レオンハルト・オイラー (Leonhard Euler、1707年 ねん 4月 がつ 15日 にち - 1783年 ねん 9月18日 にち )は、18世紀 せいき の数学 すうがく 者 しゃ ・天文学 てんもんがく 者 しゃ (天体 てんたい 物理 ぶつり 学者 がくしゃ )である。
当時 とうじ の数学 すうがく 界 かい の中心 ちゅうしん 的 てき 人物 じんぶつ となり、19世紀 せいき へと続 つづ く厳密 げんみつ 化 か ・抽象 ちゅうしょう 化 か 時代 じだい の礎 いしずえ を築 きず いた[ 1] 。右目 みぎめ を失明 しつめい していたことから「数学 すうがく のサイクロプス (単眼 たんがん の巨人 きょじん )」とも呼 よ ばれた[ 2] [ 3] 。さらに後 のち には、数学 すうがく の研究 けんきゅう に没頭 ぼっとう し過 す ぎたあまり左目 ひだりめ も失明 しつめい したが、その後 ご も亡 な くなるまで研究 けんきゅう をやめることはなかった(後述 こうじゅつ )。
1707年 ねん 、スイス のバーゼル に生 う まれる。オイラーの父 ちち も数学 すうがく の教育 きょういく を受 う けた人物 じんぶつ であったが、オイラーには自分 じぶん の後 のち を継 つ いで牧師 ぼくし になることを望 のぞ んでいた[ 1] 。1720年 ねん にはバーゼル大学 だいがく に入学 にゅうがく し哲学 てつがく を学 まな んだが、ここで数学 すうがく 者 しゃ ヨハン・ベルヌーイ に出会 であ って数学 すうがく の才能 さいのう を見出 みいだ された。1724年 ねん には神学 しんがく の道 みち へと一旦 いったん 進 すす んだものの、オイラー自身 じしん は数学 すうがく に強 つよ い興味 きょうみ を抱 だ いており、またその才能 さいのう を見込 みこ んだベルヌーイが両親 りょうしん を説得 せっとく したため、数学 すうがく 専攻 せんこう へと転 てん じることとなった[ 4] 。
1727年 ねん 、オイラーはロシア帝国 ていこく でサンクトペテルブルク の科学 かがく 学士 がくし 院 いん に赴任 ふにん した[ 1] 。この地 ち で、師 し のヨハンの子 こ であるダニエル・ベルヌーイ の同僚 どうりょう となった。オイラー自身 じしん は、1733年 ねん にベルヌーイがスイスに帰 かえ った後 のち も、サンクトペテルブルクにとどまり続 つづ けた。1734年 ねん には画家 がか ゲオルク・グゼル (英語 えいご 版 ばん ) の娘 むすめ カタリーナ・グゼルと結婚 けっこん し、1735年 ねん 、数 かず 論 ろん の未 み 解決 かいけつ 問題 もんだい だったバーゼル問題 もんだい を解決 かいけつ したことで有名 ゆうめい になった[ 5] 。しかし、1738年 ねん には片目 かため を失明 しつめい し[ 6] 、さらに帝政 ていせい ロシアの政情 せいじょう 不安 ふあん によって、研究 けんきゅう 生活 せいかつ は不安定 ふあんてい になった。
1741年 ねん 、プロイセン王国 おうこく のフリードリヒ2世 せい の依頼 いらい [ 7] でベルリン・アカデミー の会員 かいいん となり、ドイツへ移住 いじゅう した[ 1] 。オイラーはここでも高 たか い業績 ぎょうせき を上 あ げ、『無限 むげん 解析 かいせき 入門 にゅうもん 』 "Introductio in analysin infinitorum" と『微分 びぶん 学 がく 教程 きょうてい 』 "Institutiones calculi differentialis" という2冊 さつ の数学 すうがく 書 しょ を出版 しゅっぱん した。
また、オイラーはアンハルト=デッサウ公 こう 女 おんな の教育 きょういく のために自然 しぜん 科学 かがく の入門 にゅうもん 書 しょ を執筆 しっぴつ し、その後 ご 、この著作 ちょさく は『自然 しぜん 科学 かがく の諸 しょ 問題 もんだい についてのドイツ王女 おうじょ へのオイラーの手紙 てがみ 』 "Lettres à une Princesse d'Allemagne sur divers sujets de physique et de philosophie" として出版 しゅっぱん された。この本 ほん は欧米 おうべい で一般 いっぱん の読者 どくしゃ を対象 たいしょう にした科学 かがく 書 しょ として広 ひろ く読 よ まれ、オイラーの最 もっと も有名 ゆうめい な著書 ちょしょ となった[ 8] 。なお、当時 とうじ のベルリン・アカデミーには近代 きんだい 科学 かがく にも明 あか るい哲学 てつがく 者 しゃ のヴォルテール もいたが、二人 ふたり が親密 しんみつ になることはなかった。
啓蒙 けいもう 君主 くんしゅ を自認 じにん するエカチェリーナ2世 せい が帝位 ていい につき、1766年 ねん にオイラーは再 ふたた びサンクトペテルブルク に戻 もど り[ 1] 、ここで厚遇 こうぐう を受 う けた。しかし、1738年 ねん ごろより視力 しりょく が低下 ていか し[ 1] 、1771年 ねん ごろ(1766年 ねん とする説 せつ もある)には両目 りょうめ を完全 かんぜん に失明 しつめい した。両目 りょうめ の失明 しつめい 後 ご は、オイラーの口述 こうじゅつ を子 こ どもたちが筆記 ひっき して、論文 ろんぶん に仕上 しあ げたという[ 9] 。失明 しつめい 後 ご もオイラーの研究 けんきゅう 意欲 いよく が衰 おとろ えることは全 まった くなく[ 1] 、同僚 どうりょう の教授 きょうじゅ たちに自分 じぶん の論文 ろんぶん を読 よ んでもらい、内容 ないよう に間違 まちが いがないか確認 かくにん し、脳 のう 内 ない で「執筆 しっぴつ 」した論文 ろんぶん を口述 こうじゅつ 筆記 ひっき してもらうことで多数 たすう の論文 ろんぶん を生産 せいさん した[ 10] 。1783年 ねん に76歳 さい で亡 な くなるその日 ひ まで精力 せいりょく 的 てき な研究 けんきゅう 活動 かつどう を続 つづ け、人類 じんるい 史上 しじょう 最多 さいた とも言 い われる膨大 ぼうだい な量 りょう の論文 ろんぶん や著書 ちょしょ を遺 のこ した。墓所 はかしょ はサンクトペテルブルクにあり、アレクサンドル・ネフスキー大 だい 修道院 しゅうどういん にロシア各界 かくかい の著名 ちょめい 者 しゃ らとともに埋葬 まいそう されている。
スイスの第 だい 6次 じ 紙幣 しへい の10フラン紙幣 しへい
解析 かいせき 学 がく (無限 むげん 小 しょう 解析 かいせき )においては膨大 ぼうだい な業績 ぎょうせき があり、微分 びぶん 積分 せきぶん の創始 そうし 以来 いらい 最 もっと もこの分野 ぶんや の技法 ぎほう 的 てき な完成 かんせい に寄与 きよ したとされる。級数 きゅうすう や連分数 れんぶんすう 、母 はは 関数 かんすう の方法 ほうほう 、補間 ほかん 法 ほう ・近似 きんじ 計算 けいさん 、特殊 とくしゅ 関数 かんすう 、微分 びぶん 方程式 ほうていしき 、多重 たじゅう 積分 せきぶん 、偏 へん 微分 びぶん 法 ほう など、古典 こてん 的 てき な解析 かいせき 学 がく のあらゆる領域 りょういき において基礎 きそ から応用 おうよう に至 いた る広 ひろ い業績 ぎょうせき があり、自身 じしん の発見 はっけん を教科書 きょうかしょ を通 とお し広 ひろ く一般 いっぱん に普及 ふきゅう させた。量 りょう の膨大 ぼうだい さのため、彼 かれ の解析 かいせき 学 がく における仕事 しごと (いわば公式 こうしき の一 ひと つ一 ひと つ)は、彼 かれ の業績 ぎょうせき として完全 かんぜん には伝 つた わっている訳 わけ ではなかった。たとえば後年 こうねん 、当初 とうしょ は新 あら たな公式 こうしき の発見 はっけん とされたことが実 じつ はオイラーが為 な した仕事 しごと の再 さい 発見 はっけん に過 す ぎなかった、ということがしばしば起 お きた。このような経緯 けいい も含 ふく めて、彼 かれ の名前 なまえ は指数 しすう 関数 かんすう と三角 さんかく 関数 かんすう の関係 かんけい を与 あた えるオイラーの公式 こうしき やオイラー=マクローリンの和 わ 公式 こうしき 、オイラーの微分 びぶん 方程式 ほうていしき 、オイラーの定数 ていすう などとして残 のこ っている。さらに複素数 ふくそすう の変数 へんすう を積極 せっきょく 的 てき に用 もち いて、解析 かいせき 学 がく に限 かぎ らず数学 すうがく 全 ぜん 分野 ぶんや に大 おお きな業績 ぎょうせき を残 のこ した[ 1] 。
フェルマー 以降 いこう 進展 しんてん がなかった整数 せいすう 論 ろん において、ラグランジュ の出現 しゅつげん までほぼ一人 ひとり で研究 けんきゅう し続 つづ け、二 に 次 じ 形式 けいしき や原始 げんし 根 ね ・フェルマーの小 しょう 定理 ていり の拡張 かくちょう など、数々 かずかず の功績 こうせき を残 のこ した。現在 げんざい でも、数 かず 論 ろん 的 てき 関数 かんすう の一 ひと つであるオイラー関数 かんすう (オイラーのφ ふぁい 関数 かんすう )に彼 かれ の名前 なまえ が残 のこ っている。
またゼータ関数 かんすう を初 はじ めて扱 あつか い(ゼータ関数 かんすう の名称 めいしょう はリーマン による)、後 のち に解析 かいせき 的 てき 整数 せいすう 論 ろん の重要 じゅうよう な主題 しゅだい となる重大 じゅうだい な結果 けっか を得 え た。彼 かれ は1735年 ねん にζ ぜーた (2)=π ぱい 2 /6 を求 もと めることに初 はじ めて成功 せいこう し、さらにζ ぜーた (4) = π ぱい 4 /90、ζ ぜーた (6) = π ぱい 6 /945、ζ ぜーた (8) = π ぱい 8 /9450、ζ ぜーた (10) = π ぱい 10 /93555、ζ ぜーた (12) = 691π ぱい 12 /638512875 を求 もと めた。また、1737年 ねん にはゼータ関数 かんすう と素数 そすう の関係 かんけい を表 あらわ すオイラー積 つもる の公式 こうしき を発見 はっけん し、素数 そすう の逆数 ぎゃくすう の和 わ が発散 はっさん するという新 あら たな結果 けっか を得 え た。さらに超 ちょう 人的 じんてき な数学 すうがく 的 てき 直感 ちょっかん に基 もと づいてゼータ関数 かんすう の負 まけ の数 かず における値 ね に意味 いみ 付 づ けを与 あた えたが、これは後 のち に数学 すうがく 的 てき に正当 せいとう 化 か された。数 かず の分割 ぶんかつ の理論 りろん においては、母 はは 関数 かんすう の方法 ほうほう の応用 おうよう が著 いちじる しく、五 ご 角 かく 数 すう 定理 ていり をはじめ様々 さまざま な組 く み合 あ わせ論 ろん 的 てき 、あるいは楕円 だえん 関数 かんすう 論 ろん 的 てき な恒等 こうとう 式 しき を得 え た。
幾何 きか 学 がく においては、位相 いそう 幾何 きか 学 がく のはしりとなったオイラーの多面体 ためんたい 定理 ていり (ただしオイラーは証明 しょうめい を与 あた えていない)や「ケーニヒスベルクの橋 はし の問題 もんだい 」が特 とく に有名 ゆうめい である。特性 とくせい 類 るい の一 ひと つであるオイラー類 るい は本質 ほんしつ 的 てき にこのオイラーの多面体 ためんたい 定理 ていり によって特徴付 とくちょうづ けられるものである。「ケーニヒスベルクの橋 はし の問題 もんだい 」は一種 いっしゅ の一筆 ひとふで 書 が き問題 もんだい であるが、オイラーはこれに取 と り組 く んで一 いち 筆 ぴつ 書 が きが可能 かのう になるための必要 ひつよう 十 じゅう 分 ふん 条件 じょうけん を求 もと めた。これはグラフ理論 りろん の起源 きげん となり、今日 きょう では一 いち 筆 ぴつ 書 が き可能 かのう なグラフはオイラーグラフ と呼 よ ばれる。解析 かいせき 幾何 きか 学 がく でも古代 こだい ギリシャのアポロニウス による円錐 えんすい 曲線 きょくせん の理論 りろん を解析 かいせき 幾何 きか 学 がく 的 てき 手法 しゅほう によって近代 きんだい 化 か をはかっている。
数理 すうり 物理 ぶつり 学 がく では、ニュートン力学 りきがく の幾何 きか 学 がく 的 てき 表現 ひょうげん を解析 かいせき 学 がく 的 てき に修正 しゅうせい して、現代 げんだい 的 てき なスタイルに変更 へんこう した。
彼 かれ は1736年 ねん に初 はじ めて力 ちから をはっきり定義 ていぎ し、解析 かいせき 的 てき な形 かたち で運動 うんどう 方程式 ほうていしき を与 あた えた。
それ以後 いご 、この定式 ていしき 化 か に基 もと づいて振動 しんどう 弦 つる の問題 もんだい を論 ろん じ、また地球 ちきゅう の章 あきら 動 どう の研究 けんきゅう において運動 うんどう 方程式 ほうていしき による3体 たい 問題 もんだい の定式 ていしき 化 か を行 おこな った。
そして1755年 ねん には流体 りゅうたい 力学 りきがく の基礎 きそ 方程式 ほうていしき (連続 れんぞく 方程式 ほうていしき と運動 うんどう 方程式 ほうていしき )を導 みちび いて体系 たいけい 化 か した。
さらに1760年 ねん には剛体 ごうたい の力学 りきがく を論 ろん じ、剛体 ごうたい に固定 こてい した運動 うんどう 座標 ざひょう 系 けい を導入 どうにゅう してオイラーの運動 うんどう 方程式 ほうていしき を得 え 、これを発展 はってん させた。剛体 ごうたい の方位 ほうい を規定 きてい する3つの角 かく は「オイラーの角 かく 」と呼 よ ばれている。
ただし、彼 かれ は1760年代 ねんだい までニュートンの重力 じゅうりょく 理論 りろん を容認 ようにん できず、デカルトの充満 じゅうまん 理論 りろん ・エーテル理論 りろん に固執 こしつ していた。
その他 た 、変 へん 分 ぶん 法 ほう に関 かん する業績 ぎょうせき も多 おお い。
ライプニッツ によって定義 ていぎ された関数 かんすう について、現代 げんだい では一般 いっぱん 的 てき なy =f (x )の形 かたち での表現 ひょうげん は、1748年 ねん のオイラーよるものが初 はじ めてである。このような近代 きんだい 的 てき な関数 かんすう の概念 がいねん ・表現 ひょうげん は、物理 ぶつり 学 がく などの応用 おうよう 分野 ぶんや でも関数 かんすう を使 つか いやすいものとした[ 1] 。
オイラーは人類 じんるい 史上 しじょう 最多 さいた の論文 ろんぶん を書 か いたと言 い われる数学 すうがく 者 しゃ であり、並 なみ の数学 すうがく 者 しゃ が一生 いっしょう かかって執筆 しっぴつ する量 りょう の論文 ろんぶん をオイラーは毎年 まいとし のように発表 はっぴょう し続 つづ けていたとも言 い われる。彼 かれ は平均 へいきん すると年間 ねんかん 800ページを超 こ える論文 ろんぶん を執筆 しっぴつ しており、短 みじか い論文 ろんぶん であればわずか30分 ふん ほどで書 か き上 あ げることができたという逸話 いつわ も伝 つた わっている。
オイラーが執筆 しっぴつ した論文 ろんぶん は現時点 げんじてん で886編 へん が確認 かくにん されており、これらの論文 ろんぶん は5万 まん ページを超 こ える全集 ぜんしゅう にまとめられて1911年 ねん から刊行 かんこう され続 つづ けているが、論文 ろんぶん や書簡 しょかん 、原稿 げんこう をも含 ふく むその全集 ぜんしゅう は刊行 かんこう 開始 かいし から100年 ねん 以上 いじょう が経 た った現在 げんざい も未 いま だに完結 かんけつ していない[ 1] 。2005年 ねん には書籍 しょせき としての出版 しゅっぱん 計画 けいかく は中止 ちゅうし され、デジタルフォーマットでのアーカイブ化 か が進 すす められている[ 11] 。詳細 しょうさい はOpera Omnia Leonhard Euler を参照 さんしょう 。
1980年 ねん 〜2000年 ねん にかけて流通 りゅうつう していたスイスの第 だい 6次 じ 紙幣 しへい の10フラン紙幣 しへい にはオイラーの肖像 しょうぞう を見 み ることができる。
^ a b c d e f g h i j 日本 にっぽん 数 すう 学会 がっかい 編 へん 『岩波 いわなみ 数学 すうがく 辞典 じてん 第 だい 4版 はん 』、岩波書店 いわなみしょてん 、2007年 ねん 、項目 こうもく 「オイラー」より。ISBN 978-4-00-080309-0 C3541
^ 「数学 すうがく の真理 しんり をつかんだ25人 にん の天才 てんさい たち」p103 イアン・スチュアート著 ちょ 水谷 みずたに 淳 あつし 訳 やく ダイヤモンド社 だいやもんどしゃ 2019年 ねん 1月 がつ 16日 にち 第 だい 1刷 さつ 発行 はっこう
^ 「数学 すうがく 者 しゃ 列伝 れつでん オイラーからフォン・ノイマンまで Ⅰ」p9 I・ジェイムズ 蟹江 かにえ 幸博 ゆきひろ 訳 やく シュプリンガー・フェアラーク東京 とうきょう 2005年 ねん 12月17日 にち 発行 はっこう
^ 「数学 すうがく を育 そだ てた天才 てんさい たち 確 かく 率 りつ 、解析 かいせき への展開 てんかい 」(数学 すうがく を切 き りひらいた人 ひと びと 2)p149 マイケル・J・ブラッドリー著 ちょ 松浦 まつうら 俊輔 しゅんすけ 訳 やく 青土 おうづち 社 しゃ 2009年 ねん 4月 がつ 15日 にち 第 だい 1刷 さつ 発行 はっこう
^ 「数学 すうがく を育 そだ てた天才 てんさい たち 確 かく 率 りつ 、解析 かいせき への展開 てんかい 」(数学 すうがく を切 き りひらいた人 ひと びと 2)p151 マイケル・J・ブラッドリー著 ちょ 松浦 まつうら 俊輔 しゅんすけ 訳 やく 青土 おうづち 社 しゃ 2009年 ねん 4月 がつ 15日 にち 第 だい 1刷 さつ 発行 はっこう
^ 「数学 すうがく の真理 しんり をつかんだ25人 にん の天才 てんさい たち」p100 イアン・スチュアート著 ちょ 水谷 みずたに 淳 あつし 訳 やく ダイヤモンド社 だいやもんどしゃ 2019年 ねん 1月 がつ 16日 にち 第 だい 1刷 さつ 発行 はっこう
^ しかし後年 こうねん 、徐々 じょじょ にフリードリヒ2世 せい には疎 うと まれるようになったとされる。
^ 「数学 すうがく を育 そだ てた天才 てんさい たち 確 かく 率 りつ 、解析 かいせき への展開 てんかい 」(数学 すうがく を切 き りひらいた人 ひと びと 2)p158-159 マイケル・J・ブラッドリー著 ちょ 松浦 まつうら 俊輔 しゅんすけ 訳 やく 青土 おうづち 社 しゃ 2009年 ねん 4月 がつ 15日 にち 第 だい 1刷 さつ 発行 はっこう
^ “数学 すうがく 者 しゃ オイラーが視力 しりょく を失 うしな っても平気 へいき だった理由 りゆう ”. 東洋 とうよう 経済 けいざい オンライン (2022年 ねん 7月 がつ 2日 にち ). 2023年 ねん 1月 がつ 1日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 「数学 すうがく を育 そだ てた天才 てんさい たち 確 かく 率 りつ 、解析 かいせき への展開 てんかい 」(数学 すうがく を切 き りひらいた人 ひと びと 2)p160 マイケル・J・ブラッドリー著 ちょ 松浦 まつうら 俊輔 しゅんすけ 訳 やく 青土 おうづち 社 しゃ 2009年 ねん 4月 がつ 15日 にち 第 だい 1刷 さつ 発行 はっこう
^ スイス科学 かがく アカデミーオイラー委員 いいん 会 かい Euler Committee of the Swiss Academy of Sciences
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