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回復かいふくりょう

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回復かいふくりょう (黄色おうしょく) 編入へんにゅうまえのポーランドのけん区分くぶん計画けいかく (1945ねん3がつ)
回復かいふくりょう編入へんにゅうのポーランドのけん区分くぶん (1946ねん6がつ)

回復かいふくりょう(かいふくりょう、ポーランド: Ziemie Odzyskane, 英語えいご: Recovered Territories:Regained Territories)は、だい世界せかい大戦たいせんのちソビエト連邦れんぽう傀儡かいらい政権せいけんであった共産きょうさん主義しゅぎポーランド人民じんみん共和きょうわこくが、1949ねんまで政治せいじプロパガンダとしてもちいていた地理ちりてき用語ようご[1]1949ねん以降いこう、この表現ひょうげん正式せいしきには使用しようされなくなった。これはソビエト連邦れんぽうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリスさんこくがポーランドのあたましにったヤルタ会談かいだん決定けっていによってドイツじん追放ついほうおこなわれ、大戦たいせん結果けっかとしてポーランド人民じんみん共和きょうわこくあらたに獲得かくとくした西方せいほう領土りょうど(ドイツがわからみた東方とうほう領土りょうどOstgebiete des Deutschen Reiches))をした[2]戦後せんごドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく西にしドイツ)東方とうほう領土りょうど領有りょうゆうけん放棄ほうきしていなかったが、公法こうほうにおいては1990ねんドイツさい統一とういつさいして締結ていけつされたドイツ・ポーランド国境こっきょう条約じょうやくにより、また私法しほうにおいては2008ねん欧州おうしゅう人権じんけん裁判所さいばんしょ決定けっていにより、領土りょうど問題もんだいとしては完全かんぜん解決かいけつしている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

該当がいとう地域ちいきには、西にしポモージェけん(きゅうポメラニア[3]およびシュテッティン)、ルブシュけんきゅうノイマルクNeumark)、オポーレけんドルヌィ・シロンスクけんきゅうシレジア、ただし、もともとポーランドりょうだったシレジア自治じちけんen:Autonomous Silesian Voivodeshippl:Autonomiczne województwo śląskie)の部分ぶぶんのぞく)などがふくまれ、「北部ほくぶ領土りょうど」には、グダニスクきゅうダンツィヒ)、ヴァルミア・マズールィけん[4]きゅうひがしプロイセンみなみ半分はんぶん)がふくまれる。

回復かいふく」という表現ひょうげんもちいられるのは、体制たいせいがわプロパガンダとして[5]西部せいぶおよび北部ほくぶ領土りょうど中世ちゅうせいピャストあさ以来いらいポーランドのわかちがたい一部いちぶであったという構図こうずしめし、ポーランド人民じんみん共和きょうわこくがその正当せいとう継承けいしょうしゃであることを主張しゅちょうするためであった[2][6][7][8][9]過去かこ領有りょうゆうとして強調きょうちょうされたのは、西部せいぶ領土りょうどについては中世ちゅうせい盛期せいきピャストあさ960ねんごろ - 1370ねん)の、建国けんこくにローマ教会きょうかい皇帝こうていから正式せいしき承認しょうにんけた国境こっきょうせんふくむいくつかの時期じきにおける領有りょうゆうであり、北部ほくぶ領土りょうどについては近世きんせいのいくつかの時期じきにおけるポーランドの宗主そうしゅけんレーエン)であった。ひがしヨーロッパへのドイツじん歴史れきしてき定住ていじゅう東方とうほう植民しょくみん)によって、なに世紀せいきにもわたりこれらの地域ちいきにドイツじんんでいたことについては、ドイツの継続けいぞくてき東方とうほうへの「侵略しんりゃく行為こうい結果けっかぎないとされた(東方とうほうへの衝動しょうどう[8][10][11]戦後せんごにおける住民じゅうみん強制きょうせい移住いじゅうは、公式こうしきには「本国ほんごく送還そうかん」とばれ[8]、かつてこの地域ちいき存在そんざいしていたドイツてき文化ぶんか伝統でんとうは、1989ねんのポーランド民主みんしゅによって公的こうてき歴史れきし認識にんしき転換てんかんおこなわれるまではかえりみられることなく否定ひていされることになった[12]

だい世界せかい大戦たいせんによるポーランドの領土りょうど変化へんか:
桃色ももいろ部分ぶぶん回復かいふくりょう灰色はいいろソ連それん併合へいごうされたきゅうポーランドりょう東部とうぶ西側にしがわえんあかるい緑色みどりいろせんオーデル・ナイセせん

だい世界せかい大戦たいせん回復かいふくりょうからは多数たすうのドイツじん脱出だっしゅつして西方せいほうったが(Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II)、一部いちぶのドイツけい住民じゅうみんはそのままとどまっていた。しかし、かれらもやがてほとんどが追放ついほうされることになり、わってポーランドじん地域ちいきからどんどんとはいってたが[13][14][14]、それでもごく少数しょうすうのドイツけい住民じゅうみんはポーランド国籍こくせきドイツけいポーランドじんとして一部いちぶ地域ちいき残留ざんりゅうした。この地域ちいきはいってきたポーランドじんおおくは、ポーランド中部ちゅうぶ戦時せんじちゅうのがれていた国外こくがいから自由じゆう意志いしでやってていたが、ポーランド当局とうきょくは、ウクライナじんなど国内こくない少数しょうすう民族みんぞく集団しゅうだん強制きょうせいてき分散ぶんさん移住いじゅうさせ(ヴィスワ作戦さくせんOperation Vistula)、また、ソ連それん併合へいごうされたきゅうポーランドりょう東部とうぶ(Territories of Poland annexed by the Soviet Union)の住民じゅうみん回復かいふくりょうに「本国ほんごく送還そうかん」して、こうした地域ちいきのポーランドたしかなものにした[13][14][15][16]

1950ねんドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく (ひがしドイツ)ズゴジェレツ条約じょうやくオーデル・ナイセせん正式せいしき国境こっきょうとして承認しょうにんし、ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく (西にしドイツ)も、1970ねんワルシャワ条約じょうやくでこれに同意どういした。さらに統一とういつドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく1990ねんドイツ・ポーランド国境こっきょう条約じょうやく(German-Polish Border Treaty締結ていけつして、オーデル・ナイセせん国境こっきょうとすることをさい確認かくにんしている。

地域ちいき[編集へんしゅう]

ポーランドのけん区分くぶん (1999ねん以降いこう)
北西ほくせいすみ緑色みどりいろ西にしポモージェけん
ひがしへ、ポモージェけん(桃色ももいろ)、ヴァルミア・マズールィけん(緑色みどりいろ)
みなみへ、ルブシュけん(茶色ちゃいろ)、ドルヌィ・シロンスクけん(黄色おうしょく)、オポーレけん(緑色みどりいろ)、シロンスクけん(桃色ももいろ)
回復かいふくりょう(深緑しんりょくしょく)と現在げんざいけん区分くぶんかさねた地図ちず

西部せいぶ領土りょうど」を構成こうせいするのは、以下いかかく地方ちほうである。

北部ほくぶ領土りょうど」を構成こうせいするのは、以下いかかく地方ちほうである。

ドイツが戦後せんごうしなった領土りょうど: 黄色おうしょくがポーランドりょうとなった地域ちいき灰色はいいろきゅう自由じゆう都市としダンツィヒ領域りょういき。ポーランドの立場たちばからればその両者りょうしゃあわせたものが回復かいふくりょうである。
なお、地図ちずじょうのオレンジしょく地域ちいきカリーニングラードしゅうとしてソ連それん併合へいごうされ、ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい現在げんざいでも飛地とびちとしてロシア連邦れんぽうりょうにとどまっている。

プロイセンりょう〜ドイツりょう時代じだい西にしプロイセンしゅうは、だいいち世界せかい大戦たいせんのちにそのだい部分ぶぶんがポーランドりょう編入へんにゅうされたが、一部いちぶはドイツがわのこっていた(ひだりの1および10の地域ちいき)。このうちきゅう自由じゆう都市としダンツィヒ隣接りんせつする部分ぶぶん北部ほくぶ領土りょうどのこりの部分ぶぶん西部せいぶ領土りょうどまれた。

以上いじょうのほか、戦後せんごにおけるポーランドの行政ぎょうせい区画くかく変更へんこうによって、きゅうドイツ領土りょうど一部いちぶけん帰属きぞくするかたちになっている場所ばしょがいろいろある(「回復かいふくりょう現在げんざいけん区分くぶんかさねた地図ちず」を参照さんしょう)。

冷戦れいせん時代じだい政策せいさく[編集へんしゅう]

冷戦れいせん時代じだい回復かいふくりょう以下いか経緯けいいをたどった。

用語ようご回復かいふくりょう」の起源きげん普及ふきゅう[編集へんしゅう]

民族みんぞく国家こっか傘下さんかおさめ、広大こうだい範囲はんいおよんだヤギェウォあさ最盛さいせい ( 1500ねんごろ) の版図はんと (あかせんわくない)

回復かいふくりょう」は、だい世界せかい大戦たいせんのちに、ポツダム協定きょうていもとづいてポーランドに併合へいごうされたドイツの東方とうほう領土りょうど表現ひょうげんとしてつくされ、公式こうしきもちいられたプロパガンダ用語ようごであった[2][5]。その根底こんていにあるかんがかたは、戦後せんごのポーランドを、中世ちゅうせいピャストあさポーランド王国おうこく継承けいしょうしゃ位置いちづけ[6][7][8]、さらに、戦後せんご国境こっきょうせん適合てきごうする民族みんぞくてき均質きんしつ国家こっかとみなす単純たんじゅんをして[9]後年こうねんヤギェウォあさポーランド(1386ねん - 1572ねんないし1596ねん)のような、民族みんぞく国家こっかとして東方とうほうひろがった姿すがた否定ひていするものであった[22]戦後せんごのポーランドが、ヤギェウォあさではなくピャストあさげた理由りゆうのひとつは、ソ連それんスターリンカーゾンせんからの撤退てったい拒否きょひする状況じょうきょうもとで、連合れんごう諸国しょこくが、ポーランドを満足まんぞくさせるためにはわりにドイツの領土りょうどあたえてもよいとかんがえていたという事情じじょうがあった[23]きゅうドイツ領土りょうどを、いわば補償ほしょうとして、ポーランドにあたえるという元々もともと議論ぎろんは、やがて、当該とうがい地域ちいき実際じっさいに「かつてのポーランドりょう」であるという議論ぎろんによって補強ほきょうされるようになった[24]ピャストあさ時代じだい強調きょうちょうされたのは、ポーランドじんたちが民族みんぞく国家こっかではなく民族みんぞくてき均質きんしつ国家こっか創設そうせつのぞんだためでもあった[25][22]。さらに、ピャストあさがポーランドをドイツじんからまもったと認識にんしきされていたのにたいし、ヤギェウォあさ対抗たいこうした相手あいて興隆こうりゅう途上とじょうモスクワ大公たいこうこくだったことは、ソ連それん影響えいきょうかれた戦後せんごポーランドの状況じょうきょうなかげるには、ふさわしくない要素ようそであった[23][22]ポーランド人民じんみん共和きょうわこく政府せいふも、ポーランド労働ろうどうしゃとうも、いにしえのピャストあさ領土りょうどもとづいたポーランド国家こっかという理念りねん支持しじ[23][25]小農しょうのう国家こっか主義しゅぎしゃなど戦前せんぜんからの反対はんたい勢力せいりょくさえんだ[8]実際じっさい回復かいふくりょうをめぐる問題もんだいは、当時とうじのポーランドの共産きょうさん主義しゅぎしゃたちと、それに対抗たいこうする民族みんぞく主義しゅぎしゃたちを分断ぶんだんしない、数少かずすくない論点ろんてんのひとつであり、西部せいぶ国境こっきょうかんしてりょう陣営じんえい意見いけん一致いっちしていた。地下ちか出版しゅっぱんされていた、民族みんぞく主義しゅぎ反共はんきょう新聞しんぶんさえもが、「ドイツ終止符しゅうしふち、東方とうほうへの衝動しょうどう永遠えいえんるため」として、ピャストあさ時代じだい国境こっきょう要求ようきゅうした[26]。これによりポーランドは歴史れきしじょうはじめて、ポーランドを母語ぼごとする人々ひとびとによる、文化ぶんかてきにきわめて均質きんしつ国家こっかとなり、民族みんぞく社会しゃかい由来ゆらいした国内こくない様々さまざま社会しゃかい対立たいりつ根元ねもとからのぞかれた。いっぽう、ポーランドの社会しゃかいには共産きょうさん主義しゅぎにも民族みんぞく主義しゅぎにもくみしないだいさん勢力せいりょく存在そんざいした。それはポーランド伝統でんとう穏健おんけん主義しゅぎ勢力せいりょくであり、ロンドンポーランド亡命ぼうめい政府せいふがそれを代表だいひょうした。かれらは地下ちか教育きょういくネットワークを構築こうちくし、「固有こゆう領土りょうど」という公式こうしき民族みんぞく主義しゅぎてき歴史れきし認識にんしき対抗たいこうして、国民こくみんただしい歴史れきし認識にんしきおしつづけた。かれらはポーランド自由じゆう大学だいがく協会きょうかい設立せつりつして秘密ひみつ通信つうしん教育きょういく秘密ひみつ移動いどう図書館としょかんなどの事業じぎょうつづけ、1970年代ねんだいわりには「そら大学だいがく」を設立せつりつ運営うんえいして「固有こゆう領土りょうどろん陳腐ちんぷなものであり、西方せいほう領土りょうど人々ひとびと強制きょうせい移住いじゅうさせられげんにそこにんでいるという現実げんじつかんが法的ほうてき粛々しゅくしゅく解決かいけつすべき問題もんだいであること、それにはヨーロッパ全体ぜんたい平和へいわ社会しゃかい統合とうごう経済けいざい統合とうごう前提ぜんていとなることがおしえられた。

ピャストあさボレスワフ1せい(在位ざいい: 992ねん - 1025ねん)治世ちせいポーランド王国おうこく版図はんと
992ねんのポーランド公国こうこくりょう桃色ももいろ
1025ねんのポーランド王国おうこく国境こっきょうあかせん
ピャストあさボレスワフ3せいクシヴォウスティぼっした1138ねん時点じてんでのポーランド王国おうこく版図はんと (1917ねん出版しゅっぱん地図ちず)

共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいがわによる「ピャストあさ領土りょうど回復かいふく」という見解けんかいのプロパガンダには、おおきな努力どりょくはらわれ、カトリック教会きょうかい活発かっぱつにこれを支援しえんした[27]。この歴史れきしかん普及ふきゅうには、学術がくじゅつにも責任せきにんがあった。1945ねん西方せいほう研究所けんきゅうじょ(pl:Instytut Zachodnien:Western Institute)が創設そうせつされ、学術がくじゅつ活動かつどう調整ちょうせいするようになった。初代しょだい所長しょちょうジグムント・ヴォイチェホフスキpl:Zygmunt Wojciechowskien:Zygmunt Wojciechowski)は、その使命しめいについて「我々われわれは、いわゆる客観きゃっかんてき歴史れきし編纂へんさん目指めざしてはいない。我々われわれ使命しめいは、なに世紀せいきにもわたるポーランドの歴史れきし提示ていじし、そのかく世紀せいきについての現在げんざい政治せいじてき現実げんじつを、歴史れきしてき背景はいけいうえ投影とうえいすることである。」とべていた[28]体制たいせいがわぞくする歴史れきし学者がくしゃ考古こうこ学者がくしゃ言語げんご学者がくしゃ美術びじゅつ史家しか民族みんぞく学者がくしゃらが学際がくさいてきに恊働して、あらたな国境こっきょうせん正当せいとうんだ[29]かれらの知見ちけんは、無数むすうのモノグラフや学術がくじゅつ教科書きょうかしょ旅行りょこうガイド、放送ほうそう展覧てんらんかいなどによって、普及ふきゅうすすめられた[30]ピャストあさ初期しょき王侯おうこうたちの時代じだいのポーランドの版図はんとしめ公式こうしき地図ちずも、あらたな国境こっきょうせん整合せいごうするようにえがかれた[8]ノーマン・デイヴィスによれば、戦後せんごわか世代せだい公式こうしき教育きょういくによって誘導ゆうどうされ、ポーランド人民じんみん共和きょうわこく領域りょういきなに世紀せいきにもわたってポーランド国民こくみん発展はってんさせてきたものであるとおもむように仕向しむけられたという。おおやけ教育きょういくにおいて戦後せんご世代せだいはさらに、外国がいこくじんによって長期間ちょうきかん占領せんりょうされることはあっても、あるいは、政治せいじじょう国境こっきょう移動いどうすることがあっても、ポーランドじんの「祖国そこく」はつねおな場所ばしょにありつづけたのだとおしえられていた[31]おおやけ教育きょういくにおける歴史れきし認識にんしきは、ポーランドじんは、歴史れきしのいつの時代じだいにおいても「回復かいふくりょう」に定住ていじゅうするうばわれることのない絶対ぜったいてきかつ必然ひつぜんてき権利けんりっており、優越ゆうえつする勢力せいりょくによってその権利けんり行使こうしさまたげられることはあったとしても、権利けんり存在そんざいしたとするものであった[31]

回復かいふくりょうだい部分ぶぶんは、なに世紀せいきにもわたってプロイセンドイツ支配しはいにあったが、戦後せんごのポーランドのおおやけ教育きょういくにおいては、こうした歴史れきしてき出来事できごとは、「郷土きょうどではなく、「外国がいこく一部いちぶであると認識にんしきされていた[32]。ポーランドの学者がくしゃたちは、中世ちゅうせいピャストあさ時代じだい地方ちほうや、ポーランドの文化ぶんか政治せいじ経済けいざいてき紐帯ちゅうたいプロイセンにおけるポーランド話者わしゃ歴史れきし中世ちゅうせい以来いらい歴史れきしてき一貫いっかんした運動うんどうとしての「東方とうほうへの衝動しょうどう」などの課題かだい努力どりょく集中しゅうちゅうした[33]

しかし「回復かいふくりょう」という表現ひょうげんは、共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん公的こうてき用語ようごとしては1949ねんまでに姿すがたした。その一般いっぱんてき通用つうようする「俗語ぞくご」として、現在げんざいいたるまで使つかわれつづけている[34]ものの、これらの地域ちいきは、ポーランドの国家こっか体制たいせいなかで、特異とくいせいのある領土りょうどであるとなすべきではないというかんがかたもとづいて、近年きんねんでは「西部せいぶ北部ほくぶ領土りょうど」という表現ひょうげんもちいられている[34][35]

回復かいふくりょう」のポーランド[編集へんしゅう]

ドイツとのあらたな国境こっきょうてられるポーランドがわ標識ひょうしき (1945ねん)

共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいがわにとっては、ピャストあさ後継こうけいしゃとしてポーランド人民じんみん共和きょうわこく確立かくりつしていくことと平行へいこうして、あらたなフロンティアには、それに見合みあった人口じんこう確保かくほされなければならなかった[8]東部とうぶ辺境へんきょう領土りょうど(Kresy Wschodnie)がソ連それん併合へいごうされたため、ポーランドは結果けっかてき全体ぜんたい西にし移動いどうし、面積めんせきは 389,000 km2 から 312,000 km2 へ、およそ20%減少げんしょうした[36]なにひゃくまんにんもの「ポーランドじん」(おもにドイツじんとウクライナじん)が、あらたにポーランドとなった地域ちいきから追放ついほうされ、他方たほうではカーゾンせん以東いとうにいたポーランドじんたちが東部とうぶ辺境へんきょうから追放ついほうされてながんできた。追放ついほうしゃたちは「本国ほんごく送還そうかんしゃ」とばれていた[8]。その結果けっか、ヨーロッパの歴史れきしなかでも最大さいだい規模きぼ住民じゅうみんえがおこなわれることになった[8]ピャストあさ版図はんと回復かいふくしたあらたな西部せいぶ北部ほくぶ領土りょうど姿すがたは、ポーランドじん入植にゅうしょくしゃや、ポーランドじん本国ほんごく帰還きかんしゃ」たちに、そこへ到達とうたつして、しん体制たいせい忠実ちゅうじつ組織立そしきだったコミュニティづくりに参加さんかすることをうなが[37]先行せんこうしておこなわれた当該とうがい地域ちいきでの民族みんぞく浄化じょうか正当せいとうした[8]。ドイツじん脱出だっしゅつ追放ついほう結果けっか当地とうちのこったのは「先住民せんじゅうみん」である、マズールィ(マスリア)(Masuria)地方ちほうマスリアじん(Masurians)、ポメラニア地方ちほうカシュビアじん (Kashubians) やスロビンシアじん (Slovincians)、うえシレジア地方ちほう (Upper Silesia) のシレジアじん (Silesians) など、300まんにんちかいスラブけい人々ひとびとで、かれらの先祖せんぞポーランド分割ぶんかつよりもまえ時代じだいの、中世ちゅうせいおよび近代きんだいのポーランド国家こっかぞくしていたことがあったが、この時代じだいにはみずからが現代げんだいポーランド国家こっか国民こくみんだというアイデンティティはもっていないものおおかった[38]。ポーランド政府せいふは、プロパガンダのために、こうした先住民せんじゅうみんたちができるだけ現地げんちまるようにつとめた。きゅうドイツりょうにおけるかれらの存在そんざいは、地域ちいき固有こゆうの「ポーランドらしさ」をしめすものであるとされ、その地域ちいき回復かいふくりょうとしてポーランド国家こっか併合へいごうすることを正当せいとうするものとされていた[38]先住民せんじゅうみんたちの「かくされたポーランドらしさ」をあきらかにし、ポーランド市民しみんとしてふさわしいいのもの選別せんべつする、「確認かくにん」と「国民こくみん復帰ふっき」の過程かてい用意よういされ、それにはじかれたごく少数しょうすう人々ひとびと本当ほんとう追放ついほうされた[38]。「先住民せんじゅうみん」たちはこの主観しゅかんてきでしばしば恣意しいてき確認かくにん作業さぎょうきらっていたが、それをえたのちでも、差別さべつ直面ちょくめんすることがあった[39]をポーランドつづりにするよう強要きょうようしたことなども、そのいちれいである[40]行政ぎょうせい事務じむじょう理由りゆうから、リストで指定していされた男女だんじょめいそれぞれすうじゅう種類しゅるいから選択せんたくすることが法律ほうりつさだめられており、その法律ほうりつはポーランド民主みんしゅの1990年代ねんだいでもしばらくのあいだつづいていた。せいについては、ドイツけいせいをポーランドふうつづりにえるものもいたが、そのままのこすこともゆるされていた。そのためポーランドにはドイツけいせい数多かずおお存在そんざいする)。ルブシュけん当局とうきょくは 、1948ねん時点じてんで、中央ちゅうおう当局とうきょく発見はっけんしたと主張しゅちょうしている「先住民せんじゅうみん」ポーランドじんたちは、戦前せんぜん国境こっきょうせっしていたバビモスト(Babimost)むら住民じゅうみん唯一ゆいいつ例外れいがいとして、いずれも19世紀せいきまつから20世紀せいきはじめに地域ちいきから移住いじゅうしてきたポーランドじん労働ろうどうしゃドイツしたものにぎない、ということをみとめていた[41]

ドイツけい住民じゅうみん追放ついほう文化ぶんかてき遺産いさん除去じょきょ[編集へんしゅう]

ルビョンシュ修道院しゅうどういん協同きょうどう教会きょうかいにあった、1680ねんごろ聖歌せいかたいせき
からっぽになったルビョンシュ修道院しゅうどういん協同きょうどう教会きょうかい
ルビョンシュ修道院しゅうどういんのバロック装飾そうしょく内装ないそう撤去てっきょされ、ポーランド中央ちゅうおう移送いそうされた。聖歌せいかたいせきルブリンけんむらStężycaにある。修道院しゅうどういんは、シレジアにおける東方とうほう植民しょくみん貴重きちょう証拠しょうこである。

回復かいふくりょうには、併合へいごうのちにもかなりのかずのドイツけい住民じゅうみんのこっていた。終戦しゅうせん国民こくみん統一とういつ臨時りんじ政府せいふ当局とうきょくは「回復かいふくりょう担当たんとうしょう」を設置せっちし、ふく首相しゅしょうヴワディスワフ・ゴムウカ兼任けんにん担当たんとう大臣だいじんとした[42]。「本国ほんごく送還そうかんきょく」が、住民じゅうみん追放ついほうさい定住ていじゅう監督かんとく組織そしきした。1946ねん2がつ14にち国勢調査こくせいちょうさによれば、この時点じてんでポーランドにはまだ228.8まんにんのドイツじんとどまっており、そのおよそ91%に相当そうとうする207.5まんにんは、回復かいふくりょうんでいた。この段階だんかいで、ドイツじん回復かいふくりょう人口じんこうの41%をめていた。ところが、1950ねんには、国内こくないのドイツじんはわずか20まんにん急減きゅうげんし、1957ねんには6.5まんにんにまで減少げんしょうしてしまった[43]

だい世界せかい大戦たいせん回復かいふくりょうからは多数たすうのドイツじん脱出だっしゅつして西方せいほうったが (Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II) 、それにつづいたのは、なに世紀せいきものあいだきざまれたドイツの歴史れきし文化ぶんかを、おおやけれる場所ばしょから一掃いっそうするというだい規模きぼなキャンペーンであった。オハイオ大学だいがくT・デイヴィッド・カープ (T. David Cup) は、これをつぎのように説明せつめいしている:

ポーランドの政権せいけん人民じんみんとカトリック教会きょうかいは、相互そうご努力どりょくしながら、より徹底的てっていてき攻撃こうげきてきに、人物じんぶつ場所ばしょ・モノから民族みんぞくせい消去しょうきょすることにみ、かく地方ちほうのドイツじん歴史れきし上書うわがきして消去しょうきょし、ポーランドの過去かこを、ポーランドじん記憶きおくという抽象ちゅうしょうてき領域りょういきにとどまらず、物理ぶつりてき物体ぶったい領域りょういきにおいて称揚しょうようした。 — [41]

1946ねん1がつに、あたらしい公式こうしき地名ちめいさだめるために地名ちめい決定けってい委員いいんかい設置せっちされた[44]以降いこう1950ねんすえまでに、3まんけん以上いじょうのドイツ地名ちめいが、ポーランド地名ちめいえられるか[15]、ポーランドした中世ちゅうせいスラブ地名ちめいえられた[45][46]。スラブ地名ちめい存在そんざいしていなかった場合ばあいには、ドイツ地名ちめい翻訳ほんやくするか、まったあらたな地名ちめい創出そうしゅつされた[47]。ドイツに関係かんけいのある名称めいしょうたとえばドイツのまちにちなんで命名めいめいされた道路どうろ名称めいしょうなどは、あたらしい名称めいしょうあたえられた[48]

公立こうりつ学校がっこう政府せいふメディア、教会きょうかい典礼てんれいにおけるドイツ使用しよう禁止きんしされた[15][46]。ドイツじん関係かんけいした記念きねんはか建物たてもの建物たてものぐんなども、多数たすう破壊はかいされた[49]美術びじゅつひんは、国内こくないほか場所ばしょうつされた[50]文化財ぶんかざいなどの撤去てっきょ組織そしきてきおこなうために、集積しゅうせきしょ設定せっていされることもあった[51]はやくも1945ねんのうちに、貨車かしゃ28だいぶん、トラック118だいぶんにのぼる、膨大ぼうだいりょうのシレジアの美術びじゅつひんが、ワルシャワ国立こくりつ美術館びじゅつかん (pl:Muzeum Narodowe w Warszawieen:National Museum, Warsaw) におくられた[51]。プロテスタント教会きょうかいは、カトリック教会きょうかい改装かいそうされるか、教会きょうかい以外いがい用途ようと転用てんようされるか、カトリック教会きょうかい建築けんちく用材ようざいるために解体かいたいされた[52]。ドイツしるされた文章ぶんしょうは、教会きょうかい墓地ぼちなど宗教しゅうきょうてきなものにしるされていた文言もんごんふくめてすべてされた[53]ルブシュ地方ちほう (pl:Ziemia lubuskaen:Ziemia Lubuska)[54]では、最後さいごまでのこったドイツ文化ぶんか痕跡こんせきさがして破壊はかいするための「社会しゃかい主義しゅぎてき競技きょうぎかい」が開催かいさいされたという[53]。シレジア地方ちほうでは、こうしたみによってしょうじた損害そんがいは、だい世界せかい大戦たいせんによってしょうじた損害そんがい匹敵ひってきするものであった[55]

さい定住ていじゅう[編集へんしゅう]

1939ねんのドイツの国勢調査こくせいちょうさによると、のちにポーランドの回復かいふくりょうとなった地域ちいきには、もっとひがし分布ぶんぷするドイツ国内こくない少数しょうすう民族みんぞくだったポーランドけい住民じゅうみんわせて、885.5まんにんであった[56]。ドイツの国勢調査こくせいちょうさではポーランド話者わしゃかずを、多言たげん話者わしゃふくめて70まんにん未満みまんとしているが、 ポーランドの人口じんこう学者がくしゃたちは、きゅうドイツりょうにおけるポーランドじん実際じっさいかずは120まんにん[56]ないし130まんにん[57]たっしていたと推計すいけいしている。120まんにんとしている推計すいけいによれば、そのうち、およそ85まんにんうえシレジア地方ちほう、およそ35まんにんひがしプロイセン南部なんぶんでおり、その地域ちいきわせて、さらに5まんにん程度ていど地域ちいきひろがっていたとされている[56]

ポーランド国内こくない各地かくちからやって人々ひとびとは、たちまちドイツけい住民じゅうみんあなめ、追放ついほう平行へいこうして転入てんにゅう進行しんこうした。入植にゅうしょくしゃだいいちじんは、1945ねん3がつにはすでに到来とうらいしていたという[58]かれらは、まだ赤軍せきぐん展開てんかいしている時点じてんから、戦前せんぜん国境こっきょうちかいところで、放棄ほうきされた農場のうじょう村落そんらくはいんでそれをれていた[58]入植にゅうしょくしゃくわえ、のポーランドじんたちもやって略奪りゃくだつ行為こうい加担かたんし、すぐさま同様どうよう事態じたいきゅうドイツりょう全域ぜんいきひろがった[58]1945ねん3月30にち、「グダニスクけん」が設置せっちされ、回復かいふくりょうでは最初さいしょの、ポーランドの地方ちほう行政ぎょうせいたい成立せいりつした[59]。ドイツじんたちが次々つぎつぎ収容しゅうようされ、追放ついほうされていくなかで、500まんにんちか入植にゅうしょくしゃたちが[14][60]、あるいはこの地域ちいきせられて、あるいは強制きょうせいされて、1945ねんから1950ねんあいだにやってたということになる。さらに、110.4まんにんきゅうドイツりょう時代じだいからの住民じゅうみん(うち85.1まんにんうえシレジア)が、ポーランド国籍こくせきみとめられて残留ざんりゅうゆるされた。この結果けっか回復かいふくりょうにおけるポーランドじん人口じんこうは、1950ねんには 5,894,600にんたっした[56]入植にゅうしょくしゃたちは背景はいけいちがいによって以下いかのような集団しゅうだんけてとらえることができる。

  • ポーランド中部ちゅうぶから、自由じゆう意志いしによって移動いどうしてきた入植にゅうしょくしゃ多数たすう)。[14]
  • ナチス・ドイツ強制きょうせい労働ろうどうから解放かいほうされたポーランドじん最大さいだいで200まんにん)。[13][14]
  • いわゆる「本国ほんごく送還そうかんしゃ」: ソ連それん併合へいごうされたきゅうポーランドりょうから追放ついほうされたポーランドじんで、あらたに西部せいぶ国境こっきょう地帯ちたい入植にゅうしょくすることをえらんだしゃ当地とうちでは人口じんこうの26%をめたともされる(最大さいだいで200まんにん)。[13][14]
  • 1947ねんヴィスワ作戦さくせん移住いじゅう強制きょうせいされたポーランドじん
    • ポーランド政府せいふのこの作戦さくせんは、東方とうほうへの追放ついほうまぬかれてポーランド南東なんとうとどまっていたウクライナじん多数たすう移住いじゅう強制きょうせいし、あらたに獲得かくとくした領土りょうど各地かくち分散ぶんさんさせて、最終さいしゅうてきにはポーランドじん同化どうかさせることをねらったものであった。
    • ビャウィストク周辺しゅうへん地域ちいきんでいたベラルーシじんも、同様どうよう理由りゆうで、きゅうドイツりょう地域ちいき移住いじゅうするよう圧力あつりょくをかけられていた。
    • このようにポーランドじん各地かくち分散ぶんさんさせるという政策せいさくは、ポーランド当局とうきょくが、ウクライナじん、ベラルーシじんレムコじんなどにたいして[61]独自どくじ民族みんぞくアイデンティティを解体かいたいし、強固きょうこなコミュニティを形成けいせいさせないために同族どうぞく交流こうりゅう困難こんなんにすることを目的もくてきとしてったものであった
  • すうまんにんユダヤじんホロコースト生存せいぞんしゃ。そのだい部分ぶぶん東方とうほうからの「本国ほんごく送還そうかんしゃ」(en:Repatriation of Poles)で、ほとんどがしもシレジアに定住ていじゅうし、ユダヤけい企業きぎょう各種かくしゅ組織そしきおこした。ヴロツワフドルヌィ・シロンスクけん)、シュチェチン西にしポモージェけん)、ヴァウブジフドルヌィ・シロンスクけん)には、だい規模きぼなコミュニティがあった[62]。しかし、だい多数たすうのユダヤじんは、1968ねん当時とうじ共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんいとだい規模きぼはんユダヤじん運動うんどうこった時期じき (en:Polish_1968_political_crisis#Antisemitic_purges) に国外こくがいった[63]

当時とうじ、ポーランドやソ連それん新聞しんぶん役人やくにんは、ポーランドじんに「チャンスにめぐまれた土地とち」である西方せいほう移住いじゅうするよう奨励しょうれいしていた[14]。こうしたあたらしい領土りょうどは、逃亡とうぼうしたドイツじんたちが放棄ほうきした贅沢ぜいたく邸宅ていたくが、勇敢ゆうかんなる入植にゅうしょくしゃっている、とか、家具かぐきのいえ仕事しごとはいる、というふう表現ひょうげんされていた。しかし実際じっさいには、これらの地域ちいき戦争せんそうによって荒廃こうはいしており、インフラストラクチャーはほとんど破壊はかいされ、たか犯罪はんざいりつ略奪りゃくだつ行為こうい横行おうこうなやまされていた。治安ちあん回復かいふくされるまでには、なんねんもの時間じかん必要ひつようだった。

1970ねん西部せいぶ北部ほくぶ領土りょうどにおける人口じんこうが、はじめて戦前せんぜん水準すいじゅんならんだ(1970ねん - 8,711,900にん: 1939ねん - 8,855,000にん)。同年どうねんには、ポーランドのほか地域ちいき人口じんこう戦前せんぜん水準すいじゅんたっした(1970ねん - 23,930,100にん: 1939ねん - 23,483,000にん[56]

西部せいぶ北部ほくぶ領土りょうど残留ざんりゅうするドイツけい住民じゅうみんすう推計すいけい様々さまざまなものがあるが、戦後せんご追放ついほうのちにもドイツけい住民じゅうみん脱出だっしゅつつづいていたことははっきりしている。1956ねんから1985ねんまでのあいだシレジア出身しゅっしんしゃ40.7まんにんヴァルミア・マズールィけん出身しゅっしんしゃおよそ10まんにんが、ドイツ国籍こくせき獲得かくとくしてドイツへと出国しゅっこくした[56]

今日きょうでは、西部せいぶ北部ほくぶ領土りょうど人口じんこうのほとんどはポーランドじんであるが、ちいさなドイツけい住民じゅうみんしょう集団しゅうだんも、オルシュティンマズールィ地方ちほう(いずれもヴァルミア=マズールィけん)、うえシレジアのとくオポーレけんなどの少数しょうすう場所ばしょ存在そんざいしている。

共産きょうさん主義しゅぎしゃ政権せいけん獲得かくとくにおける回復かいふくりょう役割やくわり[編集へんしゅう]

ヴワディスワフ・ゴムウカ
のちポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとう指導しどうしゃとなる

民主みんしゅ主義しゅぎてき正当せいとうせい裏付うらづけをき、赤軍せきぐん保安ほあんしょう秘密ひみつ警察けいさつ支持しじ、テロとプロパガンダだけをささえとしていた共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんは、はんドイツのプロパガンダをとおして自己じこ正当せいとうはかった[64]。ドイツの「報復ほうふく主義しゅぎ」が、恒久こうきゅうてきなドイツからの脅威きょういとして喧伝けんでんされ、共産きょうさん主義しゅぎしゃだけがポーランドの永続えいぞくてき回復かいふくりょう確保かくほ補償ほしょうし、保護ほごるのだとする主張しゅちょう展開てんかいされた。当時とうじ国民こくみん統一とういつ臨時りんじ政府せいふふく首相しゅしょうけん回復かいふくりょう担当たんとうしょうだったヴワディスワフ・ゴムウカは、1945ねん5月のポーランド労働ろうどうしゃとう中央ちゅうおう委員いいんかいで、つぎのように断言だんげんしている。

西部せいぶ領土りょうど存在そんざいは、政府せいふ人民じんみん支持しじている理由りゆうのひとつである。それは対立たいりつする多様たよう要素ようそ中和ちゅうわし、人民じんみんをひとつにする。西方せいほうへの拡大かくだい農業のうぎょう改革かいかくは、国民こくみん国家こっかつよむすびつけるだろう。いかなる退却たいきゃくも、我々われわれ国内こくないにおける立場たちば弱体じゃくたいさせかねない。 — [15][65]

当時とうじ政権せいけんによる、「所有しょゆうしゃうしなった資産しさん」の人民じんみんへのさい分配ぶんぱいは、幅広はばひろそうからの共感きょうかん獲得かくとくしていた[15]

ポーランドの民主みんしゅ回復かいふくりょう[編集へんしゅう]

1989ねん12月のポーランド民主みんしゅ、1990ねんよりはじまる東欧とうおう革命かくめい、1991ねんソ連それん崩壊ほうかい、およびドイツさい統一とういつ回復かいふくりょう以下いか経緯けいいをたどった。

回復かいふくりょう法的ほうてき位置いちづけ[編集へんしゅう]

冷戦れいせん期間きかんちゅう西側にしがわ諸国しょこく公的こうてき立場たちばは、ポツダム会談かいだん決定けっていとされる文書ぶんしょポツダム協定きょうてい)について、国際こくさいてき条約じょうやくとしてみとめられるものではなく、たんなる覚書おぼえがきぎない、とするものであった。ポツダム協定きょうていによってドイツの東部とうぶ国境こっきょうオーデル・ナイセせんさだめられたが、覚書おぼえがき最後さいご条項じょうこうには、ドイツの最終さいしゅうてき地位ちい領土りょうどは、ドイツと連合れんごうこくがわとの平和へいわ条約じょうやくによってけっするとしるされていた。1945ねんから1990ねんまでのあいだに、ポーランド人民じんみん共和きょうわこくは、当時とうじドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく (ひがしドイツ)ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく (西にしドイツ)双方そうほうとそれぞれ国境こっきょうせんかんする条約じょうやく締結ていけつした。1950ねん、ポーランドとひがしドイツは、ズゴジェレツ条約じょうやく調印ちょういんして、オーデル・ナイセせん正式せいしき国境こっきょうとして承認しょうにんし、共産きょうさん主義しゅぎしゃたちはこれを「平和へいわ友好ゆうこう国境こっきょう」とんだ[66]1970ねん12月7にち、ポーランドと西にしドイツは、ポーランドの西部せいぶ国境こっきょうせんかんしてワルシャワ条約じょうやく調印ちょういんし、両者りょうしゃ暴力ぼうりょくつらぬき、既存きそんの「事実じじつじょうの」国境こっきょうであるオーデル・ナイセせんれる、とした。しかし、最終さいしゅうてき条約じょうやくは、1990ねんドイツ最終さいしゅう規定きてい条約じょうやくたなければならなかった。

ドイツ最終さいしゅう規定きてい条約じょうやく以前いぜん西にしドイツ政府せいふは、オーデル・ナイセせん以東いとうのドイツりょうを「暫定ざんていてきにポーランド、ないし、ソ連それん支配しはいにある領土りょうど」と位置いちづけていた。1990ねんドイツさい統一とういつたいして国際こくさいてき承認しょうにんることを容易よういにするため、ドイツの政治せいじ体制たいせいは「現実げんじつ基礎きそをおくこと」を承認しょうにんし、ドイツ最終さいしゅう規定きてい条約じょうやく条項じょうこうれ、ドイツはオーデル・ナイセせん以東いとう領土りょうど要求ようきゅうをすべて放棄ほうきすることになった。その結果けっか条約じょうやくをめぐる交渉こうしょう順調じゅんちょうすすみ、民主みんしゅ主義しゅぎ国家こっかドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく (西にしドイツ)共産きょうさん主義しゅぎ国家こっかドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく (ひがしドイツ)統一とういつ順調じゅんちょうすすんだ。同年どうねん最終さいしゅう規定きてい条約じょうやく発効はっこうし、統一とういつドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくはポーランドとドイツ・ポーランド国境こっきょう条約じょうやく調印ちょういんして、両国りょうこくあいだ現在げんざい国境こっきょう確定かくていした。

このように、だい世界せかい大戦たいせんこう回復かいふくりょうかんしては共産きょうさん主義しゅぎ、ポーランド民族みんぞく主義しゅぎ、ドイツ民族みんぞく主義しゅぎはいじりはげしい思想しそうてきたたかいをひろげていた。しかしポーランドが1989ねん民主みんしゅすると、共産きょうさん主義しゅぎ時代じだい歴史れきし記述きじゅつかんする間違まちがいが次々つぎつぎ公式こうしき訂正ていせいされ、「歴史れきしてき固有こゆう領土りょうど回復かいふくした」というきゅう体制たいせい概念がいねんはあっさりと放棄ほうきされた[12]。 さらに法的ほうてきには1990ねんドイツ・ポーランド国境こっきょう条約じょうやく批准ひじゅんされて公法こうほうにおける国境こっきょう画定かくていし、2008ねんされた欧州おうしゅう人権じんけん裁判所さいばんしょ判決はんけつ私法しほうにおける国境こっきょう画定かくていしたことで、回復かいふくりょうかんする問題もんだい思想しそうてきにも法的ほうてきにも最終さいしゅう解決かいけつしている。

出典しゅってん脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ An explanation note in "The Neighbors Respond: The Controversy Over the Jedwabne Massacre in Poland", ed. by Polonsky and Michlic, p. 466
  2. ^ a b c An explanation note in "The Neighbors Respond: The Controversy Over the Jedwabne Massacre in Poland", ed. by Polonsky and Michlic, p.466
  3. ^ ポメラニアのうち、Hinterpommern(「しもポメラニア」などともやくされる、ポメラニア東部とうぶ)がポーランドりょうとなり、その範囲はんい現在げんざいのポーランドの西にしポモージェけんポモージェけんなどにおよんでいる。
  4. ^ a b 1946ねんにこの地域ちいきがポーランドの地方ちほう行政ぎょうせい編入へんにゅうされたさいには、東部とうぶ一部いちぶポドラシェけんまれ、のこりの部分ぶぶんが「オルシュティンスキけん」となった。その、ポドラシェけんにいったんまれた部分ぶぶんふくめてけん再編さいへんされ、ヴァルミアけんとマズールィけん成立せいりつした。1999ねんにヴァルミアけんとマズールィけん合併がっぺいして、現在げんざいヴァルミア・マズールィけん成立せいりつした。「回復かいふくりょう」がひろもちいられていた1989ねん民主みんしゅ以前いぜんには、2けん別個べっこ存在そんざいしていた。けんとしての記述きじゅつではなく、歴史れきしてき地域ちいきとしての記述きじゅつであるが、各国かっこくばんヴァルミア (pl:Warmiade:Ermlanden:Warmia)、マズールィ (pl:Mazuryde:Masurenen:Masuria) も参照さんしょうのこと。
  5. ^ a b Tomasz Kamusella and Terry Sullivan in Karl Cordell, Ethnicity and Democratisation in the New Europe, 1999, p.169: "[the term "recovered territories" was] christened so by the Polish communist-cum-nationalist propaganda", ISBN 0415173124, 9780415173124
  6. ^ a b Joanna B. Michlic, Poland's Threatening Other: The Image of the Jew from 1880 to the Present, 2006, pp.207-208, ISBN 0803232403, 9780803232402
  7. ^ a b Norman Davies, God's Playground: A History of Poland in Two Volumes, 2005, pp.381ff, ISBN 0199253404, 9780199253401
  8. ^ a b c d e f g h i j Geoffrey Hosking, George Schopflin, Myths and Nationhood, 1997, p.153, ISBN 0415919746, 9780415919746
  9. ^ a b Jan Kubik, The Power of Symbols Against the Symbols of Power: The Rise of Solidarity and the Fall of State Socialism in Poland, 1994, pp.64-65, ISBN 0271010843, 9780271010847
  10. ^ Davies, pp.381ff, p.395
  11. ^ Karl Cordell, Andrzej Antoszewski, Poland and the European Union, 2000, p.166, ISBN 0415238854, 9780415238854
  12. ^ a b Karl Cordell, Stefan Wolff, Germany's Foreign Policy Towards Poland and the Czech Republic: Ostpolitik Revisited, 2005, ISBN 0415369746, 9780415369749, p.139: "In addition [...] it has been relatively easy for Polish historians and others to attempt to debunk communist historiography and present a more balanced analysis of the past - and not only with respect to Germany. It has been controversial, and often painful, but nevertheless it has been done. For example, Poland's acquisition in 1945 of eastern German territories is increasingly presented as the price Germany paid for launching a total war, and then having lost it totally. The 'recovered territories' thesis previously applied in almost equal measures by the communists and Catholic Church has been discarded. It is freely admitted in some circles that on the whole 'the recovered territorries' in fact had a wholly German character. The extent to which this fact is transmitted to other groups than the socially and politically engaged is a matter for some debate. 「くわえて...ポーランドの歴史れきしたちやものにとって、共産きょうさん主義しゅぎしゃたちの歴史れきし編纂へんさん暗部あんぶ暴露ばくろし、よりバランスがとれた過去かこ分析ぶんせき提示ていじしようとすることはけっしてむずかしいことではなく、これはドイツにかんすることばかりではなかった。それは議論ぎろんぶ、また、しばしばいたみをともな仕事しごとであったが、結局けっきょくげられた。たとえば、1945ねんにポーランドが獲得かくとくしたドイツ東方とうほう領土りょうどは、全面ぜんめん戦争せんそうこし全面ぜんめんてき敗北はいぼくしたドイツが支払しはらった対価たいかとして提示ていじされるようになってきている。かつて、共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんとカトリック教会きょうかいがほとんど同様どうようとなえていた『回復かいふくりょう』の主張しゅちょうは、もはや放棄ほうきされた。一部いちぶには、『回復かいふくりょう』が実際じっさいまったくドイツてき性格せいかくであることを、自由じゆうみとめる立場たちば人々ひとびともいる。ただし、この事実じじつが、社会しゃかいてき政治せいじてきふか関心かんしんっている人々ひとびと範囲はんいえて、どの程度ていどまでひろがりをもっているのかというてんについては、さらに議論ぎろんようするところである。」
  13. ^ a b c d Dierk Hoffmann, Michael Schwartz, Geglückte Integration?, p.142
  14. ^ a b c d e f g h Cordell, Antoszewski, p.168 によれば、最初さいしょの1ねんで455まんにん到来とうらいしたとされる。
  15. ^ a b c d e Dan Diner, Raphael Gross, Yfaat Weiss, Jüdische Geschichte als allgemeine Geschichte, p.164
  16. ^ Thum, p.344
  17. ^ けんめい pl:Województwo zachodniopomorskie は「西にしポメラニア」という意味いみであるが、現在げんざいドイツがわメクレンブルク=フォアポンメルンしゅう一部いちぶとなっている、かつての「西にしポメラニア」(de:Vorpommern、「うえポメラニア」とやくされることもある)と混同こんどうしないよう注意ちゅうい
  18. ^ シレジアしゅうは、1919ねんしたシレジアしゅう (Niederschlesien) とうえシレジアしゅう (Oberschlesien) に分割ぶんかつされた。ドルヌィ・シロンスクけんは、ポーランドで「したシレジアけん」のであり、範囲はんいしたシレジアしゅうとほぼかさなる。
  19. ^ 歴史れきしてきなルーサティア(ドイツ: Lausitzラウジッツ)のだい部分ぶぶんは、ドイツがわブランデンブルクしゅう所属しょぞくしている。
  20. ^ だい世界せかい大戦たいせん以前いぜんからのポーランドの「ポモージェけん」は、現在げんざいクヤヴィ・ポモージェけん領域りょういき中心ちゅうしんに、現在げんざいポモージェけんヴィエルコポルスカけん一部いちぶまでひろがっていた。けんは、現在げんざいクヤヴィ・ポモージェけんけんであるブィドゴシュチュかれていた。現在げんざいポモージェけんは、きゅう「ポモージェけん」のバルト海ばるとかいちか部分ぶぶんきゅう自由じゆう都市としダンツィヒ領域りょういきわせて1946ねん成立せいりつした「グタニスキェけん」に、きゅう西にしプロイセンしゅう(だいいち世界せかい大戦たいせん結果けっかすでだい部分ぶぶんがポーランドりょうとなっていた)、きゅうポメルンしゅう一部いちぶわせて成立せいりつしたものである。
  21. ^ Lauterpacht, E (1961). International Law Reports. Cambridge University Press. p. 77. ISBN 0521463696. "under the "administration" of Poland the territory of the former Free City of Danzig and certain former German territories. These territories, situated east of the Oder and Neisse rivers, have since been referred to by the Polish legislation as "the Recovered Territories" 「...ポーランド『当局とうきょく支配しはいきゅうダンチッヒ自由じゆうおよび一定いっていきゅうドイツ領土りょうど。オーデルがわおよびナイセかわひがし位置いちするこれらの領土りょうどは、以降いこうポーランド行政ぎょうせいで『回復かいふくりょう』とばれている...」
  22. ^ a b c Kubik, p.65
  23. ^ a b c Rick Fawn, Ideology and national identity in post-communist foreign policies, 2003, p.190, ISBN 0714655171, 9780714655178
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  54. ^ 終戦しゅうせん直後ちょくごルブシュけん独立どくりつしておらず、その範囲はんい当時とうじの「ポズナニけん」の一部いちぶであった。「ポズナニけん」は、現在げんざいヴィエルコポルスカけんだい部分ぶぶんルブシュけんわせた範囲はんいにほぼ相当そうとうする。
  55. ^ Zybura, p.58
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  60. ^ Piotr Eberhardt, Jan Owsinski, Ethnic Groups and Population Changes in Twentieth-century Central-Eastern Europe: History, Data, Analysis, 2003, ISBN 0765606658, 9780765606655, p.142 は、1950ねん時点じてんで479まんにんという数字すうじげている。
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  66. ^ Frage und Antwort, Nr. 6 (1950)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

国境こっきょうせん
地名ちめい