ケーテ・コルヴィッツ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケーテ・コルヴィッツ
Käthe Kollwitz
1991ねん発行はっこう、ドイツにおける女性じょせい切手きってシリーズより
誕生たんじょう 1867ねん7がつ8にち
出生しゅっしょう プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく ひがしプロイセンケーニヒスベルク
死没しぼつねん (1945-04-22) 1945ねん4がつ22にち(77さいぼつ
死没しぼつ ナチス・ドイツの旗 ドイツこく モーリッツブルク英語えいごばん
国籍こくせき ドイツじん
代表だいひょうさく
  • 農民のうみん戦争せんそう
テンプレートを表示ひょうじ
ケーテ・コルヴィッツの肖像しょうぞうひだりおっとカール)

ケーテ・シュミット・コルヴィッツドイツ: Käthe Schmidt Kollwitz, 1867ねん7がつ8にち - 1945ねん4がつ22にち)は、ドイツ版画はんが彫刻ちょうこく周囲しゅういにいたまずしい人々ひとびと生活せいかつ労働ろうどうえがいたほか、ははとして・女性じょせいとしての苦闘くとうすうおおくの作品さくひんのこした。ドイツ帝国ていこくヴァイマル共和きょうわこくナチス・ドイツといううご時代じだいきた、20世紀せいき前半ぜんはんのドイツを代表だいひょうする芸術げいじゅつ一人ひとりである。

人物じんぶつ生涯しょうがい[編集へんしゅう]

彼女かのじょは1867ねんひがしプロイセンケーニヒスベルク現在げんざいロシアりょうカリーニングラード)で、左官さかん親方おやかたであるちちカール・シュミット、ははケーテ・ループのあいだまれた。彼女かのじょちち仕事場しごとばにいた職人しょくにんからどう版画はんがまなび、ちちは17さいになった彼女かのじょベルリン勉強べんきょうかせた。この時期じき彼女かのじょマックス・クリンガーなどベルリン分離ぶんり画家がか版画はんがたちの影響えいきょうつよけた。彼女かのじょ学業がくぎょうえケーニヒスベルクにもどったが、ふたたびより芸術げいじゅつてき環境かんきょうもとミュンヘンかい、フランス印象派いんしょうは絵画かいがなどの影響えいきょうける一方いっぽう版画はんがスケッチ自分じぶんいているとかんがえるようになる。1890ねん彼女かのじょはケーニヒスベルクにもどり、みなとはたら女性じょせいたちの活動かつどうてき姿すがた版画はんがえがくようになった。

1891ねんあに友人ゆうじん健康けんこう保険ほけんのカール・コルヴィッツと結婚けっこんした彼女かのじょはベルリンの貧民ひんみんがいうつった。彼女かのじょ生涯しょうがいえがつづけた自画像じがぞう一方いっぽうスラム彼女かのじょまわりの住民じゅうみんたちやおっと患者かんじゃたちにつよ印象いんしょうけ、貧困ひんこんくるしみをえがくようになる。

彼女かのじょ1897ねんに、ゲアハルト・ハウプトマンさく下層かそう階級かいきゅう人々ひとびとえがいた戯曲ぎきょくたくみ』(Die Weber、1892ねん)を印象いんしょうから制作せいさくした最初さいしょ版画はんが連作れんさくたくみ』(こう蜂起ほうき)を発表はっぴょうし、一躍いちやく脚光きゃっこうびる。批評ひひょうからは絶賛ぜっさんびたが、当時とうじ芸術げいじゅつパトロンたちにとってはむずかしい題材だいざいであった。彼女かのじょはベルリンの『だい展覧てんらんかい(Große Kunstausstellung)』できんメダルにノミネートされたが、皇帝こうていヴィルヘルム2せい授賞じゅしょうたいする許可きょかあたえなかった。

その彼女かのじょドイツ農民のうみん戦争せんそう題材だいざいにした連作れんさく農民のうみん戦争せんそう』(1908ねん)で評価ひょうかされ、版画はんがくわえて彫刻ちょうこくがけるようになったが、1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん開戦かいせんいち週間しゅうかんすえ息子むすこのペーターが戦死せんしした。社会しゃかい全体ぜんたい開戦かいせんへの熱気ねっきたかまるなか息子むすこのハンスとペーターが兵士へいし志願しがんしたさい彼女かのじょめるどころかむしろ後押あとおししてしまったこともあり、彼女かのじょながあいだかなしみにさいなまれた。戦後せんご彼女かのじょはペーターの戦死せんしもとにした木版もくはんによる連作れんさく戦争せんそう』(1920ねん)や労働ろうどうしゃ題材だいざいにした『プロレタリアート』(1925ねん)を発表はっぴょうする一方いっぽう息子むすこ死後しご17年間ねんかんにわたり彫刻ちょうこく両親りょうしん』の制作せいさくつづけ、1932ねんベルギーフランデレンのRoggevelde にあるドイツぐん戦没せんぼつ兵士へいし墓地ぼち設置せっちされた。のちに、ペーターのほうむられた墓地ぼちちかくのVlodslo に移転いてんし、彫刻ちょうこく移転いてんしている。彼女かのじょはその激戦げきせんだったベルギー・ランゲマルク(Langemarck)の墓地ぼちのためによんにん黙祷もくとうする兵士へいしぞう制作せいさくしている。

両親りょうしん
ベルギー・Vlodsloのだい大戦たいせん戦没せんぼつドイツへい墓地ぼち移転いてんされている
はは2人ふたり

彼女かのじょ1919ねん女性じょせいアーティストとしてはじめてプロイセン芸術げいじゅついん会員かいいん任命にんめいされ、1929ねんにはプール・ル・メリット勲章くんしょう受章じゅしょうするなど、だいいち世界せかい大戦たいせん国家こっか社会しゃかい各層かくそうからたか評価ひょうかけ、おおくの人々ひとびとからしたしまれた。一方いっぽう社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう平和へいわ主義しゅぎ運動うんどうにも関与かんよし、『カール・リープクネヒト追憶ついおくぞう』の制作せいさくや、ドイツ革命かくめいわずかなあいだ存在そんざいした社会しゃかい主義しゅぎ政府せいふ労働ろうどうしゃ芸術げいじゅつ会議かいぎ参加さんかするなどの活動かつどうおこなっている。

1933ねんナチとう権力けんりょく掌握しょうあくとともに「退廃たいはい芸術げいじゅつ」の排斥はいせきはじまった。彼女かのじょはんナチスてき作家さっかとされ、芸術げいじゅついん会員かいいん教授きょうじゅしょくからるように強制きょうせいされた。彼女かのじょ最後さいご版画はんが連作れんさく』および、ははんだ息子むすこ題材だいざいにした彫刻ちょうこくピエタ』(1937ねん)を制作せいさくするものの、1930年代ねんだい後半こうはん以後いご展覧てんらんかい開催かいさい作品さくひん制作せいさくなど芸術げいじゅつとしての活動かつどうきんじられた。宣伝せんでんしょう人気にんきのあった彼女かのじょ作品さくひんを『退廃たいはい芸術げいじゅつてん』では展示てんじしなかったものの、ぎゃくにいくつかの作品さくひんをナチスのプロパガンダとして利用りようしている。彼女かのじょおっと1940ねん病死びょうしし、まごのペーター(長男ちょうなんハンスの息子むすこ)は東部とうぶ戦線せんせん1942ねん戦死せんしした。

1943ねん彼女かのじょベルリン空襲くうしゅう住宅じゅうたくやデッサンのおおくをうしない、ザクセン王子おうじエルンスト・ハインリヒまねきで、ベルリンからドレスデン近郊きんこうまち・モーリッツブルクに疎開そかいし、モーリッツブルクじょうのそばのリューデンホーフという屋敷やしきんだ。彼女かのじょ制作せいさくきんじられたのちもひそかに制作せいさくつづけており、さい末期まっき作品さくひんには子供こどもたちをうでしたかかえてまもり、にらみつける母親ははおやえがいた1941ねんの『たねこないてはならない』という版画はんが作品さくひんがある。1945ねん4がつ22にちだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつのわずかまえ彼女かのじょった。

作品さくひん所蔵しょぞう展示てんじ[編集へんしゅう]

ケーテ・コルヴィッツの『ピエタ』は、1993ねん、ベルリンの「ノイエ・ヴァッヘ」(国立こくりつ中央ちゅうおう戦争せんそう犠牲ぎせいしゃ追悼ついとうしょ内部ないぶ中央ちゅうおう設置せっちされている。

日本にっぽんにおいてられる彫刻ちょうこく作品さくひんには、「恋人こいびとたちII」(1913)(愛知あいちけん美術館びじゅつかん)などがある。

沖縄おきなわ美術館びじゅつかんに、連作れんさく版画はんがの「戦争せんそう」、「農民のうみん戦争せんそう」、「」がコレクションされている[1]

脚注きゃくちゅう参照さんしょう[編集へんしゅう]

  1. ^ おもなコレクション | 美術館びじゅつかん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]