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リヨンの反乱はんらん

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リヨン包囲ほういせん

共和きょうわ国軍こくぐんによるリヨン包囲ほうい
戦争せんそうフランス革命かくめい戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1793ねん8がつ8にち - 10月9にち
場所ばしょフランスリヨン
結果けっか:フランス革命かくめいぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
フランス共和きょうわこく おう党派とうははん革命かくめい
指導しどうしゃ指揮しきかん
デュボワ=グランセ ペリシー将軍しょうぐん
戦力せんりょく
3まん5000にん やく2まんにん
損害そんがい
?(反乱はんらん鎮圧ちんあつ、2000にん以上いじょう処刑しょけい
フランス革命かくめい戦争せんそう

リヨンの反乱はんらん(リヨンのはんらん, ふつ: Siège de Lyon)は、フランス革命かくめい1793ねんパリ革命かくめい政府せいふたいしておう党派とうは穏健おんけん共和きょうわこしたリヨンでのはん革命かくめい反乱はんらんである。ジロンド関係かんけいする連邦れんぽう主義しゅぎ反乱はんらんひとつとされる。

革命かくめい政府せいふはこれを徹底的てっていてき弾圧だんあつし、リヨンのだい虐殺ぎゃくさつこした。反乱はんらん鎮圧ちんあつ、リヨンの都市としめい改名かいめいされ、ヴィル・アフランシ(Ville-affranchie)のばれた。

背景はいけい

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当時とうじリヨンは、フランスでも工業こうぎょう都市としとしてさかえており、あらたにがったブルジョワジー労働ろうどうしゃサン・キュロット)たちとの対立たいりつは、パリよりも深刻しんこくなものであった。そんななか、パリからがついたフランス革命かくめい勃発ぼっぱつにより、急進きゅうしんてき革命かくめい継続けいぞくもとめるサン・キュロットたちと、はん革命かくめい、あるいは穏健おんけん改革かいかくのぞものたちとの対立たいりつはより深刻しんこくなものとなってしまう。サン・キュロットたちは、狂信きょうしんてきジャコバン主義しゅぎしゃジョゼフ・シャリエ (Joseph Chalier煽動せんどうしたにシャリエばれるグループを形成けいせいしていた。

シャリエはもと僧侶そうりょであったが革命かくめい歓迎かんげいし、バスティーユ牢獄ろうごく石垣いしがきかかえ、6にち6ばん徒歩とほでパリからリヨンへとかえり、これを聖体せいたいとしてあがめるほど狂信きょうしんてき革命かくめいだった。また、マラーかみごと崇拝すうはいするなど、その政治せいじてき急進きゅうしんせいとカリスマせいはん革命かくめいにとって脅威きょういであった。

はん革命かくめい反乱はんらん

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シャリエの処刑しょけい

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しかしシャリエは、革命かくめい政府せいふ反対はんたいするまちおう党派とうはたちによって投獄とうごくされてしまう。さらに、おう党派とうは手紙てがみ偽造ぎぞうしてシャリエのつみをでっちげ、のシャリエやパリへのせしめとして、かれ死刑しけい宣告せんこくしたのである。国民こくみん公会こうかいはあわててシャリエをすくおうとしたが、すでおそかった。さらにリヨンにたいしてなん警告けいこく勧告かんこくおこなったが、リヨンはますますパリの急進きゅうしん主義しゅぎしゃたちへの対決たいけつしょく色濃いろこくした。

国民こくみん公会こうかいおどしとしてギロチンおくりつけると、リヨンではぎゃくにそのギロチンを使つかってシャリエを処刑しょけいすることを決定けっていし、7がつ17にち執行しっこうされた。しかし、ギロチンのあつかかたになれないリヨンの処刑しょけいじんリペールは、ギロチンのを3としてもシャリエのくび切断せつだんすることができず、最後さいごおの(ナイフとする文献ぶんけん[1]もある)を使つかってようやくくびとした。この光景こうけいには、シャリエのみならず、はん革命かくめい民衆みんしゅうもショックをうけた。

リヨンへの包囲ほうい砲撃ほうげき

反乱はんらん鎮圧ちんあつ

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反乱はんらん鎮圧ちんあつし、まち主導しゅどうけんをシャリエのもとへとかえすべく、やく3まん共和きょうわ国軍こくぐんがリヨンへと派遣はけんされ、8がつ8にちから同市どうし包囲ほういした。リヨンはまち周囲しゅうい城壁じょうへきまもられた城塞じょうさい都市としであったが、共和きょうわ国軍こくぐん大砲たいほうもちいて直接ちょくせつ市内しない砲弾ほうだんみ、都市とし破壊はかいした。

やがて市内しないでシャリエリンチにあっているという情報じょうほうながれると、これを救出きゅうしゅつすべく共和きょうわ国軍こくぐんはリヨンにたいして徹底的てっていてき砲撃ほうげきくわえ、まち沈黙ちんもくさせた。このときフランスでは徴兵ちょうへい制度せいどはじまっており、共和きょうわ国軍こくぐん容易ようい人員じんいん補充ほじゅうできたことも、包囲ほういされたリヨンにとっては不利ふりはたらいた。やがて、10月9にち、リヨンは革命かくめい政府せいふたいして停戦ていせん開城かいじょうもうる。

なお、この包囲ほういせんには、のち大陸たいりくぐん元帥げんすいとなる、ルイ=ガブリエル・スーシェ参加さんかしていた。かれはこのリヨン出身しゅっしんであり、かれにとってこの作戦さくせんみずからの故郷こきょうたいする攻撃こうげきであった。かれは、砲撃ほうげきまえなんもリヨンとの交渉こうしょう持続じぞくもとめたという。

また、リヨン包囲ほういせん参加さんかした共和きょうわ国軍こくぐんは、そのおなじくおう党派とうは反乱はんらんこっていた港湾こうわん都市としトゥーロンへの援軍えんぐんとして派遣はけんされ、同港どうこう奪還だっかん作戦さくせん参加さんかした。

リヨンのだい虐殺ぎゃくさつ

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国民こくみん公会こうかい対応たいおう

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鎮圧ちんあつされたリヨンたいし、国民こくみん公会こうかい徹底的てっていてき報復ほうふくすることを決定けってい10月12にち公会こうかい議長ぎちょうルイ=ジョゼフ・シャルリエは以下いかのような宣言せんげん[2]はっした。

  1. 国民こくみん公会こうかいは、公安こうあん委員いいんかい建議けんぎにより、猶予ゆうよすることなくリヨンの反動はんどう革命かくめい武力ぶりょく懲罰ちょうばつする目的もくてきを以って、5めい議員ぎいんより非常ひじょう委員いいんかい指名しめいする。
  2. リヨンのぜん住民じゅうみん武装ぶそう解除かいじょし、その武器ぶき共和きょうわ国防こくぼう御者ぎょしゃわたされるべし。
  3. 武装ぶそう一部いちぶは、富者ふしゃおよ反動はんどう革命かくめい圧迫あっぱくこうむっている愛国あいこくしゃ交付こうふするものとする。
  4. リヨン破壊はかいされるものとする。有産ゆうさん階級かいきゅう住居じゅうきょすべ破壊はかいされるべし。貧民ひんみんいえ殺戮さつりくもしくは追放ついほうさせられた愛国あいこくしゃじゅう工業こうぎょう建築けんちくぶつならびに慈善じぜん教育きょういく目的もくてき使用しようされるもののみは、残存ざんそんつかえなし。
  5. リヨンという名称めいしょうは、共和きょうわこく都市としひょうから抹消まっしょうされる。のこった都市としは、今後こんごヴィル・アフランシのばれるものとする。
  6. リヨンの廃墟はいきょには記念きねんて、おうとう都市としつみばち天下てんか後世こうせいらせる目的もくてきを以って「リヨンは自由じゆうたたかいをまじえたり―リヨンはもはやあらず」という碑銘ひめいきざむものとする。
クートン

議会ぎかいではこれに反対はんたいするものもなく、ジャコバン指導しどうしゃマクシミリアン・ロベスピエール側近そっきんジョルジュ・クートン国民こくみん公会こうかい代表だいひょうとしてリヨンへと派遣はけんされた。リヨンではこの宣言せんげんいた市民しみんたち革命かくめい政府せいふ報復ほうふくをおそれ、戦慄せんりつした。

クートンの処置しょち

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反乱はんらん終結しゅうけつ、クートンはリヨンにたいする報復ほうふくとして建物たてもの屋根やねからかわらをはがしたり、かべづちたたいてかたちばかりのきずをつけたり、反乱はんらん指導しどうしゃすうめい処刑しょけいするだけなど、比較的ひかくてき寛容かんよう処置しょちしかおこなわなかった。かれは、フランスだい2の都市としであるリヨンを徹底的てっていてき破壊はかいすることは、現実離げんじつばなれしているとかんがえたからである。おそろしい宣言せんげんのちで、おもいもかけぬ穏便おんびん処置しょちまち人々ひとびと安堵あんどしたが、これを不服ふふくとした議員ぎいんたちはクートンの罷免ひめんもとめた。

フーシェ、コロー・デルボワの派遣はけん

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コロー・デルボワの命令めいれいによる住民じゅうみん大量たいりょう銃殺じゅうさつけい

やがてクートンにわってジョゼフ・フーシェコロー・デルボワらの派遣はけん決定けっていされた。コロー・デルボワは11月7にち、フーシェは11月10にちにそれぞれリヨンに到着とうちゃくしている。コロー・デルボワについては、かれがリヨンで俳優はいゆうをしていたさい舞台ぶたい野次やじたおされたことがあったため、リヨン市民しみんたいする処罰しょばつにはもってこいとされたというせつがある。

かれらはクートンの処置しょちなまぬるいものとして、リヨンへの徹底的てっていてき報復ほうふく開始かいしする。まず、処刑しょけいされたシャリエの遺体いたいかつし、かれたたえるパフォーマンスをおこなった。翌日よくじつには革命かくめい裁判所さいばんしょ設置せっちされ、12月4にちから本格ほんかくてき処刑しょけい開始かいしされた。ギロチンによる処刑しょけいでは「あまりにまだるっこい」として、大砲たいほうによる処刑しょけいや、自分じぶん墓穴ぼけつらせたうえでの銃殺じゅうさつなどがおこなわれた。フーシェにいたっては、都市とし人口じんこうの10%を処刑しょけいする、というノルマをおのれしていたともわれる。

「リヨンの霰弾らんころせしゃ
ジョゼフ・フーシェ

これにより、リヨンの反乱はんらんかかわった人々ひとびと処刑しょけいされ、プロトー平原へいげんには死体したいあふれかえった。さらに、国民こくみん公会こうかい宣言せんげんにのっとり、リヨンのまち徹底的てっていてき破壊はかいされる。それでも処刑しょけいつづいたため死体したいローヌがわソーヌがわしずめられたが、一部いちぶはいかだにせられて下流かりゅうへとながされた。これは、おなじくおう党派とうは反乱はんらんこったトゥーロンまで死体したいながけば、叛徒はんとへのおどしとなるというフーシェの指図さしずによるものだった。トゥーロン奪還だっかんほうとどくと、そのいわいとしてさらに200めいもの叛徒はんと処刑しょけいおこなった。

3ヶ月かげつにわたる虐殺ぎゃくさつで、2000にんちかくの人々ひとびと処刑しょけいされたといわれる。なお、フーシェはこのいちけんのちで「リヨンの霰弾らんころせしゃ」とばれるようになっている。

その

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リヨンのまち徹底的てっていてき破壊はかいされ、反乱はんらん関係かんけいしゃ処刑しょけいされたことで、リヨンでのはん革命かくめい分子ぶんしはほとんど消滅しょうめつした。国民こくみん公会こうかい宣言せんげんどおり、リヨンの改名かいめいされ、以降いこう同市どうしはヴィル・アフランシ("Ville-affranchie"、解放かいほう。またはコミューン・アフランシ)としょうされるようになった。

また、このだい虐殺ぎゃくさつ指導しどうした派遣はけん議員ぎいんのフーシェ、コロー・デルボワは、パリから出頭しゅっとうめいじられた。虐殺ぎゃくさつ過激かげきすぎるものとして、ロベスピエールのいかりをったためである。派遣はけん議員ぎいんなかには、トゥーロンへ派遣はけんされたバラスフレロンボルドー派遣はけんされたタリアンなど、かれらと同様どうよう過酷かこく報復ほうふくとがめられるものおおかった。これを理由りゆう処刑しょけいされることをおそれた派遣はけん議員ぎいんたちは、フーシェの首謀しゅぼうするはんロベスピエールの陰謀いんぼう加担かたんした。やがてこのうごきがテルミドールのクーデターへとつながるのである。

クーデターの1794ねん10がつ7にち都市としめいはリヨンにもどされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 死刑しけい執行しっこうじんサンソン』(安達あだち正勝まさかつ集英社しゅうえいしゃ新書しんしょ
  2. ^ 『ジョゼフ・フーシェ -ある政治せいじてき人間にんげん肖像しょうぞう-』p46(シュテファン・ツヴァイク岩波書店いわなみしょてん)から

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 『リヨンのフランス革命かくめい 自由じゆう平等びょうどうか』(小井こい高志たかし立教大学りっきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2006ねん

関連かんれん項目こうもく

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