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ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう

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ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう
ブランデンブルクせんみかどほうりょう
Markgrafschaft Brandenburg
Kurfürstentum Brandenburg
ノルトマルク 1157ねん - 1806ねん プロイセン王国
ブランデンブルク伯領領の国旗 ブランデンブルク伯領領の国章
国旗こっきくにあきら
ブランデンブルク伯領領の位置
1320ねんのアスカーニエン断絶だんぜつまでのブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう
公用こうよう ドイツ
首都しゅと ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル1157ねん1417ねん
ベルリン(1417ねん〜)
辺境へんきょうはく
1157ねん - 1170ねん アルブレヒト1せい
1608ねん - 1619ねんヨーハン・ジギスムント
変遷へんせん
辺境へんきょうはくりょう建設けんせつ 1157ねん10がつ3にち
せんみかどこう1356ねん12月25にち
プロイセン公国こうこく同君どうくん連合れんごう1618ねん8がつ27にち
プロイセン王国おうこく1701ねん1がつ18にち
かみきよしマ帝国まていこく解散かいさんによる消滅しょうめつ1806ねん8がつ6にち
現在げんざいドイツの旗 ドイツ
ポーランドの旗 ポーランド

ブランデンブルクプロイセン歴史れきし
ノルトマルク
965ねん - 983ねん
プルーセン
先史せんし - 13世紀せいき
リューティチぞく英語えいごばん
983ねん - 12世紀せいき
ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう
1157ねん - 1618ねん(1806ねん
ドイツ騎士きしだんこく
1224ねん - 1525ねん
プロイセン公国こうこく
1525ねん - 1618ねん(1701ねん
おうりょうプロイセン
1454ねん / 1466ねん - 1772ねん
ブランデンブルク=プロイセン
1618ねん - 1701ねん
プロイセン王国おうこく
1701ねん - 1772ねん
プロイセン王国おうこく
1772ねん - 1918ねん
プロイセン自由じゆうしゅう
1918ねん - 1947ねん
クライペダ地方ちほう
1920ねん - 1939ねん / 1945ねん - 現在げんざい
回復かいふくりょう
1918ねん / 1945ねん - 現在げんざい
ブランデンブルクしゅう
1947ねん - 1952ねん / 1990ねん - 現在げんざい
カリーニングラードしゅう
1945ねん - 現在げんざい
現在げんざいのブランデンブルクしゅうはた

ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう(ブランデンブルクへんきょうはくりょう、ドイツ: Mark/Markgrafschaft Brandenburg)は、かみきよしマ帝国まていこくせんみかどこう一人ひとりであるブランデンブルク辺境へんきょうはく所領しょりょう領地りょうち現在げんざいブランデンブルクしゅうだい部分ぶぶんベルリン、およびポーランド一部いちぶ相当そうとうする。

地理ちり[編集へんしゅう]

ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう中央ちゅうおうヨーロッパ北部ほくぶ存在そんざいした。ラウジッツ辺境へんきょうはくりょうオットー1せい買収ばいしゅうしたさい領土りょうどもっとひろくなり、きたバルト海ばるとかいみなみルサス高地こうち最大さいだい版図はんと記録きろくしたが、永続えいぞくてき領土りょうど保持ほじすることはできなかった[1]

ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう量的りょうてきには37,455km²と16世紀せいき以来いらい神聖しんせいマ帝国まていこくりょうくに国家こっかなか最大さいだい領土りょうど保有ほゆうした国家こっかひとつであり、やく35,000km²のザクセンせんみかどほうりょう匹敵ひってきした[2]

対外たいがい関係かんけい[編集へんしゅう]

かみきよしマ帝国まていこくないにおける社会しゃかいてき経済けいざいてき立場たちば非常ひじょうよわかったにもかかわらず、ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう帝国ていこくないにおいて重要じゅうようしゅう発展はってんし、17世紀せいきからはホーエンツォレルン拡大かくだいとともに権力けんりょく強化きょうかしていった。また、周辺しゅうへんりょうくに国家こっか辺境へんきょうはくりょう拡大かくだいくるしめられた。

ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう南部なんぶのザクセンせんみかどこうりょう密接みっせつ関係かんけい維持いじした。ザクセンは中世ちゅうせい以来いらいブランデンブルクの重要じゅうようなパートナーでありライバルであった。

スラヴじんによって統治とうちされたポメラニア中世ちゅうせいよりほとんどつね武力ぶりょく紛争ふんそう状態じょうたいにあった。また、ポーランドとはプロイセン公国こうこくとの関係かんけいもとづいていた。ポーランドとの玄関げんかんこうフランクフルトであった。

輸出入ゆしゅつにゅうはほとんどハンブルク経由けいゆでおこなわれていた。商品しょうひんライプツィヒ・メッセ購入こうにゅう可能かのうであった。

人口じんこう[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいからさんじゅうねん戦争せんそう初期しょきにかけて、ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう人口じんこうは20まんにんから40まんにんへと増加ぞうかした。しかし、その人口じんこう増加ぞうか非常ひじょう不安定ふあんていであり、頻繁ひんぱん戦争せんそう疫病えきびょう飢饉ききんによって死亡しぼうりつたかかった。また、人口じんこう密度みつどつね神聖しんせいマ帝国まていこく平均へいきんよりもひくかった。さんじゅうねん戦争せんそうによりブランデンブルクの人口じんこうはかなり減少げんしょうし、それは17世紀せいきわりまでふたた改善かいぜんされなかった。その、18世紀せいき前半ぜんはん人口じんこう増加ぞうかはじめった。

ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう人口じんこう
とし 1320[3] 1486[4] 1564 1617 1634[5] 1690[6] 1750[7] 1800[7]
人口じんこう 200,000 308,750 381,000 418,666 300,000 413,516 767,354 1,124,806

歴史れきし[編集へんしゅう]

ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょうは、ザクセンこうであったアルブレヒトぐまおおやけ初代しょだいブランデンブルク辺境へんきょうはくとして1157ねん設置せっちされた。「エルベがわ東岸とうがんのスラヴじんしょ部族ぶぞく最終さいしゅうてき服属ふくぞくさせて」成立せいりつした領地りょうちである[8]。アルブレヒトぐまこう死後しご息子むすこオットー1せいがブランデンブルク辺境へんきょうはくとなり、ポーランドへと領地りょうちばした。13世紀せいきなかばの重要じゅうよう発展はってんとしては、ベルリン1242ねん)、フランクフルト・アン・デア・オーダー1253ねん)の開基かいきと、シュテッティンおよびウッカーマルクの獲得かくとく1250ねん)がげられる。

アスカーニエン1320ねん断絶だんぜつしたのちヴィッテルスバッハルートヴィヒ4せいがブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう獲得かくとく以降いこうヴィッテルスバッハ世襲せしゅうとなるも、1373ねんルクセンブルクカール4せいオットー5せい(ルートヴィヒ4せいの6なん)から辺境へんきょうはくりょう取得しゅとくし、長男ちょうなんヴェンツェルあたえた。

1415ねんホーエンツォレルンニュルンベルクじょうはくフリードリヒ6せい(ブランデンブルク辺境へんきょうはくとしてはフリードリヒ1せい)が神聖しんせいローマ皇帝こうていジギスムント(カール4せい次男じなん、ヴェンツェルの異母弟いぼてい)からブランデンブルクせんみかどこう獲得かくとくし、ベルリンを居城きょじょうとした。1539ねんにはヨアヒム2せいルター改宗かいしゅうした。ホーエンツォレルン17世紀せいき前半ぜんはんさんじゅうねん戦争せんそうころから台頭たいとうはじめ、勢力せいりょく拡大かくだいさせた。

1618ねんにはヨーハン・ジギスムント婚姻こんいん関係かんけいによってかみきよしマ帝国まていこく領域りょういきがいかつポーランドの封土ほうどであるプロシアおおやけりょうれ、同君どうくん連合れんごうブランデンブルク=プロイセン形成けいせいした。また、1648ねんにはヒンターポンメルン (de:Hinterpommern) (現在げんざいのポーランドりょう西にしポモージェけん)を獲得かくとくした。ホーエンツォレルン政治せいじてき影響えいきょうりょく拡大かくだいしようとつとめ、さらにフリードリヒ・ヴィルヘルムだいせんみかどこう)によって、デンマークスウェーデンポーランド王国おうこくたいする優位ゆうい主張しゅちょうしつつ、西部せいぶではフランス対立たいりつすることになる。北方ほっぽう戦争せんそうときにはプロシアおおやけりょうをポーランドの支配しはいから完全かんぜん独立どくりつさせた。

フリードリヒ・ヴィルヘルムだいせんみかどこうぼっするとフリードリヒ3せいがあとをいだ。かれスペイン継承けいしょう戦争せんそう神聖しんせいマ帝国まていこくがわき、その見返みかえりに1701ねんハプスブルクから帝国ていこくがいプロシアおおやけりょうおう(プロイセンおう)としての称号しょうごうみとめさせ、プロイセン王国おうこく成立せいりつした。この結果けっかブランデンブルクせんみかどこう地位ちいはプロイセンおう兼任けんにんされることになり、ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょうはプロイセン王国おうこく一部いちぶのようにあつかわれるようになる。ブランデンブルクせんみかどこうりょうプロイセン王国おうこく成立せいりつ形式けいしきじょう神聖しんせいマ帝国まていこくりょうくにとしてとどまったが、かみきよしマ帝国まていこく正式せいしき解体かいたいされた1806ねん正式せいしきにプロイセン王国おうこくりょうブランデンブルクしゅう英語えいごばんとなった。

そのブランデンブルクしゅう一貫いっかんしてドイツの中核ちゅうかくてきしゅうであったが、だい世界せかい大戦たいせん1945ねんオーデル・ナイセせんさかいとして、ひがしのポーランドりょう西にしのドイツりょう分割ぶんかつされた。1949ねん成立せいりつしたドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくは、1952ねんしゅう制度せいど廃止はいししてきゅうブランデンブルクしゅうでドイツがわのこっていた部分ぶぶんを、コトブスけん、フランクフルトけんポツダムけんに3分割ぶんかつした。

1990ねんドイツさい統一とういつ結果けっかブランデンブルクしゅう(ブンデスラント、Bundesland Brandenburg)が復活ふっかつした。

経済けいざい[編集へんしゅう]

農業のうぎょう[編集へんしゅう]

ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょうでは少数しょうすう貴族きぞく土地とちち、農民のうみん耕作こうさくする義務ぎむっていた。ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう土壌どじょう非常ひじょうわるく、小麦こむぎ栽培さいばいすることができなかったが、ライ麦らいむぎ大麦おおむぎ栽培さいばいできた[9]中世ちゅうせいになると、農民のうみんたちは家賃やちんはらうためにオートむぎなどの生産せいさん開始かいしした。

ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう農業のうぎょうは、ヨーロッパ全体ぜんたい経済けいざい変動へんどうと、それに対応たいおうする政治せいじてき出来事できごとおよび政府せいふ措置そち依存いぞんつづけた。13世紀せいきにかけて発生はっせいしただい飢饉ききん穀物こくもつ価格かかく下落げらくなどに農民のうみん農作物のうさくもつからの収益しゅうえき依存いぞんする貴族きぞくたちはくるしめられた。これらが農村のうそんから都会とかいへの移住いじゅううながし、農地のうち放棄ほうきされ、おおくのむら々が荒廃こうはいしていった[10]

貿易ぼうえき[編集へんしゅう]

可能かのうせいかぎられているのにもかかわらず、ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょうは1680ねん外洋がいよう貿易ぼうえき開始かいしした。最盛さいせいには年間ねんかん20〜30せきふねおくし、やく3000にんもの奴隷どれい販売はんばいし、西にしアフリカに複数ふくすう拠点きょてんをもった[11]。しかし、列強れっきょうとの競争きょうそうふね破損はそんとう次第しだい勢力せいりょくよわまり、最終さいしゅうてきフリードリヒ・ヴィルヘルム辺境へんきょうはく就任しゅうにんしたさい撤退てったいした[12]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Johannes Schultze: Die Mark Brandenburg. 1. Band. 4. Auflage, Duncker & Humblot, Berlin 2011, ISBN 978-3-428-13480-9, 15. Johann I. und Otto III. (1220–1267). a) Die Zeit der gemeinsamen Regierung, S. 136–154, Wollgast: S. 140–143; Bautzen und Görlitz: S. 140.
  2. ^ Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder – die deutschen Territorien vom Mittelalter bis zur Gegenwart, C.H.Beck, 7. Auflage, München 2007, für Bayern: S. 50, für Kurhannover: S. 252.
  3. ^ Marksteine – Eine Entdeckungsreise durch Brandenburg-Preußen. Katalog zur Eröffnungsausstellung des Hauses der Brandenburgischen Geschichte vom 18. August – 11. November 2001, Herausgegeben vom Haus der Brandenburgischen Geschichte beim Museumsverband des Landes Brandenburg e.V., Henschel Verlag, Berlin 2001, S. 26.
  4. ^ Otto Büsch, Wolfgang Neugebauer: Moderne Preussische Geschichte 1648–1947: Eine Anthologie (= Veröffentlichungen der Historischen Kommission zu Berlin, Band 52/1). Walter de Gruyter, Berlin / New York 1981, S. 291.
  5. ^ Büsch, Neugebauer (1981), S. 291.
  6. ^ Büsch, Neugebauer (1981), S. 291 dort: Bevölkerungsdichte Kurmark: 656 Menschen je QM, Neumark: 505 Menschen je QM zwischen 1680 bis 1700.
  7. ^ a b Bratring, Band 1, Band 2, Band 3.
  8. ^ 小澤おざわみのる薩摩さつましゅうとうはやし邦夫くにお辺境へんきょうのダイナミズム』(「ヨーロッパの中世ちゅうせい」3)岩波書店いわなみしょてん 2009(ISBN 978-4-00-026325-2)、145ぺーじ
  9. ^ Peter Knüvener, Dirk Schumann: Die Mark Brandenburg unter den frühen Hohenzollern. In: Beiträge zu Geschichte, Kunst und Architektur im 15. Jahrhundert, Schriften der Landesgeschichtlichen Vereinigung für die Mark Brandenburg. Band 5, Lukas Verlag, 1. Auflage, Berlin 2015, S. 20.
  10. ^ Peter Knüvener, Dirk Schumann: Die Mark Brandenburg unter den frühen Hohenzollern. In: Beiträge zu Geschichte, Kunst und Architektur im 15. Jahrhundert, Schriften der Landesgeschichtlichen Vereinigung für die Mark Brandenburg. Band 5, Lukas Verlag, 1. Auflage, Berlin 2015, S. 24.
  11. ^ Ingrid Mittenzwei, Erika Herzfeld: Brandenburg-Preußen 1648–1789 – Das Zeitalter des Absolutismus in Text und Bild. Verlag der Nation, 3. Auflage, Berlin 1990, S. 136 f.
  12. ^ Jahrbuch für Geschichte Lateinamerikas, Anuario de Historia de America Latina, Band 32, Heft 1, Seiten 257–302, ISSN (Online) 2194-3680, doi:10.7788/jbla-1995-0116 Kapitel: Amerikanische Kolonialwaren und Wirtschaftspolitik in Preußen und Sachsen: Prolegomena (17./18. und frühes 19. Jahrhundert), S. 266.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]