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ポーランド回廊かいろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポーランド回廊かいろう周辺しゅうへん状況じょうきょう 1922ねん国境こっきょうせんしめした地図ちず。ドイツりょう桃色ももいろで、ポーランドりょう黄色おうしょくしめされている。ポーランドりょうのうち西北せいほくはしバルト海ばるとかいめんした細長ほそなが部分ぶぶんをポーランド回廊かいろうぶ。
ポーランド回廊かいろう付近ふきん拡大かくだい
CORRIDOR:ポーランド回廊かいろう地帯ちたい
DANZIG:自由じゆう都市としダンツィヒ
GERMANY:ドイツ・プロイセンしゅう
EAST PRUSSIA:ひがしプロイセン

ポーランド回廊かいろう(ポーランドかいろう、ドイツ: Polnischer Korridorポーランド: Korytarz polski)は、だいいち世界せかい大戦たいせんポーランド国家こっか復興ふっこうさいドイツこくから割譲かつじょうされた領土りょうどのうちの一部いちぶポーランドだい共和きょうわこく(1918–1939)時代じだいにおいてバルト海ばるとかいへの往来おうらい確保かくほするための回廊かいろうであった。東側ひがしがわせっする自由じゆう都市としダンツィヒげんグダニスク)と、西側にしがわせっするドイツりょうプロイセン自由じゆうしゅううちポメラニアけん(英語えいごばんウィキペディア)はさまれ、バルト海ばるとかいめんした回廊かいろう地帯ちたいす。

歴史れきし

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先史せんし時代じだいには様々さまざま民族みんぞくがこのポメレリア地方ちほう定住ていじゅうし、あるいはっていたようだが、おそくとも9世紀せいきまでにはカシューブじんともばれる西にしスラブけい住民じゅうみん定住ていじゅうしていた。

10世紀せいきにピャストちょうポーランド王国おうこくミェシュコ1せいがポメレリア地方ちほうふくむポメラニア地域ちいき全域ぜんいき征服せいふくする。そののピャストあさおうたちはこの支配しはいけんうしなったりさい征服せいふくするなど紆余曲折うよきょくせつがありつつも、ポーランド王国おうこくゆる影響えいきょうでポメレリアこう統治とうちするかたちがおおむねつづくことになる。

13世紀せいき後半こうはんにはポメレリア公家くげないのおいえあらそいの過程かていブランデンブルク辺境へんきょうはく介入かいにゅうするようになり、一時いちじグダニスクは辺境へんきょうはく支配しはいになるなどする。1308ねんにも辺境へんきょうはくがポメレリア地方ちほう継承けいしょうけん主張しゅちょう同地どうち征服せいふく。ポーランドおうヴワディスワフ1せい奪還だっかんのために辺境へんきょうはくがわ勢力せいりょく追放ついほうドイツ騎士きしだん依頼いらいし、追放ついほう自体じたい実現じつげんするもそのままドイツ騎士きしだんがグダニスクを占拠せんきょする結果けっかとなった。ドイツ騎士きしだん辺境へんきょうはくからポメレリア地方ちほう請求せいきゅうけんを1まんマルクでる。

そのはポメレリアをめぐってドイツ騎士きしだんとポーランドとのあいだ訴訟そしょう戦争せんそうつづくが、カリシュ条約じょうやくによってドイツ騎士きしだんのポメレリア領有りょうゆう確定かくていする。

1409ねんよりポーランドリトアニア連邦れんぽうとドイツ騎士きしだんあいだ戦争せんそうき、じゅうさんねん戦争せんそうの1466ねんのトールンやくによりポーランドおうはポメレリアをもどし、ポーランドおうりょうプロイセン一部いちぶというかたち領土りょうどまれる。その統治とうち自治領じちりょうのような形態けいたいだった。この時点じてんでグダニスクはドイツ語どいつごまたはオランダ話者わしゃでプロテスタントが住民じゅうみん大半たいはんで、そののポメレリア地方ちほうだい部分ぶぶんはポーランドまたはカシューブ話者わしゃでカトリックが大半たいはんだったようだ。

1772ねんのポーランドだいいち分割ぶんかつ、ポメレリアはプロイセン王国おうこく併合へいごうされ西にしプロイセンしゅう一部いちぶとなる。このプロイセン王国おうこく統治とうち住民じゅうみんはげしいドイツ政策せいさくけた。

だいいち世界せかい大戦たいせんのち連合れんごうこくは、かつてナポレオン戦争せんそうウィーン会議かいぎ決定けっていされた(ロシア帝国ていこく支配しはいの)ポーランド立憲りっけん王国おうこく領域りょういきを、復興ふっこうポーランド領土りょうど範囲はんいめるたただいとした。しかしこの状態じょうたいのポーランドは、北東ほくとうがわバルトさんこく北側きたがわプロイセン王国おうこくひがしプロイセン西にしプロイセンによってバルト海ばるとかいへの出口でぐちふさがれていた。このためアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうウッドロウ・ウィルソンじゅうよんじょう平和へいわ原則げんそくでポーランドにうみへの出口でぐちあたえると声明せいめいし、それをけて西にしプロイセンにポーランドのバルト海ばるとかいへの出口でぐちとして設定せっていされたのがポーランド回廊かいろうである。ドイツは回廊かいろう成立せいりつヴェルサイユ条約じょうやくによってれることとなった。ヴィスワがわ河口かこうちか港湾こうわん都市としダンツィヒのグダニスク)はドイツじんだい多数たすうめるまちだったが、ポーランドも海運かいうん水運すいうんをダンツィヒに依存いぞんしているため双方そうほうゆずらず、結局けっきょくポーランドりょうでもドイツりょうでもない国際こくさい連盟れんめいしたにある「自由じゆう都市としダンツィヒ」となった。しかしダンツィヒとポーランドの対立たいりつふかまったため、ポーランド政府せいふはポーランド回廊かいろう海岸かいがんにあるグディニャというちいさな港町みなとちょう当時とうじ最先端さいせんたん埠頭ふとう建設けんせつして100%ポーランドが管理かんりできるみなとつくりあげ、ダンツィヒとはげしく競合きょうごうするようになった。

ポメレリア地方ちほう住民じゅうみんはドイツりょうであったひがしプロイセンや西にしのポンメルンとくらべると、カシューブじんポーランドじんといったスラブけいじん割合わりあい比較的ひかくてきおおかった。しかし過去かこにはドイツ騎士きしだん国家こっか文化ぶんかてきにはドイツじん影響えいきょう地域ちいきでもあり、ドイツじんかず都市とし中心ちゅうしん無視むしできないほどおおきく、1910ねん時点じてん全体ぜんたいの42.5%にあたる421,029にんのドイツじんがこの回廊かいろう地域ちいき居住きょじゅうしていた[1]。 ポーランド回廊かいろう設定せっていによって領土りょうど東西とうざい分割ぶんかつされたドイツじんはポーランドに定住ていじゅうすることをれなかった[2]だい世界せかい大戦たいせんでドイツがやぶれると、西にしプロイセンはポーランドりょうとなり、ポーランドのうみめんした地域ちいきおおきくなった。また、ポーランド・ソビエト戦争せんそうさいには[3]赤軍せきぐんがこの地域ちいきドイツじん追放ついほうおこなった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Orphans of Versailles Appendix B
  2. ^ Orphans of Versailles: The Germans in Western Poland, 1918-1939 pages 32-48 Richard Blanke University Press of Kentucky, 1993
  3. ^ Orphans of Versailles: The Germans in Western Poland, 1918-1939 pages 32-48 Richard Blanke University Press of Kentucky, 1993

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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