(Translated by https://www.hiragana.jp/)
アントウェルペン - Wikipedia コンテンツにスキップ

アントウェルペン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アントウェルペン
Antwerpen
Anvers
アントウェルペン市街
アントウェルペン市街しがい
アントウェルペンの市旗 アントウェルペンの市章
基礎きそ自治体じちたいはた 基礎きそ自治体じちたいあきら
位置いち
アントウェルペン州におけるアントウェルペンの位置の位置図
アントウェルペンしゅうにおけるアントウェルペンの位置いち
ベルギー内のアントウェルペン州の位置の位置図
ベルギーないのアントウェルペンしゅう位置いち
地図
座標ざひょう : 北緯ほくい5113ふん 東経とうけい424ふん / 北緯ほくい51.217 東経とうけい4.400 / 51.217; 4.400
行政ぎょうせい
くに ベルギーの旗 ベルギー
 地域ちいき フランデレン地域の旗 フランデレン地域ちいき
 しゅう アントウェルペン州の旗 アントウェルペンしゅう
 行政ぎょうせい アントウェルペン行政ぎょうせい
 基礎きそ自治体じちたい アントウェルペン
地理ちり
面積めんせき  
  基礎きそ自治体じちたいいき 204.51 km2
人口じんこう
人口じんこう (2020ねん1がつ1にち現在げんざい
  基礎きそ自治体じちたいいき 527,763にん
    人口じんこう密度みつど   2,581にん/km2
その
ひとしときおび 中央ちゅうおうヨーロッパ時間じかん (UTC+1)
夏時間なつじかん 中央ちゅうおうヨーロッパ夏時間なつじかん (UTC+2)
郵便ゆうびん番号ばんごう 2000-2660
市外しがい局番きょくばん 03
公式こうしきウェブサイト : http://www.antwerpen.be/
グローテ・マルクトアントウェルペン市庁舎しちょうしゃ (Stadhuis van Antwerpen)
ハントシェーンマルクトの聖母せいぼだい聖堂せいどう低地ていち地方ちほう最大さいだいだい聖堂せいどうであり、ルーベンスさんれん祭壇さいだんがある。現在げんざい市内しない最大さいだい建造けんぞうぶつ
運河うんがかるはし

アントウェルペンオランダ: Antwerpen [ˈɑntʋɛrpə(n)] ( 音声おんせいファイル), フランス語ふらんすご: Anvers [ɑ̃vɛʁ(s)], 英語えいご: Antwerp [ˈæntwɜrp], ドイツ旧称きゅうしょう: Antorf, Antorff)は、ベルギーフランデレン地域ちいきアントウェルペンしゅう州都しゅうとである。首都しゅとブリュッセル同国どうこくだい2の都市としで、都市としけん人口じんこうやく120まんにんとしては最多さいた人口じんこうち、2020ねん1がつ1にちそう人口じんこうは52まん7763にん面積めんせきは204.51 km2, 人口じんこう密度みつどは2581にん/km2である[1]

オランダロッテルダムとも欧州おうしゅう代表だいひょうする港湾こうわん都市としの1つ[2]

名称めいしょう[編集へんしゅう]

英語えいごめい由来ゆらいするアントワープや、フランス語ふらんすごめい由来ゆらいするアンヴェルスアンベルス[注釈ちゅうしゃく 1]日本語にほんご表記ひょうきにおいてよくもちいられる。

名前なまえ由来ゆらい[編集へんしゅう]

まち名称めいしょうは、ふるくは巨人きょじんアンティゴーン英雄えいゆうブラボー伝説でんせつ由来ゆらいするとされてきた。スヘルデがわ川岸かわぎししろ巨人きょじんドルオン・アンティゴーンは、しろ付近ふきんとおぎるふね通行つうこうりょうもとめ、それにおうじないものたいしては、そのとしてかわてた。しかし、ついにローマ戦士せんしブラボーがアンティゴーンのいきめ、としてかわてた。Antwerpen はこの出来事できごと由来ゆらいし、handwerpen(hand werpen げる)がもとになっているという[3]現在げんざいのアントウェルペン市庁舎しちょうしゃまえには、この伝説でんせつ主題しゅだいとする記念きねん「ブラボーの噴水ふんすい」がある。これは民間みんかん語源ごげんであるものの、切断せつだんすることは実際じっさい当時とうじのヨーロッパでおこなわれており、中世ちゅうせいには死者ししゃ右手みぎて切断せつだんされ、「しゅ譲渡じょうと」の証拠しょうことして封建ほうけん領主りょうしゅおくられることもあった。

しかし、19世紀せいき歴史れきし外交がいこうかんジョン・ロスロップ・モトリーは、アントウェルペンという名称めいしょうを「an 't werf (on the wharf、wharfは波止場はとば)」、または「Aan 't werp(at the warp)」に由来ゆらいするという議論ぎろん展開てんかいした。ここでの「warp」とは、高潮こうちょうでも農地のうち水浸みずびたしにならないだけの土手どてきずいたことをしており、農民のうみんたちは堤防ていぼうさき農地のうちひろげていった。「werp」というかたりには「pol(ポルダー干拓かんたく)」という意味いみもある。

現在げんざいもっと有力ゆうりょくせつは、ガロ・ローマ文化ぶんかラテン語らてんご「antverpia」であり、アントウェルペンはかつてのスヘルデがわ湾曲わんきょくにそって形成けいせいされたとする。このかたりは「Ante」(before)と「Verpia (すななどの粒子りゅうしみずなどによって堆積たいせき沈殿ちんでんしたもの)」に由来ゆらいしており、スヘルデがわ湾曲わんきょくともな堆積たいせき作用さようによって土地とち形成けいせいされていったことをしめしている。ただし、スヘルデがわは7世紀せいきから8世紀せいきなかごろながれがわっており、かつての流域りゅういきは、まち南部なんぶにある現在げんざい環状かんじょう道路どうろとほぼ一致いっちしているとかんがえられる。[4]

地理ちり[編集へんしゅう]

地勢ちせい[編集へんしゅう]

  • スヘルデがわ右岸うがん位置いちする。スヘルデがわはオランダ南西なんせいゼーラントしゅう西部せいぶスヘルデ河口かこういき (Westerschelde) を北海ほっかいにつながっている。アントウェルペンにはおおきな正統せいとうユダヤじんハレーディー)のコミュニティがあり、そこから「西にしエルサレム」との綽名がある。ダイヤモンド研磨けんまよう円盤えんばん (Scaif) を発明はつめいしたローデウィク・ファン・ベルケン (Lodewyk van Berken) もユダヤけいベルギーじんであり、この発明はつめいによってユダヤじんのダイヤモンドカット職人しょくにんおおくなり、まちもダイヤモンド取引とりひきおよびカット・研磨けんま中心ちゅうしんとして著名ちょめいになった。
  • 1990年代ねんだいからはファッションのまちとしてもがある。これは王立おうりつ美術びじゅつ学校がっこう何人なんにんかの卒業生そつぎょうせいがモードかい国際こくさいてき成功せいこうおさめたことに起因きいんする。
  • アントウェルペン動物どうぶつえん英語えいごばんは1843ねん開園かいえんで、世界せかいでも最古さいこまたもっと有名ゆうめい動物どうぶつえんのひとつである。この動物どうぶつえん中心ちゅうしんにあり、4,000しゅ以上いじょう動物どうぶつ飼育しいくしている。王立おうりつ動物どうぶつがく協会きょうかいおおくの動物どうぶつあつかいを見守みまもっており、100ねん以上いじょうわたって絶滅ぜつめつ危惧きぐしゅ保護ほごにあたってきた。

行政ぎょうせい[編集へんしゅう]

区域くいき

行政ぎょうせい区域くいきとしてのアントウェルペンは9つの地区ちくからなる。

  1. アントウェルペン
  2. ベルヘム
  3. ベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ
  4. ボルヘルハウト
  5. デールヌ
  6. エーケレム
  7. ホーボーケン
  8. メルクセム
  9. ウィルレイク

人口じんこう[編集へんしゅう]

  • 1806ねんから1970ねんまでは12月31にちにおける人口じんこう、1980ねんからは1がつ1にちにおける人口じんこう
  • 1923ねん:ブルホトとツワインドレヒトがアントウェルペンに合併がっぺいされた (市域しいきは+11,77 km²、住民じゅうみんは+2.426にん
  • 1929ねん:オールデレン、オーステルウィール、ウィルマースドンクがアントウェルペンと合併がっぺいした。(市域しいきは+46,29 km²、住民じゅうみんは+5.543にん
  • 1958ねん:ベーレンドレヒト、ザントフリート、リロ(あわせて現在げんざいのベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ)がアントウェルペンと合併がっぺいした。(市域しいきは+52,93 km²、住民じゅうみんは+7.249 にん)
  • 1983ねん:ベルヘム、ボルケルハウト、デウネ、ホーボーケン、メルクセム、ウィルレイクとだい部分ぶぶんのエーケレムがアントウェルペンと合併がっぺいした。これにより大幅おおはば市民しみんすう増加ぞうかした。(市域しいきは+64,68 km²、住民じゅうみんは+305.503にん)

言語げんご[編集へんしゅう]

オランダがアントウェルペンの公用こうようである。地元じもと人々ひとびとはそのアントウェルペン方言ほうげんもちいている。いくらかの人々ひとびとあいだではフランス語ふらんすごはなされる。だい多数たすう住民じゅうみんとくわか世代せだいおおくはかなり流暢りゅうちょう英語えいごはなす。モロッコやトルコなどからの移民いみんアラビアベルベルトルコなどをもちいている。若干じゃっかん正統せいとうユダヤきょう人々ひとびとイディッシュはなす。

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだいから中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

歴史れきしじょう、アントウェルペンはガロ・ローマ文明ぶんめい集落しゅうらくにその起源きげんがあるとかんがえられる。スヘルデがわ付近ふきんにおける最古さいこ集落しゅうらくがある地域ちいきで1952ねんから1961ねんにかけて発掘はっくつおこなわれ、2世紀せいきなかばから3世紀せいきまつ陶器とうきはい破片はへん出土しゅつどしている。そのゲルマンじんフランクぞく進出しんしゅつした。メロヴィングあさにおいてアントウェルペンにとりできずかれ、7世紀せいきごろせいアマンドゥスによってキリスト教化きょうかされた。10世紀せいきまつ、スヘルデがわかみきよしマ帝国まていこくにおける境界きょうかいとなった。アントウェルペンには辺境へんきょうはくかれ、フランドルはく対峙たいじした。11世紀せいきゴドフロワ・ド・ブイヨンが、すう年間ねんかんアントウェルペンをおさめた。12世紀せいきせいノルベルト(ノルベルト・フォン・クサンテン)が、プレモントレ会則かいそくもとづくサン・ミシェル修道院しゅうどういんてた。14世紀せいき前半ぜんはんえいふつひゃくねん戦争せんそう勃発ぼっぱつするが、フランドル地方ちほう毛織物けおりもの産業さんぎょうイングランド羊毛ようもう産業さんぎょう密接みっせつなつながりがあったため、おやイングランドの立場たちばをとろうとした。そのため、フランスおうむすんでいるフランドルはく対抗たいこうして、ヤコブ・ヴァン・アルテベルデがフランドル都市とし連合れんごう指導しどうしゃとなり、イングランドがわ支持しじする姿勢しせいをとった。アントウェルペンは、このひゃくねん戦争せんそう初期しょきにイングランドおうエドワード3せいとヤコブ・ヴァン・アルテベルデが交渉こうしょうにとりかかったさい拠点きょてんでもあった。エドワードの息子むすこライオネル・オブ・アントワープは、アントウェルペンでまれている。

15世紀せいき前半ぜんはん、フランドルしょ都市としは、イングランドさん毛織物けおりもの流入りゅうにゅうによって市場いちばうばわれることをのぞまず、ブルゴーニュこうはたらきかけて輸入ゆにゅう禁止きんし措置そちをとらせた。こうしたなか、アントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾームはイングランドの毛織物けおりもの商人しょうにんれたため、イングランドさん毛織物けおりものがアントウェルペンに流入りゅうにゅうした。この毛織物けおりものラインがわ沿いのケルン商人しょうにん購入こうにゅうし、みなみドイツなどへ供給きょうきゅうするようになった。[5]15世紀せいきなかばには、ニュルンベルクアウクスブルクなどのみなみドイツ商人しょうにんが、直接ちょくせつにアントウェルペンまで取引とりひきおとずれるようになった。これにより、香料こうりょうブルッヘ経由けいゆでなくイタリアからみなみドイツ経由けいゆ入手にゅうしゅできるようになった。こうした状況じょうきょう近世きんせいアントウェルペン繁栄はんえい前提ぜんていとなった。[6]

近世きんせい[編集へんしゅう]

アントウェルペンの地図ちず 1624ねん

このような商業しょうぎょうもう変化へんかくわえ、ズウィン土砂どしゃ堆積たいせきによって航行こうこう困難こんなんとなったこともあり、中世ちゅうせい後期こうきにおけるネーデルラント経済けいざい中心ちゅうしんブルッヘ衰退すいたいしていき、それにわってスヘルデ河畔かはんのアントウェルペン(当時とうじブラバント公国こうこく支配しはい)が重要じゅうようせいすことになった。ラインがわ沿いのケルン商人しょうにんとのむすびつきをつよめたことでヨーロッパ商業しょうぎょうもうにおける地位ちい一層いっそう強化きょうかされ、15世紀せいきまつには外国がいこく商館しょうかんがブルッヘからアントウェルペンへと移転いてんはじめた。1501ねんにはスヘルデ河岸かわぎしポルトガルふね香辛料こうしんりょうなどをんで到来とうらい[7]、1508ねんにはポルトガルおうのもとで商館しょうかん設立せつりつされ[8]、1510ねんにおけるイングランド商館しょうかんについての記載きさい史料しりょうのこされている。

歴史れきしフェルナン・ブローデルは、「このスヘルデかわのぞ都市としはじつに国際こくさい経済けいざい全体ぜんたい中心ちゅうしんにあった。ブリュージュはというと、その最盛さいせいにあっても、その地位ちいまで到達とうたつしたことがなかったのである」[9] とひょうしている。そのアントウェルペンの黄金おうごん時代じだいは、つよく「だい交易こうえき時代じだい」と関連かんれんして海運かいうんぎょう隆盛りゅうせいきわめ、16世紀せいき前半ぜんはんより成長せいちょうげて1560ねんまでにはアルプス以北いほくにおける最大さいだい規模きぼ都市としとなった。おおくの外国がいこく商人しょうにんまち居住きょじゅうし、ポルトガルせんからは胡椒こしょうやシナモンなどの積荷つみに日々ひびろされていた。ヴェネツィア大使たいしだったフランチェスコ・グイチャルディーニは、なんひゃく船舶せんぱくいちにち往来おうらいし、2せんもの荷馬にうましゃ毎週まいしゅうやってくることをしるしている。また、ポーランドさん穀物こくもつんだふね寄港きこうとして、いくつもの倉庫そうこかかえていた。

ヴェネツィアやジェノヴァ繁栄はんえい各地かくちへとおもむいた地元じもと出身しゅっしん商人しょうにんによってささえられていたが、アントウェルペンの場合ばあい同市どうし出身しゅっしん商人しょうにん世界せかい各地かくち勇躍ゆうやくしていったわけではない。アントウェルペン経済けいざいは、ヴェネツィアやラグーザ(ドゥブロヴニク)、スペイン、ポルトガルなど各地かくちからやって商人しょうにんたちのささえられており、このことが都市としない多様たようせい・コスモポリタンてき性格せいかく形成けいせいしていった[10]宗教しゅうきょうてきにも寛容かんようで、ユダヤきょう正統せいとうだい規模きぼなコミュニティも形成けいせいされたほか、イベリア半島はんとうわれた「マラーノ(マラノス)」の亡命ぼうめいさきや、プロテスタント拠点きょてんともなりたのである。

しかし、アントウェルペンは(ヴェネツィアやジェノヴァのような)「自由じゆう都市とし自治じち共和きょうわこく」というわけではない。一時いちじブリュッセルのブラバントこうによる支配しはいからはなれたものの、1406ねんよりふたたびブリュッセルの統制とうせいかれていた。

アントウェルペンはこの黄金おうごん時代じだいに1501ねんから1521ねん、1535ねんから1557ねん、1559ねんから1568ねんと3かいこうきょうむかえた。[11]最初さいしょ繁栄はんえいは、ポルトガルからもたらされた胡椒こしょうであった。この好況こうきょうは1521ねんよりイタリア戦争せんそう深刻しんこくし、ヴァロワハプスブルクあいだ戦乱せんらんによって国際こくさい商業しょうぎょう麻痺まひしたことで収束しゅうそくしていった。つぎ時期じきは、セビーリャ経由けいゆアメリカ大陸あめりかたいりくさんぎん流入りゅうにゅうしたことであった。これはスペインの国家こっか財政ざいせい破綻はたんする1557ねん収束しゅうそくしていった。最後さいご時期じきは、1559ねんカトー・カンブレジ条約じょうやく締結ていけつされたことにともな政治せいじてき安定あんていであった。この時期じきにはイングランドと競合きょうごうしつつも繊維せんい産業さんぎょう発展はってんをみせた。

国際こくさいてき商業しょうぎょう拠点きょてんとして出版しゅっぱんさかんであった。16世紀せいきのアントウェルペンは、現地げんちフラマン文献ぶんけんのみでなく、英語えいごフランス語ふらんすご出版しゅっぱん輸出ゆしゅつ拠点きょてんとしてさかえた。宗教しゅうきょうてき寛容かんよう性格せいかくのためプロテスタントの文献ぶんけんおお出版しゅっぱんされた。じつに、当時とうじのネーデルラントで出版しゅっぱんされた文献ぶんけんのうち半数はんすう以上いじょうがアントウェルペンかんだったとされている[12]。16世紀せいき後半こうはんもっと偉大いだい印刷いんさつ出版しゅっぱん業者ぎょうしゃともいわれる[13]クリストフ・プランタン工房こうぼう市内しない現存げんそんしており、プランタン=モレトゥス博物館はくぶつかんとして、当時とうじ出版しゅっぱん文化ぶんかつたえている。

他方たほう、コスモポリタンてき性格せいかく裏面りめんとして、海賊版かいぞくばん出版しゅっぱん拠点きょてんとなっていたことも事実じじつである。なかには、都市とし業者ぎょうしゃなかにも、なんらかの事情じじょう版元はんもとかさず出版しゅっぱんするときに、出版しゅっぱんをアントウェルペンといつわるケースもられた[12]。リヨンの大手おおてブノワ・リゴーも、「アンヴェルスのピエール・ストルー」という架空かくう名義めいぎ出版しゅっぱんしたことがあった[14]

アントウェルペンの人口じんこうは、1500ねんには4まんすうせんであったが、はちじゅうねん戦争せんそう(オランダ独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつ以前いぜんには10まんえた。建造けんぞうのかず倍増ばいぞうした。その反面はんめん貧困ひんこんそう増加ぞうかし、こう不況ふきょうなみ持続じぞくてき物価ぶっか上昇じょうしょうは、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃはこ人夫にんぷなどの生活せいかつくるしめることになった。

イタリア戦争せんそう、スペインおうフェリペ2せい異母いぼあねであるパルマおおやけマルゲリータネーデルラント17しゅう執政しっせいぜんしゅう総督そうとく)ににんじた。フェリペ2せいはネーデルラントの統制とうせい強化きょうかはかり、宗教しゅうきょうてきにはカトリックの強制きょうせいはかったため、ネーデルラント各地かくち集権しゅうけん反発はんぱつする貴族きぞくやプロテスタントとの反目はんもくしょうじさせた。1566ねん8がつよりネーデルラント各地かくちひろがった反乱はんらん鎮静ちんせいしたものの、このさいのマルゲリータの対応たいおう不満ふまんったフェリペ2せいは、1567ねん8がつにより強硬きょうこう姿勢しせいをとるアルバこうフェルナンド・アルバレス・デ・トレド派遣はけんした。しかし、対立たいりつはより先鋭せんえいして翌年よくねんはちじゅうねん戦争せんそう(オランダ独立どくりつ戦争せんそう)が勃発ぼっぱつした。この戦争せんそうによってスペイン北部ほくぶビルバオとアントウェルペンをむす交易こうえきルートが維持いじできなくなり、イベリア半島はんとうとのしょう取引とりひき困難こんなんになったほか、スヘルデがわ封鎖ふうさ同市どうし経済けいざいくるしめた。さらに1576ねん11月4にち、スペインの兵士へいしがアントウェルペンで残忍ざんにん掠奪りゃくだつおこなった。これによりすうせん市民しみん虐殺ぎゃくさつされ、すうひゃく家屋かおくはらわれた。この被害ひがいがくは200まんスターリングにもおよんだとされる。

この事件じけんでネーデルラントのはんスペイン勢力せいりょく一時いちじてき妥協だきょう余儀よぎなくされたが(ヘントのやく)、アントウェルペン市民しみんはんスペイン感情かんじょうふかまった。1579ねんユトレヒト同盟どうめいにもアントウェルペンはくわわり、はんスペインの姿勢しせい鮮明せんめいとした。しかし、1583ねんまつまでに同市どうし周辺しゅうへん地域ちいきはスペインに占領せんりょうされており、オラニエこうウィレム1せいもネーデルラント北部ほくぶ戦闘せんとうけて同市どうしはなれた。アントウェルペンにせまるスペインぐんたいして、当時とうじ市長しちょうフィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊けっかいさせるなど長期ちょうき抵抗ていこうをみせたが、市内しない食糧しょくりょう備蓄びちく限界げんかいちかづくと、1585ねん8がつにスペインがわのパルマこうアレッサンドロ・ファルネーゼ降服こうふく余儀よぎなくされた。

降伏ごうぶく条件じょうけんひとつとして、プロテスタントの市民しみんはアントウェルペンをるまでに2年間ねんかん猶予ゆうよあたえられた。[15] そのほとんどがネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこくオランダ)へと移住いじゅうしたことは、オランダが黄金おうごん時代じだいきずいていく前提ぜんていとなった。一方いっぽう、そののアントウェルペンにおける銀行ぎんこう業務ぎょうむはジェノヴァ商人しょうにん統制とうせいにおかれた。こうしたことの結果けっか、アントウェルペンにわってオランダのアムステルダム世界せかい商業しょうぎょう金融きんゆう中心ちゅうしんとなっていった。

1648ねんさんじゅうねん戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくであるヴェストファーレン条約じょうやく(そのうちのミュンスター条約じょうやく)でオランダの主権しゅけんみとめられると、オランダはアントウェルペンの商業しょうぎょう活動かつどう壊滅かいめつてき打撃だげきあたえるため、スヘルデがわ河口かこう閉鎖へいさすることを要求ようきゅうした。これには、スペイン・ハプスブルク統治とうちにあるみなみネーデルラントがオランダの脅威きょういにならないようにするねらいがあったのであるが、ネーデルラント南部なんぶが1795ねんから1814ねんまではフランスの統治とうちにあったこと、1815ねんから1830ねんまではオランダ立憲りっけん王国おうこく統治とうちにあったことで、実際じっさいにはその統制とうせいゆるめられていた。

きん現代げんだい[編集へんしゅう]

アントワープ証券しょうけん取引とりひきしょ 1886ねんごろ

1800ねんごろ、アントウェルペンはもっと停滞ていたいした時期じきむかえ、当時とうじ人口じんこうは4まんにん以下いかにまでしずんだ。しかしナポレオン・ボナパルトは、アントウェルペンの戦略せんりゃくてき重要じゅうようせいから、防波堤ぼうはていと2つのドックを建設けんせつするためにみなと拡張かくちょうはかり、スヘルデがわにもっとおおきな船舶せんぱく接岸せつがんできるように川底かわぞこげようとした。ナポレオンは、アントウェルペンのみなとをヨーロッパ屈指くっしのものとすることで、ナポレオンと対立たいりつするイギリスのロンドンみなと対抗たいこうし、イギリスのちからおさえようとしたのである。しかし、ワーテルローのたたか失脚しっきゃくしたため、この構想こうそう実現じつげんしなかった。[16]

1830ねん、アントウェルペンはオランダからのベルギー独立どくりつ目指めざ反乱はんらんぐんによって包囲ほういされた。ダヴィド=ヘンドリック・シャッセ将軍しょうぐん統率とうそつするオランダ守備しゅびへいがアントウェルペンを防衛ぼうえいしたが、ベルギーぐん断続だんぞくてき砲撃ほうげきによって打撃だげきけ、フランスぐんによるベルギー支援しえんもあって、シャッセは勇敢ゆうかんたたかったものの降服こうふく余儀よぎなくされた。

1843ねんにはケルンとアントウェルペンのあいだ鉄道てつどうむすばれ、近代きんだいアントウェルペンの発展はってん貢献こうけんした。1863ねんにベルギーがオランダからスヘルデがわ航行こうこう自由じゆうけん買収ばいしゅうしたこともまち発展はってん寄与きよした。

1903ねんはじめての世界せかい体操たいそう競技きょうぎ選手権せんしゅけんがアントウェルペンで開催かいさいされた。だいいち世界せかい大戦たいせんちゅう、ベルギーは中立ちゅうりつこくだったにもかかわらずドイツぐん攻撃こうげきけ、アントウェルペンはリエージュやぶれたベルギーぐん退却たいきゃく地点ちてんとなった。その、さらなるドイツぐんきびしい攻撃こうげきによって、ベルギーぐんはさらに西方せいほうへの撤退てったい余儀よぎなくされた。

アントウェルペンは1920ねん夏季かきオリンピック開催かいさいとなった。1928ねん、アントウェルペンの補欠ほけつ選挙せんきょで、「フロントとう」のアウグステ・ボルムス勝利しょうりした。このことがフランスけいとオランダけい住民じゅうみん対立たいりつ激化げきかさせ、当時とうじ首相しゅしょうだったジャスパールは大学だいがく教育きょういくにおけるオランダ使用しよう容認ようにんした。1936ねんにはアントウェルペンこうだい規模きぼなゼネストが発生はっせいし、ベルギー全土ぜんどひろがりをみせた。このため組合くみあい経営けいえいしゃ政府せいふによる全国ぜんこく労働ろうどうしゃ会議かいぎ開催かいさいされ、労働ろうどうしゃ権利けんり拡大かくだいした。

だい世界せかい大戦たいせんにおいて、アントウェルペンはそのみなとゆえに戦略せんりゃくじょう要所ようしょとなった。1940ねん5がつにドイツぐんによって占領せんりょうされ、1944ねん9がつ4にち、イギリスだい11機甲きこうだんによって解放かいほうされた。こののち、アントウェルペンこうから連合れんごうぐんあらたな物資ぶっし荷揚にあげすることをふせぐため、いくせんものV-1V-2ミサイルを使つかってみなと破壊はかいしようとした。とりわけV-2ミサイルは戦争せんそうつうじてアントウェルペンに打撃だげきあたえたが、そのおおくが建造けんぞうぶつたったためみなと破壊はかいできなかった。その結果けっか大戦たいせんつうじてみなとまもられたもののまち深刻しんこく打撃だげきけ、大戦たいせんになってモダンふう再建さいけんされた。また、戦前せんぜんよりかなりのユダヤ教徒きょうとがアントウェルペンにいたが、大戦たいせんにはふたたちょう正統せいとう正統せいとうユダヤきょう中心ちゅうしんとなった。

経済けいざい[編集へんしゅう]

アントワープこうのコンテナ埠頭ふとう

アントワープこう[編集へんしゅう]

全米ぜんべい港湾こうわん当局とうきょく協会きょうかい (American Association of Port Authorities) によれば、2020ねん時点じてんアントウェルペンこうトン数とんすう世界せかいだい14[17]港湾こうわんであり、ヨーロッパないでもロッテルダムこうつづく2となっている。同港どうこうこう価値かちのジェネラルカーゴ(雑貨ざっかぶつ)やプロジェクトカーゴ(重量じゅうりょう貨物かもつ)、またバルクカーゴ大量たいりょうあつかっているてん重要じゅうようである。アントウェルペンの港湾こうわん地区ちくには5つの石油せきゆ精製せいせいしょがあり、アメリカテキサスしゅうヒューストン規模きぼ石油せきゆ化学かがく工業こうぎょう製品せいひん集積しゅうせきとなっている。

市街しがい中心ちゅうしんきたからみなみへ 3.5マイル (5.6 km) にわたってつづいているスヘルデかわ沿いの波止場はとばは、クルーズ客船きゃくせん近海きんかい航路こうろ乗船じょうせんじょうとして利用りようされている。

発電はつでんしょ[編集へんしゅう]

発電はつでんしょ重要じゅうよう施設しせつであり、近隣きんりんオースト=フランデレンしゅうベフェレンのドエル地区ちく (Doel) に4原子力げんしりょく発電はつでんしょおなじくカロ (Kallo) に1火力かりょく発電はつでんしょがあり、くわえて小規模しょうきぼコンバインドサイクル発電はつでんしょすうしょにある。さらに、港湾こうわん地区ちくなか利用りようされていない土地とち風力ふうりょく発電はつでんしょ建設けんせつする計画けいかくもある。

ダイヤモンド[編集へんしゅう]

アントウェルペンのもうひとつのしゅ産業さんぎょうはダイヤモンドの取引とりひきである。市内しないには4つの取引とりひきしょがあり、1つはボルツとばれる不透明ふとうめいのダイヤ専門せんもん、ほか3つは一般いっぱん品質ひんしつのものをあつかっている。だい世界せかい大戦たいせん以降いこう市内しないのユダヤじんコミュニティ出身しゅっしんかく家族かぞくがダイヤ取引とりひき業界ぎょうかいいち仕切しきっているが、1990年代ねんだいごろからはインドじん・アルメニアじん業者ぎょうしゃえてきている。アントウェルペンにある「アントワープ・ワールド・ダイヤモンド・センター」(Antwerp World Diamond Centre, 前身ぜんしんは "Hoge Raad voor Diamant")は、ダイヤの品質ひんしつ基準きじゅん設定せってい業者ぎょうしゃ倫理りんりめ、職人しょくにん訓練くんれん、またダイヤ産業さんぎょう中心ちゅうしんとしてのアントウェルペンをひろ宣伝せんでんすることにおおきな役割やくわりたしている。

交通こうつう[編集へんしゅう]

アントウェルペン中央ちゅうおうえき

空港くうこう[編集へんしゅう]

アントウェルペン国際こくさい空港くうこうがデールヌ地区ちくにある。VLMエアラインズ英国えいこくロンドンシティ)やマンチェスターとを直接ちょくせつ空路くうろむすんでいる。中心ちゅうしんから空港くうこうまではすうkmで、バスと鉄道てつどう運行うんこうしている。

鉄道てつどう[編集へんしゅう]

アントウェルペンから各地かくち鉄道てつどう路線ろせんひろがっている。きたへはエッセンをてオランダへ、ひがしにはトゥルンハウトみなみにはメヘレン、ブリュッセル、シャルルロワ途中とちゅうえ)、そして南西なんせいにはヘントやオーステンデいた路線ろせんがある。国際こくさい列車れっしゃとしては、アムステルダムパリむす列車れっしゃがアントウェルペンに停車ていしゃする。アントウェルペンのほか、ヘント、ブルッヘ、オーステンデ、ブリュッセル、シャルルロワ、ハッセルト、リエージュ、トゥルンハウトなどにも停車ていしゃする。

アントウェルペン中央ちゅうおうえきは、その駅舎えきしゃ自体じたい歴史れきしてき記念きねんとしての価値かちゆうしており、W・G・ゼーバルト代表だいひょうさくアウステルリッツ』でも登場とうじょうする。2007ねんには高速こうそく列車れっしゃ通過つうかのためのトンネルが建設けんせつされた。 詳細しょうさいベルギー高速こうそく鉄道てつどう4号線ごうせん参照さんしょう

なお、アントウェルペンのはじめの鉄道てつどう馬車ばしゃ鉄道てつどうであった。その機関きかんしゃ鉄道てつどう敷設ふせつされずに電気でんき鉄道てつどう敷設ふせつされた。1901ねんには、ざいベルギー日本にっぽん領事館りょうじかん領事りょうじ当時とうじベルギーはドイツ帝国ていこく連邦れんぽう国家こっか[よう出典しゅってん]ぬさはら喜重郎きじゅうろうが、日本にっぽん鉄道てつどうしょう電気でんき鉄道てつどう事業じぎょう概要がいよう報告ほうこくした。

トラム[編集へんしゅう]

トラムはぜん12路線ろせんで、そのうち地下鉄ちかてつのように運行うんこうされているものは「premetro」としょうされており、河川かせんしたにトンネルがられている。

バス[編集へんしゅう]

アントウェルペンには「De Lijn (The Line)」によって運営うんえいされているトラムとバスの交通こうつうもうめぐらされており、アントウェルペン中心ちゅうしん郊外こうがいやスヘルデがわ左岸さがん地区ちくむすんでいる。

道路どうろ[編集へんしゅう]

高速こうそく道路どうろ中心ちゅうしんかこかたち整備せいびされており、地元じもとでは「Ring」としょうされている。この高速こうそく道路どうろブリュッセルハッセルトリエージュヘントリールブルッヘなどの主要しゅよう都市としのほか、オランダのブレダベルゲン・オプ・ゾームなどとむすばれている。スヘルデがわりょうきしは3ほんのトンネルでむすばれており、建設けんせつじゅんにthe Waasland Tunnel (1934)、the Kennedy Tunnel (1967)、the Liefkenshoek Tunnel (1991)となっている。

港湾こうわん[編集へんしゅう]

観光かんこう[編集へんしゅう]

世界せかい遺産いさん[編集へんしゅう]

アントウェルペン市内しないには、世界せかい遺産いさん登録とうろくされている物件ぶっけんが4つある。

また、世界せかい遺産いさん暫定ざんていリスト登録とうろく物件ぶっけんとして、以下いかの2けん存在そんざいしている[18]

  • スヘルデかわから1250ねんごろ城壁じょうへきまでのアントウェルペン(アンヴェルス)の歴史れきし的中てきちゅう心地ごこち(Noyau historique d'Antwerpen -Anvers- de l'Escaut aux anciens remparts de vers 1250)

文化ぶんか[編集へんしゅう]

ハンス・マカルト代表だいひょうさくカール5せいのアントワープ入城にゅうじょう

アントウェルペンにはアントウェルペン王立おうりつ芸術げいじゅつ学院がくいんがあり、すぐれたファッション・デザイナーを輩出はいしゅつしている。とくに1980年代ねんだい頭角とうかくあらわしてきた6にんは「アントウェルペンの6にん」とばれ、現在げんざいでも国際こくさいてき活躍かつやくしている。

アニメで一躍いちやく有名ゆうめいとなった物語ものがたりフランダースのいぬ』の舞台ぶたいでもあるが、現地げんちひとにはあまりられておらず、ゆかりのたずねてやってくる観光かんこうきゃくはほとんど日本人にっぽんじんである。また、リヒャルト・ワーグナーのオペラ『ローエングリン』は、10世紀せいきのアントウェルペンを舞台ぶたいとしている。

スポーツ[編集へんしゅう]

サッカー
おも運動うんどう施設しせつ

出身しゅっしん関連かんれん著名ちょめいじん[編集へんしゅう]

芸術げいじゅつ[編集へんしゅう]

スポーツ選手せんしゅ[編集へんしゅう]

対外たいがい関係かんけい[編集へんしゅう]

姉妹しまい都市とし提携ていけい都市とし[編集へんしゅう]

姉妹しまい都市とし
パートナーシップ都市とし

姉妹しまいみなと提携ていけいこう[編集へんしゅう]

友好ゆうこうみなと

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ Anvers の発音はつおんにはベルギーしきとフランスしきがあり、ベルギーしきは「アンヴェルス」、フランスしきは「アンヴェール」にちかい(『ふつ和大かずひろ辞典じてん白水しろみずしゃ、などの辞典じてんるい発音はつおん記号きごうもとづく)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 人口じんこうすう”. ベルギー政府せいふ. 2020ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ アントワープこう 港湾こうわん概要がいよう”. 名古屋なごやこう管理かんり組合くみあい公式こうしきウェブサイト. 2020ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  3. ^ Brabo Antwerpen 1 (centrum) / Antwerpen。- グリム兄弟きょうだい 『ドイツ伝説でんせつしゅうだい3かんだい62「アントウェルペンの巨人きょじん」は、巨人きょじん通行つうこうりょうはらわない船乗ふなのりや運送うんそう業者ぎょうしゃ(Schiffer oder Fuhrmann)のとしかわげたことを地名ちめい由来ゆらいとし、べつ伝説でんせつ登場とうじょうする、巨人きょじんってげたという英雄えいゆうへの言及げんきゅうはない。Brüder Grimm: Deutsche Sagen. Bd. 3. Herausgegeben von Barbara Kindermnn-Bieri. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0), Nr. 62. Der Riese zu Antwerpen (S. 72). もっとも、同書どうしょ162ぺーじ注釈ちゅうしゃくによれば、ヤーコプ・グリムはこの伝説でんせつぶんを、「ブラバントのある公爵こうしゃく(Herzog)がころし、その証拠しょうことしてかえった巨人きょじん Tygon について」とメモしている。
  4. ^ Antwerp Tourist Information - Meredith Booney, "The name 'Antwerp' has been linked to the word "aanwerp" (alluvial mound), which was the geographical feature in the early settlement period in this place".
  5. ^ 中澤なかざわ勝三かつぞう『アントウェルペン国際こくさい商業しょうぎょう世界せかい同文どうぶんかん、pp.30-31
  6. ^ 中澤なかざわ勝三かつぞう『アントウェルペン国際こくさい商業しょうぎょう世界せかい同文どうぶんかん、p.44
  7. ^ 中澤なかざわ勝三かつぞう『アントウェルペン国際こくさい商業しょうぎょう世界せかい同文どうぶんかん、p.66
  8. ^ フェルナン・ブローテル『世界せかい時間じかん1 物質ぶっしつ文明ぶんめい経済けいざい資本しほん主義しゅぎ15-18世紀せいきIII-1』村上むらかみ光彦みつひこやく、みすず書房しょぼう、1996ねん、pp.186-187
  9. ^ フェルナン・ブローテル『世界せかい時間じかん1 物質ぶっしつ文明ぶんめい経済けいざい資本しほん主義しゅぎ15-18世紀せいきIII-1』村上むらかみ光彦みつひこやく、みすず書房しょぼう、1996ねん、p.181
  10. ^ 市政しせい地元じもと土地とち貴族きぞくらによる寡頭せいがとられていたが、かれらは原則げんそくじょう実業じつぎょう従事じゅうじすることをきんじられていた。
  11. ^ フェルナン・ブローテル『世界せかい時間じかん1 物質ぶっしつ文明ぶんめい経済けいざい資本しほん主義しゅぎ15-18世紀せいきIII-1』村上むらかみ光彦みつひこやく、みすず書房しょぼう、1996ねん、pp.185-186
  12. ^ a b 宮下みやした志朗しろう「16世紀せいき出版しゅっぱん文化ぶんかなかのノストラダムス」(『ノストラダムスとルネサンス』岩波書店いわなみしょてん、pp.133-135)
  13. ^ http://whc.unesco.org/en/list/1185/
  14. ^ Lucien Scheler,“Une supercherie de Benoît Rigaud”, BHR, T.16, 1954.; Anne Rouzet, Dictionnaire des imprimeurs, libraires et éditeurs des XVe et XVIe siècles dans les limites géographiques de la Belgique actuelle , Nieuwkoop ; B de Graaf , 1975
  15. ^ Boxer Charles Ralph, The Dutch seaborne empire, 1600-1800, p. 18, Taylor & Francis, 1977 ISBN 0091310512, 9780091310516 Google books
  16. ^ Dunton, Larkin (1896). The World and Its People. Silver, Burdett. p. 164.
  17. ^ China’s megaports strengthen grip on box trade”. Lloyd's Loading List. 2021ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  18. ^ http://whc.unesco.org/en/statesparties/be

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]