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だいよんたいふつだい同盟どうめい

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だいよんたいふつだい同盟どうめい
ナポレオン戦争せんそうたいふつだい同盟どうめいちゅう

ナポレオンのベルリン入場にゅうじょう
とき1806ねん10がつ1にちから1807ねん7がつ7にち
(9ヶ月かげつ6日間にちかん)
場所ばしょザクセンしゅう, プロイセン, ポーランド, ひがしプロイセン, ワルキア, モルダビア
結果けっか フランスの勝利しょうり
領土りょうど
変化へんか
ワルシャワ公国こうこく建国けんこく
プロイセンの領土りょうど半分はんぶんはフランスの同盟どうめいこく割譲かつじょうされた
衝突しょうとつした勢力せいりょく

だいよんたいふつだい同盟どうめい:

フランスだいいち帝政ていせい

ザクセン王国の旗 ザクセン王国おうこく
(1806ねん12月11にち以降いこう)

スペインの旗 スペイン・ブルボンあさ
指揮しきかん

プロイセンの旗 ヴィルヘルム3せい

プロイセンの旗 ルイーゼ王妃おうひ
プロイセンの旗 カール・ヴィルヘルム 
プロイセンの旗 フリードリヒ・ルートヴィヒ
プロイセンの旗 フェルディナント皇太子こうたいし 
プロイセンの旗 オイゲン・ヴュルテンベルク
プロイセンの旗 エルンスト・フォン・リュッヒェル
プロイセンの旗 フォン・ブリュッヘル
プロイセンの旗タウエンツィン伯爵はくしゃく
プロイセンの旗 ルートヴィヒ
プロイセンの旗 カルクロイト
プロイセンの旗 アントン・レストック
ロシア帝国の旗 アレクサンドル1せい
ロシア帝国の旗 ベニグセン
ロシア帝国の旗 ドミトリー・ゴリーツィン
ロシア帝国の旗 ミハイル・クトゥーゾフ
ロシア帝国の旗 ピョートル・バグラチオン
スウェーデンの旗 グスタフ4せいアドルフ
スウェーデンの旗 ハンス・フォン・エッセン
グレンヴィル男爵だんしゃく

ポートランド公爵こうしゃく
フランスの旗 ナポレオン・ボナパルト
フランスの旗 ベルティエ
フランスの旗 ダヴー
フランスの旗 ジャン・ランヌ
フランスの旗 ジョアシャン・ミュラ
フランスの旗 ニコラ・スールト
フランスの旗 ミシェル・ネイ
フランスの旗 ピエール・オージュロー
フランスの旗 エドゥアール・モルティエ
フランスの旗 ジェローム・ボナパルト
フランスの旗 ギヨーム・ブリューヌ
フランスの旗 ベルナドット
オランダの旗 ルイ・ボナパルト
ボアルネ
ポーランドの旗 ユゼフ・ポニャトフスキ
ポーランドの旗 ドンブロフスキ
戦力せんりょく

プロイセンの旗 200,000
ロシアの旗140,000
ザクセン王国おうこく: 20,000
スウェーデンの旗 20,000
イギリスの旗 10,000


合計ごうけい: 390,000

フランスの旗 200,000
バイエルン王国おうこく: 24,000
ヴュルテンベルク王国おうこく: 10,000
ザクセン王国おうこく: 6,000
ポーランドの旗 30,000
ホラント王国おうこく: 12,000–20,000
イタリア王国おうこく: 20,000–40,000
スペインの旗 6,000


合計ごうけい: 310,000
被害ひがいしゃすう
プロイセンの旗 215,000めい
  • 死傷ししょうしゃ 65,000めい
  • 捕虜ほりょ 150,000めい
  • 2,000以上いじょう大砲たいほう[1]
110,100めい
  • 戦死せんししゃ28,300めい[2]
  • 戦傷せんしょうしゃ81,800めい[2]

だいよんたいふつだい同盟どうめい(だいよじたいふつだいどうめい、Fourth Coalition, 1806ねん10月9にち - 1807ねん7がつ7にち)は、ナポレオン1せいフランス帝国ていこくによる覇権はけん挑戦ちょうせんするため、ヨーロッパ諸国しょこく結成けっせいした同盟どうめいである。この同盟どうめいにはプロイセン王国おうこくロシア帝国ていこくザクセン王国おうこくスウェーデンイギリス参加さんかした。この同盟どうめい加盟かめいこくなかにはだいさんたいふつだい同盟どうめい過去かこにフランスと交戦こうせんしたことがあるくにもあり、ほとんど平和へいわ期間きかんかずに戦争せんそう状態じょうたい突入とつにゅうした。1806ねん10がつ9にちにプロイセンはオーストリア帝国ていこく敗北はいぼくライン同盟どうめい形成けいせいによるフランスの強大きょうだいおそれ、あらたに形成けいせいされた同盟どうめい加入かにゅうした。プロイセンとロシアはたたかいにそな動員どういんおこない、プロイセンぐんはザクセンに集結しゅうけつした。

ナポレオンは1806ねん10がつ14にちイエナ・アウエルシュタットのたたか迅速じんそく軍事ぐんじ行動こうどうによりプロイセンをはげしくかした。フランスぐんはナポレオン指揮しきした、プロイセンを占領せんりょうし、プロイセンぐん残党ざんとう追撃ついげき、そしてベルリンを占領せんりょうした。つぎにフランスはポーランドとロシアの国境こっきょうにあるひがしプロイセンへと進軍しんぐんする。ロシアぐん1807ねん6月14にちフリートラントのたたか壊滅かいめつし、その3にちにロシアはフランスへ停戦ていせんもとめた。

だいよんたいふつだい同盟どうめい崩壊ほうかいも、イギリスはフランスとの対立たいりつ姿勢しせい維持いじした。1807ねんわりにはフランスとスペインの連合れんごうぐんがイギリスの同盟どうめいこくであるポルトガルに侵攻しんこうして半島はんとう戦争せんそうはじまり、大陸たいりく再度さいどたいフランス感情かんじょう悪化あっかした。1809ねんにオーストリアがたいふつ戦争せんそう再度さいどくわわることだいたいふつだい同盟どうめい結成けっせいされた。

同盟どうめい[編集へんしゅう]

1805ねん12月2にちアウステルリッツのたたか勝利しょうりしたナポレオンは、オーストリアだいさんたいふつだい同盟どうめいから脱落だつらくさせた。しかし、イギリスロシアスウェーデン依然いぜんとして同盟どうめい維持いじしていた。1806ねん7がつ、ナポレオンはライン同盟どうめい結成けっせい、これによってフランスの覇権はけん中部ちゅうぶドイツまでおよぶこととなった。領域りょういきせっするプロイセンは、1795ねんのバーゼルのやく以来いらい10ねんわたって中立ちゅうりつ維持いじしていたが、これにより危機ききかんいた。すで前年ぜんねん戦役せんえきちゅうにフランスぐんによりアンスバッハ領土りょうど侵犯しんぱんけたことはんふつ感情かんじょうたかまっており、くわえて、ナポレオンがイギリスとの交渉こうしょうにて、プロイセンりょうとなっていたハノーファーをことわりなくイギリスに手渡てわたそうとしたことるにおよび、ひろしふつ対立たいりつけられないものとなった。[3]プロイセンは7がつにロシアと同盟どうめいむすんだ。イギリスなどもふくだいよんたいふつだい同盟どうめいは10月6にち成立せいりつした。

だいよんたいふつだい同盟どうめい参加さんかした国家こっか以下いかのとおりである。

エルベがわわたるナポレオン

ドイツ・ポーランド戦役せんえき(1806ねん - 1807ねん[編集へんしゅう]

イエナ・アウエルシュタットのたたか[編集へんしゅう]

プロイセン国王こくおうフリードリヒ・ヴィルヘルム3せいは、国力こくりょくもあり、フランスとの開戦かいせんかならずしも賛成さんせいではなかったが、王妃おうひルイーゼ、プロイセン王子おうじルイ・フェルディナントといったはんナポレオンの急先鋒きゅうせんぽうはさかんにおうけ、ついに開戦かいせん決意けついかためさせる。

プロイセンはぐん動員どういん開始かいししたものの、作戦さくせん計画けいかく指揮しきけん所在しょざい明確めいかくでなかったため、動員どういん遅々ちちとしてすすまなかった。1806ねん9がつ26にち、プロイセンはフランスぐんのドイツからの撤退てったい要求ようきゅうする最後さいご通牒つうちょうきつけたが、これは前日ぜんじつの9がつ25にちにナポレオンがパリはっしたのちだった。こうしたプロイセンぐん初動しょどうおくれは、フランスぐん態勢たいせいととのえる時間じかんあたえてしまう。

10月9にち、プロイセンぐんはフランスへ宣戦せんせん布告ふこくし、15まん兵力へいりょくをもってテューリンゲン侵攻しんこうした。ナポレオンはただちに20まん兵力へいりょくをもってバイエルンからザクセン方面ほうめんけて進撃しんげき。10月10にちザールフェルトのたたか英語えいごばんランヌ軍団ぐんだんがプロイセンぐん先鋒せんぽうのルイ・フェルディナント親王しんのう戦死せんしさせた。

プロイセンぐん本隊ほんたいも、10月14にちイエナ・アウエルシュタットのたたか壊滅かいめつてき打撃だげきけた。イエナ方面ほうめんではナポレオンひきいるフランスぐん主力しゅりょくがプロイセンぐん後衛こうえい部隊ぶたい撃破げきはアウエルシュタット方面ほうめんではフリードリヒ・ヴィルヘルム3せいブラウンシュヴァイクこうひきいられたプロイセンぐん主力しゅりょくが、2ばい兵力へいりょくをもってダヴー軍団ぐんだん攻撃こうげきをかけるが撃退げきたいされた。

フランスぐん敗走はいそうするプロイセンぐん追撃ついげきし、10月25にち、プロイセンの首都しゅとベルリン制圧せいあつ。10月27にちにナポレオンもベルリンへ入城にゅうじょうした。開戦かいせんからわずか19にち出来事できごとであった。フリードリヒ2せい大王だいおう)の墓所はかしょおとずれたナポレオンは、「かれきていれば我々われわれ今日きょうここにいなかっただろう」とかたったという。11月6にちマクデブルク守備しゅびたい降伏ごうぶくし、事実じじつじょう国内こくないのプロイセンぐん消滅しょうめつした。

アイラウのたたか[編集へんしゅう]

フリードリヒ・ヴィルヘルム3せいひがしプロイセンのがれ、ケーニヒスベルク臨時りんじ首都しゅととした。ロシアは10まん援軍えんぐんひがしプロイセンへ集結しゅうけつさせた。ナポレオンはポーランド進軍しんぐん。ポーランドじんはナポレオンを祖国そこく解放かいほうしゃとして熱狂ねっきょうてきむかれた。

1807ねん1がつまつ厳寒げんかんなかをフランスぐんはケーニヒスベルクへけて侵攻しんこう。2月7にち-8にち、ロシア・プロイセン連合れんごうぐんアイラウのたたか衝突しょうとつした。吹雪ふぶきなかたたかいは苦戦くせんとなり、フランスぐんはロシアぐん撤退てったいによって辛勝しんしょうるが、りょうぐんどもにおびただしい死傷ししょうしゃ決着けっちゃくはつかなかった。フランスぐん一旦いったん後退こうたいし、ルフェーブル指揮しきかんとして3がつ18にちからダンツィヒ攻囲こういせん開始かいしし、5月27にちにプロイセンぐん守備しゅびたい降伏ごうぶくした。

フリートラントのたたか[編集へんしゅう]

ロシアぐんさい編成へんせいえ、6がつ活動かつどう再開さいかいする。6がつ10日とおかハイルスベルクのたたか英語えいごばんでフランスぐんたいして戦術せんじゅつてき勝利しょうりおさ後退こうたいした。ナポレオンは、ロシアぐんうのではなく、その出撃しゅつげき拠点きょてんたたくことを企図きとし、ケーニヒスベルクへぐんけた。ロシアぐんは、フランスぐんなかもっと東側ひがしがわ進撃しんげきしていたランヌ軍団ぐんだん攻撃こうげき仕掛しかけたが、ナポレオンのひきいるフランスぐん主力しゅりょく捕捉ほそくされ、6月14にちフリートラントのたたかだい打撃だげきけた。6月16にちにはスルトがケーニヒスベルクを占領せんりょうし、プロイセンは完全かんぜん敗北はいぼくした。

戦後せんご処理しょり[編集へんしゅう]

7がつ7にち-9にちティルジットのやく締結ていけつされ、ロシアとプロイセンはフランスと講和こうわ同盟どうめいから脱落だつらくした。ナポレオンはプロイセンから割譲かつじょうさせた領土りょうどヴェストファーレン王国おうこく建国けんこくし、おとうとジェローム・ボナパルトおう即位そくいさせた。さらに、ポーランドを独立どくりつさせてワルシャワ公国こうこく建国けんこくした。これによってナポレオンはちゅうおうおよび東欧とうおうにおける覇権はけん獲得かくとくした。

こののち大陸たいりく封鎖ふうされいへの参加さんか拒否きょひしたスウェーデンにたいし、ナポレオンはロシア皇帝こうていアレクサンドル1せい会談かいだんし、よく1808ねんロシア・スウェーデン戦争せんそうこさせた。これによりナポレオンは北欧ほくおうをも制圧せいあつした。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Clodfelter 2017, p. 150.
  2. ^ a b Bodart 1916, pp. 128–129.
  3. ^ Hagemann 2015, pp. 33.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Hagemann, Karen (2015). Revisiting Prussia's Wars against Napoleon