリス3せい
カール1せい  オーストリア=ハンガリー皇帝こうてい 1918ねん11月12にち 君主くんしゅせい廃止はいし
ニコラ1せい モンテネグロの旗 モンテネグロ国王こくおう 1918ねん11月26にち セルビア王国おうこく統合とうごう
ヴィルヘルム2せい ドイツの旗 ドイツ皇帝こうてい 1918ねん11月28にち 君主くんしゅせい廃止はいし
マリー=アデライド ルクセンブルクの旗 ルクセンブルクおんな大公たいこう 1919ねん1がつ14にち シャルロット
コンスタンティノス1せい ギリシャの旗 ギリシャ国王こくおう 1922ねん9月27にち ゲオルギオス2せい
ゲオルギオス2せい 1924ねん3月25にち だい共和きょうわせい[注釈ちゅうしゃく 4]
ミハイ1せい ルーマニアの旗 ルーマニア国王こくおう 1930ねん6月8にち カロル2せい
アルフォンソ13せい スペインの旗 スペイン国王こくおう 1931ねん4がつ14にち だい共和きょうわせい[注釈ちゅうしゃく 5]
タイムール オマーンの旗 オマーン・スルタン 1932ねん2がつ10日とおか サイード
プラチャーティポック タイ王国の旗 タイ国王こくおう 1935ねん3月2にち アーナンタマヒドン
エドワード8せい イギリスの旗 イギリス国王こくおう 1936ねん12月11にち ジョージ6せい
カロル2せい ルーマニアの旗 ルーマニア国王こくおう 1940ねん9月6にち ミハイ1せい
康徳やすのりみかど 満洲国の旗 満州まんしゅうこく皇帝こうてい 1945ねん8がつ18にち ソ連それん占領せんりょう
大帝たいてい ベトナム ベトナム皇帝こうてい 1945ねん8がつ25にち 君主くんしゅせい廃止はいし
ペータル2せい ユーゴスラビア王国の旗 ユーゴスラビア国王こくおう 1945ねん12月29にち
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3せい イタリア イタリア国王こくおう 1946ねん5月9にち ウンベルト2せい
ウンベルト2せい 1946ねん6月12にち 君主くんしゅせい廃止はいし
ヴァイナー サラワク州の旗 サラワク・ラージャ 1946ねん7がつ1にち イギリスに割譲かつじょう
シメオン2せい ブルガリアの旗 ブルガリア国王こくおう 1946ねん9月15にち 君主くんしゅせい廃止はいし
ミハイ1せい ルーマニアの旗 ルーマニア国王こくおう 1947ねん12月30にち
ウィルヘルミナ オランダの旗 オランダ女王じょおう 1948ねん9月4にち ユリアナ
アブドゥッラー カタールの旗 カタール首長しゅちょう 1949ねん8がつ20日はつか アリー

20世紀せいき後半こうはん

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くらい 日付ひづけ 後継こうけいしゃ
トリブバン ネパールの旗 ネパール国王こくおう 1950ねん11月7にち ギャネンドラ
ギャネンドラ 1951ねん1がつ7にち トリブバン
レオポルド3せい ベルギーの旗 ベルギー国王こくおう 1951ねん7がつ16にち ボードゥアン
ファールーク1せい エジプトの旗 エジプト国王こくおう 1952ねん7がつ26にち フアード2せい
タラール1せい ヨルダンの旗 ヨルダン国王こくおう 1952ねん8がつ11にち フセイン1せい
フアード2せい エジプトの旗 エジプト国王こくおう 1953ねん6月18にち 君主くんしゅせい廃止はいし
シハヌーク カンボジアの旗 カンボジア国王こくおう 1955ねん3月2にち スラマリット
アリ― カタールの旗 カタール首長しゅちょう 1960ねん10月24にち アフマド
サウード サウジアラビアの旗 サウジアラビア国王こくおう 1964ねん11月2にち ファイサル
シャルロット ルクセンブルクの旗 ルクセンブルクおんな大公たいこう 1964ねん11月12にち ジャン
サイフディン3せい ブルネイの旗 ブルネイ・スルタン 1967ねん10月4にち ハサナル・ボルキア
サイード オマーンの旗 オマーン・スルタン 1970ねん7がつ23にち カーブース
アフマド カタールの旗 カタール首長しゅちょう 1972ねん2がつ22にち ハリーファ
コンスタンティノス2せい ギリシャの旗 ギリシャ国王こくおう 1973ねん6月1にち 君主くんしゅせい廃止はいし
サワーンワッタナー ラオスの旗 ラオス国王こくおう 1975ねん12月2にち
ユリアナ オランダの旗 オランダ女王じょおう 1980ねん4がつ30にち ベアトリクス
モショエショエ2せい レソトの旗 レソト国王こくおう 1990ねん11月12にち レツィエ3せい
レツィエ3せい 1995ねん1がつ25にち モショエショエ2せい
ハリーファ カタールの旗 カタール首長しゅちょう 1995ねん6月27にち ハマド

21世紀せいき前半ぜんはん

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くらい 日付ひづけ 後継こうけいしゃ
ジャン ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク大公たいこう 2000ねん10月7にち アンリ
シハヌーク カンボジアの旗 カンボジア国王こくおう 2004ねん10月7にち シハモニ
サアド クウェートの旗 クウェート首長しゅちょう 2006ねん1がつ23にち サバーハ
シンゲ ブータンの旗 ブータン国王こくおう 2006ねん12月15にち ケサル
ギャネンドラ ネパールの旗 ネパール国王こくおう 2008ねん5月28にち 君主くんしゅせい廃止はいし
ベネディクト16せい[注釈ちゅうしゃく 6] バチカン市国の旗 ローマ教皇きょうこう 2013ねん2がつ28にち フランシスコ
ベアトリクス オランダの旗 オランダ女王じょおう 2013ねん4がつ30にち ウィレム=アレクサンダー
ハマド カタールの旗 カタール首長しゅちょう 2013ねん6月25にち タミーム
アルベール2せい ベルギーの旗 ベルギー国王こくおう 2013ねん7がつ21にち フィリップ
フアン・カルロス1せい スペインの旗 スペイン国王こくおう 2014ねん6月19にち フェリペ6せい
ムハンマド5せい マレーシアの旗 マレーシア国王こくおう 2019ねん1がつ6にち アブドゥラ
明仁あきひと 日本の旗 天皇てんのう[注釈ちゅうしゃく 7] 2019ねん4がつ30にち とくひとし
マルグレーテ2せい デンマークの旗 デンマーク女王じょおう 2024ねん1がつ14にち フレゼリク10せい

日本にっぽん

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天皇てんのう

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日本にっぽんではすめらぎごく天皇てんのうおとうと孝徳天皇こうとくてんのう皇位こういゆずったれい最古さいことする(なお、こう小松こまつ天皇てんのう南北なんぼくあさ合一ごういつによって2譲位じょういけている[注釈ちゅうしゃく 8])。譲位じょういした天皇てんのうには太上天皇だじょうてんのう上皇じょうこう)の尊号そんごうたてまつられることが通例つうれいである。

平安へいあん時代じだい以後いご慣例かんれいとして、譲位じょういする天皇てんのう譲位じょうい宣命せんみょう宣布せんぷする儀式ぎしきゆずるこく)とそのおこなわれる継承けいしょうしゃへのけんわた儀式ぎしきけん渡御とぎょ)の2つを中心ちゅうしんとして儀式ぎしき体系たいけいまれてきた。院政いんせい皇室こうしつちょうたる地位ちい天皇てんのうからてんきみうつると、天皇てんのうはやくに譲位じょういし、制度せいど慣習かんしゅうにより身動みうごきのとれない天皇てんのうくらべて自由じゆう立場たちば上皇じょうこういん)として政治せいじ参与さんよすることが常態じょうたいとなった。また同時どうじ何人なんにんもの上皇じょうこう存在そんざいすることもおおく、通常つうじょう即位そくいおよび譲位じょうい時期じきもっとはや上皇じょうこうほんいん)がてんとして朝廷ちょうてい支配しはいした。

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうしたでは、1889ねん明治めいじ22ねん)に制定せいていされたきゅう皇室こうしつ典範てんぱん登極とうきょくれいで、皇位こうい継承けいしょう天皇てんのう崩御ほうぎょ前提ぜんていとしているため、存命ぞんめいちゅう退位たいいはできないと解釈かいしゃくされていた。

現在げんざい日本国にっぽんこく憲法けんぽう皇室こうしつ典範てんぱんしたにおいても、皇位こうい継承けいしょう天皇てんのう崩御ほうぎょ前提ぜんていとしており、ながらく退位たいいかんする規定きてい存在そんざいしなかった。 皇室こうしつ典範てんぱん天皇てんのう退位たいい譲位じょういみとめられていなかった理由りゆうとして、

  1. 歴史れきしじょうられたような上皇じょうこう法皇ほうおうなどといった存在そんざいてきて弊害へいがいしょうずるおそれがあること
  2. かならずしも天皇てんのう自由じゆう意思いしもとづかないで退位たいい強制きょうせいということがあり可能かのうせいがあること
  3. 天皇てんのう恣意しいてき退位たいいをすることができるということ

というものがあり、それらの懸念けねんから退位たいいみとめていないとされていた[注釈ちゅうしゃく 9]

しかし2016ねん平成へいせい28ねん)8がつ8にち明仁あきひと当時とうじ天皇てんのう)の譲位じょうい意向いこうをにじませた「おことば」が発表はっぴょうされ、その内容ないよう国民こくみん理解りかい共感きょうかんをしていること[注釈ちゅうしゃく 10]から、皇室こうしつ典範てんぱんだい4じょうたいする特例とくれいほうとして『天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほう』が国会こっかい成立せいりつし、2017ねん平成へいせい29ねん)6がつ16にち公布こうふ、2019ねん平成へいせい31ねん)4がつ30にち施行しこうされ、明仁あきひとはこのかぎりで譲位じょうい翌日よくじつ皇太子こうたいしとくじん親王しんのう即位そくいした。退位たいい特例とくれいほうなかで、だい125だい天皇てんのうである明仁あきひとたいし「法律ほうりつ施行しこうかぎ退位たいい[注釈ちゅうしゃく 11]し、ただちに上皇じょうこうとなる[注釈ちゅうしゃく 12]」ことが明記めいきされた。また、「上皇じょうこう」の新設しんせつともな美智子みちこ当時とうじ皇后こうごう)にたいしてもあらたに「うえ皇后こうごう」がもうけられ、宮内庁くないちょう上皇じょうこうしょくならびに上皇じょうこう侍従じじゅうちょうおよ上皇じょうこう侍従じじゅう次長じちょう特別とくべつしょく)をく(附則ふそくだい11じょう)ことも決定けっていした[注釈ちゅうしゃく 13]

中国ちゅうごく

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廃位はいい王朝おうちょう滅亡めつぼうのぞけば、中国ちゅうごく史上しじょう皇帝こうてい自発じはつてき退位たいいしたれいすくない(とうげんむねきたそう徽宗など)。もっとあたらしいれいいぬいたかし60ねん1795ねん)に退位たいいふとし上皇じょうこうとなったきよしいぬいたかしみかどで、「祖父そふかんひろしみかど在位ざいい年数ねんすうえないため」という名目めいもくであった。ただし、当時とうじ84さいいぬいたかしみかどはなお実権じっけんにぎつづけたためじゅう権力けんりょく状態じょうたいとなり、いぬいたかしみかど老化ろうかもあって朝廷ちょうていおおいに混乱こんらんした。

イギリス

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イギリスでは君主くんしゅ健康けんこうであるかぎりは「譲位じょうい」という慣例かんれいがなく、君主くんしゅ支障ししょうしょうじた場合ばあいにも皇太子こうたいし摂政せっしょうえて職務しょくむ代行だいこうさせている[4]

グレートブリテン王国おうこく成立せいりつ以降いこう国王こくおう退位たいいしたのは、エドワード8せいのみである。1936ねん離婚りこん経験けいけんがあるアメリカじん女性じょせいウォリス・シンプソン結婚けっこんするため、即位そくい1ねんたず退位たいいした。「王冠おうかんけたこい」として有名ゆうめいである。

エドワード8せい国王こくおう陛下へいか退位たいい宣言せんげんへの効力こうりょく付与ふよとうのための法律ほうりつ英国えいこく
制定せいていぶん
:本年ほんねんちゅう:1936 ねん)12がつ10日とおかはっせられた国王こくおう勅語ちょくごをもってげん国王こくおう陛下へいかちゅう:エドワード8せい)は王位おうい放棄ほうきする不退転ふたいてん決断けつだんをされたむねつつしんで宣言せんげんし、この法律ほうりつ附則ふそくした退位たいい宣言せんげんしょ作成さくせいされ、それに効力こうりょくがただちにされるよう要望ようぼうされた。(中略ちゅうりゃく) それゆえ、このうえなくすぐれる国王こくおう陛下へいかにより、また、召集しょうしゅうされたげん議会ぎかいにおける聖職せいしょくおよ世俗せぞく貴族きぞくならびに庶民しょみん助言じょげん承認しょうにんにより、さらにこれらのもの権限けんげんによって、以下いかのように法律ほうりつ制定せいていする。
だい1じょう 国王こくおう陛下へいか退位たいい宣言せんげん効力こうりょく
(1)1936ねん12月10にちげん国王こくおう陛下へいかちゅう:エドワード8せい)により作成さくせいされ、この法律ほうりつ附則ふそくにもした退位たいい宣言せんげんしょは、この法律ほうりつ国王こくおう裁可さいかしたのちただちにその効力こうりょくはっする。これにより国王こくおう陛下へいか国王こくおうしょくかれ、王位おういうしない、王位おうい継承けいしょうだいいち王族おうぞく一員いちいんにより王位おういおよびこれに付随ふずいするすべての権利けんり特権とっけん権威けんいがれる。
(2)国王こくおう陛下へいか、もしあればどう陛下へいかおよどう陛下へいか子孫しそんは、どう陛下へいか退位たいいは、王位おうい継承けいしょうかんしていかなる権利けんり資格しかく利害りがいゆうせず、それゆえ1700ねん王位おうい継承けいしょうほうだい1じょう規定きていはそのように解釈かいしゃくされる。
(3)1772ねん王室おうしつ婚姻こんいんほう規定きていちゅう婚姻こんいん国王こくおう許可きょか必要ひつようとうさだめ)は、国王こくおう陛下へいか退位たいいは、どう陛下へいか、もしあればどう陛下へいかおよどう陛下へいか子孫しそんには適用てきようされない。
だい2じょう
この法律ほうりつは、1936ねん国王こくおう陛下へいか退位たいい宣言せんげんほうとして引用いんようすることができる。 (1936ねん12月11にち法律ほうりつだい3ごう)(しょう
附則ふそく
わたしこと、グレートブリテン、アイルランドおよび英国えいこく海外かいがい領土りょうど国王こくおうであり、インド皇帝こうていであるエドワード8せいは、わたしおよわたしまごのために王位おうい放棄ほうきするわたし不退転ふたいてん決断けつだんと、この退位たいい宣言せんげんしょにただちに効力こうりょくされることをのぞわたし気持きもちをここに表明ひょうめいする。
そのあかしとして、つぎ署名しょめいのあるもの立会たちあいのした、1936ねん12がつ10日とおか、ここにしるす。
国王こくおう皇帝こうてい(Rex Imperator ) エドワード
アルバート ヘンリー ジョージ立会たちあいのした、フォート・ベルヴェデーレにて署名しょめい [6]

エリザベス2せいは2022ねんに96さい崩御ほうぎょするまで在位ざいいつづけ、退位たいい議論ぎろんきなかった。理由りゆうとして、

  1. 女王じょおう自身じしんわかころ生涯しょうがいをささげるとちかった
  2. イギリスの制度せいど終身しゅうしん君主くんしゅ想定そうていしている
  3. 上述じょうじゅつのエドワード8せい退位たいい王室おうしつ名誉めいよきずつけた

ということがげられる[7]

オランダ

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  • 憲法けんぽう(1814ねん制定せいていだい27じょう退位たいい場合ばあいには、前条ぜんじょうさだめられた規定きていしたがった王位おうい継承けいしょうつながる。退位たいいまれたおよびその子孫しそんは、王位おうい継承けいしょうから除外じょがいされる。
  • どう28じょう国王こくおうは、法律ほうりつによる承認しょうにんないで婚姻こんいんをした場合ばあい退位たいいしたものとみなす[6]

オランダでは19世紀せいきにおいてすでに、ウィレム1せい退位たいいウィレム2せい王位おうい継承けいしょうしたれいがある(さらにさかのぼると、ウィレム1せいオラニエこう地位ちいオラニエ=ナッサウ家督かとくウィレム5せいおおやけから譲位じょういされている)。

だい世界せかい大戦たいせん王位おうい継承けいしょうはすべて、国王こくおう退位たいいによるものである。

  • 1948ねんウィルヘルミナ女王じょおう在位ざいい:1890ねん - 1948ねん)が戴冠たいかん50周年しゅうねん節目ふしめにして、ユリアナ王女おうじょ譲位じょういするために退位たいい
  • 1980ねんにユリアナ女王じょおうベアトリクス王女おうじょ譲位じょういするために退位たいい
  • 2013ねんにベアトリクス女王じょおうウィレム=アレクサンダー皇太子こうたいし譲位じょういするために退位たいい
    ベアトリクスはすでなんねん退位たいい検討けんとうしていたが、同年どうねんに75さいとなること、および同年どうねんがオランダ王国おうこく成立せいりつ200ねんという記念きねんとしであるという2つの特別とくべつ出来事できごとかさなったことが、退位たいい決意けついする契機けいきとなった。職務しょくむおもすぎるために退位たいいするのではなく、オランダのくにたいする責任せきにんあらたな世代せだいゆだねられなければならないとのおもいと、ウィレム=アレクサンダーとマクシマ将来しょうらい職務しょくむについて十分じゅうぶん準備じゅんび出来できているとの確信かくしんした退位たいいした[5]

スペイン

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  • 憲法けんぽう(1978ねん制定せいていだい57じょうだい5こう退位たいいおよ王位おうい放棄ほうきならびに王位おうい継承けいしょう順序じゅんじょにつきしょうじる事実じじつじょうまたは法的ほうてき疑義ぎぎは、組織そしきほうによりこれを解決かいけつするものとする。[6]
  • ブルボンフアン・カルロスいちせい国王こくおう陛下へいか退位たいいにつきさだめる組織そしきほう[6]
ブルボンフアン・カルロスいちせい国王こくおう陛下へいか退位たいいにつきさだめる組織そしきほう組織そしきほう3/2014)
;フアン・カルロスいちせい
スペイン国王こくおう
この組織そしきほうみ、理解りかいするすべてのものは、国会こっかい承認しょうにんえたうえわたし以下いか組織そしきほう裁可さいかすることにつき承知しょうちされたい。
前文ぜんぶん
2014ねん6がつ2にち、フアン・カルロスいちせい国王こくおう陛下へいか首相しゅしょうたいし、首相しゅしょうまえ署名しょめいされた文書ぶんしょつうじ、自発じはつてき意思いしもとづき退位たいいするかんがえをつたえた。その内容ないよう以下いかのとおり。
すでに40ねんちかまえになるわたし王位おうい宣誓せんせいにおいて、国民こくみんみずからの将来しょうらいをきずきあげる主役しゅやくとなり、また我々われわれ国家こっか現代げんだいてきかつ欧州おうしゅうにおいて完全かんぜん統合とうごうされた民主みんしゅ主義しゅぎ国家こっかになることを切望せつぼうし、スペインの国益こくえきのためにつかえることをかた約束やくそくしました。
スペイン国民こくみんみずからの代表だいひょうしゃほうもとづきえらぶことを可能かのうにした魅力みりょくてき国家こっかてき取組とりくみ主導しゅどうし、我々われわれ必要ひつようとしていた偉大いだいかつ前向まえむきな変化へんかをスペインにもたらすことを約束やくそくしました。
今日きょうかえってみるとスペイン国民こくみんたいするほこりと感謝かんしゃ気持きもちにたえません。
この年月としつきなか様々さまざまなことがあったなかで、我々われわれげたおおくの成果せいかについて、ほこたかおもいます。わたし若年じゃくねんに、そして情勢じょうせい非常ひじょう不安定ふあんていかつ困難こんなんなかはじまったわたし統治とうち期間きかんでしたが、国民こくみん支援しえんにより、ちょうきにわた平和へいわ自由じゆう安定あんてい、そして進歩しんぽげられました。国民こくみん協力きょうりょくたいし、感謝かんしゃねんつのります。
スペイン王位おういという歴史れきしてき遺産いさんわたし相続そうぞくしたわたしちちであるバルセロナはく政治せいじてき熱意ねつい忠実ちゅうじつに、わたしはすべての国民こくみんおうでありたいとねがってきました。国民こくみんねがいをともにし、責任せきにん意識いしきち、国民こくみん成功せいこうよろこび、国民こくみんいたみや不満ふまんなやまされているときはわたしもそのくるしみをかんじてきました。
我々われわれ経験けいけんしたなが深刻しんこく経済けいざい危機ききは、社会しゃかい基盤きばんおおきな傷跡きずあとのこしてきましたが、おおきな期待きたいちた将来しょうらい道筋みちすじえてきたところでもあります。
過去かこすうねん困難こんなん時期じきにより、我々われわれは、社会しゃかいとしての我々われわれあやまりや限界げんかいにつき自己じこ批判ひはんてき分析ぶんせきすることが可能かのうになりました。
また、対照たいしょうてきに、我々われわれ過去かこにできたことおよ現在げんざいできること、また我々われわれ偉大いだい国家こっか過去かこ形成けいせいし、現在げんざい形成けいせいしているという、ほこたか認識にんしき我々われわれなかふたたましました。
これらすべては、革新かくしんする、克服こくふくする、そしてあやまりをただし、つよ意志いしをもって未来みらいひらくという、我々われわれなかにある推進すいしんりょくましました。
このような未来みらい創造そうぞうしていくなかで、あらたな世代せだいは、我々われわれ歴史れきしじょう重要じゅうよう転換てんかんてんにおいてわたし世代せだいたした主導しゅどうてき役割やくわりおな役割やくわりになうことを、正当せいとう主張しゅちょうしたもとめています。
今日きょうあらたな熱意ねついとともに、現在げんざい必要ひつようとされる変化へんか改革かいかく実行じっこうし、将来しょうらい課題かだいあらたな努力どりょく決意けついをもってかおうとする意思いしかたい、よりわか世代せだい最前線さいぜんせんになうことは適切てきせつなことです。
過去かこにも、現在げんざいにも、未来みらいにも、わたし唯一ゆいいつのぞみはつねに、すべての国民こくみん自由じゆう繁栄はんえい進歩しんぽげることに貢献こうけんすることです。
わたし人生じんせいすべてをそそぎ、またわたし能力のうりょくよろこび、そして努力どりょくのすべてをささげた、スペインにとっての最善さいぜんねがっています。
息子むすこ皇太子こうたいしフェリペは、王室おうしつ特徴付とくちょうづける要素ようそである安定あんていせい体現たいげんしています。
本年ほんねん1がつに 76さい誕生たんじょうむかえたさいに、その安定あんていせい維持いじするのにこれ以上いじょうなく適切てきせつ状況じょうきょうにあるひと準備じゅんびを、これから数ヶ月すうかげつあいだおこなうときがたとかんがえました。
皇太子こうたいしは、人間にんげんとして成熟せいじゅくしており、準備じゅんびもできており、責任せきにんかんもあります。これらは、国家こっか元首げんしゅ役割やくわり完全かんぜんになうため、そしてられた経験けいけんわか世代せだいいきおいをわせた、期待きたいちたあらたな時代じだいひらくために必要ひつよう素質そしつです。このために、レティシア皇太子こうたいしからのたすけをつねけることができると確信かくしんしています。
その結果けっか国民こくみんもっとかたち奉仕ほうしするという信念しんねんみちびかれ、また体調たいちょう回復かいふく王室おうしつ行事ぎょうじふたたもどることもできるようになったこともあり、わたし統治とうち期間きかん終止符しゅうしふち、王位おうい退しりぞくことを決断けつだんしました。わたし王位おうい王権おうけんについては、憲法けんぽう規定きていもとづき王位おうい継承けいしょうかか判断はんだんおこなう、政府せいふおよ国会こっかいたくしました。
すべてのスペイン国民こくみんに、わたし統治とうち期間きかんうち国家こっか権力けんりょくおよ国家こっか機関きかん体現たいげんしたすべてのひとに、わたしみずからの役目やくめたすためにたまわった寛大かんだいかつ忠実ちゅうじつ多大ただい支援しえんに、感謝かんしゃあらわしたいとおもいます。
つねわたし協力きょうりょくしてくれて、寛大かんだいたすけをいただいた王妃おうひたいしても、感謝かんしゃあらわします。
わたししんもっとふかいところに、これからもスペインはありつづけます。」
国王こくおう陛下へいかは、この内容ないよう下院かいん上院じょういんりょう議長ぎちょう通知つうちし、首相しゅしょうはこの文書ぶんしょ閣議かくぎ送付そうふした。
スペイン憲法けんぽうだい57じょうだい5こうは、「退位たいいおよ王位おうい放棄ほうきならびに王位おうい継承けいしょう順序じゅんじょにつきしょうじる事実じじつじょうまたは法的ほうてき疑義ぎぎは、組織そしきほうによりこれを解決かいけつするものとする」と規定きていしている。この規定きていは、かく事案じあんおうじた特別とくべつほうつうじた場合ばあいふくめ、継承けいしょう退位たいい承認しょうにんかか問題もんだい解決かいけつする権限けんげん立法府りっぽうふ付与ふよした 1845 ねん憲法けんぽう、1869 ねん憲法けんぽう、1876ねん憲法けんぽうおよちがいはあるが前例ぜんれいにあるように、スペインの立憲りっけん主義しゅぎ歴史れきしじょう先例せんれいしたがっている。現行げんこう憲法けんぽうはこの最後さいごてん言及げんきゅうはないが、王位おうい権限けんげんかか問題もんだい組織そしきほう解決かいけつされるという前述ぜんじゅつ先例せんれいおよだい57じょう趣旨しゅしは、国王こくおう陛下へいかによりなされた決断けつだん実施じっしするための規定きていさだめるもっとてきした法的ほうてき手段しゅだんとなる。
結果けっかとして、この組織そしきほう発効はっこうにより、退位たいい実行じっこうされ、憲法けんぽうさだめる順序じゅんじょしたがい、自動的じどうてきにスペイン王位おうい継承けいしょうおこなわれる。
  • だい1じょう ブルボンフアン・カルロスいちせい国王こくおう陛下へいか退位たいい
    • だい1こう ブルボンフアン・カルロスいちせい国王こくおう陛下へいか王位おうい退位たいいする。
    • だい2こう 退位たいいはこの組織そしきほう発効はっこうした時点じてんから効力こうりょくゆうする。
最終さいしゅう規定きてい 組織そしきほう発効はっこう
この組織そしきほうは、官報かんぽうにより公示こうじした時点じてん発効はっこうする。したがって、すべての国民こくみん個人こじん当局とうきょくたいし、この組織そしきほう保存ほぞんし、保存ほぞんされるようにすることをもとめる。
マドリード 2014ねん6がつ18にち
フアン・カルロス国王こくおう署名しょめい
首相しゅしょうマリアノ・ラホイ・ブレイ署名しょめい

1975ねん王政おうせい復古ふっこでスペイン国王こくおう即位そくいしたフアン・カルロス1せい高齢こうれい(76さい)であること、皇太子こうたいし王位おうい継承けいしょう準備じゅんびができており、退位たいい安定あんていてき王位おうい継承けいしょうすることを理由りゆうに、2014ねん退位たいい文書ぶんしょ署名しょめい退位たいいスペインばん表明ひょうめいした[5]。スペイン議会ぎかい退位たいい可決かけつしたため、おう太子たいしフェリペがしん国王こくおう即位そくいフェリペ6せいとなった。

ベルギー

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ベルギーでは、だい世界せかい大戦たいせんに2退位たいいおこなわれている。

  • 1951ねんレオポルド3せいからボードゥアン1せいへの王位おうい継承けいしょう。レオポルドが大戦たいせんちゅうにとったナチス・ドイツへの態度たいどなどから愛国心あいこくしん疑念ぎねんたれ、国民こくみんあいだ論争ろんそうこったので、それを収拾しゅうしゅうするためにおこなわれた。そのため「強制きょうせい退位たいい」の性格せいかくがある。
  • 2013ねんアルベール2せいからフィリップへの王位おうい継承けいしょう年齢ねんれい健康けんこう問題もんだいによりみずからのおもうように職務しょくむ遂行すいこうできないこと、皇太子こうたいし王位おうい継承けいしょう準備じゅんびができており、次世代じせだいにバトンをぐべき時期じきたと判断はんだんしたことから、自由じゆう意思いしによる退位たいい意向いこう表明ひょうめいした[5]

デンマーク

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  • 王位おうい継承けいしょうほう(1953ねん制定せいていだい6じょうどうほうだい2じょうからだい5じょうちゅう国王こくおう死去しきょした場合ばあい王位おうい継承けいしょうじゅんかか規定きてい)は、国王こくおうもしくは女王じょおう退位たいいした場合ばあいにも適用てきようされる[6]

ノルウェー

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  • 憲法けんぽう(1814ねん制定せいていだい11じょう国会こっかい同意どういなしに、いちに6かげつ以上いじょう国外こくがい滞在たいざいした場合ばあい王位おうい喪失そうしつする[6]

スウェーデン

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  • 統治とうちほう憲法けんぽう相当そうとう)(1974ねん制定せいていだい5しょうだい6じょう国家こっか元首げんしゅである国王こくおうまたは女王じょおう連続れんぞくして6かげつあいだ、その任務にんむ遂行すいこうしなかった場合ばあいまたは遂行すいこうできなかった場合ばあいには、政府せいふは、議会ぎかい報告ほうこくしなければならない。議会ぎかいは、国王こくおうまたは女王じょおう退位たいいしたものとみなすべきかかを議決ぎけつする[6]

スウェーデンでは、17世紀せいきクリスティーナ女王じょおう1654ねん自発じはつてき退位たいいし、従兄じゅうけいカール10せいしん国王こくおうとなった。クリスティーナは退位たいいプロテスタントからカトリック改宗かいしゅうし、外遊がいゆうをして当時とうじ知識ちしきじん交流こうりゅうするなど教養きょうようじんとしての余生よせいおくった。

18世紀せいきウルリカ・エレオノーラ女王じょおう1720ねん自発じはつてき退位たいいし、おっとフレドリク1せいわって即位そくいしているが、これは議会ぎかいによる国王こくおう権力けんりょくへの制限せいげんたいする不満ふまんによるものであった。

ルクセンブルク

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ルクセンブルクではオランダからの独立どくりつ以降いこうだいいち世界せかい大戦たいせん直後ちょくごに1だい世界せかい大戦たいせんに2退位たいいによる大公たいこう継承けいしょうおこなわれている。

  • 1919ねんマリー=アデライドおんな大公たいこうからいもうとシャルロットおんな大公たいこうへの大公たいこう継承けいしょう共和きょうわ暴動ぼうどうけての政治せいじてき事情じじょうによる。
  • 1964ねんのシャルロットおんな大公たいこうからジャン大公たいこうへの大公たいこう継承けいしょう
  • 2000ねんのジャン大公たいこうからアンリ大公たいこうへの大公たいこう継承けいしょう

クウェート

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  • クウェート首長しゅちょうくらい継承けいしょうかんする1864ねん法律ほうりつだい4ごうだい3じょう責任せきにんある実行じっこうしゃそなわる必要ひつようのある条件じょうけんひとつを場合ばあいしくは、権能けんのう遂行すいこうたいする健康上けんこうじょう能力のうりょく場合ばあい首相しゅしょうは、この確定かくてい特別とくべつ秘密ひみつ会議かいぎでの検討けんとうのため国会こっかい事案じあん提示ていじしなければならない。この条件じょうけんしくは能力のうりょく欠如けつじょ国会こっかいたいして決定的けっていてき確定かくていした場合ばあい構成こうせいする議員ぎいんの3ぶんの2の多数たすうもっ一時いちじてき皇太子こうたいしへの首長しゅちょう権能けんのう遂行すいこう移行いこうしくはこれへの最終さいしゅうてき国家こっかもと首位しゅい移行いこう決定けっていする(抜粋ばっすい[6]

クウェートでは2006ねん1がつ22にちづけ閣議かくぎ文書ぶんしょシェイク・サアド・アブダッラー・サーリム・サバーハ首長しゅちょう健康けんこうじょう能力のうりょくうしなっているため退位たいい[5]

ヨルダン

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  • 憲法けんぽう(1952ねん制定せいていだい28じょう(m)】 国王こくおう精神病せいしんびょうわずら権限けんげん行使こうしあたわなくなった場合ばあいは、閣僚かくりょう会議かいぎはその状況じょうきょう確認かくにん次第しだい、ただちに国民こくみん議会ぎかい招集しょうしゅうする。みぎ精神病せいしんびょうあきらかに確認かくにんされた場合ばあい国民こくみん議会ぎかいは、決議けつぎによって国王こくおう退位たいいさせ、憲法けんぽう内容ないようもとづいて王位おうい継承けいしょうおこなう。下院かいん解散かいさんちゅうないし会期かいき終了しゅうりょうしてしまっており、あたらしい議員ぎいんがまだ選出せんしゅつされていない場合ばあいは、ぜん下院かいん招集しょうしゅうする[6]

ヨルダンではタラール1せい国王こくおう病気びょうきのためこれ以上いじょう執務しつむ不可ふか議会ぎかい判断はんだんし、退位たいいした[5]

カタール

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  • 【カタール恒久こうきゅう基本きほんほう憲法けんぽう相当そうとう)(2004 ねん制定せいていだい15じょう 】首長しゅちょう崩御ほうぎょ、もしくは首長しゅちょうとしての機能きのうたすことが完全かんぜん不可能ふかのうになった場合ばあい首長しゅちょう評議ひょうぎかいCouncil of Ruling Family )が首長しゅちょう空席くうせきになったことを決定けっていする。その閣僚かくりょう評議ひょうぎかい諮問しもん評議ひょうぎかい秘密ひみつ合同ごうどう会議かいぎ開催かいさいし,首長しゅちょう空位くうい宣言せんげんするとともに、皇太子こうたいし首長しゅちょうとなることを宣言せんげんする[6]

カタールではハマド首長しゅちょうが「我々われわれ国家こっか歴史れきしあらたなページをめくるときがきた。強力きょうりょく潜在せんざいせい創造そうぞうてき思慮しりょとともに、あたらしい世代せだいすすんで責任せきにんになおうとしている。」と宣言せんげん退位たいいした[5]

ブータン

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  • 憲法けんぽう(2008ねん制定せいていだい2じょう6こう国王こくおうは65さいたっしたら退位たいいする。
  • どう20こう国王こくおう意図いとてき憲法けんぽう違反いはんおかした場合ばあい恒久こうきゅうてき精神せいしん障害しょうがい議会ぎかい両院りょういん合同ごうどう会議かいぎ)において国王こくおうたいする退位たいい動議どうぎ採択さいたくされ、国民こくみん投票とうひょう承認しょうにんされた場合ばあい退位たいいしなければならない[6]

ブータンではジグミ・シンゲ・ワンチュク国王こくおうが「(2008ねんにははつそう選挙せんきょおこなわれ、憲法けんぽう成立せいりつし、立憲りっけん君主くんしゅせい移行いこうするので)国王こくおうは、最高さいこう能力のうりょくもっくにつかえるために、可能かのうかぎおおくの経験けいけんむことが必要ひつようかつ重要じゅうようであるため」と表明ひょうめい[5]2006ねんみことのりれいして退位たいいジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク王子おうじしん国王こくおう即位そくいした。

カンボジア

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カンボジアでは、2004ねんノロドム・シハヌーク国王こくおう退位たいいし、ノロドム・シハモニ王子おうじしん国王こくおう即位そくいした。

退位たいい処遇しょぐう

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どういち王朝おうちょうない退位たいい比較的ひかくてき平穏へいおんうらおこなわれた場合ばあい退位たいいしたもと君主くんしゅやその親族しんぞくは、旧来きゅうらい同等どうとう礼遇れいぐうをもってせっすることがやくされることがおおい。ひがしアジアではふとし上皇じょうこう太上天皇だじょうてんのうといった尊号そんごうたてまつられることが通常つうじょうで、旧臣きゅうしんとのつながりや君主くんしゅとの父子ふし関係かんけい背景はいけい権力けんりょく保持ほじすることもある。どういち王朝おうちょうない退位たいいでもクーデターてき退位たいいまれた場合ばあいは、幽閉ゆうへいされたり尊号そんごうたてまつられない場合ばあいもあり、死後しごに庶人あつかいをけることもある。簒奪さんだつねら権臣けんしんによって退位たいいさせられた場合ばあい殺害さつがいされることもある。またマ帝国まていこく皇帝こうてい五体ごたい満足まんぞくであることが要件ようけんであったため、復位ふくいすることがないようコンスタンティノス6せいのように身体しんたい損傷そんしょうあたえられることもあった。

王朝おうちょう交代こうたいともな退位たいいでは、たかしこうかんってわったさいこうかんけんじみかど山陽さんようこうとして貴族きぞくとなったれいなど、きゅう王朝おうちょう君主くんしゅしん王朝おうちょう貴族きぞくとなったれい複数ふくすうあるが、反乱はんらん勢力せいりょく推戴すいたいされることをおそれてきゅう皇族こうぞくきゅう王族おうぞくともども皆殺みなごろしにされるれいすくなくない(朝鮮ちょうせん高麗こうらい王朝おうちょう王家おうけ一族いちぞく、ロシアのロマノフ王朝おうちょうニコライ2せい一家いっか、など)。

スペイン王国おうこく、ヨルダン・ハシェミット王国おうこく、ブータン王国おうこく、ベルギー王国おうこくは、名誉めいよてき退位たいいまえ国王こくおう称号しょうごう使用しようつづけている。また、オランダ王国おうこくでは国王こくおう即位そくいまえ称号しょうごうプリンスプリンセス)を使用しようしている。イギリス、カタールこくではあらたな称号しょうごう付与ふよされている(ウィンザー公爵こうしゃく国父こくふ[5]

韓国かんこく併合へいごうせきスル条約じょうやく1910ねん
韓国かんこく皇帝こうていおよ韓国かんこく皇族こうぞく相当そうとう尊称そんしょう威厳いげんおよ名誉めいよ享有きょうゆうさせることとうやくされ、ぜん韓国かんこく皇帝こうていさつシテおうため皇太子こうたいし将来しょうらい世嗣せいしふとし皇帝こうてい及各其儷ひき称呼しょうこていなみ礼遇れいぐうけんにより、ぜん韓国かんこく皇帝こうていたいして「おう」の身分みぶんあたえられるとうした(王公おうこうぞく制度せいど)。皇族こうぞくのぞ貴族きぞく制度せいど否定ひていした日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうにより1947ねん喪失そうしつ
しんしつ優待ゆうたい条件じょうけん1912ねん
だいきよし皇帝こうてい」の尊号そんごうけ、外国がいこく君主くんしゅ同等どうとう待遇たいぐうけることとなった。のち反故ほごにされた。
エドワード8せい退位たいい(1936ねん
グレートブリテンおよびきたアイルランド連合れんごう王国おうこくならびに海外かいがい自治領じちりょう国王こくおうインド皇帝こうてい」を自発じはつてき退位たいいした。退位たいいは「ウィンザー公爵こうしゃく」の爵位しゃくいけた。
天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほう(2017ねん
だい125だい天皇てんのう明仁あきひと退位たいいについて規定きていした法律ほうりつ退位たいいした天皇てんのうたいし、「上皇じょうこう」の称号しょうごうした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1905ねん国民こくみん投票とうひょうによるスウェーデンとの同君どうくん連合れんごう解消かいしょう
  2. ^ からし革命かくめいによる最初さいしょ退位たいい
  3. ^ ちょういさお復辟ふくへきさい退位たいい
  4. ^ 1935ねん国民こくみん投票とうひょうにより復位ふくい
  5. ^ フランコ政権せいけん成立せいりつした法律ほうりつにより、1975ねんフランコによって君主くんしゅせい復活ふっかつした(この法律ほうりつさだめた王位おうい継承けいしょうしゃはフアン・カルロス1せい)。
  6. ^ ベネディクト16せい場合ばあい教会きょうかいほう規定きてい一貫いっかんして「辞任じにん」という表記ひょうきであり、厳密げんみつには退位たいいではない。また後継こうけいしゃ辞任じにん選挙せんきょ決定けっていされ、指名しめいきんじられているので譲位じょういでもない。よってここでは参考さんこうとしての掲載けいさいである。詳細しょうさい教皇きょうこう辞任じにんおよベネディクト16せい辞任じにんあわせて参照さんしょう
  7. ^ 天皇てんのう君主くんしゅであるかについては議論ぎろんかれる。
  8. ^ 南朝なんちょうこう亀山天皇かめやまてんのう北朝ほくちょうのち小松こまつ天皇てんのうゆずるこくにより三種さんしゅ神器じんぎわたすというやくであったが、ゆずるこくなどの条項じょうこう北朝ほくちょう朝廷ちょうていにより反故ほごとされ、ゆずるこくなしに神器じんぎこう小松こまつ天皇てんのうわたっている。
  9. ^ 昭和しょうわ59ねん4がつ17にち参議院さんぎいん内閣ないかく委員いいんかいにおける太田おおた淳夫あつお議員ぎいん質問しつもんたいする山本やまもとさとる宮内庁くないちょう次長じちょう答弁とうべん
  10. ^ 天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほうだい1じょうだい2こう
  11. ^ 天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほうだい2じょう
  12. ^ 天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほうだい3じょう
  13. ^ ただし、ほう施行しこう(2019ねん4がつ30にち以前いぜんだい125だい天皇てんのう明仁あきひと崩御ほうぎょするなどしてこの特例とくれいほう効力こうりょくうしな可能かのうせいもあった(天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほう附則ふそくだい2じょう)。

出典しゅってん

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  1. ^ 生前せいぜん退位たいい」は「歴史れきし書物しょもつにない表現ひょうげん皇后こうごうさま、違和感いわかん表明ひょうめい NHKの反応はんのうは…
  2. ^ 退位たいい」と「譲位じょうい」の使つかけは? 天皇陛下てんのうへいかめぐる報道ほうどう
  3. ^ 産経さんけい譲位じょうい」に用語ようご変更へんこう 朝日あさひも「生前せいぜん退位たいい使用しよう 他社たしゃ表記ひょうき混乱こんらん
  4. ^ a b c 中央公論ちゅうおうこうろん』2016ねん9がつごう p46 「ヨーロッパ王室おうしつにおける「譲位じょうい」の現状げんじょう君塚きみづか直隆なおたか関東学院大学かんとうがくいんだいがく教授きょうじゅ
  5. ^ a b c d e f g h i 海外かいがいおも制度せいどおよ事例じれい概要がいようについて
  6. ^ a b c d e f g h i j k 天皇てんのう公務こうむ負担ふたん軽減けいげんとうかんする有識者ゆうしきしゃ会議かいぎ 2016ねん12月14にち 配付はいふ資料しりょう 海外かいがい制度せいど関連かんれん規定きてい(PDF/ 67KB)
  7. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』2017ねん1がつ5にち p7 「ワールドビュー」 欧州おうしゅう総局そうきょくちょうもりふとし

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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