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ラインがわ

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ラインがわ
スイスの都市としバーゼルちかくにあるラインがわ
延長えんちょう 1,233 km
平均へいきん流量りゅうりょう 2,300 m³/s
流域りゅういき面積めんせき 185,000 km²
水源すいげん スイスヒンターライン
水源すいげん標高ひょうこう 1,602 m
河口かこう合流ごうりゅうさき 北海ほっかい
流域りゅういき スイスの旗 スイス
リヒテンシュタインの旗 リヒテンシュタイン
 オーストリア
ドイツの旗 ドイツ
フランスの旗 フランス
オランダの旗 オランダ
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ラインがわ流域りゅういき地図ちず

ラインがわ(ラインがわ、どく: Rheinえい: Rhineアレマン: Rhyバイエルン・オーストリア: Rheinらん: Rijnふつ: Rhin: Rhenus)は、ヨーロッパながれるかわである。今日きょうのドイツ表記ひょうき Rheinは、古高ふるたかドイツ中高なかだかドイツの Rîn、さらにそれ以前いぜん言語げんごの*Reinosにさかのぼり、「河川かせん」を意味いみしたとおもわれる[1]スイスアルプストーマはしはっし、ボーデンはいドイツフランス国境こっきょうきたかい、ストラスブールえて、デュースブルクなどを通過つうかオランダ国内こくないへとはいったあと2分岐ぶんきし、ワールがわレクがわとなりロッテルダム付近ふきん北海ほっかいそそいでいる。

全長ぜんちょう1,233キロメートル。そのうちドイツをながれるのは698キロメートルである。ドイツにとってはとく重要じゅうようかわであり、ライン流域りゅういき主軸しゅじくのひとつとしてドイツ展開てんかいしていった。また、ドイツ名詞めいしには男性だんせい名詞めいし女性じょせい名詞めいし中性ちゅうせい名詞めいしがあるが、河川かせんのほとんどはドナウがわエルベがわモーゼルかわなど女性じょせい名詞めいしであるのにたいし、ラインがわマインかわネッカーがわなどごく少数しょうすうかわだけは男性だんせいがたであらわされる。そのこともあって、ドイツじんはこのかわを「ちちなるかわ」とんでいる。ドナウがわとともに、外国がいこくふね自由じゆう航行こうこうする国際こくさい河川かせんひとつ。

下流かりゅう地域ちいき川幅かわはばひろながれがおだやかなため、水運すいうんさかんである。バーゼルから河口かこうまでのラインがわ流域りゅういきけんブルーバナナ(「太平洋たいへいようベルト」の西欧せいおうばん)の一部いちぶす。また、産業さんぎょう革命かくめい中心ちゅうしんのひとつとなったルール工業こうぎょう地帯ちたいもラインがわルールがわはさまれるかたち位置いちしており、その充実じゅうじつした内陸ないりく水路すいろ豊富ほうふ地下ちか資源しげんによって発達はったつした。

地理ちり[編集へんしゅう]

ラインがわは、みなもと流域りゅういき、アルペンライン、ボーデンこうライン、うえライン、ちゅうライン、しもラインといったいくつかの地域ちいきけられる。

みなもと流域りゅういきだかライン[編集へんしゅう]

トーマ

トーマみずうみからながるライン源流げんりゅうはフォルデルライン(前方ぜんぽうライン)とばれ、70キロメートル下流かりゅうのライヘナウで、みなみのラインヴァルトホルンやまからながれてくるもうひとつの源流げんりゅう、ヒンターライン(後方こうほうライン)と合流ごうりゅうする。ここまでがラインがわみなもと流域りゅういきといえる。トーマみずうみからライヘナウまでの70キロメートルで標高ひょうこうは1,700メートルあり、ここまでのながれは非常ひじょうはげしい。ここまでは全域ぜんいきがスイスのグラウビュンデンしゅうぞくする。

ライヘナウで合流ごうりゅうしてからはラインはほぼきたながれ、グラウビュンデンしゅう州都しゅうとクールあたりできたへときをえる。クールからはザンクト・ガレンしゅうとグラウビュンデンしゅうしゅうさかいをなしながらバート・ラガッツとおり、やがて東岸とうがんリヒテンシュタイン公国こうこくとなる。リヒテンシュタインの首都しゅとファドゥーツけ、オーストリアりょうフォアアールベルクしゅうスイスりょうザンクト・ガレンしゅう国境こっきょう一部いちぶなしたのちボーデンへとながむ。ここまでのラインをアルペンラインとしょうする。

ボーデンは、ひろうえちいさなしたみずうみふたつにかれている。うえひがしをオーストリアのフォアアールベルクしゅうきたをドイツのバイエルンしゅうバーデン・ヴュルテンベルクしゅうみなみをスイスのザンクト・ガレンしゅうトゥールガウしゅうかこまれている。湖畔こはんにはドイツりょうのフリードリヒスハーフェンやリンダウ、オーストリアりょうのブレゲンツといった都市とし点在てんざいする。うえ西端せいたんにはドイツりょうコンスタンツがあり、ここでほそ水路すいろとなって西にしへとながれだし、まもなくしもみずうみへとながむ。コンスタンツは水路すいろ南岸なんがんにあり、この地域ちいきだけドイツりょうがライン南岸なんがんへと格好かっこうとなっている。

ラインたき

いったんボーデンながんだラインがわした湖西こせいはしのシュタインからながし、バーゼルへとかう。バーゼルまでの区間くかんこうラインという。この区間くかんのほとんどは北岸ほくがんがドイツりょうのバーデン・ヴュルテンベルクしゅうぞくし、みなみのスイスは上流じょうりゅうからトゥールガウしゅうチューリヒしゅうアールガウしゅうバーゼル農村のうそんしゅうぞくし、ほとんど両国りょうこくあいだ国境こっきょうをなすが、スイスのシャフハウゼンしゅうだけはラインの北岸ほくがん位置いちし、スイスが北岸ほくがんおおきくんでいる。この区間くかん中央ちゅうおう位置いちするスイスのシャフハウゼンには、ライン本流ほんりゅう唯一ゆいいつたきであるラインたきがある。このラインたきより下流かりゅううみまですべて船舶せんぱく航行こうこう可能かのうであり、シャフハウゼンはラインたきによる荷物にもつこうとして繁栄はんえいした都市としである。

うえライン[編集へんしゅう]

バーゼル

バーゼルで、ラインがわふたたきをきたへとえる。バーゼルからはながれもおだやかになると同時どうじ水量すいりょうえ、ここから河口かこうまでは3,000トンきゅうふね往来おうらいができる。そのため、バーゼルはスイス唯一ゆいいつ国際こくさい貿易ぼうえきこうとなっており、スイスの貿易ぼうえきのかなりの部分ぶぶんがこのみなととおしておこなわれる。バーゼルはスイス有数ゆうすう大都市だいとしであるがスイスりょう北端ほくたんであり、市街しがい一部いちぶはドイツりょうおよびフランスりょうにもかかっている。

マインがわとの合流ごうりゅうてん(マインツ付近ふきん

バーゼルからはラインがわフランスりょうアルザスドイツバーデン=ヴュルテンベルクしゅうとのあいだ国境こっきょうをなす。この地域ちいきライン地溝ちこうたいばれる構造こうぞう平野へいやとなっており、西にしヴォージュ山脈さんみゃくひがしシュヴァルツヴァルトにはさまれた細長ほそなが平野へいやなかをラインがわきたながしていく。バーゼルのすこきたで、ラインがわはアルザスだい運河うんが接続せつぞくする。このアルザスだい運河うんがはラインがわ西にし並行へいこうしてきたながし、マルヌ・ライン運河うんがへと接続せつぞくしてパリなどセーヌがわ水系すいけい水運すいうんとつながる。またこの運河うんがミュルーズでローヌ・ライン運河うんが接続せつぞくし、ローヌがわ水系すいけいへと接続せつぞくしてリヨン地中海ちちゅうかいとつながっている。アルザスの住民じゅうみんはドイツけいアルザスじんであり、ラインりょうきしにドイツけい民族みんぞく居住きょじゅうしていることになるが、アルザス地方ちほうは17世紀せいき以降いこうすう転変てんぺんはあったものの、基本きほんてきにはフランスりょうとなっている。フランスりょうのライン沿岸えんがんのほぼ中央ちゅうおうストラスブールがあるが、ここは19世紀せいきかわどう直線ちょくせんによってライン河畔かはんへとひろがった[2]フランスりょうのライン最大さいだい都市としであり、フランスのラインへの窓口まどぐちとなっている。カールスルーエすこみなみでフランスりょうわりをつげ、ここからは西岸せいがんラインラント=プファルツしゅうとなり、ドイツ領内りょうないをラインはながれることとなる。ドイツりょうライン西岸せいがんラインラントばれ、基本きほんてきにはドイツにぞくするもののフランスとドイツのあいだ争奪そうだつかえされた土地とちである。シュパイアーぎ、マンハイムでは、ひがしからながれてくるネッカーがわをあわせる。マンハイムを中心ちゅうしんとしてシュパイアー周辺しゅうへんまでは、ライン=ネッカー広域こういき連合れんごうばれる大都市だいとしけん形成けいせいしている。マンハイムからヴォルムスぎ、ラインラント=プファルツ州都しゅうとマインツでラインがわマインかわ合流ごうりゅうする。ここまでがうえラインとばれる。マインかわをさかのぼると、1992ねん開通かいつうしたライン・マイン・ドナウ運河うんがによってドナウがわへと水路すいろがつながっており、このさん河川かせん使用しようすれば北海ほっかいから黒海こっかいまで河川かせんのみでくことも可能かのうである。ライン南岸なんがんにあるマインツの対岸たいがんはヘッセンしゅう州都しゅうとヴィースバーデンであり、この2都市としじゅう都市としとなっている。このマインツ・ヴィースバーデンからひがしフランクフルト・アム・マインまではフランクフルト・ライン=マイン広域こういき連合れんごうばれる大都市だいとしけんとなっている。

ちゅうライン~ライン[編集へんしゅう]

ローレライ

マインツからボンまではちゅうラインとばれる。この地域ちいき丘陵きゅうりょうかこまれたなかながれ、とくにマインツ盆地ぼんちわるリューデスハイムおよびビンゲンからモーゼルかわ合流ごうりゅうするコブレンツまでのあいだは「ロマンチック・ラインとよばれ、風光ふうこう明媚めいびなことでられている。このロマンチック・ラインの区間くかんには、ネコじょうなどおおくの古城こじょうがあり、またなかほどには難所なんしょとしてられたローレライがある。この風景ふうけいたのしむため、マインツからヴィースバーデン、リューデスハイム、コブレンツ、ボン、そしてケルンまでの185キロメートルのあいだにはラインがわくだりの遊覧ゆうらんせん運航うんこうされており、おおくの観光かんこうきゃくあつめている。遊覧ゆうらんせん起点きてんはマインツであるが、風光ふうこう明媚めいび区間くかんであるリューデスハイムからコブレンツまでを利用りようする観光かんこうきゃくおおい。

ボンから下流かりゅうになると行政ぎょうせいてきにはノルトライン=ヴェストファーレンしゅうぞくするようになる。丘陵きゅうりょう姿すがたし、広々ひろびろとした平野へいやなかながれるようになる。ここから河口かこうまでをしたラインとぶ。このした流域りゅういきには、ケルンレーヴァークーゼンデュッセルドルフ中心ちゅうしんとするルール地方ちほうしょ都市としといった大都市だいとし集中しゅうちゅうし、工業こうぎょう地帯ちたいとなっている。なかでもルール地方ちほう西端せいたんでラインにめんするデュースブルクはルールの玄関げんかんこうとなっており、ヨーロッパ最大さいだい内陸ないりくみなととなっている。

河口かこういき[編集へんしゅう]

アイセル

ルールをぎるとラインがわ西にしへときをえ、オランダはいる。オランダりょうはいるとすぐ、ラインがわはいくつもの支流しりゅうかれ、あみのようにオランダ南部なんぶ水路すいろひろげる。もっともおおきな支流しりゅうワールがわであり、そのきたアイセルへとながアイセルがわネーデルラインがわさんだい支流しりゅうである。ネーデルラインがわはさらにクロメ・ラインがわレクがわニューウェ・マースがわなどおおくの支流しりゅうかれる。ワールかわもまたいくつもの支流しりゅうかれ、みなみからながれてきたマースがわ支流しりゅう合流ごうりゅう分離ぶんりかえす。河口かこうちかくのゼーラントしゅう付近ふきんのラインがわはしばしばだい氾濫はんらんこし、また北海ほっかい高潮こうちょうでもだい被害ひがいけることがおおくあったが、1953ねんだい洪水こうずいにラインがわ・マースがわスヘルデがわ三角州さんかくす地域ちいき河口かこうをすべてふさいでしまう、デルタ計画けいかくばれるだい治水ちすい工事こうじ1958ねん開始かいしされ、1986ねん完成かんせいした。この計画けいかくによって、しゅ要港ようこうであるロッテルダムならびにアントウェルペンのぞくすべての河口かこう堤防ていぼうまたは可動かどうせきによって有事ゆうじには閉塞へいそく可能かのうになり、りょうしゅ要港ようこう沿岸えんがん堤防ていぼう大幅おおはばにかさげされた[3]河口かこうちかくにはロッテルダムがあり、ユーロポートはラインの河川かせん水運すいうん北海ほっかい大西洋たいせいよう海運かいうん結節けっせつてんとして、ヨーロッパ最大さいだいみなととなっている。

レース(オランダ)におけるラインがわ流量りゅうりょう(m³/s)
1930ねんから1997ねん平均へいきんデータ)[4]

生態せいたいけい[編集へんしゅう]

中流ちゅうりゅうオーバーラインドイツばん/ラン・シュペリユールフランス語ふらんすごばん地域ちいきにはナッタージャックヒキガエル英語えいごばんヨーロッパビーバーユーラシアカワウソオオホオヒゲコウモリ英語えいごばんなどの野生やせい動物どうぶつタイセイヨウサケアリスシャッド英語えいごばんブラウントラウトヨーロッパカワヤツメ英語えいごばんヨーロッパウナギなどの魚類ぎょるいおよびヒメハナバチぞく英語えいごばんAndrena chrysopusスウェーデンばんAndrena marginata英語えいごばんおよびミヘヤヒゲナガハナバチぞく英語えいごばんTetraloniella salicariaeスウェーデンばんなどのハチAeshna affinis英語えいごばんなどのトンボChamaesphecia aerifrons英語えいごばんCucullia caninaeスウェーデンばんLuperina dumerilii英語えいごばんMeganola togatulalis英語えいごばんPyropteron英語えいごばんなどの生息せいそくしている[5][6]

沿岸えんがんラムサール条約じょうやく登録とうろくおおく、ボーデン南部なんぶそそラインがわ三角州さんかくすドイツばん[7]、ボーデン西部せいぶヴォルマティンガー湿原しつげん英語えいごばんおよびミンデル英語えいごばん付近ふきん一帯いったい[8]、ドイツ・フランス国境こっきょうのラインがわ両側りょうがわ沖積ちゅうせき平野へいやのオーバーライン/ラン・シュペリユール地域ちいき[5][6]エルトヴィレ・アム・ラインからビンゲン・アム・ラインまでのラインがわ氾濫はんらんばら[9]しもニーダーラインドイツばん地域ちいき[10]およびオランダのライン・マース・スヘルデ三角州さんかくす英語えいごばん位置いちするホランス・ディープがわ[11]ハーリングフリートがわ[12]フォルケラクがわ英語えいごばん[13]グレーヴェリンゲン英語えいごばん[14]などはげられる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい[編集へんしゅう]

ふるくはラインがわ境界きょうかいとして、西岸せいがんケルトじん東岸とうがんゲルマンじんおも居住きょじゅうしていた。しかしユリウス・カエサルのガリア侵攻しんこうによって西岸せいがんマ帝国まていこくりょうとなり、ラインがわはローマとゲルマンの境界きょうかいとなった[15]かれいだローマ皇帝こうていアウグストゥスはライン東岸とうがんへと侵攻しんこうしたものの、9ねんトイトブルクもりたたかにおいてローマぐん敗北はいぼくし、帝国ていこく前哨ぜんしょうせんはラインがわへともどり、以降いこうローマりょう流域りゅういき北部ほくぶにおいては東岸とうがんひろがることはなかった。しかし、流域りゅういき南部なんぶにおいては83ねんドミティアヌスみかどがリメス・ゲルマニクスの建設けんせつし、マインかわからドナウがわへとつながる長城ちょうじょう建設けんせつされた。これによってラインちゅううえ流域りゅういきではリメス前進ぜんしんし、ラインりょうきしマ帝国まていこくりょうはいった。マ帝国まていこくはライン西岸せいがん国境こっきょう警備けいびのためのとりで駐屯ちゅうとんとして都市とし数多かずおお建設けんせつし、これらの都市としにはローマ文化ぶんか定着ていちゃくした。ケルン、コブレンツ、マインツなどはこの都市としもととなって現在げんざいまで存続そんぞくした都市としである。こうした都市としかわ対岸たいがんのゲルマンじんたちとの交易こうえき経済けいざい基盤きばんとしていた。かく駐屯ちゅうとんぐんによってラインがわ河川かせん航行こうこう安全あんぜん保障ほしょうされ、ラインがわ交易こうえきとしても利用りようされるようになっていた。

中世ちゅうせい近世きんせい[編集へんしゅう]

しかしやがてマ帝国まていこくおとろえをはじめ、4世紀せいきはいると東岸とうがんのゲルマンじんがローマ国境こっきょうえ、次々つぎつぎ西岸せいがんへと侵入しんにゅうした。ゲルマン民族みんぞくだい移動いどうである。これにより西岸せいがんゲルマンされていき、やがてラインがわ周辺しゅうへん地域ちいき中心ちゅうしんとして、フランク王国おうこく勢力せいりょく拡大かくだいしていく。また、フランク王国おうこく勢力せいりょく拡大かくだいとともにこの地域ちいきには政治せいじてき安定あんていもどり、ライン河口かこう地域ちいきフリースじんたちが活発かっぱつ商業しょうぎょう活動かつどう展開てんかいした。フリースじん本拠ほんきょはラインがわ分流ぶんりゅうであるレクがわめんするドレスタットであった。ここからラインがわさかのぼりケルンやマインツ、ヴォルムスへと交易こうえきおもむくだけでなく、北海ほっかいバルト海ばるとかい方面ほうめんにも交易こうえきひろげていた[16]。フランク王国おうこくカール大帝たいてい時代じだい最盛さいせいむかえるも、そのまごだい分裂ぶんれつし、843ねんヴェルダン条約じょうやくによって[17]、ラインがわ西岸せいがん中部なかべフランク王国おうこくロタール1せいに、東岸とうがんあずまフランク王国おうこくルートヴィヒ2せいあたえられ[18]、ラインがわふたた国境こっきょうとなった。ロタール1せい855ねん崩御ほうぎょすると、中部なかべフランク王国おうこくはさらに3分割ぶんかつされ、ラインがわ西岸せいがんはロタール2せいロタリンギアあたえられた。しかしロタール2せい869ねん崩御ほうぎょすると、870ねんメルセン条約じょうやくによってロタリンギアはあずまフランク王国おうこく西にしフランク王国おうこくによって東西とうざい分割ぶんかつされ、ラインがわ西岸せいがんあずまフランク王国おうこくりょうとなった。このフランク王国おうこく分裂ぶんれつともな政治せいじてき空白くうはくじょうじて各地かくち進攻しんこうしたのがヴァイキングである。ラインがわにも河口かこう中心ちゅうしんに、コブレンツあたりまでさかのぼって襲撃しゅうげきかえした。この襲撃しゅうげきおも目標もくひょうになったドレスタットは幾度いくど略奪りゃくだつされ、863ねん襲撃しゅうげきによって歴史れきしから姿すがたした[19]

あずまフランク王国おうこくはやがてかみきよしマ帝国まていこくとなり、皇帝こうていフリードリヒ1せい1158ねん ロンカリアにおいて「船舶せんぱく航行こうこう可能かのう河川かせんとその支流しりゅう」を国王こくおう大権たいけん(レガーリエン)のもとにき、1165ねんにはとくにラインがわを「帝国ていこく自由じゆうなる公道こうどう」とした[20]。しかし、同国どうこくにおいては諸侯しょこうおおきなちからち、ライン沿岸えんがんにもおおくの諸侯しょこう割拠かっきょした。諸侯しょこうだけでなく、マインツやケルン、トリーアなどの大司教だいしきょう司教しきょうといったきよしかい諸侯しょこうもこの地域ちいきには多数たすう存在そんざいした。いずれも各地かくち城郭じょうかくて、ライン川中かわなか流域りゅういきだけでも建造けんぞうされたしろかずは、40をえた[21]聖俗せいぞく諸侯しょこう関所せきしょもうけてラインがわ通航つうこうする商船しょうせんから通行つうこうぜいてて財源ざいげんとしたが、その関所せきしょ13世紀せいきビンゲンから河口かこうまでだけでも20かしょ存在そんざいした[22]。また、このころから商業しょうぎょう復活ふっかつによりライン河畔かはんにおいてもふたた都市とし各地かくち立地りっちするようになる。きゅうマ帝国まていこく起源きげんとする都市としだけでなく、あらたな都市とし次々つぎつぎ建設けんせつされた。これらの都市としはライン交易こうえき基盤きばんとしてちからたくわえ、1254ねんコンラート4せい崩御ほうぎょしてホーエンシュタウフェンあさ断絶だんぜつし、だい空位くうい時代じだいはじまると、マインツとヴォルムスとの同盟どうめい基軸きじくとしてラインがわ沿いのしょ都市とし同盟どうめい締結ていけつし、ライン都市とし同盟どうめい同年どうねん成立せいりつした。この同盟どうめい加盟かめい都市とし60以上いじょうかぞえたものの、周辺しゅうへん諸侯しょこうあつりょくにより1257ねん消滅しょうめつした。14世紀せいきはいると、北海ほっかいバルト海ばるとかい方面ほうめん強力きょうりょく都市とし同盟どうめいきずいていたハンザ同盟どうめいしも流域りゅういきしょ都市とし加盟かめいけ、流域りゅういき有数ゆうすう都市としであるケルンなどおおくの都市とし同盟どうめい加盟かめいした。この都市とし同盟どうめいながれをくみ、ライン上流じょうりゅうへと進出しんしゅつしてきたのがスイス誓約せいやく同盟どうめいである。誓約せいやく同盟どうめいははじめアルプス山中さんちゅう勢力せいりょくきずいていたものの、1351ねんにチューリヒが加盟かめいしたのを皮切かわきりにライン沿岸えんがんへと勢力せいりょくひろげ、1415ねんにはアールガウを占領せんりょうき、1501ねんにはシャフハウゼンとバーゼルの加盟かめいみとめて[23]、ライン上流じょうりゅう勢力せいりょくにおさめた。

一方いっぽう西方せいほう西にしフランク王国おうこくはやがてフランス王国おうこくとなり、徐々じょじょ中央ちゅうおう集権しゅうけんつよめて強国きょうこくとなっていく。この過程かていでフランスは諸侯しょこう乱立らんりつするラインがわ沿岸えんがんへと徐々じょじょ東進とうしんし、勢力せいりょくつよめていった。そうしたなかで、フランスの国境こっきょうをラインがわへともとめる、いわゆる自然しぜん国境こっきょうせつがフランスで有力ゆうりょくとなった。以後いごフランスのおおくの為政者いせいしゃがラインがわ沿岸えんがんにフランス国境こっきょうばすことをねらうようになっていった。一方いっぽう、ライン河口かこういきにおいてはネーデルラントしょしゅう北海ほっかいバルトうみ交易こうえきにぎって経済けいざいりょくつよめていたが、カルヴァンつよいこの地方ちほうはカトリック支配しはい強化きょうかねら領主りょうしゅのスペイン王国おうこく対立たいりつし、1568ねんはちじゅうねん戦争せんそう勃発ぼっぱつする。このたたかいのなかでネーデルラントはネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこくとして独立どくりつし、17世紀せいきには黄金おうごん時代じだいむかえた。

17世紀せいき前半ぜんはんはいると、ルイ13せい宰相さいしょうリシュリューのもとでフランスはさんじゅうねん戦争せんそう参戦さんせん1648ねんヴェストファーレン条約じょうやくによってライン沿岸えんがんアルザス南部なんぶ獲得かくとくし、ラインへの橋頭堡きょうとうほれる。このうごきはつぎのフランス国王こくおうルイ14せいにもがれ、だい同盟どうめい戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくである1697ねんレイスウェイク条約じょうやくによって、フランスは要衝ようしょうストラスブールおよびアルザス北部ほくぶ獲得かくとくし、以降いこうアルザス地域ちいきドイツ語どいつごけんであるにもかかわらず、基本きほんてきにはフランスりょうとして推移すいいしていった。またこれにより、一部いちぶではあるがラインがわはフランスの国境こっきょうとなった。

近代きんだい[編集へんしゅう]

その100ねんほどはおおきなうごきはなかったものの、フランス革命かくめい勃発ぼっぱつし、1792ねんフランス革命かくめい戦争せんそうがはじまると様相ようそう一変いっぺんした。フランスはまずみなみネーデルラント侵攻しんこうし、1794ねんにはみなみネーデルラントとラインラントをほぼ占領せんりょうした。さらに1795ねんにはオランダを占領せんりょうしてバタヴィア共和きょうわこく建国けんこくさせ、ラインがわ以南いなん割譲かつじょうさせた。同年どうねんにはバーゼルのやくによってプロイセン王国おうこくもフランスと講和こうわし、ラインラント西岸せいがんしょ小国しょうこくはフランス共和きょうわこくへと併合へいごうされた。以後いご20ねんほどは自然しぜん国境こっきょうせつとおり、ラインがわがフランスの国境こっきょうとなっていた。この状況じょうきょう1797ねんカンポ・フォルミオのやくならびに1801ねんリュネヴィルのやくによって追認ついにんされたが、このときにライン西岸せいがん領土りょうどうしなっただい諸侯しょこう領土りょうどをライン東岸とうがんにおいて保障ほしょうすることがさだめられ、1803ねん帝国ていこく代表だいひょうしゃ会議かいぎ主要しゅよう決議けつぎによってきよしかい諸侯しょこう領土りょうど没収ぼっしゅう世俗せぞく)と帝国ていこく騎士きしなど群小ぐんしょう領主りょうしゅ陪臣ばいしんがおこなわれ、このときに沿岸えんがん群小ぐんしょう諸侯しょこう領土りょうどはかなりが吸収きゅうしゅう整理せいりされ、ある程度ていどおおきさのしょ公国こうこくへとまとめられていった。1806ねんにはフランスの圧力あつりょくのもと、ライン東岸とうがんしょ公国こうこく連合れんごうしてライン同盟どうめい設立せつりつされ、ラインりょうきしはフランスの影響えいきょうかれることとなった。しかし、1813ねんライプツィヒのたたかにフランスがやぶれるとともにライン同盟どうめい空中くうちゅう分解ぶんかいし、結局けっきょく1815ねんウィーン会議かいぎによって国境こっきょうはフランス革命かくめい以前いぜんせんにまでもどり、フランスはアルザスこそ確保かくほしたもののラインラントとネーデルラントを手放てばなした。ラインりょうきしには、あたらしくゆるやかな連合体れんごうたいであるドイツ連邦れんぽう成立せいりつし、ラインラントはあらたにプロイセンの領土りょうどとなった。プロイセン支配しはいのラインがわ沿岸えんがんではしょしろ再建さいけんおこなわれ、なかでもフリードリヒ=ヴィルヘルム4せい(Friedrich Wilhelm IV.)によるコブレンツ近傍きんぼう、シュトルツェンフェルスじょう(Burg Stolzenfels)の再建さいけんはその象徴しょうちょうとなるものであった[24]

19世紀せいきちゅうごろになると、資源しげん水運すいうんめぐまれたラインちゅう流域りゅういき、とくにプロイセンりょうとなっていたルール地方ちほう石炭せきたん埋蔵まいぞう利用りようしてだい工業こうぎょう地帯ちたいとなった。1833ねんドイツ関税かんぜい同盟どうめい成立せいりつすると、ちゅう流域りゅういき各国かっこく関税かんぜい障壁しょうへき撤廃てっぱいされ、おりからの産業さんぎょう革命かくめいなみ到達とうたつしたことで、ライン地方ちほう経済けいざいおおきく発展はってんしていく。1816ねんにはイギリスの蒸気じょうきせんがラインがわをはじめて航行こうこうし、1827ねんには定期ていき航行こうこう開始かいしされた[25]一方いっぽう、ラインがわ航行こうこうかんしてはギルドによる制限せいげんが1831ねんまでつづいていた[26]が、19世紀せいきはいるとラインがわ安定あんてい航行こうこうもとめるこえたかまり、1831ねんにはフランス、オランダ、プロイセンバイエルンバーデンヘッセンナッサウのライン沿岸えんがん7カ国かこくによってラインがわ航行こうこう協定きょうてい(マインツ協定きょうてい)が締結ていけつされ、マインツにライン水運すいうん中央ちゅうおう委員いいんかい設立せつりつされ、これによって協定きょうていむすばれて円滑えんかつなラインがわ航行こうこうおこなわれるようになった。これらの協定きょうてい参加さんかこく消滅しょうめつ後継こうけい国家こっかによってがれ、また新規しんき参加さんかもあって、21世紀せいきはいっても存続そんぞくしている。またこの時期じき技術ぎじゅつ発達はったつ工業こうぎょうによってだい規模きぼ治水ちすい工事こうじ可能かのうとなり、ライン地溝ちこうたいにおいてはそれまで幾度いくどとなく変転へんてん蛇行だこうしていたかわどう直線ちょくせん安定あんていし、ストラスブールなどはこの時期じき支流しりゅう沿いからライン本流ほんりゅうへと都市とし拡大かくだいしていった。

19世紀せいき初頭しょとう、ラインは空前くうぜんのツーリズムの聖地せいちとなる。えい文学ぶんがくではアン・ラドクリフA Journey Made in the Summer of 1794 through Holland and the western Frontier of Germany with a Return down the Rhine(1794)をはじめとして、ジョージ・ゴードン・バイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼じゅんれい』(だい3うた、49-61スタンザ)(1816)やメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン 』(1818)、美術びじゅつではマテウス・メーリアン (1593‐1650)のどう版画はんがヘルマン・サフトレーフェン(1609-1685)、Reverend John Gardnor(1729-1808)やジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー (1775-1851)とう絵画かいが版画はんががイギリスじんおもとするラインへの大衆たいしゅうツーリズムの発生はっせい貢献こうけんした[27]当時とうじのイギリスじん旅行りょこうねつについて、ゲーテファウストだい2、「古典こてんてきなワルプルギスの古戦場こせんじょう」7118-7121ぎょうにおいてメフィストフェレスに、「ここにイギリスじんはいませんか。あの連中れんちゅうときたらだい旅行りょこうきで、/古戦場こせんじょうやら、たき名所めいしょやら、しろ廃墟はいきょやら、/古色こしょく蒼然そうぜんとした陰気いんき場所ばしょたずねまわっている。/ここなんぞはやつさんたちがありがたりそうなところだ」とわせている[28]

19世紀せいき後半こうはんになると、この地域ちいき政治せいじ情勢じょうせいふたたおおきくうごく。ドイツ統一とういつへのうごきがたかまるなか1866ねんあまねおう戦争せんそう勝利しょうりしたプロイセンはドイツの主導しゅどうけんにぎり、同年どうねんきたドイツ連邦れんぽう結成けっせいしてライン中部ちゅうぶしょくに事実じじつじょう併合へいごうした。このうごきに警戒けいかいしんたかめたフランス帝国ていこくとのあいだ1870ねんひろしふつ戦争せんそうこるもののプロイセンは大勝たいしょうして、1871ねん南部なんぶドイツしょくにをもふくめたドイツ帝国ていこく成立せいりつ。ドイツはライン東岸とうがんのほとんどの部分ぶぶん自国じこくりょうとし、さらに同年どうねんフランクフルト講和こうわ条約じょうやくにおいてフランスはドイツにアルザス=ロレーヌ割譲かつじょう。ライン沿岸えんがんからフランスは駆逐くちくされ、下流かりゅう上流じょうりゅう一部いちぶのぞくライン本流ほんりゅうだい部分ぶぶんがドイツりょうとなった。

ドイツりょうとなったアルザス=ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)であるが、この地方ちほうはドイツ帝国ていこく政府せいふ直轄ちょっかつ統治とうちにおかれ、居住きょじゅうするドイツけいアルザスじんあいだにはきゅう市民しみんあつかいされる不満ふまんがあり、1913ねんにはツァーベルン事件じけんがおきてこの地方ちほう政治せいじおおきく動揺どうようする。しかし、翌年よくねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにより、この対立たいりつ致命ちめいてきなものとなることはなかった。

現代げんだい[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんはフランスをふく協商きょうしょうこく勝利しょうりわり、1919ねんヴェルサイユ条約じょうやくにおいてフランスはアルザス=ロレーヌを奪回だっかいし、さらにラインがわ左岸さがん50キロメートルの武装ぶそうをドイツにみとめさせた。しかしこの条約じょうやくはドイツに非常ひじょうつよ不満ふまんこし、やがてアドルフ・ヒトラーナチス台頭たいとうまね一因いちいんとなった。1936ねんにドイツはラインラント進駐しんちゅうをおこない、ラインラントをさい武装ぶそうする。これにたいしフランスがわはラインがわにほぼ沿かたちマジノせん建設けんせつし、ドイツがわもこれに対抗たいこうすべくジークフリートせん建設けんせつしてりょうぐん対立たいりつたびふかめる。1940ねんにはナチス・ドイツのフランス侵攻しんこうこり、勝利しょうりしたドイツはアルザス・ロレーヌをふたた併合へいごうした。しかしだい世界せかい大戦たいせんはドイツの敗北はいぼくわり、1945ねんにはフランスはふたたびアルザス・ロレーヌを奪回だっかいし、現在げんざい国境こっきょうせんがここで確定かくていした。

だい世界せかい大戦たいせん、ドイツはイギリス、フランス、アメリカ、ソヴィエト連邦れんぽうの4かこくによって分割ぶんかつ占領せんりょうされ、ライン沿岸えんがんしも流域りゅういきがイギリス、ライン西岸せいがん東岸とうがんのうちの南部なんぶがフランス、東岸とうがんのこりがアメリカにそれぞれ占領せんりょうされた。この時期じき行政ぎょうせい統合とうごう整理せいりされ、イギリス占領せんりょう地域ちいきがノルトライン=ヴェストファーレンしゅう、フランス占領せんりょう地域ちいきがラインラント=プファルツしゅうとバーデン=ヴュルテンベルクしゅう、アメリカ占領せんりょう地域ちいきがヘッセンしゅうとバーデン=ヴュルテンベルクしゅうにそれぞれ再編さいへんされた。やがてこのさんこく占領せんりょう地域ちいき統合とうごうするかたち1949ねん西にしドイツ成立せいりつする。西にしドイツは本来ほんらい首都しゅとであるべきベルリンを一部いちぶしか確保かくほできず(西にしベルリン)、また西にしベルリンはほかの国土こくどからまったはなされていたので、暫定ざんてい首都しゅとがラインがわ沿いのボンにおかれた。西にしドイツはやがて経済けいざい奇跡きせきばれる経済けいざい成長せいちょうげ、ラインがわ沿いは世界せかい有数ゆうすう産業さんぎょう地帯ちたいとして発展はってんつづけた。1990ねんにはドイツがさい統一とういつされ、統一とういつドイツの首都しゅとはボンからベルリンにうつされた。1992ねんにはライン・マイン・ドナウ運河うんが完成かんせいし、支流しりゅうのマインかわつうじて欧州おうしゅう東西とうざい内陸ないりく水運すいうん連結れんけつされることとなった。

現在げんざいのラインがわ付近ふきんは、スイスとリヒテンシュタインオーストリアフォアアールベルクしゅう一部いちぶ、およびドイツ、ドイツとフランスの自然しぜん国境こっきょうとなっている。

水運すいうん[編集へんしゅう]

ロッテルダムこう。ラインがわ水運すいうん外洋がいよう水運すいうんとの結節けっせつてんであり、世界一せかいいち取扱とりあつかいりょうほこみなとである

ラインがわふるくから沿岸えんがん地域ちいき交通こうつう大動脈だいどうみゃくであり、現代げんだいにおいてもその役割やくわり非常ひじょうおおきい。河口かこうから上流じょうりゅうのシャフハウゼンまではまったたきがなく水量すいりょうおおいため、そこまでの全域ぜんいき船舶せんぱく航行こうこう可能かのうである。これは古代こだいからそのままであり、ローレライなどの難所なんしょはあるもののふるくからこの地域ちいき大動脈だいどうみゃくとしてラインがわ機能きのうしてきた。

1783ねんから1784ねんにかけてのふゆだい寒波かんぱがヨーロッパ全域ぜんいき被害ひがいをもたらしたふゆである。ドナウがわでは、有名ゆうめいレーゲンスブルク石橋いしばしちゅうとう(Mittelturm)がドナウがわ氷塊ひょうかいによって倒壊とうかいしたが[29]、ラインがわでは、ケルンのあたりにあつさ5-8 mほどこおりのじゅうたんが形成けいせいされ、洪水こうずい発生はっせいして沿岸えんがん地域ちいき甚大じんだい損害そんがいをあたえた[30]

ラインがわ蒸気じょうきせん登場とうじょうしたのは、1816ねんのことであるが、蒸気じょうきせん運行うんこう一般いっぱんするまでふねかわさかのぼるには、かわ沿いにもうけられたみち、「ふねどう」(ドイツでトライデルプファート:Treidelpfadないしトライデルヴェーク:Treidelweg)をとおって、ひとあるいはうまが、ふね帆柱ほばしらからられたロープをかねばならなかった。最初さいしょのうちは、土地とち農民のうみん臨時りんじにその仕事しごとたしていたが、のちふねきを専門せんもんとする人々ひとびとあらわれ、組合くみあい結成けっせいされ、組合くみあい規定きていさだめられた。18世紀せいき規定きてい現存げんそんする。1636ねん イングランドおう チャールズ1せいはThomas Howardをプラハけて派遣はけんしたが、いちぎょうたび記録きろくによると、全長ぜんちょう26 mのふねケルンからドラッフェンフェルス(Drachenfels)まで8-9とううまいたとしるされている[31]

1816ねんのラインがわへの蒸気じょうきせん登場とうじょう以降いこうラインの船旅ふなたび次第しだい人気にんきていき、1827ねんには18624にん人々ひとびとケルンからマインツまでふねたびをした。1829ねん乗客じょうきゃくやく12まんにんたっしたが、その半数はんすうはイギリスじんであった。年々ねんねん増加ぞうかする乗客じょうきゃくすう1850ねんころから1890ねんまでの期間きかん年間ねんかんやく100まんにんにまでたっしたが、その半数はんすうはやはりイギリスじんであった[32]

ラインがわにおいては、河口かこうのロッテルダムこう、およびラインがわ分流ぶんりゅう運河うんがによってつながるアムステルダムみなとならびにアントウェルペンみなとから、内陸ないりくしょみなとへとけてはこばれる海上かいじょうコンテナ輸送ゆそう割合わりあいおおきい。これは、ボンこうやマインツこうなどでコンテナ設備せつびととのっていることや、沿岸えんがんかくみなとからの陸路りくろ接続せつぞくルートが非常ひじょう整備せいびされていることがあげられる。また、分流ぶんりゅうとおってロッテルダムこうとアントウェルペンこうとのあいだ輸送ゆそう非常ひじょう活発かっぱつおこなわれており、これがラインがわ輸送ゆそうにおいておおきな部分ぶぶんめている[33]とくにドイツにおいてラインがわ水運すいうん重要じゅうようせいたかく、1996ねんにはドイツの内陸ないりく港湾こうわんそう貨物かもつ取扱とりあつかいりょう1おく4,370まんトンのうち、ラインがわもろこうではその3ぶんの2にあたる9,270まんトンがあつかわれていた[34]

1831ねんにはフランス、オランダ、プロイセンバイエルンバーデンヘッセンナッサウのライン沿岸えんがん7カ国かこくによってラインがわ航行こうこう協定きょうてい(マインツ協定きょうてい)が締結ていけつされ、マインツにライン水運すいうん中央ちゅうおう委員いいんかい設立せつりつされ、これによって協定きょうていむすばれて円滑えんかつなラインがわ航行こうこうおこなわれるようになった。この委員いいんかいは1861ねんにはマンハイムへとうつり、1868ねんにはマインツ協定きょうてい改正かいせいした改正かいせいラインがわ船舶せんぱく航行こうこうほう(マンハイム協定きょうてい)が締結ていけつされる。これらの協定きょうてい参加さんかこく消滅しょうめつ後継こうけい国家こっかによってがれ、また新規しんき参加さんかもあって、その継続けいぞくした。1920ねんには委員いいんかいはストラスブールにうつり、21世紀せいきはいっても存続そんぞくしている。

産業さんぎょう[編集へんしゅう]

ラインがわ沿岸えんがん各種かくしゅ工業こうぎょう発達はったつした工業こうぎょう地域ちいきであり、とくに下流かりゅうのルール工業こうぎょう地帯ちたいはドイツ最大さいだい重工業じゅうこうぎょう地帯ちたいとして発達はったつしてきた。

また、とくにドイツのなかラインからうえラインにかけてはブドウ栽培さいばいさかんであり、ラインがわりょうきし丘陵きゅうりょう地帯ちたいにはブドウはたけひろがり、各地かくちドイツワイン名産めいさん点在てんざいする。ドイツワインはライン本流ほんりゅう沿岸えんがん、および支流しりゅうのモーゼルかわ沿岸えんがんしゅ産地さんちとなっている。ライン沿岸えんがんのブドウ栽培さいばい北限ほくげんはボンの対岸たいがんにあるケーニヒスヴィンターであるが、ここは同時どうじにドイツさいきたのブドウ栽培さいばいとなっている[35]

また、ラインがわ沿岸えんがんには観光かんこう多数たすう存在そんざいし、ヴィースバーデンからコブレンツまでのラインがわくだりや古城こじょうめぐりなどにもおおくの観光かんこうきゃくおとずれる。

環境かんきょう[編集へんしゅう]

ラインがわはヨーロッパでもっとも開発かいはつされた地域ちいきながれ、周辺しゅうへん人口じんこう稠密ちゅうみつだい規模きぼ工業こうぎょう地帯ちたい各地かくち立地りっちすることから、水質すいしつ汚染おせん問題もんだいとなっている。この問題もんだい解決かいけつするため、1950ねんには国際こくさいライン汚染おせん防止ぼうし委員いいんかい設置せっちされ、1963ねんには常設じょうせつされて水質すいしつ汚染おせん対応たいおうにあたった[2]

2022ねんには旱魃かんばつにより水位すいい大幅おおはば低下ていかし、輸送ゆそうせんクルーズせん航行こうこうおおきな影響えいきょうあたえている[36]

流域りゅういきにあるおも都市とし[編集へんしゅう]

スイスの旗 スイス

フランスの旗 フランス

ドイツの旗 ドイツ

オランダの旗 オランダ

おも支流しりゅう[編集へんしゅう]

左岸さがん[編集へんしゅう]

  • トゥーアがわThur
  • テスがわTöss
  • アーレがわAarAare
  • ビルスがわBirs
  • ビルズィヒがわBirsig
  • イルがわ
  • モーデルがわModer
  • ロイターがわLauter
  • ナーエがわNahe
  • モーゼルかわ
  • ネッテがわNette
  • アールがわAhr
  • エルフトがわErft
  • マースがわ (Meuse、ラインがわデルタで一部いちぶラインがわ合流ごうりゅうする)

右岸うがん[編集へんしゅう]

流域りゅういき延長えんちょうについて[編集へんしゅう]

ラインがわについては1932ねんはじめて1,320キロメートルと記載きさいされた事典じてん出版しゅっぱんされていたが、ケルン大学だいがく学者がくしゃ20世紀せいき初頭しょとう事典じてんには1,230キロメートルと記載きさいされているのにづき、自分じぶん分析ぶんせきしたところ1,233キロメートル前後ぜんこうであるとの結論けつろんた。ひゃくじゅう間違まちがえたうっかりミスが原因げんいんで、あやまった数字すうじ定着ていちゃくしたとみられる[37][38]

ラインがわ題材だいざいにした作品さくひん[編集へんしゅう]

音楽おんがく[編集へんしゅう]

ラインがわ重要じゅうよう事件じけん舞台ぶたいとなる文学ぶんがく作品さくひん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6)
  • Michael Imhof / Stephan Kemperdick:  Der Rhein. Kunst und Kultur von der Quelle bis zur Mündung. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2004 (ISBN 3-534-17215-9)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Dieter Berger: de:Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern. Mannheim/Leipzig/Wien/Zürich: Bibliographisches Institut, 1993 (ISBN 3-411-06251-7), S. 222.
  2. ^ a b 水道すいどう思想しそう 都市としみず文化ぶんか』p185 さばゆたか 中公新書ちゅうこうしんしょ, 1996 ねん
  3. ^ 佐藤さとう弘幸ひろゆき図説ずせつ オランダの歴史れきし』p125 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2012ねん
  4. ^ GRDC - Rhine Basin Station: Rees
  5. ^ a b Rhin Supérieur / Oberrhein | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2008ねん9がつ5にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  6. ^ a b Oberrhein / Rhin Supérieur | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2008ねん8がつ28にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  7. ^ Rheindelta | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2005ねん1がつ1にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  8. ^ Bodensee: Wollmatinger Ried - Giehrenmoos & Mindelsee | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1976ねん2がつ26にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  9. ^ Rheinauen zwischen Eltville und Bingen | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1998ねん1がつ1にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  10. ^ Unterer Niederrhein | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1992ねん1がつ1にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  11. ^ Hollands Diep | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2022ねん11月1にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  12. ^ Haringvliet | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2022ねん11月1にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  13. ^ Krammer-Volkerak | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2022ねん11月1にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  14. ^ Grevelingen | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2022ねん11月1にち). 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  15. ^ なお、カエサルは『ガリア戦記せんきだい4かん10においてラインがわについて以下いかのように記述きじゅつしている。「レヌスがわはアルプス山岳さんがく地帯ちたいむレポンティイぞく領土りょうどはっし、はげしいいきおいで、ナントゥアテス、ヘルウェティイ、セクアニ、メディオマトリキ、トリボキ、トレウェリのしょぞく領土りょうどとおって延々えんえんながれ、大西洋たいせいようちかづいたとき、おおくの支流しりゅう枝分えだわかれし、そのあいだ多数たすうおおきなしましゅうをつくっている。この島々しまじま大半たいはんには、獰猛どうもう野蛮やばん民族みんぞくむ。そのなかには、さかなとりたまごだけできているとかんがえられる部族ぶぞくもいる。最後さいごに、レヌスがわおおくの河口かこうから大西洋たいせいようそそぎこむ」。ユリウス・カエサル『カエサル文集ぶんしゅう ガリア戦記せんき内乱ないらん』(國原くにはら吉之助よしのすけわけ筑摩書房ちくましょぼう、1981ねん、54ぺーじ
  16. ^ 佐藤さとう弘幸ひろゆき図説ずせつ オランダの歴史れきし』p21 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2012ねん
  17. ^ ベェルダン条約じょうやく世界せかいまど 2020ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  18. ^ あずまフランク世界せかいまど 2020ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  19. ^ 佐藤さとう弘幸ひろゆき図説ずせつ オランダの歴史れきし』p22 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2012ねん
  20. ^ 阿部あべ謹也きんや中世ちゅうせいたびするひとびと: ヨーロッパ庶民しょみん生活せいかつ点描てんびょう平凡社へいぼんしゃ 1978ねん、12・27ぺーじ
  21. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 24.
  22. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 782.
  23. ^ 図説ずせつスイスの歴史れきし」p48-51 おどりども 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2011ねん8がつ30にち初版しょはん発行はっこう
  24. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 164-165.
  25. ^ 商業しょうぎょう」p184 石坂いしざか昭雄あきおことぶきえい欣三郎きんざぶろう諸田もろたみのる山下やました幸夫ゆきおちょ 有斐閣ゆうひかく 1980ねん11月20にち初版しょはんだい1さつ
  26. ^ 商業しょうぎょう」p180 石坂いしざか昭雄あきおことぶきえい欣三郎きんざぶろう諸田もろたみのる山下やました幸夫ゆきおちょ 有斐閣ゆうひかく 1980ねん11月20にち初版しょはんだい1さつ
  27. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 111-132.
  28. ^ ゲーテ『ファウスト 悲劇ひげき』(手塚てづか富雄とみおやく中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1971ねん、246ぺーじ下段げだん-247ぺーじ上段じょうだん
  29. ^ 末永すえながゆたか「ドナウがわ」〔柏木かしわぎ貴久子きくこ松尾まつお誠之せいし末永すえながゆたかみなみドイツのかわまち三修社さんしゅうしゃ 2009 (ISBN 978-4-384-04187-3)、183ぺーじ〕。
  30. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 147-149.
  31. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 134-137.
  32. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 141.
  33. ^ http://www.itej.or.jp/assets/www/html/archive/jijyou/201007_00.pdf 「ヨーロッパにおける河川かせん輸送ゆそう現状げんじょう今後こんご展望てんぼう ─ラインがわにおけるコンテナ輸送ゆそう中心ちゅうしんに─」 p83-84 小澤おざわ茂樹しげき (月刊げっかん運輸うんゆ経済けいざい2010ねん07がつごう離島りとうにおける交通こうつうしょ問題もんだい所収しょしゅう) 一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん運輸うんゆ調査ちょうさきょく 
  34. ^ 事典じてん現代げんだいのドイツ』p475(大修館書店たいしゅうかんしょてん、1998ねん
  35. ^ 事典じてん現代げんだいのドイツ』p540(大修館書店たいしゅうかんしょてん、1998ねん
  36. ^ かんばつ、洪水こうずい各国かっこく観光かんこうに「気候きこう変動へんどう」の猛威もうい 世界せかいてき猛暑もうしょ影響えいきょうは?(Pen Online)”. Yahoo!ニュース. 2022ねん8がつ31にち閲覧えつらん
  37. ^ ラインがわ、90キロみじかかった? 2010ねん3がつ29にち652ふん配信はいしん時事通信じじつうしん[リンク]
  38. ^ 「ラインがわ本当ほんとうは90キロみじかかった――1932ねん事典じてん記載きさいミス」『朝日新聞あさひしんぶん』2010ねん4がつ1にちづけ朝刊ちょうかんだい13はんだい9めん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]