この項目 こうもく では、ドイツの東 ひがし プロイセンの中心 ちゅうしん 都市 とし (1945年 ねん まで)について説明 せつめい しています。それ以降 いこう のソビエト連邦 れんぽう 、あるいはロシア連邦 れんぽう のカリーニングラード州 しゅう の州都 しゅうと としての都市 とし については「カリーニングラード 」をご覧 らん ください。
ケーニヒスベルク (ドイツ語 ご : Königsberg [ 注釈 ちゅうしゃく 1] , 公式 こうしき 表記 ひょうき :Königsberg (Pr)[ 注釈 ちゅうしゃく 2] )は、中世 ちゅうせい 後期 こうき から1945年 ねん まで東 ひがし プロイセン の中心 ちゅうしん であった都市 とし 。ドイツ語 ご で「王 おう の山 やま 」という意味 いみ がある。現在 げんざい はロシア連邦 れんぽう のカリーニングラード となっている。
北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん の時代 じだい 、1255年 ねん にザームラント (ドイツ語 ご 版 ばん ) 半島 はんとう の真 ま 南 みなみ のプレーゲル川 かわ 河口 かこう にドイツ騎士 きし 団 だん によって建設 けんせつ され、ボヘミア王 おう オタカル2世 せい を記念 きねん して名付 なづ けられた[ 1] 。街 まち は、ドイツ騎士 きし 団 だん 国 こく 、プロイセン公国 こうこく 、東 ひがし プロイセン州 しゅう の首都 しゅと となった。バルト海 ばるとかい の港 みなと は、ドイツ の文化 ぶんか 的中 てきちゅう 心地 ごこち へと発展 はってん していった。リヒャルト・ワーグナー 、イマヌエル・カント 、E.T.A.ホフマン 、ダフィット・ヒルベルト などの著名 ちょめい 人 じん の住居 じゅうきょ もあった。
ケーニヒスベルクは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の1944年 ねん の連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん が行 おこな った空襲 くうしゅう により相当 そうとう の被害 ひがい を被 こうむ り、赤軍 せきぐん との戦 たたか い(ケーニヒスベルクの戦 たたか い )に敗 やぶ れ、陥落 かんらく した。ポツダム宣言 せんげん によりケーニヒスベルクを含 ふく む東 ひがし プロイセンの北 きた 半分 はんぶん はソビエト連邦 れんぽう に併合 へいごう 、ドイツ人 じん は追放 ついほう され、その後 ご 主 ぬし にロシア人 じん が入植 にゅうしょく した。その後 ご 短期間 たんきかん 、「キョーニクスベルク」 Кёнигсберг (Kyonigsberg) というようにロシア風 ふう の名称 めいしょう となり、当時 とうじ の最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会 かい 議長 ぎちょう ミハイル・カリーニン にちなんで、カリーニングラードと改称 かいしょう された。現在 げんざい のカリーニングラード州 しゅう 州都 しゅうと である。
ケーニヒスベルクを構成 こうせい していた3つの都市 とし の紋章 もんしょう 。 アルトシュタット (Altstadt) 1360年 ねん 、 レーベニヒト (Löbenicht) 1413年 ねん 、 クナイプホーフ (Kneiphof) 1383年 ねん
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ のケーニヒスベルクの地図 ちず
ケーニヒスベルクが建設 けんせつ される以前 いぜん の土地 とち は、いくつかのプルーセンの集落 しゅうらく とトワングステ Twangste (Tuwangste, Tvankste) として知 し られた砦 とりで が存在 そんざい していた。1255年 ねん のドイツ騎士 きし 団 だん によるプロイセンのサンビア族 ぞく 征服 せいふく の折 おり 、トワングステは破壊 はかい され、「Conigsberg」として知 し られる新 あたら しい要塞 ようさい が建設 けんせつ された。この要塞 ようさい の名 な の由来 ゆらい は、北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん の時代 じだい に最初 さいしょ の要塞 ようさい の費用 ひよう を支払 しはら ったボヘミア王 おう オタカル2世 せい に敬意 けいい を表 あらわ して、そこを「王 おう の山 やま 」(羅 ら : castrum Koningsberg, Mons Regius, Regiomonti)を意味 いみ する「Conigsberg」と名付 なづ けたことによる[ 2] [ 3] 。この新 あたら しいケーニヒスベルク城 じょう の周 まわ り(ヴィストゥラ潟 かた からおよそ7kmの地点 ちてん [ 4] )に、プレーゲル川 かわ に沿 そ ってアルトシュタット (旧 きゅう 市街 しがい )、クナイプホーフ 、レーベニヒト という三 みっ つの街 まち が作 つく られていった。アルトシュタットは1256年 ねん 、Steindamm(今 いま のレーニン大通 おおどお り Leninprospekt)に建設 けんせつ され、クナイプホーフはプレーゲル川 かわ の同名 どうめい の中州 なかす (今 いま のカント島 とう Kant)で発展 はってん した。その二 ふた つの街 まち の東方 とうほう に城 しろ 池 ち (Schlossteich) と新 しん プレーゲル川 がわ とで囲 かこ まれたレーベニヒトがあった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
ドイツ騎士 きし 団 だん はザムラント の征服 せいふく を強化 きょうか し、異教徒 いきょうと のリトアニア大公 たいこう 国 こく に対 たい する遠征 えんせい のための基地 きち としてケーニヒスベルクを使用 しよう した。1262年 ねん -1263年 ねん のプロシアの反乱 はんらん での攻 おさむ 城 しろ 戦 せん にさらされたケーニヒスベルクは、リヴォニア騎士 きし 団 だん により解放 かいほう された[ 5] [ 6] 。アルトシュタットは反乱 はんらん によってプルーセンに破壊 はかい され、城下 じょうか の低地 ていち に再建 さいけん された。その後 ご 、1286年 ねん にアルトシュタットはクルム法 ほう を授 さず かって都市 とし となり、1327年 ねん にクナイプホーフもその法 ほう を授 さず かった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
ドイツ騎士 きし 団 だん 国 こく の中 なか でケーニヒスベルクは、騎士 きし 団 だん の重要 じゅうよう な管理 かんり 的 てき 立場 たちば にある者 もの の一人 ひとり である元帥 げんすい の居住 きょじゅう 地 ち であった[ 7] 。街 まち は、教皇 きょうこう 使節 しせつ モデナのグリエルモ によってプロイセンを4つの司教 しきょう 区 く に分 わ けたものの1つ、ザムラント司 し 教区 きょうく の司教 しきょう 座 ざ が置 お かれた。プラハのアダルベルト はケーニヒスベルク大 だい 聖堂 せいどう の主 しゅ たる守護 しゅご 聖人 せいじん となり、街 まち のランドマーク としての大 だい 聖堂 せいどう はクナイプホーフに位置 いち していた。[要 よう 出典 しゅってん ]
1340年 ねん にケーニヒスベルクはハンザ同盟 どうめい に加 くわ わり、南東 なんとう バルト海 ばるとかい 地域 ちいき の重要 じゅうよう な港 みなと に発展 はってん していき、プロイセン 、リトアニア大公 たいこう 国 こく 、ポーランド王国 おうこく の商品 しょうひん を取 と り扱 あつか っていた。年代 ねんだい 記 き 作家 さっか デュースブルク のペーターは恐 おそ らく、1324年 ねん -1330年 ねん に「Chronicon terrae Prussiae」を編纂 へんさん したと推測 すいそく される[ 8] 。1348年 ねん のストレヴァの戦 たたか い での、リトアニア人 じん に対 たい するドイツ騎士 きし 団 だん の勝利 しょうり 後 ご 、騎士 きし 団長 だんちょう ヴィンリッヒ・フォン・クニップローデは、街 まち にシトー会 かい の修道院 しゅうどういん を設立 せつりつ した[ 9] 。野心 やしん 的 てき な学生 がくせい はプラハやライプツィヒなどで高等 こうとう 教育 きょういく を学 まな ぶより、ケーニヒスベルクで教育 きょういく を受 う けることを選 えら ぶようになった[ 8] 。
騎士 きし 団 だん はグルンヴァルトの戦 たたか い でひどい敗北 はいぼく を受 う けたが、ケーニヒスベルクはポーランド・リトアニア連合 れんごう とドイツ騎士 きし 団 だん との戦 たたか いの中 なか でドイツ騎士 きし 団 だん の支配 しはい 下 か のままであった。リヴォニア騎士 きし 団 だん はプロイセンの分団 ぶんだん のケーニヒスベルクにおける駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん と置 お き換 か えられ、ヨガイラ の軍隊 ぐんたい によって占領 せんりょう された街 まち の奪回 だっかい に参加 さんか することを許 ゆる された[ 10] 。
1454年 ねん にプロイセン同盟 どうめい はドイツ騎士 きし 団 だん に対 たい して反旗 はんき を翻 ひるがえ し、ポーランドの助 たす けを求 もと めた。クナイプホーフは反乱 はんらん を支持 しじ したが、ケーニヒスベルクのほかの地区 ちく は騎士 きし 団 だん に対 たい する忠義 ちゅうぎ を再 さい 確認 かくにん した。1457年 ねん に騎士 きし 団長 だんちょう ルートヴィッヒ・フォン・エルリックスハウゼンは騎士 きし 団 だん 国 こく の首都 しゅと をマリーエンブルク からケーニヒスベルクへと移 うつ した。街 まち の判事 はんじ は同情 どうじょう からビール樽 だる をエルリックスハウゼンに贈 おく った[ 11] 。第 だい 二 に 次 じ トルンの和 わ 約 やく により、西 にし プロイセン はポーランドに移譲 いじょう され、十 じゅう 三 さん 年 ねん 戦争 せんそう は終結 しゅうけつ した。ケーニヒスベルクは縮小 しゅくしょう した騎士 きし 団 だん 国 こく の新 あたら しい首都 しゅと となり、騎士 きし 団 だん 国 こく はポーランド王国 おうこく の封土 ほうど となった[ 12] 。騎士 きし 団長 だんちょう は元帥 げんすい の4分 ぶん の1を引 ひ き継 つ いだ。ポーランド・チュートン戦争 せんそう (1519-1521) のときに、大 だい ヘトマン ミコワイ・フィルレイ率 ひき いるポーランド軍 ぐん によりケーニヒスベルクは包囲 ほうい されたが、攻 おさむ 城 しろ 戦 せん は失敗 しっぱい しケーニヒスベルクは守 まも られた[ 13] 。
宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の時期 じき 、ザームラント司教 しきょう ポーレンツのゲオルクによる伝道 でんどう を通 つう じて、ケーニヒスベルクは主 おも にルター派 は に改宗 かいしゅう した[ 14] 。ホーエンツォレルン家 か 出身 しゅっしん の騎士 きし 団 だん 総長 そうちょう アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク は、1525年 ねん に騎士 きし の必要 ひつよう 人数 にんずう をケーニヒスベルクに招集 しょうしゅう し、プロイセンにおけるドイツ騎士 きし 団 だん の残 のこ りの領土 りょうど を世俗 せぞく 化 か して、ルター派 は に改宗 かいしゅう した[ 15] 。彼 かれ の叔父 おじ であるポーランド王 おう ジグムント1世 せい に対 たい し臣従 しんじゅう の礼 れい をとり、アルブレヒトはポーランドの封土 ほうど であるプロイセン公国 こうこく の最初 さいしょ の公爵 こうしゃく となった。プロイセンの貴族 きぞく が早々 そうそう に公爵 こうしゃく と同盟 どうめい を結 むす ぶと同時 どうじ に、プロイセンの農民 のうみん たちは、ケーニヒスベルクで直接 ちょくせつ アルブレヒトに忠誠 ちゅうせい を誓 ちか い、圧政 あっせい 的 てき な貴族 きぞく に対抗 たいこう するための公爵 こうしゃく の支持 しじ を求 もと めた。反逆 はんぎゃく 者 しゃ に武器 ぶき を置 お くように説得 せっとく した後 のち 、アルブレヒトは彼 かれ らの指導 しどう 者 しゃ の何人 なんにん かを処刑 しょけい した[ 16] 。
公国 こうこく の首都 しゅと 、ケーニヒスベルクはプロイセン における最大 さいだい の都市 とし であり港 みなと の1つであった。高度 こうど な自治 じち と独自 どくじ の通貨 つうか を持 も ち、優位 ゆうい にある言語 げんご はドイツ語 ご だった。街 まち は、小麦 こむぎ 、材木 ざいもく 、麻 あさ 、毛皮 けがわ [ 17] に加 くわ え、ピッチ、タール 、フライアッシュ [ 18] の輸出 ゆしゅつ を通 つう じて栄 さか えた。ケーニヒスベルクは、ダンツィヒやリガと並 なら び、16世紀 せいき 後半 こうはん において毎年 まいとし 100隻 せき 以上 いじょう の船 ふね が訪 おとず れるバルト海 ばるとかい の数少 かずすく ない港 みなと のうちの1つであった[ 19] 。1544年 ねん にアルブレヒトによって設立 せつりつ されたケーニヒスベルク大学 だいがく は、プロテスタントの教 おし えの中心 ちゅうしん 地 ち となった。
有能 ゆうのう な公爵 こうしゃく アルブレヒトの後 のち を精神 せいしん を病 や んだ息子 むすこ のアルブレヒト・フリードリヒ が継 つ いだ。彼 かれ の娘 むすめ アンナはブランデンブルク選 せん 帝 みかど 侯 こう ヨーハン・ジギスムント と結婚 けっこん した。ヨーハン・ジギスムントは1618年 ねん のアルブレヒト・フリードリヒの死 し によりプロイセン公国 こうこく の継承 けいしょう 権 けん を与 あた えられた。この時 とき から、プロイセン公国 こうこく はブランデンブルク=プロイセン の統治 とうち 者 しゃ であるブランデンブルク選 せん 帝 みかど 侯 こう の支配 しはい を受 う けることとなった。[要 よう 出典 しゅってん ]
城 しろ 池 ち (Schlossteich) とケーニヒスベルク城 じょう 。1912年 ねん
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の間 あいだ ブランデンブルク辺境 へんきょう 伯 はく 領 りょう はスウェーデン王国 おうこく に侵略 しんりゃく されていたため、ホーエンツォレルン家 か の宮廷 きゅうてい はケーニヒスベルクに避難 ひなん していた。1641年 ねん 11月1日 にち に選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ・ヴィルヘルム は、プロイセン議会 ぎかい に対 たい し物品 ぶっぴん 税 ぜい を導入 どうにゅう するように促 うなが した[ 20] 。1656年 ねん 1月 がつ のケーニヒスベルク条約 じょうやく により、フリードリヒ・ヴィルヘルムはプロイセン公国 こうこく をスウェーデンの封土 ほうど と認 みと めた[ 21] 。しかし、1657年 ねん のヴェーラウの和 わ 約 やく により、彼 かれ はポーランドとの同盟 どうめい の代 か わりに、ポーランドの主権 しゅけん からプロイセン公国 こうこく を解放 かいほう するという取 と り決 き めをした[ 22] 。1660年 ねん のオリヴァ条約 じょうやく により、ポーランドとスウェーデンはプロイセン公国 こうこく の独立 どくりつ を認 みと めた[ 23] 。
1661年 ねん にフリードリヒ・ヴィルヘルムは、jus supremi et absoluti domini という権限 けんげん を所有 しょゆう しており、自分 じぶん の許可 きょか によってのみプロイセン貴族 きぞく が招集 しょうしゅう されるということをプロイセンの議会 ぎかい に通告 つうこく した[ 24] 。クナイプホーフのヒエロニムス・ロート (Hieronymus Roth) を指導 しどう 者 しゃ としたケーニヒスベルク市民 しみん は、「大 だい 選 せん 帝 みかど 侯 こう 」の絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 的 てき な要求 ようきゅう に反対 はんたい したが、1661年 ねん 10月 にフリードリヒ・ヴィルヘルムが2000人 にん の軍隊 ぐんたい とともに到着 とうちゃく し、権威 けんい を強 し いることに成功 せいこう した[ 25] 。ロートは慈悲 じひ を請 こ うことを拒否 きょひ したため、1678年 ねん に死去 しきょ するまでパイツ (Peitz) に収監 しゅうかん された[ 24] 。
プロイセン貴族 きぞく は、1663年 ねん 10月18日 にち にケーニヒスベルクでフリードリヒ・ヴィルヘルムへの忠誠 ちゅうせい を誓 ちか ったが[ 26] 、クリスティアン・ルートヴィヒ・フォン・カルクシュタインは選 せん 帝 みかど 侯 こう による軍 ぐん の資金 しきん 提供 ていきょう の要請 ようせい を拒否 きょひ し、ポーランドに援助 えんじょ を求 もと めたが、選 せん 帝 みかど 侯 こう の工作 こうさく 員 いん に誘拐 ゆうかい された後 のち 、1672年 ねん に処刑 しょけい された。プロイセン貴族 きぞく のフリードリヒ・ヴィルヘルムへの服従 ふくじゅう により、1673年 ねん と1674年 ねん に選 せん 帝 みかど 侯 こう はプロイセン貴族 きぞく が認 みと めていない税 ぜい を徴収 ちょうしゅう し、また、同意 どうい なくケーニヒスベルクに駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん を置 お いた[ 27] 。経済 けいざい 的 てき 、政治 せいじ 的 てき に弱体 じゃくたい 化 か しつつあったケーニヒスベルクをプロイセンのユンカー の力 ちから で強化 きょうか した[ 28] 。
ケーニヒスベルクは長 なが らく、ブランデンブルク=プロイセンの中 なか のカルヴァン主義 しゅぎ に対 たい するルター派 は の抵抗 ていこう の中心 ちゅうしん 地 ち であったが、1668年 ねん フリードリヒ・ヴィルヘルムは市民 しみん に対 たい してカルヴァン主義 しゅぎ の市民 しみん と富裕 ふゆう 層 そう を受 う け入 い れることを強制 きょうせい した[ 29] 。
1701年 ねん のフリードリヒ1世 せい の戴冠 たいかん
1701年 ねん 1月 がつ 18日 にち にケーニヒスベルク城 じょう で即位 そくい 式 しき を執 と り行 おこな ったことにより、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子 むすこ 選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ3世 せい は、プロイセンの王 おう フリードリヒ1世 せい となった。プロイセンにおけるホーエンツォレルン家 か の政府 せいふ はポーランド王国 おうこく と神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく から独立 どくりつ していたため、プロイセン公国 こうこく からプロイセン王国 おうこく への昇格 しょうかく は可能 かのう だった。「プロイセン王国 おうこく 」がだんだんとホーエンツォレルン家 か の領土 りょうど 全体 ぜんたい を指 さ し示 しめ すのに用 もち いられていったので、旧 きゅう プロイセン公国 こうこく はケーニヒスベルクをその州都 しゅうと としたプロイセン州 しゅう として知 し られるようになった。しかし、ブランデンブルクのベルリンとポツダムが、プロイセン王 おう の主 おも な居住 きょじゅう 地 ち であった。[要 よう 出典 しゅってん ]
1709年 ねん 9月 から1710年 ねん 4月 がつ までに流行 はや り病 びょう によって、ケーニヒスベルクでは9368人 にん つまり、全 ぜん 人口 じんこう の4分 ぶん の1の人 ひと が亡 な くなった[ 30] 。1724年 ねん 6月13日 にち に、アルトシュタット 、クナイプホーフ 、レーベニヒト は、正式 せいしき により大 おお きな都市 とし ケーニヒスベルクを形成 けいせい するため合併 がっぺい した。その後 ご ケーニヒスベルクと合併 がっぺい した近隣 きんりん 地域 ちいき には、ザックハイム (Sackheim)、ロスガルテン (Rossgarten)、トラクハイム (Tragheim) が含 ふく まれている[ 4] 。
七 なな 年 ねん 戦争 せんそう 中 なか の1758年 ねん の初 はじ めに、ロシア帝国 ていこく 軍 ぐん は東 ひがし プロイセン を占領 せんりょう した。1757年 ねん 12月31日 にち ロシア皇帝 こうてい エリザヴェータ は、ケーニヒスベルクのロシアへの併合 へいごう に関 かん する勅 みことのり 令 れい を出 だ した[ 31] 。1758年 ねん 1月 がつ 24日 にち ケーニヒスベルクの市民 しみん 代表 だいひょう はエリザヴェータに降伏 ごうぶく した[ 32] 。5人 にん の帝国 ていこく 元帥 げんすい が戦争 せんそう 中 ちゅう の1758年 ねん -1762年 ねん の間 あいだ 都市 とし を管理 かんり した。ロシア軍 ぐん は1763年 ねん まで都市 とし を明 あ け渡 わた さなかった[ 33] 。
1772年 ねん の第 だい 一 いち 回 かい ポーランド分割 ぶんかつ の後 のち 、1773年 ねん にケーニヒスベルクは、プロイセン州 しゅう に代 か わって設置 せっち された東 ひがし プロイセン州 しゅう の州都 しゅうと となった。1800年 ねん までの街 まち の半径 はんけい およそ8km以内 いない に、7000人 にん の守備 しゅび 隊 たい を含 ふく む、60000人 にん の住民 じゅうみん がおり、当時 とうじ もっとも人口 じんこう が多 おお いドイツの都市 とし の一 ひと つとなっていた[ 34] 。
1850年 ねん 頃 ごろ のケーニヒスベルク
第 だい 四 よん 次 じ 対 たい 仏 ふつ 大 だい 同盟 どうめい 中 なか の1806年 ねん にナポレオン・ボナパルト の働 はたら きによりプロイセン王国 おうこく が敗 やぶ れた後 のち 、プロイセン王 おう フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 せい は、政府 せいふ とともにベルリンからケーニヒスベルクへと逃 のが れた[ 35] 。街 まち はナポレオンへの政治 せいじ 的 てき 抵抗 ていこう の中心 ちゅうしん 地 ち となった。プロイセンの中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう の間 あいだ で、自由 じゆう 主義 しゅぎ とナショナリズム を促進 そくしん するために、1808年 ねん 4月 がつ にケーニヒスベルクで「美徳 びとく 連盟 れんめい 」が結成 けっせい された。1809年 ねん 12月 にフランス人 じん はその解散 かいさん を命 めい じたが、その理想 りそう はベルリンのフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンのTurnbewegung に引 ひ き継 つ がれた[ 36] 。ヨハン・ゴットフリート・フライのようなケーニヒスベルクの役人 やくにん はシュタインの1808年 ねん 法 ほう 、つまり、都市 とし 共同 きょうどう 体 たい のための新 あたら しい法 ほう を整備 せいび した。そのことにより、プロイセンの町 まち の自治 じち 運営 うんえい を強調 きょうちょう した[ 37] 。東 ひがし プロイセンの後備 こうび 軍 ぐん は、Tauroggen会議 かいぎ の後 のち 、都市 とし に組織 そしき された[ 38] 。
1819年 ねん にケーニヒスベルクの人口 じんこう は、63,800人 にん であった[ 39] 。東 ひがし プロイセン州 しゅう は西 にし プロイセン州 しゅう と同君 どうくん 連合 れんごう を形成 けいせい して、1824年 ねん から1878年 ねん の間 あいだ 、ケーニヒスベルクは連合 れんごう したプロイセン州 しゅう の州都 しゅうと として機能 きのう し、ケーニヒスベルク地方 ちほう の中心 ちゅうしん 地 ち でもあった。[要 よう 出典 しゅってん ]
州 しゅう 総督 そうとく テオドール・フォン・シェーンと新聞 しんぶん 「Königsberger Volkszeitung」紙 し によって、プロイセン王 おう フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい の保守 ほしゅ 的 てき な施策 しさく に対 たい する自由 じゆう 主義 しゅぎ の拠点 きょてん となった[ 40] 。1848年 ねん 革命 かくめい の時 とき に、大衆 たいしゅう の不穏 ふおん 分子 ぶんし による21の事件 じけん が起 お こったが[ 41] 、大 おお きなデモは鎮 しず められた[ 42] 。プロイセン王国 おうこく 主導 しゅどう のドイツ統一 とういつ 中 なか の1871年 ねん に、ケーニヒスベルクはドイツ帝国 ていこく の一部 いちぶ となった。15の砦 とりで を含 ふく む都市 とし の周 まわ りの城塞 じょうさい の高度 こうど 化 か は、1888年 ねん に完了 かんりょう した[ 43] 。
広範囲 こうはんい にわたるプロイセン東部 とうぶ 鉄道 てつどう は、ブレスラウ 、トルン 、インステルブルク 、アイトクーヘン 、ティルジット 、ピラウ などの都市 とし を結 むす んだ。1860年 ねん にベルリン とサンクトペテルブルク を結 むす ぶ鉄道 てつどう が完成 かんせい し、ケーニヒスベルクの商 しょう 取引 とりひき を増大 ぞうだい させた。広範囲 こうはんい にわたる電気 でんき 鉄道 てつどう は1900年 ねん までに稼働 かどう しており、一方 いっぽう 、汽船 きせん が定期 ていき 的 てき に、メーメル 、タピアウ 、ラビアウ 、クランツ 、ティルジット、ダンツィヒ に就航 しゅうこう していた。1901年 ねん のピラウへの運河 うんが の完成 かんせい は、ロシアの穀物 こくもつ の取引 とりひき を増大 ぞうだい させたが、東部 とうぶ ドイツのほかの都市 とし と同様 どうよう に、ケーニヒスベルクの経済 けいざい は西部 せいぶ ドイツに比 くら べると概 がい して停滞 ていたい していた[ 44] 。1900年 ねん までに、9000人 にん の強力 きょうりょく な守備 しゅび 隊 たい とともに人口 じんこう は188,000人 にん に増大 ぞうだい し[ 4] 、1914年 ねん には、246,000人 にん となった[ 45] 。ユダヤ人 じん は文化 ぶんか 的 てき に多元 たげん な都市 とし で活躍 かつやく した[ 46] 。
東 ひがし プロイセンの境界 きょうかい の中 なか にあるケーニヒスベルク (1919-1939)
戦前 せんぜん のケーニヒスベルクの空 そら 撮 つまみ 。ケーニヒスベルク城 じょう と旧 きゅう 市街 しがい を望 のぞ む。1925年 ねん 頃 ごろ
戦前 せんぜん の市街 しがい 風景 ふうけい
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における中央 ちゅうおう 同盟 どうめい 国 こく の敗北 はいぼく 後 ご 、ドイツ帝国 ていこく はヴァイマル共和 きょうわ 政 せい に入 い れ替 か わった。プロイセン王国 おうこく はホーエンツォレルン家 か のヴィルヘルム2世 せい が退位 たいい して終焉 しゅうえん を迎 むか え、その後 ご には、プロイセン自由 じゆう 州 しゅう が作 つく られた。しかし、ケーニヒスベルクと東 ひがし プロイセンは、ポーランド回廊 かいろう 部分 ぶぶん の割譲 かつじょう により、ヴァイマル・ドイツ本土 ほんど と切 き り離 はな された。東 ひがし プロイセンとケーニヒスベルクの経済 けいざい 発展 はってん に不利 ふり な条件 じょうけん となっている地理 ちり 的 てき な問題 もんだい を補償 ほしょう するため、1920年 ねん から毎年 まいとし ケーニヒスベルク動物 どうぶつ 園 えん で見本市 みほんいち (Ostmesse) が開 ひら かれた。1922年 ねん に、商業 しょうぎょう 航空 こうくう のための恒久 こうきゅう 的 てき な空港 くうこう と商用 しょうよう の空港 くうこう ターミナルビル がケーニヒスベルク・デファウに建設 けんせつ された。1929年 ねん にケーニヒスベルク市 し は、若干 じゃっかん の郊外 こうがい の地域 ちいき と合併 がっぺい した。[要 よう 出典 しゅってん ]
1932年 ねん に、オットー・ブラウン 率 ひき いるドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう による合法 ごうほう 的 てき なプロイセン州 しゅう 政府 せいふ は、中央 ちゅうおう 政府 せいふ によって放逐 ほうちく され、1933年 ねん から1945年 ねん の間 あいだ のナチスによる支配 しはい の間 あいだ 、大 だい 管区 かんく 指導 しどう 者 しゃ エーリヒ・コッホ は、選択 せんたく 地方 ちほう 自治 じち に変更 へんこう した。旧 きゅう ドイツ東部 とうぶ 領土 りょうど と同様 どうよう に東 ひがし プロイセンは、1933年 ねん 3月 がつ の選挙 せんきょ でナチスに55%の票 ひょう が投 とう じられた、国内 こくない で最 もっと もナチス賛同 さんどう 者 しゃ の多 おお い地域 ちいき の一 ひと つだった。[要 よう 出典 しゅってん ]
1935年 ねん に、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん は砲兵 ほうへい 大将 たいしょう Albert Wodrigの指揮 しき 下 か にある第 だい 一軍 いちぐん 管区 かんく の司令 しれい 部 ぶ をケーニヒスベルクとし、当初 とうしょ 東 ひがし プロイセン全土 ぜんど を含 ふく んでいた。その後 ご 、1939年 ねん 3月 がつ にメーメル地域 ちいき を組 く み入 い れ拡大 かくだい し、1939年 ねん 10月 がつ にはチェハヌフ とスヴァウキ 地方 ちほう を組 く み入 い れ、さらに、ビャウィストク 地方 ちほう を組 く み入 い れ再 ふたた び拡大 かくだい した。この軍隊 ぐんたい は、第一歩 だいいっぽ 兵 へい 師団 しだん を含 ふく んでおり、ナチス以前 いぜん の常備 じょうび 軍 ぐん の一部 いちぶ で、第 だい 61歩兵 ほへい 師団 しだん であった。それは東 ひがし プロイセンからの予備 よび 兵 へい の動員 どういん によって作 つく られた。ベルギー に対 たい する侵攻 しんこう の黄色 おうしょく 作戦 さくせん とソビエト連邦 れんぽう に対 たい する侵攻 しんこう のバルバロッサ作戦 さくせん に参加 さんか した。『第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 回想 かいそう 録 ろく 』第 だい 12巻 かん において、ウィンストン・チャーチル は、「近代 きんだい 化 か され堅 かた く守 まも られた城塞 じょうさい 」であるとケーニヒスベルクを評 ひょう した。[要 よう 出典 しゅってん ]
1939年 ねん 5月17日 にち の国勢調査 こくせいちょうさ によると、ケーニヒスベルクの人口 じんこう は372,164人 にん であった[ 47] 。現在 げんざい のオーデル・ナイセ線 せん 以東 いとう の旧 きゅう ドイツ領土 りょうど において、ケーニヒスベルクはブレスラウ に次 つ いで2番目 ばんめ に大 おお きい都市 とし であった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、ケーニヒスベルクには東 ひがし プロイセンにおける13,000人 にん のユダヤ人 じん の3分 ぶん の1が居住 きょじゅう していた。街 まち のユダヤ人 じん の人口 じんこう は1933年 ねん に3,200人 にん から2,100人 にん に減少 げんしょう した。896年 ねん に作 つく られたケーニヒスベルクの新 しん シナゴーグ は、水晶 すいしょう の夜 よる の間 あいだ の1938年 ねん 11月9日 にち に破壊 はかい され、500人 にん のユダヤ人 じん はすぐに逃 に げ出 だ した。1942年 ねん 1月 がつ 20日 はつか のヴァンゼー会議 かいぎ の後 のち 、ケーニヒスベルクのユダヤ人 じん はマールィ・トロステネツ 、テレージエンシュタット 、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ などに収容 しゅうよう され始 はじ めた[ 48] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 、ケーニヒスベルクはプロパガンダ放送 ほうそう 局 きょく である「ラジオ・ケーニヒスベルク」を主催 しゅさい した。[要 よう 出典 しゅってん ]
1944年 ねん に、英国 えいこく 空軍 くうぐん による空襲 くうしゅう により甚大 じんだい な被害 ひがい を被 こうむ り、数日 すうじつ 間 あいだ にわたって都市 とし は炎上 えんじょう した。特 とく に、歴史 れきし 的 てき な中心 ちゅうしん 街 がい であるアルトシュタット 、レーベニヒト 、クナイプホーフ などのもともとの都市 とし の構成 こうせい 地区 ちく だった部分 ぶぶん は完全 かんぜん に破壊 はかい され、ケーニヒスベルク大 だい 聖堂 せいどう 、城 しろ 、旧 きゅう 市街 しがい のすべての教会 きょうかい 、新旧 しんきゅう の大学 だいがく 、古 ふる い輸送 ゆそう 業 ぎょう 地区 ちく も破壊 はかい された。特 とく に、ネマースドルフ(Nemmersdorf)における赤軍 せきぐん の大 だい 虐殺 ぎゃくさつ (英語 えいご 版 ばん ) の話 はなし が広 ひろ まった1944年 ねん 10月 がつ 以降 いこう 、多 おお くの人々 ひとびと は、赤軍 せきぐん の侵攻 しんこう より前 まえ にケーニヒスベルクから逃 に げ出 だ した[ 49] [ 50] 。1945年 ねん 初 はじ めに、ソ連邦 それんぽう 元帥 げんすい アレクサンドル・ヴァシレフスキー 指揮 しき 下 か の赤軍 せきぐん により、ケーニヒスベルクは包囲 ほうい された。ザームラント作戦 さくせん では、イワン・バグラミャン 司令 しれい 官 かん の第 だい 1沿バルト戦線 せんせん (1945年 ねん 3月 がつ よりザムランド軍 ぐん 集団 しゅうだん )が4月 がつ にケーニヒスベルクを奪取 だっしゅ した[ 51] 。一時 いちじ 的 てき なドイツ軍 ぐん による包囲 ほうい の強行 きょうこう 突破 とっぱ は、残 のこ りの民間 みんかん 人 じん の多 おお くが鉄道 てつどう やピラウ 近 ちか くの港 みなと からの海軍 かいぐん の引 ひ き揚 あ げを通 つう じて逃 に げることを可能 かのう にした。ケーニヒスベルク包囲 ほうい 戦 せん において、ケーニヒスベルクはドイツ軍 ぐん に要塞 ようさい 都市 とし と宣言 せんげん され、必死 ひっし の防衛 ぼうえい が行 おこな われた。[要 よう 出典 しゅってん ]
赤軍 せきぐん による東 ひがし プロイセン攻勢 こうせい 中 なか の1月 がつ 21日 にち にゼーラッペン (Seerappen)、イェーザウ (Jesau)、ハイリゲンバイル 、シッペンバイル (Schippenbeil)、ゲルダウエン(Gerdauen - シュトゥットホーフ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の付属 ふぞく 収容 しゅうよう 所 しょ )からのポーランド やハンガリー のユダヤ人 じん の大 だい 部分 ぶぶん が、ケーニヒスベルクに集 あつ められた。彼 かれ らのうちの最高 さいこう で7000人 にん がザームラント への死 し の行進 こうしん を強制 きょうせい された。その生 い き残 のこ りたちは、パルムニッケン で殺 ころ された[ 48] 。
ケーニヒスベルク市街 しがい 戦 せん は激戦 げきせん となった。ケーニヒスベルクが陥落 かんらく し親衛隊 しんえいたい 司令 しれい 官 かん オットー・ラッシュ が残 のこ った兵 へい とともに赤軍 せきぐん に降伏 ごうぶく したのは、ヨーロッパでの戦 たたか いが終 お わる1か月 げつ 前 まえ の4月 がつ 9日 にち のことであった。その時点 じてん で、赤軍 せきぐん は9万 まん 人 にん 以上 いじょう の捕虜 ほりょ を要求 ようきゅう していたが、兵 へい と都市 とし の民間 みんかん 人 じん の犠牲 ぎせい 者 しゃ は42,000人 にん と推定 すいてい されている。ラッシュの地下 ちか 司令 しれい 部 ぶ 掩蔽 えんぺい 壕 ごう は、1980年代 ねんだい まで赤軍 せきぐん に使用 しよう された後 のち 放置 ほうち された19世紀 せいき の要塞 ようさい 複 ふく 合体 がったい の一部 いちぶ で、現在 げんざい は博物館 はくぶつかん として保存 ほぞん されている。[要 よう 出典 しゅってん ]
およそ12万 まん 人 にん の生存 せいぞん 者 しゃ が破壊 はかい された都市 とし の廃墟 はいきょ に残 のこ った。主 おも に女性 じょせい 、子供 こども 、老人 ろうじん 、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご 帰 かえ ってきた少数 しょうすう の人 ひと などの生存 せいぞん 者 しゃ は、実質 じっしつ 捕虜 ほりょ として拘留 こうりゅう された。1945年 ねん 以降 いこう ケーニヒスベルクに残 のこ った市民 しみん の大 だい 部分 ぶぶん は、病気 びょうき 、飢餓 きが 、復讐 ふくしゅう による民族 みんぞく 浄化 じょうか で命 いのち を落 お とした[ 52] 。残 のこ った2万 まん 人 にん のドイツ人 じん は1949-50年 ねん に追放 ついほう された[ 53] 。
1945年 ねん の第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 後 ご 、ポツダム会議 かいぎ での連合 れんごう 国 こく の同意 どうい を得 え たポツダム協定 きょうてい により、和平 わへい 調停 ちょうてい において領土 りょうど 問題 もんだい が最終 さいしゅう 的 てき に解決 かいけつ するまでケーニヒスベルクは、ソビエト連邦 れんぽう を構成 こうせい するロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく に併合 へいごう された(第 だい 5項 こう ケーニヒスベルクと近隣 きんりん 地域 ちいき )。
会談 かいだん では、ダンツィヒ湾 わん 東岸 とうがん の地点 ちてん から東 ひがし に、ブラウンスベルク・ゴルダプの北 きた を、リトアニア ・ポーランド共和 きょうわ 国 こく ・東 ひがし プロイセン の国境 こっきょう 合流 ごうりゅう 地点 ちてん に及 およ ぶ、バルト海 ばるとかい に隣接 りんせつ するソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう の西部 せいぶ 戦線 せんせん の領域 りょういき について、和平 わへい 調停 ちょうてい では領土 りょうど 問題 もんだい の最終 さいしゅう 決定 けってい を保留 ほりゅう するというソビエト連邦 れんぽう 政府 せいふ による提案 ていあん を検討 けんとう した。
会談 かいだん では、原則 げんそく として、ケーニヒスベルクとその隣接 りんせつ 地域 ちいき のソビエト連邦 れんぽう への最終 さいしゅう 的 てき な移管 いかん に関 かん して、上記 じょうき のように、実際 じっさい の国境 こっきょう を専門 せんもん 家 か による検討 けんとう の対象 たいしょう とする、というソビエト政府 せいふ の提案 ていあん に合意 ごうい した。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう とイギリス 首相 しゅしょう は、来 きた るべき和平 わへい 調停 ちょうてい において、本 ほん 会談 かいだん における本 ほん 提案 ていあん を支持 しじ することを表明 ひょうめい した[ 54] 。
赤軍 せきぐん によるケーニヒスベルクの占領 せんりょう 後 ご 、街 まち はロシア風 ふう に「キョーニクスベルク」Кёнигсберг (Kyonigsberg) と呼 よ ばれていた。これを「バルト海 ばるとかい の町 まち 」を意味 いみ する「バルチースク」に改称 かいしょう することが当初 とうしょ は検討 けんとう されたが[ 55] 、オールド・ボリシェヴィキ の1人 ひとり でソ連 それん 最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会 かい 議長 ぎちょう ミハイル・カリーニン の死後 しご 、1946年 ねん 7月 がつ 4日 にち に、カリーニングラードと改称 かいしょう された。その代 か わり「バルチースク 」は、近 ちか くの港町 みなとちょう ピラウの改称 かいしょう に用 もち いられた。ドイツ人 じん 住民 じゅうみん は占領 せんりょう された西方 にしかた ドイツか、シベリア の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に追放 ついほう され、彼 かれ らの半数 はんすう は飢餓 きが や病気 びょうき で死亡 しぼう した[ 52] 。
民族 みんぞく 浄化 じょうか の後 のち 、カリーニングラードの旧 きゅう 市民 しみん は完全 かんぜん にソビエト市民 しみん に入 い れ替 か えられた。生活 せいかつ は劇的 げきてき に変 か わり、街 まち にはカリーニングラードという新 あたら しい名 な がつけられ、日常 にちじょう 言語 げんご としてのドイツ語 ご はロシア語 ご に取 と って代 か わられた。破壊 はかい を免 まぬか れたいくつかの建物 たてもの が残 のこ った旧 きゅう アルトシュタットは再建 さいけん され、カリーニングラードは工業 こうぎょう 化 か と現代 げんだい 化 か が行 おこな われた。ソ連 それん の西端 せいたん 地域 ちいき の1つとして、カリーニングラード州 しゅう は冷戦 れいせん 期 き に戦略 せんりゃく 的 てき に重要 じゅうよう な地域 ちいき となった。ソ連 それん のバルチック艦隊 かんたい の本部 ほんぶ が置 お かれ、その戦略 せんりゃく 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい のためカリーニングラードは閉鎖 へいさ 都市 とし として外国 がいこく 人 じん 訪問 ほうもん 者 しゃ を締 し め出 だ した。[要 よう 出典 しゅってん ]
ケーニヒスベルク大学 だいがく (アルベルティナ大学 だいがく 、19世紀 せいき 後半 こうはん )。後 ご のカリーニングラード大学 だいがく 、現在 げんざい のイマニュエル・カント国立 こくりつ 大学 だいがく (英語 えいご 版 ばん )
ケーニヒスベルクは数学 すうがく 者 しゃ クリスティアン・ゴルトバハ と作家 さっか E.T.A.ホフマン の出身 しゅっしん 地 ち であった。哲学 てつがく 者 しゃ イマヌエル・カント も生涯 しょうがい をそこで過 す ごし、160㎞以上 いじょう 離 はな れた所 ところ へは旅行 りょこう に行 い かなかった。カントは16歳 さい でケーニヒスベルク大学 だいがく に入学 にゅうがく し、46歳 さい となった1770年 ねん にそこの形而上学 けいじじょうがく の教授 きょうじゅ に任命 にんめい された。そこで働 はたら く間 あいだ 、『純粋 じゅんすい 理性 りせい 批判 ひはん 』や『人倫 じんりん の形而上学 けいじじょうがく 』を発表 はっぴょう した[ 56] 。1736年 ねん に、数学 すうがく 者 しゃ レオンハルト・オイラー はケーニヒスベルクの橋 はし の問題 もんだい の基礎 きそ として街 まち の島 しま と橋 はし の配列 はいれつ を用 もち いた。そのことは位相 いそう 幾何 きか 学 がく とグラフ理論 りろん の数学 すうがく 的 てき 分岐 ぶんき に至 いた った。19世紀 せいき にケーニヒスベルクは著名 ちょめい な数学 すうがく 者 しゃ ダフィット・ヒルベルト の出身 しゅっしん 地 ち となった。20世紀 せいき 前半 ぜんはん に表現 ひょうげん 主義 しゅぎ の建築 けんちく 家 か として活躍 かつやく し[ 57] 、日本 にっぽん に滞在 たいざい したこともあるブルーノ・タウト の出身 しゅっしん 地 ち でもある[ 57] [ 58] 。
大 だい 部分 ぶぶん の市民 しみん が使 つか っていた方言 ほうげん は、低 てい プロシア語 ご であり、ケーニヒスベルクの有名 ゆうめい な大衆 たいしゅう 料理 りょうり にはケーニヒスベルガー・クロプセ(Königsberger Klopse, ケーニヒスベルクの肉 にく 団子 だんご )があった。
19世紀 せいき の「王 おう の門 もん 」
王 おう の道 みち (Königstraße) には、400点 てん 以上 いじょう の絵画 かいが の収蔵 しゅうぞう 品 ひん がある芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい があり、およそ50点 てん のイタリアの巨匠 きょしょう の作品 さくひん や、若干 じゃっかん の初期 しょき のオランダの作品 さくひん があった[ 59] 。王 おう の門 もん (Königstor) には、ボヘミア王 おう オタカル1世 せい 、プロイセン公 こう アルブレヒト 、プロイセン王 おう フリードリヒ1世 せい の像 ぞう があった。ケーニヒスベルクには、1875年 ねん に完成 かんせい した階段 かいだん らの港 みなと の美 うつく しい景色 けしき が見 み える素晴 すば らしい取引 とりひき 所 しょ があった。鉄道 てつどう 通 どお り (Bahnhofstraße) に沿 そ って、有名 ゆうめい な王立 おうりつ の琥珀 こはく 作業 さぎょう 所 しょ の事務所 じむしょ があり、ザームラントは「琥珀 こはく 海岸 かいがん 」と謳 うた われた。天文学 てんもんがく 者 しゃ フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル を台 たい 長 ちょう とした天文台 てんもんだい や植物 しょくぶつ 園 えん 、動物 どうぶつ 博物館 はくぶつかん があった。ヘイマーケット近 ちか くの「Physikalisch」には、植物 しょくぶつ や人類 じんるい 学 がく 的 てき な収集 しゅうしゅう 物 ぶつ と有史 ゆうし 以前 いぜん の遺物 いぶつ が収蔵 しゅうぞう されていた。ヴィルヘルム時代 じだい に建設 けんせつ された2つの大 おお きな劇場 げきじょう は、the Stadt Theatre と the Appolloであった。
ケーニヒスベルク城 じょう の東側 ひがしがわ (1900年 ねん 頃 ごろ )
市内 しない のもっとも著名 ちょめい な建造 けんぞう 物 ぶつ の一 ひと つにケーニヒスベルク城 じょう があり、以前 いぜん はドイツ騎士 きし 団 だん 総長 そうちょう とプロイセン公 こう の居城 きょじょう だった。1701年 ねん にフリードリヒ1世 せい 、1861年 ねん にヴィルヘルム1世 せい が戴冠 たいかん した宮殿 きゅうでん 教会 きょうかい (Schloßkirche)があり、ドイツ国 こく の中 なか で最 もっと も大 おお きなホールの1つで、プロイセンの歴史 れきし 博物館 はくぶつかん であったMoskowitersaal が城内 じょうない にあった。
1544年 ねん にアルベルティナ大学 だいがく (ケーニヒスベルク大学 だいがく )がプロイセン公 こう アルブレヒトによって設立 せつりつ された後 のち 、ケーニヒスベルクは教育 きょういく の中心 ちゅうしん 地 ち となった。大学 だいがく はケーニヒスベルク大 だい 聖堂 せいどう の北東 ほくとう 側 がわ にあった。大学 だいがく の創立 そうりつ 者 しゃ の1人 ひとり 、リトアニアの学者 がくしゃ Stanislovas Rapalionisは、神学 しんがく 初 はつ の教授 きょうじゅ だった[ 60] 。
ドイツ語 ご やポーランド語 ご のプロテスタント系 けい 出版 しゅっぱん 物 ぶつ 多数 たすう が宗教 しゅうきょう 改革 かいかく を支持 しじ しているケーニヒスベルクで印刷 いんさつ された[ 61] 。特 とく に小 しょう リトアニア地方 ちほう (東 ひがし プロイセンの東部 とうぶ 一帯 いったい )出身 しゅっしん のプロシア系 けい リトアニア人 じん によって、ケーニヒスベルクはリトアニア語 ご の出版 しゅっぱん 物 ぶつ の中心 ちゅうしん 地 ち となった。大 だい リトアニアがロシア帝国 ていこく の領土 りょうど となり、リトアニア語 ご での出版 しゅっぱん が禁 きん じられたこともこの背景 はいけい にあった。またカトリック信者 しんじゃ の優勢 ゆうせい な大 だい リトアニアに対 たい して小 しょう リトアニア地方 ちほう はルーテル派 は に改宗 かいしゅう した者 もの が多 おお く、ケーニヒスベルクではリトアニアの方言 ほうげん による祈祷 きとう 書 しょ も印刷 いんさつ された。最初 さいしょ の非 ひ 宗教 しゅうきょう 的 てき な内容 ないよう のリトアニア語 ご の本 ほん もこの地 ち で出版 しゅっぱん された。Paul Friedrich RuhigとChristian Gottlieb Mielckeは政府 せいふ の支持 しじ を得 え て、それぞれ1747年 ねん と1800年 ねん にリトアニア語 ご の辞書 じしょ を出版 しゅっぱん した[ 62] 。
ケーニヒスベルクで活動 かつどう していたスポーツクラブには、VfB KönigsbergとSV Prussia-Samland Königsbergがあった。
^ その他 た の言語 げんご での名称 めいしょう は以下 いか の通 とお り。リトアニア語 ご : Karaliaučius , 低地 ていち ドイツ語 ご : Königsbarg , ポーランド語 ご : Królewiec , ラテン語 らてんご : Regimontium Prussorum
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