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カール5せい (神聖しんせいローマ皇帝こうてい)

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カール5せい / カルロス1せい
Karl V / Carlos I
神聖しんせいローマ皇帝こうてい
スペイン国王こくおう
カール5せい
在位ざいい 1516ねん - 1556ねん(スペイン国王こくおう
1519ねん - 1556ねん神聖しんせいローマ皇帝こうてい
戴冠たいかんしき 1520ねん10月23にち(ローマおう[ちゅう 1]
1530ねん2がつ22にち(イタリアおう
1530ねん2がつ24にち神聖しんせいローマ皇帝こうてい[ちゅう 2]
べつごう カスティーリャ国王こくおう
レオン国王こくおう
アラゴン国王こくおう
マヨルカ国王こくおう
バレンシア国王こくおう
シチリア国王こくおう
サルデーニャ国王こくおう
ローマおう
イタリアおう
オーストリア大公たいこう
ケルンテンこう
クラインこう
シュタイアーマルクこう
ブルゴーニュこう
ブラバントこう
リンブルフこう
ルクセンブルクこう
ゲルデルンこう
カタルーニャこう
バルセロナはく
チロルはく
ブルゴーニュはく
ナミュール辺境へんきょうはく
フランドルはく
エノーはく
ホラントはく
ゼーラントはく英語えいごばん
ズトフェンはく英語えいごばん
アルトワはく英語えいごばん
シャロレーはくフランス語ふらんすごばん
サルダーニャはく英語えいごばん
ルシヨンはく英語えいごばん
ジローナはくフランス語ふらんすごばん
ウゾーナはく英語えいごばん
ベルガはく英語えいごばん
バザルーはく英語えいごばん

出生しゅっしょう 1500ねん2がつ24にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
フランドルはくりょう ガン
死去しきょ (1558-09-21) 1558ねん9月21にち(58さいぼつ
スペイン帝国ていこく
ユステ修道院しゅうどういん
埋葬まいそう スペイン帝国ていこく
エル・エスコリアル
エル・エスコリアル修道院しゅうどういん
配偶はいぐうしゃ イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン
子女しじょ フェリペ2せい
マリア
フェルナンド
フアナ
フアン
マルガリータ
フアン異説いせつあり)
家名かめい ハプスブルク
王朝おうちょう ハプスブルクあさ
父親ちちおや フィリップよしおおやけ
母親ははおや カスティーリャ女王じょおうフアナ
サイン
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カール5せいドイツ:Karl V / スペイン:Carlos I,1500ねん2がつ24にち - 1558ねん9月21にち)は、神聖しんせいローマ皇帝こうてい在位ざいい1519ねん - 1556ねん)にしてスペイン国王こくおうカルロス1せい在位ざいい1516ねん - 1556ねん[ちゅう 3]先代せんだい皇帝こうていマクシミリアン1せい長男ちょうなんフィリップとスペイン女王じょおうフアナ嫡子ちゃくし母語ぼごフランス語ふらんすご敬虔けいけんなカトリック教徒きょうとであり、ドイツ諸侯しょこう連合れんごうしていた現実げんじつ帝国ていこくとはことなる中世ちゅうせいてき普遍ふへんてきキリスト教きりすときょう帝国ていこく理念りねんしんじた。フランス王国おうこくたたかってイタリアでの覇権はけんり、1530ねん2がつ22にち ボローニャイタリアおうカルロ5せいとして戴冠たいかん。2にちにはローマ教皇きょうこうから戴冠たいかんされた最後さいご神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せいとなった(1530ねん2がつ24にち)。しかし、そのあいだ帝国ていこくではマルティン・ルターによる宗教しゅうきょう改革かいかく発生はっせいし、アウクスブルクの和議わぎによる妥協だきょうまれた。ヨーロッパ各地かくち転戦てんせんした無理むりたたって晩年ばんねん体調たいちょうくずし、嫡子ちゃくしフェリペスペイン王国おうこくを、おとうとフェルディナントかみきよしマ帝国まていこくゆず退位たいいした。

血筋ちすじ

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ブルゴーニュこうフィリップ4せいカスティーリャ女王じょおうフアナあいだまれた。母方ははかた祖父母そふぼ結婚けっこんによってスペイン王国おうこく誕生たんじょうさせ、のちにグラナダ王国おうこく制圧せいあつイベリア半島はんとうからイスラーム勢力せいりょく駆逐くちくした「カトリックりょうおう」ことアラゴン国王こくおうフェルナンド2せいおよびカスティーリャ女王じょおうイサベル1せいであった。さらに父方ちちかた祖父母そふぼ神聖しんせいローマ皇帝こうていであるマクシミリアン1せいと、かつてヴァロワあさフランス王国おうこくとすら互角ごかくわたった大国たいこくブルゴーニュ公国こうこくおんなこうマリーという、当時とうじのヨーロッパ王族おうぞくのサラブレッドともいうべき血筋ちすじまれであった。

カール5せい統治とうち領域りょういき中心ちゅうしんはスペインでありはは・フアナもスペイン出身しゅっしんであったが、カール5せい本人ほんにん自分じぶんまれ故郷こきょうネーデルラントフランドル愛着あいちゃくっており、言語げんご問題もんだいから当初とうしょ馴染なじめなかった[1]現代げんだいスペインにつづきむ羊毛ようもう騎士きしだん継承けいしょう増員ぞういんられるように、曾祖父そうそふシャルルブルゴーニュ公国こうこく継承けいしょうしゃという自覚じかくつよかった。それでもカール5せいはスペイン王位おういについてから熱心ねっしんにスペインおぼえ、スペインを統治とうちした。ちなみにおとうとフェルディナントあにとは対照たいしょうてきに、スペインまれのスペインそだちであるがちゅうおうかみきよしマ帝国まていこく帝位ていいくこととなった。

また、父方ちちかたからハプスブルクいだ神聖しんせいローマ皇帝こうていであるものの、ドイツじんともいがたい。カール5せいフランドルガンにてなまとおるけたが、母語ぼご当時とうじのフランドル貴族きぞく公用こうようであったフランス語ふらんすごであった。

系譜けいふ

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カール5せい ちち

ブルゴーニュこう フィリップ4せい

祖父そふ
神聖しんせいローマ皇帝こうてい

マクシミリアン1せい

祖父そふ
神聖しんせいローマ皇帝こうてい

フリードリヒ3せい

高祖父こうそふ
オーストリアこう

エルンスト

高祖母こうそぼ
ツィンバルカ
祖母そぼ
ポルトガル王女おうじょ

エレオノーレ[1]

高祖父こうそふ
ポルトガル国王こくおう

ドゥアルテ1せい

高祖母こうそぼ
レオノール
祖母そぼ
ブルゴーニュおんなこう

マリー

祖父そふ
ブルゴーニュこう

シャルル[2]

高祖父こうそふ
ブルゴーニュこう

フィリップ3せい

高祖母こうそぼ
イザベル
祖母そぼ
イザベル
高祖父こうそふ
ブルボンおおやけ

シャルル1せい

高祖母こうそぼ
アニェス
はは
カスティーリャおう

フアナ

祖父そふ
アラゴン国王こくおう

フェルナンド2せい

祖父そふ
アラゴン国王こくおう

フアン2せい

高祖父こうそふ
アラゴン国王こくおう

フェルナンド1せい

高祖母こうそぼ
レオノール
祖母そぼ
フアナ
高祖父こうそふ
ファドリケ
高祖母こうそぼ
マリアナ
祖母そぼ
カスティーリャおうイサベル1せい
祖父そふ
カスティーリャおうフアン2せい
高祖父こうそふ
カスティーリャおうエンリケ3せい
高祖母こうそぼ
キャサリン
祖母そぼ
イザベル[3]
高祖父こうそふ
ポルトガル王子おうじ

ジョアン

高祖母こうそぼ
イザベル

[1]のちちはポルトガル国王こくおうドゥアルテ1せいジョアン1せいで、おとうとエンリケ航海こうかい王子おうじや[3]のちちジョアンいもうとに[2]のははイザベルがいる。よって、[1]と[2]と[3]は、ともにジョアン1せい祖父そふとするいとこ同士どうしとなる。

生涯しょうがい

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少年しょうねん時代じだいのカール、ベルナールト・ファン・オルレイ
カール5せいのアントワープ入城にゅうじょう』、ハンス・マカルト

1500ねんフランドルのガン(ヘント)でまれ[2]、1517ねんまでネーデルラントそだった。名前なまえ曾祖父そうそふブルゴーニュこうシャルルにちなむ。ともらしていた両親りょうしんは、1506ねんにカスティーリャ王位おうい継承けいしょうするためスペインへわたった。のこされたカールは叔母おばのネーデルラント総督そうとくマルグリットそだてられた[3]少年しょうねん時代じだい個人こじん教師きょうしには、のち教皇きょうこう ハドリアヌス6せいとなったオランダじんユトレヒトのアドリアンがおり、めぐまれた環境かんきょう帝王ていおうがくまなんだ[4]。さらに側近そっきんとしてシェブレこうジャン・ル・ソヴージュ[5]メルクリノ・ガッティナラ[6]らがしたがっていた。

1506ねん、スペインにわたったばかりのちち急死きゅうしすると、おさなくしてネーデルラントの継承けいしょうしゃブルゴーニュこうとなった。1516ねん外祖父がいそふ・フェルナンド2せい死去しきょすると、スペインほぐさなかったカールはブリュッセルにいながらははフアナと共同きょうどう統治とうちというかたちでカスティーリャ国王こくおうになった。それは同時どうじアラゴン王国おうこくナバラ王国おうこくグラナダナポリ王国おうこくシチリア王国おうこくサルデーニャ王国おうこくスペインりょうアメリカにいたる広大こうだい領域りょういき統治とうちしゃとなったことを意味いみしていた[7]。1515ねん父方ちちかた祖父そふ神聖しんせいローマ皇帝こうてい マクシミリアン1せいによりハンガリー王国おうこくボヘミア王国おうこく王家おうけであるヤギェウォとのじゅう結婚けっこんめられたが、アンナ王女おうじょがカールとおとうとフェルディナントのどちらのとなるかはその時点じてんでは未定みていだった。結婚けっこん相手あいて将来しょうらい皇帝こうていであるカールではなくフェルディナントにめると、ハンガリー王国おうこくがわからはもう反発はんぱつけたが、フェルディナントとアンナにとっては幸福こうふく結婚けっこんとなった。

1517ねんはじめて「本国ほんごく」スペインりし、トルデシリャスはは再会さいかいすると[8]バリャドリッド摂政せっしょうヒメネス・デ・シスネロス枢機卿すうききょう解任かいにんして親政しんせい開始かいし1519ねん祖父そふ・マクシミリアン1せい死去しきょすると、オーストリアをはじめとするハプスブルク領土りょうど継承けいしょうした。さらに叔母おばにしてそだてのはは・マルグリットやフッガー支援しえん[9]、1519ねん6がつ28にちには生涯しょうがい宿敵しゅくてきフランス国王こくおう フランソワ1せいやぶり、フランクフルトあつまったせんみかどこういたるぜんひょうをカールにとうじてローマおう選出せんしゅつされた[10]。しかしこの選挙せんきょ資金しきんのために統治とうち早々そうそうにして莫大ばくだい負債ふさいっている。1520ねんには戴冠たいかんしき途上とじょうイングランド王国おうこくって国王こくおう ヘンリー8せい夫妻ふさい対面たいめんしている。ヘンリー8せい王妃おうひキャサリンはカールの叔母おばだったからである。その同年どうねん10がつ22にち伝統でんとうしたがってアーヘンでローマおうとしての戴冠たいかんけた[11]。ローマおうとなったカールは祖父そふマクシミリアン1せいれいならって教皇きょうこうからの戴冠たいかんけることなく神聖しんせいローマ皇帝こうていなされた。

しかし戴冠たいかんしき最中さいちゅうに、ローマおう選挙せんきょ使用しようする懐柔かいじゅう工作こうさく資金しきん(スペイン王国おうこく国家こっか予算よさん5ねんぶん)の国外こくがいし、「外国がいこくじん君主くんしゅ外国がいこくじん顧問こもん側近そっきん」の統治とうち反発はんぱつしていたトレドセゴビアなどカスティーリャのしょ都市としが、カールがコルテスあらたに3ねんごとの40まんドゥカットの上納じょうのうきん商品しょうひん売上うりあげたいするぜいしたことを端緒たんしょ一揆いっき契約けいやくむすび、コムネロスの反乱はんらん勃発ぼっぱつした[12]。コムネロスの反乱はんらん外国がいこくじん幹部かんぶによるスペイン支配しはいへの抵抗ていこうから、貴族きぞく特権とっけんたいする反乱はんらんへと変質へんしつしていった[13] 。1521ねんにカールは1ねんあまつづいたこの内乱ないらん鎮圧ちんあつしたことで名実めいじつどもにスペインの支配しはいしゃとなり[14]強大きょうだい兵力へいりょくひきいて生涯しょうがい各地かくち転戦てんせんした。しかし、これ以降いこうスペインはハプスブルクすすめる戦争せんそうへの財物ざいぶつ供出きょうしゅつ余儀よぎなくされ、カスティーリャ王国おうこく・アラゴン王国おうこくからの税収ぜいしゅうインディオ奴隷どれい労働ろうどうによってポトシなどから収奪しゅうだつされた金銀きんぎんはスペインのため使つかわれることはなく、ハプスブルク利害りがいのために使つかわれしょ外国がいこく流出りゅうしゅつした[15]

フランスとのたたかい、宗教しゅうきょう改革かいかくへの対応たいおう

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ヤーコプ・ザイゼネッガー1532ねん
カール5せい時代じだいのハプスブルク領土りょうど西にしヨーロッパの大半たいはん手中しゅちゅうにした。
  カスティーリャ
  アラゴン
  ブルゴーニュ
  オーストリア
  かみきよしマ帝国まていこく境界きょうかい

カールは生涯しょうがいフランス国王こくおう フランソワ1せいアンリ2せい父子ふしとの戦争せんそうかえすことになる。はじめは1521ねんきたイタリアあらそ[16]のちにイタリア全土ぜんど戦火せんかとうじることになる。1527ねんにはカールのドイツじん傭兵ようへいいたるがローマで狼藉ろうぜきはたらいた。これがローマ劫掠ごうりゃくである[17]。このような行為こういはカールの意図いとするところではなかったとされるが、実際じっさいはカールが傭兵ようへいたち十分じゅうぶん報酬ほうしゅう支払しはらわなかったことが原因げんいんだった。結果けっかてきにカールの軍勢ぐんぜいおそれた教皇きょうこうクレメンス7せいがイングランド国王こくおう ヘンリー8せい結婚けっこん無効むこう申請しんせい却下きゃっかし、イングランドのローマ教会きょうかいからの離反りはんへとつながっていく。

神聖しんせいローマ皇帝こうていとして、カール5せい当時とうじ論議ろんぎとなっていたマルティン・ルターあつかいにも苦慮くりょし、安全あんぜん保障ほしょうしてヴォルムス帝国ていこく議会ぎかい召喚しょうかん[18]結果けっかてきにルターの主張しゅちょうみとめず、同調どうちょうしゃたちともほう保護ほご剥奪はくだつ帝国ていこく追放ついほう)した。ここで処罰しょばつとまではいかなくとも逮捕たいほ拘束こうそくしておけばプロテスタント興隆こうりゅうめられただろうと後悔こうかいすることになるが、わか皇帝こうてい安全あんぜん保障ほしょうした約束やくそくやぶることをしとせず、スペインの統治とうち・フランス国王こくおうとのこうそう忙殺ぼうさつされるなかでルターひろがっていった(反対はんたいれいとしてジギスムントコンスタンツこう会議かいぎにおいて約束やくそく反故ほごにしてヤン・フス処刑しょけいし、フス戦争せんそういたった)。

ヘンリー8せい同盟どうめいしてったたいフランス戦争せんそうでは1525ねんパヴィアのたたかでフランス国王こくおう フランソワ1せい捕虜ほりょとすることに成功せいこうし、1526ねんにフランスのきたイタリアにおける権益けんえき全面ぜんめん放棄ほうきするというマドリード講和こうわ条約じょうやく承認しょうにんさせた。しかし、フランソワ1せい釈放しゃくほうされるとすぐに前言ぜんげんひるがえしてこの条約じょうやく破棄はき。そこで1528ねんサン・ジョルジョ銀行ぎんこうから融資ゆうしけて、ふたたびのこうそうはいった[ちゅう 4]1529ねんにあらためてフランスとのあいだ貴婦人きふじんやくしょうされるカンブレー講和こうわ条約じょうやく[19]ローマ教皇きょうこうちょうとのあいだにバルセロナやくむすんで、きたイタリアにおける権益けんえき確保かくほしたが、そのえにブルゴーニュ公国こうこく手放てばなした[ちゅう 5]1530ねんにはボローニャイタリアおう神聖しんせいローマ皇帝こうていとしての正式せいしき戴冠たいかんしきおこなった。ローマ教皇きょうこうによってみかどかんむりける儀式ぎしきはこれが最後さいごになる。1524ねんきたドイツ農民のうみん戦争せんそうシュマルカルデン同盟どうめい成立せいりつさいしては手一杯ていっぱいだったカール5せいは、おとうとのフェルディナントを代行だいこうとしてドイツ地方ちほうにおける政務せいむ委託いたくしている(フェルディナントは1556ねん神聖しんせいローマ皇帝こうてい即位そくいした)。

オスマン帝国ていこくとのたたか

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カール5せい騎馬きばぞう』、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ1548ねん

やがてカール5せいは、ヨーロッパを圧迫あっぱくしていたオスマン皇帝こうていスレイマン1せいとのたたかいにもとうじるようになる。当時とうじ地中海ちちゅうかいではオスマン帝国ていこく艦隊かんたい制海権せいかいけんにぎり、陸上りくじょうでは1529ねんウィーン包囲ほういされるまでになっていた(だいいちウィーン包囲ほうい)。しかしカール5せい1535ねんチュニスにおいて勝利しょうりし(チュニス征服せいふく[20]1536ねんには宿敵しゅくてきフランソワ1せいたいオスマン帝国ていこく同盟どうめいむすんだ。フランスがオスマン帝国ていこく単独たんどく講和こうわしてもカール5せい和睦わぼくしなかったが、1538ねんプレヴェザの海戦かいせんでローマ教皇きょうこうヴェネツィア共和きょうわこくむすぶも敗退はいたいし、地中海ちちゅうかい制海権せいかいけんうしなう。最終さいしゅうてき1543ねんにフランスとはクレピーのやくむす[21]戦費せんぴ増大ぞうだいのためにオスマン帝国ていこくとも講和こうわせざるをなくなった。これにより、オスマン帝国ていこくとの決着けっちゃく息子むすこフェリペ2せいがれることとなった。

トリエントこう会議かいぎ宗教しゅうきょう和解わかいへの努力どりょく

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カール5せい宗教しゅうきょう問題もんだい解決かいけつのため、おおやけ会議かいぎ実施じっし尽力じんりょくし、1545ねんトリエントこう会議かいぎ開会かいかいでその努力どりょくむすんだ[22]おおやけ会議かいぎはカール5せい意図いとしたルターのカトリックへの改宗かいしゅうという成果せいかはなかったが、カトリック教会きょうかい対抗たいこう改革かいかく頂点ちょうてんとなり、カトリック教会きょうかい再生さいせい契機けいきとなった。

そのあいだもドイツではシュマルカルデン同盟どうめいとのたたかいがつづいていたが、ザクセンこう モーリッツ味方みかたれたことによって、戦況せんきょうはカール5せい有利ゆうりかたむき、1547ねん4がつ24にちミュールベルクのたたか決定的けっていてき勝利しょうりおさめた[23]同盟どうめい2人ふたり中心ちゅうしんてき指導しどうしゃザクセンせんみかどこう ヨハン・フリードリヒヘッセンかたはく フィリップ1せい虜囚りょしゅうとすることに成功せいこうした。これ以上いじょう内戦ないせん激化げきか危惧きぐしたカール5せい1548ねんアウクスブルク暫定ざんてい規定きてい(Interim)を発令はつれいし、カトリックとプロテスタントのドイツにおける共存きょうぞん提案ていあんした[24]。しかし1552ねん3がつカールの新教しんきょうたいする強圧きょうあつてき態度たいど反発はんぱつしたモーリッツの襲撃しゅうげきけて逃亡とうぼう戦勝せんしょうによる優位ゆういうしなった。この結果けっか8がつにルター容認ようにんするむね和平わへい交渉こうしょうむすばれ(パッサウ条約じょうやく)、これを原型げんけい1555ねんアウクスブルクの和議わぎむすばれることになる[25]

カール5せいみや

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カール5せいみやアルハンブラ宮殿きゅうでんなかてられたカール5せい宮殿きゅうでんである。この宮殿きゅうでん画家がかのペードロ・マチューカが1526-27ねんにデザインした。工事こうじは1568ねんまでおこなわれた。

カール5せいみや正方形せいほうけいから構成こうせいされていて、正方形せいほうけいひとつのかくとしてはち角形かくがたのオラトリー(祈祷きとうしつ)になっている。4つのくち正方形せいほうけいかく側面そくめん中央ちゅうおう配置はいちされていて、中央ちゅうおう円形えんけい中庭なかにわみちびけていくつくりになっている。この円形えんけい中庭なかにわはペードロ・マチューカがなくなったのちにそののルイス・マチューカによって建造けんぞうされたがペードロのデザインにしたがってつくられている。宮殿きゅうでんにはふたつの特色とくしょくがある。1つ円形えんけい中庭なかにわ壁面へきめん構成こうせいは2そうドリスしきイオニアしきのオーダがかさねてつくられている。スペインではプラテレスコ様式ようしき主流しゅりゅうであったためそれとはことなった純粋じゅんすいなルネサンスてき建築けんちくである。2つはアーケードではなく、まっすぐなエンタブラチュア使用しようされていることである。

ムーアじん反乱はんらんによって工事こうじ中断ちゅうだんされ、カール5せいみや完成かんせいのままにわった。その紆余曲折うよきょくせつて1930ねん完成かんせいし、カール5せい没後ぼつご400ねん記念きねんの1958ねん、グラナダ美術館びじゅつかん移転いてんした。

退位たいい晩年ばんねん

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1548ねん国事こくじみことのりじょうではネーデルラント17しゅうのスペイン王国おうこくおよびフランスからの分離ぶんり独立どくりつみとめている。さらに1550ねんには「バリャドリッド論争ろんそう」のられる、アメリカ先住民せんじゅうみん地位ちいとインディアス問題もんだいかんする審議しんぎかいひらいている。これは、インディオの人権じんけん問題もんだいをたびたび告発こくはつしてきたラス・カサスらの長年ながねん活動かつどうみのったともいえるものである。最終さいしゅうてきにエンコミンダの世襲せしゅう導入どうにゅう阻止そしされるなど、ラス・カサスの努力どりょくむくわれるかたちとなり、アメリカ先住民せんじゅうみんへの不当ふとう行為こうい撤廃てっぱい目指めざした、当時とうじのヨーロッパ社会しゃかいでは非常ひじょう画期的かっきてき審議しんぎかいとなった。

1555ねん長年ながねん痛風つうふうおよ統治とうち戦争せんそうつかれたカール5せいは、ついに退位たいい決意けついする[26][27]。フェリペだけでなく、おとうとフェルディナント、あねエレオノーレ、いもうとマリアも出席しゅっせきしたブリュッセルでの退位たいいしきでは、「はドイツへ9かい、スペインへ6かい、イタリアへ7かい、フランドルへ10かい、フランスへ4かい、イギリス、アフリカへ2かいづつ、合計ごうけい40かいにおよぶたびをした。(りゃく)これまでは、経験けいけん不足ふそくや、あまりのこうずさなどによって、おおくのあやまちをおかしてきた。しかし、けっしてだれかをきずつけようという意図いとっていなかった。もし万一まんいち、そんなことがあったとすれば、ここにゆるしをいたい」とって、なみだ演説えんぜつがとぎれたという[28]

両親りょうしんからいだスペイン・ネーデルラント関係かんけい地位ちい領土りょうどすべ息子むすこのフェリペ2せいゆずり、父方ちちかた祖父そふからいだオーストリア・かみきよしマ帝国まていこく関係かんけい地位ちい領土りょうどおとうとのフェルディナント1せい継承けいしょうさせた。これをもって、ハプスブルクはオーストリア・ハプスブルクけい[ちゅう 6]スペイン・ハプスブルクけい分裂ぶんれつすることになった。このころすでに神経しんけい衰弱すいじゃく気味ぎみであったといわれているカール5せいは、スペインのユステ修道院しゅうどういん隠棲いんせいし、1558ねんに58さいくなった。晩年ばんねんの10ねんほどはつね痛風つうふう激痛げきつうなやまされていた。

容姿ようし

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両親りょうしんいてまれつきあご筋力きんりょくよわく、しもあごぜん突症であり、また幼少ようしょう病気びょうきにより鼻腔びこう閉塞へいそく気味ぎみであったため、おおくの肖像しょうぞうでもられるとおり、一見いっけんすると非常ひじょうしもあご突出とっしゅつしているようにえ、つねくちひらいた状態じょうたいだったとされている。

子女しじょ

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ティツィアーノ・ヴェチェッチオの『ポルトガル王女おうじょイザベルの肖像しょうぞう』。プラド美術館びじゅつかん所蔵しょぞう

1526ねん3がつ10日とおかセビリア王宮おうきゅうで、ポルトガル国王こくおう マヌエル1せい王女おうじょで、たがいに母方ははかた従兄じゅうけいいもうとであるイサベル結婚けっこんした[29]前年ぜんねんの1525ねんにイサベルのあにジョアン3せいとカール5せいいもうとカタリナ結婚けっこんするというじゅう結婚けっこんであった。また、カール5せいあねレオノールは1518ねんにマヌエル1せいの3番目ばんめ王妃おうひとなったが、マヌエル1せいとは1521ねん死別しべつしていた。

イサベルとのあいだには3なん2じょまれた。うち男子だんし2にん夭逝ようせいした。

ひと性格せいかくであったため、貴族きぞく身分みぶんははから庶子しょしまれれば認知にんちし、商人しょうにんこう人身じんしんぶんははからまれれば修道院しゅうどういんなどへれた。うち有名ゆうめいなのは、ヨハンナ・ファン・デル・ヘインストがもうけたマルガリータ(1522ねん - 1586ねん)と、バルバラ・ブロムベルクもうけたレパント海戦かいせん英雄えいゆうドン・フアン・デ・アウストリア(1547ねん - 1578ねん)である。事跡じせき不明ふめい子女しじょとしては、祖父そふフェルナンド2せい後妻ごさいジェルメーヌ・ド・フォワもうけた女子じょしイサベル (es夭折ようせつした、オルソリーナ・デッラ・ペンナがもうけた女子じょしタデア、ははしょう女子じょしフアナ、などがられている。

人物じんぶつ

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カール5せいかならずしもフランスじん色濃いろこいているわけではなかったが、フランスパリをこよなくあいした。当時とうじ貴族きぞくつねとして、西欧せいおう最大さいだい都市としにして西にしヨーロッパ社交しゃこうかい中心ちゅうしん都市としであったパリにすうかい滞在たいざいしており、フランス社交しゃこうかいでも「シャルル・カン」(フランス語ふらんすご: Charles Quint)としてられていた。ちち・フィリップもしんふつだったといわれるが、カール5せいは「パリはもはや都市としというより、ひとつの世界せかいだ」(ラテン語らてんご: Lutetia non urbs, sed orbis.)とったとつたえられる。もっともよく使つかったのもフランス語ふらんすごだったが、皮肉ひにくなことに政治せいじてきにはフランス国王こくおう生涯しょうがいにわたりはげしい対立たいりつ関係かんけいにあった。

スペイン国王こくおうとして、また神聖しんせいローマ皇帝こうていとして、生涯しょうがいかけてヨーロッパ全土ぜんどまわり、きたアフリカにまであしばしている。多言たげん話者わしゃであったとわれており、カール5せい言葉ことばとしてつたえられる有名ゆうめいなものに"I speak Spanish to God, Italian to women, French to men and German to my horse." 「スペインかみへの言葉ことばイタリア女性じょせいへの言葉ことばフランス語ふらんすご男性だんせいへの言葉ことばドイツうまへの言葉ことば」というものがある。しかし、実際じっさいにカール5せい不自由ふじゆうなく完璧かんぺきはなすことができたのは、母語ぼごフランス語ふらんすごのほかは、スペイン統治とうちしゃとして本格ほんかくてき学習がくしゅう使用しようしたスペインくらいであった。ドイツとイタリアについては完全かんぜんではなく、ラテン語らてんごはなせたが不十分ふじゅうぶんであった[30]

称号しょうごう一覧いちらん

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称号しょうごうがすべてついた場合ばあい以下いかのようになる。

カール、かみ恩寵おんちょうによるローマ皇帝こうてい永遠えいえん尊厳そんげんしゃローマおうイタリアおうぜんスペインの国王こくおうおよカスティーリャ王国おうこくアラゴン国王こくおうレオン国王こくおうナバラ国王こくおうグラナダおうトレドおうバレンシア国王こくおうガリシア国王こくおうマヨルカ国王こくおうセビーリャおうコルドバおうムルシアおうハエンおうアルガルヴェ国王こくおうアルヘシラスおうジブラルタルおうカナリア諸島かなりあしょとうおうりょうシチリア国王こくおうおよサルデーニャ国王こくおうコルシカおうエルサレム国王こくおうひがしインドおよ西にしインドおう大洋たいよう島々しまじま君主くんしゅオーストリア大公たいこうブルゴーニュこうブラバントこうロレーヌこうシュタイアーマルクこうケルンテンこうクラインこうリンブルフこうルクセンブルクこうヘルダーラントこうアテネこうネオパトラスこう英語えいごばんヴュルテンベルクこうアルザス辺境へんきょうはくシュヴァーベンこうアストゥリアスこうカタルーニャこうフランドルはくハプスブルクはくチロルはくゴリツィアはくバルセロナはくアルトワはくブルゴーニュはくエノーはくホラントはくゼーラントはくフェレットはくキーブルクはくナミュールはくルシヨンはくサルダーニャはくズトフェンはくかみきよしマ帝国まていこく辺境へんきょうはくブルガウ辺境へんきょうはくドイツばんオリスターノ辺境へんきょうはくゴチアーノ辺境へんきょうはくフリジアヴェンドポルデノーネバスク・モリン・サラン・トリポリメヘレン領主りょうしゅ

年表ねんぴょう

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カール5せい登場とうじょうするフィクション

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 実質じっしつドイツおう先代せんだいマクシミリアン1せい教皇きょうこうからの戴冠たいかんなく皇帝こうてい名乗なのり、以後いごせんみかどこうえらばれたローマおう(ドイツおう)は「えらばれたローマ皇帝こうてい」をしょうした。
  2. ^ カール大帝たいてい以来いらい皇帝こうてい教皇きょうこうによる戴冠たいかん即位そくいする伝統でんとうがあった。
  3. ^ 欧米おうべいでは、欧米おうべい歴史れきしじょう人物じんぶつ名前なまえ自国じこくあらわすことがおおく、この人物じんぶつはドイツではカール、スペインではカルロスであるが、スペインではCarlos I de España、Carlos V de Alemania(カルロス・プリメーロ・デ・エスパーニャ、カルロス・キント・デ・アレマニア)のようにぶ。このような場合ばあい日本語にほんごではかく君主くんしゅごう関連かんれんする言語げんごにおける名前なまえぶことが通常つうじょうであるため皇帝こうていとしてはドイツ語どいつごめいで、スペイン国王こくおうとしてはスペインめいぶことが通常つうじょうである。
  4. ^ このあいだローマ劫掠ごうりゃく事件じけんこった
  5. ^ ブルゴーニュはくりょうフランシュ=コンテ地域ちいきけん保持ほじ
  6. ^ のちのハプスブルク=ロートリンゲン

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 江村えむらひろし『カール5せい 中世ちゅうせいヨーロッパ最後さいご栄光えいこう東京書籍とうきょうしょせき、1992ねん7がつISBN 978-4487753796 
  • エドゥアルド・ガレアーノ しる大久保おおくぼ光夫みつお やく収奪しゅうだつされた大地だいち ラテンアメリカひゃくねんしん評論ひょうろん、1986ねん9がつISBN 978-4794822345 
  • 立石たていしひろしだかへん新版しんぱん世界せかい各国かっこく16 スペイン・ポルトガル山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2000ねん6がつ
  • アントニオ・ドミンゲス・オルティス しる立石たていしひろしだか やく『スペイン さんせんねん歴史れきし昭和堂しょうわどう、2006ねんISBN 978-4812206041 
  • 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃへん 『ビジュアル選書せんしょ ハプスブルク帝国ていこく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2010ねん
  • 藤田ふじた一成いっせい皇帝こうていカルロスの悲劇ひげき ハプスブルク帝国ていこく継承けいしょう平凡社へいぼんしゃ、1999ねんISBN 978-4582841992 
  • たに克二かつじ『アルハンブラ宮殿きゅうでん みなみスペインさん物語ものがたり日経にっけいBP企画きかく、2004ねんISBN 978-4-86130-005-9 
  • 鈴木すずき博之ひろゆき編集へんしゅう 『世界せかい建築けんちく だい6かん ルネサンス・マニエリスム』 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ 1983ねん初版しょはん発行はっこう 1984ねんだい2さつ発行はっこう
  • ピーター・マレー わけ きりじき次郎じろう 『図説ずせつ世界せかい建築けんちく だいじゅうかん ルネサンス建築けんちく』 ほんともしゃ 1998ねん9がつ10日とおか 初版しょはん発行はっこう

関連かんれん項目こうもく

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爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マクシミリアン1せい
神聖しんせいローマ皇帝こうてい
1519ねん - 1556ねん
次代じだい
フェルディナント1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
新設しんせつ
スペイン国王こくおう
1516ねん - 1556ねん
次代じだい
フェリペ2せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フェルナンド5せい
フアナ
カスティーリャ国王こくおう
レオン国王こくおう

1516ねん - 1556ねん
次代じだい
スペイン王位おうい統合とうごう
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フェルナンド2せい
アラゴン国王こくおう
マヨルカ国王こくおう
バレンシア国王こくおう
カタルーニャこう
バルセロナはく
サルダーニャはく
ルシヨンはく
ジローナはく
ウゾーナはく
ベルガはく
バザルーはく

1516ねん - 1556ねん
次代じだい
スペイン王位おうい統合とうごう
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フェルナンド
ナバラ国王こくおう
南部なんぶ

1516ねん - 1556ねん
次代じだい
スペイン王位おうい統合とうごう
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フェルディナンド3せい
ナポリ国王こくおう
1516ねん - 1554ねん
次代じだい
フィリッポ1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フェルディナンド2せい
シチリア国王こくおう
1516ねん - 1554ねん
次代じだい
フィリッポ1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フェルディナンド2せい
サルデーニャ国王こくおう
1516ねん - 1556ねん
次代じだい
フィリッポ2せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
空位くうい
ローマおう
1519ねん - 1556ねん
次代じだい
空位くうい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マッシミリアーノ1せい
イタリアおう
1530ねん - 1556ねん
次代じだい
空位くうい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マクシミリアン1せい
オーストリア大公たいこう
1519ねん - 1521ねん
次代じだい
フェルディナント1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マクシミリアン1せい
ケルンテンこう
1519ねん - 1521ねん
次代じだい
フェルディナント1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マクシミリアン1せい
クラインこう
1519ねん - 1521ねん
次代じだい
フェルディナント1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マクシミリアン1せい
シュタイアーマルクこう
1519ねん - 1521ねん
次代じだい
フェルディナント1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マクシミリアン1せい
チロルはく
1519ねん - 1521ねん
次代じだい
フェルディナント1せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ4せい
ブルゴーニュこう
1506ねん - 1556ねん
次代じだい
フィリップ5せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ3せい
ブラバントこう
1506ねん - 1555ねん
次代じだい
フィリップ4せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ3せい
リンブルフこう
1506ねん - 1555ねん
次代じだい
フィリップ4せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ2せい
ルクセンブルクこう
1506ねん - 1556ねん
次代じだい
フィリップ3せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ6せい
ブルゴーニュはく
1506ねん - 1556ねん
次代じだい
フィリップ7せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マクシミリアン
ナミュール辺境へんきょうはく
1519ねん - 1556ねん
次代じだい
フィリップ5せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ4せい
フランドルはく
1506ねん - 1555ねん
次代じだい
フィリップ5せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ2せい
エノーはく
1506ねん - 1555ねん
次代じだい
フィリップ3せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ2せい
ホラントはく
ゼーラントはく英語えいごばん

1515ねん - 1555ねん
次代じだい
フィリップ3せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
ヴィルヘルム2せい
ゲルデルンこう
ズトフェンはく英語えいごばん

1543ねん - 1555ねん
次代じだい
フィリップ2せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
フィリップ4せい
アルトワはく英語えいごばん
1506ねん - 1556ねん
次代じだい
フィリップ5せい
爵位しゃくい家督かとく
先代せんだい
マルグリット
シャロレーはくフランス語ふらんすごばん
1530ねん - 1558ねん
次代じだい
フィリップ4せい