ライン川 がわ の流域 りゅういき 地図 ちず
ライン川 がわ (ラインがわ、独 どく : Rhein 、英 えい : Rhine 、アレマン語 ご : Rhy 、バイエルン・オーストリア語 ご : Rhein 、蘭 らん : Rijn 、仏 ふつ : Rhin 、羅 ら : Rhenus )は、ヨーロッパ を流 なが れる川 かわ である。今日 きょう のドイツ語 ご 表記 ひょうき Rheinは、古高 ふるたか ドイツ語 ご ・中高 なかだか ドイツ語 ご の Rîn、更 さら にそれ以前 いぜん の言語 げんご の*Reinosに遡 さかのぼ り、「河川 かせん 」を意味 いみ したと思 おも われる[ 1] 。
スイス アルプス のトーマ湖 こ に端 はし を発 はっ し、ボーデン湖 こ に入 はい りドイツ ・フランス の国境 こっきょう を北 きた に向 む かい、ストラスブール を越 こ えて、デュースブルク などを通過 つうか しオランダ 国内 こくない へと入 はい ったあと2分岐 ぶんき し、ワール川 がわ とレク川 がわ となりロッテルダム 付近 ふきん で北海 ほっかい に注 そそ いでいる。
全長 ぜんちょう 1,233キロメートル。そのうちドイツを流 なが れるのは698キロメートルである。ドイツにとっては特 とく に重要 じゅうよう な川 かわ であり、ライン流域 りゅういき を主軸 しゅじく のひとつとしてドイツ史 し は展開 てんかい していった。また、ドイツ語 ご の名詞 めいし には男性 だんせい 名詞 めいし 、女性 じょせい 名詞 めいし 、中性 ちゅうせい 名詞 めいし があるが、河川 かせん のほとんどはドナウ川 がわ 、エルベ川 がわ 、モーゼル川 かわ など女性 じょせい 名詞 めいし であるのに対 たい し、ライン川 がわ 、マイン川 かわ 、ネッカー川 がわ などごく少数 しょうすう の川 かわ だけは男性 だんせい 形 がた であらわされる。そのこともあって、ドイツ人 じん はこの川 かわ を「父 ちち なる川 かわ 」と呼 よ んでいる。ドナウ川 がわ とともに、外国 がいこく の船 ふね が自由 じゆう に航行 こうこう する国際 こくさい 河川 かせん の一 ひと つ。
下流 かりゅう 地域 ちいき は川幅 かわはば が広 ひろ く流 なが れが穏 おだ やかなため、水運 すいうん が盛 さか んである。バーゼル から河口 かこう までのライン川 がわ 流域 りゅういき 圏 けん はブルーバナナ (「太平洋 たいへいよう ベルト 」の西欧 せいおう 版 ばん )の一部 いちぶ を成 な す。また、産業 さんぎょう 革命 かくめい の中心 ちゅうしん 地 ち のひとつとなったルール 工業 こうぎょう 地帯 ちたい もライン川 がわ とルール川 がわ に挟 はさ まれる形 かたち で位置 いち しており、その充実 じゅうじつ した内陸 ないりく 水路 すいろ と豊富 ほうふ な地下 ちか 資源 しげん によって発達 はったつ した。
ライン川 がわ は、源 みなもと 流域 りゅういき 、アルペンライン、ボーデン湖 こ 、高 こう ライン、上 うえ ライン、中 ちゅう ライン、下 しも ラインといったいくつかの地域 ちいき に分 わ けられる。
トーマ湖 こ
トーマ湖 みずうみ から流 なが れ出 で るライン源流 げんりゅう はフォルデルライン(前方 ぜんぽう ライン)と呼 よ ばれ、70キロメートル下流 かりゅう のライヘナウで、南 みなみ のラインヴァルトホルン山 やま から流 なが れてくるもう一 ひと つの源流 げんりゅう 、ヒンターライン(後方 こうほう ライン)と合流 ごうりゅう する。ここまでがライン川 がわ の源 みなもと 流域 りゅういき といえる。トーマ湖 みずうみ からライヘナウまでの70キロメートルで標高 ひょうこう 差 さ は1,700メートルあり、ここまでの流 なが れは非常 ひじょう に激 はげ しい。ここまでは全域 ぜんいき がスイスのグラウビュンデン州 しゅう に属 ぞく する。
ライヘナウで合流 ごうりゅう してからはラインはほぼ北 きた に流 なが れ、グラウビュンデン州 しゅう の州都 しゅうと ・クール あたりで北 きた へと向 む きを変 か える。クールからはザンクト・ガレン州 しゅう とグラウビュンデン州 しゅう の州 しゅう 境 さかい をなしながらバート・ラガッツ を通 とお り、やがて東岸 とうがん はリヒテンシュタイン 公国 こうこく となる。リヒテンシュタインの首都 しゅと ファドゥーツ を抜 ぬ け、オーストリア 領 りょう フォアアールベルク州 しゅう とスイス 領 りょう ザンクト・ガレン州 しゅう の国境 こっきょう を一部 いちぶ なした後 のち 、ボーデン湖 こ へと流 なが れ込 こ む。ここまでのラインをアルペンラインと称 しょう する。
ボーデン湖 こ は、広 ひろ い上 うえ 湖 こ と小 ちい さな下 した 湖 みずうみ に二 ふた つに分 わ かれている。上 うえ 湖 こ は東 ひがし をオーストリアのフォアアールベルク州 しゅう 、北 きた をドイツのバイエルン州 しゅう とバーデン・ヴュルテンベルク州 しゅう 、南 みなみ をスイスのザンクト・ガレン州 しゅう とトゥールガウ州 しゅう に囲 かこ まれている。湖畔 こはん にはドイツ領 りょう のフリードリヒスハーフェンやリンダウ、オーストリア領 りょう のブレゲンツといった都市 とし が点在 てんざい する。上 うえ 湖 こ の西端 せいたん にはドイツ領 りょう のコンスタンツ 市 し があり、ここで細 ほそ い水路 すいろ となって西 にし へと流 なが れだし、まもなく下 しも 湖 みずうみ へと流 なが れ込 こ む。コンスタンツは水路 すいろ の南岸 なんがん にあり、この地域 ちいき だけドイツ領 りょう がライン南岸 なんがん へと張 は り出 だ す格好 かっこう となっている。
ライン滝 たき
いったんボーデン湖 こ に流 なが れ込 こ んだライン川 がわ は下 した 湖西 こせい 端 はし のシュタインから流 なが れ出 だ し、バーゼル へと向 む かう。バーゼルまでの区間 くかん を高 こう ラインという。この区間 くかん のほとんどは北岸 ほくがん がドイツ領 りょう のバーデン・ヴュルテンベルク州 しゅう に属 ぞく し、南 みなみ のスイスは上流 じょうりゅう からトゥールガウ州 しゅう 、チューリヒ州 しゅう 、アールガウ州 しゅう 、バーゼル農村 のうそん 州 しゅう に属 ぞく し、ほとんど両国 りょうこく 間 あいだ の国境 こっきょう をなすが、スイスのシャフハウゼン州 しゅう だけはラインの北岸 ほくがん に位置 いち し、スイスが北岸 ほくがん に大 おお きく食 く い込 こ んでいる。この区間 くかん の中央 ちゅうおう 部 ぶ に位置 いち するスイスのシャフハウゼン には、ライン本流 ほんりゅう 唯一 ゆいいつ の滝 たき であるライン滝 たき がある。このライン滝 たき より下流 かりゅう は海 うみ まですべて船舶 せんぱく の航行 こうこう が可能 かのう であり、シャフハウゼンはライン滝 たき による荷物 にもつ の積 つ み替 か え港 こう として繁栄 はんえい した都市 とし である。
バーゼル
バーゼル で、ライン川 がわ は再 ふたた び向 む きを北 きた へと変 か える。バーゼルからは流 なが れも穏 おだ やかになると同時 どうじ に水量 すいりょう も増 ふ え、ここから河口 かこう までは3,000トン級 きゅう の船 ふね の往来 おうらい ができる。そのため、バーゼルはスイス唯一 ゆいいつ の国際 こくさい 貿易 ぼうえき 港 こう となっており、スイスの貿易 ぼうえき のかなりの部分 ぶぶん がこの港 みなと を通 とお して行 おこな われる。バーゼルはスイス有数 ゆうすう の大都市 だいとし であるがスイス領 りょう の北端 ほくたん であり、市街 しがい の一部 いちぶ はドイツ領 りょう およびフランス領 りょう にもかかっている。
マイン川 がわ との合流 ごうりゅう 点 てん (マインツ付近 ふきん )
バーゼルからはライン川 がわ はフランス 領 りょう のアルザス とドイツ のバーデン=ヴュルテンベルク州 しゅう との間 あいだ の国境 こっきょう をなす。この地域 ちいき はライン地溝 ちこう 帯 たい と呼 よ ばれる構造 こうぞう 平野 へいや となっており、西 にし のヴォージュ山脈 さんみゃく と東 ひがし のシュヴァルツヴァルト にはさまれた細長 ほそなが い平野 へいや の中 なか をライン川 がわ は北 きた 流 なが していく。バーゼルの少 すこ し北 きた で、ライン川 がわ はアルザス大 だい 運河 うんが と接続 せつぞく する。このアルザス大 だい 運河 うんが はライン川 がわ の西 にし に並行 へいこう して北 きた 流 なが し、マルヌ・ライン運河 うんが へと接続 せつぞく してパリ などセーヌ川 がわ 水系 すいけい 水運 すいうん とつながる。またこの運河 うんが はミュルーズ でローヌ・ライン運河 うんが と接続 せつぞく し、ローヌ川 がわ 水系 すいけい へと接続 せつぞく してリヨン や地中海 ちちゅうかい とつながっている。アルザスの住民 じゅうみん はドイツ系 けい のアルザス人 じん であり、ライン両 りょう 岸 きし にドイツ系 けい 民族 みんぞく が居住 きょじゅう していることになるが、アルザス地方 ちほう は17世紀 せいき 以降 いこう 数 すう 度 ど の転変 てんぺん はあったものの、基本 きほん 的 てき にはフランス領 りょう となっている。フランス領 りょう のライン沿岸 えんがん のほぼ中央 ちゅうおう にストラスブール があるが、ここは19世紀 せいき の河 かわ 道 どう の直線 ちょくせん 化 か によってライン河畔 かはん へと広 ひろ がった[ 2] フランス領 りょう のライン最大 さいだい の都市 とし であり、フランスのラインへの窓口 まどぐち となっている。カールスルーエ の少 すこ し南 みなみ でフランス領 りょう は終 お わりをつげ、ここからは西岸 せいがん はラインラント=プファルツ州 しゅう となり、ドイツ領内 りょうない をラインは流 なが れることとなる。ドイツ領 りょう ライン西岸 せいがん はラインラント と呼 よ ばれ、基本 きほん 的 てき にはドイツに属 ぞく するもののフランスとドイツの間 あいだ で争奪 そうだつ が繰 く り返 かえ された土地 とち である。シュパイアー を過 す ぎ、マンハイム では、東 ひがし から流 なが れてくるネッカー川 がわ をあわせる。マンハイムを中心 ちゅうしん としてシュパイアー周辺 しゅうへん までは、ライン=ネッカー広域 こういき 連合 れんごう と呼 よ ばれる大都市 だいとし 圏 けん を形成 けいせい している。マンハイムからヴォルムス を過 す ぎ、ラインラント=プファルツ州都 しゅうと のマインツ でライン川 がわ はマイン川 かわ と合流 ごうりゅう する。ここまでが上 うえ ラインと呼 よ ばれる。マイン川 かわ をさかのぼると、1992年 ねん に開通 かいつう したライン・マイン・ドナウ運河 うんが によってドナウ川 がわ へと水路 すいろ がつながっており、この三 さん 河川 かせん を使用 しよう すれば北海 ほっかい から黒海 こっかい まで河川 かせん のみで行 い くことも可能 かのう である。ライン南岸 なんがん にあるマインツの対岸 たいがん はヘッセン州 しゅう 州都 しゅうと のヴィースバーデン であり、この2都市 とし は二 に 重 じゅう 都市 とし となっている。このマインツ・ヴィースバーデンから東 ひがし のフランクフルト・アム・マイン まではフランクフルト・ライン=マイン広域 こういき 連合 れんごう と呼 よ ばれる大都市 だいとし 圏 けん となっている。
ローレライ
マインツからボン までは中 ちゅう ラインと呼 よ ばれる。この地域 ちいき は丘陵 きゅうりょう に囲 かこ まれた中 なか を流 なが れ、特 とく にマインツ盆地 ぼんち の終 お わるリューデスハイム およびビンゲン からモーゼル川 かわ の合流 ごうりゅう するコブレンツ までの間 あいだ は「ロマンチック・ラインとよばれ、風光 ふうこう 明媚 めいび なことで知 し られている。このロマンチック・ラインの区間 くかん には、ネコ城 じょう など多 おお くの古城 こじょう があり、また中 なか ほどには難所 なんしょ として知 し られたローレライ がある。この風景 ふうけい を楽 たの しむため、マインツからヴィースバーデン、リューデスハイム、コブレンツ、ボン、そしてケルンまでの185キロメートルの間 あいだ にはライン川 がわ 下 くだ りの遊覧 ゆうらん 船 せん が運航 うんこう されており、多 おお くの観光 かんこう 客 きゃく を集 あつ めている。遊覧 ゆうらん 船 せん の起点 きてん はマインツであるが、風光 ふうこう 明媚 めいび な区間 くかん であるリューデスハイムからコブレンツまでを利用 りよう する観光 かんこう 客 きゃく も多 おお い。
ボンから下流 かりゅう になると行政 ぎょうせい 的 てき にはノルトライン=ヴェストファーレン州 しゅう に属 ぞく するようになる。丘陵 きゅうりょう は姿 すがた を消 け し、広々 ひろびろ とした平野 へいや の中 なか を流 なが れるようになる。ここから河口 かこう までを下 した ラインと呼 よ ぶ。この下 した 流域 りゅういき には、ケルン 、レーヴァークーゼン 、デュッセルドルフ を中心 ちゅうしん とするルール地方 ちほう の諸 しょ 都市 とし といった大都市 だいとし が集中 しゅうちゅう し、工業 こうぎょう 地帯 ちたい となっている。なかでもルール地方 ちほう 西端 せいたん でラインに面 めん するデュースブルク はルールの玄関 げんかん 口 こう となっており、ヨーロッパ最大 さいだい の内陸 ないりく 港 みなと となっている。
アイセル湖 こ
ルールを過 す ぎるとライン川 がわ は西 にし へと向 む きを変 か え、オランダ に入 はい る。オランダ領 りょう に入 はい るとすぐ、ライン川 がわ はいくつもの支流 しりゅう に分 わ かれ、網 あみ の目 め のようにオランダ南部 なんぶ に水路 すいろ を広 ひろ げる。もっとも大 おお きな支流 しりゅう はワール川 がわ であり、その他 た 北 きた のアイセル湖 こ へと流 なが れ込 こ むアイセル川 がわ 、ネーデルライン川 がわ が三 さん 大 だい 支流 しりゅう である。ネーデルライン川 がわ はさらにクロメ・ライン川 がわ 、レク川 がわ 、ニューウェ・マース川 がわ など多 おお くの支流 しりゅう に分 わ かれる。ワール川 かわ もまたいくつもの支流 しりゅう に分 わ かれ、南 みなみ から流 なが れてきたマース川 がわ の支流 しりゅう と合流 ごうりゅう ・分離 ぶんり を繰 く り返 かえ す。河口 かこう 近 ちか くのゼーラント州 しゅう 付近 ふきん のライン川 がわ はしばしば大 だい 氾濫 はんらん を起 お こし、また北海 ほっかい の高潮 こうちょう でも大 だい 被害 ひがい を受 う けることが多 おお くあったが、1953年 ねん の大 だい 洪水 こうずい を機 き にライン川 がわ ・マース川 がわ ・スヘルデ川 がわ の三角州 さんかくす 地域 ちいき の河口 かこう をすべて塞 ふさ いでしまう、デルタ計画 けいかく と呼 よ ばれる大 だい 治水 ちすい 工事 こうじ が1958年 ねん に開始 かいし され、1986年 ねん に完成 かんせい した。この計画 けいかく によって、主 しゅ 要港 ようこう であるロッテルダム 並 なら びにアントウェルペン を除 のぞ くすべての河口 かこう が堤防 ていぼう または可動 かどう 堰 せき によって有事 ゆうじ には閉塞 へいそく が可能 かのう になり、両 りょう 主 しゅ 要港 ようこう 沿岸 えんがん の堤防 ていぼう は大幅 おおはば にかさ上 あ げされた[ 3] 。河口 かこう 近 ちか くにはロッテルダムがあり、ユーロポート はラインの河川 かせん 水運 すいうん と北海 ほっかい や大西洋 たいせいよう の海運 かいうん の結節 けっせつ 点 てん として、ヨーロッパ最大 さいだい の港 みなと となっている。
レース(オランダ )におけるライン川 がわ の流量 りゅうりょう (m³/s) (1930年 ねん から1997年 ねん の平均 へいきん データ)[ 4]
中流 ちゅうりゅう 部 ぶ のオーバーライン (ドイツ語 ご 版 ばん ) /ラン・シュペリユール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 地域 ちいき にはナッタージャックヒキガエル (英語 えいご 版 ばん ) 、ヨーロッパビーバー 、ユーラシアカワウソ 、オオホオヒゲコウモリ (英語 えいご 版 ばん ) などの野生 やせい 動物 どうぶつ 、タイセイヨウサケ 、アリスシャッド (英語 えいご 版 ばん ) 、ブラウントラウト 、ヨーロッパカワヤツメ (英語 えいご 版 ばん ) 、ヨーロッパウナギ などの魚類 ぎょるい およびヒメハナバチ属 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) のAndrena chrysopus (スウェーデン語 ご 版 ばん ) 、Andrena marginata (英語 えいご 版 ばん ) およびミヘヤヒゲナガハナバチ属 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) のTetraloniella salicariae (スウェーデン語 ご 版 ばん ) などのハチ 、Aeshna affinis (英語 えいご 版 ばん ) などのトンボ 、Chamaesphecia aerifrons (英語 えいご 版 ばん ) 、Cucullia caninae (スウェーデン語 ご 版 ばん ) 、Luperina dumerilii (英語 えいご 版 ばん ) 、Meganola togatulalis (英語 えいご 版 ばん ) 、Pyropteron (英語 えいご 版 ばん ) などのガ が生息 せいそく している[ 5] [ 6] 。
沿岸 えんがん にラムサール条約 じょうやく 登録 とうろく 地 ち が多 おお く、ボーデン湖 こ 南部 なんぶ に注 そそ ぐライン川 がわ の三角州 さんかくす (ドイツ語 ご 版 ばん ) [ 7] 、ボーデン湖 こ 西部 せいぶ のヴォルマティンガー湿原 しつげん (英語 えいご 版 ばん ) およびミンデル湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) 付近 ふきん 一帯 いったい [ 8] 、ドイツ・フランス国境 こっきょう のライン川 がわ 両側 りょうがわ の沖積 ちゅうせき 平野 へいや のオーバーライン/ラン・シュペリユール地域 ちいき [ 5] [ 6] 、エルトヴィレ・アム・ライン からビンゲン・アム・ライン までのライン川 がわ 氾濫 はんらん 原 ばら [ 9] 、下 しも ニーダーライン(ドイツ語 ご 版 ばん ) 地域 ちいき [ 10] およびオランダのライン・マース・スヘルデ三角州 さんかくす (英語 えいご 版 ばん ) に位置 いち するホランス・ディープ川 がわ [ 11] 、ハーリングフリート川 がわ [ 12] 、フォルケラク川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) [ 13] 、グレーヴェリンゲン湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) [ 14] などは挙 あ げられる。
古 ふる くはライン川 がわ を境界 きょうかい として、西岸 せいがん はケルト人 じん 、東岸 とうがん はゲルマン人 じん が主 おも に居住 きょじゅう していた。しかしユリウス・カエサル のガリア侵攻 しんこう によって西岸 せいがん はロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう となり、ライン川 がわ はローマとゲルマンの境界 きょうかい となった[ 15] 。彼 かれ を継 つ いだローマ皇帝 こうてい アウグストゥス はライン東岸 とうがん へと侵攻 しんこう したものの、9年 ねん にトイトブルク森 もり の戦 たたか い においてローマ軍 ぐん は敗北 はいぼく し、帝国 ていこく の前哨 ぜんしょう 線 せん はライン川 がわ へと戻 もど り、以降 いこう ローマ領 りょう が流域 りゅういき 北部 ほくぶ においては東岸 とうがん に広 ひろ がることはなかった。しかし、流域 りゅういき 南部 なんぶ においては83年 ねん にドミティアヌス帝 みかど がリメス・ゲルマニクスの建設 けんせつ を打 う ち出 だ し、マイン川 かわ からドナウ川 がわ へとつながる長城 ちょうじょう が建設 けんせつ された。これによってライン中 ちゅう ・上 うえ 流域 りゅういき ではリメス が前進 ぜんしん し、ライン両 りょう 岸 きし がロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう に入 はい った。ロ ろ ーマ帝国 まていこく はライン西岸 せいがん に国境 こっきょう 警備 けいび のための砦 とりで や駐屯 ちゅうとん 地 ち として都市 とし を数多 かずおお く建設 けんせつ し、これらの都市 とし にはローマ文化 ぶんか が定着 ていちゃく した。ケルン、コブレンツ、マインツなどはこの都市 とし が元 もと となって現在 げんざい まで存続 そんぞく した都市 とし である。こうした都市 とし は川 かわ の対岸 たいがん のゲルマン人 じん たちとの交易 こうえき を経済 けいざい 基盤 きばん としていた。各 かく 駐屯 ちゅうとん 地 ち の軍 ぐん によってライン川 がわ の河川 かせん 航行 こうこう も安全 あんぜん を保障 ほしょう され、ライン川 がわ は交易 こうえき 路 ろ としても利用 りよう されるようになっていた。
しかしやがてロ ろ ーマ帝国 まていこく は衰 おとろ えを見 み せ始 はじ め、4世紀 せいき に入 はい ると東岸 とうがん のゲルマン人 じん がローマ国境 こっきょう を越 こ え、次々 つぎつぎ と西岸 せいがん へと侵入 しんにゅう した。ゲルマン民族 みんぞく の大 だい 移動 いどう である。これにより西岸 せいがん もゲルマン化 か されていき、やがてライン川 がわ 周辺 しゅうへん 地域 ちいき を中心 ちゅうしん として、フランク王国 おうこく が勢力 せいりょく を拡大 かくだい していく。また、フランク王国 おうこく の勢力 せいりょく 拡大 かくだい とともにこの地域 ちいき には政治 せいじ 的 てき 安定 あんてい が戻 もど り、ライン河口 かこう 地域 ちいき に住 す むフリース人 じん たちが活発 かっぱつ な商業 しょうぎょう 活動 かつどう を展開 てんかい した。フリース人 じん の本拠 ほんきょ はライン川 がわ の分流 ぶんりゅう であるレク川 がわ に面 めん するドレスタットであった。ここからライン川 がわ を遡 さかのぼ りケルンやマインツ、ヴォルムスへと交易 こうえき に赴 おもむ くだけでなく、北海 ほっかい やバルト海 ばるとかい 方面 ほうめん にも交易 こうえき を広 ひろ げていた[ 16] 。フランク王国 おうこく はカール大帝 たいてい の時代 じだい に最盛 さいせい 期 き を迎 むか えるも、その孫 まご の代 だい に分裂 ぶんれつ し、843年 ねん のヴェルダン条約 じょうやく によって[ 17] 、ライン川 がわ 西岸 せいがん は中部 なかべ フランク王国 おうこく のロタール1世 せい に、東岸 とうがん は東 あずま フランク王国 おうこく のルートヴィヒ2世 せい に与 あた えられ[ 18] 、ライン川 がわ は再 ふたた び国境 こっきょう となった。ロタール1世 せい が855年 ねん に崩御 ほうぎょ すると、中部 なかべ フランク王国 おうこく はさらに3分割 ぶんかつ され、ライン川 がわ 西岸 せいがん はロタール2世 せい のロタリンギア に与 あた えられた。しかしロタール2世 せい も869年 ねん に崩御 ほうぎょ すると、870年 ねん のメルセン条約 じょうやく によってロタリンギアは東 あずま フランク王国 おうこく と西 にし フランク王国 おうこく によって東西 とうざい に分割 ぶんかつ され、ライン川 がわ 西岸 せいがん も東 あずま フランク王国 おうこく 領 りょう となった。このフランク王国 おうこく 分裂 ぶんれつ に伴 ともな う政治 せいじ 的 てき 空白 くうはく に乗 じょう じて各地 かくち に進攻 しんこう したのがヴァイキング である。ライン川 がわ にも河口 かこう を中心 ちゅうしん に、コブレンツあたりまでさかのぼって襲撃 しゅうげき を繰 く り返 かえ した。この襲撃 しゅうげき の主 おも な目標 もくひょう になったドレスタットは幾度 いくど も略奪 りゃくだつ され、863年 ねん の襲撃 しゅうげき によって歴史 れきし から姿 すがた を消 け した[ 19] 。
東 あずま フランク王国 おうこく はやがて神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく となり、皇帝 こうてい フリードリヒ1世 せい は 1158年 ねん ロンカリアにおいて「船舶 せんぱく 航行 こうこう 可能 かのう な河川 かせん とその支流 しりゅう 」を国王 こくおう 大権 たいけん (レガーリエン)のもとに置 お き、1165年 ねん には特 とく にライン川 がわ を「帝国 ていこく の自由 じゆう なる公道 こうどう 」とした[ 20] 。しかし、同国 どうこく においては諸侯 しょこう が大 おお きな力 ちから を持 も ち、ライン沿岸 えんがん にも多 おお くの諸侯 しょこう が割拠 かっきょ した。諸侯 しょこう だけでなく、マインツやケルン、トリーアなどの大司教 だいしきょう 、司教 しきょう といった聖 きよし 界 かい 諸侯 しょこう もこの地域 ちいき には多数 たすう 存在 そんざい した。いずれも各地 かくち に城郭 じょうかく を建 た て、ライン川中 かわなか 流域 りゅういき だけでも建造 けんぞう された城 しろ の数 かず は、40を超 こ えた[ 21] 。聖俗 せいぞく の諸侯 しょこう は関所 せきしょ を設 もう けてライン川 がわ を通航 つうこう する商船 しょうせん から通行 つうこう 税 ぜい を取 と り立 た てて財源 ざいげん としたが、その関所 せきしょ は13世紀 せいき 、ビンゲン から河口 かこう までだけでも20か所 しょ も存在 そんざい した[ 22] 。また、このころから商業 しょうぎょう の復活 ふっかつ によりライン河畔 かはん においても再 ふたた び都市 とし が各地 かくち に立地 りっち するようになる。旧 きゅう ロ ろ ーマ帝国 まていこく を起源 きげん とする都市 とし だけでなく、新 あら たな都市 とし が次々 つぎつぎ と建設 けんせつ された。これらの都市 とし はライン交易 こうえき を基盤 きばん として力 ちから を蓄 たくわ え、1254年 ねん にコンラート4世 せい が崩御 ほうぎょ してホーエンシュタウフェン朝 あさ が断絶 だんぜつ し、大 だい 空位 くうい 時代 じだい が始 はじ まると、マインツとヴォルムスとの同盟 どうめい を基軸 きじく としてライン川 がわ 沿 ぞ いの諸 しょ 都市 とし が同盟 どうめい を締結 ていけつ し、ライン都市 とし 同盟 どうめい が同年 どうねん 成立 せいりつ した。この同盟 どうめい は加盟 かめい 都市 とし 60以上 いじょう を数 かぞ えたものの、周辺 しゅうへん 諸侯 しょこう の圧 あつ 力 りょく により1257年 ねん に消滅 しょうめつ した。14世紀 せいき に入 はい ると、北海 ほっかい ・バルト海 ばるとかい 方面 ほうめん で強力 きょうりょく な都市 とし 同盟 どうめい を築 きず いていたハンザ同盟 どうめい が下 しも 流域 りゅういき の諸 しょ 都市 とし に加盟 かめい を呼 よ び掛 か け、流域 りゅういき 有数 ゆうすう の都市 とし であるケルンなど多 おお くの都市 とし が同盟 どうめい に加盟 かめい した。この都市 とし 同盟 どうめい の流 なが れをくみ、ライン上流 じょうりゅう 部 ぶ へと進出 しんしゅつ してきたのがスイス誓約 せいやく 同盟 どうめい である。誓約 せいやく 同盟 どうめい ははじめアルプス山中 さんちゅう で勢力 せいりょく を築 きず いていたものの、1351年 ねん にチューリヒが加盟 かめい したのを皮切 かわき りにライン沿岸 えんがん へと勢力 せいりょく を広 ひろ げ、1415年 ねん にはアールガウを占領 せんりょう 下 か に置 お き、1501年 ねん にはシャフハウゼンとバーゼルの加盟 かめい を認 みと めて[ 23] 、ライン上流 じょうりゅう 部 ぶ を勢力 せいりょく 下 か におさめた。
一方 いっぽう 西方 せいほう の西 にし フランク王国 おうこく はやがてフランス王国 おうこく となり、徐々 じょじょ に中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か を強 つよ めて強国 きょうこく となっていく。この過程 かてい でフランスは諸侯 しょこう の乱立 らんりつ するライン川 がわ 沿岸 えんがん へと徐々 じょじょ に東進 とうしん し、勢力 せいりょく を強 つよ めていった。そうしたなかで、フランスの国境 こっきょう をライン川 がわ へと求 もと める、いわゆる自然 しぜん 国境 こっきょう 説 せつ がフランスで有力 ゆうりょく となった。以後 いご フランスの多 おお くの為政者 いせいしゃ がライン川 がわ 沿岸 えんがん にフランス国境 こっきょう を伸 の ばすことを狙 ねら うようになっていった。一方 いっぽう 、ライン河口 かこう 域 いき においてはネーデルラント 諸 しょ 州 しゅう が北海 ほっかい ・バルト 海 うみ 交易 こうえき を握 にぎ って経済 けいざい 力 りょく を強 つよ めていたが、カルヴァン派 は の強 つよ いこの地方 ちほう はカトリック支配 しはい の強化 きょうか を狙 ねら う領主 りょうしゅ のスペイン王国 おうこく と対立 たいりつ し、1568年 ねん に八 はち 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ する。この戦 たたか いの中 なか でネーデルラントはネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ し、17世紀 せいき には黄金 おうごん 時代 じだい を迎 むか えた。
17世紀 せいき 前半 ぜんはん に入 はい ると、ルイ13世 せい と宰相 さいしょう リシュリュー のもとでフランスは三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう に参戦 さんせん 。1648年 ねん のヴェストファーレン条約 じょうやく によってライン沿岸 えんがん のアルザス 南部 なんぶ を獲得 かくとく し、ラインへの橋頭堡 きょうとうほ を手 て に入 い れる。この動 うご きは次 つぎ のフランス国王 こくおう ルイ14世 せい にも引 ひ き継 つ がれ、大 だい 同盟 どうめい 戦争 せんそう の講和 こうわ 条約 じょうやく である1697年 ねん のレイスウェイク条約 じょうやく によって、フランスは要衝 ようしょう ストラスブールおよびアルザス北部 ほくぶ を獲得 かくとく し、以降 いこう アルザス地域 ちいき はドイツ語 どいつご 圏 けん であるにもかかわらず、基本 きほん 的 てき にはフランス領 りょう として推移 すいい していった。またこれにより、一部 いちぶ ではあるがライン川 がわ はフランスの国境 こっきょう となった。
その後 ご 100年 ねん ほどは大 おお きな動 うご きはなかったものの、フランス革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ し、1792年 ねん にフランス革命 かくめい 戦争 せんそう がはじまると様相 ようそう は一変 いっぺん した。フランスはまず南 みなみ ネーデルラント へ侵攻 しんこう し、1794年 ねん には南 みなみ ネーデルラントとラインラント をほぼ占領 せんりょう した。さらに1795年 ねん にはオランダを占領 せんりょう してバタヴィア共和 きょうわ 国 こく を建国 けんこく させ、ライン川 がわ 以南 いなん を割譲 かつじょう させた。同年 どうねん にはバーゼルの和 わ 約 やく によってプロイセン王国 おうこく もフランスと講和 こうわ し、ラインラント西岸 せいがん の諸 しょ 小国 しょうこく はフランス共和 きょうわ 国 こく へと併合 へいごう された。以後 いご 20年 ねん ほどは自然 しぜん 国境 こっきょう 説 せつ の通 とお り、ライン川 がわ がフランスの国境 こっきょう となっていた。この状況 じょうきょう は1797年 ねん のカンポ・フォルミオの和 わ 約 やく ならびに1801年 ねん のリュネヴィルの和 わ 約 やく によって追認 ついにん されたが、この時 とき にライン西岸 せいがん の領土 りょうど を失 うしな った大 だい 諸侯 しょこう の領土 りょうど をライン東岸 とうがん において保障 ほしょう することが定 さだ められ、1803年 ねん の帝国 ていこく 代表 だいひょう 者 しゃ 会議 かいぎ 主要 しゅよう 決議 けつぎ によって聖 きよし 界 かい 諸侯 しょこう の領土 りょうど の没収 ぼっしゅう (世俗 せぞく 化 か )と帝国 ていこく 騎士 きし など群小 ぐんしょう の領主 りょうしゅ の陪臣 ばいしん 化 か がおこなわれ、このときに沿岸 えんがん の群小 ぐんしょう 諸侯 しょこう の領土 りょうど はかなりが吸収 きゅうしゅう ・整理 せいり され、ある程度 ていど の大 おお きさの諸 しょ 公国 こうこく へとまとめられていった。1806年 ねん にはフランスの圧力 あつりょく のもと、ライン東岸 とうがん の諸 しょ 公国 こうこく が連合 れんごう してライン同盟 どうめい が設立 せつりつ され、ライン両 りょう 岸 きし はフランスの影響 えいきょう 下 か に置 お かれることとなった。しかし、1813年 ねん にライプツィヒの戦 たたか い にフランスが敗 やぶ れるとともにライン同盟 どうめい は空中 くうちゅう 分解 ぶんかい し、結局 けっきょく 1815年 ねん のウィーン会議 かいぎ によって国境 こっきょう はフランス革命 かくめい 以前 いぜん の線 せん にまで戻 もど り、フランスはアルザスこそ確保 かくほ したもののラインラントとネーデルラントを手放 てばな した。ライン両 りょう 岸 きし には、新 あたら しくゆるやかな連合体 れんごうたい であるドイツ連邦 れんぽう が成立 せいりつ し、ラインラントは新 あら たにプロイセンの領土 りょうど となった。プロイセン支配 しはい 下 か のライン川 がわ 沿岸 えんがん では諸 しょ 城 しろ の再建 さいけん が行 おこな われ、中 なか でもフリードリヒ=ヴィルヘルム4世 せい (Friedrich Wilhelm IV.)によるコブレンツ近傍 きんぼう 、シュトルツェンフェルス城 じょう (Burg Stolzenfels)の再建 さいけん はその象徴 しょうちょう となるものであった[ 24] 。
19世紀 せいき 中 ちゅう ごろになると、資源 しげん と水運 すいうん に恵 めぐ まれたライン中 ちゅう 流域 りゅういき 、とくにプロイセン領 りょう となっていたルール地方 ちほう が石炭 せきたん の埋蔵 まいぞう を利用 りよう して大 だい 工業 こうぎょう 地帯 ちたい となった。1833年 ねん にドイツ関税 かんぜい 同盟 どうめい が成立 せいりつ すると、中 ちゅう 流域 りゅういき 各国 かっこく の関税 かんぜい 障壁 しょうへき が撤廃 てっぱい され、おりからの産業 さんぎょう 革命 かくめい の波 なみ も到達 とうたつ したことで、ライン地方 ちほう の経済 けいざい は大 おお きく発展 はってん していく。1816年 ねん にはイギリスの蒸気 じょうき 船 せん がライン川 がわ をはじめて航行 こうこう し、1827年 ねん には定期 ていき 航行 こうこう が開始 かいし された[ 25] 。一方 いっぽう 、ライン川 がわ の航行 こうこう に関 かん してはギルドによる制限 せいげん が1831年 ねん まで続 つづ いていた[ 26] が、19世紀 せいき に入 はい るとライン川 がわ の安定 あんてい 航行 こうこう を求 もと める声 こえ が高 たか まり、1831年 ねん にはフランス、オランダ、プロイセン 、バイエルン 、バーデン 、ヘッセン 、ナッサウ のライン沿岸 えんがん 7カ国 かこく によってライン川 がわ 航行 こうこう 協定 きょうてい (マインツ協定 きょうてい )が締結 ていけつ され、マインツ にライン水運 すいうん 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい が設立 せつりつ され、これによって協定 きょうてい が結 むす ばれて円滑 えんかつ なライン川 がわ の航行 こうこう が行 おこな われるようになった。これらの協定 きょうてい は参加 さんか 国 こく 消滅 しょうめつ 後 ご も後継 こうけい 国家 こっか によって引 ひ き継 つ がれ、また新規 しんき 参加 さんか もあって、21世紀 せいき に入 はい っても存続 そんぞく している。またこの時期 じき 、技術 ぎじゅつ の発達 はったつ と工業 こうぎょう 化 か によって大 だい 規模 きぼ な治水 ちすい 工事 こうじ が可能 かのう となり、ライン地溝 ちこう 帯 たい においてはそれまで幾度 いくど となく変転 へんてん し蛇行 だこう していた河 かわ 道 どう が直線 ちょくせん 化 か ・安定 あんてい 化 か し、ストラスブールなどはこの時期 じき に支流 しりゅう 沿 ぞ いからライン本流 ほんりゅう へと都市 とし を拡大 かくだい していった。
19世紀 せいき 初頭 しょとう 、ラインは空前 くうぜん のツーリズムの聖地 せいち となる。英 えい 文学 ぶんがく ではアン・ラドクリフ のA Journey Made in the Summer of 1794 through Holland and the western Frontier of Germany with a Return down the Rhine (1794)をはじめとして、ジョージ・ゴードン・バイロン の『チャイルド・ハロルドの巡礼 じゅんれい 』(第 だい 3歌 うた 、49-61スタンザ)(1816)やメアリー・シェリー の『フランケンシュタイン 』(1818)、美術 びじゅつ ではマテウス・メーリアン (1593‐1650)の銅 どう 版画 はんが 、ヘルマン・サフトレーフェン (1609-1685)、Reverend John Gardnor(1729-1808)やジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー (1775-1851)等 とう の絵画 かいが ・版画 はんが がイギリス人 じん を主 おも とするラインへの大衆 たいしゅう ツーリズムの発生 はっせい に貢献 こうけん した[ 27] 。当時 とうじ のイギリス人 じん の旅行 りょこう 熱 ねつ について、ゲーテ はファウスト 第 だい 2部 ぶ 、「古典 こてん 的 てき なワルプルギスの古戦場 こせんじょう 」7118-7121行 ぎょう においてメフィストフェレスに、「ここにイギリス人 じん はいませんか。あの連中 れんちゅう ときたら大 だい の旅行 りょこう 好 す きで、/古戦場 こせんじょう やら、滝 たき の名所 めいしょ やら、城 しろ の廃墟 はいきょ やら、/古色 こしょく 蒼然 そうぜん とした陰気 いんき な場所 ばしょ を訪 たず ねまわっている。/ここなんぞは奴 やつ さんたちがありがたりそうなところだ」と言 い わせている[ 28] 。
19世紀 せいき 後半 こうはん になると、この地域 ちいき の政治 せいじ 情勢 じょうせい は再 ふたた び大 おお きく動 うご く。ドイツ統一 とういつ への動 うご きが高 たか まる中 なか 、1866年 ねん の普 あまね 墺 おう 戦争 せんそう で勝利 しょうり したプロイセンはドイツの主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ り、同年 どうねん 北 きた ドイツ連邦 れんぽう を結成 けっせい してライン中部 ちゅうぶ の諸 しょ 邦 くに を事実 じじつ 上 じょう 併合 へいごう した。この動 うご きに警戒 けいかい 心 しん を高 たか めたフランス帝国 ていこく との間 あいだ で1870年 ねん に普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう が起 お こるもののプロイセンは大勝 たいしょう して、1871年 ねん に南部 なんぶ ドイツ諸 しょ 邦 くに をも含 ふく めたドイツ帝国 ていこく が成立 せいりつ 。ドイツはライン東岸 とうがん のほとんどの部分 ぶぶん を自国 じこく 領 りょう とし、さらに同年 どうねん のフランクフルト講和 こうわ 条約 じょうやく においてフランスはドイツにアルザス=ロレーヌ を割譲 かつじょう 。ライン沿岸 えんがん からフランスは駆逐 くちく され、下流 かりゅう と上流 じょうりゅう の一部 いちぶ を除 のぞ くライン本流 ほんりゅう の大 だい 部分 ぶぶん がドイツ領 りょう となった。
ドイツ領 りょう となったアルザス=ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)であるが、この地方 ちほう はドイツ帝国 ていこく 政府 せいふ の直轄 ちょっかつ 統治 とうち 下 か におかれ、居住 きょじゅう するドイツ系 けい のアルザス人 じん の間 あいだ には二 に 級 きゅう 市民 しみん 扱 あつか いされる不満 ふまん があり、1913年 ねん にはツァーベルン事件 じけん がおきてこの地方 ちほう の政治 せいじ は大 おお きく動揺 どうよう する。しかし、翌年 よくねん の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ により、この対立 たいりつ が致命 ちめい 的 てき なものとなることはなかった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん はフランスを含 ふく む協商 きょうしょう 国 こく の勝利 しょうり に終 お わり、1919年 ねん のヴェルサイユ条約 じょうやく においてフランスはアルザス=ロレーヌを奪回 だっかい し、さらにライン川 がわ 左岸 さがん 50キロメートルの非 ひ 武装 ぶそう 化 か をドイツに認 みと めさせた。しかしこの条約 じょうやく はドイツに非常 ひじょう に強 つよ い不満 ふまん を呼 よ び起 お こし、やがてアドルフ・ヒトラー とナチス の台頭 たいとう を招 まね く一因 いちいん となった。1936年 ねん にドイツはラインラント進駐 しんちゅう をおこない、ラインラントを再 さい 武装 ぶそう 化 か する。これに対 たい しフランス側 がわ はライン川 がわ にほぼ沿 そ う形 かたち でマジノ線 せん を建設 けんせつ し、ドイツ側 がわ もこれに対抗 たいこう すべくジークフリート線 せん を建設 けんせつ して両 りょう 軍 ぐん は対立 たいりつ の度 たび を深 ふか める。1940年 ねん にはナチス・ドイツのフランス侵攻 しんこう が起 お こり、勝利 しょうり したドイツはアルザス・ロレーヌを再 ふたた び併合 へいごう した。しかし第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん はドイツの敗北 はいぼく に終 お わり、1945年 ねん にはフランスは再 ふたた びアルザス・ロレーヌを奪回 だっかい し、現在 げんざい の国境 こっきょう 線 せん がここで確定 かくてい した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、ドイツはイギリス、フランス、アメリカ、ソヴィエト連邦 れんぽう の4か国 こく によって分割 ぶんかつ 占領 せんりょう され、ライン沿岸 えんがん も下 しも 流域 りゅういき がイギリス、ライン西岸 せいがん と東岸 とうがん のうちの南部 なんぶ がフランス、東岸 とうがん の残 のこ りがアメリカにそれぞれ占領 せんりょう された。この時期 じき に行政 ぎょうせい 区 く が統合 とうごう ・整理 せいり され、イギリス占領 せんりょう 地域 ちいき がノルトライン=ヴェストファーレン州 しゅう 、フランス占領 せんりょう 地域 ちいき がラインラント=プファルツ州 しゅう とバーデン=ヴュルテンベルク州 しゅう 、アメリカ占領 せんりょう 地域 ちいき がヘッセン州 しゅう とバーデン=ヴュルテンベルク州 しゅう にそれぞれ再編 さいへん された。やがてこの三 さん か国 こく の占領 せんりょう 地域 ちいき を統合 とうごう する形 かたち で1949年 ねん に西 にし ドイツ が成立 せいりつ する。西 にし ドイツは本来 ほんらい 首都 しゅと であるべきベルリンを一部 いちぶ しか確保 かくほ できず(西 にし ベルリン )、また西 にし ベルリンはほかの国土 こくど から全 まった く切 き り離 はな されていたので、暫定 ざんてい 首都 しゅと がライン川 がわ 沿 ぞ いのボン におかれた。西 にし ドイツはやがて経済 けいざい の奇跡 きせき と呼 よ ばれる経済 けいざい 成長 せいちょう を遂 と げ、ライン川 がわ 沿 ぞ いは世界 せかい 有数 ゆうすう の産業 さんぎょう 地帯 ちたい として発展 はってん を続 つづ けた。1990年 ねん にはドイツが再 さい 統一 とういつ され、統一 とういつ ドイツの首都 しゅと はボンからベルリンに移 うつ された。1992年 ねん にはライン・マイン・ドナウ運河 うんが が完成 かんせい し、支流 しりゅう のマイン川 かわ を通 つう じて欧州 おうしゅう の東西 とうざい が内陸 ないりく 水運 すいうん で連結 れんけつ されることとなった。
現在 げんざい のライン川 がわ 付近 ふきん は、スイスとリヒテンシュタイン とオーストリア のフォアアールベルク州 しゅう の一部 いちぶ 、およびドイツ、ドイツとフランスの自然 しぜん 国境 こっきょう となっている。
ロッテルダム港 こう 。ライン川 がわ 水運 すいうん と外洋 がいよう 水運 すいうん との結節 けっせつ 点 てん であり、世界一 せかいいち の取扱 とりあつかい 量 りょう を誇 ほこ る港 みなと である
ライン川 がわ は古 ふる くから沿岸 えんがん 地域 ちいき の交通 こうつう の大動脈 だいどうみゃく であり、現代 げんだい においてもその役割 やくわり は非常 ひじょう に大 おお きい。河口 かこう から上流 じょうりゅう のシャフハウゼンまでは全 まった く滝 たき がなく水量 すいりょう も多 おお いため、そこまでの全域 ぜんいき で船舶 せんぱく の航行 こうこう が可能 かのう である。これは古代 こだい からそのままであり、ローレライなどの難所 なんしょ はあるものの古 ふる くからこの地域 ちいき の大動脈 だいどうみゃく としてライン川 がわ は機能 きのう してきた。
1783年 ねん から1784年 ねん にかけての冬 ふゆ は大 だい 寒波 かんぱ がヨーロッパ全域 ぜんいき に被害 ひがい をもたらした冬 ふゆ である。ドナウ川 がわ では、有名 ゆうめい なレーゲンスブルク の石橋 いしばし の中 ちゅう 塔 とう (Mittelturm)がドナウ川 がわ の氷塊 ひょうかい によって倒壊 とうかい したが[ 29] 、ライン川 がわ では、ケルンの辺 あた りに厚 あつ さ5-8 m程 ほど の氷 こおり のじゅうたんが形成 けいせい され、洪水 こうずい が発生 はっせい して沿岸 えんがん の地域 ちいき に甚大 じんだい な損害 そんがい をあたえた[ 30] 。
ライン川 がわ に蒸気 じょうき 船 せん が登場 とうじょう したのは、1816年 ねん のことであるが、蒸気 じょうき 船 せん の運行 うんこう が一般 いっぱん 化 か するまで船 ふね が川 かわ を遡 さかのぼ るには、川 かわ 沿 ぞ いに設 もう けられた道 みち 、「船 ふね 曳 ひ き道 どう 」(ドイツ語 ご でトライデルプファート:Treidelpfadないしトライデルヴェーク:Treidelweg)を通 とお って、人 ひと あるいは馬 うま が、船 ふね の帆柱 ほばしら から張 は られたロープを曳 ひ かねばならなかった。最初 さいしょ のうちは、土地 とち の農民 のうみん が臨時 りんじ にその仕事 しごと を果 は たしていたが、後 のち に船 ふね 曳 ひ きを専門 せんもん とする人々 ひとびと が現 あらわ れ、組合 くみあい が結成 けっせい され、組合 くみあい の規定 きてい が定 さだ められた。18世紀 せいき の規定 きてい が現存 げんそん する。1636年 ねん イングランド王 おう チャールズ1世 せい はThomas Howardをプラハ に向 む けて派遣 はけん したが、一 いち 行 ぎょう の旅 たび の記録 きろく によると、全長 ぜんちょう 26 mの船 ふね をケルン からドラッフェンフェルス(Drachenfels)まで8-9頭 とう の馬 うま が曳 ひ いたと記 しる されている[ 31] 。
1816年 ねん のライン川 がわ への蒸気 じょうき 船 せん の登場 とうじょう 以降 いこう ラインの船旅 ふなたび は次第 しだい に人気 にんき を得 え ていき、1827年 ねん には18624人 にん の人々 ひとびと がケルン からマインツ まで船 ふね の旅 たび をした。1829年 ねん の乗客 じょうきゃく は約 やく 12万 まん 人 にん に達 たっ したが、その半数 はんすう はイギリス人 じん であった。年々 ねんねん 増加 ぞうか する乗客 じょうきゃく 数 すう は1850年 ねん 頃 ころ から1890年 ねん までの期間 きかん 、年間 ねんかん 約 やく 100万 まん 人 にん にまで達 たっ したが、その半数 はんすう はやはりイギリス人 じん であった[ 32] 。
ライン川 がわ においては、河口 かこう のロッテルダム港 こう 、およびライン川 がわ と分流 ぶんりゅう や運河 うんが によってつながるアムステルダム 港 みなと ならびにアントウェルペン 港 みなと から、内陸 ないりく 諸 しょ 港 みなと へと向 む けて運 はこ ばれる海上 かいじょう コンテナ輸送 ゆそう の割合 わりあい が大 おお きい。これは、ボン港 こう やマインツ港 こう などでコンテナ設備 せつび が整 ととの っていることや、沿岸 えんがん 各 かく 港 みなと からの陸路 りくろ 接続 せつぞく ルートが非常 ひじょう に整備 せいび されていることがあげられる。また、分流 ぶんりゅう を通 とお ってロッテルダム港 こう とアントウェルペン港 こう との間 あいだ の輸送 ゆそう が非常 ひじょう に活発 かっぱつ に行 おこな われており、これがライン川 がわ 輸送 ゆそう において大 おお きな部分 ぶぶん を占 し めている[ 33] 。特 とく にドイツにおいてライン川 がわ 水運 すいうん の重要 じゅうよう 性 せい は高 たか く、1996年 ねん にはドイツの内陸 ないりく 港湾 こうわん の総 そう 貨物 かもつ 取扱 とりあつかい 量 りょう 1億 おく 4,370万 まん トンのうち、ライン川 がわ 諸 もろ 港 こう ではその3分 ぶん の2にあたる9,270万 まん トンが扱 あつか われていた[ 34] 。
1831年 ねん にはフランス、オランダ、プロイセン 、バイエルン 、バーデン 、ヘッセン 、ナッサウ のライン沿岸 えんがん 7カ国 かこく によってライン川 がわ 航行 こうこう 協定 きょうてい (マインツ協定 きょうてい )が締結 ていけつ され、マインツ にライン水運 すいうん 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい が設立 せつりつ され、これによって協定 きょうてい が結 むす ばれて円滑 えんかつ なライン川 がわ の航行 こうこう が行 おこな われるようになった。この委員 いいん 会 かい は1861年 ねん にはマンハイムへと移 うつ り、1868年 ねん にはマインツ協定 きょうてい を改正 かいせい した改正 かいせい ライン川 がわ 船舶 せんぱく 航行 こうこう 法 ほう (マンハイム協定 きょうてい )が締結 ていけつ される。これらの協定 きょうてい は参加 さんか 国 こく 消滅 しょうめつ 後 ご も後継 こうけい 国家 こっか によって引 ひ き継 つ がれ、また新規 しんき 参加 さんか もあって、その後 ご も継続 けいぞく した。1920年 ねん には委員 いいん 会 かい はストラスブールに移 うつ り、21世紀 せいき に入 はい っても存続 そんぞく している。
ライン川 がわ 沿岸 えんがん は各種 かくしゅ 工業 こうぎょう が発達 はったつ した工業 こうぎょう 地域 ちいき であり、とくに下流 かりゅう のルール工業 こうぎょう 地帯 ちたい はドイツ最大 さいだい の重工業 じゅうこうぎょう 地帯 ちたい として発達 はったつ してきた。
また、とくにドイツの中 なか ラインから上 うえ ラインにかけてはブドウ の栽培 さいばい が盛 さか んであり、ライン川 がわ の両 りょう 岸 きし の丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい にはブドウ畑 はたけ が広 ひろ がり、各地 かくち にドイツワイン の名産 めいさん 地 ち が点在 てんざい する。ドイツワインはライン本流 ほんりゅう 沿岸 えんがん 、および支流 しりゅう のモーゼル川 かわ 沿岸 えんがん が主 しゅ 産地 さんち となっている。ライン沿岸 えんがん のブドウ栽培 さいばい の北限 ほくげん はボンの対岸 たいがん にあるケーニヒスヴィンターであるが、ここは同時 どうじ にドイツ最 さい 北 きた のブドウ栽培 さいばい 地 ち となっている[ 35] 。
また、ライン川 がわ 沿岸 えんがん には観光 かんこう 地 ち も多数 たすう 存在 そんざい し、ヴィースバーデンからコブレンツまでのライン川 がわ 下 くだ りや古城 こじょう めぐりなどにも多 おお くの観光 かんこう 客 きゃく が訪 おとず れる。
ライン川 がわ はヨーロッパでもっとも開発 かいはつ された地域 ちいき を流 なが れ、周辺 しゅうへん 人口 じんこう も稠密 ちゅうみつ で大 だい 規模 きぼ な工業 こうぎょう 地帯 ちたい が各地 かくち に立地 りっち することから、水質 すいしつ 汚染 おせん が問題 もんだい となっている。この問題 もんだい を解決 かいけつ するため、1950年 ねん には国際 こくさい ライン汚染 おせん 防止 ぼうし 委員 いいん 会 かい が設置 せっち され、1963年 ねん には常設 じょうせつ 化 か されて水質 すいしつ 汚染 おせん の対応 たいおう にあたった[ 2] 。
2022年 ねん には旱魃 かんばつ により水位 すいい が大幅 おおはば に低下 ていか し、輸送 ゆそう 船 せん やクルーズ船 せん の航行 こうこう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている[ 36] 。
スイス
フランス
ドイツ
オランダ
トゥーア川 がわ (Thur )
テス川 がわ (Töss )
アーレ川 がわ (Aar 、Aare )
ビルス川 がわ (Birs )
ビルズィヒ川 がわ (Birsig )
イル川 がわ
モーデル川 がわ (Moder )
ロイター川 がわ (Lauter )
ナーエ川 がわ (Nahe )
モーゼル川 かわ
ネッテ川 がわ (Nette )
アール川 がわ (Ahr )
エルフト川 がわ (Erft )
マース川 がわ (Meuse 、ライン川 がわ デルタで一部 いちぶ ライン川 がわ へ合流 ごうりゅう する)
ヒンターライン川 がわ (Hinterrhein )
イル川 がわ (Ill )
シュッセン川 がわ (Schussen )
ヴタハ川 がわ (Wutach )
アルプ川 がわ (Alb )
ヴィーゼ川 がわ (Wiese )
エルツ川 がわ (Elz )
キンツィヒ川 がわ (Kinzig )
レンヒ川 がわ (Rench )
アヒェル川 がわ (Acher )
ムルク川 がわ (Murg )
アルプ川 がわ (Alb )
プフィニツ川 がわ (Pfinz )
ネッカー川 がわ (Neckar )
マイン川 かわ (Main )←ライン・マイン・ドナウ運河 うんが →ドナウ川 がわ →黒海 こっかい
ラーン川 がわ (Lahn )
ヴィート川 がわ (Wied )
ジーク川 かわ (Sieg )
ヴッペル川 がわ (Wupper )
ドュッセル川 がわ (Düssel )
ルール川 がわ (Ruhr )
エムシャー川 がわ (Emscher )
リッペ川 がわ (Lippe )
旧 きゅう アイセル川 がわ (Oude IJssel )
ベルケル川 がわ (Berkel )
レック川 かわ (Lek、オランダ国内 こくない で2分岐 ぶんき した一方 いっぽう )→北海 ほっかい
ワール川 がわ (Waal、オランダ国内 こくない で2分岐 ぶんき した一方 いっぽう )→北海 ほっかい
ライン川 がわ については1932年 ねん に初 はじ めて1,320キロメートルと記載 きさい された事典 じてん が出版 しゅっぱん されていたが、ケルン大学 だいがく の学者 がくしゃ が20世紀 せいき 初頭 しょとう の事典 じてん には1,230キロメートルと記載 きさい されているのに気 き づき、自分 じぶん で分析 ぶんせき したところ1,233キロメートル前後 ぜんこう であるとの結論 けつろん を得 え た。百 ひゃく と十 じゅう の位 い を書 か き間違 まちが えたうっかりミスが原因 げんいん で、誤 あやま った数字 すうじ が定着 ていちゃく したとみられる[ 37] [ 38] 。
ライン川 がわ が重要 じゅうよう な事件 じけん の舞台 ぶたい となる文学 ぶんがく 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6 )
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^ なお、カエサルは『ガリア戦記 せんき 』第 だい 4巻 かん 10においてライン川 がわ について以下 いか のように記述 きじゅつ している。「レヌス川 がわ はアルプス山岳 さんがく 地帯 ちたい に住 す むレポンティイ族 ぞく の領土 りょうど に発 はっ し、烈 はげ しい勢 いきお いで、ナントゥアテス、ヘルウェティイ、セクアニ、メディオマトリキ、トリボキ、トレウェリの諸 しょ 族 ぞく の領土 りょうど を通 とお って延々 えんえん と流 なが れ、大西洋 たいせいよう に近 ちか づいたとき、多 おお くの支流 しりゅう に枝分 えだわ かれし、その間 あいだ に多数 たすう の大 おお きな島 しま や洲 しゅう をつくっている。この島々 しまじま の大半 たいはん には、獰猛 どうもう な野蛮 やばん 民族 みんぞく が住 す む。その中 なか には、魚 さかな や鳥 とり の卵 たまご だけで生 い きていると考 かんが えられる部族 ぶぞく もいる。最後 さいご に、レヌス川 がわ は多 おお くの河口 かこう から大西洋 たいせいよう に注 そそ ぎこむ」。ユリウス・カエサル『カエサル文集 ぶんしゅう ガリア戦記 せんき ・内乱 ないらん 記 き 』(國原 くにはら 吉之助 よしのすけ 訳 わけ )筑摩書房 ちくましょぼう 、1981年 ねん 、54頁 ぺーじ 。
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^ 「商業 しょうぎょう 史 し 」p180 石坂 いしざか 昭雄 あきお 、壽 ことぶき 永 えい 欣三郎 きんざぶろう 、諸田 もろた 實 みのる 、山下 やました 幸夫 ゆきお 著 ちょ 有斐閣 ゆうひかく 1980年 ねん 11月20日 にち 初版 しょはん 第 だい 1刷 さつ
^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6 ), S. 111-132.
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^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6 ), S. 147-149.
^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6 ), S. 134-137.
^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6 ), S. 141.
^ http://www.itej.or.jp/assets/www/html/archive/jijyou/201007_00.pdf 「ヨーロッパにおける河川 かせん 輸送 ゆそう の現状 げんじょう と今後 こんご の展望 てんぼう
─ライン川 がわ におけるコンテナ輸送 ゆそう を中心 ちゅうしん に─」 p83-84 小澤 おざわ 茂樹 しげき (月刊 げっかん 運輸 うんゆ と経済 けいざい 2010年 ねん 07月 がつ 号 ごう 「離島 りとう における交通 こうつう の諸 しょ 問題 もんだい 」所収 しょしゅう ) 一般 いっぱん 財団 ざいだん 法人 ほうじん 運輸 うんゆ 調査 ちょうさ 局 きょく
^ 『事典 じてん 現代 げんだい のドイツ』p475(大修館書店 たいしゅうかんしょてん 、1998年 ねん )
^ 『事典 じてん 現代 げんだい のドイツ』p540(大修館書店 たいしゅうかんしょてん 、1998年 ねん )
^ “干 かん ばつ、洪水 こうずい …各国 かっこく の観光 かんこう 地 ち に「気候 きこう 変動 へんどう 」の猛威 もうい 世界 せかい 的 てき な猛暑 もうしょ の影響 えいきょう は?(Pen Online) ”. Yahoo!ニュース . 2022年 ねん 8月 がつ 31日 にち 閲覧 えつらん 。
^ ライン川 がわ 、90キロ短 みじか かった? 2010年 ねん 3月 がつ 29日 にち 6時 じ 52分 ふん 配信 はいしん ・時事通信 じじつうしん [リンク切 き れ ]
^ 「ライン川 がわ 、本当 ほんとう は90キロ短 みじか かった――1932年 ねん の事典 じてん が記載 きさい ミス」『朝日新聞 あさひしんぶん 』2010年 ねん 4月 がつ 1日 にち 付 づけ 朝刊 ちょうかん 、第 だい 13版 はん 、第 だい 9面 めん 。
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