グローテ・マルクト のアントウェルペン市庁舎 しちょうしゃ (Stadhuis van Antwerpen )
ハントシェーンマルクトの聖母 せいぼ 大 だい 聖堂 せいどう 。低地 ていち 地方 ちほう 最大 さいだい の大 だい 聖堂 せいどう であり、ルーベンス の三 さん 連 れん 祭壇 さいだん 画 が がある。現在 げんざい も市内 しない 最大 さいだい の建造 けんぞう 物 ぶつ
運河 うんが に架 か かる橋 はし
アントウェルペン (オランダ語 ご : Antwerpen [ˈɑntʋɛrpə(n)] ( 音声 おんせい ファイル ) , フランス語 ふらんすご : Anvers [ɑ̃vɛʁ(s)] , 英語 えいご : Antwerp [ˈæntwɜrp] , ドイツ語 ご 旧称 きゅうしょう : Antorf, Antorff )は、ベルギー のフランデレン地域 ちいき ・アントウェルペン州 しゅう の州都 しゅうと である。首都 しゅと ブリュッセル に次 つ ぐ同国 どうこく 第 だい 2の都市 とし で、都市 とし 圏 けん 人口 じんこう は約 やく 120万 まん 人 にん 。市 し としては最多 さいた の人口 じんこう を持 も ち、2020年 ねん 1月 がつ 1日 にち の総 そう 人口 じんこう は52万 まん 7763人 にん 。面積 めんせき は204.51 km2 , 人口 じんこう 密度 みつど は2581人 にん /km2 である[1] 。
オランダ のロッテルダム と共 とも に欧州 おうしゅう を代表 だいひょう する港湾 こうわん 都市 とし の1つ[2] 。
英語 えいご 名 めい に由来 ゆらい するアントワープ や、フランス語 ふらんすご 名 めい に由来 ゆらい するアンヴェルス (アンベルス )[注釈 ちゅうしゃく 1] も日本語 にほんご の表記 ひょうき においてよく用 もち いられる。
街 まち の名称 めいしょう は、古 ふる くは巨人 きょじん アンティゴーン と英雄 えいゆう ブラボー の伝説 でんせつ に由来 ゆらい するとされてきた。スヘルデ川 がわ の川岸 かわぎし の城 しろ に住 す む巨人 きょじん ドルオン・アンティゴーン は、城 しろ 付近 ふきん を通 とお り過 す ぎる船 ふね に通行 つうこう 料 りょう を求 もと め、それに応 おう じない者 もの に対 たい しては、その手 て を切 き り落 お として河 かわ へ放 ひ り捨 す てた。しかし、ついにローマ の戦士 せんし ブラボーがアンティゴーンの息 いき の根 ね を止 と め、手 て を切 き り落 お として河 かわ へ投 な げ捨 す てた。Antwerpen はこの出来事 できごと に由来 ゆらい し、handwerpen(hand 手 て + werpen 投 な げる)が元 もと になっているという[3] 。現在 げんざい のアントウェルペン市庁舎 しちょうしゃ 前 まえ には、この伝説 でんせつ を主題 しゅだい とする記念 きねん 碑 ひ 「ブラボーの噴水 ふんすい 」がある。これは民間 みんかん 語源 ごげん であるものの、手 て を切断 せつだん することは実際 じっさい に当時 とうじ のヨーロッパで行 おこな われており、中世 ちゅうせい には死者 ししゃ の右手 みぎて が切断 せつだん され、「死 し 手 しゅ 譲渡 じょうと 」の証拠 しょうこ として封建 ほうけん 領主 りょうしゅ に送 おく られることもあった。
しかし、19世紀 せいき の歴史 れきし 家 か ・外交 がいこう 官 かん ジョン・ロスロップ・モトリー は、アントウェルペンという名称 めいしょう を「an 't werf (on the wharf、wharfは波止場 はとば )」、または「Aan 't werp(at the warp)」に由来 ゆらい するという議論 ぎろん を展開 てんかい した。ここでの「warp」とは、高潮 こうちょう でも農地 のうち が水浸 みずびた しにならないだけの土手 どて を築 きず いたことを指 さ しており、農民 のうみん たちは堤防 ていぼう の先 さき に農地 のうち を広 ひろ げていった。「werp」という語 かたり には「pol(ポルダー 、干拓 かんたく 地 ち )」という意味 いみ もある。
現在 げんざい 最 もっと も有力 ゆうりょく な説 せつ は、ガロ・ローマ文化 ぶんか 期 き のラテン語 らてんご 「antverpia」であり、アントウェルペンはかつてのスヘルデ川 がわ の湾曲 わんきょく にそって形成 けいせい されたとする。この語 かたり は「Ante」(before)と「Verpia (砂 すな などの粒子 りゅうし が水 みず などによって堆積 たいせき 、沈殿 ちんでん したもの)」に由来 ゆらい しており、スヘルデ川 がわ の湾曲 わんきょく に伴 ともな う堆積 たいせき 作用 さよう によって土地 とち が形成 けいせい されていったことを示 しめ している。ただし、スヘルデ川 がわ は7世紀 せいき から8世紀 せいき 半 なか ば頃 ごろ に流 なが れが変 か わっており、かつての流域 りゅういき は、街 まち の南部 なんぶ にある現在 げんざい の環状 かんじょう 道路 どうろ とほぼ一致 いっち していると考 かんが えられる。[4]
スヘルデ川 がわ の右岸 うがん に位置 いち する。スヘルデ川 がわ はオランダ南西 なんせい 部 ぶ ゼーラント州 しゅう の西部 せいぶ スヘルデ河口 かこう 域 いき (Westerschelde) を経 へ て北海 ほっかい につながっている。アントウェルペンには大 おお きな正統 せいとう 派 は ユダヤ人 じん (ハレーディー )のコミュニティがあり、そこから「西 にし のエルサレム 」との綽名がある。ダイヤモンド 研磨 けんま 用 よう の円盤 えんばん (Scaif ) を発明 はつめい したローデウィク・ファン・ベルケン (Lodewyk van Berken) もユダヤ系 けい ベルギー人 じん であり、この発明 はつめい によってユダヤ人 じん のダイヤモンドカット職人 しょくにん が多 おお くなり、町 まち もダイヤモンド取引 とりひき およびカット・研磨 けんま の中心 ちゅうしん として著名 ちょめい になった。
1990年代 ねんだい からはファッションの街 まち としても名 な がある。これは王立 おうりつ 美術 びじゅつ 学校 がっこう の何人 なんにん かの卒業生 そつぎょうせい がモード界 かい で国際 こくさい 的 てき な成功 せいこう を収 おさ めたことに起因 きいん する。
アントウェルペン動物 どうぶつ 園 えん (英語 えいご 版 ばん ) は1843年 ねん 開園 かいえん で、世界 せかい でも最古 さいこ また最 もっと も有名 ゆうめい な動物 どうぶつ 園 えん のひとつである。この動物 どうぶつ 園 えん は市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ にあり、4,000種 しゅ 以上 いじょう の動物 どうぶつ を飼育 しいく している。王立 おうりつ 動物 どうぶつ 学 がく 協会 きょうかい は多 おお くの動物 どうぶつ の扱 あつか いを見守 みまも っており、100年 ねん 以上 いじょう に渡 わた って絶滅 ぜつめつ 危惧 きぐ 種 しゅ の保護 ほご にあたってきた。
区域 くいき
行政 ぎょうせい 区域 くいき としてのアントウェルペンは9つの地区 ちく からなる。
アントウェルペン
ベルヘム
ベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ
ボルヘルハウト
デールヌ
エーケレム
ホーボーケン
メルクセム
ウィルレイク
1806年 ねん から1970年 ねん までは12月31日 にち における人口 じんこう 、1980年 ねん からは1月 がつ 1日 にち における人口 じんこう 。
1923年 ねん :ブルホトとツワインドレヒトがアントウェルペンに合併 がっぺい された (市域 しいき は+11,77 km²、住民 じゅうみん は+2.426人 にん )
1929年 ねん :オールデレン 、オーステルウィール、ウィルマースドンク がアントウェルペンと合併 がっぺい した。(市域 しいき は+46,29 km²、住民 じゅうみん は+5.543人 にん )
1958年 ねん :ベーレンドレヒト、ザントフリート、リロ(あわせて現在 げんざい のベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ)がアントウェルペンと合併 がっぺい した。(市域 しいき は+52,93 km²、住民 じゅうみん は+7.249 人 にん )
1983年 ねん :ベルヘム、ボルケルハウト、デウネ、ホーボーケン、メルクセム 、ウィルレイクと大 だい 部分 ぶぶん のエーケレムがアントウェルペンと合併 がっぺい した。これにより大幅 おおはば に市民 しみん 数 すう が増加 ぞうか した。(市域 しいき は+64,68 km²、住民 じゅうみん は+305.503人 にん )
オランダ語 ご がアントウェルペンの公用 こうよう 語 ご である。地元 じもと の人々 ひとびと はそのアントウェルペン方言 ほうげん を用 もち いている。いくらかの人々 ひとびと の間 あいだ ではフランス語 ふらんすご も話 はな される。大 だい 多数 たすう の住民 じゅうみん 、特 とく に若 わか い世代 せだい の多 おお くはかなり流暢 りゅうちょう な英語 えいご を話 はな す。モロッコやトルコなどからの移民 いみん はアラビア語 ご 、ベルベル語 ご やトルコ語 ご などを用 もち いている。若干 じゃっかん の正統 せいとう 派 は ユダヤ教 きょう の人々 ひとびと はイディッシュ語 ご を話 はな す。
古代 こだい から中世 ちゅうせい [ 編集 へんしゅう ]
歴史 れきし 上 じょう 、アントウェルペンはガロ・ローマ文明 ぶんめい の集落 しゅうらく にその起源 きげん があると考 かんが えられる。スヘルデ川 がわ 付近 ふきん における最古 さいこ の集落 しゅうらく がある地域 ちいき で1952年 ねん から1961年 ねん にかけて発掘 はっくつ が行 おこな われ、2世紀 せいき 半 なか ばから3世紀 せいき 末 まつ の陶器 とうき や杯 はい の破片 はへん が出土 しゅつど している。その後 ご 、ゲルマン人 じん のフランク族 ぞく が進出 しんしゅつ した。メロヴィング朝 あさ 期 き においてアントウェルペンに砦 とりで が築 きず かれ、7世紀 せいき 頃 ごろ に聖 せい アマンドゥスによってキリスト教化 きょうか された。10世紀 せいき 末 まつ 、スヘルデ川 がわ は神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく における境界 きょうかい となった。アントウェルペンには辺境 へんきょう 伯 はく が置 お かれ、フランドル伯 はく と対峙 たいじ した。11世紀 せいき 、ゴドフロワ・ド・ブイヨン が、数 すう 年間 ねんかん アントウェルペンを治 おさ めた。12世紀 せいき 、聖 せい ノルベルト(ノルベルト・フォン・クサンテン )が、プレモントレ会則 かいそく に基 もと づくサン・ミシェル修道院 しゅうどういん を建 た てた。14世紀 せいき 前半 ぜんはん に英 えい 仏 ふつ 百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ するが、フランドル地方 ちほう の毛織物 けおりもの 産業 さんぎょう はイングランド の羊毛 ようもう 産業 さんぎょう と密接 みっせつ なつながりがあったため、親 おや イングランドの立場 たちば をとろうとした。そのため、フランス 王 おう と結 むす んでいるフランドル伯 はく に対抗 たいこう して、ヤコブ・ヴァン・アルテベルデ がフランドル都市 とし 連合 れんごう 指導 しどう 者 しゃ となり、イングランド側 がわ を支持 しじ する姿勢 しせい をとった。アントウェルペンは、この百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう 初期 しょき にイングランド王 おう エドワード3世 せい とヤコブ・ヴァン・アルテベルデが交渉 こうしょう にとりかかった際 さい の拠点 きょてん でもあった。エドワードの息子 むすこ ライオネル・オブ・アントワープ は、アントウェルペンで生 う まれている。
15世紀 せいき 前半 ぜんはん 、フランドル諸 しょ 都市 とし は、イングランド産 さん 毛織物 けおりもの の流入 りゅうにゅう によって市場 いちば を奪 うば われることを望 のぞ まず、ブルゴーニュ公 こう に働 はたら きかけて輸入 ゆにゅう 禁止 きんし の措置 そち をとらせた。こうしたなか、アントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾーム はイングランドの毛織物 けおりもの 商人 しょうにん を受 う け入 い れたため、イングランド産 さん 毛織物 けおりもの がアントウェルペンに流入 りゅうにゅう した。この毛織物 けおりもの をライン川 がわ 沿 ぞ いのケルン 商人 しょうにん が購入 こうにゅう し、南 みなみ ドイツなどへ供給 きょうきゅう するようになった。[5] 15世紀 せいき 半 なか ばには、ニュルンベルク やアウクスブルク などの南 みなみ ドイツ商人 しょうにん が、直接 ちょくせつ にアントウェルペンまで取引 とりひき に訪 おとず れるようになった。これにより、香料 こうりょう をブルッヘ 経由 けいゆ でなくイタリアから南 みなみ ドイツ経由 けいゆ で入手 にゅうしゅ できるようになった。こうした状況 じょうきょう が近世 きんせい アントウェルペン繁栄 はんえい の前提 ぜんてい となった。[6]
アントウェルペンの地図 ちず 1624年 ねん
このような商業 しょうぎょう 網 もう の変化 へんか に加 くわ え、ズウィン が土砂 どしゃ の堆積 たいせき によって航行 こうこう 困難 こんなん となったこともあり、中世 ちゅうせい 後期 こうき におけるネーデルラント経済 けいざい の中心 ちゅうしん ブルッヘ が衰退 すいたい していき、それに代 か わってスヘルデ河畔 かはん のアントウェルペン(当時 とうじ はブラバント公国 こうこく の支配 しはい 下 か )が重要 じゅうよう 性 せい を増 ま すことになった。ライン川 がわ 沿 ぞ いのケルン 商人 しょうにん との結 むす びつきを強 つよ めたことでヨーロッパ商業 しょうぎょう 網 もう における地位 ちい は一層 いっそう 強化 きょうか され、15世紀 せいき 末 まつ には外国 がいこく 商館 しょうかん がブルッヘからアントウェルペンへと移転 いてん し始 はじ めた。1501年 ねん にはスヘルデ河岸 かわぎし にポルトガル 船 ふね が香辛料 こうしんりょう などを積 つ んで到来 とうらい し[7] 、1508年 ねん にはポルトガル王 おう のもとで商館 しょうかん が設立 せつりつ され[8] 、1510年 ねん におけるイングランド商館 しょうかん についての記載 きさい も史料 しりょう に残 のこ されている。
歴史 れきし 家 か フェルナン・ブローデル は、「このスヘルデ川 かわ に臨 のぞ む都市 とし はじつに国際 こくさい 経済 けいざい 全体 ぜんたい の中心 ちゅうしん にあった。ブリュージュはというと、その最盛 さいせい 期 き にあっても、その地位 ちい まで到達 とうたつ したことがなかったのである」[9] と評 ひょう している。そのアントウェルペンの黄金 おうごん 時代 じだい は、強 つよ く「大 だい 交易 こうえき 時代 じだい 」と関連 かんれん して海運 かいうん 業 ぎょう の隆盛 りゅうせい を極 きわ め、16世紀 せいき 前半 ぜんはん より成長 せいちょう を遂 と げて1560年 ねん までにはアルプス以北 いほく における最大 さいだい 規模 きぼ の都市 とし となった。多 おお くの外国 がいこく 商人 しょうにん が街 まち に居住 きょじゅう し、ポルトガル船 せん からは胡椒 こしょう やシナモンなどの積荷 つみに が日々 ひび 下 お ろされていた。ヴェネツィア の大使 たいし だったフランチェスコ・グイチャルディーニ は、何 なん 百 ひゃく の船舶 せんぱく が一 いち 日 にち に往来 おうらい し、2千 せん もの荷馬 にうま 車 しゃ が毎週 まいしゅう やってくることを記 しる している。また、ポーランド産 さん 穀物 こくもつ を積 つ んだ船 ふね の寄港 きこう 地 ち として、いくつもの倉庫 そうこ を抱 かか えていた。
ヴェネツィアやジェノヴァ の繁栄 はんえい は各地 かくち へと赴 おもむ いた地元 じもと 出身 しゅっしん の商人 しょうにん によって支 ささ えられていたが、アントウェルペンの場合 ばあい は同市 どうし 出身 しゅっしん の商人 しょうにん が世界 せかい 各地 かくち に勇躍 ゆうやく していったわけではない。アントウェルペン経済 けいざい は、ヴェネツィアやラグーザ(ドゥブロヴニク )、スペイン、ポルトガルなど各地 かくち からやって来 き た商人 しょうにん たちの手 て で支 ささ えられており、このことが都市 とし 内 ない の多様 たよう 性 せい ・コスモポリタン的 てき 性格 せいかく を形成 けいせい していった[10] 。宗教 しゅうきょう 的 てき にも寛容 かんよう で、ユダヤ教 きょう 正統 せいとう 派 は の大 だい 規模 きぼ なコミュニティも形成 けいせい されたほか、イベリア半島 はんとう を追 お われた「マラーノ (マラノス)」の亡命 ぼうめい 先 さき や、プロテスタント の拠点 きょてん ともなり得 え たのである。
しかし、アントウェルペンは(ヴェネツィアやジェノヴァのような)「自由 じゆう 都市 とし 、自治 じち 共和 きょうわ 国 こく 」というわけではない。一時 いちじ はブリュッセル のブラバント公 こう による支配 しはい から離 はな れたものの、1406年 ねん より再 ふたた びブリュッセルの統制 とうせい 下 か に置 お かれていた。
アントウェルペンはこの黄金 おうごん 時代 じだい に1501年 ねん から1521年 ねん 、1535年 ねん から1557年 ねん 、1559年 ねん から1568年 ねん と3回 かい の好 こう 況 きょう を迎 むか えた。[11] 最初 さいしょ の繁栄 はんえい は、ポルトガルからもたらされた胡椒 こしょう であった。この好況 こうきょう は1521年 ねん よりイタリア戦争 せんそう が深刻 しんこく 化 か し、ヴァロワ家 か とハプスブルク家 か の間 あいだ の戦乱 せんらん によって国際 こくさい 商業 しょうぎょう が麻痺 まひ したことで収束 しゅうそく していった。次 つぎ の時期 じき は、セビーリャ 経由 けいゆ でアメリカ大陸 あめりかたいりく 産 さん の銀 ぎん が流入 りゅうにゅう したことであった。これはスペインの国家 こっか 財政 ざいせい が破綻 はたん する1557年 ねん に収束 しゅうそく していった。最後 さいご の時期 じき は、1559年 ねん にカトー・カンブレジ条約 じょうやく が締結 ていけつ されたことに伴 ともな う政治 せいじ 的 てき 安定 あんてい であった。この時期 じき にはイングランドと競合 きょうごう しつつも繊維 せんい 産業 さんぎょう が発展 はってん をみせた。
国際 こくさい 的 てき な商業 しょうぎょう 拠点 きょてん として出版 しゅっぱん も盛 さか んであった。16世紀 せいき のアントウェルペンは、現地 げんち フラマン語 ご の文献 ぶんけん のみでなく、英語 えいご やフランス語 ふらんすご の出版 しゅっぱん ・輸出 ゆしゅつ 拠点 きょてん として栄 さか えた。宗教 しゅうきょう 的 てき に寛容 かんよう な性格 せいかく のためプロテスタントの文献 ぶんけん も多 おお く出版 しゅっぱん された。実 じつ に、当時 とうじ のネーデルラントで出版 しゅっぱん された文献 ぶんけん のうち半数 はんすう 以上 いじょう がアントウェルペン刊 かん だったとされている[12] 。16世紀 せいき 後半 こうはん で最 もっと も偉大 いだい な印刷 いんさつ 出版 しゅっぱん 業者 ぎょうしゃ ともいわれる[13] クリストフ・プランタン の工房 こうぼう は市内 しない に現存 げんそん しており、プランタン=モレトゥス博物館 はくぶつかん として、当時 とうじ の出版 しゅっぱん 文化 ぶんか を伝 つた えている。
他方 たほう 、コスモポリタン的 てき 性格 せいかく の裏面 りめん として、海賊版 かいぞくばん の出版 しゅっぱん 拠点 きょてん となっていたことも事実 じじつ である。中 なか には、他 た の都市 とし の業者 ぎょうしゃ の中 なか にも、何 なん らかの事情 じじょう で版元 はんもと を明 あ かさず出版 しゅっぱん するときに、出版 しゅっぱん 地 ち をアントウェルペンと偽 いつわ るケースも見 み られた[12] 。リヨンの大手 おおて ブノワ・リゴー も、「アンヴェルスのピエール・ストルー」という架空 かくう の名義 めいぎ で出版 しゅっぱん したことがあった[14] 。
アントウェルペンの人口 じんこう は、1500年 ねん には4万 まん 数 すう 千 せん であったが、八 はち 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう (オランダ独立 どくりつ 戦争 せんそう )勃発 ぼっぱつ 以前 いぜん には10万 まん を越 こ えた。建造 けんぞう 物 も の数 のかず も倍増 ばいぞう した。その反面 はんめん で貧困 ひんこん 層 そう も増加 ぞうか し、好 こう 不況 ふきょう の波 なみ と持続 じぞく 的 てき な物価 ぶっか 上昇 じょうしょう は、未 み 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ ・荷 に 運 はこ び人夫 にんぷ などの生活 せいかつ を苦 くる しめることになった。
イタリア戦争 せんそう 後 ご 、スペイン王 おう フェリペ2世 せい は異母 いぼ 姉 あね であるパルマ公 おおやけ 妃 ひ マルゲリータ をネーデルラント17州 しゅう の執政 しっせい (全 ぜん 州 しゅう 総督 そうとく )に任 にん じた。フェリペ2世 せい はネーデルラントの統制 とうせい 強化 きょうか を図 はか り、宗教 しゅうきょう 的 てき にはカトリックの強制 きょうせい を図 はか ったため、ネーデルラント各地 かくち で集権 しゅうけん 化 か に反発 はんぱつ する貴族 きぞく やプロテスタントとの反目 はんもく を生 しょう じさせた。1566年 ねん 8月 がつ よりネーデルラント各地 かくち に広 ひろ がった反乱 はんらん は鎮静 ちんせい 化 か したものの、この際 さい のマルゲリータの対応 たいおう に不満 ふまん を持 も ったフェリペ2世 せい は、1567年 ねん 8月 がつ により強硬 きょうこう 姿勢 しせい をとるアルバ公 こう フェルナンド・アルバレス・デ・トレド を派遣 はけん した。しかし、対立 たいりつ はより先鋭 せんえい 化 か して翌年 よくねん に八 はち 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう (オランダ独立 どくりつ 戦争 せんそう )が勃発 ぼっぱつ した。この戦争 せんそう によってスペイン北部 ほくぶ のビルバオ とアントウェルペンを結 むす ぶ交易 こうえき ルートが維持 いじ できなくなり、イベリア半島 はんとう との商 しょう 取引 とりひき が困難 こんなん になったほか、スヘルデ川 がわ の封鎖 ふうさ も同市 どうし の経済 けいざい を苦 くる しめた。さらに1576年 ねん 11月4日 にち 、スペインの兵士 へいし がアントウェルペンで残忍 ざんにん な掠奪 りゃくだつ を行 おこな った。これにより数 すう 千 せん の市民 しみん が虐殺 ぎゃくさつ され、数 すう 百 ひゃく の家屋 かおく が焼 や き払 はら われた。この被害 ひがい 額 がく は200万 まん スターリング にも及 およ んだとされる。
この事件 じけん でネーデルラントの反 はん スペイン勢力 せいりょく は一時 いちじ 的 てき に妥協 だきょう を余儀 よぎ なくされたが(ヘントの和 わ 約 やく )、アントウェルペン市民 しみん の反 はん スペイン感情 かんじょう は深 ふか まった。1579年 ねん のユトレヒト同盟 どうめい にもアントウェルペンは加 くわ わり、反 はん スペインの姿勢 しせい を鮮明 せんめい とした。しかし、1583年 ねん 末 まつ までに同市 どうし の周辺 しゅうへん 地域 ちいき はスペインに占領 せんりょう されており、オラニエ公 こう ウィレム1世 せい もネーデルラント北部 ほくぶ の戦闘 せんとう に向 む けて同市 どうし を離 はな れた。アントウェルペンに迫 せま るスペイン軍 ぐん に対 たい して、当時 とうじ の市長 しちょう フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊 けっかい させるなど長期 ちょうき の抵抗 ていこう をみせたが、市内 しない の食糧 しょくりょう 備蓄 びちく が限界 げんかい に近 ちか づくと、1585年 ねん 8月 がつ にスペイン側 がわ のパルマ公 こう アレッサンドロ・ファルネーゼ に降服 こうふく を余儀 よぎ なくされた。
降伏 ごうぶく 条件 じょうけん の一 ひと つとして、プロテスタントの市民 しみん はアントウェルペンを立 た ち去 さ るまでに2年間 ねんかん の猶予 ゆうよ が与 あた えられた。[15] そのほとんどがネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (オランダ )へと移住 いじゅう したことは、オランダが黄金 おうごん 時代 じだい を築 きず いていく前提 ぜんてい となった。一方 いっぽう 、その後 ご のアントウェルペンにおける銀行 ぎんこう 業務 ぎょうむ はジェノヴァ商人 しょうにん の統制 とうせい 下 か におかれた。こうしたことの結果 けっか 、アントウェルペンに代 か わってオランダのアムステルダム が世界 せかい 商業 しょうぎょう ・金融 きんゆう の中心 ちゅうしん 地 ち となっていった。
1648年 ねん 、三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の講和 こうわ 条約 じょうやく であるヴェストファーレン条約 じょうやく (そのうちのミュンスター条約 じょうやく )でオランダの主権 しゅけん が認 みと められると、オランダはアントウェルペンの商業 しょうぎょう 活動 かつどう に壊滅 かいめつ 的 てき な打撃 だげき を与 あた えるため、スヘルデ川 がわ の河口 かこう を閉鎖 へいさ することを要求 ようきゅう した。これには、スペイン・ハプスブルク家 か の統治 とうち 下 か にある南 みなみ ネーデルラント がオランダの脅威 きょうい にならないようにする狙 ねら いがあったのであるが、ネーデルラント南部 なんぶ が1795年 ねん から1814年 ねん まではフランスの統治 とうち 下 か にあったこと、1815年 ねん から1830年 ねん まではオランダ立憲 りっけん 王国 おうこく の統治 とうち 下 か にあったことで、実際 じっさい にはその統制 とうせい は緩 ゆる められていた。
アントワープ証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ 1886年 ねん 頃 ごろ
1800年 ねん 頃 ごろ 、アントウェルペンは最 もっと も停滞 ていたい した時期 じき を迎 むか え、当時 とうじ の人口 じんこう は4万 まん 人 にん 以下 いか にまで沈 しず んだ。しかしナポレオン・ボナパルト は、アントウェルペンの戦略 せんりゃく 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい から、防波堤 ぼうはてい と2つのドックを建設 けんせつ するために港 みなと の拡張 かくちょう を図 はか り、スヘルデ川 がわ にもっと大 おお きな船舶 せんぱく が接岸 せつがん できるように川底 かわぞこ を掘 ほ り下 さ げようとした。ナポレオンは、アントウェルペンの港 みなと をヨーロッパ屈指 くっし のものとすることで、ナポレオンと対立 たいりつ するイギリスのロンドン 港 みなと に対抗 たいこう し、イギリスの力 ちから を抑 おさ えようとしたのである。しかし、ワーテルローの戦 たたか い で失脚 しっきゃく したため、この構想 こうそう は実現 じつげん しなかった。[16]
1830年 ねん 、アントウェルペンはオランダからのベルギー独立 どくりつ を目指 めざ す反乱 はんらん 軍 ぐん によって包囲 ほうい された。ダヴィド=ヘンドリック・シャッセ将軍 しょうぐん が統率 とうそつ するオランダ守備 しゅび 兵 へい がアントウェルペンを防衛 ぼうえい したが、ベルギー軍 ぐん の断続 だんぞく 的 てき な砲撃 ほうげき によって打撃 だげき を受 う け、フランス軍 ぐん によるベルギー支援 しえん もあって、シャッセは勇敢 ゆうかん に戦 たたか ったものの降服 こうふく を余儀 よぎ なくされた。
1843年 ねん にはケルン とアントウェルペンの間 あいだ が鉄道 てつどう で結 むす ばれ、近代 きんだい アントウェルペンの発展 はってん に貢献 こうけん した。1863年 ねん にベルギーがオランダからスヘルデ川 がわ の航行 こうこう 自由 じゆう 権 けん を買収 ばいしゅう したことも街 まち の発展 はってん に寄与 きよ した。
1903年 ねん 、初 はじ めての世界 せかい 体操 たいそう 競技 きょうぎ 選手権 せんしゅけん がアントウェルペンで開催 かいさい された。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 、ベルギーは中立 ちゅうりつ 国 こく だったにもかかわらずドイツ軍 ぐん の攻撃 こうげき を受 う け、アントウェルペンはリエージュ で敗 やぶ れたベルギー軍 ぐん の退却 たいきゃく 地点 ちてん となった。その後 ご 、さらなるドイツ軍 ぐん の厳 きび しい攻撃 こうげき によって、ベルギー軍 ぐん はさらに西方 せいほう への撤退 てったい を余儀 よぎ なくされた。
アントウェルペンは1920年 ねん の夏季 かき オリンピック開催 かいさい 地 ち となった。1928年 ねん 、アントウェルペンの補欠 ほけつ 選挙 せんきょ で、「フロント党 とう 」のアウグステ・ボルムス が勝利 しょうり した。このことがフランス系 けい とオランダ系 けい 住民 じゅうみん の対立 たいりつ を激化 げきか させ、当時 とうじ の首相 しゅしょう だったジャスパールは大学 だいがく 教育 きょういく におけるオランダ語 ご の使用 しよう を容認 ようにん した。1936年 ねん にはアントウェルペン港 こう で大 だい 規模 きぼ なゼネストが発生 はっせい し、ベルギー全土 ぜんど に広 ひろ がりをみせた。このため組合 くみあい ・経営 けいえい 者 しゃ ・政府 せいふ による全国 ぜんこく 労働 ろうどう 者 しゃ 会議 かいぎ が開催 かいさい され、労働 ろうどう 者 しゃ の権利 けんり が拡大 かくだい した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん において、アントウェルペンはその港 みなと ゆえに戦略 せんりゃく 上 じょう の要所 ようしょ となった。1940年 ねん 5月 がつ にドイツ軍 ぐん によって占領 せんりょう され、1944年 ねん 9月 がつ 4日 にち 、イギリス第 だい 11機甲 きこう 師 し 団 だん によって解放 かいほう された。この後 のち 、アントウェルペン港 こう から連合 れんごう 軍 ぐん が新 あら たな物資 ぶっし を荷揚 にあ げすることを防 ふせ ぐため、幾 いく 千 せん ものV-1 、V-2 ミサイルを使 つか って港 みなと を破壊 はかい しようとした。とりわけV-2ミサイルは戦争 せんそう を通 つう じてアントウェルペンに打撃 だげき を与 あた えたが、その多 おお くが他 た の建造 けんぞう 物 ぶつ に当 あ たったため港 みなと は破壊 はかい できなかった。その結果 けっか 、大戦 たいせん を通 つう じて港 みなと は守 まも られたものの街 まち は深刻 しんこく な打撃 だげき を受 う け、大戦 たいせん 後 ご になってモダン風 ふう に再建 さいけん された。また、戦前 せんぜん よりかなりのユダヤ教徒 きょうと がアントウェルペンにいたが、大戦 たいせん 後 ご には再 ふたた び超 ちょう 正統 せいとう 派 は 、正統 せいとう 派 は ユダヤ教 きょう の中心 ちゅうしん 地 ち となった。
アントワープ港 こう のコンテナ埠頭 ふとう
全米 ぜんべい 港湾 こうわん 当局 とうきょく 協会 きょうかい (American Association of Port Authorities ) によれば、2020年 ねん 時点 じてん でアントウェルペン港 こう はトン数 とんすう で世界 せかい 第 だい 14位 い [17] の港湾 こうわん であり、ヨーロッパ内 ない でもロッテルダム港 こう に続 つづ く2位 い となっている。同港 どうこう は高 こう 価値 かち のジェネラルカーゴ(雑貨 ざっか 物 ぶつ )やプロジェクトカーゴ(重量 じゅうりょう 貨物 かもつ )、またバルクカーゴ を大量 たいりょう に取 と り扱 あつか っている点 てん で重要 じゅうよう である。アントウェルペンの港湾 こうわん 地区 ちく には5つの石油 せきゆ 精製 せいせい 所 しょ があり、アメリカ ・テキサス州 しゅう ヒューストン に次 つ ぐ規模 きぼ の石油 せきゆ 化学 かがく 工業 こうぎょう 製品 せいひん の集積 しゅうせき 地 ち となっている。
市街 しがい 中心 ちゅうしん 部 ぶ の北 きた から南 みなみ へ 3.5マイル (5.6 km) にわたって続 つづ いているスヘルデ川 かわ 沿 ぞ いの波止場 はとば は、クルーズ客船 きゃくせん や近海 きんかい 航路 こうろ の乗船 じょうせん 場 じょう として利用 りよう されている。
発電 はつでん 所 しょ も重要 じゅうよう な施設 しせつ であり、近隣 きんりん のオースト=フランデレン州 しゅう ・ベフェレン のドエル地区 ちく (Doel) に4基 き の原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 、同 おな じくカロ (Kallo) に1基 き の火力 かりょく 発電 はつでん 所 しょ があり、加 くわ えて小規模 しょうきぼ のコンバインドサイクル発電 はつでん 所 しょ が数 すう か所 しょ にある。さらに、港湾 こうわん 地区 ちく の中 なか の利用 りよう されていない土地 とち に風力 ふうりょく 発電 はつでん 所 しょ を建設 けんせつ する計画 けいかく もある。
アントウェルペンのもう一 ひと つの主 しゅ 産業 さんぎょう はダイヤモンドの取引 とりひき である。市内 しない には4つの取引 とりひき 所 しょ があり、1つはボルツと呼 よ ばれる不透明 ふとうめい のダイヤ専門 せんもん 、ほか3つは一般 いっぱん 品質 ひんしつ のものを扱 あつか っている。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 以降 いこう 、市内 しない のユダヤ人 じん コミュニティ出身 しゅっしん の各 かく 家族 かぞく がダイヤ取引 とりひき 業界 ぎょうかい を一 いち 手 て に取 と り仕切 しき っているが、1990年代 ねんだい 頃 ごろ からはインド人 じん ・アルメニア人 じん の業者 ぎょうしゃ も増 ふ えてきている。アントウェルペンにある「アントワープ・ワールド・ダイヤモンド・センター」(Antwerp World Diamond Centre, 前身 ぜんしん は "Hoge Raad voor Diamant")は、ダイヤの品質 ひんしつ 基準 きじゅん の設定 せってい 、業者 ぎょうしゃ の倫理 りんり の取 と り決 き め、職人 しょくにん の訓練 くんれん 、またダイヤ産業 さんぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち としてのアントウェルペンを広 ひろ く宣伝 せんでん することに大 おお きな役割 やくわり を果 は たしている。
アントウェルペン中央 ちゅうおう 駅 えき
アントウェルペン国際 こくさい 空港 くうこう がデールヌ地区 ちく にある。VLMエアラインズ が英国 えいこく のロンドン (シティ )やマンチェスター とを直接 ちょくせつ に空路 くうろ で結 むす んでいる。市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ から空港 くうこう までは数 すう kmで、バスと鉄道 てつどう が運行 うんこう している。
アントウェルペンから各地 かくち に鉄道 てつどう 路線 ろせん が広 ひろ がっている。北 きた へはエッセンを経 へ てオランダへ、東 ひがし にはトゥルンハウト 、南 みなみ にはメヘレン 、ブリュッセル、シャルルロワ (途中 とちゅう で乗 の り換 か え)、そして南西 なんせい にはヘントやオーステンデ へ至 いた る路線 ろせん がある。国際 こくさい 列車 れっしゃ としては、アムステルダム とパリ を結 むす ぶ列車 れっしゃ がアントウェルペンに停車 ていしゃ する。アントウェルペンのほか、ヘント、ブルッヘ、オーステンデ、ブリュッセル、シャルルロワ、ハッセルト、リエージュ、トゥルンハウトなどにも停車 ていしゃ する。
アントウェルペン中央 ちゅうおう 駅 えき は、その駅舎 えきしゃ 自体 じたい が歴史 れきし 的 てき 記念 きねん 碑 ひ としての価値 かち を有 ゆう しており、W・G・ゼーバルト の代表 だいひょう 作 さく 『アウステルリッツ 』でも登場 とうじょう する。2007年 ねん には高速 こうそく 列車 れっしゃ 通過 つうか のためのトンネルが建設 けんせつ された。
詳細 しょうさい はベルギー高速 こうそく 鉄道 てつどう 4号線 ごうせん を参照 さんしょう 。
なお、アントウェルペンの初 はじ めの鉄道 てつどう は馬車 ばしゃ 鉄道 てつどう であった。その後 ご 、機関 きかん 車 しゃ 鉄道 てつどう は敷設 ふせつ されずに電気 でんき 鉄道 てつどう が敷設 ふせつ された。1901年 ねん には、在 ざい ベルギー日本 にっぽん 領事館 りょうじかん 領事 りょうじ (当時 とうじ ベルギーはドイツ帝国 ていこく の連邦 れんぽう 国家 こっか [要 よう 出典 しゅってん ] )幣 ぬさ 原 はら 喜重郎 きじゅうろう が、日本 にっぽん の鉄道 てつどう 省 しょう に電気 でんき 鉄道 てつどう 事業 じぎょう の概要 がいよう を報告 ほうこく した。
トラムは全 ぜん 12路線 ろせん で、そのうち地下鉄 ちかてつ のように運行 うんこう されているものは「premetro」と称 しょう されており、河川 かせん の下 した にトンネルが掘 ほ られている。
アントウェルペンには「De Lijn (The Line)」によって運営 うんえい されているトラムとバスの交通 こうつう 網 もう が張 は り巡 めぐ らされており、アントウェルペン中心 ちゅうしん 部 ぶ と郊外 こうがい やスヘルデ川 がわ 左岸 さがん 地区 ちく を結 むす んでいる。
高速 こうそく 道路 どうろ が中心 ちゅうしん 部 ぶ を取 と り囲 かこ む形 かたち で整備 せいび されており、地元 じもと では「Ring」と称 しょう されている。この高速 こうそく 道路 どうろ がブリュッセル 、ハッセルト 、リエージュ 、ヘント 、リール 、ブルッヘ などの主要 しゅよう 都市 とし のほか、オランダのブレダ 、ベルゲン・オプ・ゾーム などと結 むす ばれている。スヘルデ川 がわ の両 りょう 岸 きし は3本 ほん のトンネルで結 むす ばれており、建設 けんせつ 順 じゅん にthe Waasland Tunnel (1934)、the Kennedy Tunnel (1967)、the Liefkenshoek Tunnel (1991)となっている。
アントウェルペン市内 しない には、世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく されている物件 ぶっけん が4つある。
また、世界 せかい 遺産 いさん 暫定 ざんてい リスト登録 とうろく 物件 ぶっけん として、以下 いか の2件 けん が存在 そんざい している[18] 。
スヘルデ川 かわ から1250年 ねん 頃 ごろ の城壁 じょうへき までのアントウェルペン(アンヴェルス)の歴史 れきし 的中 てきちゅう 心地 ごこち (Noyau historique d'Antwerpen -Anvers- de l'Escaut aux anciens remparts de vers 1250)
ハンス・マカルト の代表 だいひょう 作 さく 『カール5世 せい のアントワープ入城 にゅうじょう 』
アントウェルペンにはアントウェルペン王立 おうりつ 芸術 げいじゅつ 学院 がくいん があり、優 すぐ れたファッション・デザイナーを輩出 はいしゅつ している。特 とく に1980年代 ねんだい に頭角 とうかく を現 あらわ してきた6人 にん は「アントウェルペンの6人 にん 」と呼 よ ばれ、現在 げんざい でも国際 こくさい 的 てき に活躍 かつやく している。
アニメで一躍 いちやく 有名 ゆうめい となった物語 ものがたり 『フランダースの犬 いぬ 』の舞台 ぶたい でもあるが、現地 げんち の人 ひと にはあまり知 し られておらず、ゆかりの地 ち を訪 たず ねてやってくる観光 かんこう 客 きゃく はほとんど日本人 にっぽんじん である。また、リヒャルト・ワーグナー のオペラ『ローエングリン 』は、10世紀 せいき のアントウェルペンを舞台 ぶたい としている。
サッカー
主 おも な運動 うんどう 施設 しせつ
出身 しゅっしん ・関連 かんれん 著名 ちょめい 人 じん [ 編集 へんしゅう ]
姉妹 しまい 都市 とし ・提携 ていけい 都市 とし [ 編集 へんしゅう ]
姉妹 しまい 都市 とし
パートナーシップ都市 とし
姉妹 しまい 港 みなと ・提携 ていけい 港 こう [ 編集 へんしゅう ]
友好 ゆうこう 港 みなと
^ Anvers の発音 はつおん にはベルギー式 しき とフランス式 しき があり、ベルギー式 しき は「アンヴェルス」、フランス式 しき は「アンヴェール」に近 ちか い(『仏 ふつ 和大 かずひろ 辞典 じてん 』白水 しろみず 社 しゃ 、などの辞典 じてん 類 るい の発音 はつおん 記号 きごう に基 もと づく)。
^ “人口 じんこう 数 すう ”. ベルギー政府 せいふ . 2020年 ねん 6月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “アントワープ港 こう 港湾 こうわん 概要 がいよう ”. 名古屋 なごや 港 こう 管理 かんり 組合 くみあい 公式 こうしき ウェブサイト . 2020年 ねん 2月 がつ 16日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Brabo Antwerpen 1 (centrum) / Antwerpen 。- グリム兄弟 きょうだい 『ドイツ伝説 でんせつ 集 しゅう 』第 だい 3巻 かん 、第 だい 62話 わ 「アントウェルペンの巨人 きょじん 」は、巨人 きょじん が通行 つうこう 料 りょう を払 はら わない船乗 ふなの りや運送 うんそう 業者 ぎょうしゃ (Schiffer oder Fuhrmann)の手 て を切 き り落 お とし川 かわ に投 な げたことを地名 ちめい の由来 ゆらい とし、別 べつ の伝説 でんせつ に登場 とうじょう する、巨人 きょじん の手 て を切 き って投 な げたという英雄 えいゆう への言及 げんきゅう はない。Brüder Grimm: Deutsche Sagen . Bd. 3. Herausgegeben von Barbara Kindermnn-Bieri. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0 ), Nr. 62. Der Riese zu Antwerpen (S. 72). もっとも、同書 どうしょ 162頁 ぺーじ の注釈 ちゅうしゃく によれば、ヤーコプ・グリムはこの伝説 でんせつ の異 い 文 ぶん を、「ブラバント のある公爵 こうしゃく (Herzog)が殺 ころ し、その証拠 しょうこ に手 て を切 き り落 お として持 も ち帰 かえ った巨人 きょじん Tygon について」とメモしている。
^ Antwerp Tourist Information - Meredith Booney, "The name 'Antwerp' has been linked to the word "aanwerp" (alluvial mound), which was the geographical feature in the early settlement period in this place" .
^ 中澤 なかざわ 勝三 かつぞう 『アントウェルペン国際 こくさい 商業 しょうぎょう の世界 せかい 』同文 どうぶん 館 かん 、pp.30-31
^ 中澤 なかざわ 勝三 かつぞう 『アントウェルペン国際 こくさい 商業 しょうぎょう の世界 せかい 』同文 どうぶん 館 かん 、p.44
^ 中澤 なかざわ 勝三 かつぞう 『アントウェルペン国際 こくさい 商業 しょうぎょう の世界 せかい 』同文 どうぶん 館 かん 、p.66
^ フェルナン・ブローテル『世界 せかい 時間 じかん 1 物質 ぶっしつ 文明 ぶんめい ・経済 けいざい ・資本 しほん 主義 しゅぎ 15-18世紀 せいき III-1』村上 むらかみ 光彦 みつひこ 訳 やく 、みすず書房 しょぼう 、1996年 ねん 、pp.186-187
^ フェルナン・ブローテル『世界 せかい 時間 じかん 1 物質 ぶっしつ 文明 ぶんめい ・経済 けいざい ・資本 しほん 主義 しゅぎ 15-18世紀 せいき III-1』村上 むらかみ 光彦 みつひこ 訳 やく 、みすず書房 しょぼう 、1996年 ねん 、p.181
^ 市政 しせい は地元 じもと の土地 とち 貴族 きぞく らによる寡頭政 せい がとられていたが、彼 かれ らは原則 げんそく 上 じょう 実業 じつぎょう に従事 じゅうじ することを禁 きん じられていた。
^ フェルナン・ブローテル『世界 せかい 時間 じかん 1 物質 ぶっしつ 文明 ぶんめい ・経済 けいざい ・資本 しほん 主義 しゅぎ 15-18世紀 せいき III-1』村上 むらかみ 光彦 みつひこ 訳 やく 、みすず書房 しょぼう 、1996年 ねん 、pp.185-186
^ a b 宮下 みやした 志朗 しろう 「16世紀 せいき 出版 しゅっぱん 文化 ぶんか の中 なか のノストラダムス」(『ノストラダムスとルネサンス』岩波書店 いわなみしょてん 、pp.133-135)
^ http://whc.unesco.org/en/list/1185/
^ Lucien Scheler,“Une supercherie de Benoît Rigaud”, BHR , T.16, 1954.; Anne Rouzet, Dictionnaire des imprimeurs, libraires et éditeurs des XVe et XVIe siècles dans les limites géographiques de la Belgique actuelle , Nieuwkoop ; B de Graaf , 1975
^ Boxer Charles Ralph, The Dutch seaborne empire, 1600-1800 , p. 18, Taylor & Francis, 1977 ISBN 0091310512 , 9780091310516 Google books
^ Dunton, Larkin (1896). The World and Its People. Silver, Burdett. p. 164.
^ “China’s megaports strengthen grip on box trade ”. Lloyd's Loading List. 2021年 ねん 2月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ http://whc.unesco.org/en/statesparties/be
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