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きむしるし勅書ちょくしょ

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1356ねんかねしるし勅書ちょくしょかね印章いんしょう

きむしるし勅書ちょくしょ(きんいんちょくしょ、ラテン語らてんご:bulla aurea)は、皇帝こうてい命令めいれいしるされ、黄金おうごんせい印章いんしょうされた公文書こうぶんしょである。黄金おうごん文書ぶんしょ(おうごんもんじょ)ともしょうする。中世ちゅうせいからルネサンスなか西にしヨーロッパ中世ちゅうせいビザンツ帝国ていこくにおいて発布はっぷされた。

カール4せいかねしるし勅書ちょくしょ

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もっと有名ゆうめいなものはかみきよしマ帝国まていこくにおける1356ねんかねしるし勅書ちょくしょであり、ニュルンベルク開催かいさいされた帝国ていこく議会ぎかいにおいて神聖しんせいローマ皇帝こうていカール4せいによって発布はっぷされた。このかねしるし勅書ちょくしょはそのやく400ねんにわたってかみきよしマ帝国まていこく基本きほんてき体制たいせい規定きていした。おも内容ないようとして、「ローマじんおう」(通常つうじょうローマ教皇きょうこうによって戴冠たいかんされて神聖しんせいローマ皇帝こうていとなる)を選定せんていする7にんせんみかどこう規定きていしている。だい空位くうい時代じだい解決かいけつするためだけの産物さんぶつではなく、レーエン(封建ほうけんせい)もあわせて規定きていされた。

おも規定きてい

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歴史れきしてき意義いぎ

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叙任じょにんけん闘争とうそう以降いこうドイツにあっては封建ほうけんいちじるしく進展しんてんし、それぞれの諸侯しょこう都市とし自立じりつ傾向けいこうつよまって、皇帝こうていけん衰退すいたいいちじるしかった[1]。このことはまた、世襲せしゅう王政おうせいにかわって、諸侯しょこうによる選挙せんきょ王政おうせい原理げんり台頭たいとうをみた。あかひげおう(バルバロッサ)フリードリヒ1せい在位ざいい:1152ねん - 1190ねん)やフリードリヒ2せいシチリアおうフェデリーコ1せい在位ざいい:1215ねん - 1250ねん)ら歴代れきだい皇帝こうていによる帝国ていこく再興さいこうゆめ実現じつげんしなかったが、カール4せい登場とうじょうにいたってようやく、地域ちいきてきなラントフリーデ(りょうくに平和へいわれい)の協約きょうやく帝国ていこく再建さいけん基礎きそえる政策せいさくすすめられ、1356ねん発布はっぷかねしるし勅書ちょくしょとして結実けつじつした[1]きむしるし勅書ちょくしょはこれ以後いごかみきよしマ帝国まていこく最高さいこう法規ほうき位置いちづけられ、ななせんみかどこう門地もんち権利けんり選挙せんきょのありかたなどが規定きていされてじゅう選挙せんきょ可能かのうせい消滅しょうめつしたものの、せんみかどこうには、重要じゅうようレガリア裁判さいばんけんにおける移管いかんおよび上訴じょうそ特権とっけん付与ふよされ、主権しゅけん国家こっかのようなつよ権限けんげんみとめられたため、ドイツは19世紀せいきにいたるまで、りょうくに国家こっか集合しゅうごうとしての状況じょうきょう固定こていされた[1]

ビザンツ帝国ていこくにおけるきむしるし勅書ちょくしょ

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ビザンツ帝国ていこくひがしマ帝国まていこく)のかねしるし勅書ちょくしょは、9世紀せいきすえから10世紀せいきすえにかけての皇帝こうていレオーン6せい時代じだい制定せいていされた「クリュソブーロス・ロゴス」というみことのりれい様式ようしきである。

このみことのりれいは、皇帝こうてい貴族きぞく修道院しゅうどういん免税めんぜいなどの特権とっけん下賜かしするさい発布はっぷされたもので、皇帝こうてい法律ほうりつ発布はっぷするさい使用しようされた正式せいしき勅書ちょくしょ「エーディクトン」という書式しょしき近似きんじしており、

ちち聖霊せいれい御名ぎょめいにおいて ニケフォロス・ボタネイアテス、キリストに忠実ちゅうじつなる皇帝こうていにしてローマじん支配しはいしゃ

といったびかけと発布はっぷした皇帝こうてい称号しょうごうにはじまる荘重そうちょう前文ぜんぶんからはじまっていた。

11世紀せいきアレクシオス1せいコムネノスヴェネツィア共和きょうわこくあたえたものは当時とうじ国際こくさい関係かんけいおおきく影響えいきょうした。

ビザンツ帝国ていこくは、みことのりれいのほか徴税ちょうぜいのための土地とち台帳だいちょうなどの行政ぎょうせい文書ぶんしょ多数たすう作成さくせいしていたが、戦乱せんらんなどでほとんどうしなわれてしまった。現在げんざいビザンツ帝国ていこく勅書ちょくしょのこっているのは、特権とっけん下賜かしされた修道院しゅうどういんなどが保存ほぞんしていた、このようなかねしるし勅書ちょくしょのみである[2]

ハンガリー王国おうこくにおけるきむしるし勅書ちょくしょ

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ハンガリー王国おうこくではハンガリーおうアンドラーシュ2せい貴族きぞくたちの要求ようきゅうきむしるし勅書ちょくしょ(アラニュ・ブラ)を発布はっぷした[3]きむしるし勅書ちょくしょによって廷臣ていしんだい貴族きぞく権利けんり拡張かくちょうされ、教会きょうかい利益りえき制限せいげんされた[3]。このかねしるし勅書ちょくしょは、しばしばイングランド王国おうこく制定せいていされたマグナ・カルタのハンガリーばんたとえられるが、歴代れきだいハンガリーおうはこの勅書ちょくしょ遵守じゅんしゅすることはなかった[4][5]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 佐藤さとう池上いけがみ(1997)pp.326-327
  2. ^ 井上いのうえ(1982)
  3. ^ a b エルヴィン ちょ田代たしろ文雄ふみお 鹿島かしま正裕まさひろ やく『ハンガリー 1 増補ぞうほばん恒文社こうぶんしゃ、85ぺーじぺーじ 
  4. ^ 南塚みなみづか信吾しんご河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 
  5. ^ 井上いのうえ浩一こういち栗生くりゅうさわ猛夫たけお『ビザンツとスラヴ』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 

参考さんこう文献ぶんけん

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かみきよしマ帝国まていこく関連かんれん

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ビザンツ帝国ていこく関連かんれん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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