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ジャン・ランヌ

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ジャン・ランヌJean Lannes, 1769ねん4がつ10日とおか4がつ11にち) - 1809ねん5月31にち[1])は、ナポレオン戦争せんそう活躍かつやくしたフランス軍人ぐんじん元帥げんすい。 「イタリア方面ほうめんぐんローランLe Roland de l'armée d'Italie )」または「大陸たいりくぐんのローランLe Roland de la Grande Armée)」、「フランスのアイアース」「大陸たいりくぐんアキレス」とばれた伝説でんせつてき勇者ゆうしゃとしてられる。モンテベッロ公爵こうしゃくシェヴィエシュ公爵こうしゃく

ジャン・ランヌ
Jean Lannes
渾名あだな大陸たいりくぐんのローラン」、「フランスのアイアース」、「大陸たいりくぐんのアキレス」
生誕せいたん 1769ねん4がつ10日とおか
フランス王国おうこく、レクトゥール
死没しぼつ 1809ねん5がつ31にち
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ていこく、エバースドルフ
所属しょぞく組織そしき フランスぐん
ぐんれき 1792ねん - 1809ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 帝国ていこく元帥げんすい
墓所はかしょ パンテオン
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生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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少年しょうねん時代じだいのランヌ(Henry Sicard 、1884ねん〜90ねんごろ

小作こさく農民のうみんけんうまやつとむいんとしてまれた。まずしい少年しょうねん時代じだいごしたが、そのころから度胸どきょう面倒めんどうさで郷里きょうりではられた存在そんざいだった。ちちすすめで染物そめものとなるべく丁稚でっち奉公ほうこうたが馴染なじめず、フランス革命かくめいはじまるとすぐにしょくして国民こくみん衛兵えいへいたい志願しがんする。当時とうじ士官しかん兵士へいし互選ごせん選出せんしゅつしていたが、ランヌは最初さいしょから歩兵ほへい少尉しょうい選出せんしゅつされた。ここからかれぐんれきはじまる。そのしばらくピレネー方面ほうめんぐん勤務きんむするが、その人間にんげんばなれした勇気ゆうき負傷ふしょうすらおそれない精神せいしんりょくですぐに有名ゆうめいになった。

とも」との出会であ[編集へんしゅう]

わずか3ねん大隊だいたいちょうにまで昇進しょうしんしたランヌだったが、1795ねん上官じょうかんとのいさかいからおとしいれられて強制きょうせいてき除隊じょたいさせられる。しかし軍隊ぐんたいこそ自分じぶんきるみちだとしんじていたかれは、すぐにいち兵卒へいそつとしてイタリア方面ほうめんぐんもぐむ。ランヌはここでもそのさいだった勇気ゆうきられるようになり、すぐに軍曹ぐんそう昇進しょうしんした。翌年よくねん、イタリア方面ほうめんぐん司令しれいかんとして着任ちゃくにんしたナポレオンは、もと少佐しょうさ軍曹ぐんそう存在そんざいると興味きょうみってい、その勇気ゆうき率直そっちょく性格せいかく評価ひょうかして少佐しょうさ復帰ふっきさせる。このイタリア戦線せんせんでランヌは数々かずかず武勲ぶくんげ、とくアルコレのたたかではつねぐん先頭せんとうち、さん日間にちかんさん重傷じゅうしょういながらたたかつづけるというはたらきをせた。その勇気ゆうき感動かんどうしたナポレオンは、アルコレでてきからうばった軍旗ぐんきにメッセージをえてランヌにおくっている。以後いごナポレオンはランヌを部下ぶかとしてより友人ゆうじんとしてぐうするようになり、その関係かんけいはナポレオンが皇帝こうていになってもわらず、ランヌがぬまでつづいた。

エジプト遠征えんせい[編集へんしゅう]

ランヌはつづエジプト遠征えんせいにも従軍じゅうぐんし、師団しだんちょうでありながら兵士へいし先頭せんとう活躍かつやくする。なん負傷ふしょうしたがくっすることおののつづけ、その名声めいせいはいよいよたかまった。ナポレオンの親友しんゆうだったドゼー将軍しょうぐんはランヌを「勇者ゆうしゃなか勇者ゆうしゃとはまさにかれことであろう」と激賞げきしょうしている。1800ねん中将ちゅうじょう昇進しょうしんすると、たんなる前線ぜんせん指揮しきかんとしてだけでなく将軍しょうぐんとしての適性てきせいせ、マレンゴのたたかでは劣勢れっせい前衛ぜんえい部隊ぶたい指揮しきしてオーストリアの大軍たいぐん半日はんにちささつづけるなどの活躍かつやくせる。私生活しせいかつでは最初さいしょつま密通みっつうしてまでもうけたため離別りべつし、ナポレオンのいもうとカロリーヌ求婚きゅうこんしようとしたがミュラさきされるなど、不運ふうんつづいた。しかし結果けっかとして、ナポレオンの仲介ちゅうかい宮廷きゅうていいち美女びじょばれるほどのうつくしく聡明そうめい夫人ふじん再婚さいこんすることとなる。ミュラが癇癖かんぺきつよいカロリーヌにまわされたことかんがえれば、これはむしろ幸運こううんなことであった。 1804ねん、ナポレオンが皇帝こうてい即位そくいすると元帥げんすい昇進しょうしんする。

ランヌ元帥げんすい(Julie Volpelière、1834ねん
ランヌ夫人ふじんピエール=ポール・プリュードン、19世紀せいき

軍隊ぐんたいのローラン[編集へんしゅう]

ナポレオンの即位そくい主要しゅよう戦役せんえきにはすべ参加さんかし、かれだい5軍団ぐんだん大陸たいりくぐんようとして活躍かつやくする。オーストリア戦役せんえきでは僚友りょうゆうネイ元帥げんすいともにミュラの指揮しきまれておおいに不満ふまんったが、戦場せんじょうではこうきそうように活躍かつやくアウステルリッツのたたかでも左翼さよく指揮しきかんとしてロシアぐんやぶ[2]つづくプロイセン戦役せんえきでも活躍かつやくしているが、このとき不仲ふなかなミュラととも行動こうどうしたため、おたがいがおたがいを非難ひなんする報告ほうこくしょやまのようにのこしている。そうじてランヌは前衛ぜんえいとしてのてきぐん阻止そし拠点きょてん攻略こうりゃくまかせられることおおかったが、しょ兵科へいか連携れんけいさせてたたかうことを得意とくいとしたかれはよくその任務にんむたしている。

スペイン、そして[編集へんしゅう]

瀕死ひんしのランヌ(Paul-Émile Boutigny、1894ねん

1808ねん、ランヌは膠着こうちゃくしつつあったスペイン戦線せんせんまかされることとなる。序盤じょばん重傷じゅうしょうったものの、まずスペインの野戦やせんぐん撃破げきはいで苦心くしんすえサラゴサ攻略こうりゃくする。この戦線せんせん悲惨ひさんさにしんいためたランヌは次第しだい戦争せんそううとむようになったという。サラゴサ攻略こうりゃくスーシェこうたくすと、翌年よくねんにはオーストリア遠征えんせい参加さんかレーゲンスブルク攻略こうりゃくせんではあまりの苦戦くせんおびえた部下ぶか叱咤しったし「わたし元帥げんすいである以前いぜんに擲弾へいである」とさけぶやみずか梯子はしごつかんで城壁じょうへきによじのぼろうとしてせ(これはさすがに部下ぶかたち制止せいしされた)、ふるった将兵しょうへいたちともにこの堅塁けんるい陥落かんらくさせた。その5がつ22にちアスペルン・エスリンクのたたか優勢ゆうせいなオーストリアぐん交戦こうせんてきだんものともせず陣頭じんとう指揮しきっている最中さいちゅうあし砲弾ほうだんけてたおれる。右足みぎあし切断せつだん緊急きんきゅう手術しゅじゅつけたのちただちに後送こうそうされ、一時いちじ小康しょうこう状態じょうたいになったものの傷口きずぐち化膿かのうして容態ようだい悪化あっか、31にち死亡しぼうした。ナポレオンはたおれたランヌにりすがってなみだながしてなげかなしんだという。ランヌは戦死せんしした最初さいしょ帝国ていこく元帥げんすいとなった。

人物じんぶつぞう[編集へんしゅう]

モンテベッロこう ランヌ(1804〜09ねんごろジャン=シャルル・ニケーズ・ペラン

ナポレオンの元帥げんすいたちなかもっと皇帝こうてい信頼しんらいされ、個人こじんてき友情ゆうじょうていた。皇帝こうてい即位そくいもランヌはナポレオンを「きみ」とび、ナポレオンもそれをよろこんでみとめていた。ナポレオンはのちにこう回想かいそうしている。「ランヌというおとこは、最初さいしょ精神せいしんよりもまず勇気ゆうきっていた。 しかし精神せいしんのほうも日々ひびたかまっていき、ついにはバランスがれるようになった。わたしはちっぽけな人物じんぶつだったかれ登用とうようしたが、うしなったときには偉大いだい人物じんぶつとなっていた」。また、ランヌが致命傷ちめいしょうったさい皇帝こうていはランヌの自分じぶん軍服ぐんぷくしゅめつつその身体しんたいきしめ、「きてくれ、たのむからきてくれ」となんかえしたという。ナポレオンからこれほどの友誼ゆうぎていた人物じんぶつは、おそらくにいなかったであろう。

指揮しきかんとしては人間にんげんばなれした勇気ゆうき負傷ふしょうをものともしない不屈ふくつ闘志とうし身上しんじょうだったが、たんなるもうしょうではなく、ナポレオンが述懐じゅっかいしたように経験けいけんむごとに戦術せんじゅつ熟達じゅくたつしていった。前衛ぜんえいひきいての攻勢こうせい得意とくいとするだけでなく、多数たすうてきけてのねばづよ防御ぼうぎょたくみにこなし、とく歩兵ほへい騎兵きへい砲兵ほうへい連携れんけいさせた指揮しきりは追随ついずいゆるさないものがあった。ナポレオンの指示しじ独自どくじ解釈かいしゃくして行動こうどうすることができる数少かずすくない元帥げんすい一人ひとりでもあった。

きわだった美男びなんではなかったがなりには使つかっており、「指揮しきかんは、兵士へいしには結婚式けっこんしきよる花婿はなむこのようにうつらねばならない」[3]をモットーとして戦場せんじょうでも華麗かれい軍装ぐんそうまとって将兵しょうへい鼓舞こぶした。短気たんき激情げきじょうではあったが、つね先陣せんじんって戦場せんじょうけるかれ姿すがた一種いっしゅ信仰しんこうてき支持しじあつめており、将兵しょうへいには絶大ぜつだい人気にんきがあった。非常ひじょうほこたか名誉めいよおもんじるひととなりだったことから、同僚どうりょうなかではとくにミュラとその親友しんゆうベシェールなかわるく、スールトベルナドットとも険悪けんあくだった。したしい友人ゆうじんはナポレオンのほかにはドゼーネイスーシェなどだったという。

かれんだとき、ナポレオンはつぎのようになげいたという。「フランスにとっても、わたしにとっても、これほどの損失そんしつがあるだろうか!」

パンテオンにあるランヌの墓碑ぼひ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Jean Lannes, duc de Montebello | Napoleonic Wars, Battle of Austerlitz, Marshal of France”. Britannica. 2023ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん
  2. ^ このたたかいのまえ優勢ゆうせいてきおびえたミュラとスールトたのまれて皇帝こうてい退却たいきゃく進言しんげんしている。必勝ひっしょう確信かくしんしていたナポレオンは「きみ退却たいきゃく進言しんげんするのははじめてではないか?」とからかい、それに追従ついしょうしたスールトが事前じぜんはなしとはぎゃくに「退却たいきゃく論外ろんがいだ」としたためランヌは激怒げきど、スールトと決闘けっとう寸前すんぜんにまでなっている。以後いご、ランヌはスールトをふかにくむようになった。
  3. ^ 一説いっせつには、これは「そのようにいてえていなければならない」という意味いみであり、なりというより態度たいどについての言葉ことばだったともう。