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ケーニヒスベルク (プロイセン)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケーニヒスベルク
Königsberg (Pr)
第一次世界大戦前のケーニヒスベルク城
ケーニヒスベルク Königsberg (Pr)の公式印章
印章いんしょう
北緯ほくい5443ふん00びょう 東経とうけい2031ふん00びょう / 北緯ほくい54.71667 東経とうけい20.51667 / 54.71667; 20.51667座標ざひょう: 北緯ほくい5443ふん00びょう 東経とうけい2031ふん00びょう / 北緯ほくい54.71667 東経とうけい20.51667 / 54.71667; 20.51667
過去かこぞくしていたくに プロイセン公国こうこく/ドイツこく

ケーニヒスベルクドイツ: Königsberg[注釈ちゅうしゃく 1], 公式こうしき表記ひょうき:Königsberg (Pr)[注釈ちゅうしゃく 2])は、中世ちゅうせい後期こうきから1945ねんまでひがしプロイセン中心ちゅうしんであった都市とし。ドイツで「おうやま」という意味いみがある。現在げんざいロシア連邦れんぽうカリーニングラードとなっている。

北方ほっぽう十字軍じゅうじぐん時代じだい、1255ねんザームラントドイツばん半島はんとうみなみプレーゲルかわ河口かこうドイツ騎士きしだんによって建設けんせつされ、ボヘミアおうオタカル2せい記念きねんして名付なづけられた[1]まちは、ドイツ騎士きしだんこくプロイセン公国こうこくひがしプロイセンしゅう首都しゅととなった。バルト海ばるとかいみなとは、ドイツ文化ぶんか的中てきちゅう心地ごこちへと発展はってんしていった。リヒャルト・ワーグナーイマヌエル・カントE.T.A.ホフマンダフィット・ヒルベルトなどの著名ちょめいじん住居じゅうきょもあった。

ケーニヒスベルクはだい世界せかい大戦たいせんなか1944ねん連合れんごうこくぐんおこなった空襲くうしゅうにより相当そうとう被害ひがいこうむり、赤軍せきぐんとのたたかい(ケーニヒスベルクのたたか)にやぶれ、陥落かんらくした。ポツダム宣言せんげんによりケーニヒスベルクをふくひがしプロイセンのきた半分はんぶんソビエト連邦れんぽう併合へいごうドイツじん追放ついほうされ、そのぬしロシアじん入植にゅうしょくした。その短期間たんきかん、「キョーニクスベルク」 Кёнигсберг (Kyonigsberg) というようにロシアふう名称めいしょうとなり、当時とうじ最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょうミハイル・カリーニンにちなんで、カリーニングラードと改称かいしょうされた。現在げんざいカリーニングラードしゅう州都しゅうとである。

歴史れきし

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ドイツ騎士きしだん

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ケーニヒスベルクを構成こうせいしていた3つの都市とし紋章もんしょう
アルトシュタット (Altstadt) 1360ねん
レーベニヒト (Löbenicht) 1413ねん
クナイプホーフ (Kneiphof) 1383ねん
だい世界せかい大戦たいせんまえのケーニヒスベルクの地図ちず

ケーニヒスベルクが建設けんせつされる以前いぜん土地とちは、いくつかのプルーセンの集落しゅうらくとトワングステ Twangste (Tuwangste, Tvankste) としてられたとりで存在そんざいしていた。1255ねんドイツ騎士きしだんによるプロイセンのサンビアぞく征服せいふくおり、トワングステは破壊はかいされ、「Conigsberg」としてられるあたらしい要塞ようさい建設けんせつされた。この要塞ようさい由来ゆらいは、北方ほっぽう十字軍じゅうじぐん時代じだい最初さいしょ要塞ようさい費用ひよう支払しはらったボヘミアおうオタカル2せい敬意けいいあらわして、そこを「おうやま」(: castrum Koningsberg, Mons Regius, Regiomonti)を意味いみする「Conigsberg」と名付なづけたことによる[2][3]。このあたらしいケーニヒスベルクじょうまわり(ヴィストゥラかたからおよそ7kmの地点ちてん[4])に、プレーゲルかわ沿ってアルトシュタットきゅう市街しがい)、クナイプホーフレーベニヒトというみっつのまちつくられていった。アルトシュタットは1256ねん、Steindamm(いまのレーニン大通おおどおり Leninprospekt)に建設けんせつされ、クナイプホーフはプレーゲルかわ同名どうめい中州なかすいまのカントとう Kant)で発展はってんした。そのふたつのまち東方とうほうしろ (Schlossteich) としんプレーゲルがわとでかこまれたレーベニヒトがあった。[よう出典しゅってん]

ドイツ騎士きしだんザムラント征服せいふく強化きょうかし、異教徒いきょうとリトアニア大公たいこうこくたいする遠征えんせいのための基地きちとしてケーニヒスベルクを使用しようした。1262ねん-1263ねんのプロシアの反乱はんらんでのおさむしろせんにさらされたケーニヒスベルクは、リヴォニア騎士きしだんにより解放かいほうされた[5][6]アルトシュタットは反乱はんらんによってプルーセンに破壊はかいされ、城下じょうか低地ていち再建さいけんされた。その、1286ねんにアルトシュタットはクルムほうさずかって都市としとなり、1327ねんにクナイプホーフもそのほうさずかった。[よう出典しゅってん]

ドイツ騎士きしだんこくなかでケーニヒスベルクは、騎士きしだん重要じゅうよう管理かんりてき立場たちばにあるもの一人ひとりである元帥げんすい居住きょじゅうであった[7]まちは、教皇きょうこう使節しせつモデナのグリエルモによってプロイセンを4つの司教しきょうけたものの1つ、ザムラント教区きょうく司教しきょうかれた。プラハのアダルベルトケーニヒスベルクだい聖堂せいどうしゅたる守護しゅご聖人せいじんとなり、まちランドマークとしてのだい聖堂せいどうはクナイプホーフに位置いちしていた。[よう出典しゅってん]

1340ねんにケーニヒスベルクはハンザ同盟どうめいくわわり、南東なんとうバルト海ばるとかい地域ちいき重要じゅうようみなと発展はってんしていき、プロイセンリトアニア大公たいこうこくポーランド王国おうこく商品しょうひんあつかっていた。年代ねんだい作家さっかデュースブルクのペーターはおそらく、1324ねん-1330ねんに「Chronicon terrae Prussiae」を編纂へんさんしたと推測すいそくされる[8]1348ねんストレヴァのたたかでの、リトアニアじんたいするドイツ騎士きしだん勝利しょうり騎士きし団長だんちょうヴィンリッヒ・フォン・クニップローデは、まちシトーかい修道院しゅうどういん設立せつりつした[9]野心やしんてき学生がくせいはプラハやライプツィヒなどで高等こうとう教育きょういくまなぶより、ケーニヒスベルクで教育きょういくけることをえらぶようになった[8]

騎士きしだんグルンヴァルトのたたかでひどい敗北はいぼくけたが、ケーニヒスベルクはポーランド・リトアニア連合れんごうとドイツ騎士きしだんとのたたかいのなかでドイツ騎士きしだん支配しはいのままであった。リヴォニア騎士きしだんはプロイセンの分団ぶんだんのケーニヒスベルクにおける駐屯ちゅうとんぐんえられ、ヨガイラ軍隊ぐんたいによって占領せんりょうされたまち奪回だっかい参加さんかすることをゆるされた[10]

1454ねんプロイセン同盟どうめいはドイツ騎士きしだんたいして反旗はんきひるがえし、ポーランドのたすけをもとめた。クナイプホーフは反乱はんらん支持しじしたが、ケーニヒスベルクのほかの地区ちく騎士きしだんたいする忠義ちゅうぎさい確認かくにんした。1457ねん騎士きし団長だんちょうルートヴィッヒ・フォン・エルリックスハウゼンは騎士きしだんこく首都しゅとマリーエンブルクからケーニヒスベルクへとうつした。まち判事はんじ同情どうじょうからビールだるをエルリックスハウゼンにおくった[11]だいトルンのやくにより、西にしプロイセンはポーランドに移譲いじょうされ、じゅうさんねん戦争せんそう終結しゅうけつした。ケーニヒスベルクは縮小しゅくしょうした騎士きしだんこくあたらしい首都しゅととなり、騎士きしだんこくはポーランド王国おうこく封土ほうどとなった[12]騎士きし団長だんちょう元帥げんすいの4ぶんの1をいだ。ポーランド・チュートン戦争せんそう (1519-1521)のときに、だいヘトマンミコワイ・フィルレイひきいるポーランドぐんによりケーニヒスベルクは包囲ほういされたが、おさむしろせん失敗しっぱいしケーニヒスベルクはまもられた[13]

プロイセン公国こうこく

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宗教しゅうきょう改革かいかく時期じきザームラント司教しきょうポーレンツのゲオルクによる伝道でんどうつうじて、ケーニヒスベルクはおもルター改宗かいしゅうした[14]ホーエンツォレルン出身しゅっしん騎士きしだん総長そうちょうアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、1525ねん騎士きし必要ひつよう人数にんずうをケーニヒスベルクに招集しょうしゅうし、プロイセンにおけるドイツ騎士きしだんのこりの領土りょうど世俗せぞくして、ルター改宗かいしゅうした[15]かれ叔父おじであるポーランドおうジグムント1せいたい臣従しんじゅうれいをとり、アルブレヒトはポーランドの封土ほうどであるプロイセン公国こうこく最初さいしょ公爵こうしゃくとなった。プロイセンの貴族きぞく早々そうそう公爵こうしゃく同盟どうめいむすぶと同時どうじに、プロイセンの農民のうみんたちは、ケーニヒスベルクで直接ちょくせつアルブレヒトに忠誠ちゅうせいちかい、圧政あっせいてき貴族きぞく対抗たいこうするための公爵こうしゃく支持しじもとめた。反逆はんぎゃくしゃ武器ぶきくように説得せっとくしたのち、アルブレヒトはかれらの指導しどうしゃ何人なんにんかを処刑しょけいした[16]

公国こうこく首都しゅと、ケーニヒスベルクはプロイセンにおける最大さいだい都市としでありみなとの1つであった。高度こうど自治じち独自どくじ通貨つうかち、優位ゆういにある言語げんごドイツだった。まちは、小麦こむぎ材木ざいもくあさ毛皮けがわ[17]くわえ、ピッチ、タールフライアッシュ[18]輸出ゆしゅつつうじてさかえた。ケーニヒスベルクは、ダンツィヒやリガとならび、16世紀せいき後半こうはんにおいて毎年まいとし100せき以上いじょうふねおとずれるバルト海ばるとかい数少かずすくないみなとのうちの1つであった[19]。1544ねんにアルブレヒトによって設立せつりつされたケーニヒスベルク大学だいがくは、プロテスタントのおしえの中心ちゅうしんとなった。

有能ゆうのう公爵こうしゃくアルブレヒトののち精神せいしんんだ息子むすこアルブレヒト・フリードリヒいだ。かれむすめアンナはブランデンブルクせんみかどこうヨーハン・ジギスムント結婚けっこんした。ヨーハン・ジギスムントは1618ねんのアルブレヒト・フリードリヒのによりプロイセン公国こうこく継承けいしょうけんあたえられた。このときから、プロイセン公国こうこくブランデンブルク=プロイセン統治とうちしゃであるブランデンブルクせんみかどこう支配しはいけることとなった。[よう出典しゅってん]

ブランデンブルク=プロイセン

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しろ (Schlossteich) とケーニヒスベルクじょう。1912ねん

さんじゅうねん戦争せんそうあいだブランデンブルク辺境へんきょうはくりょうスウェーデン王国おうこく侵略しんりゃくされていたため、ホーエンツォレルン宮廷きゅうていはケーニヒスベルクに避難ひなんしていた。1641ねん11月1にちせんみかどこうフリードリヒ・ヴィルヘルムは、プロイセン議会ぎかいたい物品ぶっぴんぜい導入どうにゅうするようにうながした[20]1656ねん1がつケーニヒスベルク条約じょうやくにより、フリードリヒ・ヴィルヘルムはプロイセン公国こうこくをスウェーデンの封土ほうどみとめた[21]。しかし、1657ねんヴェーラウのやくにより、かれはポーランドとの同盟どうめいわりに、ポーランドの主権しゅけんからプロイセン公国こうこく解放かいほうするというめをした[22]1660ねんオリヴァ条約じょうやくにより、ポーランドとスウェーデンはプロイセン公国こうこく独立どくりつみとめた[23]

1661ねんにフリードリヒ・ヴィルヘルムは、jus supremi et absoluti dominiという権限けんげん所有しょゆうしており、自分じぶん許可きょかによってのみプロイセン貴族きぞく招集しょうしゅうされるということをプロイセンの議会ぎかい通告つうこくした[24]。クナイプホーフのヒエロニムス・ロート (Hieronymus Roth) を指導しどうしゃとしたケーニヒスベルク市民しみんは、「だいせんみかどこう」の絶対ぜったい主義しゅぎてき要求ようきゅう反対はんたいしたが、1661ねん10月にフリードリヒ・ヴィルヘルムが2000にん軍隊ぐんたいとともに到着とうちゃくし、権威けんいいることに成功せいこうした[25]。ロートは慈悲じひうことを拒否きょひしたため、1678ねん死去しきょするまでパイツ (Peitz) に収監しゅうかんされた[24]

プロイセン貴族きぞくは、1663ねん10月18にちにケーニヒスベルクでフリードリヒ・ヴィルヘルムへの忠誠ちゅうせいちかったが[26]、クリスティアン・ルートヴィヒ・フォン・カルクシュタインはせんみかどこうによるぐん資金しきん提供ていきょう要請ようせい拒否きょひし、ポーランドに援助えんじょもとめたが、せんみかどこう工作こうさくいん誘拐ゆうかいされたのち1672ねん処刑しょけいされた。プロイセン貴族きぞくのフリードリヒ・ヴィルヘルムへの服従ふくじゅうにより、1673ねん1674ねんせんみかどこうはプロイセン貴族きぞくみとめていないぜい徴収ちょうしゅうし、また、同意どういなくケーニヒスベルクに駐屯ちゅうとんぐんいた[27]経済けいざいてき政治せいじてき弱体じゃくたいしつつあったケーニヒスベルクをプロイセンのユンカーちから強化きょうかした[28]

ケーニヒスベルクはながらく、ブランデンブルク=プロイセンのなかカルヴァン主義しゅぎたいするルター抵抗ていこう中心ちゅうしんであったが、1668ねんフリードリヒ・ヴィルヘルムは市民しみんたいしてカルヴァン主義しゅぎ市民しみん富裕ふゆうそうれることを強制きょうせいした[29]

プロイセン王国おうこく

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1701ねんのフリードリヒ1せい戴冠たいかん

1701ねん1がつ18にちにケーニヒスベルクじょう即位そくいしきおこなったことにより、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子むすこせんみかどこうフリードリヒ3せいは、プロイセンのおうフリードリヒ1せいとなった。プロイセンにおけるホーエンツォレルン政府せいふはポーランド王国おうこくかみきよしマ帝国まていこくから独立どくりつしていたため、プロイセン公国こうこくからプロイセン王国おうこくへの昇格しょうかく可能かのうだった。「プロイセン王国おうこく」がだんだんとホーエンツォレルン領土りょうど全体ぜんたいしめすのにもちいられていったので、きゅうプロイセン公国こうこくはケーニヒスベルクをその州都しゅうととしたプロイセンしゅうとしてられるようになった。しかし、ブランデンブルクのベルリンとポツダムが、プロイセンおうおも居住きょじゅうであった。[よう出典しゅってん]

1709ねん9月から1710ねん4がつまでに流行はやびょうによって、ケーニヒスベルクでは9368にんつまり、ぜん人口じんこうの4ぶんの1のひとくなった[30]1724ねん6月13にちに、アルトシュタットクナイプホーフレーベニヒトは、正式せいしきによりおおきな都市としケーニヒスベルクを形成けいせいするため合併がっぺいした。そのケーニヒスベルクと合併がっぺいした近隣きんりん地域ちいきには、ザックハイム (Sackheim)、ロスガルテン (Rossgarten)、トラクハイム (Tragheim) がふくまれている[4]

ななねん戦争せんそうなか1758ねんはじめに、ロシア帝国ていこくぐんひがしプロイセン占領せんりょうした。1757ねん12月31にちロシア皇帝こうていエリザヴェータは、ケーニヒスベルクのロシアへの併合へいごうかんするみことのりれいした[31]1758ねん1がつ24にちケーニヒスベルクの市民しみん代表だいひょうはエリザヴェータに降伏ごうぶくした[32]。5にん帝国ていこく元帥げんすい戦争せんそうちゅうの1758ねん-1762ねんあいだ都市とし管理かんりした。ロシアぐん1763ねんまで都市としわたさなかった[33]

1772ねんだいいちかいポーランド分割ぶんかつのち1773ねんにケーニヒスベルクは、プロイセンしゅうわって設置せっちされたひがしプロイセンしゅう州都しゅうととなった。1800ねんまでのまち半径はんけいおよそ8km以内いないに、7000にん守備しゅびたいふくむ、60000にん住民じゅうみんがおり、当時とうじもっとも人口じんこうおおいドイツの都市としひとつとなっていた[34]

1850ねんごろのケーニヒスベルク

だいよんたいふつだい同盟どうめいなか1806ねんナポレオン・ボナパルトはたらきによりプロイセン王国おうこくやぶれたのち、プロイセンおうフリードリヒ・ヴィルヘルム3せいは、政府せいふとともにベルリンからケーニヒスベルクへとのがれた[35]まちはナポレオンへの政治せいじてき抵抗ていこう中心ちゅうしんとなった。プロイセンの中流ちゅうりゅう階級かいきゅうあいだで、自由じゆう主義しゅぎナショナリズム促進そくしんするために、1808ねん4がつにケーニヒスベルクで「美徳びとく連盟れんめい」が結成けっせいされた。1809ねん12月にフランスじんはその解散かいさんめいじたが、その理想りそうはベルリンのフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンのTurnbewegungがれた[36]。ヨハン・ゴットフリート・フライのようなケーニヒスベルクの役人やくにんはシュタインの1808ねんほう、つまり、都市とし共同きょうどうたいのためのあたらしいほう整備せいびした。そのことにより、プロイセンのまち自治じち運営うんえい強調きょうちょうした[37]ひがしプロイセンの後備こうびぐんは、Tauroggen会議かいぎのち都市とし組織そしきされた[38]

1819ねんにケーニヒスベルクの人口じんこうは、63,800にんであった[39]ひがしプロイセンしゅう西にしプロイセンしゅう同君どうくん連合れんごう形成けいせいして、1824ねんから1878ねんあいだ、ケーニヒスベルクは連合れんごうしたプロイセンしゅう州都しゅうととして機能きのうし、ケーニヒスベルク地方ちほう中心ちゅうしんでもあった。[よう出典しゅってん]

しゅう総督そうとくテオドール・フォン・シェーンと新聞しんぶん「Königsberger Volkszeitung」によって、プロイセンおうフリードリヒ・ヴィルヘルム4せい保守ほしゅてき施策しさくたいする自由じゆう主義しゅぎ拠点きょてんとなった[40]1848ねん革命かくめいときに、大衆たいしゅう不穏ふおん分子ぶんしによる21の事件じけんこったが[41]おおきなデモはしずめられた[42]。プロイセン王国おうこく主導しゅどうドイツ統一とういつなか1871ねんに、ケーニヒスベルクはドイツ帝国ていこく一部いちぶとなった。15のとりでふく都市としまわりの城塞じょうさい高度こうどは、1888ねん完了かんりょうした[43]

広範囲こうはんいにわたるプロイセン東部とうぶ鉄道てつどうは、ブレスラウトルンインステルブルクアイトクーヘンティルジットピラウなどの都市としむすんだ。1860ねんベルリンサンクトペテルブルクむす鉄道てつどう完成かんせいし、ケーニヒスベルクのしょう取引とりひき増大ぞうだいさせた。広範囲こうはんいにわたる電気でんき鉄道てつどうは1900ねんまでに稼働かどうしており、一方いっぽう汽船きせん定期ていきてきに、メーメルタピアウラビアウクランツ、ティルジット、ダンツィヒ就航しゅうこうしていた。1901ねんのピラウへの運河うんが完成かんせいは、ロシアの穀物こくもつ取引とりひき増大ぞうだいさせたが、東部とうぶドイツのほかの都市とし同様どうように、ケーニヒスベルクの経済けいざい西部せいぶドイツにくらべるとがいして停滞ていたいしていた[44]。1900ねんまでに、9000にん強力きょうりょく守備しゅびたいとともに人口じんこうは188,000にん増大ぞうだい[4]1914ねんには、246,000にんとなった[45]ユダヤじん文化ぶんかてき多元たげん都市とし活躍かつやくした[46]

ヴァイマル共和きょうわせい

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ひがしプロイセンの境界きょうかいなかにあるケーニヒスベルク (1919-1939)
戦前せんぜんのケーニヒスベルクのそらつまみ。ケーニヒスベルクじょうきゅう市街しがいのぞむ。1925ねんごろ
戦前せんぜん市街しがい風景ふうけい

だいいち世界せかい大戦たいせんにおける中央ちゅうおう同盟どうめいこく敗北はいぼくドイツ帝国ていこくヴァイマル共和きょうわせいわった。プロイセン王国おうこくホーエンツォレルンヴィルヘルム2せい退位たいいして終焉しゅうえんむかえ、そのには、プロイセン自由じゆうしゅうつくられた。しかし、ケーニヒスベルクとひがしプロイセンは、ポーランド回廊かいろう部分ぶぶん割譲かつじょうにより、ヴァイマル・ドイツ本土ほんどはなされた。ひがしプロイセンとケーニヒスベルクの経済けいざい発展はってん不利ふり条件じょうけんとなっている地理ちりてき問題もんだい補償ほしょうするため、1920ねんから毎年まいとしケーニヒスベルク動物どうぶつえん見本市みほんいち (Ostmesse) がひらかれた。1922ねんに、商業しょうぎょう航空こうくうのための恒久こうきゅうてき空港くうこう商用しょうよう空港くうこうターミナルビルがケーニヒスベルク・デファウに建設けんせつされた。1929ねんにケーニヒスベルクは、若干じゃっかん郊外こうがい地域ちいき合併がっぺいした。[よう出典しゅってん]

ナチス・ドイツ

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1932ねんに、オットー・ブラウンひきいるドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうによる合法ごうほうてきプロイセンしゅう政府せいふは、中央ちゅうおう政府せいふによって放逐ほうちくされ、1933ねんから1945ねんあいだのナチスによる支配しはいあいだだい管区かんく指導しどうしゃエーリヒ・コッホは、選択せんたく地方ちほう自治じち変更へんこうした。きゅうドイツ東部とうぶ領土りょうど同様どうようひがしプロイセンは、1933ねん3がつ選挙せんきょでナチスに55%のひょうとうじられた、国内こくないもっともナチス賛同さんどうしゃおお地域ちいきひとつだった。[よう出典しゅってん]

1935ねんに、ドイツ国防こくぼうぐん砲兵ほうへい大将たいしょうAlbert Wodrigの指揮しきにあるだい一軍いちぐん管区かんく司令しれいをケーニヒスベルクとし、当初とうしょひがしプロイセン全土ぜんどふくんでいた。その、1939ねん3がつメーメル地域ちいき拡大かくだいし、1939ねん10がつにはチェハヌフスヴァウキ地方ちほうれ、さらに、ビャウィストク地方ちほうふたた拡大かくだいした。この軍隊ぐんたいは、第一歩だいいっぽへい師団しだんふくんでおり、ナチス以前いぜん常備じょうびぐん一部いちぶで、だい61歩兵ほへい師団しだんであった。それはひがしプロイセンからの予備よびへい動員どういんによってつくられた。ベルギーたいする侵攻しんこう黄色おうしょく作戦さくせんソビエト連邦れんぽうたいする侵攻しんこうバルバロッサ作戦さくせん参加さんかした。『だい世界せかい大戦たいせん回想かいそうろくだい12かんにおいて、ウィンストン・チャーチルは、「近代きんだいされかたまもられた城塞じょうさい」であるとケーニヒスベルクをひょうした。[よう出典しゅってん]

1939ねん5月17にち国勢調査こくせいちょうさによると、ケーニヒスベルクの人口じんこうは372,164にんであった[47]現在げんざいオーデル・ナイセせん以東いとうきゅうドイツ領土りょうどにおいて、ケーニヒスベルクはブレスラウいで2番目ばんめおおきい都市としであった。

だいいち世界せかい大戦たいせん、ケーニヒスベルクにはひがしプロイセンにおける13,000にんユダヤじんの3ぶんの1が居住きょじゅうしていた。まちのユダヤじん人口じんこう1933ねんに3,200にんから2,100にん減少げんしょうした。896ねんつくられたケーニヒスベルクのしんシナゴーグは、水晶すいしょうよるあいだ1938ねん11月9にち破壊はかいされ、500にんのユダヤじんはすぐにした。1942ねん1がつ20日はつかヴァンゼー会議かいぎのち、ケーニヒスベルクのユダヤじんマールィ・トロステネツテレージエンシュタットアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制きょうせい収容しゅうようしょなどに収容しゅうようされはじめた[48]

だい世界せかい大戦たいせん

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だい世界せかい大戦たいせんちゅう、ケーニヒスベルクはプロパガンダ放送ほうそうきょくである「ラジオ・ケーニヒスベルク」を主催しゅさいした。[よう出典しゅってん]

1944ねんに、英国えいこく空軍くうぐんによる空襲くうしゅうにより甚大じんだい被害ひがいこうむり、数日すうじつあいだにわたって都市とし炎上えんじょうした。とくに、歴史れきしてき中心ちゅうしんがいであるアルトシュタットレーベニヒトクナイプホーフなどのもともとの都市とし構成こうせい地区ちくだった部分ぶぶん完全かんぜん破壊はかいされ、ケーニヒスベルクだい聖堂せいどうしろきゅう市街しがいのすべての教会きょうかい新旧しんきゅう大学だいがくふる輸送ゆそうぎょう地区ちく破壊はかいされた。とくに、ネマースドルフ(Nemmersdorf)における赤軍せきぐんだい虐殺ぎゃくさつ英語えいごばんはなしひろまった1944ねん10がつ以降いこうおおくの人々ひとびとは、赤軍せきぐん侵攻しんこうよりまえにケーニヒスベルクからした[49][50]1945ねんはじめに、ソ連邦それんぽう元帥げんすいアレクサンドル・ヴァシレフスキー指揮しき赤軍せきぐんにより、ケーニヒスベルクは包囲ほういされた。ザームラント作戦さくせんでは、イワン・バグラミャン司令しれいかんだい1沿バルト戦線せんせん(1945ねん3がつよりザムランドぐん集団しゅうだん)が4がつにケーニヒスベルクを奪取だっしゅした[51]一時いちじてきなドイツぐんによる包囲ほうい強行きょうこう突破とっぱは、のこりの民間みんかんじんおおくが鉄道てつどうピラウちかくのみなとからの海軍かいぐんげをつうじてげることを可能かのうにした。ケーニヒスベルク包囲ほういせんにおいて、ケーニヒスベルクはドイツぐん要塞ようさい都市とし宣言せんげんされ、必死ひっし防衛ぼうえいおこなわれた。[よう出典しゅってん]

赤軍せきぐんによるひがしプロイセン攻勢こうせいなか1がつ21にちにゼーラッペン (Seerappen)、イェーザウ (Jesau)、ハイリゲンバイル、シッペンバイル (Schippenbeil)、ゲルダウエン(Gerdauen - シュトゥットホーフ強制きょうせい収容しゅうようしょ付属ふぞく収容しゅうようしょ)からのポーランドハンガリーユダヤじんだい部分ぶぶんが、ケーニヒスベルクにあつめられた。かれらのうちの最高さいこうで7000にんザームラントへの行進こうしん強制きょうせいされた。そののこりたちは、パルムニッケンころされた[48]

ケーニヒスベルク市街しがいせん激戦げきせんとなった。ケーニヒスベルクが陥落かんらく親衛隊しんえいたい司令しれいかんオットー・ラッシュのこったへいとともに赤軍せきぐん降伏ごうぶくしたのは、ヨーロッパでのたたかいがわる1かげつまえの4がつ9にちのことであった。その時点じてんで、赤軍せきぐんは9まんにん以上いじょう捕虜ほりょ要求ようきゅうしていたが、へい都市とし民間みんかんじん犠牲ぎせいしゃは42,000にん推定すいていされている。ラッシュの地下ちか司令しれい掩蔽えんぺいごうは、1980年代ねんだいまで赤軍せきぐん使用しようされたのち放置ほうちされた19世紀せいき要塞ようさいふく合体がったい一部いちぶで、現在げんざい博物館はくぶつかんとして保存ほぞんされている。[よう出典しゅってん]

およそ12まんにん生存せいぞんしゃ破壊はかいされた都市とし廃墟はいきょのこった。おも女性じょせい子供こども老人ろうじん終戦しゅうせん直後ちょくごかえってきた少数しょうすうひとなどの生存せいぞんしゃは、実質じっしつ捕虜ほりょとして拘留こうりゅうされた。1945ねん以降いこうケーニヒスベルクにのこった市民しみんだい部分ぶぶんは、病気びょうき飢餓きが復讐ふくしゅうによる民族みんぞく浄化じょうかいのちとした[52]のこった2まんにんドイツじんは1949-50ねん追放ついほうされた[53]

ロシアりょうカリーニングラード

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1945ねんだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつポツダム会議かいぎでの連合れんごうこく同意どういポツダム協定きょうていにより、和平わへい調停ちょうていにおいて領土りょうど問題もんだい最終さいしゅうてき解決かいけつするまでケーニヒスベルクは、ソビエト連邦れんぽう構成こうせいするロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく併合へいごうされた(だい5こう ケーニヒスベルクと近隣きんりん地域ちいき)。

会談かいだんでは、ダンツィヒわん東岸とうがん地点ちてんからひがしに、ブラウンスベルク・ゴルダプのきたを、リトアニアポーランド共和きょうわこくひがしプロイセン国境こっきょう合流ごうりゅう地点ちてんおよぶ、バルト海ばるとかい隣接りんせつするソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう西部せいぶ戦線せんせん領域りょういきについて、和平わへい調停ちょうていでは領土りょうど問題もんだい最終さいしゅう決定けってい保留ほりゅうするというソビエト連邦れんぽう政府せいふによる提案ていあん検討けんとうした。 会談かいだんでは、原則げんそくとして、ケーニヒスベルクとその隣接りんせつ地域ちいきのソビエト連邦れんぽうへの最終さいしゅうてき移管いかんかんして、上記じょうきのように、実際じっさい国境こっきょう専門せんもんによる検討けんとう対象たいしょうとする、というソビエト政府せいふ提案ていあん合意ごういした。 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうイギリス首相しゅしょうは、きたるべき和平わへい調停ちょうていにおいて、ほん会談かいだんにおけるほん提案ていあん支持しじすることを表明ひょうめいした[54]

赤軍せきぐんによるケーニヒスベルクの占領せんりょうまちはロシアふうに「キョーニクスベルク」Кёнигсберг (Kyonigsberg) とばれていた。これを「バルト海ばるとかいまち」を意味いみする「バルチースク」に改称かいしょうすることが当初とうしょ検討けんとうされたが[55]オールド・ボリシェヴィキ1人ひとりソ連それん最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょうミハイル・カリーニン死後しご1946ねん7がつ4にちに、カリーニングラードと改称かいしょうされた。そのわり「バルチースク」は、ちかくの港町みなとちょうピラウの改称かいしょうもちいられた。ドイツじん住民じゅうみん占領せんりょうされた西方にしかたドイツか、シベリア強制きょうせい収容しゅうようしょ追放ついほうされ、かれらの半数はんすう飢餓きが病気びょうき死亡しぼうした[52]

民族みんぞく浄化じょうかのち、カリーニングラードのきゅう市民しみん完全かんぜんにソビエト市民しみんえられた。生活せいかつ劇的げきてきわり、まちにはカリーニングラードというあたらしいがつけられ、日常にちじょう言語げんごとしてのドイツはロシアってわられた。破壊はかいまぬかれたいくつかの建物たてもののこったきゅうアルトシュタットは再建さいけんされ、カリーニングラードは工業こうぎょう現代げんだいおこなわれた。ソ連それん西端せいたん地域ちいきの1つとして、カリーニングラードしゅう冷戦れいせん戦略せんりゃくてき重要じゅうよう地域ちいきとなった。ソ連それんバルチック艦隊かんたい本部ほんぶかれ、その戦略せんりゃくてき重要じゅうようせいのためカリーニングラードは閉鎖へいさ都市としとして外国がいこくじん訪問ほうもんしゃした。[よう出典しゅってん]

文化ぶんか出身しゅっしんしゃ

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ケーニヒスベルク大学だいがく(アルベルティナ大学だいがく、19世紀せいき後半こうはん)。のカリーニングラード大学だいがく現在げんざいイマニュエル・カント国立こくりつ大学だいがく英語えいごばん

ケーニヒスベルクは数学すうがくしゃクリスティアン・ゴルトバハ作家さっかE.T.A.ホフマン出身しゅっしんであった。哲学てつがくしゃイマヌエル・カント生涯しょうがいをそこでごし、160㎞以上いじょうはなれたところへは旅行りょこうかなかった。カントは16さいケーニヒスベルク大学だいがく入学にゅうがくし、46さいとなった1770ねんにそこの形而上学けいじじょうがく教授きょうじゅ任命にんめいされた。そこではたらあいだ、『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』や『人倫じんりん形而上学けいじじょうがく』を発表はっぴょうした[56]1736ねんに、数学すうがくしゃレオンハルト・オイラーケーニヒスベルクのはし問題もんだい基礎きそとしてまちしまはし配列はいれつもちいた。そのことは位相いそう幾何きかがくグラフ理論りろん数学すうがくてき分岐ぶんきいたった。19世紀せいきにケーニヒスベルクは著名ちょめい数学すうがくしゃダフィット・ヒルベルト出身しゅっしんとなった。20世紀せいき前半ぜんはん表現ひょうげん主義しゅぎ建築けんちくとして活躍かつやく[57]日本にっぽん滞在たいざいしたこともあるブルーノ・タウト出身しゅっしんでもある[57][58]

だい部分ぶぶん市民しみん使つかっていた方言ほうげんは、ていプロシアであり、ケーニヒスベルクの有名ゆうめい大衆たいしゅう料理りょうりにはケーニヒスベルガー・クロプセ(Königsberger Klopse, ケーニヒスベルクのにく団子だんご)があった。

19世紀せいきの「おうもん

おうみち (Königstraße) には、400てん以上いじょう絵画かいが収蔵しゅうぞうひんがある芸術げいじゅつ協会きょうかいがあり、およそ50てんのイタリアの巨匠きょしょう作品さくひんや、若干じゃっかん初期しょきのオランダの作品さくひんがあった[59]おうもん (Königstor) には、ボヘミアおうオタカル1せいプロイセンこうアルブレヒトプロイセンおうフリードリヒ1せいぞうがあった。ケーニヒスベルクには、1875ねん完成かんせいした階段かいだんらのみなとうつくしい景色けしきえる素晴すばらしい取引とりひきしょがあった。鉄道てつどうどおり (Bahnhofstraße) に沿って、有名ゆうめい王立おうりつ琥珀こはく作業さぎょうしょ事務所じむしょがあり、ザームラントは「琥珀こはく海岸かいがん」とうたわれた。天文学てんもんがくしゃフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルたいちょうとした天文台てんもんだい植物しょくぶつえん動物どうぶつ博物館はくぶつかんがあった。ヘイマーケットちかくの「Physikalisch」には、植物しょくぶつ人類じんるいがくてき収集しゅうしゅうぶつ有史ゆうし以前いぜん遺物いぶつ収蔵しゅうぞうされていた。ヴィルヘルム時代じだい建設けんせつされた2つのおおきな劇場げきじょうは、the Stadt Theatre と the Appolloであった。

ケーニヒスベルクじょう東側ひがしがわ(1900ねんごろ

市内しないのもっとも著名ちょめい建造けんぞうぶつひとつにケーニヒスベルクじょうがあり、以前いぜんドイツ騎士きしだん総長そうちょうプロイセンこう居城きょじょうだった。1701ねんにフリードリヒ1せい1861ねんヴィルヘルム1せい戴冠たいかんした宮殿きゅうでん教会きょうかい(Schloßkirche)があり、ドイツこくなかもっとおおきなホールの1つで、プロイセンの歴史れきし博物館はくぶつかんであったMoskowitersaal が城内じょうないにあった。

1544ねんにアルベルティナ大学だいがく(ケーニヒスベルク大学だいがく)がプロイセンこうアルブレヒトによって設立せつりつされたのち、ケーニヒスベルクは教育きょういく中心ちゅうしんとなった。大学だいがくケーニヒスベルクだい聖堂せいどう北東ほくとうがわにあった。大学だいがく創立そうりつしゃ1人ひとり、リトアニアの学者がくしゃ Stanislovas Rapalionisは、神学しんがくはつ教授きょうじゅだった[60]

ドイツポーランドのプロテスタントけい出版しゅっぱんぶつ多数たすう宗教しゅうきょう改革かいかく支持しじしているケーニヒスベルクで印刷いんさつされた[61]とくしょうリトアニア地方ちほうひがしプロイセンの東部とうぶ一帯いったい出身しゅっしんプロシアけいリトアニアじんによって、ケーニヒスベルクはリトアニア出版しゅっぱんぶつ中心ちゅうしんとなった。だいリトアニアがロシア帝国ていこく領土りょうどとなり、リトアニアでの出版しゅっぱんきんじられたこともこの背景はいけいにあった。またカトリック信者しんじゃ優勢ゆうせいだいリトアニアにたいしてしょうリトアニア地方ちほうルーテル改宗かいしゅうしたものおおく、ケーニヒスベルクではリトアニアの方言ほうげんによる祈祷きとうしょ印刷いんさつされた。最初さいしょ宗教しゅうきょうてき内容ないようのリトアニアほんもこの出版しゅっぱんされた。Paul Friedrich RuhigとChristian Gottlieb Mielckeは政府せいふ支持しじて、それぞれ1747ねん1800ねんにリトアニア辞書じしょ出版しゅっぱんした[62]

ケーニヒスベルクで活動かつどうしていたスポーツクラブには、VfB KönigsbergとSV Prussia-Samland Königsbergがあった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ その言語げんごでの名称めいしょう以下いかとおり。リトアニア: Karaliaučius, 低地ていちドイツ: Königsbarg, ポーランド: Królewiec, ラテン語らてんご: Regimontium Prussorum
  2. ^ 1936ねんまでは「Königsberg i. Pr.」とつづられた。

出典しゅってん

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  34. ^ For comparison: Berlin ca. 170,000, Cologne and Frankfurt ca. 50,000 each, and Munich ca. 30,000.
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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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