ドイツ東部 とうぶ の領土 りょうど 変遷 へんせん 図 ず 第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に喪失 そうしつ した地域 ちいき :
メーメルラント 、西 にし プロイセン 、ポーゼン州 しゅう (英語 えいご 版 ばん ) 、及 およ びシュレージエン の一部 いちぶ 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に喪失 そうしつ した地域 ちいき :
東 ひがし プロイセン 、ポンメルン 、東 ひがし ブランデンブルク(ノイマルク地方 ちほう (英語 えいご 版 ばん ) )、及 およ びシュレージエン
旧 きゅう ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど (きゅうドイツとうぶりょうど、ドイツ語 ご : Ehemalige deutsche Ostgebiete )は、第 だい 一 いち 次 じ ・第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち にドイツ が失 うしな ったオーデル・ナイセ線 せん 以東 いとう の州 しゅう や地域 ちいき (領土 りょうど )を集合 しゅうごう 的 てき に呼 よ ぶ用語 ようご である。特 とく にドイツでは、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でドイツが失 うしな った領域 りょういき のみを指 さ すことが多 おお い[ 1] 。大戦 たいせん 後 ご にドイツが失 うしな った領土 りょうど は、第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 時 じ に全体 ぜんたい の13%、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 時 じ に全体 ぜんたい の38%に及 およ んでいる[ 2] 。
ウーゼドム島 とう のオーデル・ナイセ線 せん
ポツダム協定 きょうてい において、ドイツから他国 たこく へ移譲 いじょう される領域 りょういき は「旧 きゅう ドイツ領域 りょういき (オーデル・ナイセ線 せん の東 ひがし )」と表記 ひょうき された。以後 いご 、オーデル・ナイセ線 せん の東 ひがし に位置 いち する旧 きゅう ドイツ領 りょう を指 さ すにあたっては、その領有 りょうゆう 時期 じき を問 と わず、この「旧 きゅう ドイツ領域 りょういき 」という表現 ひょうげん を改変 かいへん した用語 ようご がもっとも一般 いっぱん 的 てき に使用 しよう されてきている。
「東 ひがし ドイツ」と言 い う用語 ようご は、20世紀 せいき の国境 こっきょう 移動 いどう により徐々 じょじょ に意味 いみ が変化 へんか した。かつては第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ の旧 きゅう ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど をさす語 かたり として使 つか われていたが[要 よう 出典 しゅってん ] 、後 のち には、戦後 せんご のドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく およびドイツ再 さい 統一 とういつ 後 ご の当該 とうがい 5州 しゅう (戦前 せんぜん の「中部 ちゅうぶ ドイツ」(ドイツ語 ご : Mitteldeutschland ))を表 あらわ すようになった。ザクセン州 しゅう などの東部 とうぶ の州 しゅう においては、現在 げんざい でも行政 ぎょうせい 機関 きかん が自 じ 領域 りょういき を「中央 ちゅうおう ドイツ」と呼 よ ぶ例 れい がある。
20世紀 せいき の政治 せいじ における旧 きゅう 東部 とうぶ 領土 りょうど [ 編集 へんしゅう ]
これらの領域 りょういき の全部 ぜんぶ または一部 いちぶ の主権 しゅけん 問題 もんだい は、1919年 ねん から1990年 ねん に至 いた るまで、頻繁 ひんぱん に外交 がいこう 上 じょう の問題 もんだい となった。両 りょう 大戦 たいせん 間 あいだ のドイツでは、ヴェルサイユ条約 じょうやく により1919年 ねん にドイツから割譲 かつじょう された領域 りょういき (大 だい 部分 ぶぶん は18世紀 せいき 末 まつ にポーランド分割 ぶんかつ により獲得 かくとく された地域 ちいき )はドイツに戻 もど されるべきという主張 しゅちょう が盛 さか んになされた。この主張 しゅちょう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の重要 じゅうよう な先触 さきぶ れの一 ひと つであった。1939年 ねん 、ドイツはポーランドに侵攻 しんこう すると、当該 とうがい 領域 りょういき を再 さい 占領 せんりょう し併合 へいごう したのである。そして、1945年 ねん に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終結 しゅうけつ すると、当該 とうがい 領域 りょういき に対 たい する管轄 かんかつ 権 けん (裁判 さいばん 権 けん )の国際 こくさい 的 てき な承認 しょうにん は撤回 てっかい され、ドイツはオーデル・ナイセ線 せん の東側 ひがしがわ 領域 りょういき を全 すべ て失 うしな った[ 注 ちゅう 1] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のポーランドでは、オーデル・ナイセ線 せん の東 ひがし にある1937年 ねん のドイツ国境 こっきょう 内 ない の領域 りょういき は、ソ連 それん の管理 かんり 下 か に置 お かれた東 ひがし プロイセン北部 ほくぶ (後 のち にカリーニングラード州 しゅう として、ロシア共和 きょうわ 国 こく に編入 へんにゅう )を除 のぞ き獲得 かくとく した領土 りょうど を「回復 かいふく 領 りょう 」と呼 よ んでいる。1945年 ねん 、ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく がナチス・ドイツから「回復 かいふく した」領域 りょういき であるとして、プロパガンダ[ 4] として回復 かいふく 領 りょう という言葉 ことば を用 もち いることを好 この んだ。しかしこの表現 ひょうげん は正式 せいしき には1949年 ねん に使用 しよう されなくなった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のドイツの歴史 れきし および政治 せいじ においては、所謂 いわゆる 「ドイツ問題 もんだい 」が重要 じゅうよう な焦点 しょうてん であった。ドイツ問題 もんだい を巡 めぐ る論争 ろんそう は、冷戦 れいせん の政治 せいじ と外交 がいこう に影響 えいきょう を及 およ ぼし、1990年 ねん のドイツ再 さい 統一 とういつ に向 む けた交渉 こうしょう で重要 じゅうよう な役割 やくわり を演 えん じた。1990年 ねん 、ドイツ再 さい 統一 とういつ に際 さい して、ドイツは現在 げんざい の東部 とうぶ 国境 こっきょう を正式 せいしき にドイツ最終 さいしゅう 規定 きてい 条約 じょうやく で承認 しょうにん した。
現在 げんざい もポーランド政府 せいふ は、没収 ぼっしゅう した個人 こじん の資産 しさん や土地 とち の返却 へんきゃく 及 およ び賠償 ばいしょう において拒否 きょひ を続 つづ け、ドイツとポーランド両国 りょうこく 間 あいだ の問題 もんだい となっている[ 5] 。
1871年 ねん -1945年 ねん のドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど [ 編集 へんしゅう ]
ブランデンブルク・プロイセンの拡大 かくだい (1600年 ねん -1795年 ねん )
1871年 ねん -1918年 ねん のドイツ帝国 ていこく におけるプロイセン(緑 みどり )
現在 げんざい のポーランド共和 きょうわ 国領 こくりょう における旧 きゅう ドイツ帝国 ていこく 領 りょう (1871年 ねん - 1945年 ねん )
1871年 ねん のドイツ帝国 ていこく 建国 けんこく の際 さい 、最大 さいだい かつ最 さい 有力 ゆうりょく な地域 ちいき がプロシア (プロイセン)であった。すなわち、その領域 りょういき であった東 ひがし ブランデンブルク 、シレジア 、ポメラニア 、およびプロイセン 地域 ちいき やポズナン (ポーゼン)は、1871年 ねん の建国 けんこく 以来 いらい のドイツ帝国 ていこく 領 りょう であった。後 のち にこの領域 りょういき はドイツで「ドイツ帝国 ていこく 東部 とうぶ 領土 りょうど 」(Ostgebiete des deutschen Reiches)と呼 よ ばれることになる。
ポーゼン州 しゅう 中央 ちゅうおう 部 ぶ および東部 とうぶ [ 6] や上部 じょうぶ シレジア の東 ひがし 南部 なんぶ 、あるいは西 にし プロシア の西部 せいぶ (後 のち にポーランド回廊 かいろう となる地域 ちいき )といった一部 いちぶ の地域 ちいき では、人口 じんこう の過半 かはん はポーランド人 じん が占 し めており、それに対 たい して他 た の地域 ちいき は[要 よう 出典 しゅってん ] ドイツ人 じん が多数 たすう を占 し めていた。
しかし、帝国 ていこく 議会 ぎかい の主要 しゅよう 勢力 せいりょく であるカトリック中央 ちゅうおう 党 とう が徐々 じょじょ に、そしてのちには露骨 ろこつ にポーランド語 ご 話者 わしゃ の権利 けんり を否定 ひてい するようになると、ドイツ帝国 ていこく 議会 ぎかい およびプロイセン王国 おうこく 議会 ぎかい のポーランド人 じん 議員 ぎいん であるヴォイチェフ・コルファンティ は、本来 ほんらい はコスモポリタニズム (超 ちょう 国家 こっか 市民 しみん 主義 しゅぎ )であったはずのカトリック教会 きょうかい やカトリック中央 ちゅうおう 党 とう がドイツ民族 みんぞく 主義 しゅぎ の道具 どうぐ として利用 りよう されていることを悟 さと り、党 とう から離脱 りだつ 、上 うえ シレジア地方 ちほう などのポーランド語 ご 話者 わしゃ および既 すで に生活 せいかつ がドイツ化 か しドイツ民族 みんぞく として登録 とうろく されていた膨大 ぼうだい なポーランド系 けい ドイツ帝国 ていこく 臣民 しんみん に対 たい し、ポーランド人 じん としての民族 みんぞく 覚醒 かくせい を強力 きょうりょく に訴 うった えた。ブレスラウ(現 げん ヴロツワフ )のブレスラウ大学 だいがく ではコルファンティはドイツ民族 みんぞく のうちに自身 じしん の政治 せいじ 思想 しそう の理解 りかい 者 しゃ たちを見 み つけた。コルファンティに対 たい する強力 きょうりょく なドイツ人 じん 支持 しじ 者 しゃ たちのなかには、当時 とうじ ブレスラウ大学 だいがく の助教授 じょきょうじゅ で、のちにベルリン大学 だいがく の教授 きょうじゅ となる、マックス・ヴェーバー と並 なら び称 しょう されるドイツ社会 しゃかい 学者 がくしゃ ヴェルナー・ゾンバルト がいたのである。 [要 よう 出典 しゅってん ]
民族 みんぞく 集団 しゅうだん を表 あらわ す1880年 ねん からのドイツ地図 ちず
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 時 じ のヴェルサイユ条約 じょうやく では、ドイツ領 りょう の一部 いちぶ を他国 たこく に割譲 かつじょう することが強 し いられた。中央 ちゅうおう ヨーロッパにおいて割譲 かつじょう されたのは以下 いか の地域 ちいき である。
ヴェルサイユ条約 じょうやく においては、明 あき らかにポーランド語 ご 話者 わしゃ が過半 かはん を占 し める領域 りょういき は、たとえ住民 じゅうみん 投票 とうひょう で反対 はんたい が多数 たすう であっても、ポーランドに割譲 かつじょう された。しかし、ポーランド内 ない のゲルマン民族 みんぞく による入植 にゅうしょく の正当 せいとう 性 せい を認 みと める要求 ようきゅう は絶 た えず、当該 とうがい 領域 りょういき がドイツに属 ぞく すべきかポーランドに属 ぞく すべきかという問題 もんだい を再燃 さいねん させつづけ、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の原因 げんいん の一 ひと つとなった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
フルチーン地域 ちいき とメーメル地方 ちほう のドイツ併合 へいごう [ 編集 へんしゅう ]
1925年 ねん のヴァイマル共和 きょうわ 政 せい
1938年 ねん 10月 がつ 、ヴェルサイユ条約 じょうやく に基 もと づいてチェコスロバキアに割譲 かつじょう されたモラヴィア・スレスコ州 しゅう のフルチーン地域 ちいき (英語 えいご 版 ばん ) (チェコ語 ご でHlučínsko 、ドイツ語 ご でHultschiner Ländchen )は、ミュンヘン会談 かいだん によりチェコスロバキアが失 うしな う地域 ちいき の一部 いちぶ として第 だい 三 さん 帝国 ていこく に併合 へいごう された。しかし他 た のチェコスロバキアによる失地 しっち とは違 ちが い、ズデーテンラント帝国 ていこく 大 だい 管区 かんく (ズデーテン地方 ちほう を含 ふく む行政 ぎょうせい 区域 くいき )ではなく、プロイセン自由 じゆう 州 しゅう (上部 じょうぶ シレジア )に併合 へいごう された。
1938年 ねん 後半 こうはん までに、リトアニアはクライペダ地方 ちほう (メーメル地方 ちほう )の支配 しはい 権 けん を失 うしな っていた。最後 さいご 通牒 つうちょう を突 つ きつけられたリトアニア代表 だいひょう 団 だん はベルリンへ急行 きゅうこう したが、1939年 ねん 3月 がつ 23日 にち 早朝 そうちょう 、リトアニア外務 がいむ 大臣 だいじん ユオザス・ウルプシース (英語 えいご 版 ばん ) とドイツ外務 がいむ 大臣 だいじん ヨアヒム・フォン・リッベントロップ は「ドイツに対 たい するメーメル地方 ちほう 割譲 かつじょう 条約 じょうやく 」に調印 ちょういん し、代 か わりにリトアニアは数 すう 年 ねん 前 まえ に建設 けんせつ したばかりのメーメル港 こう におけるリトアニアの自由 じゆう 貿易 ぼうえき 権 けん を保障 ほしょう された。
1941年 ねん の帝国 ていこく 大 だい 管区 かんく の地図 ちず
1944年 ねん のドイツ地図 ちず
1939年 ねん 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 開戦 かいせん にてポーランドの領土 りょうど が占領 せんりょう される と、ドイツはヴェルサイユ条約 じょうやく によって失 うしな った東部 とうぶ 領土 りょうど 、およびその他 た の東部 とうぶ 領土 りょうど を一方 いっぽう 的 てき に併合 へいごう した。ポーランドは降伏 ごうぶく しておらず、連合 れんごう 国 こく の一員 いちいん として戦 たたか いを続 つづ けており、この領域 りょういき 変更 へんこう は連合 れんごう 国 こく 側 がわ (1942年 ねん に連合 れんごう 国 こく 共同 きょうどう 宣言 せんげん により国際 こくさい 連合 れんごう を結成 けっせい )からは一切 いっさい 承認 しょうにん されなかった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
ポーランド侵攻 しんこう 後 ご 、第 だい 三 さん 帝国 ていこく はヴェルサイユ条約 じょうやく により1919年 ねん -1922年 ねん にポーランド第 だい 二 に 共和 きょうわ 国 こく に割譲 かつじょう したドイツ帝国 ていこく の旧 きゅう 領土 りょうど (「ポーランド回廊 かいろう 」、西 にし プロイセン 、ポーゼン州 しゅう 、上部 じょうぶ シレジア の一部 いちぶ を含 ふく む)を一方 いっぽう 的 てき に併合 へいごう した。自由 じゆう 都市 とし ダンツィヒ でも、評議 ひょうぎ 会 かい が再 ふたた びドイツ領 りょう となることを議決 ぎけつ した。ただし、ポーランド人 じん とユダヤ人 じん は投票 とうひょう 権 けん を奪 うば われ、ナチス 以外 いがい の政党 せいとう は全 すべ て禁止 きんし された上 うえ での投票 とうひょう であった。ドイツ帝国 ていこく 領 りょう でなかったポーランド領 りょう も、第 だい 三 さん 帝国 ていこく に併合 へいごう された。 [要 よう 出典 しゅってん ]
アドルフ・ヒトラー の二 ふた つの布告 ふこく (1939年 ねん 10月 がつ 8日 にち と10月 がつ 12日 にち )により、併合 へいごう されたポーランド領 りょう は次 つぎ の行政 ぎょうせい 区画 くかく に分割 ぶんかつ された。
当該 とうがい 領域 りょういき は9万 まん 4000km2 を占 し め、1000万 まん 人 にん の人口 じんこう があった。残 のこ りのポーランド領土 りょうど はソビエト連邦 れんぽう のポーランド侵攻 しんこう によって併合 へいごう (英語 えいご 版 ばん ) されたり(独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を参照 さんしょう )、ドイツの管理 かんり するポーランド総督 そうとく 府 ふ の支配 しはい 下 か に置 お かれたりした。
1941年 ねん 6月 がつ のバルバロッサ作戦 さくせん にてドイツがソビエトを攻撃 こうげき すると、ビャウィストク 、ビエルスク・ポドラスキ (英語 えいご 版 ばん ) 、グライェヴォ (英語 えいご 版 ばん ) 、ウォムジャ 、ソクウカ (英語 えいご 版 ばん ) 、ヴァウカヴィスク 、フロドナ を含 ふく むビャウィストク地区 ちく は、東 ひがし プロイセンに「付属 ふぞく 」(併合 へいごう ではない)された。一方 いっぽう 、リヴィウ 、イヴァーノ=フランキーウシク 、テルノーピリ を含 ふく むガリツィア (ガリチア地区 ちく (英語 えいご 版 ばん ) )はポーランド総督 そうとく 府領 ふりょう とされた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、ポツダム会談 かいだん (1945年 ねん 7月 がつ 17日 にち から8月 がつ 2日 にち まで)での合意 ごうい 通 どお り、オーデル・ナイセ線 せん の東 ひがし の地域 ちいき 全 すべ てが、1939年 ねん 以前 いぜん にドイツ領 りょう として国際 こくさい 社会 しゃかい が承認 しょうにん していたか第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん でドイツが占領 せんりょう したかにかかわらず、他国 たこく の支配 しはい 下 か に置 お かれた。関連 かんれん するポツダム協定 きょうてい の条項 じょうこう は、次 つぎ の通 とお りである。
V. ケーニヒスベルク と近隣 きんりん 地域 ちいき
会談 かいだん では、ダンツィヒ湾 わん 東岸 とうがん の地点 ちてん から東 ひがし に、ブラウンスベルク・ゴルダプの北 きた を、リトアニア・ポーランド共和 きょうわ 国 こく ・東 ひがし プロイセンの国境 こっきょう 合流 ごうりゅう 地点 ちてん に及 およ ぶ、バルト海 ばるとかい に隣接 りんせつ するソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう の西部 せいぶ 戦線 せんせん の領域 りょういき について、和平 わへい 調停 ちょうてい では領土 りょうど 問題 もんだい の最終 さいしゅう 決定 けってい を保留 ほりゅう するというソビエト連邦 れんぽう 政府 せいふ による提案 ていあん を検討 けんとう した。
会談 かいだん では、原則 げんそく として、ケーニヒスベルクとその隣接 りんせつ 地域 ちいき のソビエト連邦 れんぽう への最終 さいしゅう 的 てき な移管 いかん に関 かん して、上記 じょうき のように、実際 じっさい の国境 こっきょう を専門 せんもん 家 か による検討 けんとう の対象 たいしょう とする、というソビエト政府 せいふ の提案 ていあん に合意 ごうい した。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう とイギリス
首相 しゅしょう は、
来 きた るべき
和平 わへい 調停 ちょうてい において、
本 ほん 会談 かいだん における
本 ほん 提案 ていあん を
支持 しじ することを
表明 ひょうめい した。
VIII. ポーランド
...
イギリス政府 せいふ とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 政府 せいふ は、ポーランド国民 こくみん 統一 とういつ 臨時 りんじ 政府 せいふ をポーランド国 こく の承認 しょうにん された政府 せいふ とし、ポーランド国 こく の領域 りょういき 内 ない にあり、その支配 しはい 下 か にあるポーランド国 こく に属 ぞく する資産 しさん に関 かん する権利 けんり について、その資産 しさん の種別 しゅべつ を問 と わず、保護 ほご する手段 しゅだん を講 こう じた。
...
クリミア会談 かいだん で到達 とうたつ したポーランドに関 かん する合意 ごうい に従 したが い、3ヶ国 かこく の首脳 しゅのう は、ポーランドが受 う け取 と るべき北 きた と西 にし の領域 りょういき の追加 ついか に関 かん するポーランド国民 こくみん 統一 とういつ 臨時 りんじ 政府 せいふ の意見 いけん を求 もと めた。ポーランド全国 ぜんこく 評議 ひょうぎ 員 いん 会 かい 代表 だいひょう とポーランド国民 こくみん 統一 とういつ 臨時 りんじ 政府 せいふ のメンバーが会談 かいだん に迎 むか えられ、十分 じゅうぶん に意見 いけん を表明 ひょうめい した。3ヶ国 かこく の首脳 しゅのう は、ポーランドの西部 せいぶ 国境 こっきょう の最終 さいしゅう 決定 けってい は、和平 わへい 調停 ちょうてい を待 ま つべきであるという彼 かれ らの意見 いけん を再 さい 確認 かくにん する。
3
ヶ国 かこく の
首脳 しゅのう は、ポーランド
西部 せいぶ 国境 こっきょう に
関 かん する
最終 さいしゅう 決定 けってい を
保留 ほりゅう しつつ、
バルト海 ばるとかい からシュヴァイナムンデのすぐ
西 にし を
始点 してん として、そこからオーデル
川 がわ (ポーランド
語 ご :オドラ
川 がわ )
沿 ぞ いを
西 にし のナイセ
川 がわ (ポーランド
語 ご :ニイサ
川 がわ )の
合流 ごうりゅう 点 てん に
至 いた り、
西 にし ナイセ
川 かわ 沿 ぞ いをチェコスロバキア
国境 こっきょう に
至 いた る
線 せん によって
囲 かこ まれる、
本 ほん 会談 かいだん で
到達 とうたつ した
了解 りょうかい にしたがってソビエト
社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう の
支配 しはい 下 か に
置 お かれない
東 ひがし プロイセンの
地域 ちいき を
含 ふく み、また
自由 じゆう 都市 とし ダンツィヒの
領域 りょういき を
含 ふく む
旧 きゅう ドイツ領域 りょういき について、ポーランド
国家 こっか の
統治 とうち 下 か におかれ、この
趣旨 しゅし において
ソ連 それん のドイツ
占領 せんりょう 地域 ちいき の
一部 いちぶ とみなされるべきではないことを
合意 ごうい する。(
強調 きょうちょう は
引用 いんよう 者 しゃ による)
連合 れんごう 国 こく は次 つぎ のようにも合意 ごうい した。
XII. ドイツ人 じん の秩序 ちつじょ ある移転 いてん
(ソビエト
連邦 れんぽう 、
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、イギリスの)3
ヶ国 かこく 政府 せいふ は、
本 ほん 問題 もんだい についてあらゆる
側面 そくめん から
検討 けんとう し、ポーランド、チェコスロバキアおよびハンガリーに
残 のこ る
全 ぜん ドイツ
人 じん 、またはその
一部 いちぶ のドイツへの
移転 いてん を
実施 じっし しなければならないであろうという
理解 りかい をえた。また、
実施 じっし される
移転 いてん は
秩序 ちつじょ よく、
人道的 じんどうてき に
実行 じっこう されるべきことを
合意 ごうい した。
この合意 ごうい の理由 りゆう について、ウィンストン・チャーチル は次 つぎ のように述 の べている[ 9] 。
追放 ついほう こそが、我々 われわれ が検討 けんとう できた範囲 はんい において、最 もっと も満足 まんぞく でき長 なが く維持 いじ できる手段 しゅだん である。終 お わりなき問題 もんだい の原因 げんいん となる人口 じんこう の混在 こんざい は行 おこ なわない。一掃 いっそう するのである。
1920年 ねん -1945年 ねん に失 うしな われたドイツ領 りょう 水色 みずいろ :第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に失 うしな った領土 りょうど 緑色 みどりいろ :第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご にポーランドへ割譲 かつじょう された領土 りょうど (回復 かいふく 領 りょう )黄色 おうしょく :第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご にソビエト連邦 れんぽう へ割譲 かつじょう された領土 りょうど (カリーニングラード州 しゅう )
当該 とうがい 領域 りょういき の最終 さいしゅう 処分 しょぶん に関 かん する論争 ろんそう は、1945年 ねん から1990年 ねん にかけて、国際 こくさい 的 てき な議論 ぎろん の主題 しゅだい となった。
西 にし ドイツ政府 せいふ は「一時 いちじ 的 てき にポーランドとソ連 それん の管理 かんり 下 か にある旧 きゅう ドイツ領土 りょうど 」という用語 ようご を用 もち いることを好 この んだ(注 ちゅう :ここで言 い う「旧 きゅう ドイツ領土 りょうど 」は、1937年 ねん のドイツ国境 こっきょう 内 ない の東部 とうぶ ドイツのことである)。このい回 いまわ しはポツダム協定 きょうてい で用 もち いられたものだが、西 にし ドイツ政府 せいふ だけが使用 しよう し、ポーランド政府 せいふ とソ連 それん 政府 せいふ は、当該 とうがい 領域 りょういき がいずれドイツ に返還 へんかん されるべきとの明白 めいはく な含意 がんい に反対 はんたい し、使用 しよう しなかった。[要 よう 出典 しゅってん ]
スターリン主義 しゅぎ の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 もの の率 ひき いていた、当時 とうじ のポーランド政府 せいふ は、当該 とうがい 領域 りょういき が第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の500年 ねん 前 まえ にポーランド民族 みんぞく により支配 しはい され、そして1945年 ねん にナチス・ドイツから「回復 かいふく した」領域 りょういき であるとして、プロパガンダ[ 4] として回復 かいふく 領 りょう という言葉 ことば を用 もち いることを好 この んだ。しかしこの表現 ひょうげん は公式 こうしき には1949年 ねん に使用 しよう されなくなった。
1945年 ねん 、新 しん ポーランド・ドイツ国境 こっきょう の標識 ひょうしき 設置 せっち
オーデル・ナイセ線 せん の東 ひがし のドイツ語 ご 話者 わしゃ 人口 じんこう (旧 きゅう ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど だけで約 やく 1000万 まん 人 にん )のうち、既 すで に1944年 ねん から45年 ねん の冬 ふゆ に、前進 ぜんしん する赤軍 せきぐん からドイツ当局 とうきょく により撤退 てったい させられたり、自力 じりき 脱出 だっしゅつ したり していなかった人々 ひとびと は、大 だい 部分 ぶぶん が追放 ついほう された 。戦後 せんご すぐのドイツの情報 じょうほう 源 げん は、撤退 てったい したり追放 ついほう されたドイツ人 じん の数 かず を1600万 まん 人 にん 、死者 ししゃ の数 かず を170万 まん 人 にん から[ 10] 250万 まん 人 にん と[ 11] 引用 いんよう することも珍 めずら しくなかったが、今日 きょう その数 かず は一部 いちぶ の歴史 れきし 家 か から誇張 こちょう されているとされ、40万 まん 人 にん から60万 まん 人 にん が妥当 だとう だろうとみなされている[ 12] 。今日 きょう の概算 がいさん では、ドイツ人 じん 難民 なんみん の数 かず を1400万 まん 人 にん 、そのうち約 やく 50万 まん 人 にん が撤退 てったい や追放 ついほう の途上 とじょう で死亡 しぼう したとする見解 けんかい がある[ 12] [ 13] 。ポーランドでは、追放 ついほう の途上 とじょう にあるドイツ人 じん たちに私的 してき に援助 えんじょ の手 て を差 さ し伸 の べることは禁止 きんし された。 [要 よう 出典 しゅってん ]
同時 どうじ に、中央 ちゅうおう ポーランド出身 しゅっしん のポーランド人 じん 、旧 きゅう ポーランド領 りょう から追放 ついほう されたポーランド人 じん 、抑留 よくりゅう や強制 きょうせい 労働 ろうどう から生還 せいかん したポーランド人 じん 、ヴィスワ作戦 さくせん で強制 きょうせい 的 てき に再 さい 移住 いじゅう させられたウクライナ人 じん 、およびホロコースト を生 い き延 の びたユダヤ人 じん が、ポーランドが得 え た領土 りょうど に入植 にゅうしょく したが、旧 きゅう 東 ひがし プロイセン (カリーニングラード州 しゅう )の北 きた は、軍事 ぐんじ 地域 ちいき に編入 へんにゅう され、次 つ いでロシア人 じん が入植 にゅうしょく した。[要 よう 出典 しゅってん ]
ヴィリー・ブラント が西 にし ドイツの首相 しゅしょう だった1970年代 ねんだい 、西 にし ドイツは外交 がいこう 関係 かんけい 政策 せいさく についてハルシュタイン原則 げんそく を捨 す て、「東方 とうほう 外交 がいこう 」を行 おこ なった。西 にし ドイツは「少 すく なくとも当分 とうぶん の間 あいだ 、ドイツの民族 みんぞく 自決 じけつ や再 さい 統一 とういつ に関 かん する主張 しゅちょう を取 と り下 さ げ、ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (東 ひがし ドイツ)やオーデル・ナイセ線 せん の事実 じじつ 上 じょう の存在 そんざい を承認 しょうにん した」[ 14] 。その後 ご 、1970年 ねん から1973年 ねん にかけて、西 にし ドイツは次々 つぎつぎ にソビエト連邦 れんぽう (ソビエト・西 にし ドイツ武力 ぶりょく 不 ふ 行使 こうし 条約 じょうやく )、ポーランド(ワルシャワ条約 じょうやく )、東 ひがし ドイツ(東西 とうざい ドイツ基本 きほん 条約 じょうやく )、チェコスロバキア(プラハ条約 じょうやく )と友好 ゆうこう 条約 じょうやく を結 むす び、それによって1970年代 ねんだい に存在 そんざい したヨーロッパの秩序 ちつじょ に順応 じゅんのう した[ 14] 。
今日 きょう における「旧 きゅう ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど 」の地位 ちい [ 編集 へんしゅう ]
現在 げんざい もポーランド政府 せいふ は、没収 ぼっしゅう した個人 こじん の資産 しさん や土地 とち の返却 へんきゃく 及 およ び賠償 ばいしょう において拒否 きょひ を続 つづ け、ドイツとポーランド両国 りょうこく 間 あいだ の問題 もんだい となっている[ 15] 。
植民 しょくみん 者 しゃ の定着 ていちゃく
かつての住民 じゅうみん が高齢 こうれい 化 か し、実際 じっさい にドイツの支配 しはい を経験 けいけん した人々 ひとびと が減少 げんしょう する一方 いっぽう で、新 あら たに植民 しょくみん してきた人々 ひとびと が定住 ていじゅう し、そこを故郷 こきょう とする住民 じゅうみん も少 すく なからず存在 そんざい している。
ドイツ再 さい 統一 とういつ とオーデル=ナイセ線 せん の承認 しょうにん
前述 ぜんじゅつ した様 よう にポツダム協定 きょうてい でオーデル=ナイセ線 せん が国境 こっきょう と定 さだ まったものの、西 にし ドイツは「旧 きゅう ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど 」がソ連 それん ないしはポーランドの占領 せんりょう 下 か に置 お かれているという見解 けんかい を取 と っていた。しかし、ベルリンの壁 かべ 崩壊 ほうかい をきっかけとした東西 とうざい ドイツ統一 とういつ の動 うご きの中 なか で、ヘルムート・コール はオーデル=ナイセ線 せん の承認 しょうにん (=「旧 きゅう ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど 」の放棄 ほうき )へと動 うご いた。長年 ながねん の政府 せいふ 方針 ほうしん を転換 てんかん するとも言 い えるコールの行動 こうどう は追放 ついほう 者 しゃ 連盟 れんめい の猛烈 もうれつ な反発 はんぱつ を招 まね いたものの、一方 いっぽう でポーランド 側 がわ がドイツ統一 とういつ に当 あ たって、金銭 きんせん による「旧 きゅう ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど 」のドイツへの併合 へいごう (更 さら には居住 きょじゅう している植民 しょくみん 者 しゃ の追放 ついほう やひいてはポーランドへの「再 さい 侵攻 しんこう 」)という懸念 けねん を持 も っていたことから、オーデル=ナイセ線 せん の承認 しょうにん は統一 とういつ 実現 じつげん の上 うえ で不可欠 ふかけつ だった。[要 よう 出典 しゅってん ]
1990年 ねん に統一 とういつ が達成 たっせい されると、統一 とういつ ドイツ政権 せいけん はドイツ最終 さいしゅう 規定 きてい 条約 じょうやく の条項 じょうこう を受 う け入 い れ、オーデル=ナイセ線 せん の東 ひがし 領域 りょういき に対 たい する全 すべ ての請求 せいきゅう を放棄 ほうき した。これによりポツダム会談 かいだん におけるソビエト連邦 れんぽう 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、イギリス間 あいだ の覚書 おぼえがき にすぎなかったオーデル=ナイセ線 せん は、正式 せいしき な条約 じょうやく として確定 かくてい した。更 さら に同年 どうねん 11月14日 にち にドイツ・ポーランド間 あいだ で国境 こっきょう 条約 じょうやく が締結 ていけつ され 、国境 こっきょう が正式 せいしき 承認 しょうにん された。
ポーランドのEU 加盟 かめい と往来 おうらい の自由 じゆう 化 か
2004年 ねん 5月1日 にち にポーランドが欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU) に加盟 かめい したことで、それまでオーデル=ナイセ線 せん で行 おこな われていた通関 つうかん 手続 てつづ きが廃止 はいし され、また特別 とくべつ な許可 きょか なしに相手 あいて 国 こく にて居住 きょじゅう ・就労 しゅうろう することが可能 かのう となった。不動産 ふどうさん の購入 こうにゅう などではしばらく制限 せいげん が設 もう けられているものの、かつて居住 きょじゅう していた被 ひ 追放 ついほう 者 しゃ は制限 せいげん なく故郷 こきょう を訪問 ほうもん できるようになった。2007年 ねん 12月21日 にち からはポーランドがシェンゲン条約 じょうやく に加入 かにゅう したため、国境 こっきょう 警備 けいび や検問 けんもん も廃止 はいし され、更 さら に行来 いきき が容易 ようい となった。[要 よう 出典 しゅってん ]
今日 きょう ではポーランドのバルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん 地域 ちいき にはドイツ人 じん 観光 かんこう 客 きゃく が多 おお く訪 おとず れている。被 ひ 追放 ついほう 者 しゃ の墓参 ぼさん 旅行 りょこう は1990年 ねん 半 なか ばまで地元 じもと には歓迎 かんげい されない雰囲気 ふんいき が強 つよ かったが、現在 げんざい では不満 ふまん の表現 ひょうげん や失地 しっち 回復 かいふく 要求 ようきゅう の表現 ひょうげん ではなく、むしろ善意 ぜんい の懐旧 かいきゅう 的 てき な旅行 りょこう と受 う け止 と められるようになってきている。[要 よう 出典 しゅってん ]
領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう しているドイツの組織 そしき [ 編集 へんしゅう ]
ドイツには依然 いぜん として、当該 とうがい 領域 りょういき はドイツ領 りょう であり、その地 ち の資産 しさん はドイツ市民 しみん の所有 しょゆう 物 ぶつ であると主張 しゅちょう する組織 そしき が存在 そんざい する。
プロイセン信託 しんたく (または「プロイセン権利 けんり 協会 きょうかい 」)は、おそらく100人 にん 未満 みまん の会員 かいいん 数 すう を持 も つ団体 だんたい で[ 16] 、2006年 ねん 12月、ポーランド政府 せいふ に対 たい して第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終了 しゅうりょう 時 じ に奪 うば われた会員 かいいん の資産 しさん の補償 ほしょう または返還 へんかん を求 もと める23の個別 こべつ の要求 ようきゅう を、ストラスブールの欧州 おうしゅう 人権 じんけん 裁判所 さいばんしょ に提訴 ていそ した。ドイツ政府 せいふ とポーランド政府 せいふ から協同 きょうどう で委任 いにん された国際 こくさい 法 ほう の専門 せんもん 家 か による専門 せんもん 家 か 報告 ほうこく は、プロイセン信託 しんたく が主張 しゅちょう する告訴 こくそ が殆 ほとん ど勝訴 しょうそ の望 のぞ みのないことを確認 かくにん している。しかしドイツ政府 せいふ にはこのような要求 ようきゅう の提訴 ていそ を止 と める権限 けんげん はなく、またポーランド政府 せいふ は、本 ほん 提訴 ていそ に対 たい して正式 せいしき に見解 けんかい を表明 ひょうめい する必要 ひつよう を感 かん じ、ポーランド外務 がいむ 大臣 だいじん アンナ・フォティガ (英語 えいご 版 ばん ) により「プロイセン信託 しんたく がポーランドに対 たい する賠償 ばいしょう 要求 ようきゅう を欧州 おうしゅう 人権 じんけん 裁判所 さいばんしょ に提出 ていしゅつ したという情報 じょうほう を得 え て、非常 ひじょう に憂慮 ゆうりょ している」との声明 せいめい が出 だ された[ 17] 。2008年 ねん 10月 がつ 9日 にち 、欧州 おうしゅう 人権 じんけん 裁判所 さいばんしょ は「プロイセン信託 しんたく 対 たい ポーランド」訴訟 そしょう を受理 じゅり できないものとし、その理由 りゆう として、欧州 おうしゅう 人権 じんけん 裁判所 さいばんしょ は、条約 じょうやく 締結 ていけつ 国 こく に対 たい して、国際 こくさい 協定 きょうてい を批准 ひじゅん する前 まえ に移行 いこう した資産 しさん の返還 へんかん 義務 ぎむ を課 か すことはないとした[ 18] 。
ドイツ国家 こっか 民主党 みんしゅとう 代表 だいひょう のウド・フォークト は、2006年 ねん 9月 がつ にメクレンブルク=フォアポンメルン州 しゅう 議会 ぎかい で6議席 ぎせき を獲得 かくとく した後 のち 、自党 じとう はドイツの「歴史 れきし 的 てき な国境 こっきょう 」を要求 ようきゅう し、現在 げんざい の国境 こっきょう 条約 じょうやく に反対 はんたい することを宣言 せんげん した[ 19] 。
旧 きゅう 東部 とうぶ 領土 りょうど はドイツ史 し における様々 さまざま な事件 じけん の舞台 ぶたい となった。共産 きょうさん 主義 しゅぎ 時代 じだい のポーランドでは、これらの事件 じけん を地元 じもと のことというよりは「外国 がいこく の」出来事 できごと ととらえるのが一般 いっぱん 的 てき であった[ 20] 。例 たと えば、特筆 とくひつ すべき戦闘 せんとう として、モルヴィッツ (1741年 ねん )、ホーエンフリートベルク (1745年 ねん )、ロイテン (1757年 ねん )、およびツォルンドルフ (1758年 ねん )におけるフリードリヒ大王 だいおう の勝利 しょうり や、1757年 ねん のグロス・イェーガースドルフの戦 たたか い 、1759年 ねん のクネルスドルフの戦 たたか い の敗北 はいぼく があげられる。歴史 れきし 家 か ノーマン・デイヴィス はクネルスドルフが「プロイセン最大 さいだい の災害 さいがい 」であり、クリストフ・アウグスト・ティージェ (英語 えいご 版 ばん ) の『エレジー』における「血 ち の祭壇 さいだん の妄想 もうそう により虐殺 ぎゃくさつ された人道 じんどう 」に霊感 れいかん を与 あた えたものと述 の べる[ 20] 。ナポレオン戦争 せんそう では、1807年 ねん 、東 ひがし プロイセンのアイラウ で勝利 しょうり したフランスの大陸 たいりく 軍 ぐん がポメラニア のコウォブジェク に陣取 じんど り、包囲 ほうい されたコルベルク包囲 ほうい (英語 えいご 版 ばん ) が起 お きた。この事件 じけん は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の宣伝 せんでん 映画 えいが 『コルベルク 』のモデルとなった。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ではヒンデンブルク がタンネンベルク やマズーリ湖 こ で決定的 けっていてき な勝利 しょうり を収 おさ め、東 ひがし プロイセンからロシア軍 ぐん を駆逐 くちく した[ 20] 。
^ 「管轄 かんかつ 権 けん (裁判 さいばん 権 けん )」は「統治 とうち 権 けん 」とは異 こと なる。例 たと えばアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 最高裁判所 さいこうさいばんしょ は Rasul v. Bush の判決 はんけつ において、グァンタナモ米 まい 軍 ぐん 基地 きち はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく がキューバとの条約 じょうやく と貸借 たいしゃく 契約 けいやく に基 もと づき占領 せんりょう しており、キューバの最終 さいしゅう 的 てき な統治 とうち 権 けん を認 みと めつつ、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が、借用 しゃくよう 地 ち を放棄 ほうき しない限 かぎ りにおいて、完全 かんぜん な管轄 かんかつ 権 けん (裁判 さいばん 権 けん )を保有 ほゆう しているとした[ 3] 。
^ 当該 とうがい 地域 ちいき における1921年 ねん 時点 じてん のゲルマン民族 みんぞく 人口 じんこう はポズナンで 16.7% (1910年 ねん : 27.1%)、ポーランドポモルツェ で 18.8% (1910年 ねん : 42.5%)であった[ 7] 。
^ 例 たと えば以下 いか の文献 ぶんけん を参照 さんしょう のこと。 msn encarta Archived 2009年 ねん 10月 がつ 31日 にち , at WebCite :"diejenigen Gebiete des Deutschen Reiches innerhalb der deutschen Grenzen von 1937" , Meyers Lexikon online Archived 2009年 ねん 1月 がつ 26日 にち , at the Wayback Machine .: "die Teile des ehemaligen deutschen Reichsgebietes zwischen der Oder-Neiße-Linie im Westen und der Reichsgrenze von 1937 im Osten" . Archived 2009-10-31
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英語 えいご 版 ばん ウィキソースに
本 ほん 記事 きじ に
関連 かんれん した
原文 げんぶん があります。
Emotions prevail in relations between Germans, Czechs, Poles – poll , Czech Happenings, 21 December 2005
Jose Ayala Lasso . Speech to the German expellees, Day of the Homeland, Berlin 6 August 2005 Lassoは初代 しょだい 国際 こくさい 連合 れんごう 人権 じんけん 高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん (1994年 ねん -1997年 ねん )であった。
Ryszard W. Piotrowicz. The Status of Germany in International Law: Deutschland uber Deutschland? The International and Comparative Law Quarterly, Vol. 38, No. 3 (Jul., 1989), pp. 609–635 "The purpose of this article is to consider the legal status of Germany from 1945 to [1989]"
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