回復 かいふく 領 りょう (黄色 おうしょく ) 編入 へんにゅう 前 まえ のポーランドの県 けん 区分 くぶん 計画 けいかく (1945年 ねん 3月 がつ )
回復 かいふく 領 りょう 編入 へんにゅう 後 ご のポーランドの県 けん 区分 くぶん (1946年 ねん 6月 がつ )
回復 かいふく 領 りょう (かいふくりょう、ポーランド語 ご : Ziemie Odzyskane , 英語 えいご : Recovered Territories :Regained Territories)は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち にソビエト連邦 れんぽう の傀儡 かいらい 政権 せいけん であった共産 きょうさん 主義 しゅぎ のポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく が、1949年 ねん まで政治 せいじ プロパガンダ として用 もち いていた地理 ちり 的 てき 用語 ようご [1] 。1949年 ねん 以降 いこう 、この表現 ひょうげん は正式 せいしき には使用 しよう されなくなった。これはソビエト連邦 れんぽう ・アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ・イギリス の三 さん 国 こく がポーランドの頭 あたま 越 ご しに行 い ったヤルタ会談 かいだん の決定 けってい によってドイツ人 じん 追放 ついほう が行 おこな われ、大戦 たいせん の結果 けっか としてポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく が新 あら たに獲得 かくとく した西方 せいほう 領土 りょうど (ドイツ側 がわ からみた東方 とうほう 領土 りょうど (Ostgebiete des Deutschen Reiches ))を指 さ した[2] 。戦後 せんご もドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (西 にし ドイツ) は東方 とうほう 領土 りょうど の領有 りょうゆう 権 けん を放棄 ほうき していなかったが、公法 こうほう においては1990年 ねん のドイツ再 さい 統一 とういつ に際 さい して締結 ていけつ されたドイツ・ポーランド国境 こっきょう 条約 じょうやく により、また私法 しほう においては2008年 ねん の欧州 おうしゅう 人権 じんけん 裁判所 さいばんしょ の決定 けってい により、領土 りょうど 問題 もんだい としては完全 かんぜん に解決 かいけつ している。
該当 がいとう 地域 ちいき には、西 にし ポモージェ県 けん (旧 きゅう ポメラニア [3] およびシュテッティン )、ルブシュ県 けん (旧 きゅう ノイマルク 、Neumark )、オポーレ県 けん とドルヌィ・シロンスク県 けん (旧 きゅう シレジア 、ただし、もともとポーランド領 りょう だったシレジア自治 じち 県 けん (en:Autonomous Silesian Voivodeship 、pl:Autonomiczne województwo śląskie )の部分 ぶぶん を除 のぞ く)などが含 ふく まれ、「北部 ほくぶ 領土 りょうど 」には、グダニスク (旧 きゅう ダンツィヒ)、ヴァルミア・マズールィ県 けん [4] (旧 きゅう 東 ひがし プロイセン の南 みなみ 半分 はんぶん )が含 ふく まれる。
「回復 かいふく 」という表現 ひょうげん が用 もち いられるのは、体制 たいせい 側 がわ のプロパガンダ として[5] 、西部 せいぶ および北部 ほくぶ 領土 りょうど は中世 ちゅうせい のピャスト朝 あさ 以来 いらい ポーランドの分 わか ちがたい一部 いちぶ であったという構図 こうず を示 しめ し、ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく がその正当 せいとう な継承 けいしょう 者 しゃ であることを主張 しゅちょう するためであった[2] [6] [7] [8] [9] 。過去 かこ の領有 りょうゆう として強調 きょうちょう されたのは、西部 せいぶ 領土 りょうど については中世 ちゅうせい 盛期 せいき のピャスト朝 あさ (960年 ねん 頃 ごろ - 1370年 ねん )の、建国 けんこく 時 じ にローマ教会 きょうかい と皇帝 こうてい から正式 せいしき な承認 しょうにん を受 う けた国境 こっきょう 線 せん を含 ふく むいくつかの時期 じき における領有 りょうゆう であり、北部 ほくぶ 領土 りょうど については近世 きんせい のいくつかの時期 じき におけるポーランドの宗主 そうしゅ 権 けん (レーエン )であった。東 ひがし ヨーロッパ へのドイツ人 じん の歴史 れきし 的 てき 定住 ていじゅう (東方 とうほう 植民 しょくみん )によって、何 なに 世紀 せいき にもわたりこれらの地域 ちいき にドイツ人 じん が住 す んでいたことについては、ドイツの継続 けいぞく 的 てき な東方 とうほう への「侵略 しんりゃく 」行為 こうい の結果 けっか に過 す ぎないとされた(東方 とうほう への衝動 しょうどう )[8] [10] [11] 。戦後 せんご における住民 じゅうみん の強制 きょうせい 移住 いじゅう は、公式 こうしき には「本国 ほんごく 送還 そうかん 」と呼 よ ばれ[8] 、かつてこの地域 ちいき に存在 そんざい していたドイツ的 てき 文化 ぶんか 伝統 でんとう は、1989年 ねん のポーランド民主 みんしゅ 化 か によって公的 こうてき な歴史 れきし 認識 にんしき の転換 てんかん が行 おこな われるまでは顧 かえり みられることなく否定 ひてい されることになった[12] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん によるポーランドの領土 りょうど の変化 へんか :桃色 ももいろ の部分 ぶぶん が回復 かいふく 領 りょう 、灰色 はいいろ がソ連 それん に併合 へいごう された旧 きゅう ポーランド領 りょう 東部 とうぶ 。西側 にしがわ を縁 えん 取 と る明 あか るい緑色 みどりいろ の線 せん がオーデル・ナイセ線 せん 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、回復 かいふく 領 りょう からは多数 たすう のドイツ人 じん が脱出 だっしゅつ して西方 せいほう へ去 さ ったが(Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II )、一部 いちぶ のドイツ系 けい 住民 じゅうみん はそのまま留 とど まっていた。しかし、彼 かれ らもやがてほとんどが追放 ついほう されることになり、代 か わってポーランド人 じん が他 た 地域 ちいき からどんどんと入 はい って来 き たが[13] [14] [14] 、それでもごく少数 しょうすう のドイツ系 けい 住民 じゅうみん はポーランド国籍 こくせき を得 え てドイツ系 けい ポーランド人 じん として一部 いちぶ の地域 ちいき に残留 ざんりゅう した。この地域 ちいき に入 はい ってきたポーランド人 じん の多 おお くは、ポーランド中部 ちゅうぶ や戦時 せんじ 中 ちゅう 逃 のが れていた国外 こくがい から自由 じゆう 意志 いし でやって来 き ていたが、ポーランド当局 とうきょく は、ウクライナ人 じん など国内 こくない の少数 しょうすう 民族 みんぞく 集団 しゅうだん を強制 きょうせい 的 てき に分散 ぶんさん 移住 いじゅう させ(ヴィスワ作戦 さくせん 、Operation Vistula )、また、ソ連 それん に併合 へいごう された旧 きゅう ポーランド領 りょう 東部 とうぶ (Territories of Poland annexed by the Soviet Union )の住民 じゅうみん を回復 かいふく 領 りょう に「本国 ほんごく 送還 そうかん 」して、こうした地域 ちいき のポーランド化 か を確 たし かなものにした[13] [14] [15] [16] 。
1950年 ねん 、ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (東 ひがし ドイツ) がズゴジェレツ条約 じょうやく でオーデル・ナイセ線 せん を正式 せいしき に国境 こっきょう として承認 しょうにん し、ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (西 にし ドイツ) も、1970年 ねん のワルシャワ条約 じょうやく でこれに同意 どうい した。さらに統一 とういつ 後 ご のドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく も1990年 ねん のドイツ・ポーランド国境 こっきょう 条約 じょうやく (German-Polish Border Treaty を締結 ていけつ して、オーデル・ナイセ線 せん を国境 こっきょう とすることを再 さい 確認 かくにん している。
ポーランドの県 けん 区分 くぶん 図 ず (1999年 ねん 以降 いこう )北西 ほくせい の隅 すみ 、緑色 みどりいろ が西 にし ポモージェ県 けん 東 ひがし へ、ポモージェ県 けん (桃色 ももいろ )、ヴァルミア・マズールィ県 けん (緑色 みどりいろ )南 みなみ へ、ルブシュ県 けん (茶色 ちゃいろ )、ドルヌィ・シロンスク県 けん (黄色 おうしょく )、オポーレ県 けん (緑色 みどりいろ )、シロンスク県 けん (桃色 ももいろ )
回復 かいふく 領 りょう (深緑 しんりょく 色 しょく )と現在 げんざい の県 けん 区分 くぶん を重 かさ ねた地図 ちず
「西部 せいぶ 領土 りょうど 」を構成 こうせい するのは、以下 いか の各 かく 地方 ちほう である。
「北部 ほくぶ 領土 りょうど 」を構成 こうせい するのは、以下 いか の各 かく 地方 ちほう である。
ドイツが戦後 せんご 失 うしな った領土 りょうど : 黄色 おうしょく がポーランド領 りょう となった地域 ちいき 、灰色 はいいろ が旧 きゅう 自由 じゆう 都市 とし ダンツィヒ の領域 りょういき 。ポーランドの立場 たちば から見 み ればその両者 りょうしゃ を併 あわ せたものが回復 かいふく 領 りょう である。 なお、地図 ちず 上 じょう のオレンジ色 しょく の地域 ちいき はカリーニングラード州 しゅう としてソ連 それん に併合 へいごう され、ソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい 後 ご の現在 げんざい でも飛地 とびち としてロシア連邦 れんぽう 領 りょう にとどまっている。
プロイセン領 りょう 〜ドイツ領 りょう 時代 じだい の西 にし プロイセン州 しゅう は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち にその大 だい 部分 ぶぶん がポーランド領 りょう に編入 へんにゅう されたが、一部 いちぶ はドイツ側 がわ に残 のこ っていた(左 ひだり の図 ず の1および10の地域 ちいき )。このうち旧 きゅう 自由 じゆう 都市 とし ダンツィヒ に隣接 りんせつ する部分 ぶぶん は北部 ほくぶ 領土 りょうど 、残 のこ りの部分 ぶぶん は西部 せいぶ 領土 りょうど に組 く み込 こ まれた。
以上 いじょう のほか、戦後 せんご におけるポーランドの行政 ぎょうせい 区画 くかく の変更 へんこう によって、旧 きゅう ドイツ領土 りょうど の一部 いちぶ が他 た の県 けん に帰属 きぞく する形 かたち になっている場所 ばしょ がいろいろある(「回復 かいふく 領 りょう と現在 げんざい の県 けん 区分 くぶん を重 かさ ねた地図 ちず 」を参照 さんしょう )。
冷戦 れいせん 時代 じだい の政策 せいさく [ 編集 へんしゅう ]
冷戦 れいせん 時代 じだい に回復 かいふく 領 りょう は以下 いか の経緯 けいい をたどった。
用語 ようご 「回復 かいふく 領 りょう 」の起源 きげん と普及 ふきゅう [ 編集 へんしゅう ]
多 た 民族 みんぞく の国家 こっか を傘下 さんか に収 おさ め、広大 こうだい な範囲 はんい に及 およ んだヤギェウォ朝 あさ 最盛 さいせい 期 き ( 1500年 ねん 頃 ごろ ) の版図 はんと (赤 あか 線 せん 枠 わく 内 ない )
「回復 かいふく 領 りょう 」は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち に、ポツダム協定 きょうてい に基 もと づいてポーランドに併合 へいごう されたドイツの東方 とうほう 領土 りょうど を指 さ す表現 ひょうげん として創 つく り出 だ され、公式 こうしき に用 もち いられたプロパガンダ の用語 ようご であった[2] [5] 。その根底 こんてい にある考 かんが え方 かた は、戦後 せんご のポーランドを、中世 ちゅうせい のピャスト朝 あさ ポーランド王国 おうこく の継承 けいしょう 者 しゃ と位置 いち づけ[6] [7] [8] 、さらに、戦後 せんご の国境 こっきょう 線 せん に適合 てきごう する民族 みんぞく 的 てき に均質 きんしつ な国家 こっか とみなす単純 たんじゅん 化 か をして[9] 、後年 こうねん のヤギェウォ朝 あさ ポーランド(1386年 ねん - 1572年 ねん ないし1596年 ねん )のような、多 た 民族 みんぞく 国家 こっか として東方 とうほう に広 ひろ がった姿 すがた を否定 ひてい するものであった[22] 。戦後 せんご のポーランドが、ヤギェウォ朝 あさ ではなくピャスト朝 あさ を持 も ち上 あ げた理由 りゆう のひとつは、ソ連 それん のスターリン がカーゾン線 せん からの撤退 てったい を拒否 きょひ する状況 じょうきょう の下 もと で、他 た の連合 れんごう 諸国 しょこく が、ポーランドを満足 まんぞく させるためには代 か わりにドイツの領土 りょうど を与 あた えてもよいと考 かんが えていたという事情 じじょう があった[23] 。旧 きゅう ドイツ領土 りょうど を、いわば補償 ほしょう として、ポーランドに与 あた えるという元々 もともと の議論 ぎろん は、やがて、当該 とうがい 地域 ちいき が実際 じっさい に「かつてのポーランド領 りょう 」であるという議論 ぎろん によって補強 ほきょう されるようになった[24] 。ピャスト朝 あさ 時代 じだい が強調 きょうちょう されたのは、ポーランド人 じん たちが多 た 民族 みんぞく 国家 こっか ではなく民族 みんぞく 的 てき に均質 きんしつ な国家 こっか の創設 そうせつ を望 のぞ んだためでもあった[25] [22] 。さらに、ピャスト朝 あさ がポーランドをドイツ人 じん から護 まも ったと認識 にんしき されていたのに対 たい し、ヤギェウォ朝 あさ の対抗 たいこう した相手 あいて が興隆 こうりゅう 途上 とじょう のモスクワ大公 たいこう 国 こく だったことは、ソ連 それん の影響 えいきょう 下 か に置 お かれた戦後 せんご ポーランドの状況 じょうきょう の中 なか で持 も ち上 あ げるには、ふさわしくない要素 ようそ であった[23] [22] 。ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ も、ポーランド労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう も、いにしえのピャスト朝 あさ の領土 りょうど に基 もと づいたポーランド国家 こっか という理念 りねん を支持 しじ し[23] [25] 、小農 しょうのう や国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ など戦前 せんぜん からの反対 はんたい 勢力 せいりょく を押 お さえ込 こ んだ[8] 。実際 じっさい 、回復 かいふく 領 りょう をめぐる問題 もんだい は、当時 とうじ のポーランドの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ たちと、それに対抗 たいこう する民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ たちを分断 ぶんだん しない、数少 かずすく ない論点 ろんてん のひとつであり、西部 せいぶ 国境 こっきょう に関 かん して両 りょう 陣営 じんえい の意見 いけん は一致 いっち していた。地下 ちか 出版 しゅっぱん されていた、民族 みんぞく 主義 しゅぎ 派 は の反共 はんきょう 新聞 しんぶん さえもが、「ドイツ化 か に終止符 しゅうしふ を打 う ち、東方 とうほう への衝動 しょうどう を永遠 えいえん に断 た ち切 き るため」として、ピャスト朝 あさ 時代 じだい の国境 こっきょう を要求 ようきゅう した[26] 。これによりポーランドは歴史 れきし 上 じょう 初 はじ めて、ポーランドを母語 ぼご とする人々 ひとびと による、文化 ぶんか 的 てき にきわめて均質 きんしつ な国家 こっか となり、多 た 民族 みんぞく 社会 しゃかい に由来 ゆらい した国内 こくない の様々 さまざま な社会 しゃかい 対立 たいりつ は根元 ねもと から取 と り除 のぞ かれた。いっぽう、ポーランドの社会 しゃかい には共産 きょうさん 主義 しゅぎ 派 は にも民族 みんぞく 主義 しゅぎ 派 は にも与 くみ しない第 だい 三 さん の勢力 せいりょく が存在 そんざい した。それはポーランド伝統 でんとう の穏健 おんけん 主義 しゅぎ の勢力 せいりょく であり、ロンドン のポーランド亡命 ぼうめい 政府 せいふ がそれを代表 だいひょう した。彼 かれ らは地下 ちか 教育 きょういく ネットワークを構築 こうちく し、「固有 こゆう の領土 りょうど 」という公式 こうしき な民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき 歴史 れきし 認識 にんしき に対抗 たいこう して、国民 こくみん に正 ただ しい歴史 れきし 認識 にんしき を教 おし え続 つづ けた。彼 かれ らはポーランド自由 じゆう 大学 だいがく 協会 きょうかい を設立 せつりつ して秘密 ひみつ 通信 つうしん 教育 きょういく や秘密 ひみつ 移動 いどう 図書館 としょかん などの事業 じぎょう を続 つづ け、1970年代 ねんだい の終 お わりには「空 そら 飛 と ぶ大学 だいがく 」を設立 せつりつ 運営 うんえい して「固有 こゆう の領土 りょうど 」論 ろん が陳腐 ちんぷ なものであり、西方 せいほう 領土 りょうど は人々 ひとびと が強制 きょうせい 移住 いじゅう させられ現 げん にそこに住 す んでいるという現実 げんじつ に鑑 かんが み法的 ほうてき に粛々 しゅくしゅく と解決 かいけつ すべき問題 もんだい であること、それにはヨーロッパ全体 ぜんたい の平和 へいわ な社会 しゃかい 統合 とうごう ・経済 けいざい 統合 とうごう が前提 ぜんてい となることが教 おし えられた。
ピャスト朝 あさ ボレスワフ1世 せい (在位 ざいい : 992年 ねん - 1025年 ねん )治世 ちせい 下 か のポーランド王国 おうこく の版図 はんと 992年 ねん のポーランド公国 こうこく 領 りょう は濃 こ い桃色 ももいろ 1025年 ねん のポーランド王国 おうこく 国境 こっきょう は赤 あか 線 せん
ピャスト朝 あさ ボレスワフ3世 せい クシヴォウスティ が没 ぼっ した1138年 ねん 時点 じてん でのポーランド王国 おうこく の版図 はんと (1917年 ねん 出版 しゅっぱん の地図 ちず )
共産 きょうさん 主義 しゅぎ 体制 たいせい 側 がわ による「ピャスト朝 あさ の領土 りょうど の回復 かいふく 」という見解 けんかい のプロパガンダには、大 おお きな努力 どりょく が払 はら われ、カトリック教会 きょうかい も活発 かっぱつ にこれを支援 しえん した[27] 。この歴史 れきし 観 かん の普及 ふきゅう には、学術 がくじゅつ にも責任 せきにん があった。1945年 ねん 、西方 せいほう 研究所 けんきゅうじょ (pl:Instytut Zachodni 、en:Western Institute )が創設 そうせつ され、学術 がくじゅつ 活動 かつどう を調整 ちょうせい するようになった。初代 しょだい 所長 しょちょう のジグムント・ヴォイチェホフスキ (pl:Zygmunt Wojciechowski 、en:Zygmunt Wojciechowski )は、その使命 しめい について「我々 われわれ は、いわゆる客観 きゃっかん 的 てき な歴史 れきし 編纂 へんさん を目指 めざ してはいない。我々 われわれ の使命 しめい は、何 なに 世紀 せいき にもわたるポーランドの歴史 れきし を提示 ていじ し、その各 かく 世紀 せいき についての現在 げんざい の政治 せいじ 的 てき 現実 げんじつ を、歴史 れきし 的 てき 背景 はいけい の上 うえ に投影 とうえい することである。」と述 の べていた[28] 体制 たいせい 側 がわ に属 ぞく する歴史 れきし 学者 がくしゃ 、考古 こうこ 学者 がくしゃ 、言語 げんご 学者 がくしゃ 、美術 びじゅつ 史家 しか 、民族 みんぞく 学者 がくしゃ らが学際 がくさい 的 てき に恊働して、新 あら たな国境 こっきょう 線 せん の正当 せいとう 化 か に取 と り組 く んだ[29] 。彼 かれ らの知見 ちけん は、無数 むすう のモノグラフや学術 がくじゅつ 誌 し 、教科書 きょうかしょ 、旅行 りょこう ガイド、放送 ほうそう 、展覧 てんらん 会 かい などによって、普及 ふきゅう が推 お し進 すす められた[30] 。ピャスト朝 あさ の初期 しょき の王侯 おうこう たちの時代 じだい のポーランドの版図 はんと を示 しめ す公式 こうしき の地図 ちず も、新 あら たな国境 こっきょう 線 せん と整合 せいごう するように描 えが かれた[8] 。ノーマン・デイヴィス によれば、戦後 せんご の若 わか い世代 せだい は公式 こうしき 教育 きょういく によって誘導 ゆうどう され、ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく の領域 りょういき は何 なに 世紀 せいき にもわたってポーランド国民 こくみん が発展 はってん させてきたものであると思 おも い込 こ むように仕向 しむ けられたという。公 おおやけ 教育 きょういく において戦後 せんご 世代 せだい はさらに、外国 がいこく 人 じん によって長期間 ちょうきかん 占領 せんりょう されることはあっても、あるいは、政治 せいじ 上 じょう の国境 こっきょう が移動 いどう することがあっても、ポーランド人 じん の「祖国 そこく 」は常 つね に同 おな じ場所 ばしょ にあり続 つづ けたのだと教 おし えられていた[31] 。公 おおやけ 教育 きょういく における歴史 れきし 認識 にんしき は、ポーランド人 じん は、歴史 れきし のいつの時代 じだい においても「回復 かいふく 領 りょう 」に定住 ていじゅう する奪 うば われることのない絶対 ぜったい 的 てき かつ必然 ひつぜん 的 てき な権利 けんり を持 も っており、他 た の優越 ゆうえつ する勢力 せいりょく によってその権利 けんり 行使 こうし が妨 さまた げられることはあったとしても、権利 けんり は存在 そんざい したとするものであった[31] 。
回復 かいふく 領 りょう の大 だい 部分 ぶぶん は、何 なに 世紀 せいき にもわたってプロイセン 〜ドイツ の支配 しはい 下 か にあったが、戦後 せんご のポーランドの公 おおやけ 教育 きょういく においては、こうした歴史 れきし 的 てき な出来事 できごと は、「郷土 きょうど 」史 し ではなく、「外国 がいこく 」史 し の一部 いちぶ であると認識 にんしき されていた[32] 。ポーランドの学者 がくしゃ たちは、中世 ちゅうせい のピャスト朝 あさ 時代 じだい の地方 ちほう 史 し や、ポーランドの文化 ぶんか ・政治 せいじ ・経済 けいざい 的 てき 紐帯 ちゅうたい 、プロイセン におけるポーランド語 ご 話者 わしゃ の歴史 れきし 、中世 ちゅうせい 以来 いらい の歴史 れきし 的 てき に一貫 いっかん した運動 うんどう としての「東方 とうほう への衝動 しょうどう 」などの課題 かだい に努力 どりょく を集中 しゅうちゅう した[33] 。
しかし「回復 かいふく 領 りょう 」という表現 ひょうげん は、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん の公的 こうてき な用語 ようご としては1949年 ねん までに姿 すがた を消 け した。その後 ご も一般 いっぱん 的 てき に通用 つうよう する「俗語 ぞくご 」として、現在 げんざい に至 いた るまで使 つか われ続 つづ けている[34] ものの、これらの地域 ちいき は、ポーランドの国家 こっか 体制 たいせい の中 なか で、特異 とくい 性 せい のある領土 りょうど であると見 み なすべきではないという考 かんが え方 かた に基 もと づいて、近年 きんねん では「西部 せいぶ ・北部 ほくぶ 領土 りょうど 」という表現 ひょうげん が用 もち いられている[34] [35] 。
「回復 かいふく 領 りょう 」のポーランド化 か [ 編集 へんしゅう ]
ドイツとの新 あら たな国境 こっきょう に立 た てられるポーランド側 がわ の標識 ひょうしき (1945年 ねん )
共産 きょうさん 主義 しゅぎ 体制 たいせい 側 がわ にとっては、ピャスト朝 あさ の後継 こうけい 者 しゃ としてポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく を確立 かくりつ していくことと平行 へいこう して、新 あら たなフロンティアには、それに見合 みあ った人口 じんこう が確保 かくほ されなければならなかった[8] 。東部 とうぶ 辺境 へんきょう の領土 りょうど (Kresy Wschodnie )がソ連 それん に併合 へいごう されたため、ポーランドは結果 けっか 的 てき に全体 ぜんたい が西 にし へ移動 いどう し、面積 めんせき は 389,000 km2 から 312,000 km2 へ、およそ20%減少 げんしょう した[36] 。何 なに 百 ひゃく 万 まん 人 にん もの「非 ひ ポーランド人 じん 」(おもにドイツ人 じん とウクライナ人 じん )が、新 あら たにポーランドとなった地域 ちいき から追放 ついほう され、他方 たほう ではカーゾン線 せん 以東 いとう にいたポーランド人 じん たちが東部 とうぶ 辺境 へんきょう から追放 ついほう されて流 なが れ込 こ んできた。追放 ついほう 者 しゃ たちは「本国 ほんごく 送還 そうかん 者 しゃ 」と呼 よ ばれていた[8] 。その結果 けっか 、ヨーロッパの歴史 れきし の中 なか でも最大 さいだい 規模 きぼ の住民 じゅうみん の入 い れ替 か えが行 おこな われることになった[8] 。ピャスト朝 あさ の版図 はんと を回復 かいふく した新 あら たな西部 せいぶ ・北部 ほくぶ 領土 りょうど の姿 すがた は、ポーランド人 じん 入植 にゅうしょく 者 しゃ や、ポーランド人 じん 「本国 ほんごく 帰還 きかん 者 しゃ 」たちに、そこへ到達 とうたつ して、新 しん 体制 たいせい に忠実 ちゅうじつ な組織立 そしきだ ったコミュニティづくりに参加 さんか することを促 うなが し[37] 、先行 せんこう して行 おこな われた当該 とうがい 地域 ちいき での民族 みんぞく 浄化 じょうか を正当 せいとう 化 か した[8] 。ドイツ人 じん の脱出 だっしゅつ や追放 ついほう の結果 けっか 、当地 とうち に残 のこ ったのは「先住民 せんじゅうみん 」である、マズールィ(マスリア) (Masuria )地方 ちほう のマスリア人 じん (Masurians )、ポメラニア 地方 ちほう のカシュビア人 じん (Kashubians ) やスロビンシア人 じん (Slovincians )、上 うえ シレジア地方 ちほう (Upper Silesia ) のシレジア人 じん (Silesians ) など、300万 まん 人 にん 近 ちか いスラブ系 けい の人々 ひとびと で、彼 かれ らの先祖 せんぞ はポーランド分割 ぶんかつ よりも前 まえ の時代 じだい の、中世 ちゅうせい および近代 きんだい のポーランド国家 こっか に属 ぞく していたことがあったが、この時代 じだい には自 みずか らが現代 げんだい ポーランド国家 こっか の国民 こくみん だというアイデンティティはもっていない者 もの が多 おお かった[38] 。ポーランド政府 せいふ は、プロパガンダのために、こうした先住民 せんじゅうみん たちができるだけ現地 げんち に留 と まるように努 つと めた。旧 きゅう ドイツ領 りょう における彼 かれ らの存在 そんざい は、地域 ちいき 固有 こゆう の「ポーランドらしさ」を示 しめ すものであるとされ、その地域 ちいき を回復 かいふく 領 りょう としてポーランド国家 こっか に併合 へいごう することを正当 せいとう 化 か するものとされていた[38] 。先住民 せんじゅうみん たちの「隠 かく されたポーランドらしさ」を明 あき らかにし、ポーランド市民 しみん としてふさわしい振 ふ る舞 ま いの者 もの を選別 せんべつ する、「確認 かくにん 」と「国民 こくみん 復帰 ふっき 」の過程 かてい が用意 ようい され、それにはじかれたごく少数 しょうすう の人々 ひとびと は本当 ほんとう に追放 ついほう された[38] 。「先住民 せんじゅうみん 」たちはこの主観 しゅかん 的 てき でしばしば恣意 しい 的 てき な確認 かくにん 作業 さぎょう を嫌 きら っていたが、それを終 お えた後 のち でも、差別 さべつ に直面 ちょくめん することがあった[39] 。名 な をポーランド語 ご の綴 つづ りにするよう強要 きょうよう したことなども、その一 いち 例 れい である[40] (名 な は行政 ぎょうせい 事務 じむ 上 じょう の理由 りゆう から、リストで指定 してい された男女 だんじょ の名 めい それぞれ数 すう 十 じゅう 種類 しゅるい から選択 せんたく することが法律 ほうりつ で定 さだ められており、その法律 ほうりつ はポーランド民主 みんしゅ 化 か 後 ご の1990年代 ねんだい でもしばらくの間 あいだ は続 つづ いていた。姓 せい については、ドイツ系 けい の姓 せい をポーランド風 ふう の綴 つづ りに変 か える者 もの もいたが、そのまま残 のこ すことも許 ゆる されていた。そのためポーランドにはドイツ系 けい の姓 せい も数多 かずおお く存在 そんざい する)。ルブシュ県 けん の当局 とうきょく は 、1948年 ねん の時点 じてん で、中央 ちゅうおう の当局 とうきょく が発見 はっけん したと主張 しゅちょう している「先住民 せんじゅうみん 」ポーランド人 じん たちは、戦前 せんぜん の国境 こっきょう に接 せっ していたバビモスト(Babimost )村 むら の住民 じゅうみん を唯一 ゆいいつ の例外 れいがい として、いずれも19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき はじめに他 た 地域 ちいき から移住 いじゅう してきたポーランド人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ がドイツ化 か したものに過 す ぎない、ということを認 みと めていた[41]
ドイツ系 けい 住民 じゅうみん の追放 ついほう と文化 ぶんか 的 てき 遺産 いさん の除去 じょきょ [ 編集 へんしゅう ]
ルビョンシュ修道院 しゅうどういん の協同 きょうどう 教会 きょうかい にあった、1680年 ねん 頃 ごろ の聖歌 せいか 隊 たい 席 せき
空 から っぽになったルビョンシュ修道院 しゅうどういん の協同 きょうどう 教会 きょうかい
回復 かいふく 領 りょう には、併合 へいごう の後 のち にもかなりの数 かず のドイツ系 けい 住民 じゅうみん が残 のこ っていた。終戦 しゅうせん 時 じ の国民 こくみん 統一 とういつ 臨時 りんじ 政府 せいふ 当局 とうきょく は「回復 かいふく 領 りょう 担当 たんとう 省 しょう 」を設置 せっち し、副 ふく 首相 しゅしょう のヴワディスワフ・ゴムウカ を兼任 けんにん で担当 たんとう 大臣 だいじん とした[42] 。「本国 ほんごく 送還 そうかん 局 きょく 」が、住民 じゅうみん の追放 ついほう や再 さい 定住 ていじゅう を監督 かんとく ・組織 そしき した。1946年 ねん 2月 がつ 14日 にち の国勢調査 こくせいちょうさ によれば、この時点 じてん でポーランドにはまだ228.8万 まん 人 にん のドイツ人 じん が留 とど まっており、そのおよそ91%に相当 そうとう する207.5万 まん 人 にん は、回復 かいふく 領 りょう に住 す んでいた。この段階 だんかい で、ドイツ人 じん は回復 かいふく 領 りょう の人口 じんこう の41%を占 し めていた。ところが、1950年 ねん には、国内 こくない のドイツ人 じん はわずか20万 まん 人 にん に急減 きゅうげん し、1957年 ねん には6.5万 まん 人 にん にまで減少 げんしょう してしまった[43] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、回復 かいふく 領 りょう からは多数 たすう のドイツ人 じん が脱出 だっしゅつ して西方 せいほう へ去 さ ったが (Flight and expulsion of Germans from Poland during and after World War II ) 、それに続 つづ いたのは、何 なに 世紀 せいき もの間 あいだ に刻 きざ まれたドイツの歴史 れきし と文化 ぶんか を、公 おおやけ の目 め に触 ふ れる場所 ばしょ から一掃 いっそう するという大 だい 規模 きぼ なキャンペーンであった。オハイオ大学 だいがく のT・デイヴィッド・カープ (T. David Cup) は、これを次 つぎ のように説明 せつめい している:
ポーランドの
政権 せいけん と
人民 じんみん とカトリック
教会 きょうかい は、
相互 そうご に
努力 どりょく しながら、より
徹底的 てっていてき 、
攻撃 こうげき 的 てき に、
人物 じんぶつ ・
場所 ばしょ ・モノから
民族 みんぞく 性 せい を
消去 しょうきょ することに
取 と り
組 く み、
各 かく 地方 ちほう のドイツ
人 じん の
歴史 れきし を
上書 うわが きして
消去 しょうきょ し、ポーランドの
過去 かこ を、ポーランド
人 じん の
記憶 きおく という
抽象 ちゅうしょう 的 てき な
領域 りょういき にとどまらず、
物理 ぶつり 的 てき な
物体 ぶったい の
領域 りょういき において
称揚 しょうよう した。
— [41]
1946年 ねん 1月 がつ に、新 あたら しい公式 こうしき 地名 ちめい を定 さだ めるために地名 ちめい 決定 けってい 委員 いいん 会 かい が設置 せっち された[44] 。以降 いこう 、1950年 ねん 末 すえ までに、3万 まん 件 けん 以上 いじょう のドイツ語 ご 地名 ちめい が、ポーランド語 ご 地名 ちめい に置 お き換 か えられるか[15] 、ポーランド語 ご 化 か した中世 ちゅうせい のスラブ語 ご の地名 ちめい に置 お き換 か えられた[45] [46] 。スラブ語 ご 地名 ちめい が存在 そんざい していなかった場合 ばあい には、ドイツ語 ご 地名 ちめい を翻訳 ほんやく するか、全 まった く新 あら たな地名 ちめい が創出 そうしゅつ された[47] 。ドイツに関係 かんけい のある名称 めいしょう 、例 たと えばドイツの町 まち にちなんで命名 めいめい された道路 どうろ の名称 めいしょう などは、新 あたら しい名称 めいしょう が与 あた えられた[48] 。
公立 こうりつ 学校 がっこう 、政府 せいふ メディア、教会 きょうかい の典礼 てんれい におけるドイツ語 ご の使用 しよう は禁止 きんし された[15] [46] 。ドイツ人 じん に関係 かんけい した記念 きねん 碑 ひ 、墓 はか 、建物 たてもの 、建物 たてもの 群 ぐん なども、多数 たすう が破壊 はかい された[49] 。美術 びじゅつ 品 ひん は、国内 こくない の他 ほか の場所 ばしょ に移 うつ された[50] 。文化財 ぶんかざい などの撤去 てっきょ を組織 そしき 的 てき に行 おこな うために、集積 しゅうせき 所 しょ が設定 せってい されることもあった[51] 。早 はや くも1945年 ねん のうちに、貨車 かしゃ 28台 だい 分 ぶん 、トラック118台 だい 分 ぶん にのぼる、膨大 ぼうだい な量 りょう のシレジアの美術 びじゅつ 品 ひん が、ワルシャワ の国立 こくりつ 美術館 びじゅつかん (pl:Muzeum Narodowe w Warszawie 、en:National Museum, Warsaw ) に送 おく られた[51] 。プロテスタント教会 きょうかい は、カトリック教会 きょうかい に改装 かいそう されるか、教会 きょうかい 以外 いがい の用途 ようと に転用 てんよう されるか、カトリック教会 きょうかい の建築 けんちく 用材 ようざい を得 え るために解体 かいたい された[52] 。ドイツ語 ご で記 しる された文章 ぶんしょう は、教会 きょうかい や墓地 ぼち など宗教 しゅうきょう 的 てき なものに記 しる されていた文言 もんごん も含 ふく めてすべて消 け された[53] 。ルブシュ地方 ちほう (pl:Ziemia lubuska 、en:Ziemia Lubuska )[54] では、最後 さいご まで残 のこ ったドイツ文化 ぶんか の痕跡 こんせき を探 さが し出 だ して破壊 はかい するための「社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 競技 きょうぎ 会 かい 」が開催 かいさい されたという[53] 。シレジア地方 ちほう では、こうした取 と り組 く みによって生 しょう じた損害 そんがい は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん によって生 しょう じた損害 そんがい に匹敵 ひってき するものであった[55] 。
1939年 ねん のドイツの国勢調査 こくせいちょうさ によると、後 のち にポーランドの回復 かいふく 領 りょう となった地域 ちいき には、最 もっと も東 ひがし に分布 ぶんぷ するドイツ国内 こくない の少数 しょうすう 民族 みんぞく だったポーランド系 けい 住民 じゅうみん も合 あ わせて、885.5万 まん 人 にん であった[56] 。ドイツの国勢調査 こくせいちょうさ ではポーランド語 ご 話者 わしゃ の数 かず を、多言 たげん 語 ご 話者 わしゃ を含 ふく めて70万 まん 人 にん 未満 みまん としているが、 ポーランドの人口 じんこう 学者 がくしゃ たちは、旧 きゅう ドイツ領 りょう におけるポーランド人 じん の実際 じっさい の数 かず は120万 まん 人 にん [56] ないし130万 まん 人 にん [57] に達 たっ していたと推計 すいけい している。120万 まん 人 にん としている推計 すいけい によれば、そのうち、およそ85万 まん 人 にん が上 うえ シレジア地方 ちほう 、およそ35万 まん 人 にん が東 ひがし プロイセン南部 なんぶ に住 す んでおり、その他 た の地域 ちいき を合 あ わせて、さらに5万 まん 人 にん 程度 ていど が他 た の地域 ちいき に広 ひろ がっていたとされている[56] 。
ポーランド国内 こくない の各地 かくち からやって来 き た人々 ひとびと は、たちまちドイツ系 けい 住民 じゅうみん の穴 あな を埋 う め、追放 ついほう と平行 へいこう して転入 てんにゅう が進行 しんこう した。入植 にゅうしょく 者 しゃ の第 だい 一 いち 陣 じん は、1945年 ねん 3月 がつ にはすでに到来 とうらい していたという[58] 。彼 かれ らは、まだ赤軍 せきぐん が展開 てんかい している時点 じてん から、戦前 せんぜん の国境 こっきょう に近 ちか いところで、放棄 ほうき された農場 のうじょう や村落 そんらく に入 はい り込 こ んでそれを手 て に入 い れていた[58] 。入植 にゅうしょく 者 しゃ に加 くわ え、他 た のポーランド人 じん たちもやって来 き て略奪 りゃくだつ 行為 こうい に加担 かたん し、すぐさま同様 どうよう の事態 じたい が旧 きゅう ドイツ領 りょう 全域 ぜんいき に広 ひろ がった[58] 。1945年 ねん 3月30日 にち 、「グダニスク県 けん 」が設置 せっち され、回復 かいふく 領 りょう では最初 さいしょ の、ポーランドの地方 ちほう 行政 ぎょうせい 体 たい が成立 せいりつ した[59] 。ドイツ人 じん たちが次々 つぎつぎ と収容 しゅうよう され、追放 ついほう されていく中 なか で、500万 まん 人 にん 近 ちか い入植 にゅうしょく 者 しゃ たちが[14] [60] 、あるいはこの地域 ちいき に引 ひ き寄 よ せられて、あるいは強制 きょうせい されて、1945年 ねん から1950年 ねん の間 あいだ にやって来 き たということになる。さらに、110.4万 まん 人 にん の旧 きゅう ドイツ領 りょう 時代 じだい からの住民 じゅうみん (うち85.1万 まん 人 にん は上 うえ シレジア)が、ポーランド国籍 こくせき を認 みと められて残留 ざんりゅう を許 ゆる された。この結果 けっか 、回復 かいふく 領 りょう におけるポーランド人 じん の人口 じんこう は、1950年 ねん には 5,894,600人 にん に達 たっ した[56] 。入植 にゅうしょく 者 しゃ たちは背景 はいけい の違 ちが いによって以下 いか のような集団 しゅうだん に分 わ けて捉 とら えることができる。
当時 とうじ 、ポーランドやソ連 それん の新聞 しんぶん や役人 やくにん は、ポーランド人 じん に「チャンスにめぐまれた土地 とち 」である西方 せいほう へ移住 いじゅう するよう奨励 しょうれい していた[14] 。こうした新 あたら しい領土 りょうど は、逃亡 とうぼう したドイツ人 じん たちが放棄 ほうき した贅沢 ぜいたく な邸宅 ていたく が、勇敢 ゆうかん なる入植 にゅうしょく 者 しゃ を待 ま っている、とか、家具 かぐ 付 つ きの家 いえ と仕事 しごと が手 て に入 はい る、という風 ふう に表現 ひょうげん されていた。しかし実際 じっさい には、これらの地域 ちいき は戦争 せんそう によって荒廃 こうはい しており、インフラストラクチャーはほとんど破壊 はかい され、高 たか い犯罪 はんざい 率 りつ と略奪 りゃくだつ 行為 こうい の横行 おうこう に悩 なや まされていた。治安 ちあん が回復 かいふく されるまでには、何 なん 年 ねん もの時間 じかん が必要 ひつよう だった。
1970年 ねん 、西部 せいぶ ・北部 ほくぶ 領土 りょうど における人口 じんこう が、はじめて戦前 せんぜん の水準 すいじゅん に並 なら んだ(1970年 ねん - 8,711,900人 にん : 1939年 ねん - 8,855,000人 にん )。同年 どうねん には、ポーランドの他 ほか の地域 ちいき の人口 じんこう も戦前 せんぜん の水準 すいじゅん に達 たっ した(1970年 ねん - 23,930,100人 にん : 1939年 ねん - 23,483,000人 にん )[56] 。
西部 せいぶ ・北部 ほくぶ 領土 りょうど に残留 ざんりゅう するドイツ系 けい 住民 じゅうみん 数 すう の推計 すいけい 値 ち は様々 さまざま なものがあるが、戦後 せんご の追放 ついほう の後 のち にもドイツ系 けい 住民 じゅうみん の脱出 だっしゅつ が続 つづ いていたことははっきりしている。1956年 ねん から1985年 ねん までの間 あいだ 、シレジア 出身 しゅっしん 者 しゃ 40.7万 まん 人 にん 、ヴァルミア・マズールィ県 けん 出身 しゅっしん 者 しゃ およそ10万 まん 人 にん が、ドイツ国籍 こくせき を獲得 かくとく してドイツへと出国 しゅっこく した[56] 。
今日 きょう では、西部 せいぶ ・北部 ほくぶ 領土 りょうど の人口 じんこう のほとんどはポーランド人 じん であるが、小 ちい さなドイツ系 けい 住民 じゅうみん の小 しょう 集団 しゅうだん も、オルシュティン 、マズールィ 地方 ちほう (いずれもヴァルミア=マズールィ県 けん )、上 うえ シレジアの特 とく にオポーレ県 けん などの少数 しょうすう の場所 ばしょ に存在 そんざい している。
共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の政権 せいけん 獲得 かくとく における回復 かいふく 領 りょう の役割 やくわり [ 編集 へんしゅう ]
ヴワディスワフ・ゴムウカ 後 のち にポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう の指導 しどう 者 しゃ となる
民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき な正当 せいとう 性 せい の裏付 うらづ けを欠 か き、赤軍 せきぐん と保安 ほあん 省 しょう 秘密 ひみつ 警察 けいさつ の支持 しじ 、テロとプロパガンダだけを支 ささ えとしていた共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん は、反 はん ドイツのプロパガンダを通 とお して自己 じこ 正当 せいとう 化 か を図 はか った[64] 。ドイツの「報復 ほうふく 主義 しゅぎ 」が、恒久 こうきゅう 的 てき なドイツからの脅威 きょうい として喧伝 けんでん され、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ だけがポーランドの永続 えいぞく 的 てき な回復 かいふく 領 りょう の確保 かくほ を補償 ほしょう し、保護 ほご し得 え るのだとする主張 しゅちょう が展開 てんかい された。当時 とうじ 、国民 こくみん 統一 とういつ 臨時 りんじ 政府 せいふ で副 ふく 首相 しゅしょう 兼 けん 回復 かいふく 領 りょう 担当 たんとう 相 しょう だったヴワディスワフ・ゴムウカ は、1945年 ねん 5月のポーランド労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい で、次 つぎ のように断言 だんげん している。
西部 せいぶ 領土 りょうど の
存在 そんざい は、
政府 せいふ が
人民 じんみん の
支持 しじ を
得 え ている
理由 りゆう のひとつである。それは
対立 たいりつ する
多様 たよう な
要素 ようそ を
中和 ちゅうわ し、
人民 じんみん をひとつにする。
西方 せいほう への
拡大 かくだい と
農業 のうぎょう の
改革 かいかく は、
国民 こくみん を
国家 こっか と
強 つよ く
結 むす びつけるだろう。いかなる
退却 たいきゃく も、
我々 われわれ の
国内 こくない における
立場 たちば を
弱体 じゃくたい 化 か させかねない。
— [15] [65]
当時 とうじ の政権 せいけん による、「所有 しょゆう 者 しゃ を失 うしな った資産 しさん 」の人民 じんみん への再 さい 分配 ぶんぱい は、幅広 はばひろ い層 そう からの共感 きょうかん を獲得 かくとく していた[15] 。
ポーランドの民主 みんしゅ 化 か と回復 かいふく 領 りょう [ 編集 へんしゅう ]
1989年 ねん 12月のポーランド民主 みんしゅ 化 か 、1990年 ねん より始 はじ まる東欧 とうおう 革命 かくめい 、1991年 ねん のソ連 それん 崩壊 ほうかい 、およびドイツ再 さい 統一 とういつ を経 へ て回復 かいふく 領 りょう は以下 いか の経緯 けいい をたどった。
回復 かいふく 領 りょう の法的 ほうてき 位置 いち づけ[ 編集 へんしゅう ]
冷戦 れいせん 期間 きかん 中 ちゅう の西側 にしがわ 諸国 しょこく の公的 こうてき 立場 たちば は、ポツダム会談 かいだん の決定 けってい とされる文書 ぶんしょ (ポツダム協定 きょうてい )について、国際 こくさい 的 てき な条約 じょうやく として認 みと められるものではなく、単 たん なる覚書 おぼえがき に過 す ぎない、とするものであった。ポツダム協定 きょうてい によってドイツの東部 とうぶ 国境 こっきょう はオーデル・ナイセ線 せん と定 さだ められたが、覚書 おぼえがき の最後 さいご の条項 じょうこう には、ドイツの最終 さいしゅう 的 てき な地位 ちい と領土 りょうど は、ドイツと連合 れんごう 国 こく 側 がわ との平和 へいわ 条約 じょうやく によって決 けっ すると記 しる されていた。1945年 ねん から1990年 ねん までの間 あいだ に、ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく は、当時 とうじ のドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (東 ひがし ドイツ) とドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (西 にし ドイツ) の双方 そうほう とそれぞれ国境 こっきょう 線 せん に関 かん する条約 じょうやく を締結 ていけつ した。1950年 ねん 、ポーランドと東 ひがし ドイツは、ズゴジェレツ条約 じょうやく に調印 ちょういん して、オーデル・ナイセ線 せん を正式 せいしき に国境 こっきょう として承認 しょうにん し、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ たちはこれを「平和 へいわ と友好 ゆうこう の国境 こっきょう 」と呼 よ んだ[66] 。1970年 ねん 12月7日 にち 、ポーランドと西 にし ドイツは、ポーランドの西部 せいぶ 国境 こっきょう 線 せん に関 かん してワルシャワ条約 じょうやく に調印 ちょういん し、両者 りょうしゃ が非 ひ 暴力 ぼうりょく を貫 つらぬ き、既存 きそん の「事実 じじつ 上 じょう の」国境 こっきょう であるオーデル・ナイセ線 せん を受 う け入 い れる、とした。しかし、最終 さいしゅう 的 てき な条約 じょうやく は、1990年 ねん のドイツ最終 さいしゅう 規定 きてい 条約 じょうやく を待 ま たなければならなかった。
ドイツ最終 さいしゅう 規定 きてい 条約 じょうやく 以前 いぜん の西 にし ドイツ政府 せいふ は、オーデル・ナイセ線 せん 以東 いとう のドイツ領 りょう を「暫定 ざんてい 的 てき にポーランド、ないし、ソ連 それん の支配 しはい 下 か にある領土 りょうど 」と位置 いち づけていた。1990年 ねん 、ドイツ再 さい 統一 とういつ に対 たい して国際 こくさい 的 てき な承認 しょうにん を得 え ることを容易 ようい にするため、ドイツの政治 せいじ 体制 たいせい は「現実 げんじつ に基礎 きそ をおくこと」を承認 しょうにん し、ドイツ最終 さいしゅう 規定 きてい 条約 じょうやく の条項 じょうこう を受 う け入 い れ、ドイツはオーデル・ナイセ線 せん 以東 いとう の領土 りょうど 要求 ようきゅう をすべて放棄 ほうき することになった。その結果 けっか 、条約 じょうやく をめぐる交渉 こうしょう は順調 じゅんちょう に進 すす み、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 国家 こっか のドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (西 にし ドイツ) と共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国家 こっか のドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (東 ひがし ドイツ) の統一 とういつ も順調 じゅんちょう に進 すす んだ。同年 どうねん 、最終 さいしゅう 規定 きてい 条約 じょうやく が発効 はっこう し、統一 とういつ 後 ご のドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく はポーランドとドイツ・ポーランド国境 こっきょう 条約 じょうやく に調印 ちょういん して、両国 りょうこく 間 あいだ の現在 げんざい の国境 こっきょう を確定 かくてい した。
このように、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 こう は回復 かいふく 領 りょう に関 かん しては共産 きょうさん 主義 しゅぎ 、ポーランド民族 みんぞく 主義 しゅぎ 、ドイツ民族 みんぞく 主義 しゅぎ が入 はい り混 ま じり激 はげ しい思想 しそう 的 てき 戦 たたか いを繰 く り広 ひろ げていた。しかしポーランドが1989年 ねん に民主 みんしゅ 化 か すると、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 時代 じだい の歴史 れきし 記述 きじゅつ に関 かん する間違 まちが いが次々 つぎつぎ と公式 こうしき に訂正 ていせい され、「歴史 れきし 的 てき に固有 こゆう の領土 りょうど を回復 かいふく した」という旧 きゅう 体制 たいせい の概念 がいねん はあっさりと放棄 ほうき された[12] 。
さらに法的 ほうてき には1990年 ねん にドイツ・ポーランド国境 こっきょう 条約 じょうやく が批准 ひじゅん されて公法 こうほう における国境 こっきょう が画定 かくてい し、2008年 ねん に出 だ された欧州 おうしゅう 人権 じんけん 裁判所 さいばんしょ の判決 はんけつ で私法 しほう における国境 こっきょう が画定 かくてい したことで、回復 かいふく 領 りょう に関 かん する問題 もんだい は思想 しそう 的 てき にも法的 ほうてき にも最終 さいしゅう 解決 かいけつ している。
出典 しゅってん ・脚注 きゃくちゅう [ 編集 へんしゅう ]
^ An explanation note in "The Neighbors Respond: The Controversy Over the Jedwabne Massacre in Poland", ed. by Polonsky and Michlic, p. 466
^ a b c An explanation note in "The Neighbors Respond: The Controversy Over the Jedwabne Massacre in Poland" , ed. by Polonsky and Michlic, p.466
^ ポメラニア のうち、Hinterpommern(「下 しも ポメラニア」などとも訳 やく される、ポメラニア東部 とうぶ )がポーランド領 りょう となり、その範囲 はんい は現在 げんざい のポーランドの西 にし ポモージェ県 けん 、ポモージェ県 けん などに及 およ んでいる。
^ a b 1946年 ねん にこの地域 ちいき がポーランドの地方 ちほう 行政 ぎょうせい に編入 へんにゅう された際 さい には、東部 とうぶ の一部 いちぶ がポドラシェ県 けん に組 く み込 こ まれ、残 のこ りの部分 ぶぶん が「オルシュティンスキ県 けん 」となった。その後 ご 、ポドラシェ県 けん にいったん組 く み込 こ まれた部分 ぶぶん も含 ふく めて県 けん が再編 さいへん され、ヴァルミア県 けん とマズールィ県 けん が成立 せいりつ した。1999年 ねん にヴァルミア県 けん とマズールィ県 けん が合併 がっぺい して、現在 げんざい のヴァルミア・マズールィ県 けん が成立 せいりつ した。「回復 かいふく 領 りょう 」が広 ひろ く用 もち いられていた1989年 ねん の民主 みんしゅ 化 か 以前 いぜん には、2県 けん が別個 べっこ に存在 そんざい していた。県 けん としての記述 きじゅつ ではなく、歴史 れきし 的 てき な地域 ちいき としての記述 きじゅつ であるが、各国 かっこく 語 ご 版 ばん のヴァルミア (pl:Warmia 、de:Ermland 、en:Warmia )、マズールィ (pl:Mazury 、de:Masuren 、en:Masuria ) も参照 さんしょう のこと。
^ a b Tomasz Kamusella and Terry Sullivan in Karl Cordell, Ethnicity and Democratisation in the New Europe , 1999, p.169: "[the term "recovered territories" was] christened so by the Polish communist-cum-nationalist propaganda", ISBN 0415173124 , 9780415173124
^ a b Joanna B. Michlic, Poland's Threatening Other: The Image of the Jew from 1880 to the Present , 2006, pp.207-208, ISBN 0803232403 , 9780803232402
^ a b Norman Davies, God's Playground: A History of Poland in Two Volumes , 2005, pp.381ff, ISBN 0199253404 , 9780199253401
^ a b c d e f g h i j Geoffrey Hosking, George Schopflin, Myths and Nationhood , 1997, p.153, ISBN 0415919746 , 9780415919746
^ a b Jan Kubik, The Power of Symbols Against the Symbols of Power: The Rise of Solidarity and the Fall of State Socialism in Poland , 1994, pp.64-65, ISBN 0271010843 , 9780271010847
^ Davies, pp.381ff, p.395
^ Karl Cordell, Andrzej Antoszewski, Poland and the European Union , 2000, p.166, ISBN 0415238854 , 9780415238854
^ a b Karl Cordell, Stefan Wolff, Germany's Foreign Policy Towards Poland and the Czech Republic: Ostpolitik Revisited , 2005, ISBN 0415369746 , 9780415369749, p.139 : "In addition [...] it has been relatively easy for Polish historians and others to attempt to debunk communist historiography and present a more balanced analysis of the past - and not only with respect to Germany. It has been controversial, and often painful, but nevertheless it has been done. For example, Poland's acquisition in 1945 of eastern German territories is increasingly presented as the price Germany paid for launching a total war, and then having lost it totally. The 'recovered territories' thesis previously applied in almost equal measures by the communists and Catholic Church has been discarded. It is freely admitted in some circles that on the whole 'the recovered territorries' in fact had a wholly German character. The extent to which this fact is transmitted to other groups than the socially and politically engaged is a matter for some debate. 「加 くわ えて...ポーランドの歴史 れきし 家 か たちや他 た の者 もの にとって、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ たちの歴史 れきし 編纂 へんさん の暗部 あんぶ を暴露 ばくろ し、よりバランスがとれた過去 かこ の分析 ぶんせき を提示 ていじ しようとすることは決 けっ して難 むずか しいことではなく、これはドイツに関 かん することばかりではなかった。それは議論 ぎろん を呼 よ ぶ、また、しばしば痛 いた みを伴 ともな う仕事 しごと であったが、結局 けっきょく は成 な し遂 と げられた。例 たと えば、1945年 ねん にポーランドが獲得 かくとく したドイツ東方 とうほう 領土 りょうど は、全面 ぜんめん 戦争 せんそう を起 お こし全面 ぜんめん 的 てき に敗北 はいぼく したドイツが支払 しはら った対価 たいか として提示 ていじ されるようになってきている。かつて、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん とカトリック教会 きょうかい がほとんど同様 どうよう に唱 とな えていた『回復 かいふく 領 りょう 』の主張 しゅちょう は、もはや放棄 ほうき された。一部 いちぶ には、『回復 かいふく 領 りょう 』が実際 じっさい は全 まった くドイツ的 てき 性格 せいかく であることを、自由 じゆう に認 みと める立場 たちば の人々 ひとびと もいる。ただし、この事実 じじつ が、社会 しゃかい 的 てき ・政治 せいじ 的 てき に深 ふか い関心 かんしん を持 も っている人々 ひとびと の範囲 はんい を超 こ えて、どの程度 ていど まで広 ひろ がりをもっているのかという点 てん については、さらに議論 ぎろん を要 よう するところである。」
^ a b c d Dierk Hoffmann, Michael Schwartz, Geglückte Integration? , p.142
^ a b c d e f g h Cordell, Antoszewski, p.168 によれば、最初 さいしょ の1年 ねん で455万 まん 人 にん が到来 とうらい したとされる。
^ a b c d e Dan Diner, Raphael Gross, Yfaat Weiss, Jüdische Geschichte als allgemeine Geschichte , p.164
^ Thum, p.344
^ 県 けん 名 めい pl:Województwo zachodniopomorskie は「西 にし ポメラニア」という意味 いみ であるが、現在 げんざい ドイツ側 がわ のメクレンブルク=フォアポンメルン州 しゅう の一部 いちぶ となっている、かつての「西 にし ポメラニア」(de:Vorpommern 、「上 うえ ポメラニア」と訳 やく されることもある)と混同 こんどう しないよう注意 ちゅうい 。
^ シレジア州 しゅう は、1919年 ねん に下 した シレジア州 しゅう (Niederschlesien) と上 うえ シレジア州 しゅう (Oberschlesien) に分割 ぶんかつ された。ドルヌィ・シロンスク県 けん は、ポーランド語 ご で「下 した シレジア県 けん 」の意 い であり、範囲 はんい は下 した シレジア州 しゅう とほぼ重 かさ なる。
^ 歴史 れきし 的 てき なルーサティア(ドイツ語 ご : Lausitz 、ラウジッツ )の大 だい 部分 ぶぶん は、ドイツ側 がわ のブランデンブルク州 しゅう に所属 しょぞく している。
^ 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 以前 いぜん からのポーランドの「ポモージェ県 けん 」は、現在 げんざい のクヤヴィ・ポモージェ県 けん の領域 りょういき を中心 ちゅうしん に、現在 げんざい のポモージェ県 けん とヴィエルコポルスカ県 けん の一部 いちぶ まで広 ひろ がっていた。県 けん 都 と は、現在 げんざい のクヤヴィ・ポモージェ県 けん の県 けん 都 と であるブィドゴシュチュ に置 お かれていた。現在 げんざい のポモージェ県 けん は、旧 きゅう 「ポモージェ県 けん 」のバルト海 ばるとかい に近 ちか い部分 ぶぶん と旧 きゅう 自由 じゆう 都市 とし ダンツィヒ の領域 りょういき を合 あ わせて1946年 ねん に成立 せいりつ した「グタニスキェ県 けん 」に、旧 きゅう 西 にし プロイセン州 しゅう (第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の結果 けっか 、既 すで に大 だい 部分 ぶぶん がポーランド領 りょう となっていた)、旧 きゅう ポメルン州 しゅう の一部 いちぶ を合 あ わせて成立 せいりつ したものである。
^ Lauterpacht, E (1961). International Law Reports . Cambridge University Press. p. 77. ISBN 0521463696 . "under the "administration" of Poland the territory of the former Free City of Danzig and certain former German territories. These territories, situated east of the Oder and Neisse rivers, have since been referred to by the Polish legislation as "the Recovered Territories" 「...ポーランド『当局 とうきょく 』支配 しはい 下 か の旧 きゅう ダンチッヒ自由 じゆう 市 し および一定 いってい の旧 きゅう ドイツ領土 りょうど 。オーデル川 がわ およびナイセ川 かわ の東 ひがし に位置 いち するこれらの領土 りょうど は、以降 いこう ポーランド行政 ぎょうせい 下 か で『回復 かいふく 領 りょう 』と呼 よ ばれている...」
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^ 終戦 しゅうせん 直後 ちょくご はルブシュ県 けん が独立 どくりつ しておらず、その範囲 はんい は当時 とうじ の「ポズナニ県 けん 」の一部 いちぶ であった。「ポズナニ県 けん 」は、現在 げんざい のヴィエルコポルスカ県 けん の大 だい 部分 ぶぶん とルブシュ県 けん を合 あ わせた範囲 はんい にほぼ相当 そうとう する。
^ Zybura, p.58
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国境 こっきょう 線 せん
地名 ちめい