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だいろくたいふつだい同盟どうめい

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だいろくたいふつだい同盟どうめい
ナポレオン戦争せんそうたいふつだい同盟どうめいなか

ライプツィヒのたたか
とき1813ねん3月3にち - 1814ねん5月30にち
場所ばしょ欧州おうしゅう
結果けっか

たいふつだい同盟どうめい勝利しょうりフォンテーヌブロー条約じょうやくパリ条約じょうやく

衝突しょうとつした勢力せいりょく
当初とうしょ連合れんごうこく

ライプツィヒのたたかまえ

ライプツィヒのたたか

フランス帝国ていこく

1814ねん1がつまで


指揮しきかん
戦力せんりょく
1813ねん: 1,070,000めい 1813々: 850,000めい
1814ねん: 356,000めい
被害ひがいしゃすう

526,000[1]

  • 戦傷せんしょうしゃ 391,000めい
  • 捕虜ほりょ行方ゆくえ不明ふめいしゃ 135,000めい

668,900[2][1]

  • 戦死せんししゃ 103,300めい
  • 戦傷せんしょうしゃ 320,600めい
  • 捕虜ほりょ行方ゆくえ不明ふめいしゃ 245,000めい

だいろくたいふつだい同盟どうめい(だいろくじたいふつだいどうめい、英語えいご: Sixth Coalition1812ねん - 1814ねん)は、ナポレオン1せいフランス帝国ていこくによる覇権はけん挑戦ちょうせんするため、ヨーロッパ諸国しょこく結成けっせいした同盟どうめいである。ロシア遠征えんせい多大ただい損害そんがいこうむったフランスぐんは、四方しほうからせま連合れんごうぐん圧倒あっとうされ、ついにナポレオンは退位たいいまれた。

だいろくたいふつだい同盟どうめいにおける主要しゅようたたかいにはリュッツェンのたたかバウツェンのたたか英語えいごばんドレスデンのたたかげられる。だいろくたいふつだい同盟どうめい最大さいだいたたかいであるライプツィヒのたたかしょ国民こくみんたたかいとしてられる)はだいいち世界せかい大戦たいせん以前いぜんではヨーロッパの歴史れきしもっとだい規模きぼたたかいであった。最終さいしゅうてきにナポレオンはロシアとドイツからかえされ、かれ破滅はめつ原因げんいんとなった。ナポレオンの軍隊ぐんたいさい編成へんせいされたが、連合れんごうぐんは1813ねんにはドイツからナポレオンをし、1814ねんにはフランスに進攻しんこうした。連合れんごうぐん残存ざんそんするフランスぐんかしてパリを占領せんりょうし、ナポレオンに退位たいい調印ちょういんをさせて追放ついほうした。連合れんごうこくによってフランスの君主くんしゅせい復活ふっかつし、ブルボン継承けいしょうしゃによる復古ふっこ王朝おうちょうにフランスを支配しはいさせた。

しかしこれによってナポレオン戦争せんそう終結しゅうけつしたわけではなかった。ナポレオンはエルバとうでの監禁かんきんから逃亡とうぼうし、ふたたびフランスにて権力けんりょくについた。これによって1815ねんだいななたいふつだい同盟どうめい結成けっせいされた(このとき支配しはいひゃくにち天下でんかとしてもられる)。

ロシア遠征えんせい

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1812ねんナポレオンアレクサンドル1せい大陸たいりく封鎖ふうされいいるためにロシアに進攻しんこうした。大陸たいりくぐんは650,000めい兵士へいしから構成こうせいされており、(およそ半分はんぶんはフランスぐんのこりは同盟どうめいこくからの援軍えんぐんであった)1812ねん6がつ23にちネマンがわわたった。ロシアは祖国そこく戦争せんそう宣言せんげんした一方いっぽう、ナポレオンはだいポーランド戦争せんそう宣言せんげんした。ポーランドはこの侵攻しんこうぐんに100,000めいぐんおくり、のちにロシアと交渉こうしょうすること念頭ねんとういていた。しかしポーランドじん期待きたいはんして、ナポレオンはポーランドにいかなる譲歩じょうほもしなかった。ロシアぐんボロジノのたたか(9がつ7にち)まで、侵略しんりゃくしゃにとって有益ゆうえきなあらゆる物資ぶっし破壊はかいしながら後退こうたいした。このたたかいではフランスは戦術せんじゅつてき勝利しょうりしたが、このたたかいはどちらの陣営じんえい決定的けっていてき戦果せんかせなかった。このたたかいののちロシアぐん撤退てったいし、モスクワへのみちひらかれた。9月14にちまでにフランスぐんはモスクワを占領せんりょうしたが、すでにこの都市としはもぬけのからであった。アレクサンドル1せい降伏ごうぶく拒絶きょぜつしたため、(しかし西にしヨーロッパの基準きじゅんではほとんど戦争せんそう敗北はいぼくしていた)フランスぐん食料しょくりょう宿営しゅくえい(モスクワのだい部分ぶぶんはらわれていた)もほとんどない状態じょうたいで、ふゆちかづくなかモスクワを放棄ほうきして撤退てったいした。

こうして壊滅かいめつてき撤退てったい開始かいしされ、このあいだ食料しょくりょう不足ふそくのために兵士へいし脱走だっそう相次あいつぎ、ふゆきびしいさむさがし、そう司令しれいかんのミハイル・クトゥーゾフがひきいるロシアぐん民兵みんぺいによるない攻撃こうげきさらされた。大陸たいりくぐん戦闘せんとうふゆさむさとえによってすくなくとも370,000めいうしない、200,000めい捕虜ほりょとなった。11月までに27,000めい兵士へいしのみがふたたベレジナがわわたることが出来できた。ナポレオンはぐんをおいてパリにもどり、ロシアの進軍しんぐんからポーランドを防衛ぼうえいする準備じゅんびはじめた。この状況じょうきょう当初とうしょおもえたほど壊滅かいめつてき状況じょうきょうではなかった。ロシアぐんもまた400,000めい兵士へいしうしない、ぐん使つかたされていた、しかしロシアぐん補給ほきゅうせんみじかいため、フランスよりもはやぐん補充ほじゅうすることができた。とりわけナポレオンの騎兵きへい馬車ばしゃ損害そんがい取替とりかえが出来できなかったため、補充ほじゅう時間じかん必要ひつようだった。

同盟どうめい

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1814ねんのフランス戦役せんえきでのナポレオン

だいろくたいふつだい同盟どうめいは、1812ねんのナポレオンによるロシア遠征えんせい開始かいし契機けいきとして、イギリスロシアこくあいだ締結ていけつされた同盟どうめいはじまる。ロシア遠征えんせいはフランスぐんにとって致命ちめいてき損失そんしつまねいた。兵員へいいん37まん死亡しぼうし、20まん捕虜ほりょとなったのである。半島はんとう戦争せんそうきずついたナポレオンの不敗ふはい神話しんわはここに完全かんぜんくずち、フランスに支配しはいされていた諸国しょこく次々つぎつぎ離反りはんしていった。

1813ねん2がつ27にちプロイセンはフランスとの同盟どうめい破棄はきしてだいろくたいふつだい同盟どうめい参加さんかした。8月にはオーストリアスウェーデンライン同盟どうめいしょくにもこれに参加さんかした。ここにイギリスを中心ちゅうしんとしただい同盟どうめい結成けっせいされ、フランスにたいするそう攻撃こうげき開始かいしされた。

だいろくたいふつだい同盟どうめい参加さんかした国家こっか以下いかのとおりである。

ドイツ・フランス戦役せんえき(1813ねん - 1814ねん

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ライプツィヒのたたか

プロイセンの参戦さんせん

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1813ねん、ナポレオンは20まん新兵しんぺい徴募ちょうぼして、ロシア遠征えんせい壊滅かいめつした軍隊ぐんたい再建さいけんした。連合れんごうぐんでは、3月17にちにプロイセンがフランスへ宣戦せんせん布告ふこくし、旧領きゅうりょう奪回だっかいした。4月28にちにはロシアの将軍しょうぐんクトゥーゾフ病没びょうぼつし、わってヴィトゲンシュテイン最高さいこう司令しれいかんとなった。

5月2にち、ライプツィヒ近郊きんこうのリュッツェンでヴィトゲンシュテイン指揮しきのロシアぐんネイ軍団ぐんだん奇襲きしゅうする。ナポレオンは即座そくざ反撃はんげきしこれをやぶったが(リュッツェンのたたか)、ヴィトゲンシュテインは兵力へいりょく手際てぎわよく撤退てったいさせ、決定的けっていてき勝利しょうりにはいたらなかった。ナポレオンはネイに兵力へいりょく半数はんすうあたえてロシアぐんを2方面ほうめんから追撃ついげきし、5がつ20日はつか-21にちバウツェンのたたか英語えいごばんでロシア・プロイセン連合れんごうぐん勝利しょうりしたが、ネイの側面そくめん攻撃こうげき開始かいしおくれたため、またも連合れんごうぐん撃滅げきめつにはいたらなかった。しかも、フランスぐんおおきな損害そんがいけた。

6月4にち、ナポレオンへ皇后こうごうマリー・ルイーズとつがせていたオーストリアの仲介ちゅうかい休戦きゅうせん協定きょうていむすばれ、りょうぐんとも兵力へいりょく再編さいへんした。

デンマークのたたか

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1813ねん12月、スウェーデンぐんホルシュタインのデンマークぐん攻撃こうげきした。1813ねん12月7にち、アンダース将軍しょうぐんはボルンヘーフェトにてデンマークぐんやぶった。3にちデンマークの予備よび軍団ぐんだんがゼーエシュテットにてスウェーデンにたいして勝利しょうりおさめた。しかしデンマークの勝利しょうり戦争せんそう趨勢すうせいえるにはいたらなかった。

1814ねん1がつ14にちキール条約じょうやくがスウェーデンとデンマーク・ノルウェーのあいだ締結ていけつされた。この条約じょうやくによってノルウェーはスウェーデンに割譲かつじょうされた。しかしノルウェーはこのめを拒絶きょぜつし、独立どくりつ宣言せんげんし、5月17にちあらたな政府せいふ樹立じゅりつした。6月27にち、スウェーデンぐんはノルウェーに進攻しんこうした。みじかたたかいののち、8がつ14にちモス条約じょうやく締結ていけつされた。

ノルウェーはスウェーデンと連合れんごうみ、憲法けんぽう法令ほうれいはそれぞれべつ国家こっかとしてゆうするが、おう外交がいこうは2こく共有きょうゆうすることに同意どういした。1814ねん11月4にちスウェーデン=ノルウェー正式せいしき設立せつりつされた。このときノルウェーの議会ぎかい憲法けんぽう改正かいせいし、カール13せいをノルウェーのおうとして選出せんしゅつした。

半島はんとう戦争せんそう

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だがそのころスペインでもフランスぐん危機ききむかえていた。ウェリントンこうひきいるイギリス・ポルトガル・スペイン連合れんごうぐんは、各所かくしょでフランスぐん撃破げきはし、フランス本土ほんどへと北上ほくじょうしつつあった。6月21にちビトリアのたたかではジョゼフ配下はいかの65,000めいのフランスぐんは53,000めいのイギリスぐん、27,000めいのポルトガルぐん、19,000めいのスペインぐん敗北はいぼくした。ウェリントンは追撃ついげきし、サン・セバスティアンからフランスをした。サン・セバスティアンこのときすで略奪りゃくだつされ、かれていた。

連合れんごうぐん撤退てったいするフランスを追撃ついげきし、7がつ初旬しょじゅんにピレネーでいついた。スールトはフランスぐん指揮しきする権限けんげんあたえられ、反攻はんこう開始かいしし、連合れんごうこくマヤのたたか英語えいごばんロンセスバーリェスのたたかで2敗北はいぼくした。しかしスールトはさらにイギリス、ポルトガル連合れんごうぐんまもっている場所ばしょ攻撃こうげきして、いきおいをうしない、7がつ28にち、30にちソリーユレンのたたか英語えいごばん連合れんごうこく勝利しょうりしたのち、ついに逃走とうそうした。

ピレネーのたたか英語えいごばんでウェリントンが補給ほきゅうせんえて戦闘せんとうおこなったか、最小限さいしょうげん機動きどうでフランスぐん打撃だげきあたえて追撃ついげきしたことたたかいに勝利しょうりした。

10月7にち、ウェリントンがドイツで再度さいどたいふつ感情かんじょう悪化あっかしたニュースをったときたいふつ同盟どうめいぐんはついにビダソアがわ浅瀬あさせわたり、フランスにはいった。12月11にち包囲ほうい絶望ぜつぼうてき状態じょうたいであったナポレオンはスペインと個別こべつヴァランセ条約じょうやくむすぶことに同意どういした。この条約じょうやくではフェルナンド7せいをスペインおう承認しょうにんするわりに完全かんぜん休戦きゅうせんもとめた。しかしスペインじんはもはやナポレオンを信用しんようする毛頭もうとうく、フランスでの戦闘せんとう続行ぞっこうした。

オーストリアの参戦さんせん

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7がつにはスウェーデンもたいふつだい同盟どうめい参加さんかした。7月29にちプラハ講和こうわ会議かいぎ開催かいさいされたが、りょうぐんとも譲歩じょうほ意思いしはなく決裂けつれつした。8がつ10日とおか休戦きゅうせん期間きかん終了しゅうりょうし、8がつ11にち、オーストリアもフランスへ宣戦せんせんした。休戦きゅうせん期間きかんちゅうにフランスぐんは30まん集結しゅうけつさせたが、連合れんごうぐん兵力へいりょくは45まんえ、かく戦線せんせんでフランスぐんへの攻撃こうげき開始かいしした。

ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合れんごうぐんトラッヘンベルク・プランドイツばん採用さいようし、ナポレオン本隊ほんたいとの正面しょうめん衝突しょうとつけ、部下ぶか部隊ぶたいとの会戦かいせん志向しこうする戦略せんりゃくった。北方ほっぽうでは、ベルナドットひきいるスウェーデンぐんが、8がつ23にちグロースベーレンのたたかで、ベルリン攻撃こうげきかっていたウディノ軍団ぐんだん勝利しょうり。さらに、9月6にちにはデネヴィッツのたたか英語えいごばんで、ウディノ軍団ぐんだん交代こうたいしたネイ軍団ぐんだんやぶった。東方とうほうでは、ブリュッヘルひきいるプロイセンぐんが、8がつ26にちカッツバッハのたたか英語えいごばんマクドナル軍団ぐんだん勝利しょうりした。

南方なんぽうでは、シュヴァルツェンベルクドイツばんひきいるオーストリア・ロシア連合れんごうぐんが、ザクセン王国おうこく首都しゅとドレスデンまもサン=シール軍団ぐんだん攻撃こうげきした。これにはナポレオンが増援ぞうえんけつけ、8がつ26にち-27にちドレスデンのたたかとなった。このたたかいはフランスぐん勝利しょうりしたが、オーストリア・ロシア連合れんごうぐん追撃ついげきしたヴァンダムは、クルムのたたか英語えいごばん8がつ29にち - 8がつ30にち)でぎゃく包囲ほういされ、ヴァンダム本人ほんにんふくむ7,000が捕虜ほりょとなった。こうしてフランスぐん消耗しょうもうしてゆき、兵力へいりょくはますます拡大かくだいしていった。さらに、10月にはフランスの長年ながねん同盟どうめいこくであったバイエルン王国おうこくまでもが離反りはんした。

しょ国民こくみんたたか

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まれたナポレオンは西方せいほう撤退てったいし、主力しゅりょくライプツィヒ集結しゅうけつさせた。連合れんごうぐんがこれに決戦けっせんいどみ、1813ねん10がつ16にち-19にちライプツィヒのたたかしょ国民こくみんたたかい)が開始かいしされた。このたたかいはナポレオン戦争せんそうにおける最大さいだい戦闘せんとうとなった。19まんのフランスぐんたいして36まん連合れんごうぐん包囲ほうい攻撃こうげきをかけ、フランスぐんは2ばい兵力へいりょくまえ圧倒あっとうされた。18にちにはザクセン王国おうこくぐん一部いちぶ離反りはんし、19にちにナポレオンは撤退てったい余儀よぎなくされた。撤退てったい過程かていポニャトフスキ戦死せんししたほか、フランスぐん戦死せんし4まん捕虜ほりょ3まんして敗走はいそうした。このドイツを中心ちゅうしんとした戦役せんえきを、現在げんざいドイツでは「解放かいほう戦争せんそう」と呼称こしょうしている。

1814ねんフランス戦役せんえき

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パリに入城にゅうじょうするロシアぐん

フランスぐんはドイツからの撤退てったい余儀よぎなくされた。ひがしからはロシアぐん、オーストリアぐん、プロイセンぐん、スウェーデンぐん殺到さっとうし、みなみからはスペインを制圧せいあつしたイギリスぐんピレネー山脈さんみゃくえた。フランスぐん着実ちゃくじつまれていった。1813ねん12月2にち連合れんごうぐんアムステルダム入城にゅうじょうし、12月21にちにはシュワルツェンベルクぐんラインがわ渡河とかした。1814ねん1がつ19にちにはブルゴーニュ地方ちほうディジョン陥落かんらくした。

ナポレオンは、「マリー・ルイーズへい」と揶揄やゆされた熟練じゅくれんわか新兵しんぺいたちをひきいて、局地きょくちてき戦闘せんとうでたびたび勝利しょうりおさめた。たとえば、2がつ10日とおかから14にちにかけてのろく日間にちかん戦役せんえきばれるたたかいは、ナポレオンの戦歴せんれきなか最高さいこう作戦さくせんであったと評価ひょうかする見方みかたおおい。ナポレオンは、シャンパーニュ侵攻しんこうした10まんのブリュッヘルぐんたいして、4まん兵力へいりょくをもって機動きどう作戦さくせん展開てんかいし、これをやぶっている。

3月9にち、イギリスの主導しゅどうにより同盟どうめい諸国しょこくショーモン条約じょうやく締結ていけつし、1791ねん当時とうじ国境こっきょう回復かいふく条件じょうけん停戦ていせん提案ていあんしたが、ナポレオンは拒否きょひした。しかし、大局たいきょくてき劣勢れっせいくつがえしようもなかった。ナポレオンは最後さいご抵抗ていこうこころみたものの、圧倒的あっとうてき兵力へいりょくまえに、アルシー・シュール・オーブのたたか英語えいごばんなどで敗北はいぼくした。3月30にち連合れんごうぐん首都しゅとパリへの攻撃こうげき開始かいしした。パリ防衛ぼうえいにんにあたっていたマルモン降伏ごうぶくし、よく31にち連合れんごうぐんはパリに入城にゅうじょうした。タレーラン=ペリゴール中心ちゅうしんとするフランス臨時りんじ政府せいふ停戦ていせんのためにナポレオンの退位たいい決議けつぎした。4月11にち、ナポレオンはついに退位たいい降伏ごうぶく条件じょうけんとしてフォンテーヌブロー条約じょうやく締結ていけつされた。つづけて1814ねん5がつ30にちにイギリスをふく列強れっきょうとフランスのあいだパリ条約じょうやく締結ていけつされた。連合れんごうこく指導しどうしゃはウィーン会議かいぎ(1814ねん9がつから1815ねん6がつ)が開催かいさいされるまえの6がつにイギリスの平和へいわ祝典しゅくてん参加さんかした。ウィーン会議かいぎではヨーロッパの国境こっきょうなおされた。

戦後せんご処理しょり

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1814ねん、イギリスのエングレービングでえがかれたナポレオンのエルバとうへの追放ついほう

戦役せんえき結果けっか、ナポレオンは敗北はいぼくして1814ねん5がつ4にちエルバとうしょう領主りょうしゅとして追放ついほうされた。ベルナドットは、フランス君主くんしゅ後継こうけいしゃ地位ちいねらったが、たいふつだい同盟どうめい諸国しょこくはこれを承認しょうにんしなかった。最終さいしゅうてきに、フランス上院じょういん議決ぎけつにより、フランス革命かくめい以来いらい亡命ぼうめいしていたブルボンルイ18せい帰還きかんして即位そくいし、王政おうせい復古ふっこがなされた。

ロシア遠征えんせいからフランス戦役せんえきいた最終さいしゅう局面きょくめんにおいて、250まんにん兵員へいいん戦争せんそう参加さんかし、うち200まんにん死亡しぼうしたとされる(ロシアだけで100まんにんという)。スモレンスクのたたかボロジノのたたかドレスデンのたたかライプツィヒのたたかナポレオン戦争せんそうなかでもとく規模きぼおおきいたたかいであった。以降いこうだいいち世界せかい大戦たいせんまで西欧せいおうでこれほどだい規模きぼたたかいが連続れんぞくしておこなわれることはなかった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Bodart 1916, p. 46.
  2. ^ Bodart 1916, pp. 130–131.

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ くにとしてのワルシャワ公国こうこくはロシア、プロイセンによって1813ねん5がつまでに完全かんぜん占領せんりょうされた。しかしほとんどのポーランドじんはナポレオンにいま忠誠ちゅうせいちかっていた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 伊奈いなしげるまこと名将めいしょうナポレオンの戦術せんじゅつ陸軍りくぐんほうしゃ, 1938ねん
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  • Bodart, G. (1916). Losses of Life in Modern Wars, Austria-Hungary; France. ISBN 978-1371465520 
  • Ellis, Geoffrey (2014), Napoleon: Profiles In Power, Routledge, p. 100, ISBN 9781317874706 
  • Hodgson, William (1841), The life of Napoleon Bonaparte, once Emperor of the French, who died in exile, at St. Helena, after a captivity of six years' duration, Orlando Hodgson, https://books.google.com/books?id=SOlBAAAAcAAJ 
  • Merriman, John (1996), A History Of Modern Europe, W.W. Norton Company, p. 579 
  • Maude, Frederic Natusch (1911), "Napoleonic Campaigns" , in Chisholm, Hugh (ed.), Encyclopædia Britannica (英語えいご), vol. 19 (11th ed.), Cambridge University Press, pp. 212–236
  • Riley, J. P. (2013), Napoleon and the World War of 1813: Lessons in Coalition Warfighting, Routledge, p. 206 
  • Robinson, Charles Walker (1911), "Peninsular War" , in Chisholm, Hugh (ed.), Encyclopædia Britannica (英語えいご), vol. 21 (11th ed.), Cambridge University Press, pp. 90–98
  • Ross, Stephen T. (1969), European Diplomatic History 1789-1815: France against Europe, pp. 342–344 

関連かんれん書籍しょせき

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  • Cate, Curtis (1985), The War of the Two Emperors: The Duel Between Napoleon and Alexander: Russia, 1812, Random house 
  • Delderfield, Ronald Frederick (1984), Imperial sunset: The fall of Napoleon, 1813-14, Stein and Day 
  • Leggiere, Michael V. (2007), The Fall of Napoleon: Volume 1, The Allied Invasion of France, 1813-1814, 1, Cambridge University Press 
  • Lüke, Martina (2009), “Anti-Napoleonic Wars of Liberation (1813–1815)”, in Ness, Immanuel, The International Encyclopedia of Revolution and Protest: 1500–present, Malden, MA: Wiley-Blackwell, pp. 188–190, ISBN 9781405184649 
  • Muir, Rory (1996), Britain and the Defeat of Napoleon, 1807–1815, Yale University Press 
  • Riehn, Richard K (1990), 1812: Napoleon's Russian campaign 
  • Rothenberg, Gunther Erich (1999), The Napoleonic Wars, London: Cassell, ISBN 0304359831 
  • Riley, Jonathon P. (2009), Napoleon and the world war of 1813: lessons in coalition warfighting, Psychology Press 
  • Spring, Lawrence (2009), 1812: Russia's Patriotic War 

外部がいぶリンク

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