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ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル

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ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル
Gebhard Leberecht von Blücher
1742ねん12月16にち - 1819ねん9月12にち
渾名あだな 前進ぜんしん元帥げんすい
生誕せいたん スウェーデン・バルト帝国の旗 スウェーデン・バルト帝国ていこく ロストック
死没しぼつ プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく クリーブロヴィッツ英語えいごばん
ぐんれき 1758 - 1815
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん元帥げんすい
指揮しき ポンメルンぐん司令しれいかん
プロイセンぐんそう司令しれいかん参謀さんぼう総長そうちょう
戦闘せんとう ななねん戦争せんそう
フランス革命かくめい戦争せんそう
ナポレオン戦争せんそう
しょ国民こくみん解放かいほう戦争せんそう
勲章くんしょう プール・ル・メリット勲章くんしょう
ほしづけだいじゅうあきら
ワールシュタット大公たいこう
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ロストックにつブリュッヘルの彫像ちょうぞう

ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル(Gebhard Leberecht von Blücher、1742ねん12月16にち - 1819ねん9月12にち)は、プロイセン王国おうこく軍人ぐんじん陸軍りくぐん元帥げんすい。ワールシュタット大公たいこうナポレオン戦争せんそう後半こうはんのプロイセンぐんそう司令しれいかんとなり、ウェリントンこうともワーテルローのたたかナポレオンやぶった。攻撃こうげきてき性格せいかくから前進ぜんしん元帥げんすい(Marschall Vorwärts)と渾名あだなされる。せい表記ひょうき発音はつおんちかブリュッヒャードイツ発音はつおん[ˈblyːçɐ] )がもちいられることもおおい(ブリュッハーという場合ばあいも)。

生涯しょうがい

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出生しゅっしょうからフランス革命かくめい戦争せんそうまで

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1742ねん12月16にち当時とうじスウェーデンりょうであったロストックまれた。14さいちち兄弟きょうだい同様どうようにスウェーデンぐん入隊にゅうたいし、1760ねんからのポメラニアでの戦役せんえき従軍じゅうぐんした。この戦役せんえきでブリュッヘルはプロイセンぐん捕虜ほりょとなり、そのままプロイセンぐん入隊にゅうたいした。ななねん戦争せんそうにはけい騎兵隊きへいたい士官しかんとして従軍じゅうぐんし、勇敢ゆうかんおこないでおおくの戦功せんこうてた。

だがブリュッヘルの熱心ねっしん情熱じょうねつときこと過激かげきにさせ、かれによるある僧侶そうりょ模擬もぎ処刑しょけい1772ねんのポーランド反乱はんらん支援しえんしたという疑惑ぎわくをかけられた。このため、ブリュッヘルは少佐しょうさへの昇進しょうしん見送みおくられた。ブリュッヘルは辞職じしょく無礼ぶれい手紙てがみおくり、それを1773ねんフリードリヒ2せい承諾しょうだくした。「フォン・ブリュッヘル騎兵きへい大尉たいい破滅はめつすればよい(Der Rittmeister von Blücher kann sich zum Teufel scheren)」

こののち農業のうぎょうはじめ、およそ15年間ねんかん田園でんえんごしたが、フリードリヒ2せい死後しご軍務ぐんむ復帰ふっきし、少佐しょうさとして赤色あかいろけい騎兵きへい連隊れんたい指揮しきかんにんじられた。1787ねんにはネーデルラント派遣はけんされ、よく1788ねん中佐ちゅうさ昇進しょうしん、さらによく1789ねんにはプロイセンぐん最高さいこう栄誉えいよであるプール・ル・メリット勲章くんしょう授与じゅよされた。

1792ねんフランス革命かくめい戦争せんそう勃発ぼっぱつ、プロイセンはだいいちたいふつだい同盟どうめい参加さんかし、ブリュッヘルはフランスとの戦争せんそう従事じゅうじすることとなった。一連いちれん戦闘せんとうでブリュッヘルは騎兵きへい指揮しきかんとして有能ゆうのうであることを証明しょうめいし、1794ねん大佐たいさ昇進しょうしん、さらにキールワイラーのたたかいで戦功せんこう同年どうねんちゅう少将しょうしょう昇進しょうしんした。1795ねんバーゼルのやくでフランスとプロイセンは講和こうわ、ブリュッヘルは本国ほんごく帰還きかんした。1801ねん、ブリュッヘルは中将ちゅうじょう昇進しょうしん、このころからかれ軍部ぐんぶないでもおもきをなすようになった。

ナポレオン戦争せんそう

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1806ねん、プロイセンはだいよんたいふつだい同盟どうめい結成けっせいしてフランスへ宣戦せんせん布告ふこく、ブリュッヘルは師団しだんちょうとして作戦さくせん従事じゅうじすることとなった。しかし10月14にちイエナ・アウエルシュタットのたたかでプロイセンぐん大敗たいはい敗走はいそうなかでブリュッヘルはシャルンホルスト合流ごうりゅう友軍ゆうぐんが壊走するなか、ブリュッヘルとシャルンホルストのぐん比較的ひかくてき整然せいぜん撤退てったいおこない、追撃ついげきするフランスぐんへの抵抗ていこうつづけ、11月7にちリューベック近郊きんこうのラトカウで降伏ごうぶくした。このさい、「弾薬だんやく欠乏けつぼうにつき」という一文いちぶんれ、名誉めいよまもることに成功せいこうした(まだたたか意志いしはあるが、弾薬だんやくがなくなったのでやむなく降伏ごうぶくしたという体裁ていさいをとったのである)。

このときブリュッヘルのぐん追撃ついげきしたのが、当時とうじフランスぐん元帥げんすいだったベルナドット将軍しょうぐんであったためのちにスウェーデンおう太子たいしとなったベルナドットがたいふつだい同盟どうめい参加さんかして以降いこうもベルナドットとはそりがわず、反目はんもくしている。捕虜ほりょ交換こうかん解放かいほうされたブリュッヘルは、フリードリヒ・ヴィルヘルム3せい逃亡とうぼうさきであるケーニヒスベルクかい、戦争せんそう継続けいぞくした。

1807ねん7がつティルジットのやく締結ていけつされた。プロイセンは国土こくど半分はんぶん割譲かつじょうし、ナポレオンはそのヴェストファーレン王国おうこく建国けんこくした。この屈辱くつじょくてき条約じょうやくにプロイセンないでは愛国あいこくてき風潮ふうちょうがり、はんナポレオンの急先鋒きゅうせんぽうだったブリュッヘルはこうした愛国あいこくのリーダーとしてみなされるようになった。1807ねん、ブリュッヘルはポンメルンぐん司令しれいかんにんじられ、1809ねん騎兵きへい大将たいしょう昇進しょうしんした。1812ねん、ナポレオンがロシア戦役せんえき準備じゅんびすすめるなか、プロイセンではロシアとフランスのどちらと同盟どうめいすべきかで国論こくろん二分にぶんされた。ブリュッヘルはロシアとの同盟どうめい主張しゅちょうしたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3せいはフランスとの同盟どうめい決定けっていした。このためブリュッヘルは、ポンメルンぐん司令しれいかんしょく解任かいにんされた。

解放かいほう戦争せんそう

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1813ねん、ナポレオンのロシア戦役せんえき失敗しっぱいわると、ブリュッヘルはぐん司令しれいかんしょく復帰ふっきした。プロイセンはフランスにたいして宣戦せんせん布告ふこくし、いわゆるしょ国民こくみん解放かいほう戦争せんそう開始かいしされた。ブリュッヘルはプロイセンぐんそう司令しれいかんにんじられ、参謀さんぼう総長そうちょう兵站へいたん総監そうかん)となったシャルンホルストととも指揮しきたることとなった。3月、プロイセンぐん春季しゅんき攻勢こうせい開始かいしされたが、リュッツェンのたたかバウツェンのたたか多大ただい損害そんがいし、一時いちじ休戦きゅうせんむすばれた。また、リュッツェンでけたきずもとでシャルンホルストが死亡しぼうしたため、グナイゼナウ後任こうにん参謀さんぼう総長そうちょう着任ちゃくにんした。いまだフランスの戦力せんりょくあなどれないものであることをったプロイセンは、各国かっこくとの同盟どうめいはしり、同年どうねん8がつだいろくたいふつだい同盟どうめい結成けっせいされた。

ライプツィヒのたたかいにおけるプロイセンけい騎兵きへい

8がつ12にち同盟どうめいもとづいてオーストリア帝国ていこくがフランスへ宣戦せんせん布告ふこくロシア帝国ていこくスウェーデン王国おうこく行動こうどう開始かいしした。同盟どうめいぐん足並あしなみは一定いっていではなかったが、グナイゼナウはかくぐん内部ないぶ派遣はけんしたプロイセン参謀さんぼう将校しょうこうつうじて、戦略せんりゃくレベルでの協同きょうどう行動こうどう実現じつげんした。ブリュッヘルは、プロイセンへい40,000、ロシアへい50,000で構成こうせいされるシレジアぐんじきりつし、フランスへの進軍しんぐん開始かいしした。8がつ26にち、ブリュッヘルはカッツバッハのたたかマクドナルド元帥げんすいひきいるフランスぐん撃破げきはした。モーツケルンでマルモン元帥げんすいやぶったブリュッヘルは、10月16にち陸軍りくぐん元帥げんすいじょせられた。10月16にちから19にちにかけておこなわれたライプツィヒのたたかで、同盟どうめいぐんはナポレオンのひきいるフランスぐんやぶり、ドイツからフランスを排除はいじょした。この功績こうせきみとめられ、ブリュッヘルはだいてつじゅう星章せいしょう授与じゅよされた。この勲章くんしょうあたえられたのはヒンデンブルク元帥げんすいかれだけである。

ラインをえるプロイセンぐん
() ヴィルヘルム・カンプハウゼン

1814ねん同盟どうめいぐんはフランス本土ほんど侵攻しんこうした。フランスぐんはいくつかの戦術せんじゅつてき勝利しょうりおさめたものの、戦略せんりゃくてきにはめられていった。3月13にち、ブリュッヘルひきいるプロイセンぐんパリ入城にゅうじょうした。パリが外国がいこくぐん進入しんにゅうゆるしたのは、400ねんまえひゃくねん戦争せんそう以来いらいのことであった。4がつ4にち、ナポレオンは退位たいいさせられ、エルバとう流刑りゅうけいとなった。ブリュッヘルはナポレオンは危険きけんであり、銃殺じゅうさつすべきだと主張しゅちょうしたがききいれられなかった。6月3にち、ブリュッヘルにワールシュタット大公たいこう爵位しゃくい授与じゅよされた。そのまもなくブリュッヘルはイギリス訪問ほうもんし、熱烈ねつれつ歓迎かんげいけた。帰国きこく、ブリュッヘルは退役たいえきし、シレジアいた。

ワーテルローのたたか

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1815ねん、ナポレオンがエルバとうから脱出だっしゅつすると、ブリュッヘルはふたたもどされた。ブリュッヘルはベルギー駐留ちゅうりゅうしていたプロイセンぐんそう司令しれいかんとなり、ふたたびグナイゼナウを参謀さんぼう総長そうちょうとした。6月16にち、プロイセンぐんリニーのたたかでフランスぐん敗北はいぼくした。このたたかいでブリュッヘルは負傷ふしょうし、一時いちじてき指揮しきけんをグナイゼナウにゆだねた。グナイゼナウはぐんひがし撤退てったいさせ、ナポレオンはグルーシー部隊ぶたい追撃ついげき派遣はけんした。指揮しきあずかったグナイゼナウは、イギリスぐんへの不信ふしんからライン方面ほうめんへの後退こうたいかんがえていた。このとき病床びょうしょうからがったブリュッヘルが後退こうたい却下きゃっかし、グナイゼナウが指揮しきってフランスぐん撃破げきはするようめいじたという。イギリスぐん合流ごうりゅうすべく、プロイセンぐん強行きょうこうぐん西にしぐんかえした。

6月18にちワーテルロー(ラ・ベル・アリアンス)では、フランスぐんとイギリスぐん激戦げきせんひろげていた。グルーシーぐん追撃ついげきをかわしたプロイセンぐんは、夕方ゆうがた戦場せんじょう到着とうちゃくし、フランスぐん右翼うよく攻撃こうげきした。中央ちゅうおうでの皇帝こうてい近衛このえたい攻撃こうげき失敗しっぱいわると、イギリスぐん反撃はんげきうつり、フランスぐん撃破げきはした。プロイセンぐん徹底てっていした追撃ついげきおこない、フランスぐん多大ただい損害そんがいあたえた。6月22にち、ナポレオンがふたた退位たいい7がつ7にち、プロイセンぐん再度さいどパリへ入城にゅうじょうした。

なお、このたたかいののち、ブリュッヘルは主戦しゅせんじょうとなったラ・ベル・アリアンス(La Belle Aliance、同盟どうめいという意味いみフランス語ふらんすご)から、ラ・ベル・アリアンスのたたかいと命名めいめいしようと提案ていあんした。しかし、初代しょだいウェリントン公爵こうしゃくアーサー・ウェルズリー自分じぶん司令しれいいたワーテルローから、ワーテルローのたたか命名めいめいした。

ブリュッヘルはしばらくパリに駐留ちゅうりゅうしていたが、老齢ろうれい理由りゆう退役たいえきし、シレジアにもどった。1819ねん9がつ12にちクリーブロヴィッツ英語えいごばんにて77さい死去しきょした。

評価ひょうか

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ブリュッヘルは粗野そや無鉄砲むてっぽう教養きょうようだったが、親分おやぶんはだ人物じんぶつ度量どりょうひろさと人望じんぼうそなえていた。作戦さくせん立案りつあんさいしても、優秀ゆうしゅうなスタッフに全幅ぜんぷく信頼しんらいせ、かれらの意見いけんれる賢明けんめいさがあった。シャルンホルストやグナイゼナウも、かれそう司令しれいかんだったからこそちから発揮はっきできたといえるだろう。

勇敢ゆうかんさというてんではならぶものがいなかった。ただし、そのために戦場せんじょう冷静れいせい判断はんだんわすれ、猪突ちょとつすることもしばしばだった。突進とっしん敗北はいぼくむすびつくことも多々たたあり、軍事ぐんじ指揮しきかんとして最優秀さいゆうしゅうとはいがたい。とくにナポレオンには正面しょうめん対決たいけつでまったく勝利しょうりできなかった。

しかし、かれあきらめということをらない不屈ふくつおとこだった。また、熱烈ねつれつ愛国心あいこくしんぬしでもあった。敗北はいぼくちひしがれていたプロイセン将兵しょうへい叱咤しったし、鼓舞こぶし、ついにナポレオンの打倒だとうまでひきいたのはブリュッヘルである。前進ぜんしん元帥げんすいという称号しょうごうは、くもわるくもかれ特質とくしつあらわしているといえるだろう。

関連かんれん項目こうもく

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