この項目 こうもく では、1945年 ねん 以降 いこう のソ連 それん ・ロシア領 りょう の都市 とし について説明 せつめい しています。それ以前 いぜん のドイツのプロイセンの都市 とし については「ケーニヒスベルク (プロイセン) 」をご覧 らん ください。
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カリーニングラード (ロシア語 ご : Калининград , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Kaliningrad 〔カリニングラート 〕〔カリーニン グラット 〕)は、リトアニア とポーランド に挟 はさ まれたロシアの半 はん 飛 と び地 ち であるカリーニングラード州 しゅう 最大 さいだい の都市 とし で行政 ぎょうせい 中心 ちゅうしん 部 ぶ である。バルト海 ばるとかい に面 めん したヴィスワ・ラグーンの突端 とったん 、プレゴリャ川 がわ 沿 そ いに位置 いち し、バルト海 ばるとかい に面 めん したロシアとバルト三 さん 国 こく 唯一 ゆいいつ の不凍港 ふとうこう である。人口 じんこう は約 やく 49万 まん 人 にん (2021年 ねん )。都市 とし 圏 けん には約 やく 80万 まん 人 にん が居住 きょじゅう している[2] [3] 。カリーニングラードは、北西 ほくせい 連邦 れんぽう 管区 かんく ではサンクトペテルブルク に次 つ ぐ第 だい 2位 い 、バルト地方 ちほう では第 だい 3位 い 、バルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん では第 だい 7位 い の都市 とし である。
現在 げんざい のカリーニングラードは、1255年 ねん 、北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん の時代 じだい にドイツ騎士 きし 団 だん によって古 いにしえ プロイセン の集落 しゅうらく トワンステの跡地 あとち に建設 けんせつ された集落 しゅうらく で、ボヘミア王 おう オタカル2世 せい にちなんでケーニヒスベルク (ドイツ語 ご : Königsberg )と名 な づけられた。バルト海 ばるとかい の港町 みなとちょう で、その後 ご 、ドイツ騎士 きし 団 だん 国 こく 、プロイセン公国 こうこく (1525-1701)、東 ひがし プロイセン の首都 しゅと となった。1701年 ねん に首都 しゅと がベルリン に移 うつ ったが、ケーニヒスベルクはプロイセン王国 おうこく の戴冠 たいかん 式 しき が行 おこな われる都市 とし であり続 つづ けた。1454年 ねん から1455年 ねん まではポーランド王国 おうこく に属 ぞく し、1466年 ねん から1657年 ねん まではポーランドの領地 りょうち となった。ケーニヒスベルクは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん までドイツ最 さい 東 ひがし 端 はし の大都市 だいとし であった。1944年 ねん の連合 れんごう 国軍 こくぐん の爆 ばく 撃 げき と1945年 ねん のケーニヒスベルクの戦 たたか い で大 おお きな被害 ひがい を受 う け、1945年 ねん 4月 がつ 9日 にち にソビエト連邦 れんぽう に占領 せんりょう された。1945年 ねん のポツダム協定 きょうてい により、ソビエト連邦 れんぽう の統治 とうち 下 か に置 お かれた。1946年 ねん 、ソ連 それん の革命 かくめい 家 か ミハイル・カリーニン にちなんでカリーニングラード市 し と改名 かいめい された。ソビエト連邦 れんぽう の解体 かいたい 後 こう は、ロシア 最 さい 西端 せいたん の州 しゅう であるカリーニングラード州 しゅう の行政 ぎょうせい の中心 ちゅうしん 地 ち として統治 とうち されている[4] 。
海 うみ や川 かわ の港 みなと を持 も つ交通 こうつう の要衝 ようしょう として、ロシア海軍 かいぐん のバルチック艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ が置 お かれ、ロシアでも有数 ゆうすう の工業 こうぎょう 都市 とし である[5] 。コメルサント の雑誌 ざっし 「The Firm's Secret」では2012年 ねん 、2013年 ねん 、2014年 ねん にロシアで最高 さいこう の都市 とし とされ[6] 、「フォーブス 」では2013年 ねん にロシアで最 もっと もビジネスに適 てき した都市 とし とされ[7] 、2019年 ねん にはMinstroyが発表 はっぴょう した都市 とし 環境 かんきょう 品質 ひんしつ 指数 しすう で5位 い にランクインしている[8] 。カリーニングラードは過去 かこ 20年間 ねんかん 、ロシア国内 こくない の主要 しゅよう な移住 いじゅう 先 さき となっており[9] 、2018 FIFA ワールド カップ の開催 かいさい 都市 とし の1つでもある。
年間 ねんかん 平均 へいきん 気温 きおん :7.6℃
真夏 まなつ の気温 きおん :16~30℃
真冬 まふゆ の気温 きおん :4~-14℃
1月 がつ ・2月 がつ の平均 へいきん 気温 きおん :-4℃
7月 がつ ・8月 がつ の平均 へいきん 気温 きおん :17℃
年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう :804ミリメートル
多 おお くのロシアの都市 とし に比 くら べ、海洋 かいよう 性 せい に近 ちか い気候 きこう で、夏 なつ はそれほど暑 あつ くなく、冬 ふゆ も極端 きょくたん に寒 さむ くはならない。降水 こうすい 量 りょう は年間 ねんかん を通 とお して、ほぼ均等 きんとう 。30℃(86.0F)を超 こ えることはそれほど多 おお くないが、最高 さいこう 気温 きおん は1992年 ねん 8月 がつ 10日 とおか に36.5℃(97.7F)を記録 きろく している。7月としての最高 さいこう 気温 きおん は1994年 ねん 7月 がつ 30日 にち に記録 きろく された36.3℃(97.3F)。最低 さいてい 気温 きおん は1956年 ねん 2月 がつ に-33.3℃(-27.9F)、1月としては同年 どうねん に-32.5℃(-26.5F)を記録 きろく している。
ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん では、西岸 せいがん 海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう (Cfb)に属 ぞく する。
カリーニングラード(1991–2020年 ねん 、極 きょく 値 ち 1848年 ねん - )の気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
最高 さいこう 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
12.7 (54.9)
16.9 (62.4)
23.0 (73.4)
28.5 (83.3)
30.6 (87.1)
34.0 (93.2)
36.3 (97.3)
36.5 (97.7)
33.8 (92.8)
26.4 (79.5)
19.4 (66.9)
13.3 (55.9)
36.5 (97.7)
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
1.1 (34)
2.1 (35.8)
6.1 (43)
13.1 (55.6)
18.2 (64.8)
21.3 (70.3)
23.5 (74.3)
23.3 (73.9)
18.4 (65.1)
12.2 (54)
6.2 (43.2)
2.6 (36.7)
12.3 (54.1)
日 にち 平均 へいきん 気温 きおん °C (°F )
−1.2 (29.8)
−0.6 (30.9)
2.4 (36.3)
7.9 (46.2)
12.7 (54.9)
16.1 (61)
18.5 (65.3)
18.1 (64.6)
13.5 (56.3)
8.4 (47.1)
3.9 (39)
0.4 (32.7)
8.3 (46.9)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
−3.5 (25.7)
−3.0 (26.6)
−0.8 (30.6)
3.4 (38.1)
7.5 (45.5)
11.3 (52.3)
13.9 (57)
13.3 (55.9)
9.4 (48.9)
5.2 (41.4)
1.7 (35.1)
−1.8 (28.8)
4.7 (40.5)
最低 さいてい 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
−32.5 (−26.5)
−33.3 (−27.9)
−21.7 (−7.1)
−5.8 (21.6)
−3.1 (26.4)
0.7 (33.3)
4.5 (40.1)
1.6 (34.9)
−2.0 (28.4)
−11.2 (11.8)
−18.7 (−1.7)
−25.6 (−14.1)
−33.3 (−27.9)
降水 こうすい 量 りょう mm (inch)
68 (2.68)
54 (2.13)
49 (1.93)
38 (1.5)
52 (2.05)
69 (2.72)
91 (3.58)
91 (3.58)
73 (2.87)
86 (3.39)
76 (2.99)
69 (2.72)
816 (32.13)
平均 へいきん 降雨 こうう 日数 にっすう
14
13
14
14
14
16
15
16
17
18
18
16
185
平均 へいきん 降雪 こうせつ 日数 にっすう
15
15
10
3
0.1
0
0
0
0
1
7
13
64
% 湿度 しつど
85
83
78
72
71
74
75
77
81
83
86
87
79
平均 へいきん 月間 げっかん 日照 ひでり 時間 じかん
35
61
120
171
253
264
257
228
158
96
38
26
1,707
出典 しゅってん 1:Pogoda.ru.net[10]
出典 しゅってん 2:NOAA (sun 1961–1990)[11]
ドイツ帝国 ていこく の地図 ちず 。最 さい 東 ひがし 端 はし がケーニヒスベルクを州都 しゅうと とする東 ひがし プロイセン 。
ケーニヒスベルクとしての歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
現在 げんざい カリーニングラードと呼 よ ばれているケーニヒスベルクは、1255年 ねん にドイツ騎士 きし 団 だん によって建設 けんせつ され、ハンザ同盟 どうめい に所属 しょぞく するバルト海 ばるとかい の貿易 ぼうえき 都市 とし となった。街 まち はポーランドとリトアニアを流 なが れるプレーゲル川 かわ (現 げん ・プレゴリャ川 がわ )の河口 かこう 部 ぶ に位置 いち し、中州 なかす であるクナイプホーフを中心 ちゅうしん に広 ひろ がり、プレーゲル川 がわ 流域 りゅういき の物産 ぶっさん を集 あつ めてバルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん の諸 しょ 都市 とし と交易 こうえき し繁栄 はんえい した。ところが住民 じゅうみん はポーランド王国 おうこく を支持 しじ してドイツ騎士 きし 団 だん と対立 たいりつ 、1410年 ねん のタンネンベルクの戦 たたか い の結果 けっか 第 だい 一 いち 次 じ トルンの和 わ 約 やく が交 か わされ、ケーニヒスベルクをはじめとしたドイツ騎士 きし 団 だん 領 りょう はすべてポーランド王国 おうこく の従属 じゅうぞく 国 こく となる。その後 ご ドイツ騎士 きし 団 だん による専制 せんせい に反発 はんぱつ したケーニヒスベルク等 とう の商業 しょうぎょう 都市 とし がプロイセン連合 れんごう を結成 けっせい して騎士 きし 団 だん と対立 たいりつ してポーランド王国 おうこく の庇護 ひご を求 もと め、1466年 ねん の第 だい 二 に 次 じ トルンの和 わ 約 やく によりケーニヒスベルクはポーランド王 おう の直接 ちょくせつ の所有 しょゆう 物 ぶつ となり、住民 じゅうみん による自治 じち 権 けん を与 あた えられた。ポーランドの支配 しはい が及 およ んでいた17世紀 せいき 中頃 なかごろ までは、ポーランド語 ご の「クルレビエツ」(ポーランド語 ご : Królewiec )という名前 なまえ でも知 し られていた。
19世紀 せいき 末 まつ 頃 ごろ のケーニヒスベルク城 じょう
1525年 ねん にドイツ騎士 きし 団 だん の総長 そうちょう だったホーエンツォレルン家 か のアルブレヒト が修道 しゅうどう 会 かい 国家 こっか を世俗 せぞく 化 か させてプロシア公 おおやけ 領 りょう を東 ひがし プロイセンに成立 せいりつ させケーニヒスベルクはその首都 しゅと となった。公国 こうこく の血 ち が絶 た えると1618年 ねん より同族 どうぞく であるブランデンブルク選 せん 帝 みかど 侯 こう のホーエンツォレルン家 か が飛 と び地 ち となる公国 こうこく を同時 どうじ に治 おさ めることになった。1660年 ねん のオリヴァ協定 きょうてい でポーランド王国 おうこく がプロシア公 おおやけ 領 りょう に対 たい する宗主 そうしゅ 権 けん を放棄 ほうき して公 おおやけ 領 りょう はポーランドから独立 どくりつ 、プロイセン公国 こうこく となり、1466年 ねん より194年 ねん の間 あいだ ポーランド王 おう が保障 ほしょう した自治 じち 権 けん によって大 おお いに繁栄 はんえい していたケーニヒスベルクはその自治 じち 権 けん を失 うしな ってプロイセン公国 こうこく に隷属 れいぞく することになった。
1701年 ねん 、ブランデンブルク選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ3世 せい は神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の外 そと にあたるケーニヒスベルクで王 おう に即位 そくい 、フリードリヒ1世 せい となりプロイセン王国 おうこく がこの街 まち で誕生 たんじょう した。この時期 じき 、ケーニヒスベルク大学 だいがく などを擁 よう する教育 きょういく と研究 けんきゅう の中心 ちゅうしん 地 ち でもあり、イマヌエル・カント ら多 おお くの学者 がくしゃ を輩出 はいしゅつ した。19世紀 せいき にプロイセン王国 おうこく を中心 ちゅうしん にドイツ帝国 ていこく が形成 けいせい されると、その一部 いちぶ となった。1848年 ねん にはヨーロッパ市民 しみん 革命 かくめい のプロイセンにおける中心 ちゅうしん 地 ち となり、王侯 おうこう 貴族 きぞく の支配 しはい に対 たい して商工 しょうこう 業者 ぎょうしゃ を中心 ちゅうしん とした市民 しみん が立 た ち上 あ がり、大 だい 規模 きぼ な抵抗 ていこう 運動 うんどう を行 おこな った。
プレーゲル川 かわ 沿 ぞ いの河岸 かわぎし
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、旧 きゅう ドイツ帝国 ていこく の東部 とうぶ 領土 りょうど が割譲 かつじょう され、ドイツやオーストリア によって分割 ぶんかつ されていたポーランド が独立 どくりつ を果 は たした。その際 さい 、ポーランド北部 ほくぶ のバルト海 ばるとかい に面 めん した地域 ちいき にあたる旧 きゅう プロイセン公国 こうこく の領域 りょういき のうち、自由 じゆう 都市 とし として残 のこ されたダンツィヒ (グダンスク)を除 のぞ いた「西 にし プロイセン 」は、ポーランドの海 うみ への出口 いでぐち (ポーランド回廊 かいろう )としてポーランドに割譲 かつじょう された。ケーニヒスベルクを中心 ちゅうしん とする「東 ひがし プロイセン 」はドイツ領 りょう として残 のこ されたが、ドイツ本国 ほんごく との陸上 りくじょう 路 ろ が閉 と ざされ、孤立 こりつ した飛 と び地 ち となった。
のちにドイツで政権 せいけん を握 にぎ ったナチス党 とう のアドルフ・ヒトラー は、ポーランド侵攻 しんこう 直前 ちょくぜん に飛 と び地 ち 解消 かいしょう を名目 めいもく にポーランド回廊 かいろう の領土 りょうど 返還 へんかん を要求 ようきゅう したが、権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき なポーランド側 がわ はミュンヘン会談 かいだん の取 と り決 き め(ドイツは英 えい ・仏 ふつ ・伊 い に対 たい しチェコスロバキア から併合 へいごう したズデーテン地方 ちほう 以外 いがい に領土 りょうど 要求 ようきゅう はしないと約束 やくそく した)を盾 たて にドイツの領土 りょうど 要求 ようきゅう を拒否 きょひ したため、ドイツ軍 ぐん がポーランドに侵攻 しんこう し、ポーランドと相互 そうご 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく を結 むす んでいた英 えい 仏 ふつ がドイツに宣戦 せんせん 布告 ふこく して、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が始 はじ まった。
ソビエト領 りょう カリーニングラードへ [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 前 まえ の市街 しがい 風景 ふうけい
独 どく ソ戦 せん 中盤 ちゅうばん までケーニヒスベルクは比較的 ひかくてき 平和 へいわ が保 たも たれたが、戦争 せんそう 末期 まっき には東部 とうぶ 戦線 せんせん の激 はげ しい戦場 せんじょう となった。1944年 ねん 8月 がつ 26日 にち から27日 にち の夜 よる にかけてイギリス軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき 機 き 174機 き による長距離 ちょうきょり 爆撃 ばくげき が行 おこな われたが、この空襲 くうしゅう は郊外 こうがい に爆 ばく 弾 だん のほとんどが落 お ちほぼ失敗 しっぱい に終 お わった。しかし続 つづ く8月 がつ 29日 にち から30日 にち にかけてのイギリス軍機 ぐんき 189機 き による空襲 くうしゅう では市街地 しがいち 中心 ちゅうしん 部 ぶ が打撃 だげき を受 う けた。住居 じゅうきょ と工場 こうじょう の多 おお くが破壊 はかい されたほか、クナイプホーフはじめ旧 きゅう 市街 しがい の大半 たいはん 、ケーニヒスベルク大 だい 聖堂 せいどう はじめ古 ふる い教会 きょうかい のほとんど、ケーニヒスベルク城 じょう 、大学 だいがく などは完全 かんぜん に破壊 はかい された。
ソ連 それん 赤軍 せきぐん が東 ひがし プロイセンに進撃 しんげき を始 はじ めた 1944年 ねん 10月 がつ 頃 ごろ からは約 やく 37万 まん 人 にん にのぼる市民 しみん の西部 せいぶ ドイツへの脱出 だっしゅつ が始 はじ まった。1945年 ねん 1月 がつ 13日 にち にはソ連 それん 軍 ぐん がついにケーニヒスベルクに達 たっ し1月 がつ 末 まつ には市 し は完全 かんぜん に包囲 ほうい されたが、市民 しみん や避難 ひなん 民 みん はドイツ軍 ぐん の確保 かくほ した鉄道 てつどう と港湾 こうわん を使 つか ってバルト海 ばるとかい 経由 けいゆ でケーニヒスベルクからの脱出 だっしゅつ を続 つづ けた。要塞 ようさい 化 か された市街 しがい の周辺 しゅうへん には地雷 じらい や鉄条 てつじょう 網 もう などで三 さん 重 じゅう の防衛 ぼうえい 線 せん が築 きず かれ、2月 がつ から3月 がつ の間 あいだ ドイツ軍 ぐん は抵抗 ていこう をつづけた。しかし1945年 ねん 4月 がつ 6日 にち から4月 がつ 9日 にち まで、ソ連 それん 軍 ぐん は4日間 にちかん にわたり南北 なんぼく から最後 さいご の突撃 とつげき を行 おこな い、残 のこ されたドイツ軍 ぐん は降伏 ごうぶく しケーニヒスベルクは陥落 かんらく した(ケーニヒスベルクの戦 たたか い )。
T-34戦車 せんしゃ 、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん の戦勝 せんしょう 記念 きねん 碑 ひ の1つ
ケーニヒスベルク城跡 じょうせき に建設 けんせつ されたソビエトの家 いえ
ドイツの戦後 せんご 処理 しょり が話 はな し合 あ われたポツダム会談 かいだん において、ケーニヒスベルクはソ連邦 それんぽう への帰属 きぞく が決定 けってい された。すなわち、東 ひがし プロイセンは南北 なんぼく に分割 ぶんかつ され、南部 なんぶ はポーランド領 りょう に、ケーニヒスベルクを含 ふく む北部 ほくぶ はソ連 それん のロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく に編入 へんにゅう された。戦後 せんご もドイツ系 けい 市民 しみん 約 やく 2万 まん 人 にん (1945年 ねん 7月 がつ の同市 どうし の総 そう 人口 じんこう は約 やく 7万 まん 人 にん )が同 どう 市内 しない に残留 ざんりゅう していたが、1947年 ねん 10月11日 にち スターリンは市内 しない に残留 ざんりゅう していたドイツ系 けい 市民 しみん の追放 ついほう を決定 けってい し、翌年 よくねん にかけてドイツ系 けい 残留 ざんりゅう 市民 しみん は全員 ぜんいん 鉄路 てつろ でソビエト占領 せんりょう 区域 くいき (後 ご の東 ひがし ドイツ地域 ちいき に相当 そうとう )へと移送 いそう された。前後 ぜんご して大量 たいりょう のソ連 それん 市民 しみん が市内 しない へ移住 いじゅう した。1946年 ねん 7月 がつ 4日 にち 、ソ連 それん 領 りょう となったケーニヒスベルクは1ヶ月 かげつ 前 まえ に死去 しきょ した先 さき のソビエト連邦 れんぽう 最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会 かい 議長 ぎちょう ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニン にちなんでカリーニングラード市 し 、区域 くいき 全体 ぜんたい はカリーニングラード州 しゅう とロシア語 ご 名 めい に改称 かいしょう された。その後 ご 、ケーニヒスベルク城 じょう の焼 や け残 のこ った外壁 がいへき はドイツ時代 じだい の遺物 いぶつ として完全 かんぜん に破壊 はかい され、城 しろ の跡地 あとち にはソビエトの家 いえ が建設 けんせつ された。ケーニヒスベルク大 だい 聖堂 せいどう の外壁 がいへき は、歴史 れきし 的 てき な旧 きゅう 市街 しがい の廃墟 はいきょ が完全 かんぜん に撤去 てっきょ された空 あ き地 ち の中 なか にそのまま残 のこ された。
カリーニングラードは冷戦 れいせん 時代 じだい は軍事 ぐんじ 都市 とし として、州 しゅう 全体 ぜんたい が外国 がいこく 人 じん の立 た ち入 い りが規制 きせい される閉鎖 へいさ 都市 とし だった。ソ連 それん でも重要 じゅうよう な不凍港 ふとうこう としてバルト艦隊 かんたい の拠点 きょてん となり、造船 ぞうせん 業 ぎょう が発達 はったつ した。
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(2016年 ねん 9月 がつ )
ところが冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 後 ご にリトアニア がソ連 それん から独立 どくりつ した結果 けっか 、今度 こんど はカリーニングラード州 しゅう がソ連 それん ・ロシア連邦 れんぽう の飛 と び地 ち となった。さらに冷戦 れいせん 後 ご の造船 ぞうせん 需要 じゅよう の悪化 あっか で造船 ぞうせん 業 ぎょう が衰退 すいたい して失業 しつぎょう 率 りつ が増加 ぞうか し、市民 しみん の4割 わり が貧困 ひんこん 層 そう といわれるほど経済 けいざい 状況 じょうきょう が悪化 あっか 、琥珀 こはく も密売 みつばい 者 しゃ の間 あいだ で高騰 こうとう した。ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご の一時期 いちじき は東欧 とうおう 各国 かっこく の中心 ちゅうしん にある地理 ちり 的 てき 特性 とくせい を活 い かして「バルト海 ばるとかい の香港 ほんこん 」としようという夢 ゆめ が語 かた られたが、それとは程遠 ほどとお い状態 じょうたい になりつつある。ソ連 それん 崩壊 ほうかい 直後 ちょくご にロシアはここをポーランド領 りょう とする案 あん を用意 ようい (代 か わりにドイツはシュチェチン を得 え るという話 はなし であった)したものの頓挫 とんざ 、結局 けっきょく そのまま放置 ほうち された。
カリーニングラードの経済 けいざい は崩壊 ほうかい し、この町 まち が東 ひがし ヨーロッパの中心 ちゅうしん に位置 いち するということもあって、麻薬 まやく 取引 とりひき 、人身 じんしん 売買 ばいばい 、盗難 とうなん 車 しゃ の取引 とりひき 中継 ちゅうけい 地 ち など、東欧 とうおう ・旧 きゅう ソ連 それん 全域 ぜんいき を舞台 ぶたい にしたさまざまな犯罪 はんざい の拠点 きょてん に使 つか われるほど治安 ちあん が悪化 あっか 、エイズ などの感染 かんせん 症 しょう も蔓延 まんえん し始 はじ めた。さらに、軍事 ぐんじ 都市 とし 時代 じだい の有害 ゆうがい な廃棄 はいき 物 ぶつ が放置 ほうち されており、住 す めない土地 とち が各地 かくち に広 ひろ がった。
ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご に再建 さいけん されたクナイプホーフのケーニヒスベルク大 だい 聖堂 せいどう
カリーニングラード市電 しでん (2001年 ねん )
独立 どくりつ 後 ご 10年 ねん を経 へ て、ロシア政府 せいふ は、カリーニングラードの復興 ふっこう をてこ入 い れすることにし[2] 、経済 けいざい 対策 たいさく として経済 けいざい 特区 とっく を設 もう け、輸入 ゆにゅう 関税 かんぜい を免除 めんじょ するなど外貨 がいか 獲得 かくとく を目指 めざ した。しかし、当初 とうしょ はロシア国内 こくない 向 む けの家電 かでん 組立 くみたて 工場 こうじょう が多数 たすう 成立 せいりつ した他 ほか は特区 とっく の効果 こうか はあまり出 で ず、さらに2004年 ねん に周囲 しゅうい を取 と り囲 かこ むリトアニアとポーランドが共 とも にEU に加盟 かめい したため、カリーニングラードとロシア本土 ほんど との通行 つうこう にリトアニアがビザを課 か すようになったなど、周囲 しゅうい との通行 つうこう に障害 しょうがい が生 しょう じ、先 さき の見通 みとお しが立 た たないとまで言 い われた。
その後 ご 、ロシア本土 ほんど との通行 つうこう にリトアニアのビザ取得 しゅとく が簡素 かんそ 化 か され、物流 ぶつりゅう も整備 せいび された結果 けっか 、カリーニングラードの経済 けいざい は成長 せいちょう している[3] 。
カリーニングラードはロシア海軍 かいぐん バルト艦隊 かんたい の重要 じゅうよう な軍港 ぐんこう であり続 つづ けている[4] 。2022年 ねん ロシアのウクライナ侵攻 しんこう 時 とき には強襲 きょうしゅう 揚陸 ようりく 艦 かん 3隻 せき が寄港 きこう し、対岸 たいがん のスウェーデン が軍事 ぐんじ 的 てき な警戒 けいかい 態勢 たいせい を強化 きょうか した[5] 。
2022年 ねん 6月 がつ 21日 にち 、リトアニアは、ロシア本国 ほんごく からカリーニングラードに至 いた る区間 くかん で、鉄道 てつどう 輸送 ゆそう の一部 いちぶ を「欧州 おうしゅう 連合 れんごう による(ウクライナ に侵攻 しんこう した)ロシアに対 たい する制裁 せいさい 」にのっとって禁止 きんし した[6] 。この制裁 せいさい は翌月 よくげつ 13日 にち に軍事 ぐんじ 物資 ぶっし 以外 いがい など一部 いちぶ の項目 こうもく で緩和 かんわ された[13] 。
2023年 ねん 5月 がつ 10日 とおか 、ポーランドにおけるカリーニングラードの呼称 こしょう がポーランド語 ご 名 めい の「クルレビエツ」(ポーランド語 ご : Królewiec )に変更 へんこう された[14] 。これに対 たい して、ロシアのペスコフ大統領 だいとうりょう 報道 ほうどう 官 かん は「敵対 てきたい 的 てき な行動 こうどう だ」と反発 はんぱつ している[15] 。
ケーニヒスベルクのパサージュ
アルトシュタットの市場 いちば
ケーニヒスベルク城 じょう の背後 はいご の池 いけ
カリーニングラード歴史 れきし 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん 、戦前 せんぜん の建物 たてもの の再 さい 利用 りよう
城門 じょうもん 、Königstor
城門 じょうもん 、Friedrichsburger Tor
ケーニヒスベルク証券 しょうけん 取引 とりひき 場 じょう の残骸 ざんがい
カリーニングラード市街 しがい
モスコフスキー通 どお りを通 とお る路面 ろめん 電車 でんしゃ
カリーニングラード市街 しがい と市電 しでん
プレゴリャ川 かわ 沿 ぞ いに新築 しんちく された戦前 せんぜん のケーニヒスベルク風 ふう の建物 たてもの
プレゴリャ川 かわ 沿 ぞ いに新築 しんちく された戦前 せんぜん のケーニヒスベルク風 ふう の建物 たてもの
戦前 せんぜん のケーニヒスベルクの地図 ちず
ケーニヒスベルク大学 だいがく (アルベルティナ大学 だいがく 、19世紀 せいき 後半 こうはん )。後 ご のカリーニングラード大学 だいがく 、現在 げんざい のイマヌエル・カント・バルト連邦 れんぽう 大学 だいがく
バルト海 ばるとかい 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ
カリーニングラード南 みなみ 駅 えき
カリーニングラード市電 しでん
フラブロヴォ空港 くうこう からはロシア本土 ほんど の各 かく 都市 とし や他 た のヨーロッパ都市 とし への便 びん が運行 うんこう されている。バルチースク からはサンクトペテルブルク 、ストックホルム 、コペンハーゲン 、リガ 、キール への航路 こうろ がある。
カリーニングラード南 みなみ 駅 えき からはモスクワ 、サンクトペテルブルク 、ソチ 、チェリャビンスク 方面 ほうめん への列車 れっしゃ が運行 うんこう されている。カリーニングラードの鉄道 てつどう は、ポーランド ・東 ひがし ドイツ方面 ほうめん の路線 ろせん で標準軌 ひょうじゅんき を広軌 こうき と併設 へいせつ (三 さん 線 せん 軌条 きじょう )している。これは冷戦 れいせん 期 き には軍事 ぐんじ 目的 もくてき で整備 せいび されたものである。カリーニングラード駅 えき の6番 ばん ホームはエルブロンク 方面 ほうめん からの標準軌 ひょうじゅんき の列車 れっしゃ が発着 はっちゃく 可能 かのう である。近郊 きんこう 列車 れっしゃ はカリーニングラード北 きた 駅 えき からも発着 はっちゃく しており、ゼレノグラーツク 、スヴェトロゴルスク 、ソヴィェツク 方面 ほうめん に向 む かうものがある。
路面 ろめん 電車 でんしゃ は1881年 ねん に開業 かいぎょう し、現在 げんざい も運行 うんこう が続 つづ けられている(カリーニングラード市電 しでん )。1975年 ねん にはトロリーバス の運行 うんこう も開始 かいし された。
2018 FIFAワールドカップ の開催 かいさい 都市 とし のひとつとなり、新築 しんちく のカリーニングラード・スタジアム が会場 かいじょう として使用 しよう された。大会 たいかい 後 ご はロシア・ナショナル・フットボールリーグ に所属 しょぞく するFCバルチカ・カリーニングラード の本拠地 ほんきょち として使用 しよう される。
カリーニングラード市街 しがい 空 そら 撮 つまみ 。川 かわ 沿 ぞ いの木 き 立 だ ちのある場所 ばしょ がケーニヒスベルクの歴史 れきし 的中 てきちゅう 心地 ごこち の跡地 あとち 。中央 ちゅうおう がケーニヒスベルク大 だい 聖堂 せいどう (再建 さいけん )、左上 ひだりうえ がケーニヒスベルク城 じょう の跡 あと に建 た つソビエトの家 いえ
Eberhard Beckherrn, Aleksej Dubatov: Die Königsberg-Papiere. Neue Dokumente aus russischen Archiven. Schicksal einer deutschen Stadt. Langen Müller, München 1994.
Bert Hoppe: Auf den Trümmern von Königsberg. Kaliningrad 1946−1970, Schriftenreihe der Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte, Bd. 80, München 2000.
Per Brodersen: Die Stadt im Westen. Wie Königsberg Kaliningrad wurde (mit einem Vorwort von Haug von Kuenheim), Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 2008, ISBN 978-3-525-36301-0 .
Eckhard Matthes (Herausgeber): Als Russe in Ostpreussen. Sowjetische Umsiedler über ihren Neubeginn in Königsberg/Kaliningrad nach 1945, Ostfildern 1999.
Eckhard Matthes: Verbotene Erinnerung. Die Wiederentdeckung der ostpreußischen Geschichte im Gebiet Kaliningrad (1945−2001). In: Osteuropa 51 (2001), H. 11−12, S. 1350−1390.
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