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ダンツィヒ攻囲こういせん (1807ねん)

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ダンツィヒ攻囲こういせん

1807ねんのフランスぐんによるダンツィヒ攻囲こういせん概観がいかんした
戦争せんそうだいよんたいふつだい同盟どうめい戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1807ねん3月19にち-5月24にち
場所ばしょプロイセンりょうダンツィヒ現在げんざいポーランドりょうグダニスク)
結果けっか:フランスぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
フランス プロイセン
ロシア
イギリス
海軍かいぐん)
指導しどうしゃ指揮しきかん
ルフェーヴル元帥げんすい カルクロイト元帥げんすい
ニコライ・カメンスキー英語えいごばん将軍しょうぐん
戦力せんりょく
やく45,000めい
重砲じゅうほう臼砲きゅうほう100もん[1]
プロイセンぐん14,400めい
守備しゅびたい[1])
ロシアぐん7,000めい
援軍えんぐん[2]
損害そんがい
死傷ししょうしゃ6,000めい[3] プロイセンぐん死傷ししょう病没びょうぼつしゃ3,000めい[4]


ロシアぐん死傷ししょうしゃ1,500めい[4]

ダンツィヒ攻囲こういせん英語えいご: Siege of Danzig1807ねん3月19にち-5月24にち)は、だいよんたいふつだい同盟どうめい戦争せんそうにおいてフランスぐんダンツィヒ包囲ほういし、占領せんりょうしたおさむしろせんである。1807ねん3がつ19にちルフェーヴル元帥げんすいひきいるフランスぐんやく27,000めいがダンツィヒのまちまもカルクロイト元帥げんすい指揮しきプロイセンぐんやく14,400めい攻囲こういした[1]

ダンツィヒの重要じゅうようせい

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ダンツィヒは、戦略せんりゃくてき重要じゅうよう位置いちめていた。60,000めい住民じゅうみんようし、高度こうど要塞ようさいされたヴィスワがわ河口かこう重要じゅうようみなとであったのみならず、フランスぐん東進とうしんともないその背後はいご位置いちするプロイセンりょうとして、フランスぐん左翼さよくにとって直接的ちょくせつてき脅威きょういとなったのである。また連合れんごうぐん潜在せんざいてき揚陸ようりく地点ちてんでもあり、背後はいご戦線せんせん形成けいせいされればフランスぐんおどかしかねなかった。さらにダンツィヒのきたはヴィスワがわみなみひがし湿地しっちまもられており、西にしからしか接近せっきんできないがたまちでもあった。

これにくわえて市内しないには火薬かやく穀物こくもつオー・ド・ヴィーといった物資ぶっし豊富ほうふにあり、東部とうぶ堅実けんじつ戦役せんえき計画けいかくしていた大陸たいりくぐんはそれらにおおきな関心かんしんせていたのである。1807ねん2がつ18にちづけ書簡しょかんで、ナポレオンはルフェーヴル元帥げんすいつぎのようにおくっている。

かん栄光えいこうはダンツィヒの奪取だっしゅむすびついている。そこへかわれよ[5]

戦闘せんとう序列じょれつ

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まち奪取だっしゅする任務にんむは2がつ中旬ちゅうじゅん、ルーフェヴル元帥げんすい指揮しきだい10軍団ぐんだんあたえられた。その補佐ほさにあたったのは工兵こうへい指揮しきかんフランソワ・デュ・シャスルー=ローバ英語えいごばん将軍しょうぐん砲兵ほうへい指揮しきかんバストン・デュ・ラリボワズィエ英語えいごばん将軍しょうぐんであった。りょうにんとも、その専門せんもん分野ぶんやにおいてフランスぐんきっての専門せんもんであった。参謀さんぼうちょうドルーエ将軍しょうぐんであった。だい10軍団ぐんだん構成こうせいしていたのはヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ将軍しょうぐんひきいるポーランドの2師団しだんザクセン1個いっこ軍団ぐんだんバーデンからの1個いっこ派遣はけん部隊ぶたいイタリアの2師団しだんとフランスぐんやく10,000めい総勢そうぜいやく45,000めいである[1] 。ダンツィヒ市内しないにはプロイセンぐん司令しれいかんフリードリヒ・アドルフ・フォン・カルクロイト伯爵はくしゃく元帥げんすい指揮しきの14,400めい駐留ちゅうりゅうしていた[1]。しかし、ナポレオンはかれらを「ならずもの」(canaille)[6]んでいる。

包囲ほうい

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ダンツィヒ攻囲こういせん地図ちず

3がつ20日はつかまち包囲ほういめいじるナポレオンにしたがい、フランスぐんのシュラム将軍しょうぐんが2,000めい中心ちゅうしんからはなれたヴァイクセルミュンデ要塞ようさいドイツばんさき、ヴィスワがわ北岸ほくがんひきい、まちのすぐきたうらないした。 4月2にちには塹壕ざんごう掘削くっさくはじめられるほど地面じめんけ、4がつ8にちにはふた塹壕ざんごうられて4がつ15にち完成かんせいし、4がつ25にちにはみっ仕上しあがった。そして4がつ11にちヴァンダム将軍しょうぐんシュレーズィエンシュヴァイトニッツ英語えいごばん要塞ようさい攻略こうりゃくしたのち大型おおがたおさむしろほうがダンツィヒに移送いそうされ、4がつ21にち到着とうちゃくしている。

救援きゅうえんこころ

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3月23にち、フランスぐん砲兵ほうへいたい砲撃ほうげき開始かいしした。ロシアぐんは5がつ10日とおかから15にちにかけてイギリスのスループかん、「ファルコン英語えいごばんおよスウェーデン戦列せんれつかん1せき護衛ごえいされた、57せき輸送ゆそうせん分乗ぶんじょうした7,000めい[2]援軍えんぐんニコライ・カメンスキー英語えいごばん将軍しょうぐん指揮しきまちとどけようとこころみた。兵員へいいん1,200めい搭載とうさいしたスウェーデンかん不在ふざいによって、カメンスキー将軍しょうぐん作戦さくせん遅滞ちたいする。これはルフェーヴルに陣地じんち強化きょうかするときあいだあたえ、かずおとるロシアぐんは1,500めい死傷ししょうしゃして撃退げきたいされた[2] 。さらに大砲たいほう18もん搭載とうさいした平底ひらぞこ英語えいごばんスループかん、「ドーントレス英語えいごばん」によってかわから逼迫ひっぱくしていた火薬かやく、150たる搬入はんにゅうするこころみも失敗しっぱいする。同艦どうかん砲兵ほうへいたいちかくできしげ、パリ近衛このえ擲弾へい鹵獲ろかくされるまで砲撃ほうげきされた。

攻囲こういせん継続けいぞく

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1807ねん、ダンツィヒに入城にゅうじょうするナポレオンとフランスぐん

まち救援きゅうえんけたこれらのこころみが失敗しっぱいしたのち攻囲こうい坑道こうどうせん継続けいぞくされた。5月21にちにはモルティエ元帥げんすい軍団ぐんだん到着とうちゃくし、ハーゲルベルクへの突撃とつげき可能かのうとなる。これ以上いじょうれないとったカルクロイト元帥げんすいはルフェーヴル元帥げんすいい、プロイセンぐん1793ねんのマインツ攻囲こういせんでフランスぐん提示ていじしたものとおな降伏ごうぶく条件じょうけん提示ていじした。最終さいしゅうてきに、この条件じょうけんはナポレオンによる事前じぜん承認しょうにん[7]れられ、守備しゅびたい戦時せんじ名誉めいよすべたもったまま太鼓たいこらし、松明たいまつかかげ、軍旗ぐんきをはためかせつつ行進こうしんして退去たいきょした。ナポレオンはなつ戦争せんそうてきしたぶし)がちかづいたこと、そして後背こうはい脅威きょうい排除はいじょし、部隊ぶたい場所ばしょ移動いどうさせる必要ひつようしょうじたことから攻囲こういせん終止符しゅうしふちたがっていたので、しょ条件じょうけん寛容かんようだったのである。

降伏ごうぶくとその影響えいきょう

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攻囲こういせんつづくナポレオンのダンツィヒへの入城にゅうじょう再現さいげんしたリエナクトメント。

ダンツィヒは1807ねん5がつ24にち降伏ごうぶくした。ナポレオンは付近ふきんのヴァイクセル要塞ようさい攻囲こういめいじたが、カメンスキー将軍しょうぐん指揮しき部隊ぶたいとともにのがれ、もなく守備しゅびたい降伏ごうぶくした。この攻囲こういせんによってフランスぐんからは死傷ししょうしゃ6,000めい[3]一方いっぽう、プロイセンぐん戦死せんし負傷ふしょう病没びょうぼつによって3,000めいを、ロシアぐんは1,500めいうしなっている[4] 。ルフェーヴル元帥げんすい功績こうせきむくい、上院じょういんてた5月28にちづけ手紙てがみ[8]かれに「ダンツィヒこう」の称号しょうごうゆるしたが、直接ちょくせつつたえることはせず、5月29にち

わたしかん奉仕ほうしにとても満足まんぞくしており、すでにそのあかしあたえている。それはパリからの最新さいしんらせをめばつたわり、うたがいなくとうとかんたいするわたし評価ひょうかのこすものとなるであろう[8]

おくるにめている。

1807ねん9がつ9にち、ナポレオンははん独立どくりつこく自由じゆう都市としダンツィヒ設立せつりつした。その領域りょういきはグダニスクとしてられるダンツィヒのまち、ヴィスワがわ河口かこうかくむらヘル半島はんとうヴィスワ砂嘴さし英語えいごばんみなみ半分はんぶんともなきゅうプロイセン王国おうこくりょうから割譲かつじょうされたものであった。その1813ねん1がつ下旬げじゅんから11月29にちまでロシアぐんがこのまち攻囲こういし、フランスの占領せんりょうぐん1814ねん1がつ2にち撤退てったいする。

文献ぶんけん

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  1. ^ a b c d e Rothenberg G. E. The Art of Warfare in the Age of Napoleon. Indiana University Press, 1978. P. 219
  2. ^ a b c Summerville C. Napoleon's Polish Gamble: Eylau & Friedland 1807. Pen and Sword, 2005. P. 102
  3. ^ a b Summerville C. Napoleon's Polish Gamble: Eylau & Friedland 1807. Pen and Sword, 2005. P. 106
  4. ^ a b c Summerville C. Napoleon's Polish Gamble: Eylau & Friedland 1807. Pen and Sword, 2005. P. 104
  5. ^ (書簡しょかん No. 11,826)
  6. ^ (書簡しょかん 12208)
  7. ^ 書簡しょかん No. 12,629
  8. ^ a b 書簡しょかん No. 12,683