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フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル

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フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル
François Joseph Lefebvre
ルフェーヴル元帥げんすい
生誕せいたん (1755-10-25) 1755ねん10月25にち
フランスルファック
死没しぼつ (1820-09-14) 1820ねん9月14にち(64さいぼつ
フランスパリ
所属しょぞく組織そしき フランス王国おうこく
フランス王国おうこく
フランス共和きょうわこく
フランス帝国ていこく
フランス王国おうこく
最終さいしゅう階級かいきゅう フランス元帥げんすい
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フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル(François Joseph Lefebvre, 1755ねん10月25にち - 1820ねん9月14にち[1])は、ナポレオン戦争せんそう活躍かつやくしたフランス軍人ぐんじん帝国ていこく元帥げんすい

生涯しょうがい

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オー=ランけんルーファでうまれる。父親ちちおやけい騎兵きへい連隊れんたい所属しょぞくする平民へいみん軍人ぐんじん。18さいときフランス近衛このえへい連隊れんたい入隊にゅうたいする。フランス革命かくめい勃発ぼっぱつすると共和きょうわであったので士官しかんである貴族きぞく亡命ぼうめいしてなくなった軍隊ぐんたい昇進しょうしんしていった。かれ戦場せんじょうでの数々かずかず勇敢ゆうかん活躍かつやくによって、1794ねんには、将軍しょうぐん昇進しょうしん。いくつかの軍団ぐんだん前衛ぜんえい部隊ぶたい指揮しきまかされて活躍かつやくした。

エジプト遠征えんせいから帰国きこくしたナポレオン・ボナパルト会談かいだんすると、すぐに魅了みりょうされ、ブリュメール18にちのクーデター積極せっきょくてき参加さんか。1800ねん4がつ1にち元老げんろういん議員ぎいん指名しめいされる。1804ねんにナポレオンが戴冠たいかんすると、帝国ていこく元帥げんすい任命にんめいされ、レジオンドヌール勲章くんしょうのグランテーグル(Grand-Aigle, 大鷲おおわしあきら受章じゅしょうした。1807ねん1がつ23にち、ダンツィヒ(げんグダニスク)の攻略こうりゃくめいじられる。この攻略こうりゃく作戦さくせんは、苦難くなん連続れんぞくであったが5がつ19にち、これを陥落かんらくさせることに成功せいこうした。この功績こうせきからダンツィヒ公爵こうしゃく称号しょうごうあたえられた。しかし、ナポレオンがヴェストファーレン王国おうこくおう任命にんめいしようとすると、かれつま協議きょうぎして、身分みぶん不相応ふそうおうであるからとことわった。

1808ねんスペイン遠征えんせいオーストリア遠征えんせい従軍じゅうぐんし、各地かくち転戦てんせんする。1812ねんロシア遠征えんせいはじまると、かれ古参こさん近衛このえたい指揮しきかん任命にんめいされボロジノのたたか参加さんかし、退却たいきゃくせん行軍こうぐんにおいてはその部隊ぶたい先頭せんとうった。以後いご1814ねんのフランス戦役せんえき最後さいごまで転戦てんせん。4月4にちかれはこれ以上いじょう抗戦こうせん不可能ふかのうかんがえ、皇帝こうてい退位たいいもとめた。

王政おうせい復古ふっこルイ18せい即位そくいすると、国王こくおうかれをフランスの貴族きぞくれつした。しかし、ナポレオンがエルバとうから帰還きかんして、ひゃくにち天下でんかはじまると、かれはナポレオンにたいしてわらぬ忠誠ちゅうせいしめしたが、高齢こうれいのため軍務ぐんむにはけなかった。

ナポレオンが連合れんごうぐん敗北はいぼくし、ふたたびルイ18せいがパリにもどってくると、貴族きぞく身分みぶんはいされたが、元帥げんすいはそのまま保持ほじした。1819ねん3がつ5にちゆるされ貴族きぞく身分みぶん回復かいふく。1820ねんにパリで死去しきょ。65さい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Chris Cook, John Paxton (1981) European Political Facts 1789–1848 p.18

関連かんれん作品さくひん

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ぐんしょく
先代せんだい
ジャン=アントワーヌ・マルボ
パリ軍事ぐんじ総督そうとく
1799ねん - 1800ねん
次代じだい
エドゥアール・モルティエ