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旧ドイツ東部領土 - Wikipedia コンテンツにスキップ

きゅうドイツ東部とうぶ領土りょうど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツ東部とうぶ領土りょうど変遷へんせん
  だいいち世界せかい大戦たいせん喪失そうしつした地域ちいき
メーメルラント西にしプロイセンポーゼンしゅう英語えいごばんおよシュレージエン一部いちぶ
  だい世界せかい大戦たいせん喪失そうしつした地域ちいき
ひがしプロイセンポンメルンひがしブランデンブルク(ノイマルク地方ちほう英語えいごばん)、およびシュレージエン
  主権しゅけん回復かいふく1949ねんのドイツ

きゅうドイツ東部とうぶ領土りょうど(きゅうドイツとうぶりょうど、ドイツ: Ehemalige deutsche Ostgebiete)は、だいいちだい世界せかい大戦たいせんのちドイツうしなったオーデル・ナイセせん以東いとうしゅう地域ちいき領土りょうど)を集合しゅうごうてき用語ようごである。とくにドイツでは、だい世界せかい大戦たいせんでドイツがうしなった領域りょういきのみをすことがおお[1]大戦たいせんにドイツがうしなった領土りょうどは、だいいち大戦たいせん全体ぜんたいの13%、だい大戦たいせん全体ぜんたいの38%におよんでいる[2]

用語ようご

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ウーゼドムとうオーデル・ナイセせん

ポツダム協定きょうていにおいて、ドイツから他国たこく移譲いじょうされる領域りょういきは「きゅうドイツ領域りょういき(オーデル・ナイセせんひがし)」と表記ひょうきされた。以後いご、オーデル・ナイセせんひがし位置いちするきゅうドイツりょうすにあたっては、その領有りょうゆう時期じきわず、この「きゅうドイツ領域りょういき」という表現ひょうげん改変かいへんした用語ようごがもっとも一般いっぱんてき使用しようされてきている。

ひがしドイツ」と用語ようごは、20世紀せいき国境こっきょう移動いどうにより徐々じょじょ意味いみ変化へんかした。かつてはだい世界せかい大戦たいせんまえきゅうドイツ東部とうぶ領土りょうどをさすかたりとして使つかわれていたが[よう出典しゅってん]のちには、戦後せんごドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくおよびドイツさい統一とういつ当該とうがい5しゅう戦前せんぜんの「中部ちゅうぶドイツ」(ドイツ: Mitteldeutschland))をあらわすようになった。ザクセンしゅうなどの東部とうぶしゅうにおいては、現在げんざいでも行政ぎょうせい機関きかん領域りょういきを「中央ちゅうおうドイツ」とれいがある。

20世紀せいき政治せいじにおけるきゅう東部とうぶ領土りょうど

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これらの領域りょういき全部ぜんぶまたは一部いちぶ主権しゅけん問題もんだいは、1919ねんから1990ねんいたるまで、頻繁ひんぱん外交がいこうじょう問題もんだいとなった。りょう大戦たいせんあいだのドイツでは、ヴェルサイユ条約じょうやくにより1919ねんにドイツから割譲かつじょうされた領域りょういきだい部分ぶぶんは18世紀せいきまつポーランド分割ぶんかつにより獲得かくとくされた地域ちいき)はドイツにもどされるべきという主張しゅちょうさかんになされた。この主張しゅちょうだい世界せかい大戦たいせん重要じゅうよう先触さきぶれのひとつであった。1939ねん、ドイツはポーランドに侵攻しんこうすると、当該とうがい領域りょういきさい占領せんりょう併合へいごうしたのである。そして、1945ねんだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつすると、当該とうがい領域りょういきたいする管轄かんかつけん裁判さいばんけん)の国際こくさいてき承認しょうにん撤回てっかいされ、ドイツはオーデル・ナイセせん東側ひがしがわ領域りょういきすべうしなった[ちゅう 1]だい世界せかい大戦たいせんのポーランドでは、オーデル・ナイセせんひがしにある1937ねんのドイツ国境こっきょうない領域りょういきは、ソ連それん管理かんりかれたひがしプロイセン北部ほくぶのちカリーニングラードしゅうとして、ロシア共和きょうわこく編入へんにゅう)をのぞ獲得かくとくした領土りょうどを「回復かいふくりょう」とんでいる。1945ねんポーランド人民じんみん共和きょうわこくがナチス・ドイツから「回復かいふくした」領域りょういきであるとして、プロパガンダ[4]として回復かいふくりょうという言葉ことばもちいることをこのんだ。しかしこの表現ひょうげん正式せいしきには1949ねん使用しようされなくなった。

だい世界せかい大戦たいせんのドイツの歴史れきしおよび政治せいじにおいては、所謂いわゆる「ドイツ問題もんだい」が重要じゅうよう焦点しょうてんであった。ドイツ問題もんだいめぐ論争ろんそうは、冷戦れいせん政治せいじ外交がいこう影響えいきょうおよぼし、1990ねんのドイツさい統一とういつけた交渉こうしょう重要じゅうよう役割やくわりえんじた。1990ねんドイツさい統一とういつさいして、ドイツは現在げんざい東部とうぶ国境こっきょう正式せいしきドイツ最終さいしゅう規定きてい条約じょうやく承認しょうにんした。

現在げんざいもポーランド政府せいふは、没収ぼっしゅうした個人こじん資産しさん土地とち返却へんきゃくおよ賠償ばいしょうにおいて拒否きょひつづけ、ドイツとポーランド両国りょうこくあいだ問題もんだいとなっている[5]

1871ねん-1945ねんのドイツ東部とうぶ領土りょうど

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ドイツ帝国ていこく建国けんこく

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ブランデンブルク・プロイセンの拡大かくだい(1600ねん-1795ねん
1871ねん-1918ねんのドイツ帝国ていこくにおけるプロイセン(みどり
現在げんざいのポーランド共和きょうわ国領こくりょうにおけるきゅうドイツ帝国ていこくりょう(1871ねん - 1945ねん

1871ねんのドイツ帝国ていこく建国けんこくさい最大さいだいかつさい有力ゆうりょく地域ちいきプロシア(プロイセン)であった。すなわち、その領域りょういきであったひがしブランデンブルクシレジアポメラニア、およびプロイセン地域ちいきポズナン(ポーゼン)は、1871ねん建国けんこく以来いらいのドイツ帝国ていこくりょうであった。のちにこの領域りょういきはドイツで「ドイツ帝国ていこく東部とうぶ領土りょうど」(Ostgebiete des deutschen Reiches)とばれることになる。

ポーゼンしゅう中央ちゅうおうおよび東部とうぶ[6]上部じょうぶシレジアひがし南部なんぶ、あるいは西にしプロシア西部せいぶのちポーランド回廊かいろうとなる地域ちいき)といった一部いちぶ地域ちいきでは、人口じんこう過半かはんはポーランドじんめており、それにたいして地域ちいき[よう出典しゅってん]ドイツじん多数たすうめていた。

しかし、帝国ていこく議会ぎかい主要しゅよう勢力せいりょくであるカトリック中央ちゅうおうとう徐々じょじょに、そしてのちには露骨ろこつポーランド話者わしゃ権利けんり否定ひていするようになると、ドイツ帝国ていこく議会ぎかいおよびプロイセン王国おうこく議会ぎかいのポーランドじん議員ぎいんであるヴォイチェフ・コルファンティは、本来ほんらいコスモポリタニズムちょう国家こっか市民しみん主義しゅぎ)であったはずのカトリック教会きょうかいやカトリック中央ちゅうおうとうがドイツ民族みんぞく主義しゅぎ道具どうぐとして利用りようされていることをさとり、とうから離脱りだつうえシレジア地方ちほうなどのポーランド話者わしゃおよびすで生活せいかつドイツしドイツ民族みんぞくとして登録とうろくされていた膨大ぼうだいなポーランドけいドイツ帝国ていこく臣民しんみんたいし、ポーランドじんとしての民族みんぞく覚醒かくせい強力きょうりょくうったえた。ブレスラウ(げんヴロツワフ)のブレスラウ大学だいがくではコルファンティはドイツ民族みんぞくのうちに自身じしん政治せいじ思想しそう理解りかいしゃたちをつけた。コルファンティにたいする強力きょうりょくなドイツじん支持しじしゃたちのなかには、当時とうじブレスラウ大学だいがく助教授じょきょうじゅで、のちにベルリン大学だいがく教授きょうじゅとなる、マックス・ヴェーバーならしょうされるドイツ社会しゃかい学者がくしゃヴェルナー・ゾンバルトがいたのである。[よう出典しゅってん]

ヴェルサイユ条約じょうやく

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民族みんぞく集団しゅうだんあらわす1880ねんからのドイツ地図ちず

だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつヴェルサイユ条約じょうやくでは、ドイツりょう一部いちぶ他国たこく割譲かつじょうすることがいられた。中央ちゅうおうヨーロッパにおいて割譲かつじょうされたのは以下いか地域ちいきである。

ヴェルサイユ条約じょうやくにおいては、あきらかにポーランド話者わしゃ過半かはんめる領域りょういきは、たとえ住民じゅうみん投票とうひょう反対はんたい多数たすうであっても、ポーランドに割譲かつじょうされた。しかし、ポーランドないゲルマン民族みんぞくによる入植にゅうしょく正当せいとうせいみとめる要求ようきゅうえず、当該とうがい領域りょういきがドイツにぞくすべきかポーランドにぞくすべきかという問題もんだい再燃さいねんさせつづけ、だい世界せかい大戦たいせん原因げんいんひとつとなった。[よう出典しゅってん]

フルチーン地域ちいきとメーメル地方ちほうのドイツ併合へいごう

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1925ねんヴァイマル共和きょうわせい

1938ねん10がつ、ヴェルサイユ条約じょうやくもとづいてチェコスロバキアに割譲かつじょうされたモラヴィア・スレスコしゅうフルチーン地域ちいき英語えいごばん(チェコHlučínsko、ドイツHultschiner Ländchen)は、ミュンヘン会談かいだんによりチェコスロバキアがうしな地域ちいき一部いちぶとしてだいさん帝国ていこく併合へいごうされた。しかしのチェコスロバキアによる失地しっちとはちがい、ズデーテンラント帝国ていこくだい管区かんくズデーテン地方ちほうふく行政ぎょうせい区域くいき)ではなく、プロイセン自由じゆうしゅう上部じょうぶシレジア)に併合へいごうされた。

1938ねん後半こうはんまでに、リトアニアはクライペダ地方ちほう(メーメル地方ちほう)の支配しはいけんうしなっていた。最後さいご通牒つうちょうきつけられたリトアニア代表だいひょうだんはベルリンへ急行きゅうこうしたが、1939ねん3がつ23にち早朝そうちょう、リトアニア外務がいむ大臣だいじんユオザス・ウルプシース英語えいごばんとドイツ外務がいむ大臣だいじんヨアヒム・フォン・リッベントロップは「ドイツにたいするメーメル地方ちほう割譲かつじょう条約じょうやく」に調印ちょういんし、わりにリトアニアはすうねんまえ建設けんせつしたばかりのメーメルこうにおけるリトアニアの自由じゆう貿易ぼうえきけん保障ほしょうされた。

だい世界せかい大戦たいせん

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1941ねん帝国ていこくだい管区かんく地図ちず
1944ねんのドイツ地図ちず

1939ねんだい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんにてポーランドの領土りょうど占領せんりょうされると、ドイツはヴェルサイユ条約じょうやくによってうしなった東部とうぶ領土りょうど、およびその東部とうぶ領土りょうど一方いっぽうてき併合へいごうした。ポーランドは降伏ごうぶくしておらず、連合れんごうこく一員いちいんとしてたたかいをつづけており、この領域りょういき変更へんこう連合れんごうこくがわ(1942ねん連合れんごうこく共同きょうどう宣言せんげんにより国際こくさい連合れんごう結成けっせい)からは一切いっさい承認しょうにんされなかった。[よう出典しゅってん]

ポーランド侵攻しんこうだいさん帝国ていこくはヴェルサイユ条約じょうやくにより1919ねん-1922ねんポーランドだい共和きょうわこく割譲かつじょうしたドイツ帝国ていこくきゅう領土りょうど(「ポーランド回廊かいろう」、西にしプロイセンポーゼンしゅう上部じょうぶシレジア一部いちぶふくむ)を一方いっぽうてき併合へいごうした。自由じゆう都市としダンツィヒでも、評議ひょうぎかいふたたびドイツりょうとなることを議決ぎけつした。ただし、ポーランドじんユダヤじん投票とうひょうけんうばわれ、ナチス以外いがい政党せいとうすべ禁止きんしされたうえでの投票とうひょうであった。ドイツ帝国ていこくりょうでなかったポーランドりょうも、だいさん帝国ていこく併合へいごうされた。[よう出典しゅってん]

アドルフ・ヒトラーふたつの布告ふこく(1939ねん10がつ8にちと10がつ12にち)により、併合へいごうされたポーランドりょうつぎ行政ぎょうせい区画くかく分割ぶんかつされた。

当該とうがい領域りょういきは9まん4000km2め、1000まんにん人口じんこうがあった。のこりのポーランド領土りょうどソビエト連邦れんぽうポーランド侵攻しんこうによって併合へいごう英語えいごばんされたり(どく不可侵ふかしん条約じょうやく参照さんしょう)、ドイツの管理かんりするポーランド総督そうとく支配しはいかれたりした。

1941ねん6がつバルバロッサ作戦さくせんにてドイツがソビエトを攻撃こうげきすると、ビャウィストクビエルスク・ポドラスキ英語えいごばんグライェヴォ英語えいごばんウォムジャソクウカ英語えいごばんヴァウカヴィスクフロドナふくビャウィストク地区ちくは、ひがしプロイセンに「付属ふぞく」(併合へいごうではない)された。一方いっぽうリヴィウイヴァーノ=フランキーウシクテルノーピリふくガリツィアガリチア地区ちく英語えいごばん)はポーランド総督そうとく府領ふりょうとされた。

ポツダム会談かいだん

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だい世界せかい大戦たいせんポツダム会談かいだん(1945ねん7がつ17にちから8がつ2にちまで)での合意ごういどおり、オーデル・ナイセせんひがし地域ちいきすべてが、1939ねん以前いぜんにドイツりょうとして国際こくさい社会しゃかい承認しょうにんしていたかだい世界せかい大戦たいせんでドイツが占領せんりょうしたかにかかわらず、他国たこく支配しはいかれた。関連かんれんするポツダム協定きょうてい条項じょうこうは、つぎとおりである。

V. ケーニヒスベルク近隣きんりん地域ちいき


会談かいだんでは、ダンツィヒわん東岸とうがん地点ちてんからひがしに、ブラウンスベルク・ゴルダプのきたを、リトアニア・ポーランド共和きょうわこくひがしプロイセンの国境こっきょう合流ごうりゅう地点ちてんおよぶ、バルト海ばるとかい隣接りんせつするソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう西部せいぶ戦線せんせん領域りょういきについて、和平わへい調停ちょうていでは領土りょうど問題もんだい最終さいしゅう決定けってい保留ほりゅうするというソビエト連邦れんぽう政府せいふによる提案ていあん検討けんとうした。
会談かいだんでは、原則げんそくとして、ケーニヒスベルクとその隣接りんせつ地域ちいきのソビエト連邦れんぽうへの最終さいしゅうてき移管いかんかんして、上記じょうきのように、実際じっさい国境こっきょう専門せんもんによる検討けんとう対象たいしょうとする、というソビエト政府せいふ提案ていあん合意ごういした。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうとイギリス首相しゅしょうは、きたるべき和平わへい調停ちょうていにおいて、ほん会談かいだんにおけるほん提案ていあん支持しじすることを表明ひょうめいした。
VIII. ポーランド


...
イギリス政府せいふアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふは、ポーランド国民こくみん統一とういつ臨時りんじ政府せいふをポーランドこく承認しょうにんされた政府せいふとし、ポーランドこく領域りょういきないにあり、その支配しはいにあるポーランドこくぞくする資産しさんかんする権利けんりについて、その資産しさん種別しゅべつわず、保護ほごする手段しゅだんこうじた。
...
クリミア会談かいだん到達とうたつしたポーランドにかんする合意ごういしたがい、3ヶ国かこく首脳しゅのうは、ポーランドがるべききた西にし領域りょういき追加ついかかんするポーランド国民こくみん統一とういつ臨時りんじ政府せいふ意見いけんもとめた。ポーランド全国ぜんこく評議ひょうぎいんかい代表だいひょうとポーランド国民こくみん統一とういつ臨時りんじ政府せいふのメンバーが会談かいだんむかえられ、十分じゅうぶん意見いけん表明ひょうめいした。3ヶ国かこく首脳しゅのうは、ポーランドの西部せいぶ国境こっきょう最終さいしゅう決定けっていは、和平わへい調停ちょうていつべきであるというかれらの意見いけんさい確認かくにんする。

3ヶ国かこく首脳しゅのうは、ポーランド西部せいぶ国境こっきょうかんする最終さいしゅう決定けってい保留ほりゅうしつつ、バルト海ばるとかいからシュヴァイナムンデのすぐ西にし始点してんとして、そこからオーデルがわ(ポーランド:オドラがわ沿いを西にしのナイセがわ(ポーランド:ニイサがわ)の合流ごうりゅうてんいたり、西にしナイセかわ沿いをチェコスロバキア国境こっきょういたせんによってかこまれる、ほん会談かいだん到達とうたつした了解りょうかいにしたがってソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう支配しはいかれないひがしプロイセンの地域ちいきふくみ、また自由じゆう都市としダンツィヒの領域りょういきふくきゅうドイツ領域りょういきについて、ポーランド国家こっか統治とうちにおかれ、この趣旨しゅしにおいてソ連それんのドイツ占領せんりょう地域ちいき一部いちぶとみなされるべきではないことを合意ごういする。(強調きょうちょう引用いんようしゃによる)

連合れんごうこくつぎのようにも合意ごういした。

XII. ドイツじん秩序ちつじょある移転いてん


(ソビエト連邦れんぽうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、イギリスの)3ヶ国かこく政府せいふは、ほん問題もんだいについてあらゆる側面そくめんから検討けんとうし、ポーランド、チェコスロバキアおよびハンガリーにのこぜんドイツじん、またはその一部いちぶのドイツへの移転いてん実施じっししなければならないであろうという理解りかいをえた。また、実施じっしされる移転いてん秩序ちつじょよく、人道的じんどうてき実行じっこうされるべきことを合意ごういした。

この合意ごうい理由りゆうについて、ウィンストン・チャーチルつぎのようにべている[9]

追放ついほうこそが、我々われわれ検討けんとうできた範囲はんいにおいて、もっと満足まんぞくできなが維持いじできる手段しゅだんである。わりなき問題もんだい原因げんいんとなる人口じんこう混在こんざいおこなわない。一掃いっそうするのである。

だい世界せかい大戦たいせん

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1920ねん-1945ねんうしなわれたドイツりょう
水色みずいろだいいち世界せかい大戦たいせんうしなった領土りょうど
緑色みどりいろだい世界せかい大戦たいせんにポーランドへ割譲かつじょうされた領土りょうど回復かいふくりょう
黄色おうしょくだい世界せかい大戦たいせんにソビエト連邦れんぽう割譲かつじょうされた領土りょうどカリーニングラードしゅう

当該とうがい領域りょういき最終さいしゅう処分しょぶんかんする論争ろんそうは、1945ねんから1990ねんにかけて、国際こくさいてき議論ぎろん主題しゅだいとなった。

西にしドイツ政府せいふは「一時いちじてきにポーランドとソ連それん管理かんりにあるきゅうドイツ領土りょうど」という用語ようごもちいることをこのんだ(ちゅう:ここでう「きゅうドイツ領土りょうど」は、1937ねんのドイツ国境こっきょうない東部とうぶドイツのことである)。このいいまわしはポツダム協定きょうていもちいられたものだが、西にしドイツ政府せいふだけが使用しようし、ポーランド政府せいふソ連それん政府せいふは、当該とうがい領域りょういきがいずれドイツ返還へんかんされるべきとの明白めいはく含意がんい反対はんたいし、使用しようしなかった。[よう出典しゅってん]

スターリン主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎものひきいていた、当時とうじポーランド政府せいふは、当該とうがい領域りょういきだい世界せかい大戦たいせんの500ねんまえにポーランド民族みんぞくにより支配しはいされ、そして1945ねんにナチス・ドイツから「回復かいふくした」領域りょういきであるとして、プロパガンダ[4]として回復かいふくりょうという言葉ことばもちいることをこのんだ。しかしこの表現ひょうげん公式こうしきには1949ねん使用しようされなくなった。

ドイツじん追放ついほうさい入植にゅうしょく

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1945ねんしんポーランド・ドイツ国境こっきょう標識ひょうしき設置せっち

オーデル・ナイセせんひがしのドイツ話者わしゃ人口じんこうきゅうドイツ東部とうぶ領土りょうどだけでやく1000まんにん)のうち、すでに1944ねんから45ねんふゆに、前進ぜんしんする赤軍せきぐんからドイツ当局とうきょくにより撤退てったいさせられたり、自力じりき脱出だっしゅつしたりしていなかった人々ひとびとは、だい部分ぶぶん追放ついほうされた戦後せんごすぐのドイツの情報じょうほうげんは、撤退てったいしたり追放ついほうされたドイツじんかずを1600まんにん死者ししゃかずを170まんにんから[10]250まんにん[11]引用いんようすることもめずらしくなかったが、今日きょうそのかず一部いちぶ歴史れきしから誇張こちょうされているとされ、40まんにんから60まんにん妥当だとうだろうとみなされている[12]今日きょう概算がいさんでは、ドイツじん難民なんみんかずを1400まんにん、そのうちやく50まんにん撤退てったい追放ついほう途上とじょう死亡しぼうしたとする見解けんかいがある[12][13]ポーランドでは、追放ついほう途上とじょうにあるドイツじんたちに私的してき援助えんじょべることは禁止きんしされた。[よう出典しゅってん]

同時どうじに、中央ちゅうおうポーランド出身しゅっしんのポーランドじんきゅうポーランドりょうから追放ついほうされたポーランドじん抑留よくりゅう強制きょうせい労働ろうどうから生還せいかんしたポーランドじんヴィスワ作戦さくせん強制きょうせいてきさい移住いじゅうさせられたウクライナじん、およびホロコーストびたユダヤじんが、ポーランドが領土りょうど入植にゅうしょくしたが、きゅうひがしプロイセンカリーニングラードしゅう)のきたは、軍事ぐんじ地域ちいき編入へんにゅうされ、いでロシアじん入植にゅうしょくした。[よう出典しゅってん]

東方とうほう外交がいこう

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ヴィリー・ブラント西にしドイツの首相しゅしょうだった1970年代ねんだい西にしドイツは外交がいこう関係かんけい政策せいさくについてハルシュタイン原則げんそくて、「東方とうほう外交がいこう」をおこなった。西にしドイツは「すくなくとも当分とうぶんあいだ、ドイツの民族みんぞく自決じけつさい統一とういつかんする主張しゅちょうげ、ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくひがしドイツ)やオーデル・ナイセせん事実じじつじょう存在そんざい承認しょうにんした」[14]。その、1970ねんから1973ねんにかけて、西にしドイツは次々つぎつぎにソビエト連邦れんぽうソビエト・西にしドイツ武力ぶりょく行使こうし条約じょうやく)、ポーランド(ワルシャワ条約じょうやく)、ひがしドイツ(東西とうざいドイツ基本きほん条約じょうやく)、チェコスロバキア(プラハ条約じょうやく)と友好ゆうこう条約じょうやくむすび、それによって1970年代ねんだい存在そんざいしたヨーロッパの秩序ちつじょ順応じゅんのうした[14]

今日きょうにおける「きゅうドイツ東部とうぶ領土りょうど」の地位ちい

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現在げんざいもポーランド政府せいふは、没収ぼっしゅうした個人こじん資産しさん土地とち返却へんきゃくおよ賠償ばいしょうにおいて拒否きょひつづけ、ドイツとポーランド両国りょうこくあいだ問題もんだいとなっている[15]

植民しょくみんしゃ定着ていちゃく
かつての住民じゅうみん高齢こうれいし、実際じっさいにドイツの支配しはい経験けいけんした人々ひとびと減少げんしょうする一方いっぽうで、あらたに植民しょくみんしてきた人々ひとびと定住ていじゅうし、そこを故郷こきょうとする住民じゅうみんすくなからず存在そんざいしている。
ドイツさい統一とういつとオーデル=ナイセせん承認しょうにん
前述ぜんじゅつしたようにポツダム協定きょうていでオーデル=ナイセせん国境こっきょうさだまったものの、西にしドイツは「きゅうドイツ東部とうぶ領土りょうど」がソ連それんないしはポーランドの占領せんりょうかれているという見解けんかいっていた。しかし、ベルリンのかべ崩壊ほうかいをきっかけとした東西とうざいドイツ統一とういつうごきのなかで、ヘルムート・コールはオーデル=ナイセせん承認しょうにん(=「きゅうドイツ東部とうぶ領土りょうど」の放棄ほうき)へとうごいた。長年ながねん政府せいふ方針ほうしん転換てんかんするともえるコールの行動こうどう追放ついほうしゃ連盟れんめい猛烈もうれつ反発はんぱつまねいたものの、一方いっぽうポーランドがわがドイツ統一とういつたって、金銭きんせんによる「きゅうドイツ東部とうぶ領土りょうど」のドイツへの併合へいごうさらには居住きょじゅうしている植民しょくみんしゃ追放ついほうやひいてはポーランドへの「さい侵攻しんこう」)という懸念けねんっていたことから、オーデル=ナイセせん承認しょうにん統一とういつ実現じつげんうえ不可欠ふかけつだった。[よう出典しゅってん]
1990ねん統一とういつ達成たっせいされると、統一とういつドイツ政権せいけんドイツ最終さいしゅう規定きてい条約じょうやく条項じょうこうれ、オーデル=ナイセせんひがし領域りょういきたいするすべての請求せいきゅう放棄ほうきした。これによりポツダム会談かいだんにおけるソビエト連邦れんぽうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、イギリスあいだ覚書おぼえがきにすぎなかったオーデル=ナイセせんは、正式せいしき条約じょうやくとして確定かくていした。さら同年どうねん11月14にちドイツ・ポーランドあいだ国境こっきょう条約じょうやく締結ていけつされ国境こっきょう正式せいしき承認しょうにんされた。
ポーランドのEU加盟かめい往来おうらい自由じゆう
2004ねん5月1にちにポーランドが欧州おうしゅう連合れんごう (EU) に加盟かめいしたことで、それまでオーデル=ナイセせんおこなわれていた通関つうかん手続てつづきが廃止はいしされ、また特別とくべつ許可きょかなしに相手あいてこくにて居住きょじゅう就労しゅうろうすることが可能かのうとなった。不動産ふどうさん購入こうにゅうなどではしばらく制限せいげんもうけられているものの、かつて居住きょじゅうしていた追放ついほうしゃ制限せいげんなく故郷こきょう訪問ほうもんできるようになった。2007ねん12月21にちからはポーランドがシェンゲン条約じょうやく加入かにゅうしたため、国境こっきょう警備けいび検問けんもん廃止はいしされ、さら行来いきき容易よういとなった。[よう出典しゅってん]
今日きょうではポーランドのバルト海ばるとかい沿岸えんがん地域ちいきにはドイツじん観光かんこうきゃくおおおとずれている。追放ついほうしゃ墓参ぼさん旅行りょこう1990ねんなかばまで地元じもとには歓迎かんげいされない雰囲気ふんいきつよかったが、現在げんざいでは不満ふまん表現ひょうげん失地しっち回復かいふく要求ようきゅう表現ひょうげんではなく、むしろ善意ぜんい懐旧かいきゅうてき旅行りょこうめられるようになってきている。[よう出典しゅってん]

領有りょうゆうけん主張しゅちょうしているドイツの組織そしき

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ドイツには依然いぜんとして、当該とうがい領域りょういきはドイツりょうであり、その資産しさんはドイツ市民しみん所有しょゆうぶつであると主張しゅちょうする組織そしき存在そんざいする。

プロイセン信託しんたく(または「プロイセン権利けんり協会きょうかい」)は、おそらく100にん未満みまん会員かいいんすう団体だんたい[16]、2006ねん12月、ポーランド政府せいふたいしてだい世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょううばわれた会員かいいん資産しさん補償ほしょうまたは返還へんかんもとめる23の個別こべつ要求ようきゅうを、ストラスブールの欧州おうしゅう人権じんけん裁判所さいばんしょ提訴ていそした。ドイツ政府せいふとポーランド政府せいふから協同きょうどう委任いにんされた国際こくさいほう専門せんもんによる専門せんもん報告ほうこくは、プロイセン信託しんたく主張しゅちょうする告訴こくそほとん勝訴しょうそのぞみのないことを確認かくにんしている。しかしドイツ政府せいふにはこのような要求ようきゅう提訴ていそめる権限けんげんはなく、またポーランド政府せいふは、ほん提訴ていそたいして正式せいしき見解けんかい表明ひょうめいする必要ひつようかんじ、ポーランド外務がいむ大臣だいじんアンナ・フォティガ英語えいごばんにより「プロイセン信託しんたくがポーランドにたいする賠償ばいしょう要求ようきゅう欧州おうしゅう人権じんけん裁判所さいばんしょ提出ていしゅつしたという情報じょうほうて、非常ひじょう憂慮ゆうりょしている」との声明せいめいされた[17]。2008ねん10がつ9にち欧州おうしゅう人権じんけん裁判所さいばんしょは「プロイセン信託しんたくたいポーランド」訴訟そしょう受理じゅりできないものとし、その理由りゆうとして、欧州おうしゅう人権じんけん裁判所さいばんしょは、条約じょうやく締結ていけつこくたいして、国際こくさい協定きょうてい批准ひじゅんするまえ移行いこうした資産しさん返還へんかん義務ぎむすことはないとした[18]

ドイツの修正しゅうせい主義しゅぎ政党せいとう

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ドイツ国家こっか民主党みんしゅとう代表だいひょうウド・フォークトは、2006ねん9がつメクレンブルク=フォアポンメルンしゅう議会ぎかいで6議席ぎせき獲得かくとくしたのち自党じとうはドイツの「歴史れきしてき国境こっきょう」を要求ようきゅうし、現在げんざい国境こっきょう条約じょうやく反対はんたいすることを宣言せんげんした[19]

ドイツにおけるきゅう東部とうぶ領土りょうど

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きゅう東部とうぶ領土りょうどドイツにおける様々さまざま事件じけん舞台ぶたいとなった。共産きょうさん主義しゅぎ時代じだいのポーランドでは、これらの事件じけん地元じもとのことというよりは「外国がいこくの」出来事できごとととらえるのが一般いっぱんてきであった[20]たとえば、特筆とくひつすべき戦闘せんとうとして、モルヴィッツ(1741ねん)、ホーエンフリートベルク(1745ねん)、ロイテン(1757ねん)、およびツォルンドルフ(1758ねん)におけるフリードリヒ大王だいおう勝利しょうりや、1757ねんグロス・イェーガースドルフのたたか、1759ねんクネルスドルフのたたか敗北はいぼくがあげられる。歴史れきしノーマン・デイヴィスはクネルスドルフが「プロイセン最大さいだい災害さいがい」であり、クリストフ・アウグスト・ティージェ英語えいごばんの『エレジー』における「祭壇さいだん妄想もうそうにより虐殺ぎゃくさつされた人道じんどう」に霊感れいかんあたえたものとべる[20]ナポレオン戦争せんそうでは、1807ねんひがしプロイセンのアイラウ勝利しょうりしたフランスの大陸たいりくぐんポメラニアコウォブジェク陣取じんどり、包囲ほういされたコルベルク包囲ほうい英語えいごばんきた。この事件じけんだい世界せかい大戦たいせん宣伝せんでん映画えいがコルベルク』のモデルとなった。だいいち世界せかい大戦たいせんではヒンデンブルクタンネンベルクマズーリ決定的けっていてき勝利しょうりおさめ、ひがしプロイセンからロシアぐん駆逐くちくした[20]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 管轄かんかつけん裁判さいばんけん)」は「統治とうちけん」とはことなる。たとえばアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく最高裁判所さいこうさいばんしょRasul v. Bush判決はんけつにおいて、グァンタナモまいぐん基地きちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくがキューバとの条約じょうやく貸借たいしゃく契約けいやくもとづき占領せんりょうしており、キューバの最終さいしゅうてき統治とうちけんみとめつつ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくが、借用しゃくよう放棄ほうきしないかぎりにおいて、完全かんぜん管轄かんかつけん裁判さいばんけん)を保有ほゆうしているとした[3]
  2. ^ 当該とうがい地域ちいきにおける1921ねん時点じてんのゲルマン民族みんぞく人口じんこうはポズナンで 16.7% (1910ねん: 27.1%)、ポーランドポモルツェで 18.8% (1910ねん: 42.5%)であった[7]

出典しゅってん

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  1. ^ たとえば以下いか文献ぶんけん参照さんしょうのこと。 msn encarta Archived 2009ねん10がつ31にち, at WebCite:"diejenigen Gebiete des Deutschen Reiches innerhalb der deutschen Grenzen von 1937", Meyers Lexikon online Archived 2009ねん1がつ26にち, at the Wayback Machine.: "die Teile des ehemaligen deutschen Reichsgebietes zwischen der Oder-Neiße-Linie im Westen und der Reichsgrenze von 1937 im Osten". Archived 2009-10-31
  2. ^ "The Lost German East: Forced Migration and the Politics of Memory, 1945-1970" by Andrew Demshuk, page 52、https://books.google.com/books?id=ySLyE6YJEn0C&pg=PA52&lpg=PA52&dq=quarter+former+german+territories+1937&source=bl&ots=HA76MsAcTd&sig=z2cV489kxdFkPPicPPYs5ZSV7eM&hl=pl&sa=X&ei=bUWHVcrKHsvlUe_3ibAO&redir_esc=y#v=onepage&q=quarter%20former%20german%20territories%201937&f=false
  3. ^ Rasul et al. v. Bush, President of the United States
  4. ^ a b An explanation note in "The Neighbors Respond: The Controversy Over the Jedwabne Massacre in Poland", ed. by Polonsky and Michlic, p. 466
  5. ^ Elena Beier (2004ねん10がつ18にち). “Reconciliation Instead of Reparation”. http://www.dw.com/en/reconciliation-instead-of-reparation/a-1365292 
  6. ^ 割田わりた 2017, p. 175
  7. ^ アーカイブされたコピー”. 2006ねん5がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2006ねん5がつ11にち閲覧えつらん
  8. ^ Spingola, Deanna (2014). The Ruling Elite: Death, Destruction and Domination. Trafford Publishing. p. 331 
  9. ^ Murphy, Clare (2004ねん8がつ2にち). “WWII expulsions spectre lives on”. BBC News (bbc.co.uk). http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/3528506.stm 2008ねん6がつ25にち閲覧えつらん 
  10. ^ (ドイツ Hans-Ulrich Wehler (2003). Deutsche Gesellschaftsgeschichte Band 4: Vom Beginn des Ersten Weltkrieges bis zur Gründung der beiden deutschen Staaten 1914–1949. Munich: C.H. Beck Verlag. ISBN 3-406-32264-6 
  11. ^ 英語えいご Dagmar Barnouw (2005). The War in the Empty Air: Victims, Perpetrators, and Postwar Germans. Bloomington: Indiana University Press. pp. 143. ISBN 0-253-34651-7 
  12. ^ a b 英語えいご Frank Biess (2006). “Review of Dagmar Barnouw, The War in the Empty Air: Victims, Perpetrators, and Postwar Germans” (pdf). H-Net Reviews: 2. http://www.h-net.org/reviews/showpdf.cgi?path=288521147364241. 
  13. ^ (ドイツ Rüdiger Overmans (2004). Deutsche militärische Verluste im Zweiten Weltkrieg (German Military Losses in WWII). Munich: Oldenbourg. pp. 298–300. ISBN 3-486-56531-1 
  14. ^ a b CVCEドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくの『東方とうほう外交がいこう
  15. ^ http://www.dw.com/en/reconciliation-instead-of-reparation/a-1365292
  16. ^ Klaus Ziemer. What Past, What Future? Social Science in Eastern Europe: News letter: Special Issue German-Polish Year 2005/2006 Archived 2007ねん6がつ10日とおか, at the Wayback Machine., 2005 Issue 4, ISSN 1615-5459 pp. 4–11 (See page 4). Published by the Social Science Information Centre (see Archive Archived 2007ねん6がつ6にち, at the Wayback Machine.)
  17. ^ ポーランド外務省がいむしょう外務がいむ大臣だいじん声明せいめい」2006ねん12月21にち
  18. ^ Decision as to the admissibility Application no. 47550/06 by Preussische Treuhand GMBH & CO. KG A. A. against Poland, by the European Court of Human Rights, 7 October 2008
  19. ^ Szef NPD: chcemy Niemiec w historycznych granicach, 22 września 2006, gazeta.pl[リンク]
  20. ^ a b c Davies, N. (2005) God's Playground. A History of Poland. Volume II: 1795 to the present. Oxford: Oxford University Press.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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