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ティルジットのやく

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ティルジットのやく
ネマン川上かわかみのいかだで会見かいけんするナポレオンとアレクサンドル1せい
通称つうしょう略称りゃくしょう ティルジット講和こうわ条約じょうやく
署名しょめい 1807ねん7がつ
署名しょめい場所ばしょ ひがしプロイセン
ネマンがわ沿いのまちティルジット
げんロシア連邦れんぽうカリーニングラードしゅうソヴィェツク
締約ていやくこく フランスロシア帝国ていこく7がつ7にち
フランスとプロイセン王国おうこく7がつ9にち
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ティルジットのやく(ティルジットのわやく、ふつ: Paix de Tilsit, えい: Peace of Tilsit)は、ナポレオン戦争せんそうなか1807ねん7がつに、ひがしプロイセンネマンがわ沿いのまちティルジットげんロシア連邦れんぽうカリーニングラードしゅうソヴィェツク)でむすばれた講和こうわ条約じょうやくである。

ティルジット講和こうわ条約じょうやく(ティルジットこうわじょうやく、ふつ:Traités de Tilsit, えい:Treaties of Tilsit)ともばれる。

締結ていけつ[編集へんしゅう]

7がつ7にちフランスロシア帝国ていこくが、7がつ9にちにフランスとプロイセン王国おうこく条約じょうやく締結ていけつした。

この条約じょうやくにより、プロイセンは国際こくさい社会しゃかいでの地位ちい後退こうたいさせ、フランスとロシアとのあいだには協調きょうちょう関係かんけい成立せいりつした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ティルジットのやくえがいたフランスのメダル(1810年代ねんだい)。ナポレオンとアレクサンドルI抱擁ほうようしている。
ひだりから)ティルジットでのナポレオン、アレクサンドルIプロイセン王妃おうひフリードリヒ・ヴィルヘルム3せい 

1806ねん、プロイセンはイギリスやロシアなどとだいよんたいふつだい同盟どうめい結成けっせいしてフランスへ宣戦せんせん布告ふこくするが、10月14にちイエナ・アウエルシュタットのたたか壊滅かいめつした。ロシアぐんがプロイセンの救援きゅうえんおもむくが、1807ねん2がつ7にち-8にちアイラウのたたかでフランスぐんけたのち、6月14にちフリートラントのたたかでやはり決定的けっていてき打撃だげきけた。6月21にちに3かこくあいだ休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつされ、6月25にちにはフランス皇帝こうていナポレオン1せいとロシア皇帝こうていアレクサンドル1せいが、講和こうわけて、プロイセン・ロシア国境こっきょうのネマンがわかぶいかだうえ会談かいだんした。

7がつ合意ごういされた講和こうわ条約じょうやくにより、プロイセンはエルベがわ以西いせい領土りょうどポーランドうしない、ザクセン王国おうこくとロシアにも領土りょうど割譲かつじょうさせられた。これによりプロイセンの人口じんこうは900まんにんから400まんにん縮小しゅくしょうした。陸軍りくぐんは4まんにん制限せいげんされ、さらに1おく2,000まんフランの賠償金ばいしょうきんせられ、賠償金ばいしょうきん支払しはらいがわるまでのフランスぐん駐留ちゅうりゅうみとめさせられた。エルベがわ以西いせいのプロイセンの旧領きゅうりょうにはヴェストファーレン王国おうこくかれ、国王こくおうにはナポレオンのおとうとジェローム・ボナパルト即位そくいした。ポーランド分割ぶんかつによって独立どくりつ喪失そうしつしていたポーランドはワルシャワ公国こうこくとして復活ふっかつし、君主くんしゅにはザクセン国王こくおうフリードリヒ・アウグスト1せいいた。

ロシアはだいよんたいふつだい同盟どうめいから離脱りだつし、たいイギリス経済けいざい封鎖ふうさである大陸たいりく封鎖ふうされい参加さんかした。また、ロシアがイギリスへ宣戦せんせんすることが確認かくにんされた(えい戦争せんそう)。スウェーデンたいしては、大陸たいりく封鎖ふうされい参加さんかさせるためにロシアが圧力あつりょくをかけることとされ、えにそののロシアによるフィンランド獲得かくとく(1809ねん)が容認ようにんされた(だいロシア・スウェーデン戦争せんそう)。地中海ちちゅうかいでは、カンポ・フォルミオのやくによってフランスりょうとなったもののロシア海軍かいぐん占領せんりょうしていたイオニア諸島しょとうがフランスへ返還へんかんされた。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]