(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ザクセン君主一覧 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ザクセン君主くんしゅ一覧いちらん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ザクセン君主くんしゅ一覧いちらんは、中世ちゅうせいから近代きんだいにかけてドイツザクセン公国こうこくおよザクセン王国おうこく君主くんしゅ一覧いちらんである。

りゃく

[編集へんしゅう]
ドレスデンの陶板とうはん壁画へきが君主くんしゅたちの行列ぎょうれつ歴代れきだいザクセンせんみかどこうえがかれている。

最初さいしょのザクセンこうは、カール大帝たいていザクセン征服せいふくしたさいに、降伏ごうぶくしたザクセンじんのリーダーであるヴィドゥキントさづけたものだとされる。そのルートヴィヒ2せいのもとザクセンをりょうしたリウドルフリウドルフィング始祖しそとなり、その版図はんと経済けいざいりょく背景はいけいにリウドルフィングはフランク王国おうこくないでもおもきをなした。ハインリヒ1せい919ねんローマおうとなり、ザクセンあさひらいた。つづオットー2せいは、962ねん皇帝こうてい即位そくいし、数々かずかず業績ぎょうせきから大帝たいていしょうされた。オットー2せいはザクセンからはなれることおおかったので、ヘルマン・ビルング留守るすあいだ内政ないせいあずかっていた。オットー2せいはヘルマンをザクセン辺境へんきょうはくとし、そのさらにザクセンふくおおやけとした。ヘルマンの息子むすこベルンハルト1せいだいに、正式せいしきにザクセンこうとして承認しょうにんされた。

1106ねんビルング最後さいご当主とうしゅマグヌスくなり、後継こうけいしゃ存在そんざいしなかったため、ズップリンブルクロタール1せいがザクセンこうとなった。そのヴェルフアスカーニエン交互こうごにザクセンこうとなり、一時いちじはヴェルフハインリヒ3せいバイエルンこうねて帝国ていこく有力ゆうりょく諸侯しょこうにのしがったが、1180ねんフリードリヒ1せい帝国ていこく追放ついほうけて所領しょりょう没収ぼっしゅうされ、アスカーニエンベルンハルト3せいがザクセンこうになった。1260ねんアルブレヒト1せいくなると、ザクセンはザクセン=ヴィッテンベルクザクセン=ラウエンブルク分割ぶんかつされた。1356ねんカール4せいきむしるし勅書ちょくしょ発布はっぷし、ザクセン=ヴィッテンベルクこうせんみかどこう資格しかくた。以降いこうザクセンせんみかどこうばれる。

1422ねん、アスカーニエン最後さいご当主とうしゅアルブレヒト3せいくなると、マイセンおよテューリンゲン辺境へんきょうはくヴェッティンフリードリヒ1せいがザクセンせんみかどこう継承けいしょうした。1464ねんフリードリヒ2せい死亡しぼうすると、のこりょう2人ふたり息子むすこ分割ぶんかつ相続そうぞくされた。長男ちょうなんエルンストせんみかどこうとなり、きたマイセン、みなみテューリンゲン、ヴィッテンブルクを継承けいしょうした。次男じなんアルブレヒトみなみマイセン、きたテューリンゲンを継承けいしょうし、あらたに公爵こうしゃくあたえられた。ヴィッティンエルンストけいアルブレヒトけいかれたのである。

1547ねんミュールベルクのたたか勝利しょうりしたカール5せいは、自身じしん敵対てきたいしたヨハン・フリードリヒ(エルンストけい)からせんみかどこう資格しかく剥奪はくだつし、味方みかたしたモーリッツ(アルブレヒトけい)に褒賞ほうしょうとしてこれをあたえた。以降いこうせんみかどこう資格しかくはアルブレヒトけい継承けいしょうした。

1697ねんにはフリードリヒ・アウグスト1せいポーランドおうむかえられ、1763ねんまで同君どうくん連合れんごうとなったが、波乱はらんえなかった。1700ねん開始かいしされただい北方ほっぽう戦争せんそうまれて一時いちじその地位ちいうしない、1733ねんにはポーランド継承けいしょう戦争せんそうこされた。ポーランド王国おうこくにおける王権おうけんきにひとしく、だい北方ほっぽう戦争せんそう以後いごのポーランドはほぼ列強れっきょう傀儡かいらい国家こっかあるいは緩衝かんしょうこくした。

1806ねんかみきよしマ帝国まていこく解体かいたいともない、ザクセン王国おうこくとなった。ときのザクセンせんみかどこうフリードリヒ・アウグスト3せいはザクセンおうフリードリヒ・アウグスト1せいとなった。1918ねんドイツ革命かくめいによってドイツ帝国ていこく消滅しょうめつし、ザクセン王国おうこくもまた消滅しょうめつした。

君主くんしゅ一覧いちらん

[編集へんしゅう]

ザクセンこう

[編集へんしゅう]

ヴェルフェン

[編集へんしゅう]

アスカーニエン

[編集へんしゅう]

1260ねんのアルブレヒト1せい死後しご、ザクセンおおやけりょうはアルブレヒト1せいの2およびそのらの共同きょうどう統治とうちとなった。

  • ヨハン1せい在位ざいい:1260ねん - 1282ねん) - アルブレヒト1せい
  • アルブレヒト2せい在位ざいい:1260ねん - 1296ねん) - アルブレヒト1せい
  • ヨハン2せい在位ざいい:1282ねん - 1296ねん) - ヨハン1せい兄弟きょうだい共同きょうどう統治とうち
  • アルブレヒト3せい在位ざいい:1282ねん - 1296ねん) - ヨハン1せい兄弟きょうだい共同きょうどう統治とうち
  • エーリヒ1せい在位ざいい:1282ねん - 1296ねん) - ヨハン1せい兄弟きょうだい共同きょうどう統治とうち

1296ねん、ザクセンおおやけりょうザクセン=ラウエンブルクおおやけりょうザクセン=ヴィッテンベルクおおやけりょう分割ぶんかつされた。

ザクセン=ラウエンブルクこう

[編集へんしゅう]

ザクセン=ラウエンブルク参照さんしょう

ザクセン=ヴィッテンベルクこう

[編集へんしゅう]

アスカーニエン

[編集へんしゅう]

ザクセンせんみかどこう

[編集へんしゅう]

1356ねんきむしるし勅書ちょくしょによって、ザクセン=ヴィッテンベルクこうせんみかどこう資格しかくあたえられた。これ以降いこうはザクセンせんみかどこうばれる。

アスカーニエン

[編集へんしゅう]

1422ねん、アルブレヒト3せいによってザクセン=ヴィッテンベルクけいアスカーニエン途絶とだえ、ザクセンおおやけはマイセンおよびテューリンゲンの辺境へんきょうはく、ヴェッティンのフリードリヒがその地位ちい継承けいしょうした。

1464ねんにフリードリヒ2せい死亡しぼうすると、のこりょう分割ぶんかつ相続そうぞくされた。次男じなん長男ちょうなんすで死亡しぼう)のエルンストせんみかどこうとなり、きたマイセン、みなみテューリンゲン、ヴィッテンベルク継承けいしょうした(エルンストけいまたはエルネスティンけい)。3なんアルブレヒトみなみマイセン、きたテューリンゲンを継承けいしょうし、ザクセンこうしょうした(アルブレヒトけいまたはアルベルティンけい)。

エルンストけい(ザクセンせんみかどこう
[編集へんしゅう]
エルンストけい(ザクセンこう
[編集へんしゅう]

1547ねんミュールベルクのたたか勝利しょうりしたカール5せいは、自身じしん敵対てきたいしたヨハン・フリードリヒからせんみかどこう資格しかく剥奪はくだつし、味方みかたしたモーリッツに褒美ほうびとしてこれをあたえた。以降いこうせんみかどこう資格しかくはアルブレヒトけい継承けいしょうした。エルンストけいはその存続そんぞくするが、主流しゅりゅうからははずれ、ヨハン・ヴィルヘルムの時代じだい以降いこうザクセン=ヴァイマルザクセン=コーブルクザクセン=アイゼナハなどのしょ公国こうこくErnestinische Herzogtümer)に分裂ぶんれつする。それらはこの一覧いちらんには記述きじゅつしない。

アルブレヒトけい(ザクセンせんみかどこう
[編集へんしゅう]

ザクセンおう

[編集へんしゅう]

1806ねんかみきよしマ帝国まていこく解体かいたいともないザクセンは王国おうこく昇格しょうかくザクセン王国おうこくとなり、フリードリヒ・アウグスト3せいはザクセンおうフリードリヒ・アウグスト1せいとなった。

1918ねん以降いこうのヴェッティン(ザクセン)当主とうしゅ

[編集へんしゅう]

1918ねんドイツ革命かくめいによってドイツ帝国ていこく消滅しょうめつし、ザクセン王国おうこくもまた消滅しょうめつした。以降いこうのザクセンの首相しゅしょうについては、ザクセンしゅう#歴代れきだいしゅう首相しゅしょう参照さんしょう

2012ねんにアルブレヒト・ヨーゼフのによってアルブレヒトけいヴェッティン正嫡せいちゃく断絶だんぜつした。マリア・エマヌエルはそれを見越みこして1997ねん一族いちぞく合意ごういおいアレクサンダー・ド・アフィーフ後継こうけいしゃ指名しめいかれとその子供こどもザクセン=ゲッサフェせい名乗なのるようになった。しかし、アルブレヒト・ヨーゼフはそれを撤回てっかい叔父おじエルンスト・ハインリヒ息子むすこティーモの結婚けっこん息子むすこリューディガー後継こうけいしゃかんがえていた。

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]