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ローラン・グーヴィオン=サン=シール

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ローラン・グーヴィオン=サン=シール
Laurant Gouvion-Saint-Cyr
渾名あだな防御ぼうぎょせん第一人者だいいちにんしゃ
生誕せいたん 1764ねん4がつ13にち
フランス王国おうこくトゥール
死没しぼつ (1830-03-17) 1830ねん3月17にち(65さいぼつ
フランス王国おうこくイエール
所属しょぞく組織そしき フランスぐん
最終さいしゅう階級かいきゅう 帝国ていこく元帥げんすい
除隊じょたい 陸軍りくぐん大臣だいじん
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ローラン・グーヴィオン=サン=シール(Laurant Gouvion-Saint-Cyr, 1764ねん4がつ13にち - 1830ねん3月17にち)は、フランス軍人ぐんじん元帥げんすい帝国ていこく伯爵はくしゃくのち侯爵こうしゃく)。

略歴りゃくれき

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ちと仕官しかん

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ローラン・グーヴィオン(当初とうしょはグーヴィオンせいだった)は、ロレーヌ地方ちほうトゥール皮革ひかく加工かこうぎょういとな一家いっかまれた。3さいとき両親りょうしん離婚りこん、その家業かぎょうぐことをきらっていえはなれ、学校がっこう語学ごがく数学すうがく絵画かいが製図せいずなどをまなんだのち画家がかこころざしてイタリアで2ねんごした。パリで俳優はいゆうぎょうをしていたこともあったらしい(シャトーブリアン記録きろくによる)。

フランス革命かくめい1792ねん軍人ぐんじんこころざし、共和きょうわ国軍こくぐん入隊にゅうたいしたが、このときせいに「サン=シール」をくわえ、めずらしいふくあいせい名乗なのることにしている。これは当時とうじめいれていた同姓どうせいのいとこと区別くべつするためだったらしい。軍人ぐんじんとしての適性てきせいだけでなく、当時とうじとしてはめずらしいたか教育きょういくけていたことから重用じゅうようされ、2ねんらずで将官しょうかんにまで昇進しょうしんしている。このころドゼーネイダヴーらとい、親交しんこうむすんだ(とくにネイ、ダヴーとはったらしく、後々あとあとまでしたしくしていた)。

ナポレオン時代じだい

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そのしゅとしてラインおよびイタリア方面ほうめん活躍かつやくし、有能ゆうのう師団しだんちょうとしてげたが、熱烈ねつれつ共和きょうわ主義しゅぎしゃだったことからナポレオンのことはおもっておらず、ナポレオンのほうかれうとんでいたらしい。1804ねんのナポレオンの戴冠たいかんしきにも出席しゅっせきせず、閑職かんしょくまわされ昇進しょうしんおくれがちになった。

しかし1807ねんのポーランドせん久々ひさびさ起用きようされると十分じゅうぶんはたらきをせ、よく1808ねんにはカタルーニャだい7軍団ぐんだん指揮しきって活躍かつやく、そのポロツクのたたかでロシアぐん撃破げきはするなどの武勲ぶくんげ、これでナポレオンはかれ価値かちさい認識にんしきし、1808ねん帝国ていこく伯爵はくしゃく叙爵じょしゃく1812ねんには元帥げんすいにんじている。

ドイツ戦役せんえき後半こうはんドレスデンのたたかでは不手際ふてぎわせたが(このたたかいでかれ包囲ほういせん起用きようしたナポレオンは「かれ攻勢こうせい使つかったのは間違まちがいだった」と自分じぶんのミスをみとめている)、そののドレスデン防衛ぼうえいせんではまえ手腕しゅわん発揮はっきして、弾薬だんやく食料しょくりょうきるまで3かげついて開城かいじょう捕虜ほりょとなった。1814ねんにフランス王国おうこく貴族きぞくいん議員ぎいんにんじられている。

その

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1815ねんのナポレオンのエルバとう脱出だっしゅつにはしたがわず、ワーテルローのたたかのち臨時りんじ政府せいふ参加さんかして共和きょうわせい主張しゅちょうしたがれられず、王政おうせい復古ふっことなった。ネイの処刑しょけい裁判さいばんでは旧友きゅうゆうすくおうと奔走ほんそうするがたせず、しん政府せいふではひゃくにち天下でんかでナポレオンにかなかったことを評価ひょうかされて戦争せんそう大臣だいじん任命にんめいされ、ぐん改革かいかくさい編成へんせい着手ちゃくしゅするが、保守ほしゅ反動はんどうのためこれも2ねん挫折ざせつし、1821ねんまでにはすべての役職やくしょくした。1817ねんにフランス王国おうこく侯爵こうしゃくのぼり爵している。以後いご郷里きょうりかえり、回想かいそうろく戦史せんし論文ろんぶん執筆しっぴつ余生よせいおくっている。

人物じんぶつぞう

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のナポレオンの元帥げんすいたちとくらべて知名度ちめいどひくいが、軍人ぐんじんとしては非常ひじょう優秀ゆうしゅう人物じんぶつで、ダヴーやマッセナ匹敵ひってきすると評価ひょうかする論者ろんしゃもいる。とく防御ぼうぎょせんすぐれ、ナポレオンも「グーヴィオン=サン=シールは防御ぼうぎょせんかんしては第一人者だいいちにんしゃだった。攻撃こうげきかんしてはほうすぐれていたが」とひょうしている。その思想しそう終生しゅうせい熱烈ねつれつ共和きょうわ主義しゅぎしゃだった)と経歴けいれきから活躍かつやくかぎられたかんがあるが、ナポレオンのほうかれ使つかいこなせなかったとうべきだろう。

個人こじんとしては、冷静れいせい沈着ちんちゃく感情かんじょうながされることがなく清廉せいれん潔白けっぱくだが、無表情むひょうじょうかつ冷淡れいたんなにかんがえているか傍目はためには非常ひじょうにわかりにくく、周囲しゅういとく上司じょうし)としばしば衝突しょうとつして「スパルタじん」「こおりひと」「ふくろう」などという異名いみょうをとっていた。このてんはダヴーともている。それが2人ふたりしたしかった理由りゆうかもれない。

優秀ゆうしゅう軍人ぐんじんであると同時どうじ画家がか音楽家おんがくかでもあった。

様々さまざま奇行きこうでもられており、「戦闘せんとう僧院そういんきこもってバイオリンいていた」「放棄ほうきして勝手かっていえかえった」などといったエピソードがのこっている。しかし部下ぶか信頼しんらいあつかったようで、1813ねん戦役せんえきかれ起用きようされたとき、将兵しょうへいたちからよろこばれた、と記録きろくされている(このときおなじくよろこばれたのは元帥げんすいではダヴーネイオージュローだったという)。