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トゥーロン攻囲 こうい 戦 せん (トゥーロンこういせん、英 えい :Siege of Toulon)は、フランス革命 かくめい 初期 しょき (1793年 ねん 9月 がつ 18日 にち - 12月18日 にち )に南 みなみ フランス の港湾 こうわん 都市 とし トゥーロン で発生 はっせい した王 おう 党派 とうは の反乱 はんらん に対 たい して、共和 きょうわ 派 は が勝利 しょうり をおさめた戦 たたか い。ナポレオン・ボナパルト が初 はじ めて名 な を上 あ げた戦 たたか いとして知 し られる。
トゥーロンは、フランス王 おう 党派 とうは を支援 しえん するグレートブリテン王国 おうこく (イギリス)、スペイン らの軍隊 ぐんたい によって占領 せんりょう されていた。ナポレオン・ボナパルトは砲兵 ほうへい 将校 しょうこう として、市 し の港 みなと を制圧 せいあつ するための理想 りそう 的 てき な砲兵 ほうへい 陣地 じんち の場所 ばしょ を見 み つけることによって名 な を上 あ げた。イギリス側 がわ もまた脅威 きょうい と見 み ていたその地点 ちてん を彼 かれ が激 はげ しい突撃 とつげき により攻略 こうりゃく すると、サミュエル・フッド の指揮 しき するイギリス艦隊 かんたい は港 みなと からの脱出 だっしゅつ を余儀 よぎ なくされ、反乱 はんらん は鎮圧 ちんあつ された。その功績 こうせき によって24歳 さい のナポレオンは一気 いっき に砲兵 ほうへい 隊 たい 司令 しれい 官 かん (准 じゅん 将 しょう )となり、国際 こくさい 的 てき な注目 ちゅうもく を浴 あ びることとなった。
1793年 ねん 5月31日 にち のジロンド派 は 議員 ぎいん の逮捕 たいほ の後 のち 、フランスのリヨン 、アヴィニョン 、ニーム 、マルセイユ 各市 かくし が相次 あいつ いで反乱 はんらん を起 お こした。トゥーロンでは、穏健 おんけん 派 は によるジャコバン派 は の追 お い出 だ しが行 おこな われたが、すぐにより多数 たすう の王 おう 党派 とうは によってとって代 か わられた。革命 かくめい 派 は によるリヨン、マルセイユの奪還 だっかん と、その後 ご に彼 かれ らによって行 おこな われた凄惨 せいさん な報復 ほうふく のことが伝 つた えられると、ダンベール男爵 だんしゃく に率 ひき いられた王 おう 党派 とうは 軍 ぐん は、イギリス・スペイン連合 れんごう 艦隊 かんたい に援助 えんじょ を求 もと めた。8月28日 にち 、イギリスのフッド提督 ていとく とスペインのランガラ提督 ていとく は、フランス政府 せいふ 軍 ぐん に対抗 たいこう するためイギリス、スペイン、ナポリ 、およびピエモンテ の各 かく 軍 ぐん からなる13,000人 にん の軍隊 ぐんたい を送 おく り込 こ んだ。10月1日 にち 、ダンベール男爵 だんしゃく はルイ17世 せい のフランス王位 おうい 継承 けいしょう を宣言 せんげん して王 おう 党派 とうは の旗 はた 「フルール・ド・リス 」を掲 かか げ、トゥーロンの町 まち をイギリス海軍 かいぐん に委 ゆだ ねた。
国民 こくみん 公会 こうかい 軍 ぐん は、ジャン・フランソワ・カルトー 将軍 しょうぐん の指揮 しき のもと、アビニョンとマルセイユを奪還 だっかん し、9月8日 にち 、オリウール村 むら を経 へ て西側 にしがわ からトゥーロンに到着 とうちゃく した。そして、東側 ひがしがわ から来 き たラポワプ将軍 しょうぐん の指揮 しき する6,000人 にん のアルピーヌ海兵 かいへい 隊 たい ("the Alpine Maritime Army ")と合流 ごうりゅう した。ラポワプはラ・ヴァレット村 むら に陣 じん を敷 し き、市 し の東 ひがし を制 せい するファロン山 さん の砦 とりで を奪取 だっしゅ しようとしていた。彼 かれ らにはさらにド・サン・ジュリアン 提督 ていとく の指揮 しき する3,000人 にん の水兵 すいへい が加 くわ わった。彼 かれ らは、イギリスに降 ふ った王 おう 党派 とうは の司令 しれい 官 かん トロゴフ提督 ていとく と行動 こうどう をともにすることを拒否 きょひ したのである。
カルトー軍 ぐん の砲兵 ほうへい 隊長 たいちょう ドンマルタンはオリウール村 むら で負傷 ふしょう し、国民 こくみん 公会 こうかい の2人 ふたり の代表 だいひょう 者 しゃ 、オーギュスタン・ロベスピエール とアントワーヌ・クリストフ・サリセティ によって若 わか いナポレオン・ボナパルト大尉 たいい がその後 ご 任 にん となった。この2人 ふたり は反目 はんもく し合 あ っていたが、ボナパルトはこの軍 ぐん にアヴィニョンから従軍 じゅうぐん していたため任命 にんめい されることとなった。
偵察 ていさつ の結果 けっか により、ナポレオン・ボナパルトは、ル・ケール(= カイロ)の丘 おか を占領 せんりょう することにより、岬 みさき にあるレギエットとバラギエの要塞 ようさい の攻略 こうりゃく を計画 けいかく した。それらはトゥーロンの内 うち 港 こう と外港 がいこう を遮断 しゃだん する位置 いち にあり、包囲 ほうい 下 か の都市 とし にとって不可欠 ふかけつ な海 うみ からの補給 ほきゅう を止 と めることができた。しかしカルトーは乗 の り気 き でなく、ドラボルド少将 しょうしょう 以下 いか のわずかな支援 しえん しか送 おく らなかったため、9月22日 にち に行 おこな われた攻撃 こうげき は失敗 しっぱい した。イギリス・スペイン連合 れんごう 軍 ぐん は、それによってル・ケールの丘 おか の重要 じゅうよう 性 せい に気 き づき、頂上 ちょうじょう に新 あら たに砦 とりで を築 きず いて、防衛 ぼうえい 司令 しれい 官 かん の名前 なまえ をとってマルグレーヴ砦 とりで と名付 なづ けた。それは3つの小 ちい さな拠点 きょてん で支 ささ えられた堅固 けんご なものであり、イギリス人 じん から「小 しょう ジブラルタル 」と呼 よ ばれた。
ナポレオンは、19日 にち からサン・ローランの高台 たかだい に置 お かれ、単 たん に「山 やま 」と呼 よ ばれた孤立 こりつ した砲台 ほうだい では不十分 ふじゅうぶん だと考 かんが えた。21日 にち 、彼 かれ は内 うち 港西 みなとにし 部 ぶ のブレガリヨン(Brégallion )の海沿 うみぞ いに「サン・キュロット」と名 な づけたもう一 ひと つの砲台 ほうだい を構築 こうちく した。フッド提督 ていとく はそれを沈黙 ちんもく させようとしたが失敗 しっぱい し、なおかつ東岸 とうがん のムリヨン(Mourillon )とラ・トゥール・ロワイヤル(la Tour Royale )側 がわ の水深 すいしん が浅 あさ かったため、イギリス艦隊 かんたい は別 べつ の海岸 かいがん に沿 そ って集結 しゅうけつ せざるを得 え なかった。10月1日 にち 、ラポワプ将軍 しょうぐん によるファロン山 さん の「東 ひがし の砦 とりで 」攻撃 こうげき が失敗 しっぱい した後 のち 、ナポレオンは、市 し の攻略 こうりゃく のために落 お とさなければならないマルブスケの大 おお きな砦 とりで の砲撃 ほうげき を要請 ようせい された。彼 かれ は周辺 しゅうへん 地域 ちいき から砲兵 ほうへい を集合 しゅうごう させ、各々 おのおの 6門 もん の大砲 たいほう を持 も つ50個 こ 隊 たい を揃 そろ えた。10月19日 にち 、ナポレオンは大隊 だいたい 指揮 しき 官 かん に昇進 しょうしん し、アレーネの丘 おか に、砦 とりで に向 む けた大 だい 砲台 ほうだい 「国民 こくみん 公会 こうかい の砲台 ほうだい 」を構築 こうちく した。それは、デュモンソー(Dumonceau )の丘 おか の「共和 きょうわ 派 は のキャンプ」、ゴー(Gaux )の丘 おか の「ファリニエール(Farinière )」、ラグブラン(Lagoubran )の「火薬 かやく 庫 こ 」などによって支 ささ えられていた。
11月11日 にち にカルトーが更迭 こうてつ され、新 あら たに、以前 いぜん は医者 いしゃ だったドッペが指揮 しき 官 かん となった。しかし彼 かれ は決断 けつだん 力 りょく に乏 とぼ しく、16日 にち にマルグレーヴ砦 とりで への攻撃 こうげき に失敗 しっぱい するという事態 じたい を招 まね いてしまった。ドッペは自 みずか らの無能 むのう に気 き づいて辞任 じにん した。彼 かれ の後任 こうにん のデュゴミエ はたたき上 あ げの職業 しょくぎょう 軍人 ぐんじん であり、すぐにナポレオンの作戦 さくせん の長所 ちょうしょ を認 みと め、小 しょう ジブラルタルの奪取 だっしゅ に取 と り掛 か かった。20日 はつか 、彼 かれ は到着 とうちゃく するとすぐに隆起 りゅうき の上 うえ に「ジャコバン党員 とういん 」砲台 ほうだい を構築 こうちく し、11月28日 にち にはその左 ひだり に「恐 おそ れを知 し らぬ男 おとこ 」砲台 ほうだい 、12月14日 にち にはそれらの間 あいだ に「シャース・コカン(Chasse Coquins )」砲台 ほうだい を作 つく った。最終 さいしゅう 的 てき にはさらに2つの砲台 ほうだい が、連合 れんごう 軍 ぐん の軍艦 ぐんかん を撃退 げきたい するために作 つく られた。それらは「大 おお いなる港 みなと 」および「4つの風車 かざぐるま 」と呼 よ ばれた。
砲撃 ほうげき の圧 あつ 力 りょく によってイギリス・ナポリ連合 れんごう 軍 ぐん が進出 しんしゅつ し、「国民 こくみん 公会 こうかい 」砲台 ほうだい を奪取 だっしゅ した。デュゴミエとナポレオンは反撃 はんげき の先頭 せんとう に立 た ち、彼 かれ らを押 お し戻 もど した。そのとき、イギリスの指揮 しき 官 かん オハラ将軍 しょうぐん が負傷 ふしょう してフランス側 がわ に捕 と らえられた。彼 かれ はオーギュスタン・ロベスピエールおよびアントワーヌ・ルイ・アルビット(Antoine Louis Albitte )と、連邦 れんぽう 主義 しゅぎ 者 しゃ と王 おう 党派 とうは の軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ および降服 こうふく の交渉 こうしょう を始 はじ めた。
オハラを捕虜 ほりょ にすると、デュゴミエ、ラポワプとナポレオン(大佐 たいさ となっていた)は、12月16日 にち の夜 よる のうちに一斉 いっせい 攻撃 こうげき を敢行 かんこう した。攻撃 こうげき は真夜中 まよなか ごろ、小 しょう ジブラルタルに対 たい して開始 かいし され、一 いち 晩 ばん 中 ちゅう 続 つづ いた。ナポレオンは、イギリス軍 ぐん の軍曹 ぐんそう の銃剣 じゅうけん で腿 もも に負傷 ふしょう した。しかし朝 あさ には拠点 きょてん を奪取 だっしゅ し、ナポレオンの副官 ふっかん オーギュスト・マルモン はレギエット要塞 ようさい とバラギエ要塞 ようさい に向 む けて大砲 たいほう を据 す えた。イギリス軍 ぐん はその日 ひ のうちに、それ以上 いじょう 戦 たたか うことなく避難 ひなん した。この間 あいだ に、ラポワプもファロンとマルブスケの砦 とりで を奪取 だっしゅ していた。連合 れんごう 軍 ぐん は海 うみ からの脱出 だっしゅつ を決定 けってい した。殿軍 でんぐん を務 つと めたイギリスのシドニー・スミス 代将 だいしょう は焼討 やきうち 船隊 せんたい を港 みなと に突入 とつにゅう させ、施設 しせつ や船 ふね を焼 や き払 はら った。
国民 こくみん 公会 こうかい 軍 ぐん は12月19日 にち に市内 しない に入 はい った。ポール・バラス とスタニスラ・フレロン による血 ち なまぐさい報復 ほうふく が行 おこな われた。800人 にん から2,000人 にん におよぶ囚人 しゅうじん がシャン・ド・マルスにおいて銃殺 じゅうさつ され、または銃剣 じゅうけん で刺殺 しさつ されたと考 かんが えられている。ナポレオンはジャン・フランソワ・エルナンデスによって怪我 けが の治療 ちりょう を受 う けていたため、この大 だい 虐殺 ぎゃくさつ には立 た ち会 あ わなかった。彼 かれ は12月22日 にち に准 なぞらえ 将 しょう に昇進 しょうしん した。
1796年 ねん 、ナポレオンはイタリア遠征 えんせい の進軍 しんぐん をトゥーロン市 し から開始 かいし した。古 ふる い城壁 じょうへき の一部 いちぶ を成 な す、彼 かれ が出発 しゅっぱつ した門 もん には記念 きねん の飾 かざ り額 がく が置 お かれてある。この門 もん は「イタリア門 もん (Porte d'Italie )」と呼 よ ばれている。
トゥーロンの衛星 えいせい 写真 しゃしん
トゥーロンの港 みなと は地中海 ちちゅうかい に張 は り出 だ した半島 はんとう サン・マンドリエ・シュル・メールによって外海 そとめ から隔 へだ てられているが、さらにその奥 おく にある二 ふた つの半島 はんとう によって内 うち 港 こう がかたちづくられている。内 うち 港 こう の北東 ほくとう 側 がわ がトゥーロン市街 しがい で、その奥 おく に市 し を見下 みお ろすファロン山 やま がそびえている。
内 うち 港 こう を扼 やく する形 かたち で東 ひがし から延 の びるのがGians半島 はんとう で、ムリヨン地区 ちく と、先端 せんたん には16世紀 せいき 以来 いらい のラ・トゥール・ロワイヤル要塞 ようさい がある。西 にし から延 の びる半島 はんとう がラ・セーヌ・シュル・メールで、2つあるその先端 せんたん にあるのがレギエットとバラギエの要塞 ようさい である。両 りょう 要塞 ようさい の後背 こうはい 地 ち にある高台 たかだい がカイロ(ル・ケール)の丘 おか で、ここに築 きず かれたマルグレーヴ(フランス語 ふらんすご でミュルグラーヴ)砦 とりで の争奪 そうだつ 戦 せん がトゥーロン攻囲 こうい 戦 せん の主要 しゅよう な戦闘 せんとう であった。ちなみにレギエットとバラギエの両 りょう 砦 とりで を結 むす ぶ道路 どうろ は今日 きょう 「ボナパルト通 どお り」と名 な づけられている。